第一章 古代の天皇の道後入湯記 @〜E |
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道後温泉が「坊っちゃん」として人口に膾炙してはいるが、「熟田津の湯」としては有難迷惑かもしれない。「熟田津の湯」に代わって、記紀、万葉の記録から、私の「ふるさと発信」を始めさせていただきたい。 年代が確定できるのは、聖徳太子が葛城臣・高麗僧恵慈らを伴って、推古天皇四丙辰(五九六)の入湯であるが、それに先立って第十二代景行天皇(大帯日子天皇)同妃(大后八坂入姫命)と第十四代仲哀天皇(帯中日子天皇)同妃・神功皇后(大后息長帯姫命)が湯幸行されている。〔釈日本紀〕 景行・仲哀天皇は「神話時代の天皇」であるが、景行天皇の次子は小碓尊(日本武尊)であり、熊曽建・出雲建・東方(蝦夷)の征伐(大和朝廷の拡大期)が古事記中巻の最大のドラマで描かれている。 一方、神功皇后には「三韓征伐」が伝承されており、高句麗広土王碑銘に「倭、渡海シテ百済・新羅ヲ破ル(三九一年)」とある。 |
思うに、西国(熊襲・隼人)征伐や朝鮮半島出兵に当たり、海上集結拠点として熟田津の地を選び、暫し温湯に浴し、軍兵の鋭気を養い、兵站と移動日程の調整をしたのではあるまいか。 |
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推古天皇四丙辰(五九六年)十月に、聖徳太子が葛城臣・高麗僧恵慈らを伴って伊予の湯に浴し、湯ノ岡(伊佐爾波岡)に碑を建てられた。五九四年に上町台地に移設した四天王寺からの出航であろう。 五九五年に高麗僧慧慈は帰化して、聖徳太子の師となり、同年百済僧慧聡も来日する。翌五九六年には、蘇我馬子の子善徳を寺司として法興寺が竣工し慧慈・慧聡ともに同寺に住まうことになる。〔紀〕 六世紀から七世紀前半にかけて、大和朝廷による国内統一と内政の安定が図られ、一方朝鮮半島の高句麗・新羅・百済・任那の混乱に乗じ、六六三年の白村江の海戦までは、半島との制海権は完全に日本が掌握する。 |
思うに、太子一行が、何故この時期に伊予温湯に出掛けたかは皆目不明であるが、日本最古の碑文を残したことは日本文化史上画期的なことである。残念ながら碑そのものは発見されていない。碑文では伊予の湯を仏の住む天寿国のようだと讃え、自らの政治もかく理想郷の実現を目指したいとしている。 六〇一年には斑鳩宮を造営、新羅討伐の計画、六〇三年には冠位十二階、翌六〇四年には憲法十七条制定、六〇七年小野妹子らを隋に派遣と、太子の画期的な施策が展開する。正に「日出る国」の誕生である。太子は伊予の湯に浴し、日本の来し方行く末に思いを馳せたのではあるまいか。 |
B |
舒明天皇と同妃が、聖徳太子の伊予入湯以来四十年振りに伊予の湯に行幸された。日本書紀に拠れば、舒明十一己亥十二月己巳朔壬午に「伊予温湯宮」に到着され、同十二夏四月丁卯朔壬に厩坂宮に帰られた。即ち、六三九年十二月十四日に到着、数カ月滞在され、厩坂宮に翌六四〇年四月十六日に戻られた。 舒明十一年の秋には、新羅の送使に従って唐から学問僧恵隠・恵雲が来日し、十一月には新羅の客人を朝廷で接待しており、「伊予温湯宮」での長逗留は、見送りを兼ねた慰労であったのであろうか。 |
思うに、景行天皇、仲哀天皇、舒明天皇と御三方の伊予への行幸を記述したが、御三方とも皇后と御一緒であることは特筆される。戦乱の気運をはらんでいる不安な国情を前提にすれば、男女の仲の深さといった文学的な解釈では解き明かせないように思う。 地勢的にみて、瀬戸内の伊予(熟田津)周辺は完全に中央の支配下に入り、冬季も温暖で温浴も楽しめ、皇后や女官達にも人気があったのではないだろうか。そして、天皇はじめ武士を熟田津の港から九州や朝鮮半島に送り出し帰還を待ったのではないのか。まさに「伊予は居よいか住みよいか」である。 因みに「佐渡おけさ」の一節は、平安時代に紫式部たちが口ずさんだ伊豫歌である。 |
C |
斉明天皇が百済救援の為、中大兄皇子・大海人皇子らとともに、正月に難波を出帆し、七年辛酉(六六一年)正月十四日に熟田津石湯に寄る。三月娜大津に至り、五月朝倉宮に本営を設ける。(書紀) 七月天皇は筑紫で没したが、阿曇比羅夫らが将軍として発遣する。六六三年には兵二万七千人を以て新羅討伐が開始するが、八月白村江で唐の水軍と戦い大敗する。九月、百済の遺民とともに帰国する。 以後、日本海の制海権を失い、奈良・平安の国内指向の政治・文化が実ることになる。再び海外に飛躍するのは、鎌倉の武家政治に入り、文永(一二七四年)・弘安(一二八一年)の蒙古軍の侵略に完勝するまで六〇〇年余の歳月を必要とした。 六六八年には皇太子中大兄皇子が即位し天智天皇となり、中臣鎌足が内大臣となり藤原を名乗る。六七二年の「壬申の乱」を経て天武天皇が即位し国内は一応安定化するが、宮廷内のクーデターは続出し、半島から来た知識人による制度整備、百済人の東国移住と、古代における一大変革が展開し、唐を模範とした政治システムが確立していく。 |
思うに、斉明天皇の熟田津入湯は、大和朝廷にとってまさに嵐の前の一瞬の静けさであり、天皇にとっても人生最期のくつろぎであったに他ならない。 |
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斉明天皇六六一年の熟田津石湯の行宮には、華やかな宮廷歌人額田王が同行し、一首を残している。
「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」 万葉集に拠れば、斉明天皇は、舒明天皇の伊予湯宮の御幸(六二九、六三七年)を偲び、昔日の猶存する物をご覧になり、哀傷の為御歌を製られたとの一説(類聚歌林)あり。額田王の歌には、斉藤茂吉の「万葉秀歌」に優れた解説はあるが、船揃えして今か今かと出港の合図を待つ遠征水軍に贈る応援歌であろう。 新羅征伐の為、熟田津に斉明天皇、中大兄皇子が行宮を造り、瀬戸内海の海民を徴発して水軍を編成するには随分の日数を要したに違いあるまい。熟田津(道後)から娜大津(博多)まで三ヵ月必要であったことがこのことを裏書きしていよう。 |
思うに、額田王にとって、七月には天皇が逝去、二年後には見送った全艦隊が白村江で壊滅するなど夢想もしないことであったろう。更に十一年後、壬申の乱が起こり、最初の夫であった大海人皇子が天武天皇になろうとは。白村江の敗北以降、半島進攻の拠点であった熟田津の存在は徐々に薄れ、天皇の御幸も無くなる。次なる瀬戸内海洋舞台は三百年後の九四〇年に、藤原純友が用意する。 |
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額田王と並んで、もう一人著名な万葉歌人である山辺赤人が「伊予湯泉」を訪れ長歌を残している。七二四〜七四一年(神亀一〜天平十三)が宮廷歌人としての活躍の舞台であり、この歌も聖武の七二〇年代の作であろうか。山部氏は伊予の久米氏と同族であるから、伊予に来遊したことは事実だろう。 尚この歌は現在、道後温泉神之湯の湯滝に刻まれており、入浴客の目に容易に触れることができる。 『すめろぎの神の命の 敷きいます国のことごと 湯はしも多にあれども 島山の宜しき国と 凝しき伊予の高嶺の 伊佐庭の岡に立たして 歌思い辞思はしし み湯の上の樹群を見れば 臣の木も生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の声も変わらず 遠き代に神さびゆかむ行幸処(いでましどころ) 反歌 百敷の大宮人の飽田津に船乗りしけむ 年の知らなくに』 |
思うに、赤人は聖徳太子の「湯の岡の碑文」を眼前にし、半島出兵の斉明天皇を見送る額田王の歌を引いて、飛鳥、大和朝廷が最も輝いた時代を高らかに歌い上げている。「年々歳々花相似タリ 歳々年々人同ジナラズ」である。道後山(道後公園)がその場所であったとの学説もある。 |