第十九章一遍と神々の出会い(3) 尼僧ということ(上)
1 はじめに  「トポス」としての道後・奥谷
 時宗の開祖一遍の生誕地とされる伊予国道後奥谷(現愛媛県松山市道後湯月町)の寶厳寺は、過去には「時宗十二派」の一つとして「奥谷派」とも「伊予派」とも呼ばれた。派名は地名に由来するが道後奥谷を訪ねると「トポス(時と場の記憶)としての道後」が浮かび上がってくる。明治期の「道後八景」「道後八勝」には奥谷黄鳥(奥谷鶯)が挙げられ、更に「道後十六谷」が残っている。
寶厳寺を中心にすると東は奥谷、南は法雲寺谷、柿之木谷、北から西にかけては湯月谷、桜谷、鷺谷、円満寺谷(現在は浄土宗であるが当時は寶厳寺の末寺か)、鴉谷が二重三重と寺域を囲んでいる。谷は今日で云う渓谷ではなく「険しい崖」と捉えるべきである。鎌倉期の寶厳寺は西方が僅かに空いている谷間が寺域であったと考えられる。
本堂に向かって参道(上人坂)の右側(南)が法師谷、左側(北)が尼谷とも呼ばれる。山名としては湯月山(伊佐爾波丘)、冠山(出雲崗)、御仮屋山(八幡山)、鳥越山が残っている。
 時代は下って天正十三年(1584)河野家を征服した安芸の小早川隆景が水田十五町歩を寶厳寺に寄進した時の記録に開山堂・奥之院・本堂・毘沙門堂・地蔵堂・鎮守社・庫裡・楼門・総門と合わせ 門前末坊十二院として僧庵(法雲・善成・興安・医王・光明・東昭)尼庵(教善・林鐘・正伝・林迎・浄福・弘願)を列挙している。単なる数合わせではなく、河野家所縁の多くの尼僧が寺域内に居住し生活していたと考えるべきであろう。資料は寺にも残っていない。
 中世・近世の『遊行日鑑』によれば歴代遊行上人は度々奥谷に立ち寄り近在の伊佐爾波(湯月八幡)、出雲崗、湯神社、七郎社(一遍実父河野七郎)、岩崎神社(河野氏居城跡)に参詣している。尚伊佐爾波、出雲崗、湯の三社は延喜式内社である。
2 時衆の寺院
 一遍時衆は休むことなく遊行したが、生国伊予でも同様であったか。 一遍は「遊行」を通して賦算(布教)をしたが、文永11年 (1274)から弘安11年(1288)の14年間に4回伊予に戻っている。
 伊予に於ける一遍「時衆」は道後・宝厳寺と内子・願成寺に「定着」し、従弟に当たる河野通有の物心両面の布施・支援を受けた。両寺を「時衆」寺院と位置づけ検証すると、三世が共に尼僧であり、願成寺は「通有の後家」、宝厳寺は「仙阿の娘」と推定される。宝厳寺の門前末坊12院中尼庵が6庵あることからみても尼僧集団の存在を無視できない。両寺の縁起を確認しておきたい。
(1)豊国山遍照院宝厳寺(道後)
 宝厳寺の開祖は河野家の遠祖である河野守興で、天智天皇4年(665)法相宗修道場として開かれ、天長7年(830)には天台宗遍照院となり、建治元年(1275)に一遍により時衆寺となった。寺伝によれば正応5年(1292)伊豆房仙阿が奥谷派開祖として二祖となり、延元5年(1344)三祖珍一房の死去により奥谷派は解消した。
 爾後は遊行派の三大聖地の一つとして今日に至るが、一遍の直系を任じる奥谷派を解消出来るだけの決断を可能にしたのは血脈の尼僧であったからであろう。仙阿の娘か或いは奥谷に残した一遍の娘(『聖絵』二−2)であったかもしれない。『播州法語集31』にて一遍が賞賛する伊予国(宝厳寺)に住む「仏阿弥陀仏」なる尼僧と同一人とすれば更に興味深い。
(2)宮床山願成寺(内子) 
 願成寺の開祖は河野家の遠祖に当る越智益躬であり大化5年(649)に没している。寺伝では文永8年(1272)窪寺での参篭を前に一遍が立ち寄っており、一遍を一世とし二祖には弘安末年(1280年代後半)温泉郡に出立まで住寺した聖戒を当て、三祖は河野通有の後家である万松院殿貞弘(貞忍)法尼である。通有と貞忍の長子通茂の実子通治を養子として、通有の後家として強力な権限を保持した。願成寺は通治により建立されている。
 一遍没後三十年経過後、伊予国北・南の時衆二寺院の住持がともに尼僧であり、一遍と極めて近い間柄にあることは、全くの偶然の一致か、それとも河野家の特殊事情かを検証しておきたい。
3 一遍をめぐる血縁
(1)「河野家系図」におけるけ血縁
 現存の「河野家系図」と血脈による相関図とは大きな相違がある。浅山円祥「一遍と時衆」に拠り一覧しておきたい。
 「河野家系図」では【通信ー通久ー通継ー通有ー通茂ー通治】が正当な系譜であり、一遍の父通広(如佛)の母違いの弟が通久であるから「系図」を眺める限り一遍と通有は遠縁と考えられがちであるが、両者は従兄弟という親しい間柄にある。
 通信は「承久の乱」では後鳥羽上皇側に付き北条氏に敵対し奥州江刺に流刑となり、(長男)通俊は得能家の祖、次男・通政は院方に付き信州広羽斬首、三男・通広は仏門、四男・通末は院方に付き信州小田切に流刑、五男・通久、六男・通継は北条方に加担し河野家の惣領となる。武士(男)の「社会」の栄枯盛衰、離合集散は断片的に史料に残っているが、後家や離別した女性の消息は一切不明である。有力な後家を中心に集団的に尼僧として河野家縁故の寺院に居住することは当然あり得よう。
 通説とは異なるが、仏門にある三男・通広は一族の長の一人として妻子を含む尼集団とともに奥谷・宝厳寺に身を隠しその地で一遍が生誕し、妻の死もあり一遍を遠く九州に居る浄土宗西山派の兄弟子である聖達上人に預けたのではないか。通説では通広は再婚し聖戒(伊予坊)仙阿(伊豆坊)の二児を設けているが、一遍と聖戒の年齢差が23歳もあり強引な結論であろう。むしろ妾と思える超一の親族か、一遍の実子であろう。
(2)『一遍聖絵』における血縁
 『聖絵』の作成者は聖戒であり、二祖他阿上人に対して聖戒自身が一遍の正当な後継者であることを主張している絵巻でもある。今回は「聖絵」に描かれた血縁者を取り上げてその実像に迫ってみたい。
 【 第2巻・第2段】には一遍・超一・超二・念仏房・聖戒を見送る一遍の妻、娘、少年と二人の媼が描かれている。聖戒自身が披露したかった一遍に近しい血脈全員の披露と捉えるとが出来る。聖戒を除き伊予を訣別する一行四人は前方を見据えている。荷物を背負うのは聖戒のみであり、念仏房は従者ではなく超一とかかわりのある縁者であろう。質素な家屋は妻の実家であろう。家の中で見送る二人の媼は妻のゆかりの者(たとえば母親)であり、少年は一遍の息子仙阿であろう。35歳の一遍と23歳差ある14歳の聖戒は父子であり母親は超一であろう。「聖絵」に云う「超一超二念仏房此三人発因縁雖有奇特恐繁略之」の背景はこのようなものではなかったろうか。
 聖戒はこれらの血縁者を再度『聖絵』に登場させている。【 第4巻・第5段】の有名な小田切の里での念仏踊りには念仏房と超一を輪の中心に描き、【 第4巻・第5段】の神戸の観音堂で最後の説教をする一遍と首を伸ばし真剣な眼差しで一遍を凝視して一言も聞き漏らさまいとする聖戒、臨終の場に合って一遍の足元で数珠を持ち涙する超二と念仏房と思しき老女、「聖絵」最終の画では生けるが如き一遍立像を前に臨終に間に合わずよよと泣き崩れる仙阿と一遍の正統としての決意を固くする聖戒自身を描いている。事実は確かめようがないが、「斯く在りたい」「斯く在らねばならない」とする聖戒の強い願望と意思に依り『聖絵』の中で一遍の血脈は歴史的事実として蘇っている。
 一遍並びに時宗に関する代表的な研究者である金井清光氏や梅谷繁樹氏や一遍会会員の佐藤辰男氏も「推定」するように熊野で「今おもふやうありて同行等をはなちすて」た尼僧である超一・超二・念仏房も伊予に戻ったとすると、聖戒や仙阿、或いは河野家ゆかりの者が尼寺(尼庵)を用意したに違いあるまい。
捨聖一遍が生涯捨て切れなかったものは父祖の地である伊予国と肉親であり、遊行の目的でもあった祖父通信、伯父通政、叔父通末の終焉の地である奥州江刺、信州広羽・小田切を訪ね弔いの供養をしたのが何よりの証拠であり、明白な事実である。一遍を決して仏の再来でも豪傑でもなく悩み多き仏教者と捉えると『一遍聖絵』が今日的な生命を保持している意味が分かってこよう。
4 付記
 主に伊予国史料と『一遍聖絵』を元に一遍の血縁の尼僧について紹介したが、時衆或いは伊予国・河野家の特殊な事情でなく、鎌倉期には全国的な風潮であり歴史的な流れでもあったのではないか。更に視野を広げて中世の尼僧と尼寺(尼庵)について次号で解説したい。
尚この機会にぜひ図書館などで『日本の絵巻20 一遍上人絵伝』(中央公論社)『捨ててこそ生きる 一遍遊行上人』(日本放送出版協会)の絵巻をご覧いただきたいものです。(続く)