第二十三章愛媛と慶応義塾〜明治の慶応ボーイたち〜
1 はじめに
○慶応義塾創立150周年
日本を代表する近代的高等教育を実施した私学の一つである慶応義塾は平成二十年(2008)に創立百五十周年を迎える。慶応義塾の起源は安政五年(1858)福沢諭吉が江戸築地鉄砲洲にある中津藩奥平家中屋敷で開いた蘭学塾に由来している。 
 福沢諭吉が緒方洪庵「適塾」で和蘭語を学び、安政五年築地で蘭学塾(慶応義塾起源)を開塾するが、「福翁自伝」によれば英学への志はペリーの来航以来であり、万延元年(1860)軍艦奉行木村喜毅らの咸臨丸に同乗渡米、文久三年(1863)外国奉行池田長発らの遣欧使節に随伴して渡欧により実体験を踏んだが会話力は不十分であった。帰国後英学塾としての慶応義塾に変貌することになる。明治十六年四月「慶応義塾紀事」によれば、「安政五年ヨリ文久二年ノ終ニ至ルマデ四ヶ年余ノ間ハ・・・僅ニ一小家塾ニシテ事ノ記ス可キモノモナク且塾ノ記録サヘ詳ナラザレバ一切ノ紀事ハ文久三年正月ヨリ起テ・・・」と記載されている。
その意味でも文久三年起『慶応義塾入社帳』(以下「入社帳」と記す)は慶応義塾草創期の重要な資料であるが、「入社帳」の筆頭に「文久三年春入門 松平隠岐守内 小林小太郎」と記名されている。松平隠岐守とは伊予松山藩初代藩主で徳川家康の父違いの弟である松平定勝が家康より拝領した官名(官位)であり「先君の意向」として第十三・十五代松平勝成まで継承された。小林小太郎については後述するが彼を嚆矢として愛媛と慶応義塾の繋がりは深く且つ緊密であると断言しても過言ではあるまい。
○慶応義塾(三田)と伊予松山藩中屋敷
 慶応義塾が現在の三田の地に落ち着くまで前期鉄砲洲(築地中津藩奥平家中屋敷)、前期新銭座(港区浜松町)、後期鉄砲洲、後期新銭座(有馬家中屋敷)と移転を繰り返すが、文久三年は新銭座から鉄砲洲に再移転の時期に当たり、義塾の発展を意図して前期鉄砲洲より広い家屋を確保した。
 現在の三田への移転は明治三年十一月「其方儀近来広く洋書を訳述し許多の生徒を引立裨益不少候に付、出格の訳を以三田二丁目島原藩上げ邸一万千八百五十六坪、願の通拝借の儀御許容相成候」(東京府令書)を以って実現した。島原藩中屋敷の隣地は伊予松山藩中屋敷であり、藩邸を引き継いだイタリア大使館の敷地には赤穂浪士の大石主税、堀部安兵衛ら十名が切腹した史実を記録する石碑が残っている。
2 明治初期愛媛県下の中等教育
○伊予八藩の教育事情
 明治維新前後の藩校から新学制に移行する過程を極めて簡潔に述べておきたい。
 愛媛(伊予)は江戸時代八藩(松山・今治・小松・西条・宇和島・吉田・大洲・新谷)から成り、各藩は藩校[明教館(松山)、克明館(今治)、明倫館(宇和島)、明倫堂(大洲)など]を持ち主に武士の子弟を教育した。宇和島藩では明倫館の機構改革を行い明治3年には「明誠館」と改名し学則・校則・寄宿寮規則を大幅に改正している。松山藩でも教育の刷新を狙い明治三年に漢学主体の「明教館」に漢学・皇学・洋学・医学等の教科を加え規則を大幅に改めた。教科の遂行に当たり各「司教」を任命した。
 明治四年廃藩置県により八藩は廃止になり藩名と同じ各県(例 松山県・・・新谷県)が設置された。更に明治四・五年の府県統合により松山県⇒石鉄(いしづち)県と宇和島県⇒神山県が誕生し明治六年二月に愛媛県に統合される。更に明治九年八月から二十一年十二月までは香川県を合併していたので行政は混乱を極めた。明治四年八県ごとに藩校を引き継いで県学校が設立された。石鉄県では学務専任として斎藤利敬が任じられた。神山県では肝付兼弘が学事専任となった。明治六年には愛媛県が誕生し、県下を六中学区(新居浜・西条、今治、松山、郡中、大洲、宇和島)に分割したが、翌七年には六大区単位に修正している。以後教育改革が全国的に統一され近代的な学校教育へと移行することになるが、松山と宇和島を中心に述べる。
○英学所・変則中学校
 明治四年十一月大洲の有志により洋学会社が発起され翌五年十月に大洲英学校が開設された。明治六年松山では正岡子規も後年学んだ勝山学校併設の洋学科が独立して英学舎となり、西条では真鍋順平らの発起で西条社(洋学会社)、宇和島では宇和島第一本校に英学舎(不棄学校)が相次いで誕生した。
 明治八年には旧松山藩明教館内に県立の英学所を設置し、小学校令に基づく修了者に限り入学を許可したので中学校の前身と考えて良かろう。明治九年には宇和島の「不棄学校」を母体にして「南予変則中学校」、松山の「英学所」を母体にして「変則中学校(北予中学校」が設立された。
○慶応義塾出身の指導者
 県下の中等教育を進めるに当たり教師として慶応義塾出身者を多く迎え入れ、慶応義塾での教材を使用し慶応義塾で提唱した演説を導入していった。簡潔に人物を紹介しておきたい。
 開明的な君主松平勝成は松山藩校(明教館)に洋学を設けると共に明治元年以降藩の職制ならびに職掌を改編し、藩洋学司教には【小林小太郎】を任じている。明治六年には英学舎を設置し、【松田晋斎】【稲垣銀次郎(銀治)】【稲葉犀五郎】【中村田吉】を招聘した。明治八年に松山東高校の濫觴でもある愛媛英学所が設立されるが、初代英学所総長には【福沢諭吉】と宇和島出身の末広鉄腸が愛媛県令岩村高俊に推挙した【草間時福】が就任し助教として【柘植武憲】、指導役には上級生の【村井保固】【三輪俶掲】が当たった。 
 【草間時福】は学制改革により北予変則中学校並びに松山中学校の初代校長(総長)(明治11年6月〜明治12年7月)も務めた。尚二代校長に【西河通徹】(明治13年4月〜明治14年6月)、校長心得に【菱田中行】(明治14年6月〜明治16年12月)が任命されている。更に伊予尋常中学校初代校長は【山崎忠興】(明治21年9月〜明治26年2月)、県立松山中学校初代校長は【野中久徴】(明治31年11月〜明治37年2月)と愛媛県出身の慶応義塾卒業者が校長に任ぜられている。
 一方南予(石鉄県)の近代的な教育は宇和島伊達藩を中心として展開した。明治六年宇和島英学舎(不棄学校)が開設され講師には【福沢諭吉】の支援で【中上川彦次郎】(明治六年四月〜明治六年十月)【四屋純三郎(準吉)】(明治六年十月〜)のほか【渡辺恒吉】【小泉信五郎】【国府寺l則須】らが参画した。一方明治五年には 【下井小太郎】らによって大洲英学校開設が開設され、不棄学校の講師を務めていた【四屋純三郎】【中上川彦次郎】も大洲英学校に講師として出張教授した。【中上川彦次郎】の後任として【下井小太郎】が不棄学校校長(明治六年末〜明治七年末)に就任している。学校の財政は元藩主の寄付に負うところが大であっただけにその後財政危機や生徒数激減また教育制度の改編もあり英学校経営は廃校に向かった。
 【中上川彦次郎】(1854〜1901)は福沢諭吉の姉の子で時事新報社長、山陽鉄道社長の後三井銀行の理事として芝浦製作所、王子製紙、鐘淵紡績、三池炭鉱の経営を指導した明治を代表する実業家である。彦次郎の宇和島・不棄学校校長就任は福沢諭吉の指示と思われるが、福沢にとっての主君である中津藩主奥平昌邁(まさゆき)は幕末の四賢侯の一人である宇和島藩伊達宗城(むねなり)の三男であり、主君筋から宇和島・不棄学校支援の要請があったとも考えられる。
3 福沢門下生たち
○「慶応義塾入社帳」と小林小太郎
 文久三年起『慶応義塾入社帳』は慶応義塾草創期の重要な資料であるが筆頭に「文久三年春入門 松平隠岐守内 小林小太郎」と書かれている。小太郎は慶応義塾(英学塾)で確認できる最初の塾生であり同年入社で塾員となったのは小林小太郎と和田慎二郎〔福沢英之助〕の僅か二名である。『入社帳』全二十九冊は三田本塾、医学所、大阪・徳島慶応義塾、法律学校、大学部、幼稚舎から成り、明治三十四年十一月終了している。総記載者凡そ二万人中卒業名簿に相当する「塾員名簿」には四千名弱が登録されている。記載項目は入学者の氏名、年齢、出身地、主人・身分、父兄・保証人などである。
 小太郎の父・小林小四郎は嘉永六年(一八五三)伊予松山藩十五万石の第十三代松平勝成に禄百五十石で抱えられた。小太郎は慶応義塾に入学後、福沢諭吉に代わって英語の教鞭をとった。小太郎の語学力は抜群であったのは、十三歳の時藩の留学生として英国公使館で英語を学んだことによる。当時のことが後に英国大使となったアーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』に生き生きと記録されている。「ウイリアム・ウイリスとサトウは海岸通り二十番地にある公使館の一隅に同居し、小林小太郎という日本の若侍も、私たちと一緒に食事していた。小林は、英語を習うために日本政府(伊予松山藩)からウィリスに委託された男で、能力は人並み以上とも思えなかったが、よい少年であった。」文久二年の生麦事件以後日英関係は急速に悪化し、文久三年二月に英国公使館から引き上げ、同年春には藩命で慶応義塾に入学した。
 翌元治元年には幕府直轄の開成所に転じている。慶応三年開成所の要請で英書を翻訳して『築城約説』(誠格堂)を出版した。明治元年十月松山藩洋学司教を拝命し、明治二年四月には横浜法朗西学校に派遣され仏語を修学した。同年九月大学(旧昌平学校)に移り少助教、中助教、大阪洋学所大助教に昇進している。明治六年文部省に出仕し、報告局(翻訳担当)一筋に報告局長に栄進する。明治十五年文部権大書記官となり、明治十八年東京大学予備門長事務取扱兼務した。明治二十二年退官している。明治三十七年十月三十日享年五十七歳で死去。
○伊予八藩慶応留学生
 初期の慶応義塾の入学は各藩からの派遣が中心で私費留学は少なかった。慶応二年には松山藩(松平隠岐守)藩医師【松田晋斉】が続いた。慶応元年吉田藩(伊達若狭守)から【森平蔵】【森貞次郎】【赤松鉄之丞】、慶応三年宇和島藩(伊達遠江守)から【清家定一】が派遣された。
 松山藩では開明的な藩主勝成により二十歳前後の若者三十二名が官費生徒として英語(15名)、仏語(2名)、普通学(2名)、語学(4名)、算学(3名))、医学(6名)の研鑽の為派遣され、明治三年には欧米に4名が派遣された。うち慶応義塾には5名【松本織之進】【高木小文吾】【薬丸大之丞】【和久喜佐雄(正辰)】【十河榮三郎】が選抜され、海外には慶応義塾で学んだ【松田晋斉】が派遣された。同年、宇和島藩から【小原重郎】今治藩(久松壱岐守)から【玉井猪甥二】西条藩(松平従四位)から【丹文次郎】【宇治村幾三郎】が続いた。
 慶応義塾創成期(文久三〜明治三年)の県内出身塾生16名を一覧し特記事項を付記する。数名(小林小太郎、和久喜佐雄、)を除き詳細は不明である。
番号 入学 氏    名 改 名 生 国 入学年   特 記 事 項    
79 N01 小 林 小太郎 松山藩 文久03 松山藩英学司教。文部省報告局長[【松山藩小林家百五十米】
170 N02    松 田 晋 斎 松山藩 慶応01 松山英学舎教諭。工部省。【松山藩医師】
183 N03 森   平 蔵 吉田藩 慶応01
182 N04 森   貞次郎 吉田藩 慶応01
1 N05   赤 枩 鐵之丞 吉田藩 慶応01
62 N06 清 家 定 一 伊達藩 慶応03
172 N07 松 本 織之進 松山藩 慶応02 【松山藩百二十石】
100 N08 高 木 小文吾 松山藩 明治02 【松山藩高木家百七十石】
185 N09 薬 丸 大之丞 松山藩 明治02 (内藤鳴雪実弟)【松山藩薬丸家二百石】
204 N10 和 久 喜佐雄 正辰 松山藩 明治02 中学校長(奈良・盛岡ほか)【松山藩和久家百五十石】
44 N11 小 原 重 郎 伊達藩 明治02
116 N12 玉 井 猪勢二 今治藩 明治02
121 N13 丹   文次郎 西条藩 明治02
30 N14 宇治村 幾三郎 西条藩 明治02
87 N15 志 賀 雷 山 伊達藩 明治03 静岡県・掛川中学校長?
98 N16 十 河 栄三郎 松山藩 明治03 【松山藩十河家百八十石】
○後続のエリート群像
 明治四年以降「入門帳」が終了する明治43年までに191名、文久三年入社の小林小太郎から通算すると207名が慶応義塾に学んだことになる。但し今日塾員として登録されている正式の卒業生は  名である。この間で松山中学校初代校長草間時福が普及させた民権運動と福沢諭吉を中心とした「演説」が当時の青年に与えた影響は無視できないので紹介しておく。
 正岡子規は松山中学校を退学して上京するに当たり後輩への檄文に「何トナレバ草間先生ノ此校ニ来リ演説ヲナスヤ伊予全国之ガ為ニ始メテ演説ノ有益ナルコトヲ知リタルナリ 故ニ伊予全国ノ人民ハ常ニ眼ヲ中学校ノ演説会ニ注ケリ 是レ其本源ナレバナリ 且ツ曩日海南新聞紙上ニ於テ之ヲ賞励スルガ如キアレバ一国ノ元気之ガ為ニ激昂シ従テ演説会ヲ拡充スルノ良風ヲ及ボスベキナリ」と書き残している。
 明治八年愛媛英学所を設立してその指導者を求めていた愛媛県権令岩村高俊は、宇和島出身の当時曙新聞の主筆をしていた末広鉄膓の仲介で慶応義塾を同年卒業した草間時福青年と面談し、二三歳の書生ながら月俸四〇円の愛媛英学所総長(所長)として迎えられた。 愛媛県権令岩村高俊の評価は、愛媛県下の人物紹介では自由民権派の権令として評価が高いし、それだけの実績を挙げたのは事実であろう。しかし司馬遼太郎の小説に描かれた岩村の姿には冷酷なまでにメスを入れている。越後長岡藩の家老河井継之助の懇願を僅か半刻で切上げ、高圧的に振る舞い弁明を一切聞かず五ヵ月に及ぶ奥州での戦闘に追い込んだ張本人は岩村であり(『峠』)、大久保利通に取り入り、佐賀藩の江藤新平や島義勇の反乱を仕組み佐賀城を争奪し、維新の元勲江藤を梟首で処刑したチョロマ(傲慢で無思慮な行動家)である佐賀県権令は同じく岩村であった(『歳月』)。
 草間時福の松山時代は、英学舎・英学所、北予変則中学校、松山中学校の時代に相当する。明治八(一八七五)年八月から明治一二(一八七九)年七月迄の四年間である。草間時福の英学所・松山中学校の教育内容と「演説」については直弟子永江為政が『四十年前之恩師草間先生』に書き残している。英学所ではスマイルの『自助論』などを洋書でもって論じるかたわら、月二、三回の演説、討論会を開き、先生も生徒も交りあって議論の機会を持った。明治十二年任を終えて帰京するが、草間を慕って上京・進学する生徒が多かった。「入社帳」には【村井保固】【梅木忠朴】【宮内直挙】【浅岡満俊】【門田正経】【矢野可奈】【細田重房】記され卒業後言論人を志す者が多かった。
番号 入学 氏    名 改 名 生 国 入学年 特記事項    
2 赤 松 勇 吾 宇和島 30
3 N42 浅 井   勝 宇和 08
4 浅 井 密 蔵 八幡浜 27
5 N41     東   胤 良 浮穴郡 08
6 阿 部 熊 一 今治 28
7 N22 天 谷 確太郎 吉田藩 04
8 綾 井 国 治 愛媛県 20
9 綾 井 恒 治 愛媛県 20
10 飯 尾 岑三郎 新居郡 24 製糸業経営。
11 N29 飯 淵 貞 正 神山県 05
12 N25 池 内 勝太郎 石鉄県 05
13 石 川 八百蔵 宇摩郡 24 神戸・松蔭女学校教諭。
14 石 原   擴 温泉郡 22 横浜エストマ商会。
15 石 原   操 温泉郡 21 第五十二銀行頭取。
16 石 丸 鶴 吉 風早郡 14
17 石 村 愛 助 新居郡 23
18 石 村 兼 祐 宇摩郡 26
19 石 村 宗三郎 宇摩郡 26
20 石 村 林二郎 宇摩郡 31
21 猪 多 正 智 松山 15
22 伊 東   温 伊藤 松山 23 大阪朝日新聞記者。【常盤会】
23 伊 藤 竹冶郎 東宇和 28
24 伊 藤   正 東宇和 27
25 伊 藤 庸 職 松山 23
26 井 上 粂一郎 伊方 14
27 井 上 純三郎 大洲 19 慶応義塾商工学校主任。
28 N28 今 岡 武 代 神山県 05
29 今 西 恒太郎 北宇和 20 自由党党報局。
30 宇 高 ?太郎 西条藩 04
32 宇都宮 運 一 伊方 31
33 宇都宮 壽 平 伊方 18
34 梅 木 正 衛 上浮穴 12
35 梅 木 忠 朴 玉川町 10 松山中学教諭(夏目漱石と同時期在校)。以後新聞社記者。
36 梅 田   清 松山 22 松山商業銀行。
37 浦 和 八 郎 南宇和 25
38 N36 岡 田 松 亭 愛媛県 07
39 岡 部 浪二郎 新居郡 30
40 岡 本 徳次郎 松山 23
41 小 川 健一郎 新居郡 10
42 小 倉 和 市 上浮穴 30
43 N35 尾 田 隆 就 愛媛県 06
45 景 平 源四郎 北宇和 24 豊州鉄道炭鉱。
46 N37 梶 田 辰次郎 宇和島 08
47 梶 原莵喜次郎 東宇和 19 大日本精糖。
48 片 岡 喜三郎 愛媛県 20
49 加 藤 綱 丸 今治 31
50 加 藤 正 廊 松山 12
51 加 藤 泰 武 新谷 22
52 門 田 正 経 松山 12 東洋協会幹事長。
53 金 岡 亀十郎 伊予郡 24
54 河 井 芳太郎 新谷 22
55 川 田 惣太郎 郡中 33
56 菊 池 一 豊 綾五郎 周布郡 24 明治生命。
57 菊 地 武 雄 西宇和 20
58 菊 池 廣 胖 西宇和 17
59 木 田 勝 一 北宇和 30
60 北 村 辨 吉 伊予郡 22
61 木 村 国三郎 新居郡 24
63 吉 良 丑 乙 南宇和 23
64 N27 吉 良  亨 神山県 05
65 吉 良 極 吉 南宇和 15
66 吉 良 麟太良 南宇和 15
67 工 藤 精 蔵 新居郡 21
68 N26 工 藤 磨@平 石鉄県 05
69 黒 川 幹太郎 周布郡 18
70 黒 田 光太郎 宇和島 18
71 N20 黒 田   進 松山藩 04
72 N43 国府寺 則 順 吉田 08
73 河 野 政治郎 大洲 33
74 河 野 乕 尾 北宇和 26 伊予旭製絲社長。
75 河 野 政 通 新谷 28
76 河 野 茂 市 喜多郡 34
77 後 藤 篤三郎 松山 15
78 後 藤 守 衛 松山 15
80 斎 藤  孟 喜多郡 20
81 N21 佐 伯 壽 人 松山藩 04
82 佐 伯 英 雄 久万 31
83 佐 藤 光 作 新居郡 12
84 佐 藤 政次郎 薬師寺 北宇和 23 大阪朝日新聞記者。
85 賓 藤 盛 久 北宇和 28
86 塩 崎 祐一郎 東宇和 30
88 宍 戸 廷 清 宇和島 21
89 芝   清五郎 北宇和 22
90 清 水  巌 西宇和 28
91 N17 下 井 勝 八 小太郎 大洲藩 04 大洲英学校・不棄学校長。西宇和郡長(明治32・33年「八幡濱甲種商業学校」設立に寄与大)。
92 菅   哲一郎 愛媛県 13
93 菅   正 意 北宇和 28
94 菅   篤 叙 松山 14
95 菅   學 應 宇摩郡 22 慶應義塾大学教授。
96 N39 杉 山 重 義 松山 08
97 住 田 濱次郎 岡井 伊予郡 19 今出絣経営。
99 高 岡 虎 一 東宇和 24
101 高 須 峰 造 越智郡 13
102 高 須 律之進 越智郡 14
103 高須賀 伊三郎 温泉郡 22
104 N30 高,橋 寛 造 石鉄県 06
105 N24 高 橋 正 鞆 石鉄県 04
106 高 橋 米 麿 道後町 21
107 高 山 長 幸 喜多郡 20 衆議院議員。
108 竹 内 信 豊 松山 14
109 武 田 喜太郎 吉田 32
110 N32 竹 田   等 愛媛県 06
11111 竹 葉 武 市 宇和島 23
112 竹 村 彦三郎 宇和郡 09
113 多々羅 健 吉 西宇和 23 第二十銀行役員。
114 田 中 岩三郎 吉田 13
115 N34 田 中   寛 愛媛県 06
117 玉 井 太 郎 宇和島 32
118 玉 田   廣 吉田 29
119 丹   幸 平 新居郡 30
120 丹   霊 源 西条 23 三井銀行。
122 近 田   健 西宇和 25
123 N31 津 田 政 協 松山 09
124 都 築  忠 西宇和 23
125 N33 都 築 経治郎 宇和郡 06
126 寺川 一太郎 西条 26
127 豊 嶋 満 俊 浅岡 松山 12 海軍造船大監。
128 戸 田 芳 助 新居郡 24 交詢社役員。
129 N19 豊 田 敬 一 西条藩 04
130 豊 田 哲 輔 西条 30
131 中 井 和賀雄 宇和島 25
132 永 井 乕之輔 北条 22
133 永 易 三千彦 新居郡 26
134 長 尾 忠 雄 越智郡 24
135 中 田 万太郎 北宇和 22 千代田生命社長。
136 仲 田 林太郎 松山 20
137 中 村 美知造 松山 21
138 中 村 柞 胤 松山 23
139 N38 西 川 通 徹 西河 宇和島 08 松山中学校長。ジャーナリスト。
140 西 原 義 任 松山 16
141 西 本 節五郎 越智郡 32
142 二 宮 勝 也 喜多郡 09
143 二 宮 庫太郎 西宇和 27
144 二 宮 精 一 久万町 21 松山商業銀行。
145 二 宮 百 松 北宇和 22 宇和島中学校教諭ほか。
146 野 中  幹 松山 21
147 野 中 茂三郎 温泉郡 34
148 荻 原 麟二郎 愛媛県 09
149 長谷部 兵 太 越智郡 21
150 羽 太 長太郎 大洲 12
151 林   宗 良 北宇和 28
152 N23 菱 田 中 行 松山藩 04 松山中学校長心得。(内藤鳴雪従弟)
153 兵 頑 莞 爾 西宇和 23 長崎税関。
154 兵 頑 俊一郎 西宇和 28
155 兵 頭 新 一 北宇和 27
156 兵 頭 昌 吉 西宇和 29
157 廣 橋 治郎吉 喜多郡 19
158 藤 田 豊 造 新居郡 30
159 藤 谷 禮重郎 郡中 30
160 藤 野   潔 松山 19
161 古 谷 賢 洋 東宇和 26
162 不 破 多 門 大洲 21
163 保 木 惣三郎 東宇和 29
164 細 井 房 重 松山 13 第五十二銀行。
165 堀   滋三郎 今治 22
166 掘   三 事 愛媛県 12
167 本 荘 一太郎 松山 23
168 牧 野 昇 次 松本 宇和郡 16 酒造業。
159 政 尾 藤 吉 大洲 21
171 松 村 貞三郎 愛媛県 10
173 三 浦 小一郎 越智郡 21
174 水 口 啓太郎 伊予郡 15
175 宮 内 直 挙 松山 12 山陽鉄道。
176 邑 井 保 固 村井 吉田 10 森村組紐育支店長。
177 村 尾 則 光 岡部 宇和島 12
178 村 上 幸 平 新居郡 31
179 村 上 時次郎 越智郡 15
180 村 上 文太郎 松山 23 【常盤会】
181 元 吉 秀三郎 北宇和 14
184 森 田 恭 平 小松 24
185 薬 丸 大之丞 松山藩 02 (内藤鳴雪従弟)
186 安 川 通 照 喜多郡 29
187 矢 野 順一郎 野間郡 28
188 矢 野 荘三郎 西宇和 20
189 矢 野 恒太郎 今治 14 海軍主計総監。
190 矢 野 照次郎 西条 25
191 矢 野  一 宇摩郡 30
192 矢 野 可 宗 玉川町 12 新聞記者。
193 N40 山 崎 忠 興 宇和島 08 伊予尋常中学校長。著述業
194 山 崎 程 者 松山 10
195 山 田 善四郎 新居郡 21
196 横 山 新次郎 松山 23
197 横 山 正 脩 松山 15
198 横 山 惣 次 新居郡 34
199 吉 田 甚三郎 宇摩郡 27
200 吉 田   正 野間郡 30
201 吉 田 晴太郎 阿部 越智郡 21 今治阿部合名(綿紡績)役員。
202 吉 田 戊 實 松山 13
203 脇   道 譽 宇摩郡 25 大倉組。
205 渡 邊  脩 北宇和 12 衆議院議員。
206 渡 邊 綱 一 北宇和 22
207 渡 邊 雄 一 新居郡 22 銀座磯野商会。
4 おわりに
 慶応義塾卒業者でも「慶応義塾入社帳」の存在は慶応義塾関係図書を閲覧時にご覧になりご記憶の方もいる筈である。私事になるが平成10年に現役を退き郷里松山に帰省したが、縁あって「慶応義塾福沢研究センター」から現本を複写した「慶応義塾入社帳」全五巻の恵贈を受け愛媛県下の慶応義塾卒業生の「発掘」と「顕彰」に進めるようにとの激励を受けた。まさに文久三年起『慶応義塾入社帳』筆頭記載の「文久三年春入門 松平隠岐守内 小林小太郎」のご縁であると感謝している。その後慶応義塾福沢研究センターで研究資料の提示を受け、慶応義塾図書館で所蔵図書を閲覧した。
 小太郎没後百年に当たる平成十六年七月「伊予史談会」で「慶応義塾[英学]入社第一号 伊予松山藩士 小林小太郎」を発表し、史料で始めて確認した小林小太郎の出自を慶応義塾並びに国会図書館に報告した。今回「愛媛三田会創立50周年」を迎えるに当たり小林小太郎はじめ明治期の県下の慶応義塾の大先輩の在りし日の姿についての寄稿を依頼された。浅学非才でその任ではないのであるが、折角の機会であり、すでに発表した小論を中心に207名の先輩の名前を列挙して記録に留めたいと考えた次第である。
5.参考文献(この項は「工事中」です)
1)学校関係
1) 開校百二十年創立百周年記念宇和島東高等学校沿革史
(愛媛県立宇和島東高等学校沿革史編集委員会)
平成八年 同左 高等学校
2) 校百年創立八十周年記念 宇和島東高等学校沿革史
(愛媛県立宇和島東高等学校沿革史編集委員会)
昭和五一年 同左 高等学校
3) 同窓会名簿【2000年版】(愛媛県立松山中学・松山東高校同窓会) 平成一二年 同左 同窓会
4) 道前会会員名簿【2005年版】(愛媛県立西条中学・西条高等女学校・西条高等学校) 平成一七年 同左 高等学校道前会
5) 蛍雪会会員名簿【平成15年度版】(今治中学・今治西高等学校) 平成一五年 同左 同窓会
6) 松山東高等学校史(松山中学・松山第一高等学校) 開学132年の歩み (木山慎一著・編) 昭和三五年 愛媛日報社
7) 松山東高校 創立80周年(愛媛県立松山東高等学校創立八十周年記念誌編集委員) 昭和三五年 同左 高等学校
8) 南予の群像 南予の群像 (新愛媛編集局) 昭和三五年 新愛媛
【覚書】170N02   松田 晋斎 松山藩 慶応 01 松山英学舎教諭。工部省。【松山藩医師】
『慶応義塾史事典』掲載の「松田晋斎」の「【松山藩医師】の照会
(1)『四十年前の草間先生』(永江為政編纂  草間先生出版会 1922年刊)中「『松山英学校の由来並に草間先生時代の松山中学校の教育法について』 愛媛県師範学校長 山路一遊」138ページ
開講当初の講師を松田晋斎氏といふ、藩医なり、藩命あり。第一回に生徒十数名を選抜す、中嶋勝載、大澤寺徳、菱田中行、三輪淑載、岡正矣等、(略)
(2)『松山藩役録』(伊予史談会双書 第19集)「幕末松山藩御役録(安政六年1859)」306ページ
御側医師 二百石 千 宗室 (中略) 十人扶持 御側医師見習 松田隆教
(3)3)(1)の松田晋斎(藩医)と(2)の松田隆教(十人扶持 御側医師見習)は同一人の可能性がありますが、断定する資料は目下不祥です。
拙論では(1)により「松山藩医師」としました。
 参考図書も多いが枚数の制約もあり割愛させていただくことにした。関心ある方は下記の拙論に参考文献を掲載しているので確認いただければ幸甚である      
@「松山中学校と慶応義塾〜初代校長・草間時福〜」(『明教』三一号))
A「子規と演説〜演説の来歴〜」(『子規会誌』九二号)
B「子規と小林小太郎〜伊予松山藩の英学徒たち〜」(『子規会誌』一〇〇号)
C「『坂の上の雲』異聞」(『明教』三五号)
D「慶応義塾[英学]入社第一号 伊予松山藩士 小林小太郎」(『伊予史談』三三八号)
以上
慶応義塾史事典編集委員会 編集 『慶応義塾史事典』  慶応義塾 発行 2008年11月8日

小林小太郎 こばやしこたろう

弘化五〜明治三七(一人四人〜一九〇四)年。慶応義塾入社帳の筆頭者、教育者。諦は儀秀。江戸赤坂氷川台、駿河田中藩邸内で同藩高島流砲術師範小林小四郎の長男として誕生。父はその後伊予松山藩に召し抱えられ、小太郎は万延元(一八六〇)年イギリス公使館に預けられる。捷夷気運の高まりで公使鮨を退くと、文久三(一人六三)年春、福沢の塾に入門。義塾最古の姓名録(のちの入社帳)は「文久三稔春入門 松平隠岐守内 小林小太郎」の書き入れを初筆とする(ただし他筆)。翌年幕府開成所に転じ、慶応三(一人六七)年教授方手伝並出役、同年五月には『築城約説』を出版。明治元(一八六七)年松山藩洋学司教、二年九月大学(昌平贅の後身)に少助教として出仕、翌年大阪洋学所に転じる。四年より二年間、学事調査のため欧州視察。一三年文部少書記官となり、一四年報告局長。のち文部棒大書記官。
 この間、文部省から翻訳出版した『馬耳蘇氏記簿法』(一人七五〜六)は、アメリ
カ式簿記の教科書で、長く全国で使用された。他にも『政体論』(一人七五)、『日本教育史略』二八七七)、『教育辞林』(一八七九)などを出版、また軸訳論文も多数あり、わが国教育制度の近代化に大きく貢献した。二一年大日本教育会理事、二二年退官。三四年神田区学務委員長。三七年一〇月三〇日没、享年五六。[都倉武之]
文献
三好恭治「伊予松山藩士小林小太郎」『伊予史談』(三三八号) 二〇〇五年。
西川幸治郎「小林小太郎」『三田評論』(六二六号) 一九六四年。



(注)「番号」はアイウエオ順、「N番号」は『入社帳』記載順、「入学年」欄の○印は塾員(卒業生)、◇印は「松山中学卒業生名簿」記載者、「特記事」欄の(常盤会)は松山藩久松家が寄贈した東京の学生寮居住者である。舎監を内藤鳴雪が務めた当時正岡子規も入居していた。「入学年」の明治年号は自明であり省略した。
藩校の系譜を持つ「宇和島東高校」「西条中学卒業生(道前会)名簿」「今治中学卒業生(蛍雪会)名簿」はじめ藩校の系譜を持つ大洲・吉田・小松各高校の卒業生名簿や沿革史を確認したが、今回リストの特記事項記載者以外は全く「不詳」である。各地「三田会」ならびに該当校の卒業生にはぜひ大先輩の「発掘」をお願いしておきたい。

○名簿の利用に当たって
@本名簿は『慶応義塾入社帳(全5巻)』(昭和六十一年三月十六日 福沢研究センター編集 慶応義塾刊行【復刻版】)を基にした。記載者数は凡そ二万名に及び今回一人一人確認作業をしたが膨大な資料であり今後追加が出る可能性が残る。
昭和五十八年三月三十一日発行の『慶応義塾入社帳 第四索引』では愛媛県二一八名の名前が記載されているが、うち十一名が誤記、四名が重複し、欠落者が四名いる。最終的に二〇七名とした。研究或いは資料として詳細が必要であれば照会願います。
A愛媛県出身の慶応義塾卒業生(塾員)は『慶応義塾学報』(明治三十年三月七日発行)記載の三十九名については本名簿の「入学欄」に○印を付記した。
B文久三年入社の「小林小太郎」から明治八年入学の国府寺則順までの四十三名についてはN1からN43の番号を付記している。『伊予史談』(三三七号)に発表した論文記載の登録番号である。
B『慶応義塾塾員名簿』追加記載者四名明細
NO30、115、121は『入社帳』には記載されているが「索引」未記載である。
NO95は『入社帳』では香川県出身であるが『慶応義塾出身者名流列伝』(明治四十二年六月発行 三田商業研究会編纂)で「宇摩郡豊岡村出生」を確認した。
C【慶応義塾入社帳】記載の牧野昇次と『慶応義塾学報』記載の松本昇次は同一人として取り扱う。卒業後養子縁組したと考えている。

4 おわりに

慶応義塾卒業生でも『慶応義塾入社帳』の存在をご存じない方が多いのではなかろうか。私事になるが平成10年に現役を退き郷里松山に帰省したが、縁あって「慶応義塾福沢研究センター」から現本を復刻した『慶応義塾入社帳』全五巻の恵贈を受け愛媛県下の慶応義塾卒業生の「発掘」と「顕彰」を進めるようにとの激励を受けた。まさに文久三年起『慶応義塾入社帳』筆頭記載の「文久三年春入門 松平隠岐守内 小林小太郎」のご縁であると感謝している。その後慶応義塾福沢研究センターで研究資料の提示を受け、毎年『連合三田会』出席の都度慶応義塾図書館で関連書籍を閲覧した。又愛媛県の近代史特に県政史については第一人者である伊予史談会の高須賀康生副会長の知遇を得え、愛媛県下の慶応出身者の研究を進めている。【小林小太郎】没後百年に当たる平成十六年七月「伊予史談会」で「慶応義塾[英学]入社第一号 伊予松山藩士 小林小太郎」を発表し、史料で始めて確認した小林小太郎の出自を慶応義塾並びに国会図書館に報告した。
今回「愛媛三田会創立五十周年」を迎えるに当たり小林小太郎はじめ明治期の県下の慶応義塾の大先輩の在りし日の姿についての寄稿を依頼された。浅学非才でその任ではないのであるが、折角の機会であり、すでに発表した小論を中心に207名の先輩の名前を列挙して愛媛三田会各位の脳裏に先輩達の名前を留めていただきたいと考えた次第である。残念ながら氏名リストの特記事項欄の過半は空白である。是非この機会に愛媛三田会会員各位のご尽力で少しでも空白部分を埋めていただきたい。その努力が慶応義塾創立百五十周年と愛媛三田会創設五十周年への少なからざる寄与になると信じています。
参考文献は多いが紙数が尽きたので総て割愛させていただくことにした。関心ある方は下記の拙論に参考文献を掲載しているので確認いただければ幸甚である。
 @「松山中学校と慶応義塾〜初代校長・草間時福〜」(『明教』三一号)A「子規と演説〜演説の来歴〜」(『子規会誌』九二号)B「子規と小林小太郎〜伊予松山藩の英学徒たち〜」(『子規会誌』一〇〇号)C「『坂の上の雲』異聞」(『明教』三五号)D「慶応義塾[英学]入社第一号 伊予松山藩士 小林小太郎」(『伊予史談』三三八号)     以上
慶応義塾史事典編集委員会 編集 『慶応義塾史事典』  慶応義塾 発行 2008年11月8日

小林小太郎 こばやしこたろう

弘化五〜明治三七(一人四人〜一九〇四)年。慶応義塾入社帳の筆頭者、教育者。諦は儀秀。江戸赤坂氷川台、駿河田中藩邸内で同藩高島流砲術師範小林小四郎の長男として誕生。父はその後伊予松山藩に召し抱えられ、小太郎は万延元(一八六〇)年イギリス公使館に預けられる。捷夷気運の高まりで公使鮨を退くと、文久三(一人六三)年春、福沢の塾に入門。義塾最古の姓名録(のちの入社帳)は「文久三稔春入門 松平隠岐守内 小林小太郎」の書き入れを初筆とする(ただし他筆)。翌年幕府開成所に転じ、慶応三(一人六七)年教授方手伝並出役、同年五月には『築城約説』を出版。明治元(一八六七)年松山藩洋学司教、二年九月大学(昌平贅の後身)に少助教として出仕、翌年大阪洋学所に転じる。四年より二年間、学事調査のため欧州視察。一三年文部少書記官となり、一四年報告局長。のち文部棒大書記官。
 この間、文部省から翻訳出版した『馬耳蘇氏記簿法』(一人七五〜六)は、アメリ
カ式簿記の教科書で、長く全国で使用された。他にも『政体論』(一人七五)、『日本教育史略』二八七七)、『教育辞林』(一八七九)などを出版、また軸訳論文も多数あり、わが国教育制度の近代化に大きく貢献した。二一年大日本教育会理事、二二年退官。三四年神田区学務委員長。三七年一〇月三〇日没、享年五六。[都倉武之]
文献
三好恭治「伊予松山藩士小林小太郎」『伊予史談』(三三八号) 二〇〇五年。
西川幸治郎「小林小太郎」『三田評論』(六二六号) 一九六四年。
国立公文書館デジタルアーカイブ「小林小太郎」関連文書
[画像化ネット公開文書]

 @公文録・明治十四年・第二百九十五巻・明治十四年・公文録発着十月〜十二月太政官〜府県
  〔少書記官小林小太郎外一名島根県其他ヘ出発ノ件〕
   https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000142103

 A公文録・明治十五年・第二百七巻・官吏進退(文部省)
  〔少書記官小林小太郎昇任ノ件〕
   https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000147075

 B公文録・明治十五年・第二百十七巻・明治十五年一月・官吏雑件第二(文部省〜府県)
  〔少書記官小林小太郎外一名帰京ノ件〕
   https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000147502

 C公文録・明治十七年・第二百二十巻・明治十七年六月・官吏雑件(太政官〜府県)
  〔権大書記官小林小太郎橡木(ママ)外一県ヘ各自巡視トシテ出発ノ件〕
   https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000161202

 D公文録・明治十七年・第二百二十三巻・明治十七年八月・官吏雑件一(太政官〜農商務省)
  〔権大書記官小林小太郎橡木県(ママ)等ヨリ帰京ノ件〕
   https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000161591

 E叙位裁可書・明治三十七年・叙位巻二十
  〔小林小太郎特旨叙位ノ件〕
   https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000331884

[無画像・公文書館本館公開文書]
 F書名 英学教授手伝並出役小林小太郎 明細短冊
  〔作成年月日 慶応2年12月30日〕
   https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F1000000000000016417

 G書名 小林小太郎儀開成所英字教授伝並出役被仰付候旨致承知御礼一札
  〔差出:松平隠岐守勝成/宛名:井上河内守/宛名:稲葉美濃守/宛名:松平周防守/宛名:小笠原壱岐守〕
  〔作成年月日 慶応3年1月18日〕

   https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F1000000000000091170


 H書名 教育辞林
  〔著者:ヘンレ・キッドル(米)/著者:アレキサンドル・ジェースケーム(米)/訳者:文部省小林小太郎 〕
   https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F1000000000000061329


 I書名 波氏教育学

  〔著者:ウィルレム・ペーン(米)/訳者:小林小太郎 〕
   https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F1000000000000061392