第六十三章 歌のひじり 一遍 ― 捨 ・ 遊 ・ 念 ― |
一、 はじめに | ||
当地松山では正岡子規(以下子規)はもっとも著名な人物であるが、時宗の開祖 一遍上人(以下一遍)については関心が薄かった。平成二五(2013)年八月道後奥谷の時宗宝厳寺の大火で「木造一遍上人立像」(国重要文化財)の焼失により改めて身近に知った市民が多かった。 平成二七年度まで松山市で採用されている中学校教科書(歴史)は『新しい社会 歴史』(東京書籍)であるが、一遍は鎌倉仏教の開祖の一人として紹介されているが子規の記述はない。市内の中等教育学校や私立中学校の多くで採用されている『新しい歴史教科書』(育鵬社)では一遍、子規ともに詳しく説明されている。 平成二八年度以降少なくとも四年間は『新しい歴史教科書』(育鵬社)の採用が決定されたので松山市内の中学生は教科書で一遍と子規を同時に学ぶことができるようになった。この『新しい歴史教科書』の監修者は松山市出身の大石慎三郎(1923〜2004)である。愛媛県立歴史文化博物館初代館長で『愛媛県の地名』(平凡社1980)の監修者でもある。 明治二八年(1895)十月六日、子規と夏目漱石(以下漱石)は道後を散策し、宝厳寺を訪ねている。子規自筆の『散策集』から抜粋する。 今日ハ日曜なり。天気は快晴なり。病気ハ軽快なり。遊志勃然漱石と共に道後に遊ぶ。(略) 松枝町を過ぎて宝厳寺に謁づ。こゝは一遍上人御誕生の霊地とかや。古往今来当地出身の第一の豪傑なり。 妓廓門前の楊柳往来の人をも招かでむなしく一遍上人御誕生地の古碑にしだれかゝりたるもあはれに覚えて 古塚や恋のさめたる柳散る 宝厳寺の山門に腰うちかけて 色里や十歩はなれて秋の風 子規が一遍を「古往今来当地出身の第一の豪傑なり」と記述したが、宝厳寺は廃仏毀釈で荒廃しており、木像一遍上人立像は破損し未公開であった。 子規の最初期の寄稿論文「向井去来」((『城南評論』明治二五年)で「蕉門豪傑多し 丈草の老勁にして禅意を含みたる嵐雪の沖澹にして古学に深き・・・然れども寶井其角向井去来の二人の右に出づる者無し。」としている。現代感覚での豪傑とはニュアンスが少し違うのかもしれない。 この年、子規は松山尋常中学校の英語教師として赴任していた漱石の下宿「愚陀仏庵」に同居していたが、漱石は同時期に書き残した「愚見数則」の中で豪傑に触れている。 「命(天命)に安んずるものは君子なり。命(運命)を覆すものは豪傑なり。命(宿命)を怨むものは婦女なり、命(生命)を免れんとするものは、小人なり。」 (注)「愚見数則」は松山尋常中学校の同窓会誌である『保恵会雑誌』四七号(明治二八年十一月)に掲載。文中の( )内は論者の個人的見解である。時代の変革者こそ豪傑に相応しいと考える。 |
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二、一遍の肖像 | ||
一遍の生涯については文献資料に頼らざるを得ないが、幸いにも信頼しうる資料が残されている。 (注)国宝『一遍聖絵』(以下『聖絵』)(1299)『一遍上人語録』(以下『語録』1756)『遊行上人縁起絵』(1307)『奉納縁起絵』(1306)『一遍上人年賦略』(成立不明)『麻山集』(1691編『一遍上人語録』(以下『語録』(1756))など。 @誕生から出家へ 「一遍ひじりは、俗姓は越智氏、河野四郎通信が孫、同七郎通広〔出家して如仏と号す〕が子なり。延応元年己亥(1239)、予州にして誕生。十歳にて悲母にをくれて、始て無常の理をさとり給ぬ。つゐに父の命をうけ、出家をとげて、法名は随縁と申けるが、建長三年(1251)の春十三歳にて、僧善入とあひ具して鎮西に修行し、太宰府の禅室にのぞみ給ふ。」(『聖絵』第一 岩波文庫版 以下同文庫) A死去 「干時、春秋五十一。正応二年(1289))八月廿三日の辰の始、晨朝の礼賛の懺悔の帰三宝の程に、出入のいきかよひ給も見えず、禅定にいるがごとくして往生し給ぬ。」(『聖絵』第十二) 一遍の生きた時代は鎌倉時代であり、古代社会(貴族社会)から中世(武家社会)への移行期である。蒙古襲来(文永の役(1274)・弘安の役(1281))という国家の存立がかかった国難・激動の時代でもあった。 一方、宗教史の上からは釈迦入滅後二千年で正法、像法を経て末法の世に入ったとされ、平安後期の永承七年(1052)が末法元年になる。やがて日本的な仏教として浄土教が法然らによって広められた。 図式的に云えば奈良仏教、平安仏教(天台宗、真言宗)による「顕蜜体制」下にあって、禅密の臨済宗、曹洞宗が武士層に強く受け入れられた。一方、他力信仰の浄土教は、貴族、武家は勿論、津々浦々の農民・漁民・被差別民にも普及し、浄土宗(法然)、真宗(親鸞)、時衆(一遍)として「南無阿弥陀仏」が唱えられた。また同時代の法華宗(日蓮)は「真言亡国 禅天魔 念仏無間 律国賊」の立場で「南無妙法蓮華経」を唱え、反権力・排既存佛教への現実主義を展開した。 未曾有の国難の中でも、一遍は政治への関与が希薄で「南無阿弥陀仏」の布教に徹し、神祇崇拝した稀有な鎌倉仏教の始祖であった。一遍の布教は「遊行・賦算・踊り念仏」である。「捨聖」「遊行聖」「阿弥陀聖」「市聖」「湯聖」「医聖」とも称せられる。紙数の限りがあり説明は割愛する。「歌聖(うたのひじり)」は一般的な名称ではないが今回拙論のテーマとして採り上げた。 |
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三、一遍の思想と行動(捨・遊・法) | ||
一遍について、(捨)「捨ててこそ」、(遊)「遊行」、(念)「南無阿弥陀仏」の三点から、思想と行動の特質を説明していきたい。 「捨ててこそ」は一遍の言葉ではなく、先達である空也上人(903?972)の言葉とされるが確証はない。『空也上人絵詞伝』(1782)に「 山川の末に流るる橡殻も 身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」と詠まれている。臨済宗龍安寺の手水鉢(つくばい)に彫られた「吾只足知」もよく知られている。 (1) 捨 家 棄 欲 空也上人(903〜972)は一遍よりも三百年以上前の聖であるが、天徳年間(957〜960)に松山市近郊の四国霊場四九番札所浄土寺で三年間修行している。一遍は空也上人の思想と行動を次のように述べている。 「空也上人は我先達なり。始四年は身命を山野にすて、居住を風雲にまかせてひとり法界をすゝめ給き。おほよそ済度を機縁にまかせて、徒衆を引具給といへども、心諸縁をはなれて、身に一塵をもたくはへず、一生つゐに絹綿のたぐひ、はだにふれず、金銀の具手にとる事なく、酒肉五辛をたちて、十重の戒珠を全し給へり。」(『聖絵』第七) (注)空也上人の歌として「一たびも南無阿弥陀仏といふ人の蓮(はちす)のうへにのぼらぬはなし」が伝わっている。 浄土宗の先人である法然、親鸞に比べて一遍は自己の立場を次のように述べる。 「念仏の機に三品有り。上根は、妻子を帯し家に在りながら、着せずして往生す。中根は、妻子をすつるといへども、住処と衣食とを帯して、着せずして往生す。下根は、万事を捨離して、往生す。我等は下根のものなれば、一切を捨ずば、定て臨終に諸事に著して往生をし損ずべきなりと思ふ故に、かくのごとく行ずるなり。」(『播州法語集』 以下『法語集』) (注)上根は親鸞、中根は法然、下根は一遍を指すと解釈する。 更に衣食住について徹底した棄欲を求めている。 「衣食住の三は三悪道なり。衣裳を求めかざるは畜生道の業なり。食物を貧求するは餓鬼道の業なり。住所をかまふるは地獄道の業なり。しかれば、三悪道をはなれんと欲せば、衣食住をはなれるべきなり。」(『法語集』) (注)輪廻する六種類の迷いある世界のことを六道と云い、天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道を指す。 一遍時衆の携行品は「南無阿弥陀仏 一遍弟子は十二道具を用いる心を信じるべきである」(『聖絵』第十)として決定されている。@引入(椀鉢)A箸筒B阿弥衣C袈裟D帷(夏衣)E手巾F帯G紙衣H念珠R衣J足駄K頭巾 〔関連和歌〕 ○ 015身をすつるすつる心をすてつれば おもひなき世にすみぞめの袖 ○ 050旅衣木のねかやのねいづくにか 身のすてられぬ処あるべき ○ 055すてやらでこころと世をば嘆きけり 野にも山にもすまれける身を ○ 056捨てこそ見るべかりけり世の中を すつるも捨ぬならひ有とは (2)遊 行 (賦算 踊念仏 法歌) 遊行は漢語としては「(ゆうこう)ともよみ諸方をめぐりあうこと」であるが、仏教では(ゆぎょう)とよんで「諸国を回って仏教を修行すること」としている。遊行は一遍独自の布教形態ではないが、これを徹底したのが一遍であり、遊行上人といわれる所以である。(『岩波仏教辞典』) 一遍の遊行は『聖絵』によれば三六才からあしかけ十六年に及ぶ。ちなみにイエスの伝道は『ヨハネ福音書』によれば三十歳から三年半、ムハンマド(マホメット)は五〇歳から二三年の長きにわたっている。 一遍の遊行を特徴づけるのは@非定住の回国 A賦算(「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」札の手渡し)B踊り念仏である。『聖絵』第十二によれば二五万一千七二四人に賦算しており、鎌倉期の人口は六〇〇〜七五〇万人(推定)であるから三〜四%の人が賦算を受けたことになる。 (注)「六十万人」は人数ではなく、熊野権現の神託により悟った偈頌「六字名号一遍法 十界依正一遍体 万行離念一遍証 人中上々妙好華」の六・十・万・人を指すとの見解もある。偈頌に「六字之中 本無生死 一声之間 即証無生」(「六字の名号」にはもとより生死の迷いはない。一声の念仏のうちに即座に生死を超えた悟りを開く)とある。 踊り念仏は空也上人が京都の市屋や四条の辻で始めたのであるが、一遍時衆の踊り念仏は信濃の小田切の里(北佐久郡臼田町)の「ある武士の館」で始まり、「聖一代の行儀」(『聖絵』第四)となった。祖父河野通信が没した東北江刺では、「南無阿弥陀仏」の名号を背中に貼り付けた盆踊りが現在でもおこなわれている。 新興宗教では「踊る宗教」と称せられる団体もあり奇異に見られているが、一遍の時代も同様であった。 「比叡山延暦寺東塔の桜本の兵部竪者(りっしゃ)重豪が「をどりて念仏申さるゝ事けしからず」と申したのに対し一遍は歌で答えている。(『聖絵』第四) ○ 004はねばはねよをどらばをどれはるこまの のりのみちをばしる人ぞしる ○ 005ともはねよかくてもをどれこころこま みだのみのりときくぞうれしく」 『聖絵』には遊行中に一遍は数多くの応答歌や時衆への伝言、社寺への奉歌を残している。古来より旅と歌の結びつきは万葉の歌人から西行、芭蕉、一茶、良寛・・・牧水、山頭火と挙げることができよう。遊行に同行した一遍の後継である他阿真教は和歌を嗜み、歌集『大鏡集(だいきょうしゅう)』(鎌倉後期)を残している。一遍と真教は遊行のひととき歌を通して交歓したこともあったろう。 (3)念仏(南無阿弥陀仏) 一遍開祖の時衆(時宗)は浄土宗、真宗と同様に念仏宗であり、名号である「南無阿弥陀仏」が「本尊」である。 一遍に託された熊野権現(本地は阿弥陀仏)の神託は「阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定するところ也。信不信をえらばず、浄を不浄きらはず、その札をくばるべし。」であり、一遍は生涯を通して賦算に徹した。(『聖絵』第三) ○070となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして ○071となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏 仏教の「草木国土悉皆佛性」の思想は「山川草木悉皆仏性」として密教や修験道により日本化したが、一遍もまた深く神祇を信仰した。同じ浄土教の中で神祇を否定した親鸞(真宗)とは全く異なる。遊行に当たっても土地々々の 一宮や正八幡社には参拝している。 通説では神は@天神A地祇B人鬼に分かち、天神は天孫系、地祇は出雲系、人鬼は怨霊となって現れる。平将門(神田明神)菅原道真(天神社)山家(やんべ)清兵衛(伊予宇和島和霊神社)などが著名である。 (注)一遍が訪ねた主な社寺(年代順) 一二七一年(信濃)善光寺 (伊予)窪寺 一二七三年(伊予)菅生岩屋寺 一二七四年(摂津)天王寺 (紀伊)高野山 (紀伊)熊野社 一二七六年(大隈)正八幡宮 一二七八年(安芸)厳島社 一二七九年(京都)因幡堂 (信濃)善光寺 (下野)小野寺 一二八〇年(白川)関明神 一二八二年(鎌倉)片瀬の館の御堂 (伊豆)三島社 一二八三年(尾張)甚目寺 (近江守山)閻魔堂 一二八四年(京都) 釈迦堂・因幡堂・悲田院・蓮光院・ 雲居寺・六波羅密寺・市屋道場 (丹波)穴太寺 一二八五年(但馬久美浜)道場 (美作)一宮 一二八六年(摂津)天王寺・住吉神社 (河内磯長)聖徳太子廟 (大和)当麻寺 (山城)石清水八幡宮 一二八七年(播磨)書写山 (播磨)松原 (備後)一宮 (安芸)厳島社 一二八八年(伊予)菅生岩屋寺・繁多寺・三島社 一二八九年(讃岐)善通寺・曼荼羅寺 (淡路)二宮・志筑北野天神 (播磨兵庫)観音堂 |
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四、一遍の法歌 | ||
一遍の和歌については『聖絵』『遊行上人絵詞伝』『一遍語録』『夫木抄本』『玉葉集』などの文献で存在が確かめられ数多くの研究論文もあるが、全体では百句は越えない。大別して@寺社に関る歌 A返答歌 B説示歌 C自然観照歌 Dその他に分けられる。本論では頁数が限られているので、一遍の歌を特徴づける@社寺に関る歌について述べ、A〜Dについては改めて記述する。ご寛恕願いたい。 神仏の啓示は「神託」として「夢託」の形をとって伝達される。近代では、フロイト以降、夢は「内(潜在意識)」から来るものとされるが、古代、中世では夢は「外」から来るものとされた。「神託」を「夢託」として受け取り、受託者(たとえば巫女)が「夢語り」して、その夢を共有し共生する「夢集団」が結成される。 日本人の心情として「仏は常にいませどもうつつならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁にほのかに夢に見え給ふ」(『梁塵秘抄』)は素直に理解されよう。 (1)、神々との交流 一遍の神託(夢託)の法歌は八首ある。一遍が詠んだ歌か、一遍を通じて神詠されたものかの確認は難しい。 (一)伊予 河野別府邸内 (『聖絵』第一) 彼の輪鼓の時、夢に見給へる歌 ○ 001世をわたりそめて高ねのそらの雲 たゆるはもとのこころなりけり (解説)一遍は父通広に命じられ九州大宰府の聖達の元で十二年修行し、父の死後伊予に戻り妻帯し子を設けるが、親族間の争いに巻き込まれ『聖絵』(第三)では文永八年(1271)迄に再出家する。 (二)熊野本宮証誠殿 (『一遍上人語録』) 熊野権現より夢に授け給ひし神詠 ○ 072まじへ行みちにないりそくるしきに 本の誓のあとをたづねて (解説)文永十一年(1274)熊野山中で賦算(御札配り)中、律僧が「経教をうたがはずといへども、信心のおこらざる事はちからおよばざる事なり」と断る。一遍は「信心おこらずともうけ給へ」と僧に札を渡すが割り切れぬ気持ちが残り熊野本宮証誠殿に祈請する。 『聖絵』(第三)では、熊野本宮証誠殿での神託は、「『融通念仏すゝむる聖、いかに念仏をばあしくすゝめらるゝぞ。御房のすゝめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定するところ也。信不信をえらばず、浄不浄をきらわず、その札をくばるべし』としめし給ふ。」とある。 (三)大隈正八幡宮 (『聖絵』第四) 大隈正八幡宮にまうで給ひけるに、御神のしめし給ひける歌 ○ 003とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば なもあみだぶにむまれこそすれ (解説)熊野本宮で神託を受けた一遍は、建治二年(1276)再度九州の師聖達を再訪、九州路を勧進する。大隈正八幡宮で託宣歌を得る。豊後の大友兵庫頼泰の帰依を得、他阿真教と同行の約束をする。異本では宇佐八幡宮で一向上人に出会っている。 (四)石清水八幡宮@ (『聖絵』第九)(『玉葉集』) 弘安九年冬のころ、八幡宮に参じ給ふ。大菩薩御託宣文云、 往時出家名法蔵 得名報身住浄土 今来娑婆世界中 即為護念念仏人文 (往時出家して法蔵と名づけ、名を得て報身となり浄土ニ住す。今娑婆世界中に来たり 即ち 念仏人を護念すと為す) 同じく御詠に云く ○ 036極楽にまゐらむとおもふこゝろにて 南無阿弥陀仏といふぞ三心 (解説)弘安年間の遊行は、元年(京都・信濃・下野)二年(善光寺から奥州(江刺))三年(武蔵)四年(相模当麻)五年(鎌倉・伊豆)六年(尾張・近江)七年(京・丹後)八年(因幡・山陰・美作)九年(摂津・大和・兵庫)十年(播磨・備中・備後・安芸厳島神社)である。「三心」とは至誠心、深心、回向発願心をいう。 (五)石清水八幡宮A (『玉葉集』) 此の歌は、ある人石清水の社にこもりて百万反の念仏申し侍りけるに、又こもりあひたる人、物語して、「三心具足せざらん念仏はかなふべからず」と申し侍りければ、「さては我身は三心もしらねばいたづら事にや」と思ひてねにける夢に見えける歌となむ ○ 099しほりせでみ山のおくの花を見よ たづねいりてはおなじ匂ひぞ (解説)『聖絵』等に記載ないが(四)と同趣旨の法歌である。 (六)石清水八幡宮B(『玉葉集』) これはある人おなじ社にこもりて、「念仏の数反はおほくくるこそすぎれたれ」と申す人侍りけるを、又「しづかにひとつづゝこそ申すべけれ」と申す人侍りければ、「いづれかまことによきならん」とおぼつかなくおもひてねたる夢にかく見えけるとなん ○ 100谷川のこのはがくれのむもれ水 ながるゝもゆくしたたるもゆく (解説)『聖絵』等に記載ないが(四)、(五)と同趣旨の法歌である。 (七)真如堂 弘安九年(1286)(『夫木抄』、『玉葉集』 是は真如堂にまうでゝ超世の悲願のたのもしきことをおもひながら、我身の業障をもき事をおそれ思ひてまどろみて侍りける夢に、けだかき御声にてつげさせ給うけるとなん ○ 074弥陀たのむ人はあま夜の月なれや 雲はれねども西にこそゆけ (解説)『一遍聖絵』によれば、弘安九年(1286)頃、大和・摂津・山城・丹波遊行中である。 (八)淡路北野天満宮 正応二年(1289)(『聖絵』第十一) 同国しづきといふ所に、北野天神勧請したてまつれる地あり。聖をいれたてまつらざりけるに、・・・・・ ○ 049よにいづることもまれなる月景に かゝりやすらむみねのうきくも (解説)天神は菅原道真の霊を祀るが、仏教的には阿弥陀如来の脇を固める観音菩薩である。一遍を阿弥陀聖として社檀に迎え入れた。 (2)社 寺 参 詣 (一)関の明神 弘安三年(1280)(『聖絵』第五) かくて白川の関にかゝりて、関の明神の宝殿の柱にかきつけ給ひける ○012ゆく人をみだのちかひにもらさじと 名をこそとむれしら川のせき (二)播磨・弘嶺八幡宮 弘安九年(1286)(『聖絵』第四) 播州御化益のころ、弘嶺の八幡宮にて、言語道断心行処滅のこゝろを ○008いはじただことばのみちをすぐすくと 人のこゝろの行事もなし (三)書写山円教寺 弘安十年(1287)(『聖絵』第九) 弘安十年のはる、播磨の国書写山に参詣給。・・・冥慮をあふぎ祈誓をいたして、四句の偈、一首の歌をたてまつり給ふ。其詞云 ○042かきうつすやまはたかねの空にきえて ふでもおよばぬ月ぞすみける (四)書写山円教寺 弘安十年(1287) (『聖絵』第九) 聖のたまひけるは、「上人の仏法修行の霊徳、ことばにもおよびがたし。諸国遊行の思ひで、たゞ当山巡礼にあり」とて一夜行法して、あくれば御山をいで給ひけるに、春の雪おもしろくふり侍りければ、 ○043世にふればやがてきえゆくあはゆきの 身にしられたる春のそらかな (五)福良二ノ宮 正応二年(1289)(『聖絵』第十一) 聖、おほせられけるは、「出離生死をばかゝる神明にいのり申べきなり。世たゞしく人すなほなりし時、勧請したてまつりしゆゑに、本地の真門うごく事なく、利生の悲願あらたなるものなり」と。さて、聖、やしろの正面に札をうち給へり。 ○048名にかなふこゝろはにしにうつせみの もぬけはてたる声ぞすゞしき (六)詳細不祥 (『聖絵』第九) ある時よみ給ひける ○ 040我見ばやみばや見えばや色はいろ いろめく色はいろぞいろめく 或とき仏の開眼供養し給ふとて(『一遍上人語録』) ○069いまははや見えず見もせず色はいろ いろなるいろぞ色はいろなる (解説)『聖絵』に西方行人聖戒の注記と考えられるが「此歌は深意あるべし」とある。橘俊道・梅谷繁樹『一遍上人全集』(春秋社)の現代語訳を紹介しておく。 「私はこういうものを見たい、あるいはこういうものに見られたいと我執にとらわれるのは、色界に身を置く凡夫の常の姿である。飾りたてた色彩はただ色彩がよく飾りたてられたものであって、色に変わりはない、そう思えば色への執着、色界との絆も断ち切れるのであるが・・・・・。」 (3)一遍法歌百首 一遍が生涯に詠んだ歌は把握できていない。一遍研究の成果と時宗開宗七百年記念宗典編集委員会が編纂した『定本 時宗宗典』(上・下巻)に記載されている一遍の詠んだ歌(一遍作と推定される歌を含む)ならびに鎌倉期の著作中に記載されている一遍の歌(一遍作と推定される歌を含む)を合算すると百首に及ぶ。百首を列挙するだけで数頁を要するので記載を割愛せざるを得ない。 参考にした一遍の法歌百首を掲載した文書 書名 掲載歌数 採用歌数 整理番号 @『一遍聖絵』 五二首うち五二首(mk01〜52) A『一遍語録』 七〇首うち二〇首(mk53〜72) B『夫木抄本』 八首うち 三首(mk73〜75) C『播州法語集』 一首うち 〇首 D『遊行上人絵詞伝』 二九首うち 〇首 E『一遍上人行状』 四首うち 二首(mk76〜77) F『一遍上人法門抜書』 十八首うち 九首(mk78〜86) G『上人発心之事大概』 二首うち 二首(mk87〜88) H『一遍上人七夕之御歌』 四首うち 四首(mk89〜92) I『阿弥陀経見聞私』 二首うち 二首(mk93〜94) J『法華経直談抄』 一首うち 〇首 K『鎌倉九代記』 三首うち 二首(mk95〜96) L『一向上人語録』 一首うち 一首(mk97) M『拾遺風体集』 一首うち 一首(mk98) N『玉葉集』 四首うち 二首(mk98〜100) 合計掲載数 二〇〇首うち一〇〇首 一遍法歌のうち勅撰和歌集『玉葉和歌集』に撰ばれた四首を再掲する。四句とも「よみびと知らず」であるが内二首は『聖絵』、『夫木集』に一遍歌として載っている。 『玉葉和歌集』は勅撰和歌集二十一代集(「八大集」「十二台集)のうち十四代集に当たり、伏見院が命じ京極為兼が一三一二年に纏めた。二〇巻二八〇〇余収録している勅撰和歌集中もっとも膨大な歌集である。 ○036極楽にまゐらむとおもふこゝろにて 南無阿弥陀仏といふぞ三心 ○074弥陀たのむ人はあま夜の月なれや 雲はれねどもにしにこそゆけ ○099しほりせでみ山のおくの花を見よ たづねいりてはおなじ匂ひぞ ○100谷川のこのはがくれのむもれ水 ながるゝもゆくしたたるもゆく (注)全百首はウエッブのHP「熟田津今昔」第六十二章「『一遍歌集 全百首』索引」に掲載しているので検索いただきたい。尚、小論で一遍の歌の頭部に番号(001〜100)を付したが、『一遍歌集 全百首』の通し番号である。ご活用いただければ幸甚である。 http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/nigitazu/nigitazu62.html |
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5、おわりに | ||
念仏布教に明け暮れした一遍が和歌をたしなみ、時衆に説示し、貴族や僧侶に返答し、自然観照の思いを残したが、一遍にとって和歌の道は「雑行」ではなかったろうか。 一遍とは同時代人でもある無住(1227〜1312)は『沙石集』の中で「和歌即陀羅尼」説を述べている。 「和歌ノ一道ヲ思トクニ、散乱(キ)動ノ心ヲヤメ、寂然静閑ナル徳アリ。又言スクナクシテ、心ヲフクメリ。素戔嗚尊、スデニ「出雲八重ガキ」ノ、三十一字ノ詠ヲ始メ給ヘリ。仏ノコトバニ、コトナルベカラズ。天竺の陀羅尼モ、只、其国ノ人ノ詞也。仏これをもて、陀羅尼ヲ説キ給ヘリ。此故ニ、一行禅師(683〜727)ノ大日経疏ニモ「隋方ノコトバ、皆陀羅尼」ト云ヘリ。佛モシ我国ノ出給ハバ、只我国ノ詞以テ、陀羅尼トシ給ベシ。・・・・日本ノ和歌モ、ヨノツネノ詞ナレドモ、和歌ニモチヰテ思ヲノブレバ、必感アリ。マシテ仏法ノ心ヲフクメランハ、無疑陀羅尼ナルベシ。」 和歌(倭歌)の発祥は素戔嗚尊の「八雲立つ出雲八重垣妻籠めみに 八重垣作るその八重垣を」であり、鎌倉期から広まった連歌にしても古事記の甲斐の国酒折宮での「新治筑波を過ぎて幾夜寝つる」(日本武尊)「日々並べて夜には九夜日には十日を」(日焚の老人)の応対が嚆矢という。一遍の発句が『?玖波集』(1356)載っている。 これに先立ち、藤原公任が撰した『倭漢朗詠集』(1012年頃成立。)には白居易(白楽天)の「願はくは 今生世俗の文字の技 狂言綺語の誤りをもって 翻して当来世々讃仏乗の因 転法輪の縁とせむ」があり、「狂言綺語即陀羅尼」として密教で広まり、和歌合せ・法楽和歌・法楽連歌が京、鎌倉の貴族、武家の文化に取り込まれていった。 その代表的な歌人が西行(俗名佐藤義清1118〜1190))であり「御装濯河歌合」「宮河歌合」が伊勢神宮奉納されている。一遍が興願僧都に宛てた返事に「むかし、空也上人へ、ある人、『念仏はいかが申べきや』と問ければ、『捨てゝこそ』とばかりにて、なにとも仰られず」と、西行法師の選集抄に載られたり。是誠に金言なり。」とある。 一遍を開祖とする時衆たちが「阿弥衆」として文芸のみならず絵、陶器、作庭などなど中世文化を支えたことは特筆すべきである。 末尾にあたり伊予の生んだ二人の時代の変革者に尊崇の念を以って次の言葉を贈りたい。 「古往今来当地出身の豪傑は、一遍と子規なり。」 |
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