第四章 熟田津古道 @〜E
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  「熟田津古道」という名称は郷土史には無い。当然のことながら史学会で認知されてもいない。私自身の故郷への思い入れから名付けた名称であることを予めお断りしておきたい。

 古代瀬戸内海では、というか大和朝廷のハイウエイは海上交通であり、山陽・山陰・南海道という公式の陸上交通路はあっても、ヒト・モノの大量輸送には安全面からも調達面からも不向きであった。  書紀「斉明紀」によれば難波津から大伯海(岡山県邑久郡錦浦湾)まで約一〇〇粁を二日間で航行している。「一刻三里」(二時間一二粁)と云うから一日五〇粁が古代の移動空間であった。現代人は一刻二里(二時間八粁)が無難な徒歩距離であろう。 伊予の国衙は今治(桜井)であり国司高橋家出身の藤原純友の反乱が古代を終焉に導いたが、西国では海上交通を抑えたものが覇者であり、地中海世界でも東アジア海でも歴史上同様のことが云える。 

 熟田津の所在は百人百説で特定できないが〔津〕であり、大量の軍兵を集結し糧米を確保できる〔田=平野〕であり、気候・人心が安定している〔熟〕ことが必要条件であった。その熟田津から伊予石湯への道、更に内陸部への道が熟田津古道であり、天皇が女官が軍兵が、馬で駕籠で足で移動した。幾つかの(決して多くはないが)土地の記憶、記紀に残された記号からその道を再現していきたい。
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 熟田津古道の起点をどこにするか、残念ながら熟田津は書紀・万葉集に記載された歴史的な「場」ではあるが特定できない。が、その「場」から出立するしかあるまい。 土地が動くと云うと地震を連想するかもしれないが、瀬戸内の海岸は塩田開発で明白な様に遠浅であり、海砂の移動で古代の海人は適港を求めて移動していく。郷土史に「一津三名説」の議論がある。古文書には伊予の港名を熟田津・飽田津・就田津と三様に書いてあり、現代では一津三名は「定説」である。

漱石の「坊っちゃん」が上陸したのは「三津」であり、三津=熟田津説(鹿持雅澄「万葉古義」、飯田武郷「日本書紀通釈」)がないでもないが水居津(みいつ)の地名が現れるのは鎌倉末期であり、本論では採用しない。一方「三津・三名説」を取る「二名洲大鑑」もあり興味あるテーマであるが、どの説であれ古代から現代まで港(熟田津)が不動であったとは考え難い。                  

「初めに熟田津ありき」だが、松山市の北西海岸は斎(いつき)灘に面し、東西三粁余の堀江、和気(村)が開けた。東南には御幸寺丘陵が迫り南の突端が御幸(寺)山であり山裾を東に歩むと道後(伊佐爾波之岡)に繋がる。一方西南には太山寺丘陵(太山寺は五二番札所で讃岐金比羅と並ぶ太古からの海の護り神である)が広がっている。  
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 松山周辺の高所(奥道後山、道後山、城山、大峰ケ台、御幸山)から西方を眺望し、改めて東方の道後への古道を求めると御幸寺丘陵に突き当たる。 その周辺に還熊八幡宮と姫塚が現存する。
姫塚と清池を隔てて村社軽之神社があり祭神は軽太子と軽大娘皇女である。付近一帯の地名は姫原である。軽太子と軽大娘皇女の同母兄妹相姦が発覚し、皇女は伊予(湯)に流され、太子は穴穂皇子との戦闘で敗れ自害又は伊予(湯)に流されたと記紀に詳説されている。我が国の流刑の最初の記録は太子と大娘であり史上初の流刑地は伊予(湯)であった。  古代でも兄妹相姦は許されざる禁忌であり極刑が当然ではあろうが宮廷内の勢力バランスから罪一等減ぜられたのであろう。熟田津に上陸し大娘は伊予(湯)へ向かったのであろうが、御幸丘陵を越えて道後(湯)に入ることは許されず、この地で生涯を終えた。一説には太子の後を追って自死したとも云われ、又一説には太子も伊予(湯)に落ち延びた後に共に自死したとも云われる。いずれにしても恋愛至上主義の結末は悲劇的であった。       

 思うに熟田津から御幸丘陵までは田園地帯であり船であれ徒歩であれ二時間もあれば移動が可能であった。遍路道ではないが51番石手寺から52番太山寺迄の中間点に姫原があり、御幸丘陵を越え道後迄の間に御二方の史話伝説が多く残っている。
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 姫塚(姫原)の東には御幸寺丘陵が迫っている。麓近くの小高い森の中に還熊(かえりぐま)八幡社がある。貞観年間(八五九〜八七七)創設と云う。熊は隅・隈であり和気(古代は風早)郡東南部の隅であり国府から都への往還路(熟田津古道)であった。

一方、西南部の高台が久万(隈)の台である。八幡社の北の谷はサイジョウ谷(西条谷?)その上にスズ谷(篠谷?)があり十六世紀には本殿があったと推測される。秀吉の四国征服で道後湯築城主河野家が破れ家臣は離散したが、関ヶ原合戦時河野の家臣団が結集して加藤嘉明の松前城(この城から現在の松山城に移る)を攻め、刈屋畑・久米八幡・還熊八幡(本陣)で戦闘が開始した。後日関ヶ原での東軍完勝の急報に接し、旧臣達は霧消霧散したとの伝承が残っている。スズ谷から一〇分程登ると頂上に出、ここから現在は蜜柑畑になっている山道を下ると道後の町が開ける。この一帯が今日「山越」と呼ばれている。 

 思うに、この山越の「熟田津古道」を大和朝や奈良平安の貴族たちも鎌倉南北朝の武士や平民も歩いたのであろう。頂上から伊佐爾波岡を眺め熟田津の温湯で疲れをとりたい一心で山道を駆け下ったのではあるまいか。下山途中の高台と谷間には湯の煙が立ち上っており湯湧谷(現在の祝谷)と呼ばれた。湯湧谷から見る松山平野の展望は今日でも素晴らしい。
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 祝谷(湯湧谷)地区の小字(地名)には古代の姿が生きている。〜ほのぎ(保乃木)〜

  六丁場(谷):   サイジョウ谷から六丁か。
  札の辻:   古代(古道)の交通の要地か。
  オタチモト:   御立(発)ちの元か。ここを境に温泉郡と和気(風早)郡が別れる。
  田高:   和気郡高尾郷が田高に転化したか。
  馬立:   古代の官道の駅舎跡で馬の支度の場所か。

 今日の田高の中核は松山藩初代藩主松平家の墓所(常信寺)と松山藩の鎮守社である松山神社である。松山藩を統治するに当たって、歴史的に由緒ある場所を藩主は選んだのではあるまいか。祝谷山常信寺は比叡山延暦寺系である。住職の苗字は薄墨で優雅そのものだが、当地の薄墨桜(伊台に孫?木現存)の伝承と関連があるだろうが詳しくは分からない。  

 田高から約二十分で瀬戸風峠に出、伊台(湯台)に結ぶ。尾根伝いに東に出ると石手寺や湯の山に下れるが古道ではない。古道は田高から道後湯之町に走っており、伊佐爾波岡を巡って石手寺に抜けていた。伊佐爾波岡と湯神社(冠山)、湯築城址(道後山)は古代には繋がっていたし、古来道後十六谷として法雲寺谷・柿木谷・本谷・善盛寺谷・柳谷・桜谷・奥谷・鷺谷・円満寺谷など記載されており今日では到底も想像できない。「天皇の宿ふなや」は古代では丁度谷間に当たっていた筈である。
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 熟田津からの古道の目指す先は土佐であろう。古代紀伊水道の渦を乗り越えるのは大冒険であろうし大宮人には無理であったろう。今日土讃線が走っている阿波越えもあろうが、小笠原家(阿波国三好郷地頭で後三好姓を名乗る。例三好長慶)家書からも吉野川沿いの城主であっても土佐に下ることはなかった。

 熟田津(道後)−石手寺−久米郷・・・久万・・・土佐へ繋がるが、その道筋に石手寺、繁多寺、浄土寺、西林寺、八坂寺、浄瑠璃寺、岩屋寺、大宝寺と四国霊場四四番から五一番迄が並んでいるのは全くの偶然だろうか。正に古道の軌跡であるまいか。

 石手寺から石手川に沿って北上すると三好長門守秀吉の居城菊ケ森城跡(食場)があり、「類聚国史」天長五年(八二八)に天台別院伊予弥勒寺の記載がある。食場には大門・弥勒堂・薬師堂の地名があるが未発掘なので細部は不明。 食場は湯の山の中央部であり「四国の大将」坪内寿夫氏の開発した奥道後温泉がある。江戸時代に湯の山七湯と云われその一つが湧ケ淵の奥道後である。 湯の山、久米郷共に古代は井上郷に属しており、古墳発掘により熟田津(道後)文化以前に既に花が開いた文化があったことが徐々に解明されてきた。大和朝廷の天皇の継承に決定的な役割を果たした久米一族を記憶に留めておきたい。