第十八章 「坂の上の雲」異聞 ・・・和久正辰小伝
 松山では中村時広市長自らが「坂の上の雲」まちづくりの積極的な提言をし、具体的に行政に反映されてきている。一方では「愛媛新聞」紙上はじめ各種寄り合いで現代的な視点での反論も当然ながら展開されている。司馬遼太郎の名著「坂の上の雲」の評価にも関わっているのだが、本小論は伊予松山藩下級武士層から輩出した子規・正岡常規や秋山好古、真之兄弟が主人公でなく、同じ松山藩の扶持米百石以上の「御目見得格」の中級武士層から育っていった青年達の姿を、もうひとつの「坂の上の雲」として描いてみたい。
(一)
 余程注意深い読者でなければ、「坂の上の雲」の第一章に当たる「春や昔」の中で、秋山真之青年を名古屋の県立師範学校付属小学校に招聘した旧松山藩士和久正辰(まさとき)の記述が、初版本と第何版から改定されたのか確認していないが、現在の普及版とでは大きく違っていることにお気づきないだろうと思う。
 初版本では、【正辰は、年のころ四十五、六だろう。きれいな江戸弁をつかうのは、旧藩時代、江戸の定府だからであった。若いころ幕府の官学である昌平校に学んだというから、よほどの秀才だったにちがいない。それほどの男が、たかが師範学校の付属小学校主事をしているというのは、戊辰のとき賊方にまわった松山藩の出身だからにちがいない。「それでもおれはいいほうよ」と、和久正辰はいった。「官途につけたのだから」という。】となっている。(注)昌平校の【校】は当て字である、念の為。
 それが現在の普及版では、【正辰は、年はまだ三十前かと思える。ときどき東京のことばをつかう。このことは、明治二年、藩命によって東京にのぼり、慶応義塾に入って福沢諭吉にまなんだことと無縁ではない。松山では秀才できこえたこの男が、たかが師範学校の付属小学校主事をしているというのは、戊辰のとき賊方にまわった松山藩の出身だからにちがいない。「それでもおれはいいほうよ」と、和久正辰はいった。「官途につけたのだから」という。「他は、みじめなものさ」だから後進を誘掖する義務がおれにはあるという。光った頭である。】と修正されている。
 もともと詮索好きでへそ曲りなものだから、司馬さんが思い違いをした和久正辰に興味を抱いて少し調べて見ることにした。
(二)
 「坂の上の雲」初版本では、名古屋で和久正辰と秋山好古が初めて出会った明治九年(一八七六)に「年のころ四十五、六年」で「昌平校に学ん」で「たかが師範学校の付属小学校主事をしている」と軽蔑とも同情とも取れる表現になっているが、正辰は嘉永五年(一八五二)生まれの若干二十五歳の【愛知県師範学校教頭兼付属小学校主事】の要職にあるエリート教育者であった。尚、好古は安政六年(一八五九)生まれで、正辰とは七歳の差がある。司馬さんにしてこの誤りであり「他山の石」として自戒していきたいものである。司馬さんが偉いのはこの誤りに気付いて改訂版を出されたことである。(注)昌平校の【校】は当字である、念の為。
 和久家は松山藩百五十石取りである。藩の儒官で明教館教授である日下宗八(伯巌)の娘理が和久重徳に嫁ぎ、正辰は重徳の令孫に当たる。日下家は百石取りである。
 文久三年(一八六三)松山藩の藩校である明教館に入学し漢学を修業し、明治元年(一八六八)には新設の松山藩洋学所に入り英語を学ぶ。翌明治二年三月に藩命により留学生として慶応義塾に「入社」し、三年間英学を学び同五年七月に卒業する。卒業後東京本郷の菅相義塾で英学教授、同七年から九年二月までは宇和島藩出身の末広鉄腸が主筆の東京曙新聞社に入り編輯に従事する。福沢諭吉と末広鉄腸の推挙に基づくものと考えるが、同年三月に月俸五〇円で愛知県師範学校教頭として赴任した。尚新任の好古の月俸は三〇円であった。明治八年に松山東高校の濫觴でもある愛媛英学所が設立されるが、初代英学所総長で松山中学校初代校長でもある慶応義塾出身の草間時福(俳人草間時彦祖父)を愛媛県令岩村高俊に推挙したのも福沢諭吉と末広鉄腸であり、月俸は四〇円であった。
 明治二年から四年にかけて開明的な藩主であった松平勝成の主導により三十二名の青年が国内留学し、更に明治三年には外国文明事情視察のため四名が米国に派遣された。慶応義塾に「入社」したのは和久正辰、高木小文吾、菱田中行、黒田進、佐伯寿人の五青年であり、菱田中行は鳴雪・内藤素行の従兄弟である。尚鳴雪の実弟である薬丸大之丞は私費「入社」している。尚、内藤家は百十石、薬丸家は二百石、菱田家は百石取りの中士の家柄である。高木家、黒田家、佐伯家については未調査である。
(注)当時の私塾への入学は「入門」が一般的であるが、慶応義塾(会社)では「入社」とし、教職員並びに塾員を総称して「社中」と呼んだ。
 正辰は生涯を教育界に捧げ、宮城県師範学校校長(兼宮城中学校長)、東京府師範学校長を歴任する。明治二〇年以降、浄土宗大学林教頭、旧松山藩主久松家家事諮問員、東本願寺大谷光演教授掛の要職を担当する。青年教育への熱は冷めず、明治三十二年以降には奈良県郡山中学校長、青森県弘前中学校長を歴任した。
 大正十二年(一九二三)の関東大震災罹災を期に故郷松山に戻り、昭和九年(一九三四)八十三歳で没した。退役後松山に戻り北予中学(現松山北高校)の校長を務めた秋山好古が終生正辰を「先生」と呼び師弟の礼を重んじた。好古に「教育の何たるか」を教え、「軍人の道」を教えた和久正辰こそ、秋山好古を大成させた恩人ではなかったかと思う。好古が子息二人を慶応義塾に進学させたのは、そこに和久正辰「先生」の生き方を見たからではないだろうか。もし和久正辰が松山中学校長であったとしたら後世の我々にどのようなメッセージを残していただろうか。
(注)畏友「三好彰」氏から和久正辰の著作・翻訳書のリストをお知らせ頂いた。参考までに掲載し同学の士のお役に立てたい。(2006.6.30)
 1 収税要論. 上巻 / 弥児(ミル)著他,土屋〔ほか〕, 明12.7
 2 小学填字法 / 和久正辰著,和久正辰〔ほか〕, 明12.12
 3 西史攬要 / 烏斯多爾(ウ−スタル)著他,松井忠兵衛等, 明19.2
 4 教育学講義 / 和久正辰著,牧野書房, 明19
 5 理科教授法 / 和久正辰編訳,牧野書店, 明20
 6 応用心理学(左氏) / 惹迷斯・左来(ゼ−ムス・サレ−)著 和久正辰訳,牧野書房, 明20−21
 7 初等心理学 / 和久正辰著,牧野書房, 明23.4
 8 論理学教授書 / 和久正辰著,東京学館独習部, 明25.8
 9 教育学教授書 / 和久正辰述,東京学館独修部, 明27.8
10 心理学 / 和久正辰著,東京学館独修部, 明28.6
11 教育史講義 / 和久正辰述,明治講学会, 〔?〕. - (尋常師範学科講義録
(三)
和久正辰が明治元年(一八六八)から翌年三月に慶応義塾に留学するまで、新設の松山藩洋学所で英語を修業したことを先述したが、この洋学所の洋学司教は小林小太郎なる二十一歳の青年教師であった。
 嘉永六年(一八五三)のペリー来航から一五〇年が経過したが、日本は黒船と大砲に威圧されながら「開国」「攘夷」に分かれて明治維新に向かう。松山藩でも本格的に洋式砲術を導入するが、その教官が高島(秋帆)流下曽根金三郎門下の小林小四郎(百五十石)であり、小太郎は小四郎の長子に当たる。
 小太郎は十三歳で藩命により芝高輪の英国公使館に留学し三年間英語を修業する。公使館では後に日本公使となるアーネスト・サトウやイギリス医学を日本に定着させたウイリアム・ウイルスにキングズイングリッシュを学ぶ。文久三年(一八六三)慶応義塾に「入社」するが福沢諭吉に代わって英書を講義し、元治元年(一八六四)幕府開成所入学後は教授方手伝に命じられるなどその学識は高く評価された。
 松山藩洋学所での教授は一年にも満たないが、明治八年に開所された愛媛英学所の素地を築いたとも云えよう。明治六年に文部省に出仕し、文部行政の翻訳担当として欧米の教育水準に近づけるべく中等教科書類、教育専門書・論文の翻訳はじめ海外の教育実態調査、わが国の近代的教育改革提言などを行う。文部権大書記官となり、明治十八年には東京大学予備門事務取扱(旧制第一高等学校校長)を兼務している。
 「坂の上の雲」の主人公の一人である子規・正岡常規は、明治十七年大学予備門予科に入学、同級に漱石・夏目金之助らが居た。翌年、子規は原級に留まる。落第の原因は数学(幾何)が英語使用のみで日本語厳禁であったことにより「生来尤いやと思いしこと」と子規は述懐している。類稀な文学者となる子規が不得手な英語で苦吟する時に、当代切っての英語通である元松山藩士で松山藩洋学司教であった小林小太郎が、子規の在籍する大学予備門の校長であったとは・・・・・ もし司馬さんがこの事実をご存知だったら、事実を膨らませて「坂の上の雲」の何処かに書き込んでいたに違いあるまい。
(四)
 本年(平成十六年)十月の某日、漱石研究会(通称坊っちゃん会)例会が母校松山東高校の視聴覚教室で開催され、「漱石と湧ヶ淵大蛇伝説」について一時間程お話をした。母校の教壇に立って話をするのは元生徒としては感慨深いものがある。
 漱石の松山中学時代は明治二十八年(一八九五)四月から二十九年三月までの僅か一年であり、湯山湧ヶ淵吟行は師走に入ってからである。
湧ヶ淵 三好秀保 大蛇を斬るところ
蛇を斬った 岩をと聞けば 淵寒し 漱石
平成十五年(二〇〇三)にホテル奥道後は創立四〇周年を迎えた。昼なお暗い鬱蒼と繁った樹木の下を滔々と流れる水が、巌とぶつかって轟々とこだましたその昔の湧ケ淵を、五十歳未満の方には想像も出来ないだろう。漱石が後代に湧ケ淵と大蛇の記憶を残してくれたことに心からなる感謝の念を捧げたい。
 聴講者の中に松山子規会の会長で白髪の老紳士である浦屋薫さんの姿があった。松山中学昭和十一年卒業の大先輩である。ご尊父浦屋魁氏は松山中学明治三十二年卒である。御祖父が浦屋寛制即ち浦屋雲林翁であり正岡子規とその友人達が雲林塾である桃源校で漢学・漢詩を学んだ。明治三十七年には拙宅を訪れて漢詩「訪道後村三好生観索牛花」を詠んでいる。一〇〇年以上も歳月は経過しても、松山の地には子規や漱石が、そして「坂の上の雲」の群像たちが生き生きしていることを実感した。(注)桃源校の【校】は当字である、念の為。
 個人的な感慨であるが、三好盛三郎(明治二十九年卒)、章(大正十四年卒)そして私(昭和二十九年卒)と三世代に亘って松山中学・松山東高校で勉強できた。善永全象先生は父子共通の英語の先生であった。同期会の卒業五十周年記念俳句に感慨を込めて「父と同じ校塔仰ぎ入学す」を投稿した。
 高校卒業五十周年は、即古希の慶事でもある。古希の年月を二つ重ねると、明治の「坂の上の雲」の時代が広がっている。だとすれば我々の現在の歳月の積み重ねが二十一世紀の「坂の上の雲」づくりなのかもしれない。これから五十年後の世界を見ることは不可能だが、孫か曾孫が「父祖と同じ校塔仰ぎ入学す」なる句を詠んでくれることを心密かに期待している