第三十章 浄土時宗開祖・一向俊聖 


浄土時宗開祖 一向俊聖 〜一遍の一歩先を歩いた遊行聖〜


1 はじめに

(1)一向俊聖(1239〜1287)という鎌倉時代に時宗開祖・一遍智真(1239〜1239)と同時期に南無阿弥陀仏を布教した遊行僧については殆どの人は知らない。手元の「広辞苑」(岩波書店)や「日本名僧辞典」(東京堂)にも記載されていない。今日完全に忘れられた存在であるといえよう。 

(2)中学・高校の歴史教科書には中世・室町末期の「下克上の時代」に宗教一揆が起こり一世紀に及ぶ僧侶・農民・小領主による支配が続いた。いわゆる「一向一揆」(1466〜1570)である。通説では「一向一揆」は「一向宗」(浄土真宗)特に真宗中興の祖といわれる浄土真宗本願寺八世の蓮如(1415〜1499)の主導性が高く評価されている。

蓮如が延暦寺を追われて北陸地方に活動の場を求めた時に、布教の対象としたのはこうした一向や一遍の影響を受けて同じ浄土教の土壌を有した僧侶や信者であり、本願寺及び蓮如の北陸における成功の背景にはこうした近似した宗教的価値観を持った「一向衆」の存在が大きかったことを示している

文明五年(1473)蓮如によって書かれた『帖外御文』において「夫一向宗と云、時衆方之名なり、一遍・一向是也。其源とは江州ばんばの道場是則一向宗なり」とし、一向宗が一向の教団でもあることを明記して本願寺の門徒で一向宗の名前を使ったものは破門するとまで書かれている。

@何故に蓮如は一遍と一向の名を挙げ、時衆の「其源とは江州ばんば(番場)の道場是一向宗なり」と断定したのか。

A蓮如をして、真宗と「一向一揆」の結びつきを何故頑なに拒否したのか。

B北陸に強固な地盤を築いた「一向衆(宗)」と開祖「一向俊聖」とは何者なのか。

2 一向俊聖の生涯

一向俊聖の死(1287)後四〇年を経て「嘉暦三歳仲冬(1328)元祖の諱日に当りて是を書し畢ヌ」した『一向上人伝』より記述する。

(1)出生

一向俊聖は筑後の国竹野庄西好田の名門家の第四子として暦仁二年(1239)亥の正月朔日誕生する。幼名は松童丸。俊聖の出生に当たっては、観音大師が御手に貝葉一巻を持ってこられて母の口中に投げ入れられた夢を見て孕まれたとのことである。幼児より崇仏の念が強かった。

父は藤原冠四郎永泰、母は藤原兼家の女である。母の父に当る藤原兼房(1153〜1217)は太政大臣であり、兄は九条兼家(1149〜1207)、弟は天台座主慈円(1155〜1225年)である。

永泰の兄は藤原氏草野太夫永平で筑後の有力十五氏の領主で「発心城」の城主でもあった。草野太夫永平は浄土宗二祖聖光房弁長に帰依し久留米の「善導寺」を建立した大檀越で、今日の浄土宗鎮西派の大本山の一つである博多の善導寺の母胎でもある。

(2)修行

寛文三年(1245)春七歳の時播磨国書写山円教寺に上り、「昼夜学文おこたらす 恵解天然と師授を労せす螢雪灯ひに続き 讃仰つもりて」妙経八軸と天台の六十巻を伝授され、建長五年(1253)十五歳で剃染受戒して「俊聖」と名乗った。

「命は念々にせまり、死は歩々に近づく。衆生みなかくのごとくならば成仏は誠に難かるべし」と悟り、翌年夏、書写山を下って六年間南都(奈良)の諸宗を歴訪する。諸宗の聖道門は難修難入であり今時の愚夫悪婦が易く得入できる法ではないと思い煩い、「この世で浄土に往生できる方法は浄土門によるほかはない」とする道綽禅師の「安楽集」の文言に触れる。伯父永平が帰依した弁長の弟子である然阿良忠上人(記主禅師)の訪ね鎌倉蓮華寺で十四年に亘り随従する。

一向専念の文【一向専念無量菩薩】により名を「一向」と改め専修行者となり「四大自本空 五蘊仮建立 宝号留所々 名之謂一向」という偈文を得て、文永十年(1273)二月諸国遊行に出る。「無常の偈」「浄土和讃」をつくり、門徒を「時衆」と呼称する。尚「時衆」とは善導著「観経疏」中「道俗時衆等 各発無常心」に拠る。

(3)遊行

文永十一年(1274)「文永の役」が勃発する。夏、大隈八幡宮に参詣し四十八夜の不断念仏を執行する。ここで神託「四十八蓮華」を受け踊念仏を始める。牧子を拾い縫い合わせ袈裟とする。一向時衆では踊躍念仏時に牧子を着用することが義務付けられる。

翌建治元年豊前国宇佐八幡宮で踊躍仏修し大菩薩から鰐口表一面を給わり「にしへ行山のいわかどふみならしこけ(虚仮)こそ道のさわりなりけり」と詠み、この地で邂逅した一遍智真は鰐口裏一面を給わり「にしへ行山のいわかどふみならしこけ(苔)こそ道のたよりなりけり」と詠んだと謂う。

同年夏から翌二年にかけて四国の讃岐、阿波、伊予を遊行し、伊予国桑村で俊阿が一向の初弟子となる。尚、四国への渡海時に荒波に翻弄されたが一向の念仏により海は治まったが、船中の消息を踊り念仏にして「四反十二段」の法式を制定した。

翌三年から中国路を遊行する。同年備中の吉備津宮で七日の念仏を執行し、のちに本山番場の二代上人となる礼智阿が弟子となる。備後を経て弘安元年(1278)には安芸の宮嶋、出雲の水尾宮、弘安二年には長門豊浦、弘安三年には美作勝田郡に入る。弘安四年の「弘安の役」には因幡を遊行する。六年には京都に入り古跡霊場を巡礼し、翌年加賀金沢の弥陀安置道場で踊躍念仏を執行する。

(4)定住

弘安7年(1284)四十六歳の夏、近江国坂田郡馬場(番場)米山の草堂(釈迦像安置)にて念仏を執行する。番場の豪族土肥三郎元頼の帰依を受けてこの地に留まることになり堂宇が建立される。この寺が今日の浄土宗本山八葉山蓮華寺の発祥である。

番場の地は「日本書紀」「古事記」に現れる息長(おきさと)氏が住み、神功皇后(息長帯比売命)の背君が仲哀天皇、その子が応神天皇の系譜となり聖徳太子建立の「法隆寺」とは別の「法隆寺」がこの地に存在していた。木曾街道(近世の中仙道)の宿場で北国街道にも近く、古来より交通の要所であった。

(5)立ち往生

弘安十年十一月十二日に発病し、十八日死を予言し礼智阿を後継に指名し、亥の刻(二十二時)にしっかりした姿で立ち上がり念仏を数百遍唱え、笑みをふくみながら往生したという。鎌倉後期に描かれた「一向上人臨終絵」は畳一枚ほどの掛幅で下段に往生図、中段が野辺送り、上段が門弟たちの合掌・念仏の図である。

尚、幕府により一遍時宗に吸収された一向時宗の苦難の歴史と現在の浄土宗(時宗)本山 七葉山蓮華寺」については改めて詳述したい。

3 一向と一遍

前項「2 一向俊聖の生涯」を一読されて「一遍聖絵」に描かれた一遍智真の生涯との類似に驚かれたと思う。暦仁二年(1239)は一向・一遍の誕生年であるが、河野家の大悲劇となった承久の乱の後鳥羽上皇が崩御された年でもある。一遍は還俗、再出家の経緯を踏んだので遊行開始が一向に比し数年遅れており、踊念仏は一向時衆が数年早い。又、九州、中国、北陸の遊行、布教については一向の跡を辿っていることに再び驚かれたことだろう。

十三世紀末頃流布した『天狗草紙』(三井寺巻第三段)を抜粋して、一向時宗、一遍時宗の差異と近似性を指摘しておきたい。  

「或は一向宗といひて、弥陀如来の外の余仏に帰依する人をにくみ、神明に参詣するものをそねむ(中略)しかるを一向弥陀一仏に限りて、余行・余宗をきらふ事、愚痴の至極、偏執の深くなるが故に、袈裟をば出家の法衣なりとて、これを着せずして、なまじひにすがたは僧形なり(中略)或は馬衣をきて、衣の裳をつけず、念仏する時は頭をふり肩をゆすりておどる事、野馬のごとし(以下略) 」

即ち『天狗草紙』に描かれた一向時宗の布教形態は次の四点に集約できよう。

@阿弥陀如来だけを信じ

A神社に参拝することもせず

B踊り(踊躍)念仏を修し

C賦算はしない

紙面の都合で一向聖と一遍聖の対比については割愛し別表の『一向聖・一遍聖対比略年表』をご覧いただきたい。ご関心のある方はインターネットHP「一遍会」→「浄土時宗開祖 一向俊聖」を検索頂きたい。



【主要参考文献】

@『一向上人の御伝集成』竹内禅真監修 浄土宗本山蓮華寺社務所発行(1986年)

(一向上人伝(蓮華寺所蔵)絵巻(五巻伝) 宝樹山称名院仏向寺縁起 一向上人縁起絵詞を含む)

A『浄土宗本山 蓮華寺』大橋俊雄著 浄土宗本山蓮華寺発行(1999年)

B『続日本の絵巻26 土蜘蛛草紙 天狗草紙 大江山絵詞 』小林茂美編 中央公論社発行(1993年)

C『中世寺院の風景』細川涼一著 新曜社発行(1997年)

D『湖の国の中世史」高橋昌明著 平凡社発行(1987年)

E『ウイキペディア事典』
1 はじめに(問題の提起)
1)一向俊聖(1239〜1287)という鎌倉時代に時宗開祖・一遍智真(1239〜1239)と同時期に南無阿弥陀仏を布教した遊行僧については殆どの人は知らない。手元の「広辞苑」(岩波書店)や「日本名僧辞典」(東京堂)にも記載されていない。今日完全に忘れられた存在であるといえよう。
2)中学・高校の歴史教科書には中世・室町末期の「下克上の時代」に宗教一揆が起こり一世紀に及ぶ僧侶・農民・小領主による支配が続いた。いわゆる「一向一揆」(1466〜1570)である。通説では「一向一揆」は「一向宗」(浄土真宗)特に真宗中興の祖といわれる蓮如(1415〜1499)の主導性が高く評価されている。
(注)「一向一揆」とは
 越前・加賀」・能登・三河・近畿などの宗教一揆。一向宗(浄土真宗)の僧侶、門徒(農民)と小領主、土豪との連合軍による大名の領国支配の戦いである。
1466年 近江・金森合戦史上初の一向一揆 (守山市金森町)
1474年 越前一向一揆
1480年 越中一向一揆
1488年 加賀一向一揆
1532年 畿内(奈良)一向一揆
1563年 三河一向一揆
1567年 伊勢長島一向一揆
1570年 石山合戦
浄土真宗本願寺8世の蓮如が延暦寺を追われて北陸地方に活動の場を求めた時に、布教の対象としたのはこうした一向や一遍の影響を受けて同じ浄土教の土壌を有した僧侶や信者であり、本願寺及び蓮如の北陸における成功の背景にはこうした近似した宗教的価値観を持った「一向衆」の存在が大きかったことを示している
蓮如はこれを「一向衆」(「一向宗」ではない)と呼んだ。文明5年(1473)蓮如によって書かれた『帖外御文』において「夫一向宗と云、時衆方之名なり、一遍・一向是也。其源とは江州ばんばの道場是則一向宗なり」とし、一向宗が一向の教団でもあることを明記して本願寺の門徒で一向宗の名前を使ったものは破門するまで書かれている
@何故に蓮如は一遍と一向の名を挙げ、時衆の「其源とは江州ばんば(番場)の道場是一向宗なり」と断定したのか。
A蓮如をして、真宗と「一向一揆」の結びつきを何故頑なに拒否したのか。
B北陸に強固な地盤を築いた「一向衆(宗)」と開祖「一向俊聖」とは何者なのか。
(注)一向宗とは
@通説 (浄土)真宗 
A『帖外御文』(文明5年1473)  蓮如(1415〜1499)
「夫一向宗と云、時衆方之名なり、一遍・一向是也。其源とは江州ばんばの道場是則一向宗なり」
B『天狗草紙』(13世紀末頃)(三井寺巻第三段) 
「或は一向宗といひて、弥陀如来の外の余仏に帰依する人をにくみ、神明に参詣するものをそねむ(中略)しかるを一向弥陀一仏に限りて、余行・余宗をきらふ事、愚痴の至極、偏執の深くなるが故に、袈裟をば出家の法衣なりとて、これを着せずして、なまじひにすがたは僧形なり(中略)或は馬衣をきて、衣の裳をつけず、念仏する時は頭をふり肩をゆすりておどる事、野馬のごとし(以下略) 
(注)『天狗草紙』を見る限り一遍時宗(時衆)、真宗との差異はあるが近似性もある。
(1)阿弥陀如来だけを信じ
(2)神社に参拝することもせず
(3)踊り(踊躍)念仏を修し
(4)賦算はしない
C北陸における浄土信仰流布(仮説)
親鸞  越後(上越市)流罪  承元元年(1207)〜健保2年(1214)関東移住
恵信尼(豪族 三善為教の娘)と結婚
時衆(時宗)    「念仏王国」=一向衆
一向衆(一向聖) 1284年布教 北陸道・中仙道分岐点江州番場(馬場)拠点
一遍衆(二祖他阿) 1289年以降布教
真宗 (蓮如) 「一向一揆」(1466〜1570)→「真宗王国」
【参考】時宗十二派【遊行派:阿号・弌号】【当麻派:阿弥号 】【浄土一向派:(誉号 阿号)
1 遊行派 藤沢 清浄光寺(遊行寺) 一遍 →他阿真教 →有阿呑海
2 四条派 京都 四条道場 金蓮寺 浄阿真観
3 六条派 京都 六条道場 歓喜光寺 聖戒(伊予房)
4 当麻派 相模当麻 無量光寺  他阿真教
5 奥谷派 伊予道後奥谷 宝厳寺 仙阿(伊豆房)
6 一向派 近江番場 蓮華寺 一向 → 礼智阿  
7 天童派 出羽天童 仏向寺 一向?→ 行蓮
8 霊山派 京都東山霊山 正法寺 国阿(七代他阿託何の弟子)
9 国阿派 京都円山 双林寺  国阿
10 市屋派 京都 市屋道場 金光寺 作阿(唐橋法印印承) *西蓮寺
11 御影堂派 京都 新善光寺 王阿(後嵯峨天皇皇子)
12解意派 常陸海老島  新善光寺 解意阿
(注) 二代〜七代(託阿)迄は当麻派(〜1356年)
十二代尊観法親王(1387〜1400)南朝系皇族(庶民から貴族・将軍へ)
 「阿号」「阿弥号」の売買⇒ 一遍(二祖真教)遊行派の解体・自然消滅へ→庶民からの離反 
○斉藤茂吉:赤光院仁誉遊阿暁寂清居士(浄土宗<一向派>+<遊行派>)
○坂村真民:詩国院朴阿真民居士 (時宗<遊行派>)
2 一向上人伝巻一  【出自】
 夫真如の都には迷悟凡聖の隔てなく 法性の海には邪正自他の汲もなし 云何かしてか一念無明の風おこりしより生仏遥に隔たり 迷悟ハ流を分つ 是故に 悟れる仏は迷る衆生を見て驚ひて火宅に入り 二門五教の網を張り 吉海の衆生を救ひとりたまふ 二門の中に聖道の一種は 今時難証なり 其所以者仏日の光り 沙羅双樹の林に隠れ 法王の幢抜提河の底に沈ミたまひしより 既に二千余年の居諸を経て 世澆季に 人下根也 解微の人いかてか 理源の門に至らんや 独り浄土の一門のミ 通入すへき路也 此道を弘むる人我朝に多しと雖とも宗を開盛んに世を救ふ 源空上人の後に俊聖一向と云ふ聖り在り 筑後の国竹野の庄西好田の人なり 父は藤原氏草野の太夫永平の弟 冠四郎永泰 母は同姓兼房の女也 三人の子あり 聖は第二の子なり 観音大士御手に貝葉一巻持来て口中へ投入れ給ふと夢て 母はらめる事を知る人王八十六代四条の院の御宇暦仁二年亥の正月朔日に生れたまふ.。宇を松童丸と付給ふ 幼稚の当初より 父母に孝行にして三宝を敬ひ 坐しては 常に西に向ひ 臥しても口に仏名を唱へたまふ 宿習にやありけん世栄を楽はす 出俗の身を羨ミ常に此事を父母 に願ひたまひける.
(注)
世澆季 道徳が衰え人情が浮薄となった時代(広辞苑)
源空上人 法然房源空(1133〜1212)。 浄土宗開祖。
筑後国 現在の福岡県のうち、東部(豊前国)を除いた大部分にあたる。7世紀末までに筑前国と筑後国とに分割された。両国とも筑州(ちくしゅう)と呼ばれる。
竹野の庄 竹野郡(たけののこおり・たけのぐん)は筑後国にかつて存在した郡である。明治22年4月1日 町村制施行により田主丸町となり、久留米市に吸収される。
草野の太夫 筑後国には一国を統一する勢力は出現せず、筑後守護である大友氏の幕下の地域の領主中特に力を持っていた15の家を「筑後十五城」と言う。草野氏は「発心城」の城主。久留米善導寺を建立した大檀越。(下記一覧表参照)
同姓兼房 藤原兼房(1153〜1217)。太政大臣。号「禅林寺」。兄は九条兼実、弟は天台座主慈円。
暦仁二年 1239年。「暦仁(りゃくにん)」は1238.11.23〜1239.2.6。一遍は2月15日誕生であり「延応(1239.2.7〜1240.7.15)元年」となる。
松童丸 一向俊聖の幼名。 一遍知真の幼名は松壽丸。
 一向俊聖は筑後の国竹野庄西好田の名門家の第2子として暦仁二年(1239)亥の正月朔日誕生する。俊聖の出生に当たっては、観音大師が御手に貝葉一巻を持ってこられて母の口中に投げ入れられた夢を見て孕まれたとのことである。幼名は松童丸である。父は藤原冠四郎永泰、母は藤原兼家の女である。母の父に当る藤原兼房(1153〜1217)は太政大臣であり、兄は九条兼家(1149〜1207)、弟は天台座主慈円(1155〜1225年)である。一向俊聖の出家、修行先が西の比叡山とも称せられた天台宗の播州書写山円教寺であることも頷かされる。幼少時は父母共に京都に住んでいたとも考えられる。
 永泰の兄が藤原氏草野太夫永平で筑後の有力15氏の領主で「発心城」の城主でもあった。草野太夫は久留米の「善導寺」を建立した大檀越でもある。この善導寺は浄土宗鎮西派の筑紫(九州)の拠点であり、今日の浄土宗鎮西派の大本山の一つである博多の善導寺の母胎でもある。
 当時の筑後の守護は豊後の大友氏で初代は藤原姓大友能直(よしなお)である。父は近藤能成、母は利根局であるが、利根局は頼朝の愛妾であり、能直は寵愛を受け九州における鎌倉幕府の「親藩」として勢力を伸張した。頼朝の御落胤説もあるが、妻政子が頼朝の妾が産んだ男子を殺害させた史実から判断してあり得ないと推察される。鎌倉幕府としては九州の拠点を豊後・大友氏、瀬戸内の拠点を伊予・河野氏と位置づけたものと考えられる。
 一方同じ時衆の大成者である一遍智真も延応元年(1239)2月15日卯刻、河野通広の次男として誕生する。幼名は松壽丸である。越智氏河野四郎通信の孫に当る。源頼朝にとり、瀬戸内海の海上権を掌握していた河野水軍の援助なくしては平家の追討は至難であった。その功により伊予国の守護に任じられ、北条時政の娘谷(やつ)を妻に迎えた。谷(やつ)は頼朝の妻(北条)政子の妹であり、頼朝と通信とは義兄弟となった。戦勝の祝宴において頼朝、義父北条時政に次いで第3番目の席を占めた。最初の妻は伊予新居太夫玉氏の女、三人目の妻は鎌倉幕府の長老二階堂行光の女で強固な姻戚関係を張りめぐらした。尚、一遍の父通広の母は伊予新居太夫玉氏の女である。
 承久3年(1221)の承久の変では、通信と長男通俊、二難通政、四男通末は宮廷側、谷(つや)の息子である五男通久、六男通継は鎌倉側で戦った。結果、通信は奥州江刺に流刑、通俊は戦死、通政は信州葉広で斬首、通末は信州小田切に流刑となり、伊予に於ける河野領は通久、通継に継承される。一遍の父である通広(法名如仏)は仏門にあり咎がなく河野郷別府(べふ)又は拝志郷別府に住むことになる。鎌倉で剃髪し、京都で浄土宗西山派の証空(1177-1247)の下で聖達、華台とともに修行したと考えられるが、一遍研究書には一切触れられていない。 一遍の出生地は伊予国ではあるが、別府(河野郷又は拝志郷)なのか通説の宝厳寺であるのかは不明である。執筆者は「窪野の閑居」に近い拝志郷別府で生育したと考えている。
参考までに@筑後有力15氏・居城・領地と、A浄土宗大本山を下記する。
(注1) 筑後有力15氏・居城・領地
居城 領 地
蒲池氏(下蒲池) 柳川城540町 山門郡・三潴郡・下妻郡 12000町(12万石)
蒲池氏(上蒲池) 山下城540町 上妻郡 8600町(8万6千石)
問註所氏 長岩城500町 生葉郡 1000町(1万石)
星野氏 妙見城500町 生葉郡・竹野郡 1000町(1万石)
黒木氏 猫尾城646町 上妻郡 2000町(2万石)
河崎氏 犬尾城250町 上妻郡 1000町(1万石)
草野氏 発心城677町 山本郡 900町(9千石)
丹波氏 高良山580町 高良山 2000町(2万石)
高橋氏 下高橋城280町 御原郡 1000町(1万石)
三原氏 本郷城100町 御原郡 700町(7千石)
西牟田氏 城島城250町 三潴郡 1000町(1万石)
田尻氏 鷹尾城328町 山門郡 1600町(1万6千石)
五条氏 高屋城500町 上妻郡 1400町(1万4千石)
溝口氏 溝口城500町 下妻郡 1000町(1万石)
三池氏 今山城250町 三池郡 800町(8千石)
(注2) 浄土宗総本山・大本山
総本山 【法然】 華頂山知恩院
鎮西派 【弁阿】
鎮西七大本山 , @縁山増上寺(東京都)  
A紫雲山金戒光明寺(京都市)
B天照山蓮華院光明寺(鎌倉市) 一向俊聖は書写山円教寺の後、鎌倉蓮華寺にて修行す。
C百万遍知恩寺(京都市)
D終南山光明院善導寺(福岡市) 一向俊聖の本家・草野氏は久留米「善導寺」大檀越である。
E善光寺大本願(長野市)
F清浄華院(京都市):京都御所内
西山派 【証空】
西山三大本山 @東山禅林寺(永観堂)(禅林寺派)
A粟生光明寺(西山浄土宗)
B京極誓願寺(深草派)
3 一向上人伝巻一  【修行】
【修行@ 播州書写山円教寺】
 生年七歳の春 父永泰云何かおもひ給ひけるにや 松童丸に語てのたまひけるハ 汝胎に宿りし始 母不思議の夢を得て 汝を生り 汝か出家の願ひ 亦一世の事にあらさるへし
 今は汝か心に任すへしとて寛元三年二月十五日 初て播州書写山へそ登り給ひける 昼夜学文おこたらす 恵解天然と師授を労せす螢雪灯ひに続き 讃仰つもりて 妙経の八軸天台の六十巻 残無く伝へ給へり 建長五年丑の三月十八日 御年十五歳にして 剃染受戒し 名を俊聖とそ申ける 一心の家の内にハ 三観の恵灯を挑け 三千の窓のまへには一念の観解を凝し 終日煩悩の雲を払ひ 竟夜己心の月を求給へとも 妄波きそひ起り 定水静り難く 散乱の風吹て智恵の灯ひ明ならす 命は念々につつまり 死ハ歩々に近く 衆生皆是のことくならは成仏ハ誠にかたかるへしとて 十六歳の夏 彼の山を出給ふ
 7歳になった寛文3年(1245)の春のこと、父永泰は俊聖を呼び、母胎に宿った不思議な夢見の因縁から今となっては俊聖の心に任すしかあるまいと出家を了承する。同年2月15日播州書写山円教寺に上り、<昼夜学文おこたらす 恵解天然と師授を労せす螢雪灯ひに続き 讃仰つもりて>妙経八軸と天台の60巻を伝授され、建長5年(1253)妙経八軸丑3月18日に15歳で剃染受戒して俊聖と名乗った。更に修行するも悟りの道は厳しく遠く翌年16歳の夏に書写山を下った。
(注)2月15日は釈迦入滅の日に当たる。一遍智真の生誕は2月15日である。仏教徒にとっては意義深い日であるので、この日に俊聖は書写山に上ったと思われる。
【修行A 鎌倉蓮華院】
 かくて南都に赴き 諸宗に亘り 出要の律を訪ひ済度の師を尋ね 六年を経給へり されとも諸宗聖道の門は 難修難入にして 今時の愚夫悪婦の 易く得入すへき法にあらすとおもひわつらふ 埋火の底に絶やらす求めたまふ所に 道綽禅師の安楽集に 大集経を引て 我末法時中 億々衆生 起行修道 未有一人得者 当今末法 是五濁悪世 唯有浄土一門 可通入路と釈し給ふを見て 能き浄家の智識に逢ひ 易行の門に入らはやとて 普く尋ね給ひける。其比関東に良忠上人とて 浄土門の先達 易行道の導師あり 源空上人第三代の法孫 五十余帖報夢の記主なれは 後に記主禅師と諡名を賜し明匠なり 聖り生年二十二正元々年末の三月 彼の所へ尋ね詣てゝ 禅師に随従し給ふこと凡そ十五年 悉く浄土の心行を究め 是そ時機相応の法門なれとて 斬密諸宗の解を放下し 一向専念の文により名を一向と改め 専修の行者と成りたまふ 又四大五蘊皆空なる事を悟り 頌を結ひのたまわく
 四大自本空 五蘊仮建立
 宝号留所々 名之謂一向
文永十年酉の二月 生年三十五にして 師の御もとを辞して諸国遊行に出てたまふとて
 我れ独り入て何せん西の山に
  かたふく月はさもあらはあれ
、建長6年(1254)書写山を下って後、6年間南都の諸宗を歴訪する。諸宗の聖道門は難修難入であり今時の愚夫悪婦が易く得入できる法ではないと思い煩う。関東の良忠上人なる浄土門の先達は易行道の導師の存在を知り正元元年末3月に導師の下を訪ね、15年に亘り随従する。