第六章 一遍と遊行の起点・道後 @〜K
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 平成十三年(二〇〇一)度NHK大河ドラマ「北条時宗」で蒙古来襲に雄々しく立ち向かった北条時宗と北条一族のドラマが展開する。混沌とした現代の日本の政治経済下にあって真の指導者を待望する声が日増しに大きくなってきている。時宗は日本国の未曾有の外的な危機に対応すべく生まれてきた男子であったとも言えよう。一方不安な民情と疲弊した庶民の救済を目指して所謂「鎌倉仏教」が一斉に開花した。自力本願の禅宗(臨済宗/栄西・曹洞宗/道元)と他力本願の浄土宗(法然・真鸞・一遍)と日蓮宗(日蓮)などである。           

 このシリーズで一遍について触れていきたいが、一遍は鎌倉時代から豊臣秀吉の四国統一まで伊予の豪族として支配した河野家の一族であり、道後(宝厳寺)に生まれた「古往今来当地出身の第一の豪傑なり」(正岡子規)言うなれば道後の英雄であること、又個人的には平成十一年から一遍会の理事として宝厳寺に出入りしていることによる。但し時宗の信者でも檀家でもないので宗教論議は避けて生涯を遊行した聖の足跡を辿りながら、常に遊行の起点に道後があったことを明らかにしていきたい。印度の知的階級が理想とする人生は「学生・家住(都会)・林住(田園)・遊行(捨身)」であると云う。一遍が残した「捨ててこそ」程人生にとって重大は言葉はないのではないか。  
A 
 一遍聖は51年の生涯に幾度生誕地道後を離れたか?正確に数え上げることは困難だが、国宝「一遍聖絵」から判断すると七回、延30年となる。足跡を追う。

1) 建長3(1251) 春〜約12年間 伊予→肥前→太宰府→伊予 〔延応 1(1239)年生〕
2) 文永 7(1270)春〜 伊予→太宰府→伊予 
3) 文永 8(1271)春〜 伊予→信濃善光寺→伊予 
4) 文永11(1274)冬〜約 1年半  伊予→四天王寺→高野山→熊野三山→京都→西海道→?→伊予
5) 建治 2(1276)春〜約 2年間  伊予→太宰府→筑前→大隅→豊後→伊予 
6) 弘安 1(1278)秋〜約10年間 
伊予→安芸厳島→備前福岡→京因幡堂→信濃善光寺→下野(小野寺)→陸奥(白河・江刺・平泉・松島)→常陸→鎌倉→伊豆→尾張→近江→京(四条京極・七条市屋道場・雲居寺)→丹波 →丹後→但馬→印幡→伯耆→美作→四天王寺→住吉→磯長→大和当麻寺→岩清水八幡→淀→四天王寺→播磨→備中→備後→安芸厳島→伊予 
7) 弘安11(1288) 伊予→讃岐(善通寺)→阿波→淡路→明石→兵庫島(観音堂)〔正応 2(1289)年 8月23日往生〕
B
 一遍は延応元(一二三九)年伊予国で生まれ父は河野七郎通広(別府七郎左衛門)、祖父四郎通信とその一族はは承久の乱(一二一九)で朝廷につき通信は奥州江刺、息子通政は信濃葉広、通末は信濃伴 野に配流され、所領五三ヶ所、公田六十余町総て没収となった。鎌倉に居た通久は幕府方につき乱後恩賞を得たが、孫が元寇の役で活躍する通有である。 父通広は天台で入道し如仏と称した。また浄土宗 西山派でも学び、嘉禄の法難(一二二七)後還俗し、河野郷別府に在していたと思われる。

 通説では一遍は道後宝厳寺で生誕したとされるが寺の宗派は天台宗か真言宗であり夫婦が寺内で共住することはありえない。通広の道後の館跡が宝厳寺になったとも考えられるが不詳である。最澄、法然、日蓮の生地が誕生寺となったが、一遍を同列に扱ってよいかどうか。或いは河野郷別府で生まれたが河野氏が復権し道後に居城を造って後に誕生地の「神話」が生まれたのかもしれない。         

 幼名は松寿丸で、宝治二(一二四八)年十歳で母 と死別し、父の勧めで天台宗継教寺(場所?)で出家(師僧は縁教?)し随縁と名乗り、建長三(一二五一)年筑紫出立迄は伊予に居て修行に勤しんだと考えられる。宝厳寺蔵系図では通広には松寿丸(通 秀・一遍)の外に長男通真、伊予房(聖戒)、伊豆房(仙阿、宝厳寺住職)の男子があった。
C 建長3(1251) 春〜約12年間
 一遍最初の旅立ちは父通広(如仏)の決意で、建長三(一二五一)年、かつて京都で法然の弟子証空の元で学んだ兄弟弟子である筑紫郡原山(太宰府近郊)に住む聖達に預ける。弘長三(一二六四)年父の死去迄の十二年の長き修行となった。まず父も教えを受けた華台のもとで初歩的な浄土教を学習する。そこで法名随縁は浄土教では不適切として即座に知真と改名させられる。翌四年には聖達のもとに戻り、本格的に浄土宗西山派の修行をするとになる。
 ここで簡単に浄土宗の流れを見ておこう。
         
 浄土宗の開祖は法然であり、鎮西義(弁長)と西山義(証空)2派に分かれて今日に至る。又弟子親鸞は浄土真宗を興す。西山義の証空の弟子には聖達、華台、一遍の父如佛らがおり、一遍は父の兄弟弟子である聖達、華台から浄土門の教えを受け、遊行を通して時衆集団を結成し今日の時宗の開祖となる。法然の佛孫弟子に当たる。

 浄土宗の各派本山は次の通りであるが、知恩院は総本山と位置付けられている。浄土真宗は東・西本願寺、時宗の本山は藤沢・清浄光寺である。
@知恩院 A増上寺 B金戒光明寺 C光明寺 D清浄華院 E善導寺

 根本教典としては浄土宗は@無量寿経、真宗はA観無量寿経、時衆はB阿弥陀経であると専門書では峻別しているが、日々の念仏から臨終念仏(生涯一度の念仏)で救済と云う称名念仏の念仏形態の発展段階とも云える。本題から逸れるので詳細は割愛したい。                              
D 文永 7(1270)春〜
 父通広の死去により太宰府での修行を打ち切り伊予に戻った一遍は、嫡子ではなかったが父から領地の分配を受け経済的には保証された。妻を娶り娘を得た。「遊行上人縁起絵」では僧の姿で描かれているので半僧半俗の生活であったかもしれない。還俗してから十年近く経過した文永八(一二七一)年かそれ以前に再び出家生活に入っているが、再出家と云うのはこの時代でもあまり例がなく、それだけに身辺で異常事態が発生したに違いない。      

 長兄通真の死後弟の通政が家督を継いだが、一族の中にはその家督を奪い取ろうとする者があり、その為にまず一遍を殺そうとしたと云う。一遍が弟の通政の味方であったのかもしれないが、むしろ河野一族の領地争いではなかったか。鎌倉幕府陣営下の河野一族が復権を果たし、一族のアウトサイダーである父通広の一族が放逐されていくプロセスであったとも考えられる。

 元寇の役で活躍する河野通有の第七子通盛が道後に湯築城を築くのは建武年間(一三三一〜三三)年である。長兄通真死亡後の家督争い(一遍上人年譜図)、 寵愛する二人の妾の確執(北条九代記)などいずれにしても俗人としての生活の挫折により、家族や領地を捨てざるを得なくなる。文永七(一二七〇)年太宰府に師・聖達を訪ね再出家を報告し、同時に出家した弟の聖戒もこの旅に同行した。   
E 文永 8(1271)春〜
 文永八(一二七一)年春、聖戒を連れて、信濃善光寺で参籠する。善光寺の本尊阿弥陀如来は「生身」であり極楽浄土への導きは当然として在世の信仰指針を得る期待もあったろう。善光寺如来は秘仏であり直接拝顔して拝むことはできないのだが、夢か現か拝顔でき、貴重な信仰の境地「十一不二頌」を得た。即ち「十劫正覚衆生界 一念往生弥陀国 十一不二証無生 国界平等坐大会」である。併せて「二河の本尊」を写した。所謂「二河白道の図」であり、中世以降浄土教では掛軸にして崇拝された。貧愛(貪り)を譬えた水の河と瞋恚(怒り憎しみ)を譬えた火の河に悩まされながら、中間の四、五寸の真っ直ぐな白道を渡って穢土から浄土へ渡ることを表 現している。穢土には釈迦が立ち、浄土には阿弥陀 仏が恐怖に怯む人間を励ましている。一遍は「二河 の本尊」と表現し「中路の白道は南無阿弥陀仏なり。水火の二河にをかされぬは名号なり」(一遍上人語語録)とした。                 

 同年秋には伊予に戻っており、松山近郊の窪寺に足掛け三年籠り、信濃善光寺に向いた東壁に「二河の本尊」を掲げ「万事をなげすてゝ、もはら称名」 (一遍聖絵)に勤しんだ。文久十(一二七三)年から空海も修行したという菅生の岩屋(現四五番札所)に参籠する。窪寺,岩屋寺はともに道後からの土佐街道(遍路道)脇にあり山伏道でもあった。
F 文永11(1274)冬〜約 1年半
 一遍は超一・超二(妻・娘)、念仏房(女)と弟聖戒をつれ遊行に出る。頃は文永11年、蒙古軍が壱岐対馬を侵し筑前に上陸した文永の役に当たる。聖戒とは国府のあった越智郡桜井で臨終の時の再会を約束し一遍自筆の名号札を手渡す。賦算権は遊行上人のみであり万一に備えて賦算権者に聖戒を指名したが、聖戒は期待に応え得なかった。     

 四天王寺、高野、熊野は真言密教のメッカであり四天王寺の東門は極楽の西門に通じ、高野は当時高野聖の念仏集団が繁盛し、熊野三山は阿弥陀三尊が垂迹した場として、神社、山伏、浄土・補陀落信仰 など宗教的雰囲気が渾然一体となっ聖地であり「蟻の熊野詣」の盛況であった。その高野で一遍の賦算に「信心がおこらぬ故に受け取らぬ」とした僧に「信心なくとも受けられよ」として、その僧に札を手渡す。熊野本宮にて「一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定している。信・不信、浄・不浄を区別せず賦算せよ」の悟りを得る。法然、真鸞の自力作善を超える超・絶対他力の宗教的世界を独自に構築する。即ち「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」である。本宮から新宮に向かう際に超一・超二らを離別し、京都でも念仏を勧め数年後伊予に戻る。 
G 建治 2(1276)春〜約 2年間
 一遍の九州遊行と元寇の役(文永役1274・弘安役 1281)との関連を触れた史料はない。一遍の従兄の河野通有は弘安の役で大活躍し昔日の領地を回復するが、一遍がこの動きに耳を閉ざしていたとは考えにくい。師聖達上人との再会の目的があったとは云え、何故文永役の戦場近くの筑前から九州一巡する必要があったか。豊後の守護であり且つ鎮西奉行でもあった大友頼泰に一介の乞食僧が会いにいく必要があったか。元武士としての血が騒いだのか。   

 南北朝時代には時宗僧は従軍僧として戦場に赴き信者と共に戦死者の回向と戦傷者の治療に当たっている。文永役の負傷者は敵味方なく怨親平等で治療したことが鉄輪温泉には伝承されている。時衆の医療特に戦傷者の温泉と塗尿飲尿による治療は刀傷には有効である。社会的不安の渦巻く北九州への遊行は賦算に賭ける一遍の積極的な姿勢と云えよう。 

  弟聖戒を除けば最初の弟子で一遍入滅後後継者となった他阿弥陀仏真教が豊後の地で入門する。これ以降時衆と呼ばれる男女集団が誕生することになる。尚、遊行の南限である大隅正八幡宮は大隅の一宮であるが何故此処まで足を運ぶ必要があったか。大山祇神社と関連すると考えるが史料は残っていない。 弘安元年弟子数名を連れて伊予に戻る。
H 弘安 1(1278)秋〜約10年間(その一)
 弘安元1278年四十歳から正慶元1289年五十歳迄の十年に及ぶ遊行であり祖霊鎮魂の旅でもあった。時衆十数名と共に伊予粟井の浜で討死にした曾祖父河野通清を弔う。河野配下の水軍の船便で厳島を経由し備前吉備津宮では神主の息子夫婦ほか二百八十余人が出家し大集団となる。因幡堂(数カ月)、善光寺を経て承久の変で流刑した叔父通末の眠る信濃小田切で鎮魂の躍り念仏が生まれ歳末別時念仏を行う。 口称念仏、賦算、踊り念仏が時宗独自の布教形態である。

 弘安三1280年、甲斐、下野、上野から白河の関を通り承久の変で処断された祖父通信の北上市稲瀬に残る墳墓を巡り追善供養をする。「聖絵」には一遍以下二十一名の姿が描かれている。此処を北限として中尊寺、松島、塩釜を経て遊行の一行が武 蔵国に着いたのは弘安四1281年の半ばであろう。 厳冬の岩手県まで集団での北上を可能にしたのは一遍集団の結束はあるものの、祖父通信(妻は北条政子妹谷殿)と旧知の鎌倉幕府御家人小笠原氏が甲斐・信濃を配下にしており同様に下野は旧知の小野寺氏、奥州の河野家旧領は河野一族(一遍従兄弟通重)が所領しておりその庇護が大きかったと云える。尚、阿波三好氏とは阿波三好庄在小笠原氏を指す。      
I 弘安 1(1278)秋〜約10年間(その二)
 弘安四1281年から鎌倉に向かう。弘安五1282年春三月迄ナガサゴ(横浜市内)に長滞在したが、一遍の母が相模国毛利庄〔厚木付近〕を治める御家人大江氏出身で血縁と地縁に依る。この大江毛利氏は安芸吉田に移住し配下の小早川氏が後年秀吉の四国征服時に河野氏を滅ぼすことになる。歴史の残酷さである。 鎌倉での布教の成功を決意して時衆は巨福呂坂から入ろうとするが制止にあった。執権北条時宗が文永・弘安両役で戦死した敵味方の霊を祀るため建立中の円覚寺検分途中であった。当時国内不穏で浪人悪党の鎌倉入りは禁止であった。一遍集団も例外でなく山中で一夜を過ごし片瀬の地蔵堂に移る。ここで踊り念仏を初興行し布教は大成功する。 

 三島神社は伊豆一宮であるが祭神は河野家の守護神・伊予大三島の大山祇神であり一遍にとっては近しい。更に東海道を上るが入洛を前に立ち塞がる大きな壁があった。近江は政治的にも宗教的にも天台宗叡山の支配下にあった。叡山横川の真縁上人の理解と大津・関寺での踊り念仏と布教の成功もあり弘安七1284年四十六歳で三度目の入洛を果たす。近江滞在中に同行していた妻超一房はこの世を去る。既存宗教では救えなかった悪党、非人、乞食、癩、芸人らが時衆の強力な支えとなっていく。
J 弘安 1(1278)秋〜約10年間(その三)
 一遍の三度目の入洛は弘安七1284年で四十六歳になっていた。賤民は前世からの宿業により地獄が必定とされた中で南無阿弥陀仏による極楽往生は一大ブームとなったのは当然である。七日間の釈迦堂滞在、次いで因幡堂に移り蓮光院、雲居寺、六波羅蜜 寺を経て最後に空也上人の遺跡市屋での踊り念仏で頂点に達した。この市屋は現在の西本願寺南半分と接地を含む広大な境内であった。この道場の跡に時宗金光寺が建立された。後、河原町六条に移転す。 

 暫く休養の後同年秋亀岡から丹波、丹後へと遊行が再開される。冬には因幡から伯耆そして大山西麓を回って美作に入る。この遊行で伊勢系の神々を無視した一遍が何故に出雲大社で賦算しなかったかと云う疑問が残る。出雲聖が存在しなかった為か。  

 弘安九1286年、四天王寺、住吉社、〔聖徳〕太子 廟、当麻寺、熊野、岩清水八幡宮を回り、四天王寺で歳末別時念仏を行う。狂おしいまでに両三年の遊行は四天王寺聖、融通念仏聖、高野聖、熊野聖、岩 清水聖と云う聖(ひじり)集団の組織化を狙ったものではなかったか。爾後数百年、真宗との抗争で決定的敗北を喫する迄日本最大の宗教団体であった。 時衆内で阿弥陀如来・聖徳太子(観音)・一遍(勢至)の弥陀三尊垂跡信仰が誕生する。 
K 弘安11(1288)
 弘安十1287年一遍は成仏を意識したか、生国伊予への帰らざる遊行に旅立つことになる。播磨では聖の先達である沙弥教信の眠る加古川(いなみ野)で一夜を送る。念仏三昧の聖であったと伝わる。書写山円教寺で本尊如意輪観音を拝み「諸国遊行の思い出はたヾこの当山巡礼にあり」と感涙する。厳島社から道後に戻る。領主河野通有の依頼で今に残る湯釜薬師に南無阿弥陀仏を書き残す。修行の庵岩屋寺、河野家ゆかりの繁多寺、祖神である大三島社に参詣する。病をおして死出の旅路を急ぐ。

 讃岐(曼陀羅寺・空海生誕寺の善通寺)を経て、阿波から国生みの淡路島に渡り淡路一宮に詣でる。明石から時衆出迎えの船で、かつて平清盛の開いた福原の都の港である兵庫の観音堂に入る。「一代聖教みなつきて南無阿弥陀仏になりはてぬ」と辞世の歌を詠み正慶二1289年八月二十三日辰(午前七時)五十一歳で往生する。

 その後時衆は遊行二祖他阿真教と云う優れた宗門指導者を得て巨大化の道を歩むが遊行の精神は保持されて明治の時代を迎えることになる。一遍一代の聖教は名号(南無阿弥陀仏)であり、一遍はその死により南無阿弥陀仏という仏になった。