第十一章 子規と小林小太郎〜 伊予松山藩の英学徒たち〜

                                                                            
1 はじめに                                  

 類稀な文学者である子規・正岡常規(以下子規とする)は慶応三年(一八六七)九月に生まれ、明治一六年(一八八三)六月松山中学を中退して上京するまでの一七年間を明治新政府から「朝敵」の汚名を受けた旧伊予松山藩で多感な少年時代を送る。      
 膨大な子規関係の研究を卑見するに、少年子規を取り巻く環境は「御一新」とは程遠いむしろ新時代と隔絶したものであったと断言しても過言ではなかろう。四民平等の学制改制改革とはいえ、子規の学んだ勝山学校は「士族の子供のみが集まったのである」と影山昇『少年正岡子規−人間形成と学校教育−』は記している。更に子規やその仲間を直接教授し人間的影響を与えた教育環境で特筆すべきは、旧松山藩の最高の知識人を師と仰ぎ指導を受けたことである。漢詩・漢文については母方の祖父大原観山、武智五友、川東静渓、浦屋雲林、和歌については井手真棹を挙げることができよう。他方「文明開化」に対応する欧米文化の大波は伊予松山には押し寄せておらず、伝統的文化の中で子規は養育されてきたと云える。                                 
 子規の「春や昔十五万石の城下かな」の郷愁と司馬遼太郎の『坂の上の雲』の青春群像を通して伊予松山藩から松山市への時代的変革を捉えることが正しいのであろうか。少年子規らの生き方が特殊であって、旧士族、素封家、旧里正、町民・農村有力層の子弟の歩んだ坂道の方が一般的であったといえないだろうか。                
 小論では同じ松山藩士族の子弟ではあるが、「坂の上の雲」を追い求めながら子規とは対蹠的な人生を送った小林小太郎なる愛媛県下では未紹介の人物を中心に伊予松山藩の英語青年群像を描くことにより「英語が苦手な」子規その人に迫ってみたい。                                             

2 小林小太郎の英語修業
                          
〔来歴〕                                    
 小林小太郎は嘉永元年(一八四八)一月豊前守本多正寛候の藩邸に生まれる。父儀行は伊予松山藩で藩校明教館出仕を経て当時は江戸詰めであった。松山藩に於ける小林姓は『松山古今役録』(文化十二年・一八一五頃)では四家あり、うち三家は百石以上の家柄である。                                     
@八代 百廿石 小林斎宮/初代仁右衛門、於掛川出、十二石五斗大小姓、後於松山新  知百石馬廻                                 
A六代 二百八十石 小林八之進/初代金弥、小林金左衛門三男、正徳二年被召出、十  五石小姓、後定英公付五石加増                        
B四代 百石 小林宗蔵/初代清兵衛、小林仁左衛門二男、元禄十三年被召出、十五石  定英公付小姓、後五石加増、享保六年新知百石側役、後留守居番頭    
C七代 六十俵 小林新五郎/初代長兵衛、寛文年中足軽抱、五代目勘定、文化十一年  六十俵、文政三年大小姓格                           

 『松山古今役録』『松山歴俸略記』(弘化年間・一八四四〜四七)以降の『松山武鑑』(嘉永五年・一八五二)『幕末松山藩御役録』(安政六年・一八五九)には小林斎宮を除く三家となっている。明治から大正時代にかけての愛媛財界の重鎮小林信近は小林八之進の養子であり、他の二家には小林儀行に該当する人物はいない。尚『松山市史料集近世編2』中「文久二壬戌(一八六二)年改之 松山御家中古今屋舖附」記載の家屋調査でも小林儀行或いは小太郎の記載はなく、従って現存する松山藩家中文書では小林儀行或いは小太郎の確認が出来ない。                  

 嘉永六・七年(一八五四・五五)ペリー来航に伴い藩では和蘭式の銃隊を編成することになり、砲術高島(秋帆)流の下曽根金三郎(一八〇九〜七四)の門人小林大助を教授方として召し抱えている。実子小太郎が伊予松山藩の藩邸でなく豊前守本多正寛候の藩邸で誕生しており、松山藩歴代の藩士とは考えにくい。駿河田中藩出身の小林大助が請われて松山藩に登用され、儀行と改名し、藩校明教館で砲術の実地訓練教育後江戸詰めにて沿岸警備に備えたというのが歴史的事実ではなかったか。小林大助に関する松山藩の記録は卑見では皆無ではないが、詳細は今後の研究を俟ちたい。                                                    

 〔少年時代〕                                  
万延元年(一八六〇)小太郎一二歳で藩命により英国公使館に三年間預けられ英語を修得する。翌万延二年には水戸浪士の英国公使館襲撃、書記官・長崎領事傷害、護衛の日本武士の英人番兵と伍長の殺害という不穏な排外運動の中で、藩命とは言え子供の英語修得を英国公使館に託した父親は時代の流れを察知できる進歩的な人物ではなかったか。子規の父常尚(通称隼太)とは全く異なる子供に対する強い教育方針があり、子供もそれによく応えた。                                   
 英国公使館での小太郎の様子は公使館員アーネスト・サトーの『回想録』に記載されている。「当時ウイリスと私は海岸通二〇番地の公使館ウイングに住んでいて、そこに小林小太郎という侍の子供が私たちと食事を共にしていた。彼は英語を修得するため、藩命にによりウイリスの元についていた。彼は平均以上の能力はなかったが、いい子だった。一八六三年(文久三年)の春、イギリス政府が生麦事件につき幕府に最後通牒を出した頃、小太郎は親元へ帰った。」 尚サトウは優れた英国外交官で『外交官の見た明治維新』(岩波書店)がある。                               
  小太郎が学んだウイリスとは公使館医師のウイリアム・ウイリスのことで、人物識見ともに秀で明治二年(一八六九)には薩摩藩医学校長に就任し、明治新政府のドイツ医学偏重の中でイギリス医学を日本に根付かせた。幸運にも小太郎はキングズイングリッシュを操る希有な通辞・翻訳官として出発することになる。                
 帰藩後慶応義塾に入社するが、現存する『慶応義塾入社帳』最古の第一頁に黒々と「文久三年春入門  松平隠岐守内 小林小太郎」と自筆署名している。この年小太郎は一五歳に達し元服の式を行った。草創期の慶応義塾では「一六歳、福沢諭吉の門に入り、更に英書を講」じた(小太郎略歴書)。同年入社で塾員となったのは僅か二名、即ち小林小太郎(塾員・特撰員/松平隠岐守/伊予松山)と和田慎二郎〔福沢英之助〕(塾員・特撰員/松平大膳太夫/中津)のみである。

〔英学者・文部省時代〕                             
翌元治元年(一八六四)幕府直轄の開成所に転じ、英書を翻訳して『築城約説』を出版する。明治元年(一八六八)には松山藩洋学司教、翌二年大学〔開成所〕助教、翌三年には大阪洋学所大助教となる。松山藩洋学司教の具体的な内容は不明である。      
明治四年文部省から欧州に派遣され帰国後文部省報告局(翻訳担当)に出仕、報告局長、東京大学予備門長など歴任する。欧米の教育制度の紹介、導入、展開の主導者として明治期の教育改革に重要な役割を担った。明治一二年(一八七九)文部省が刊行した『教育辞林』全四冊は『Kiddle & Schem's Encyclopedia of Education 』(一八七七年・アメリカ)の翻訳で前半は小林が訳し後半は大村一歩が引き継いで完成している。後に『教育辞典』となっているが、日本の教育史の古典的労作である。内容は1)教育及教授の理論2)学校経済3)学校制度4)政府の処置5)教育沿革6)教育者及教育有志者ノ小伝7)学校統計ほか8)教育文学から構成されている。                明治三七年(一九〇三)一〇月死去。墓は東京谷中天王寺にある。職歴、著書など詳細は本テーマと直接の関係がないので割愛する。           

 3 伊予松山藩の英語熱                             

尊皇攘夷の真っ只中での小太郎の英国公使館派遣、慶応義塾入社は一三代藩主松平勝成の英断であり慶応元年(一八六五)には松田晋斎が慶応義塾に入社している。維新後の明治二年から四年にかけて藩政改革の為に二〇歳前後の若者二七名が官費生として東京、大坂(当時)に送り出された。東京南校には佐伯敬崇、高木明輝、共学舎には佐伯陽一、中島勇三郎ら、慶応義塾入社は松木織之進、高木小文吾、薬丸大之丞、和久喜佐雄、十河栄三郎の五名で、薬丸大之丞は内藤鳴雪の実弟である。               
更に明治五年(一八七一)には松田晋斎、河野亮哉、野中久徴、池田謙蔵の四名を公費でアメリカに派遣した。松田は帰国後工部省工学寮、河野は七四年帰国大蔵省租税寮、池田は七三年帰国大蔵省勧業寮、野中は七二年帰国し白川県中属として出仕した。(『幕末明治海外渡航者総覧』)英才を活用する土壌が旧態依然とした保守的な旧松山藩には無かったと云えよう。海外留学生には一ヵ年一〇〇〇両支給、修学生二七名の年額の総額は五四八四両の巨額に達した。                                                                     明治三年には松山藩校(明教館)に洋学を設け、明治五年大洲英学校(下井小太郎)、明治六年宇和島の英学舎・不棄学校(中上川彦次郎・四屋純三郎)と陸続と誕生し、明治八年愛媛英学所(草間時福)が設立されることになる。そのいずれもが慶応義塾の福沢諭吉の門下生が指導に当たった。明治一二年当時の松山中学校からの遊学は慶応義塾八名、三菱商業学校九名、司法省法律学校三名、東京府商法講習所二名、陸軍教導団(後の陸軍士官学校)五名、更に私立済生学舎、神田共立 学校、東京高等師範学校、大学予備門などなどである。(『四十年前之恩師草間先生』)明治の新時代に向けて大きなうねりとして有為な青年たちが伊予から旅立って行くが、青年子規も同様の歩みを始めることとなる。 

 子規が学んだ松山中学校は藩校明教館を発祥として、松山県学校、英学舎・英学所を経て北予変則中学校、松山中学校となり今日の県立松山東高等学校へと続いている。慶応義塾出身の草間時福が英学所初代所長と松山中学校初代校長の任に当たり、二代校長は同じく慶応義塾出身の西川通徹であった。(『愛媛県立松山東高校百年史』)明治四年以降県の学務を担当した鳴雪・内藤素行の『鳴雪自叙伝』によれば、洋学には慶応義塾出身の稲垣銀治、稲葉犀五郎、中村田吉らを揃え、学内ではスマイル『自助論』など洋書をもって論じ、福沢諭吉直伝の演説、討論会が活発に開催された。鳴雪は県令岩村高俊に同行して演説場に度々顔を出している。
                          
4 子規の英語修業                               

〔松山中学校時代〕                               
 子規の中学校入学は草間、西川両校長辞任後の明治一三年(一八八〇)であるが、「学校は振はず教師は皆愚なり無学なり」で「通学否通遊」し「過激なる演説」に熱を上げたと東京大学予備門の同級生であった大谷是空に書き送っている。現在の愛媛県立松山東高校(前身が松山中学校)の名誉の為に付言しておくが、校長は同人社卒業の村松賢一、英語の担当は慶応義塾出身の菱田中行(内藤鳴雪の従兄弟)や三輪宿犀、数学は直接の指導は受けていないが日本の数学史上に燦然と輝いている岡本則録(大阪開成所・大阪師範学校教官で松山中学校後陸軍士官学校教授歴任)らであり地方の中学校としては極めて水準が高い。英語、数学が苦手で毛嫌いした子規の自己弁護の強がりであろう。     
 子規の中学校時代の記録は『子規全集』の『初期文集』と『初期随筆』に集約されている筈であるが、残念ながら英語修行の類の記載がない。母方の祖父大原観山の生涯「蟹行の書を読まず(横文字の書を読まず)」に殉じたのではあるまいが、現存しているのであれば中学時代の横文字のノ−トに目を通したいものである。          

 『墨汁一滴』(明治三四年)に東京大学予備門当時の英語学習の記述がある。「余の勉強といふのは月に一度位徹夜して勉強するので毎日の下読などは殆どして往かない。(略)それでも時々は良心に咎められて勉強する、其法は英語を一語一語覚えるのが第一の必要だといふので、洋紙の小片に一つ宛英語を書いてそれを繰り返し繰り返し見ては暗記する迄やる。併し月に一度位の徹夜では迚も学校で毎日やるだけを追っ付いて行くわけには往かぬ。」期末・学年末試験の一夜漬けの経験は誰しもあろうが、子規の英語苦手意識は身から出た錆といわれても致し方ないのではないか。                
 恐らく松山中学校時代も同様の学習方法であったろうが、英語の初級段階では一夜漬けで充分対応できたかもしれない。参考までに中学校英語の成績を記す。教科書は愛媛県英学所初代所長の草間時福が選定したものが多く、その多くは慶応義塾で使用しており地方の中学生には難解であったろう。                       

明治一三年     英書読方(パーレー万国史)          三三・五(三五)
 (一年前期)   英書問答(ウイルソン第一・第二リードル)   二六  (三〇)       
明治一四年    英書読方(スエル希蝋史)           三〇・五(三五)   
 (一年後期)   英書問答(パーレー万国史 ビネラ文典他)  一五  (三〇)   
明治一五年     英書講読(チトレル万国史           九六  (一〇〇)  
 (二年前期)                                       
明治一五年     英文講読(マンデビール第四読本)       七九  (一〇〇)  
 (二年後期)                                  
明治一五年     英文講読(スチュデント仏国史)       九二・五(一〇〇)  
 (三年前期)                                  
明治一六年     英語                       九五・五(一〇〇)  
 (四年前期)                      
( )は満点数値     尚総合席次では一年前期が二三名中三席、一年後期が十二名中五席、二年前期が十五名中六席、二年後期が十一名中二席、三年前期が七名中三席、四年前期が八人中二席と上位にランクされている。                             

〔東京大学予備門時代〕                             
子規は明治一七年(一八八四)大学予備門予科(英語科第四級)に入学、同級に漱石・夏目金之助らが居た。講談社版『子規全集』年表の明治一八年一二月一日に「大学予備門杉浦重剛非職となり、文部権大書記官小林小太郎が予備門長事務取り扱いを兼務する。」とある。同年九月一一日には第一学期が始まり、子規は原級に留まり九月入学の是空・大谷藤治郎と同級になる。落第の原因は数学(幾何)が英語使用のみで日本語厳禁であったことで「生来尤いやと思いしこと」とこの事件を記している。当時の予備門長(校長)小林小太郎こそ先述した伊予松山藩きっての英語青年であり、藩校明教館に父子で勤め、福沢諭吉が開校した慶応義塾(英学)の塾生第一号にして福沢を助けた人物であるとは子規は生涯知ることはなかった。                           
予備門時代の英語としては『無花果艸紙』に記載してある英文「第十六世紀に於ける英国及び日本の文明の比較」があるが、その他の英文を卑見していないので子規の英語力の水準が如何なものか判断がつかない。小林小太郎の翻訳「築城約説」が世に出たのが弱冠一六歳であり、草間時福らの薫陶を受けた県英学校、松山中学校の先輩の活躍から判断すると上京して己の英語の学力の無さに直面したのは当然であろう。          

 明治二五年文科大学国文科二年の時大学に提出した英文の芭蕉論[Baseo as a Poet] は訳者三浦宏の付記では「俳句のことを紹介した英文としては最初のものに属する」としている。明治二六年三月には大学を中退しており子規の学生時代最後にして最高の英文「作品」ではないのだろうか。共立学校の四級から予備門に入学したのは子規と仙湖・菊地謙二郎の両名であり、柳原極堂の思い出では神田猿若町の子規の下宿に度々顔を出していた仙湖は率直に予備門当時の勉強振りを描写している。「子規はやれば何でも出来た男である。学課は常に抛って置いて試験前になるとやりだす。学課の中で最も嫌いなのは語学であって,語学ほど無趣味ものは無いと言ってゐた、それに数学も好きな方ではなかった。学課の方は不勉強の方ではあったが絶えず本は読んでゐた。一方「場合によってはお世辞を言ったり愛嬌をふりまいたりもし」ていた。第一高等中学校(明治一九年予備門改称)の親友でもある大谷是空と共同で「ゴドルヒン」(Edward George Earle Lytton:Godolphin 1833) を翻訳することにしたが、子規の翻訳小説について「総じて一体の文章文句兎角訳文の臭気多く今少し潤刪あらましほし所」としている。                                        

5 おわりに                                  

二一世紀の今日、俳句も国際化しつつある。英語の俳句について若し子規が生きていたらどの様にコメントするのであろうか。                      
子規の学生時代(大学予備門・第一高等中学校及び文化大学)の受講ノート二七冊は天理大学図書館に所蔵されているが、これを除くと横文字の記述は少ない。明治二四年の『かくれみの』に短詩が記載されている。                                                                 
The Violet                                 
To kiss the violet's lips/ In bed of grass I'v lain /            
And dover'd her with sleeves,/ A night's shelter from rain                                              
先述した英文の芭蕉論[Baseo as a Poet] では松尾芭蕉の俳句一八句を英訳している。有名な「古池や」の逐語訳を参考までに記す。                    
   The old nere!/  A frog jumping in, / The sound of water.        
  A frog jumping in,
                          
子規の日本語の文章では感じられない優しい心情が読者に伝わってくる。俳句の国際化が叫ばれているが、もし子規が今日生存しているとしたら「よもだ」でこの短詩を披露するのではと思う。「英語が苦手」な子規からは想像もできない二一世紀のハイクの展開を注意深く見守っていきたいものである。英語少年小林小太郎も英語ハイクでは活躍の舞台が広がっている筈である。                                                        以上
 (注)参考文献はHPの性格上割愛します。