第八章掛軸が語る近世の道後
@〜遊行上人宝厳寺来訪〜
肥前国松浦川にて 同行共をは先へ渡し舟のりかへさを〔竿〕待居けるほとに
渡し舟 乗後れてハ 帰るさを
松浦の川の まつは久しき
響の灘にてかく
松浦かたひひきの灘のたひまくら〔旅枕〕
浪のよるゝゝ〔寄る/夜々〕夢を憶はすき
遊行六十世 他阿上人

 開祖一遍上人、二世他阿上人以降脈々と時宗の法統は今日迄続く。一遍は遊行上人とも呼ばれ、特に江戸時代は幕府の庇護もあって歴代上人は全国を回遊した。「遊行日鑑」に詳細に記録されている。   
 道後・宝厳寺を訪れた上人を列挙する。@遊行42 代尊任/延宝三年A遊行49代一法/正徳五年B遊行 51代賦存/延享四年(1747)C遊行53代尊如/安永 三年D遊行54代尊佑/寛政七年E遊行56代傾心/文政九年と続き明治維新後F遊行60代一真が訪れる。  一遍誕生寺である宝厳寺へは歴代の上人が特に足を運んだが、藩主は元より在地庄屋も駆り出され、費用負担も多額に及んで有難迷惑であったと思われる。曹洞宗総持寺派である庄屋宅に遊行上人の掛軸が残る秘密もそこに起因するのだろうか。

 望月華山篇「時衆年表」によれば明治18年(1885)武田義徹師が管長に任じ遊行・藤沢両主を兼ねて一真と称したが明治20年に病により浅草日輪寺に引退、明治23年(1890) 69歳で没している。庄屋家には掛軸と併せ第59代他阿上人の「御名号」も残っている。  「時宗年表」後書きによれば、明治初期は廃仏毀釈で貴重な寺院の取り壊しや焼失、文書の消失消滅 は決して珍しいことではなく明治初期の他阿上人の 消息は不明な部分が多い。            
 江戸時代の上人は一遍生誕寺(宝厳寺)で宿泊し、宝厳寺他六院(円満寺・洞雲院・興徳院・東陽院・常住院・等覚庵)、伊佐爾波八幡宮、河野七郎大明神、西宮・岩崎明神、湯神社、温泉玉之石を巡拝したことは確実で記録に残っている。        
 明治初期の廃仏毀釈の流れの中で伊予に於ける時宗寺院は真言・天台寺院として再編成されることになる。僅かに道後の宝厳寺と内子の願成寺の二寺が時宗寺院として残ったに過ぎない。        

 思うに、宝厳寺が余りに疲弊し遊行上人を接待する余裕がなく常住の住職も不在であり大庄屋がご接待をしたのではあるまいか。現宝厳寺長岡住職も同一見解である。

[追記」F明治維新後F遊行60代一真が道後に遊行したと記載したが誤りであった。高野修著「時宗教団史」に遊行59代尊教上人が明治十四年(1886)に大阪・兵庫・四国・や栢山・尾道を遊行の記載あり。遊行60代一真は明治18年に就任するも明治20年には病を得て浅草・日輪寺に独住しており道後への遊行は考えられない。従って60代上人の遊行は59代上人の遊行に訂正します。
A〜伊予松山藩家老奥平家奥方お預かり〜 
  「安政三辰年(1856) 晩春於東都製之」の箱書き の「勝川法眼筆葡萄之図 双幅」を家蔵している。
 曾祖父文平の明治45年(1911)の文書に「右ハ旧松山藩家老奥平氏ノ所蔵ナリシガ慶応四辰年(1868) 当藩御国難土佐藩討入ノ際同氏御家族食場三好、避難セラレ其報酬トシテ賜リタルモノニシテ云々」とある。                   
 「法眼」は「法橋」に次ぐ幕府認知の画家の位であり伊予松平藩筆頭家老であれば江戸で入手可能であったに違いない。但し十八世紀に活躍した画家として著名な勝川春草は時代が合致しない。その流れを酌むものか否か。筆頭家老の家族保護の報酬としての掛軸とすれば真筆に違いあるまい。併せて当家への家老の絶大な信頼があったことに驚いている。
                       
 「慶応四辰年当藩御国難土佐藩討入」の事情であるが、慶応三年(1867) 二十二歳で十四代伊予松山藩主となった定昭は九月二十二日に老中に就任、十月十五日徳川慶喜大政奉還、十月十九日定昭老中辞 任となる。慶応四年正月、高松・松山・大垣・姫路 の四藩に対し「追討令」が出され、同月十一日に土 佐藩、次いで宇和島、長州、福山、大洲、新谷各藩 にも出兵を命じられ、松山藩は六藩からの追討軍を迎えることとなった。 
  慶応四年一月十二日抗戦論の中心である藩主定昭 は家臣の総登場を命じ、家老菅但馬ら若い重臣、近習一派は強硬な主戦論を展開した。十九日夜藩論は一変し恭順派が大勢を占める。家老奥平弾正は死を 賭けて主戦論の定昭を諌め、豪商木村治五兵衛は恭 順派に多額の資金を調達した。二十日には朝廷に嘆願書を提出、藩主定昭は菩提所常信寺に入る。二十六日土佐藩が松山に進駐する。五月当主定昭蟄居、前藩主勝成の復職、十五万両の軍費納入が決定し五月二十八日土佐藩が退去した。松山藩の官軍占領という異常事態に領民は動揺し 松山藩の赦免や嘆願運動が展開されていく。温泉郡 の大庄屋である食場三好氏始め各村の庄屋を中心に した動向は、食場庄屋三好某の記録した「湯山村公 用書」に生々しく記述されている。 
       
 奥平氏奥方一行が食場三好宅に避難したのは正に慶応四年一月である。詳細は不明だが、夜陰藩邸か ら道後三好宅、次いで食場三好宅まで女足で一刻半、早駕籠で一刻(二時間)の道程を急いだ。松山藩として軍費十五万両の賠償は重荷として残る。湯山村(食場)への課金一〇〇両は庄屋三好源之進の責任で納付したが、負債が余りに重くその後田畑を処分せざるを得なくなった。掛軸の代償は余りにも大きかったと言わざるを得ない。
B〜大洲藩加藤公の借用証文〜 
 「豫州温泉郡道後三好氏家蔵 楠公遺訓其子於櫻 井之圖一幀大洲城主加藤遠州諱名泰恒取手丹精也天 明三年(1783) 癸卯三月□小臣神山政孝謹鑑定焉」 と箱書記載の「正成櫻井宿庭訓圖」の絵は著名な楠公父子桜井の別れで大学頭藤信篤が賛を寄せている。

 安永元年(1772) 伊予吉田藩主伊達村賢公の道後温泉来浴時の宿は三好家である(松山藩増田家記)。「大洲藩・新谷藩政史」に拠ると出雲入道(泰賢) は文政九年(1826) 、泰儔は天保三年(1832) に道後温泉寄せ湯湯治の為許されて江戸から帰藩している。伊予伊達藩と同じく隣藩の加藤家も外様であり温泉来浴時には三好家を利用したに相違なかろう。
当家と新谷藩(大洲藩支藩)との来発状は享保六年 (1722) から文久五年(1866) 迄が保存されている。掛軸記載の加藤泰恒は大洲藩三代目藩主で正徳五年(1715)から享保一二年(1727)の治政であり来発状の起点(1722年)との整合性は充分である。  

 掛軸の由来は伝承では藩主一行の温泉での湯女との遊び過ぎの穴埋めを庄屋が立て替えたということだが真偽は不明である。当家系図では四代秀行は加藤家からの入婿であり(天明七年1788没)又大洲藩神谷政孝の当家宛差出書に「三好氏の先祖豪富なる を以て」とあるから頼りにされたのではあろう。四 代秀行は加藤泰恒公のお種ではあるまいか。
                            
 当家から大洲藩への初書状(控)は享保六年(1722) 、大洲藩加藤家から当家への初書状は三好竜睡と)平兵衛宛元文四年(1739)で、文久五年(1866) を以て終了している。百四十余年間の往復書簡は夥 しい。その多くは当家からの立替金の請求であり、 加藤家からの弁明である。            
 竜睡は当家三代目の平兵衛安伴、平兵衛は四代目の平兵衛秀行で加藤家からの入婿であり、相手方は 勘定奉行職の徳永三左衛門、富永左衛門らである。 両名は桜井久次郎篇「大洲秘録」に記載されている。 掛軸の主加藤泰恒の藩主としての在位は1715年から1727年の十三年であり、泰恒からの無心で多額の 金子を用立てをしたものと考えられる。      
 天保十三年(1843) の立替金残高は六十七貫余であり、一両を百五十匁(慶応時代基準)とすると四百五十両に相当する。遊女などの遊興費ではなく藩 費の立て替えかもしれない。江戸幕府の崩壊により 当家から大洲藩加藤家への立替金の取り立ては不能 になったと考えられる。現在県歴史文化博物館学芸員の東昇氏と情報を交換中であるが、当家と大洲藩との往復書簡の解読は遅々として進んでいない。「三好氏の先祖豪富なるを以て」は虚偽ではなかった様である。
C〜黄檗宗万福寺廿九世書〜
題  新亭
池畔新亭多逸景  穿□春月水光鮮
遊魚溌々躍波上  好鳥嚶々囀檻邊
仲春日    瑞岩拝乎

 この書には表書「璞巌衍曜禅師略歴」裏書「大正九年八月七日 市隠軒住職関家道謙記」なる添書が付いている。市隠軒は中世河野家の隠居寺であり当時道後にあった曹洞宗龍穏寺の末寺である。龍穏寺は当家の檀那寺であり、市隠軒は毎月の様に当家の供養に出入りしていたのを記憶している。祖父の世代でもこの書の伝来と瑞岩なる人物が不明であり住職に調べさせたものと思われる。璞巌衍曜は明和四年1767肥前長崎に生まれ出家して黄河清和尚に依り其法を嗣ぎ天保二年1831黄檗宗万福寺廿九代の主となる。天保七年1836七十にて遷化している。書は瑞岩であるが璞巌とは同音であり瑞岩なる号を使用していたと考えている。

 当家は水路に囲まれており奥庭には元々は川から水を取り込んだ池が残っている。現在は空堀になっている。池には石が二つあり、北西には水神を祭り庭石が点在している。東北に現在は茶室になっているが記憶では東屋があり「おちん(お亭)」と呼んでいた。池は二百年以前からだろうが、亭は度々立替えられて今日に至っている。

 時代は下るが正岡子規の漢詩の師匠である浦屋雲林の明治三十七年1904作の漢詩が残っている。

訪道後村三好生観察牽牛花
奇種多移自武州  奚唯一様碧牽牛
非経暮々朝々苦  争得紅々紫々秋
満砌牽牛帯露萃  温泉咫尺是君家
好将入浴後清澄  対比西風澹々花

 江戸時代に奥庭の東屋が完成しお披露目をした節 お祝いとして「黄檗宗万福寺廿九世璞一巌(瑞岩) 衍曜禅師『題新亭』」を贈った風流人がいた。当家の主人(不詳)は感激し東屋で掛軸を披露い倶に悦びを分かち合ったと思う。光景が目に浮かぶ様だ。 祖父寛馬は県立女学校(松山高女・現南高校)創設時茶華の教師をしていた。  
D〜菅生山因縁・菅生山三嶋宮之因縁〜
 四国八十八ヶ所巡礼の第四十四番が菅生山大宝寺第四十五番が大宝寺の奥の院である海岸山岩屋寺である。両寺とも久万盆地にあり、大宝元年 701年創建と伝えられている。真偽は別として石鎚信仰(修験道)により古くから開かれ、空海や一遍も当地で修行した。

 ところで当家に寺社の因縁を記した巻物が二巻あり虫食いが甚だしい。一巻は「菅生山因縁」、他の一巻は「菅生山三嶋宮之因縁」である。奥書には「佐伯九郎右衛門保真法名湲月雲水居士作書之 庚戌 如月日」とあるから、政寛二年1790徳川十一代将軍家済の時代か或いは明治43年(1910) の書写である。

 菅生山の縁起は国宝「一遍聖絵」(1299)にも記載されている。大宝寺は十一面観音、岩屋寺は弘法大師作の不動明王が本尊である。〔三嶋宮之因縁〕 によれば三嶋宮は菅生山観音之鎮守であり露口左京 明神隼人兄弟が「圓通尊像」を得て菅生山を建造、三嶋明神を勧請する。十六世紀後白河天皇代に大宝寺が再建され宮寺となる。のち左京は御神殿太明神隼人は神殿太明神と贈名される。同社には北条平時順が詣で、浮穴郡主大野直繁の氏宮である。大宝寺之住法印龍音快智和尚が両巻共に「原著者」であるが和尚の履歴は未調査である。

 「一遍聖絵」(1299) の菅生山縁起は前段(大宝寺)と後段(岩屋寺)に分かれるが、前段は安芸国の猟師〔野口明神」、後段の仙人は土佐国の女人である。稀人に依る観音像の発見は四国霊場寺院(52番滝雲山太山寺など)に多く散見する。「菅生山因縁」では大神左京・隼人兄弟は久万山里の居住となっており「一遍聖絵」とは決定的に相違するが、観音像発見の経緯は大同小異である。但し注記で大神は大巳貴尊の末裔で豊後に居住とある。又隼人は薩摩国との関係はあるか。「時と場の記憶」は修験者(山伏)により伝承されていくことが多いが、霊峰石鎚山修験者には近国でもあり安芸、土佐、豊後の修験者も多かったと思う。久万の山里に集落が出来てから人物の摩り替えが行われたのか、興味深いテ−マと云える。

 ところで江戸期には金比羅参り、お伊勢参りが道 後村の村人にとって数年置きのエベントであり、金比羅講、お伊勢講として今日でも形骸が残っており当家には世話役としての記録が保存されている。一方久万の大宝寺・岩屋寺は四国霊場の位置づけであるが道後の村方が回ったと云う記録は皆無である。この菅生山因縁の二巻は書写した佐伯九郎右衛門保真なる人物の依頼により求めたものであろう。

E〜富岡鉄斎の書画〜
 世に贋作が多いと言われる軸物の中でも鉄斎の贋作は抜群に多いらしい。現在流通する鉄斎の殆どは 偽作と云っても「当たらずとも遠からじ」らしい。

 当家にも鉄斎の掛軸が三幅ある。画「漁夫」と画 「山水」と画「花」である。祖父寛馬の弟糺の「右ハ京都画家富岡鉄斎当地三島屋事井門家氏宅ニ滞在 中父文平直接依頼揮毫セラレル物以後日ノ為茲ニ記ス。大正八年仲春」の添書がある。         

 鉄斎の後妻ハル(佐々木禎三娘・伊予長浜出身) と共に明治六年三八歳で松山に旅行しており更に五四歳の明治二二年(1889)妻を伴って松山近郊の松前町に在る義農神社に足を運んでいる。神社の由緒は享保一七年(1732) の大飢饉時伊予 郡筒井村百姓作兵衛が飢えに苦しみながら明年の播種用の麦種を枕に餓死、世人は「義農」と讃え明治四年(1881) 神社を建て作兵衛の霊を祀った。    

 三島屋こと井門家であるが浮穴郡高井村(一〇五八石)庄屋で、森松村(七三六石)の豊島家、井門村(五七四石)の橘家の豪農御三家の一つである。 当家は道後村(一〇二一石)庄屋で豊島家とは姻戚 でもあり当主文平が井門家を直接訪問したとしても不思議はない。庄屋連中の寄り合いで鉄斎に揮毫を依頼したのかも知れぬ。とすると家蔵の掛軸は鉄斎五四歳の貴重な真筆ということになる。

 画「山水」には「雲山蒼々江水泱々・・・山高川長」の賛があり、川沿いに亭が描かれているが人の姿は見えない。静寂そのものである。画「花」は険しい崖に垂れ下がって咲いている花を描き「晩節幽香」の賛がある。「晩節不汚」には奢りを感じるが「晩節幽香」は美しく枯れるという謙虚さがある。揮毫を求められた時には筆にしたい 四文字である。画「漁夫」は大幅の掛軸である。隠遁した翁が菅笠を被り釣竿を肩に飄々と歩いている。魚籠には魚の姿は見えない。収穫は無くとも(或いは魚を海に戻したのかもしれない)一日平穏で満足といった風情である。賛は残念ながら読解できない。    

 旧家の間取りなので床の間が三間あり、正月とお盆、春夏秋冬の五、六回掛け替えをしている。亭主として苦労するところだが客人に気配りを褒められると正直嬉しいものである。今年(平成十五年)は総領の家族がお盆に間に合ったので亡母の葬儀に当たり献句を頂いた「雲母」の同人宮内甲一路師の「秋を待つこころに君を喪なひぬ」を仏間に掲げ亡き人を偲んだ。世間の評価の高い掛軸も幾多あろうが、物語性をある掛軸一幅一幅味わいながら何年かに一度、虫干しを兼ねて一期一会で再会する楽しみは何物にも代え難い。