第十章子規と「演説」 〜 演説の来歴〜 

                                                                                                                                                    
 一、はじめに                         

 松山子規会の創成期を記述した『子規遺芳〜松山子規会史〜』を繙くと、昭和十八年一月第一回例会から丸三年経過した昭和二十年十二月第三十五回例会で小川尚義(明治十六年松山中学校卒・台北帝大名誉教授)が「子規の演説」に触れている。子規会例会に於ける子規の演説に関する初出記述として記憶に留めておきたい。                   
明治期の子規の生きた時代の演説は演説場と新聞が舞台であり、戦後のスピーチはラジオとテレビであった。二十一世紀のそれはITをフル活用したスピーチとディベイトであろうが、我々はその動きを注意深く見守る必要がある。          
 二十世紀最後のアメリカ大統領選挙での共和党ブッシュ現大統領と民主党ゴア候補とのスピーチとディベイト、今春の自由民主党総裁選挙での小泉純一郎現首相ら四氏の演説と討論を見聞して、演説の根底にある@論旨とA説得力とB人物像はIT時代でも不変のものであり、その重要性が更に高まりつつあると考える。同時に演説を評価するのはマスコミではなく、市民であり国民であることも明らかになってきた。             
                           

 二、子規と諭吉・没後一〇〇年
                 
 平成十三年は子規会にとっては子規没後一〇〇年という意義深い年に当たる。行政でも「子規一〇〇年祭in松山」なる行事を盛大に実行する。明治三十五年九月十九日に十五歳で子規は没した。正確には没後九十九年に当たる。        
 一方、東京では福沢諭吉の没後一〇〇年に当たり慶応義塾では幾つかのイベントを実施した。福沢諭吉の死去は明治三十四年二月三日享年六十八歳である。マスコミでも取り上げられたが、平成十二年十二月三十一日、慶応義塾第二回世紀送迎会が同塾三田山上で開催、「独立自尊導新世紀」をスローガンとした。記録に拠       前の明治三十三年には同じ場所で世紀送迎会が開催され、福沢諭吉が「独立自尊迎新世紀」を揮毫したと云う。           

 正岡子規と福沢諭吉−−−子規は日本の伝統文化の革新者であり、諭吉は西欧文明の啓蒙者として、正に十九紀の偉業を二十世紀に残し、更に二十一世紀に新しい視点で影響を与えようとしている。                   
 福沢諭吉の三大事業として、@慶応義塾創始 A時事新報創刊B交詢社創設が挙げられる。@は諭吉の啓蒙家、教育者の一面、Aはジャーナリストとしての一面、Bは日本初の倶楽部づくりであり、その建物は銀座に現存している。 (注)交詢=知識交換世務諮詢「知識ヲ交換シ世務〔世の中の務め〕ヲ諮詢〔問い図ること〕スル」              
  一方、子規三十五歳の生涯は諭吉の六十八歳の生涯の半分に過ぎないが、@啓蒙・教育(子規山脈の形成)Aジャーナリスト(日本新聞)B交詢(句会)は、二人に共通する時代認識と使命感があったからではないか。                                                

 三、演説との出会い〜福沢諭吉・草間時福・正岡子規〜       

 子規が松山から最初に上京するのは明治十六年六月であるが、紀行文として『東海紀行』(国会図書館本、正宗寺本)が執筆された。松山中学校を退学するのは同年五月である。以下冒頭の部分を記す。(正宗寺本)                  

 余ノ上京ヲ決スルヤ事、至急ニ出デ朋友諸君ニ告クルノ暇之レ無シ 然レトモ余ヤ猶演説会ノ一事ハ常ニ心ニ関スルヲ以テ 九日閑ヲ偸ンデ明教館ニ到ル 蓋シ暗ニ別ヲ告ゲント欲スル也 其演説ノ畧ニ曰ク 諸君ノ茲ニ演説会ヲ開クヤ為メニ一国ノ元気ヲ奮励スル者アル 例ヘバ名将ノ麾下ヲ馭スルガ如シ 一タヒ旗旒ヲ揮ヘバ一軍皆進ム一タヒ陣鼓ヲ撃テバ衆隊悉ク開ク 段心会ハ是レ将師ナリ伊予全国ハ是レ其ノ麾下ナリ 其進退盛衰未ダ曽テ此会ニ因ラズンバアラザルナリ 何トナレバ草間先生ノ此校ニ来リ演説ヲナスヤ伊予全国之ガ為ニ始メテ演説ノ有益ナルコトヲ知リタルナリ 故ニ伊予全国ノ人民ハ常ニ眼ヲ中学校ノ演説会ニ注ケリ 是レ其本源ナレバナリ 且ツ曩日海南新聞紙上ニ於テ之ヲ賞励スルガ如キアレバ一国ノ元気之ガ為ニ激昂シ従テ演説会ヲ拡充スルノ良風ヲ及ボスベキナリ 是レ即チ余ガ諸君ノ熱心如何ハ一国ノ元気ヲ支配スル者ナリト云フ所以ナリ 諸君ノ責任豈重キニアラズヤ                    

 子規は上京に当たって明教館にて惜別の演説を行い、松山中学校初代校長で福沢門下生の草間時福の力が如何に大であったかを強調している。数年後、子規が上京し東大予備門で同級であった大谷是空に送った書簡の一節には「而して学校は振はず教師は皆愚なり無学なり、是に於てか今迄の政治演説は変して一種の実行手段となれり、何ぞや退校なり」と松山中学校当時の屈折した気持ちを如実に語っている。〔和田克司編『大谷是空・浪花雑記』)                       
 子規・正岡常規の熱中した演説、藩校の建物である明教館での演説の原型は、福沢諭吉が提唱し慶応義塾が実践した演説の方法であり、慶応義塾出身の草間時福初代校長が定着させたものと考えられる。もっとも子規自身は草間時福の謦咳に直接には接していない。時代が人を生み人が時代を育んでいくが、キーワード「演説」の視点から、福沢諭吉、草間時福、正岡子規を関連させて説明する。                           

 福沢諭吉の『学問のすすめ』第十二篇演説が上梓されるのが明治七年であり、同年草間時福は慶応義塾に入社する。子規は八歳で智環学校(末広学校改称)に在学している。翌八年、三田演説館が開館し福沢以下社中の演説が興隆する中、草間は慶応義塾を卒業する。同年『文明論之概略』が出版される。この年愛媛英学所を設立してその指導者を求めていた愛媛県権令岩村高俊は、宇和島出身の当時曙新聞の主筆であった鉄膓・末広重恭の仲介で草間青年と面談、民権自由論や国会論を議論して、三者三様に当代の「演説好き」であるだけに談論風発し、岩村の意に投じ二十三歳の書生ながら月給四十円の愛媛英学所総長(所長)として迎られる。        
 草間が松山中学校校長を辞任するまでの足掛け五年、岩村県権令と思想を一にして民権結社公共社や海南新聞(愛媛新聞前身)主筆として活躍することになる。草間は慶応義塾で見聞した新知識の愛媛県下特に松山での定着をはかった。        
 一例として明治十一年十一月に松山中学校の教室と道路一つ隔てゝ愛媛県会議事堂が新築されたが、この建物は明治八年開館した慶応義塾の三田演説館を模倣して設計され、階下は議場と休憩室に充てられ、階上が傍聴席であった。又明教館で催された演説会は彼が学んだ慶応義塾方式を当然のこととして採用したと柳原極堂は『友人子規』で記述している。      
  明治十二年草間は松山中学校校長を退任し、翌十三年子規は松山中学校に入学することになるが、草間の直接の影響は薄らいだとは云え、学生の自由民権への関心や演説への参加は活発であった。彼の在学中に、明治二十三年国会開設の詔勅が出て自由民権運動は最高潮を迎える。沢は明治十三年交詢社を発会させ知識人のソサイエティを誕生させるとともに、明治十五年には「時事新報」を発刊しジャーナリズムの世界に足を踏み入れることになる。          子規は松山中学校では不完全燃焼にて明治十六年退学し、       伯父加藤拓川から東京への招聘状が届き僅か二日を経て六月十日十七才で上京することとなる。         

 子規の中学時代の演説草稿については、『無花果艸紙』に「自由何クニカアル」「諸君将ニ忘年会ヲヒラカントス」「天将ニ黒塊ヲ現ハサントス」が記載されている。また回覧雑誌の『桜亭雑誌』『松山雑誌』『弁論雑誌』にも政治色の強い小論文が残されている。子規にとっての幸運は明治十九年に「帝国大学令」が交付され進学の道が無限に開かれたことと、陸羯南の「日本」が明治二十二年に創刊され彼のジャーナリズム登場の舞台が用意されたことである。                                              

 四、日本に於ける演説の嚆矢                    

 1)スピーチと演説
                    
 スピーチを演説と翻訳したのは福沢諭吉であり、明治八年三田の慶応義塾内に演説館を建て、福沢諭吉以下慶応義塾の塾生が大いに自説を発表した。明治七年十二月刊行の『学問のすゝめ』十二編の前段が「演説の法を勧るの法」であり次の様に始まる。                            

 演説とは英語にて「スピイチ」と云ひ、大勢の人を会して説を述べ、席上にて我思ふ所を人に伝るの法なり。我国にて古より其法あるを聞かず、寺院の説法などは先づ此類なる可し。西洋諸国にては演説の法最も盛にして、政府の議院、学者の集会、商人の会社、市民の寄合より、冠婚葬祭、開業開店等の細事に至るまでも、僅に十数名の人を会することあれば、必ず其会に付き、或は会したる趣意を述べ、或は人々平生の持論を吐き、或は即席の思付を説て衆客に披露するの風なり。此法の大切なるは固より論を俟ず。譬へば今世間にて議院などの説あれども、仮令ひ院を開くも第一に説を述るの法あらざれば、議院も其用を為さヾる可し。                  

 又同年刊行の福沢諭吉・小幡篤次郎・小泉信吉合著『会議辯』は1)総論2)集会を起す手続き3)三田演説会の序(三田演説会の規則)からなり、具体的に手順を詳述している。福沢としては、近い将来実現されるだろう民選による国会をはじめ地方議会の選挙、運営を予感して、喫急の課題としてスピイチ(演説)の何たるかを詳述し普及を図ったものと思われる。その為に慶応義塾社中に演説の場を提供し、演説の技法を学ばした。演説館の新設(明治八年)については、「公衆を集め又は内の生徒を会して公然所思を演るの法に慣れ、以て他日用に供せんとする者にして、演説討論の稽古をする場所な」ることを強調している。                   

 2)演説の「原型」                    

 明治七年六月七日の集会での福沢の演説原稿が今日残っており、「口に弁ずる通りに予め書を綴り仮に活字印刷に附して之を其まゝ述べんことを試みたもの」である。二十日後に三田演説会が発会しており、日本に於ける「演説」の原型と云えよう。百二十七年前の演説とは到底考えられない文章の瑞々しさがある。(『福沢全集緒言』「会議瓣」)          
  一方、子規は「言文一致」の文体を確立したが、子規の明治十年代の松山での演説文は漢文調で決して平易ではないが、演説を通して徐々に「口に弁ずる通り」の文体に変わっていったのではないか。この点は「子規の演説文」として別途詳述したい。言文一致体の子規演説文としては、明治二十三年常盤会寄宿舎で舎監佃一豫の後任選挙時の演説文が参考になる。(『筆まかせ第三編』「○寛? 厳? 中庸?」)          

 3) 討論会(ディベイト)の創始と演説の練習       

 演説と同じくディベイトに関して、明治初期の塾員である須田辰次郎は、大正五年二月刊行の『三田評論』に「余の在塾中に於ける珍談奇聞」で討論会誕生の秘話を載せている。明治六年の梅雨時、福沢邸で福沢が議長となり、小幡篤次郎、小泉信吉ら十人ばかりで初めて討論会をした。籤引で両側に分かれ、士族の家録はプロパーチーかサラリーかで論争、サラリーであれば其職(士分)を解任されれば給料を支払う必要無しで議決した由。又、寄席へ行って講談や落語を聴く、僧侶の説教を聴く、或はエロキューション(雄弁術)やゼスチュアに関する原書を読み、時には「金杉橋から屋形舟を仕立て、隅田川を遡って、両国橋の下辺りに船を繋いで、盛んに討論演説の稽古」をした。松山でも子規や友人達が同様に城山や寺にて演説を練習して私的な演説会を開催していた。       
 明治八年七月の郵便報知新聞の記事によると三田演説会は月初の土曜日は外来聴講可で「定めし奇説珍論畳出して一段を了する毎に拍掌の声其堂に溢るゝ」盛況であったが、演説の後の拍掌(拍手)は、明治初年に三田の演説館で聴講した福沢と昵懇のイギリス人宣教師ショウ氏、アメリカ人宣教師シモン氏の拍手から学んだものらしい。(明治三十二年三田演説会・鎌田栄吉塾長演説) 拍手は明治初年まではカシワデと発音されており、夏目漱石の『坊っちゃん』の「教場へ出ると生徒は拍手を以て迎えた。先生万歳と云ふものが二三人あった。」が日本国語大辞典に代表例として挙げられている。舞台は松山中学校であり、何かの因縁でもあろうか。          

 4)福沢諭吉の翻訳の姿勢            

  翻訳語には@新造語とA日本語として定着している言葉に新しい意味を与える場合の二通りある。例えば文明開化期の翻訳語として、@に社会(society) 個人(individual)、Aに権利(right) 自由(liberty) が該当する。           
 福沢は翻訳するに当たり、問題意識は持ちつつも極力日本語として定着している言葉に新しい意味を与えようとした。明治三十年の『福沢諭吉全集緒言』で「全体君等が西洋の原書を翻訳するの四角張った文字ばかり用ふるは何の為めなるや」と疑問を呈している。                        

 5)演説の語義                       

 諭吉は無数の日本語の中からスピーチの訳に演説を選んだ。演説(演舌)は古来からある仏教用語であり、日本国語大辞典では、勝鬘経義蔬・摂取正法章の「我当承仏心、更復演説摂受正法広大之義」を挙げている。庶民にとっては「演説」が説教に類似する身近な言葉ではあった。関山和夫著『説教の歴史』(岩波書店)では説教の類似語として、説経・説戒・唱導・法談・讃歓・勧化・談義・講釈・講談・演説・講演・講莚・開尊・化尊・法座・御座・教導・法話・布教・伝道を挙げている。説教、特に浄土真宗の節談説教は江戸期から明治にかけて、社寺の縁日、法要、開帳、祭礼、盂蘭盆で庶民の楽しみであり娯楽でもあった。 
 
 完成した説教形式は、1)賛題2)法説3)譬諭4)因縁5)結勧の五段階からなるが、1)の賛題は「浄土三部経」や「正信偈」が通常であったから、2)以降の論理展開は演説の基本である「起・承・転・結」に対応している。演舌のコツは「はじめシンミリ、なかオカシク、おわりトウトク」であり「一声・二節・三男」とも言われた。説教であれ演舌(演説)であれ、「話し上手」と「聞き上手」があって高座(会場)が盛り上がるのであり、演芸(寄席、小屋など)にも共通する。一方、節談(フシダン)説教から派生したと思われる話芸として、平曲、説教浄瑠璃(説教節)、浄瑠璃、祭文、ちょんがれ、阿呆陀羅経、落語、講談、浪花節、浮かれ節など多数あり、特に三遊亭円朝の落語は言文一致の文体として二葉亭四迷、山田美妙、夏目漱石にも影響を与えたが、寄席好きの子規も『筆まか勢・第一編「落語連相撲」』で蘊蓄を語り、円朝については最大級の称賛をしている。                                                 
 五、慶応義塾の「演説」                    

 三田演説会は明治七年六月二十七日発会から長期の休会をはさみながらも、福沢諭吉在世中は月一回を目処に開催された。福沢の最後の演説は明治三十九年第三百八十五回の「法律ニ就テ」であるが、生前実施された三百九十九回の演説会中、福沢の演説は二百三十六回の多きを数え、如何に福沢が演説の普及に力を入れたかの証左でもある。                   
 三田演説会の外に明治十三年から議事演習会(会議講習会)という演説討論に関する試みがなされている。模擬議会の試みとも云えよう。一方塾生を中心に演説活動が活発化して、協議社・猶与社・精干社が結成された。自由民権運動の広がりと明治十三年四月五日公布の集会条例により、塾内における学術演説会としての「三田演説会」と塾外における演説会として「三田政談社(演説会)」等に分解していく。明治十三年当時三田政談社等で活躍した弁士に、愛媛県士族として渡辺脩、門田正経、吉良亨、山崎程者、矢野可宗、梅木忠朴等がおり、門田、矢野、梅木は英学校、松山中学校時代の草間時福の教え子である。後年梅木は母校松山中学校で漱石と共に英語の教鞭をとっている。                
 明治十九年十二月十五日に三田の演説館で開催する演説会の掲示文によれば、正月帰省する学生や年初に挨拶〔演説〕する諸氏数百名を対象に福沢は三時間に及ぶ演説をして最新知識や情報を与えた。又慶応幼稚舎(小学校)の学童を対象に演説会を開催し、年少者への演説の普及を図っていった。演説は文字を通して解釈するものではなく、演者(弁士)を通して理解するものであるが、理路整然として、平易且つ正確な表現が求められる。福沢の演説は今日でも一読して理解出来るので、明治の当代に福沢から直接に演説を聴いた聴衆は一層容易に内容を咀嚼出来たものと思われる。                                           

 六、松山中学校と「演説」                     

 1)明治十一年当時の松山事情               
 明治十年代の松山は岩村高俊県権令の下で、如何に迅速かつ強力に新体制移行が進められたかを新聞記事からみておきたい。併せて香川県の民権活動の状況を新聞記事で対比しておく子規の活躍する舞台は着々と整備されてきていることが分かる。                             

 松山の近況、中学生が民権論              
 その景況を察するに他邑に超越するものあるに似たり、該地至って平穏にして人民その業に安んず、権令は民権家にして人望あり。一番町へ新築の県庁はもはや着手になれり。巡査は多分士族にて若年の人はまず少なき方、泥棒は極めて稀れなり。或いは文学或いは民権、その中にても盛大なるは天民社、寧静社、興社等なり、公共社 は近々より雑誌を刊行す。中学校は師範学校と接近す、生徒は二百名に過ぐ、質朴を旨とし活溌の風あり、校中に演説会を開き教師生徒を論ぜず各々その異見を述べ、互いに智識を交換す、余一日演説を傍聴せしに、生徒中民権説を唱うる者すこぶる多し。市中は不景気というほどにはあらず、牛肉店は日々殖える。   〔明治十一年五月十四日付朝野新聞〕            

 演説の何者たるかを知る者なし             
 去る九年比、鹿児島士族木村時中が讃岐高松に遊歴し、説会を設立して民権を拡張することを説き勧めしに、当時演説の何者たるかを知る者なく、其の事更に行はれざりしが、本年に至りては一社を設立し、頻りに演説会を開くとの事。 〔明治十一年十月九日付朝野新聞〕       

 帝大国文科で子規の一級下の藤井乙男(紫影)著『諺の研究』で「伊予に吹く風は讃岐にも吹く」を紹介しているが、自由民権の嵐と演説の風は一気に瀬戸内にも広まって行くことになった。                             

 2)演説の導入                      

 松山中学校に「演説」を導入したのは愛媛英学舎総長・松山中学校初代校長で福沢諭吉の門下生である草間時福であるが、草間にとっても松山中学校にとっても幸いだったのは、草間が明治十二年に松山中学学校長を辞任してから四十数年振りに門下生の招きで松山を訪れ、朝野を挙げての歓待となるが、永江為政の編集した『四十年前之恩師草間先生』に詳細かつ感動的な光景が記録されていることである。この本を中心に子規並びに彼の友人達の文献から英学所・松山中学校の教育内容と明教館「演説」について触れる。        

 明治三年十月松山藩校であった明教館に「皇・漢・洋学・数学・医科」の五科が設けられ、鳴雪・内藤素行が運営を担当した。『鳴雪自叙伝』では、「我々は東京で文明の新空気を吸って居ると云ふ誇りから誰に向かっても、例の文明談の気焔を吐き散らした。と云って実際どれ丈の事を知って居るかと云ふに、先づ福沢諭吉翁の西洋事情三冊を読んだ位で」と遠慮勝ちに書いているが、洋学は慶応義塾出身の稲垣 蔵、稲葉犀五郎、中村田吉で揃えた。                   
 県下でも大洲英学校が明治五年十月に慶応義塾出身の下井勝八が中心となり設立され、明治六年一月には神山県(宇和島)の英学舎・不棄学校が福沢諭吉の指導を得て設立され、後年日本経済の指導者となった諭吉の甥である中上川彦次郎と四屋純三郎が着任し、合わせて大洲英学校へも出張教授した。急激な学制改革の嵐が吹き荒れ旧宇和島藩、旧大洲藩の教育の母胎となるまでには成長できなかったが、前途有為な青年達に大きな夢を与えることになった。               
 草間時福の松山時代は、英学舎・英学所、北予変則中学校、松山中学校の時代に相当する。明治八年八月から明治十二年七月迄の四年余である。草間は英学所ではスマイルの『自助論』などを洋書でもって論じるかたわら、月二、三回の演説、討論会を開き、草間も生徒も交りあって議論の機会を持った。この文明開化を思わせる自由な学風が優れた生徒を集め多くの人材を輩出したが、中でも岡崎高厚・門田正経・永江為政・森肇・矢野可宗ら言論人を志す者が多かった。            

 3)演説会のスタイル                   

 永江為政編著『四十年前之恩師草間先生』の記載されている松山中学校明教館での演説の光景は次の様なものである。学生一同は英書を学ぶ以外に、月に二回又は三回、明教館の講堂の中央を議場の如く大円形に造り「テーブル」を置き直して正面に演壇を据へ、定期の演説会、若しくは討論会が開かれる。其時は必らず県庁から岩村権令が臨席される。内藤鳴雪翁などは無論の事・・・県官中の政論家も、毎回出席せられて、討論の問題に就いては草間先生から説明せらる。スルト、先生も生徒も皆一緒に成。川中島の如く対陣して各其の席に着く、例へば「国は農を以て立つ乎、商を以て立つ乎」といふ様な問題が出ると、農業立国論者は右へ、商業立国論者は左へといふ塩梅に、相向って席を定め、交々立て演説をする。                           

 数年を経た子規の松山中学校時代には、草間の自由な雰囲気が一掃され、言論統制の危機が迫ってきている。柳原極堂は昭和三年九月『日本及日本人・正岡子規号』で記している。松山中学では毎月一回生徒の弁論大会が講堂で開かれ、其席には必ず職員が監督に出て来ることであった。時しも自由民権国会開設要望の声が四方に揚り、反政府熱が 愈々激しくなったため、政府は極端に神経をとがらせて其弾圧に努めてゐた頃だから、学生が弁論練習のための斯種の会へも官憲は相当注意をもってゐたものらしい。子規らが編纂した桜亭雑誌第一号(明治十二年)に「農商優劣論」が記載されている。筆者は賢聖人で、子規とは断言できないが、保守的な伊予の国では農業立国論者が多かったとも思える論旨である。                                                      

 七、子規と「演説」                        

 1)同時代人(友人)の証言                

 子規の松山中学校退学直前の演説活動への傾斜ぶりは、明治十六年四月三十日付の三並良宛の書簡に明確に表明されている。
                                
 同親会及河東の煎者(豆)会も共に閉会仕候 小生は近頃演説好に相成第一北予青年演説場に居り(中学校講堂を借受け毎日曜日の夜開会す)第二中学校談心会に り(毎土曜日昼間中学校講堂に於てなす)第三明朗会も入れり(是は貴君も御入社被成候ひし興禅寺の寺なり) 実に愉快に奉存候小生も実は今年中には出京致し度心底に候へ共未だ判然たらず(中学校初等科は今年七月に終る 附て曰ふ中学校は益す不景気なり)              
 子規の演説文については割愛するが、同時代人〔友人〕の記述から松山中学校時代の子規の演説している姿を再現する。
 
 勝田主計(松中・明治十六年輩出組)は『ところてん(駄句と正岡子規の逸事)』で子規の思い出を記す。               
 正岡子規は、矢張り自分と同郷の者であって、青年の時分から至って文学思想に富んで居った。自分等が少年時代には、郷里に演説会などが流行をしたものである。  我が旧松山藩の講堂に朋(明)教館といふのがあった。それが中学校の中に講堂として残って居ったのであるが、其処で談心会といふ会が組織されて居って、青年が寄っ て色々弁論の稽古をしたものであった。其の当時既に子規が文才に富んだ人たることを認められて居った。子規の演説は極く下手ではあったが、其の演説の趣向組立と いふものがまるで短編小説を読むような風で、余程斬新で面白く文学的に出来て居った。                  

 五友の一人である三並良は昭和三年の『日本及び日本人』で子規を追憶する。                           
 第一期の校長が慶応義塾出で、当時の民権家であった草間時福だったが、もう此の頃は居なかった。併しその遺風はまだあった・・・我々少年も亦大人に真似たのか、  中学の課業を休んでは、県会の傍聴に行ったり、演説会にも出かけた。けれども我々仲間でも組合をつくって、会員丈の演説会をお寺の本堂を借りてやったりした。        

 又松中・明治十五年輩出組の柳原正之(極堂)、岩崎一高(風雨)、明治十六年輩出組の西原武雄(五洲)らの昭和六年大阪毎日新聞での座談は話題が多彩であり、一方記憶違いも多く却って真実味を伝えている。子規顕彰にその生涯を掛けた極堂は子規の演説をべた褒めしているが、他の友人の評価は決して高くはない。演説そのものは好きであり演説文は文学的であったが、演説そのものは迫力にかけていたのではあるまいか。

 子規自身は『筆まか勢・第一編 ○流行歌』で正確に自己判断している。決して朗々と弁舌するタイプではなかった。余は生来肺がよろしからずと見え美声大声の出たる例なし。二十分も演説すればすぐ声がかれるという有様故 従って歌曲の如きは覚えたることなし。            

 2)子規の福沢諭吉像                   

 ところで、演説好きの子規ではあるが、子規が松山時代に福沢諭吉著『西洋事情』(慶応二年刊)、『学問のすすめ』(明治五〜七年)、『文明論之概略』(明治八年)などの当時のベストセラーを読書した記録はない。漢学を中心にした旧体制の教養が中心であったので、恐らく目を通す機会がなかったのだろう。                     福沢諭吉の名前の初出は、『筆まか勢・第一編 ○松山会 (明治二十二年十二月)』で、東京と松山の対比を子規独特の分析で記している。特に興味のある事項を抜粋するが、その中に福沢諭吉の名がある。                                                
    〔東  京〕        〔松  山〕          
    帝国大学       松山師範学校          
    第一高等中学校   尋常中学校          
    芳原          道後松ケ枝         
    神田川         中ノ川          
    東京ホテル      木戸屋        
    大丸          米周          
    歌舞伎座       新栄座 
    中村正直       河東 先生(東渓)           
    三島中州       近藤南洋(元修)      
    福沢諭吉       大野?吉(?=イ+同)
  この時期の東京を代表する私塾として著名な三塾を挙げ、その代表者に松山の人物を当てはめたものである。即ち慶応義塾(福沢諭吉)、同人社(中村正直)、二松学舎(三島中州)であり、中村正直、三島中州は後の東京帝国大学の教授となった。一方、松山人の河東坤(東渓)、近藤南洋(元修)は明教館の教授であるが、大野 ?吉は旧松山藩藩主久松家が旧家臣の救済を目的に創設した栄松社の頭取である。啓蒙家である福沢諭吉に対応する松山人が居ないことにもよるが、「三田の拝金教」と世俗的に云われたことが影響しているかもしれない。大野 吉は強いて挙げれば渋沢栄一と対比すべき人材と思われる。 (愛媛県史・人物』) 弘化元(一八四四)年に広島・真木伊三郎の三男に生まれ、松山の大野高徳の養子となる。銀札場用掛から出発し金融業で自営、明治八年旧藩主久松家が出資した栄松社の頭取となる。明治三十二年大野銀行を創業、大正五年没す。             

 3)常盤会寄宿舎でのバーチャル演説会           

 子規は日本の伝統的な演説(演舌)のイメージを『明治二十三年・筆任勢 第二編 ○演説、○演説会第二』に書き残して居る。内藤素行(鳴雪)は明治三十五年の『俳誌ホトトギス・子規追悼号』で、この演説会のことを追憶している。        
 ○此頃舎中に茶話会といふがあって、舎生思ひ思ひの演説をして居たが、居士のがいつも興味ある文学問題学問で、且弁舌も一番勝れて居た。余の舎生の多く理学問題や政治法律などであったが、其時になると居士はいつも欠びをして居た。                           
 ○或る時居士は一枚の番付を作り、舎中人々の演説題だと称して各姓名の上に居士自選の題目を記入したものが出来たが、其実は人々の月旦評なので、それを明言せず各自の演説題とした処は人の怒りを招かぬ用心、一種の狡猾手段である。中央行司の坐は内藤南塘先生で其上に「雅中の俗々中の雅」とあった。此月旦は実によく当たって居る。僕は終身半雅半俗の間を彷徨して居るので、後年にも度々此事を言い出して居士と笑った。而して番附の勧進元は居士自身で、題目は「ボール」とばかり記して居た。平生の抱負は隠してヒョウゲて居る処中々横着者であった。尤も其頃ベースボールなども随分好きで勉強して居たのは事実だ。                                  
 例えば勝田主計には「包丁解牛論」、五百木良三には「幇間の話」、竹村鍛には「焼き芋の鑑定」、河東銓には「鐘鼓スタイルの説明」、高市直養には「顔色赤変術」なる演題をみると、常盤会に集う若者の容貌や仕種、生活態度も想像できる様である。恐らく当時この一覧表を眺めてやんややんやの喝采を浴びたに違いない。これこそが演説場の雰囲気であり、話し手と聞き手の真の交流ではなかったかと思う。         
 演説一覧表は省略するが、和田茂樹著『子規の素顔』中に「常盤会寄宿舎生の特技」のリストがあるので参照されたい。                                            

 八、おわりに                         

 今回は子規の演説文には一切触れず、演説の来歴を中心に「演説」した。正直なところ、演説文から子規の演説をイメージすることは極めて困難である。如何に文学的に優れていても、臨場感を演説文から読み取ることは至難である。同時に演者としても、聴衆の反応で自らの主張の伝達度を把握し、反応に対応することにより演説は完成する。如何に見事なシェイクスピアの作品であっても、舞台俳優によって演じられて始めて魂が入るのと同様であり、役者(演者)により台本は生かされもし殺されもしよう。      全くの仮説であるが、子規は陸羯南の庇護に依って「日本」      および「小日本」という新聞に自らの思想、創作活動の発表の舞台を与えられた。対象は知識階級や政治に関心ある知的集団であり、しかも定期読者と云う子規の理解者でもあった 病床にあって演説する機会は失われたが、「日本」及び「小日本」と云うバーチャルな演説場で、読者の反応を聴衆の反応に見立てて連日「演説」を続けたのではあるまいか。         
 明治二十八年子規は『散策集』の中で「古往今来当地出身の第一の豪傑」と称えた時衆・一遍上人の覚悟とは「日々(念念)臨終」であり、宿痾に臥す子規にとって課業としての執筆は、己の日々の覚悟、遺書であり、己への日々の弔辞即ちラストスピーチとして捉えることができるのではないか。            
 人生は長さでなく深さであることを子規の「演説」から学び取り、子規が明治の新時代の文化や翻訳語を如何にして自家薬籠中のものにし、生の証にしたかを今後検証したい。 以上 
        
(注)参考文献はHPの性格上割愛します。