第二十五章松山中学校と慶応義塾(続)
〜二代校長の「怪」〜
1 はじめに
 先に第九章発表した「松山中学校と慶応義塾〜初代校長草間時福〜」で初代校長草間時福の後任として西川通徹の名前を挙げた。参考にした『松山中学・松山東高校同窓会名簿』(二〇〇〇年版)記載の松山中学校の歴代校長を列挙すると、初代校長は草間時福(在職期間 明治十一年六月〜十二年七月)、二代校長は西川通徹(同 明治十二年七月〜十四年四月)、三代校長は村松賢一(同 明治十四年四月〜十六年六月)四代校長岡本則録(同 明治十六年六月〜十八年十月)と続く。
 昭和三十五年刊行の『松山東高校史(松山中学・松山第一高校)開学一三二年の歩み』では二代校長は村松賢一(〜明治十六年))であり、更に昭和五十三年に発刊された『松山東高校百年史』では二代校長は中井恒介(明治明治十二年十一月〜十三年三月)である。
 前者の『七十五年史』の執筆者は執筆当時『愛媛日報』を経営するジャーナリストである木山慎一氏(大正十五年卒業)で恩師、旧師、同窓生の事績が興味深く記述されている。一方後者の『百年史』の執筆責任者は伊予史談会の前会長で郷土史の最高権威者であった景浦勉氏(昭和三年卒業)が担当され、歴史学者としての考証が随所に見られ現段階では最も正鵠な史実であろうと考える。とは申せ、二代校長として『同窓会名簿』で西川通徹、『七十五年史』村松賢一、『百年史』で中井恒介三氏の名前が挙げられていることは極めて不自然であり又奇妙なことである。何故このような混乱が生じたのか、その「怪」について理由なり背景なりを資料に基づいて探ってみたい。
U 正岡子規の証言
 松山における近代的な学校教育は宇和島、大洲に較べて随分遅れた。宇和島藩では文政年間以降二宮敬作、三瀬周三、大野昌三郎ら優れた医学者を輩出し、文久、慶応年間には長崎・横浜に十五、六人が英語留学し、藩内の英蘭学稽古場では三瀬周三が教授し入門者は七十余名を数え伊予に於ける近代化の曙は宇和島から始まったと言える。明治元年に「明倫館」の機構改革を行い、明治三年には「明誠館」と改名し学則・校則・寄宿寮規則を大幅に改正している。一方松山藩でも教育の刷新を狙い漢学主体の「明教館」に漢学・皇学・洋学・医学等の教科を加え規則を大幅に改めた。教科の遂行に当たり各「司教」を任命した。松山に於ける近代的な英学教育は明治二〜三年英学司教として赴任した慶応義塾出身元松山藩士小林小太郎から始まるといっても過言ではあるまい。
 明治四年十一月大洲の有志により洋学会社が発起され翌五年十月に大洲英学校が開設された。明治六年三月松山では正岡子規も後年学んだ勝山学校併設の洋学科が独立して英学舎となり、明治六年八月西条では真鍋順平らの発起で西条社(洋学会社)、明治六年一月宇和島では宇和島第一本校に英学舎(不棄学校)が相次いで誕生した。
 明治八年八月には旧松山藩明教館内に県立の英学所を設置し、小学校令に基づく修了者に限り入学を許可したので中学校の前身と考えて良かろう。明治九年には宇和島の「不棄学校」を母体にして「南予変則中学校」、松山の「英学所」を母体にして「変則中学校(北予中学校)」が設立された。
 松山中学校の初代校長と位置づけられる草間時福は嘉永六(一八五三)年五月に出生、明治三年上京し安井息軒・中村敬宇に学びついで慶応義塾に入り福沢諭吉の教えを受け明治八(一八七五)年卒業した。明治八年愛媛英学所を設立してその指導者を求めていた愛媛県権令岩村高俊は、宇和島出身の当時曙新聞の主筆をしていた末広鉄膓の仲介で草間青年と面談、二十三歳の書生ながら月俸四〇円の愛媛英学所総長(所長)として迎えられることになる。草間時福の松山時代は、英学舎・英学所、北予変則中学校、松山中学校の時代に相当する。明治八(一八七五)年八月から明治一二(一八七九)年七月迄の四年間である。草間時福の英学所・松山中学校の教育内容と「演説」については直弟子永江為政が『四十年前之恩師草間先生』に書き残している。英学所ではスマイルの『自助論』などを洋書でもって論じるかたわら、月二、三回の演説、討論会を開き、先生も生徒も交りあって議論の機会を持った。この文明開化を思わせる自由な学風が優れた生徒を集め多くの人材を輩出したが、中でも岡崎高厚・門田正 経・永江為政・森肇・矢野可宗ら言論人を志す者が多かった。   
 草間初代校長に関する記述は多いので省略するが、子規が明治十六年(一八八三)五月に松山中学校を退学し六月上京に際し書き残した過激な演説文の冒頭のみを記しておきたい。草間校長を賞賛している。(『東海紀行』) 
 「余ノ上京ヲ決スルヤ事、至急ニ出デ朋友諸君ニ告クルノ暇之レ無シ 然レトモ余ヤ猶演説会ノ一事ハ常ニ心ニ関スルヲ以テ九日閑ヲ偸ンデ明教館ニ到ル 蓋シ暗ニ別ヲ告ゲント欲スル也 其演説ノ畧ニ曰ク 諸君ノ茲ニ演説会ヲ開クヤ為メニ 一国ノ元気ヲ奮励スル者アルナリ 例ヘバ名将ノ麾下ヲ馭スルガ如シ 一タヒ旗 旒ヲ揮ヘバ一軍皆進ム一タヒ陣鼓ヲ撃テバ衆隊悉ク開ク 段心会ハ是レ将師ナリ伊予全国ハ是レ其ノ麾下ナリ 其進退盛衰未ダ曽テ此会ニ因ラズンバアラザルナリ 何トナレバ草間先生ノ此校ニ来リ演説ヲナスヤ伊予全国之ガ為ニ始メテ演説ノ有益ナルコトヲ知リタルナリ 故ニ伊予全国ノ人民ハ常ニ眼ヲ中学校ノ演説会ニ注ケリ 是レ其本源ナレバナリ 」
 子規は明治十三年春松山中学校に入学し十六年六月に中退し上京するが、この時期は西川、村松両校長の在職期間に合致している。実に不可思議なことだが記憶力、文章力共に抜群の子規が書き残した記録では校長を特定出来ない。但し西川通徹校長についての貴重な証言(明治十五年十月十六日付『三並良宛書簡』)を書き残している。
「演説は実に万々浦山敷て魂飛び魄散ずるに至れり。又聞く旧松山中学校長西河氏も亦益演説に巧なるに至れりと」
 これは草間校長の後を受けて校長であった西川通徹氏が少なくとも明治十五年十月以前に松山を去り、東京でジャーナリスト、政治家として活躍していることを、「子規五友の一人」である三並良に松山中学校に在学している子規が書き送った書簡であるから事実に相違あるまい。
V 福沢諭吉の証言
 草間時福は明治十二(一八七九)年夏松山在任丸四年を迎えるに当たって、恩師である福沢諭吉に後任者を依頼している。福沢から草間宛の書簡が残されている。(明治十二年九月二十五日付『草間時福宛書簡』)                                                      
「秋冷の好時節益御清適奉拝賀。陳ば先日拝眉の節、仁兄の御跡引受の為、一名入用の由に承はり候。右はいまだ御心当無之候哉。若し無之候はヾ爰に一人あり、即ち酒井良明なり。此人目下仕事なし。人物は無申分、実着の士なり。何卒御面話の上、可然と思召候はヾ御周旋被下度、即本人参上い才可申上、御聞取奉願候。右要用のみ申上度、早々頓首。       福 沢 」
 詳しい事情は不明であるが、福沢諭吉が推薦した酒井良明は嘉永五(一八五二)年生まれで草間より一歳年上である。明治十三(一八八〇)年三重県津中学校校長となり、後に母校慶応義塾の教員に就任している。事情により酒井良明は松山に赴任しなかった。福沢は酒井良明に代わる次なる候補者の人選に奔走した。『百年史』によれば慶応義塾出身の中井恒介が二代校長(明治十二年十一月〜十三年三月)として就任している
 福沢の明治十年以降の『知友名簿』に明治十二年十月頃に慶応義塾出身の中井恒介、小菅謙(静岡県女学校)、国府寺則順(宇和島南陽学校教員)と相次いで面談している。面談内容は不明であるが、中井の赴任時期から判断して松山中学校長推薦のための事前面接ではなかったか。尚国府寺は吉田藩出身で慶応義塾に学び宇和島英学舎(不棄学校)の講師を勤めた逸材である。中井は山口県出身の藩士であるが赴任後僅か四ヶ月で「家庭の事情により」辞任を申し出ている。
 草間の退任と中井の赴任までの数ヶ月間は、同じく慶応義塾出身の西川通徹が校長(総教)代理を務めている。三代校長として西川通徹が明治十三年四月に校長兼総教に就任する。中井校長辞任から西川校長就任までの空白の一ヶ月は事務係の近藤元弘が校長心得を命じられている。近藤元弘は松山藩に石田梅巌の心学を伝えた近藤元良(名洲)の次男であり、長兄元修(南洋)と並んで南ッと称し学者一家であった
 西川通徹は今日忘れられた存在ではあるが、慶応義塾の学生当時から『東京曙新聞』への常連投書者であり、海南新聞編集長も経験したが、総房共立新聞・自由新聞・秋田日報・中外電報・絵入朝野新聞・大阪朝日新聞など生涯言論界に身を置き、後半生官界に身を投じた草間時福より清冽な人生を歩んだとも言える。是非発掘したい郷土の明治人の一人と云えよう。南予出身であり、同郷の末広鉄膓に近い思想の新聞人であった。県知事は進歩的な岩村高俊から漢学者で保守主義の関新平に代わっており、西川の進取的な思想とは相容れず同年六月には辞任を申し出ている。この間の新知事との軋轢については内藤鳴雪の『鳴雪自叙伝』十六章に生々しく描かれている。十二月に四代校長村松堅一が校長兼総教に就任するまで、内藤鳴雪の実弟で慶応義塾に学んだ菱田中行二等司教兼事務係が校長心得になった。
W 同時代人(子規の友人)の証言
 校長(総教)人事は先に指摘した通りこの期間は極めて不安定であり、松山中学校で学ぶ学生達も混乱したに違いあるまい。子規の友人達の目にはどのように映ったのであろうか。昭和十八年二月刊行の柳原極堂の『友人子規』の「中学校時代」の章で子規を知る同時代人二氏が次のように証言している。
@太田正躬(子規五友の一人)の柳原極堂宛書簡
「私入学時分の中学校は、愛媛県松山中学校と称し校長は近藤元弘氏で、村松賢一氏が教頭格、他に太田厚、遠山某、小林信義、三輪淑載、長野豊、村井俊明等の諸先生が居られた。」
A西原武雄(子規と松山中学校同期)の柳原極堂宛書簡
「御承知通り松中最初の校長は草間時福にて、同氏辞任後暫時岡本則録と云ふ人校長に任命。但し此人の任期は極めて短かく(小生入学の際の校長は此人なり)其後近藤元弘氏一時勤めしも是れ亦暫時にして退却、其後に来られたるは村松賢一に候。迂生初等科卒業際の校長は村松氏に御座候。」
 両氏の在校時の校長として近藤元弘、村松賢一らの名が挙がっているが西川通徹の名前はない。近藤元弘校長の前任者とすれば中井恒介校長(明治十二年十一月〜十三年三月)が該当する。尚岡本則録の松山中学校赴任は明治十六年六月であり明らかに西原武雄の記憶間違いである。、岡本則録は明治期を代表する数学者であり和算の研究者でもあった。彼の事績については『日本の数学一〇〇年史』(岩波書店刊)に詳述されている。
X 松山東高等学校七十五年史・百年史の証言
@『松山東高校史(松山中学・松山第一高校)開学一三二年の歩み』(執筆者木山慎一)からの抜粋
「草間(時福)の後へ来た村松賢一は明治十六年(一八八三年)愛媛県第一中学校と改名されるまで校長をつとめ、同年六月、岡本則録が校長として大阪から着任、文学士木村竹次郎(英語)理学士大石保吉(物理化学)の初めての二学士(学士様なら嫁にやろかといわれたくらい、学士は稀しいころであった)も教壇に立った。岡本は愛媛師範の校長もかね、当時生徒だった渡部政和(後の松中教諭、政和さん)、が地方には恵まれた教師ばかりだといっているくらい実力のある教授陣だった。」
A『松山東高校百年史』(執筆責任者景浦勉)からの抜粋
松山中学校の歴代校長は左記の通りである。
草間時福 初代校長 (明治十一年六月〜十二年七月)
酒井良明 赴任せず  この間西河通徹が校長代理を務める
中井恒介 二代校長 (明治十二年十一月〜十三年三月)
近藤元弘 校長心得  事務係
西河通徹 三代校長 (明治十三年四月〜十三年六月)
菱田中行 校長心得  二等司教兼事務係
村松賢一 四代校長 (明治十三年十二月〜十六年六月)
岡本則録 五代校長 (明治十六年六月〜十七年三月)
(注)小論では西河通徹と西川通徹を併用しているが『慶応義塾入社帳』(学籍簿)記載氏名は「西川通徹」である。引用文献では原文通り(西河通徹)表示した。
Y まとめ
 明治初期の松山中学校の歴代校長について手元にある資料で調査を進めて来た。参考にした書籍も数多くあるが、小論では同時代資料(書簡・メモ)を中心に「証言」することにした。愛媛県庁所蔵の『愛媛県史料』等にも当たるべきではあろうが、既に『松山東高校百年史』編纂に当たって執筆責任者景浦勉氏以下スタッフにより調査検討済みであり引用させて頂いた。改めて『松山東高校百年史』の資料的価値の高さと豊かさに敬意を表する次第である。
 尚「福沢諭吉の証言」中『知友名簿』を紹介したが図らずも中井恒介の松山中学校校長(総教)赴任に福沢諭吉の推薦があったことを裏付ける資料となったことを喜んでいる。    以上