第九章 松山中学校と慶応義塾  〜初代校長・草間時福〜


 一、はじめに
                                
 『松山中学校と慶応義塾〜初代校長・草間時福〜』の表題をご覧になり怪訝な感じをお持ちの方も多いかもしれない。 『松山中学・松山東高校同窓会名簿』の歴代校長の頁に記載されている初代校長・草間時福と二代校長・西河通徹は福沢諭吉の門下生であり慶応義塾の出身者である。草間時福は松山英学所の所長として招聘され、教育のみならず愛媛県下の自由民権運動やマスコミに少なからず影響を与えた人物である。                                               

二、正岡子規と「演説」
                            
 子規が松山から最初に上京するのは明治十六(一八八三)年六月のことであるが、紀行文として『東海紀行』が執筆され、今日国会図書館本と正宗寺本が残されている。松山中学校を退学するのは同年五月である。 以下冒頭の部分を記す。(正宗寺本に拠る。) 
                 
 「余ノ上京ヲ決スルヤ事、至急ニ出デ朋友諸君ニ告ク(送別ス)ルノ暇之レ無シ 然レトモ余ヤ猶演説会ノ一事ハ常ニ心ニ関スルヲ以テ九日閑ヲ偸ンデ明教館ニ到(至)ル 蓋シ暗ニ別ヲ告ゲント欲スル也 其演説ノ畧ニ曰ク 諸君ノ茲ニ演説会ヲ開クヤ為メニ 一国ノ元気ヲ奮励スル者アル(リ)ナリ 例ヘバ名将ノ麾下ヲ馭スルガ如シ 一タヒ旗 旒ヲ揮ヘバ一軍皆進ム一タヒ陣鼓ヲ撃テバ衆隊悉ク開ク 段心会ハ是レ将師ナリ伊予全 国ハ是レ其ノ麾下ナリ 其進退盛衰未ダ曽テ此会ニ因ラズンバアラザルナリ 何トナレバ草間先生ノ此校ニ来リ演説ヲナスヤ伊予全国之ガ為ニ始メテ演説ノ有益ナルコトヲ知リタルナリ 故ニ伊予全国ノ人民ハ常ニ眼ヲ中学校ノ演説会ニ注ケリ 是レ其本源ナレバナリ 且ツ曩日海南新聞紙上ニ於テ之ヲ賞励スルガ如キアレバ一国ノ元気之ガ為ニ激 昂シ従テ演説会ヲ拡充スルノ良風ヲ及ボスベキナリ 是レ即チ余ガ諸君ノ熱心如何(即チ此会ノ盛衰)ハ一国ノ元気ヲ支配スル者ナリト云フ所以ナリ 諸君ノ責任豈重キニアラズヤ (以下省略) 」 (注)(  )内は本文脇の添字(修正)。                  

 子規の演説草稿については『無花果艸紙』冒頭に『自由何クニカアル』(明治十五年十二月青年会演説)、『諸君将ニ忘年会ヲ開カントス』(明治十五年十二月十七日青年会 演説)が記載されている。また回覧雑誌の『桜亭雑誌』や『松山雑誌』『弁論雑誌』に も政治色の強い小論文が残されている。温暖な四国松山においてこの様な過激な議論が発表される背景は、少年正岡常規の十三、四才当時の正義感が押さえきれない程の大きな時代の流れがあったに違いない。それは全国を風靡した自由民権運動であった。
                                                          
 子規が上京し東京大学予備門で同級であった大谷是空に送った書簡の一節に松山中学校 当時の屈折した気持ちが如実に語られている。                  
 「・・致し方なく中学校へ通学否通遊致居候歳事人を待たずかく悠々とくらしおる内三 年余の日月を経過せり 而して一ツ得る所なし 其頃政の盛なりし時故 僕も学校に於て過激なる演説ばかりなしおれり 而して学校は振はず教師は皆愚なり無学なり 是に於てか今迄の政治演説は変して一種の実行手段となれり 何ぞや退校なり 頃は明治の 十六年夏のはじめつかたの頃と覚ゆ(略)」(和田克司編著『大谷是空・浪花雑記』) この後暫くして伯父加藤拓川から東京への招聘状が届き、僅か二日を経て六月十日、十七才で上京することとなる。 
                         
 子規・正岡常規の熱中した演説、藩校の建物である明教館での演説の原型は、福沢諭吉が提唱し慶応義塾が実践した演説方法であり、慶応義塾出身の草間時福初代校長が定着させたものと考えられる。もっとも子規自身は草間時福の謦咳に直接には接していな い。                                                                            

 三、慶応義塾と「演説」
                             
 スピーチを「演説」と翻訳したのは福沢諭吉であり、三田の慶応義塾内に演説館を建て福沢諭吉以下慶応義塾の塾生が大いに自説を発表した。この演説館は三田山上に現存し 重要文化財の指定を受けている。                                                                
 明治七(一八七四)年十二月刊行の『学問のすゝめ』十二編の前段が『演説の法を勧るの法』であり次のように始まる。
                        
 「演説とは英語にて「スピイチ」と云ひ、大勢の人を会して説を述べ、席上にて我思ふ 所を人に伝るの法なり。我国にて古より其法あるを聞かず、寺院の説法などは先づ此類 なる可し。西洋諸国にては演説の法最も盛にして、政府の議院、学者の集会、商人の会社、市民の寄合より、冠婚葬祭、開業開店等の細事に至るまでも、僅に十数名の人を会することあれば、必ず其会に付き、或は会したる趣意を述べ、或は人々平生の持論を吐き、或は即席の思付を説て衆客に披露するの風なり。此法の大切なるは固より論を俟ず 。譬へば今世間にて議院などの説あれども、仮令ひ院を開くも第一に説を述るの法あら されば、議院も其用を為さヾる可し。」                     
 三田演説会の発会は明治七年六月であるから、スピーチが演説と翻訳されるのは明治六 年に遡ることはあるまい。因みに明治十六年版の『慶応義塾記事』中の『学規の事』にはこの間の事情が次の様に詳述されている。
                   
 「明治七年夏の頃、本塾の教員相会し学術進歩の事を議して謂らく、西洋諸国には『ス ピーチュ』の法あり(即ち今日の演説なり)、学術教場の教えのみにては未だ以て足れりとす可らず、『スピーチュ』『デベート』(討論)の如き、学術中最も大切なる部分なれば、此法を我国に行はれしめては如何との相談にて、衆皆之に同意し、何事にても 世に普通ならしめんとするには吾より之を始るに若かず、然らば此原語を何と訳して妥当ならん、談論、講談、弁説、問答、等、様々に文字を案じて遂に『スピーチュ』を演 説、『デベート』を討論と訳して、其方法の大概を一小冊子に綴り社中に竊に之を演習したるは明治七年五月より凡そ半年の間なり。・・・(以下省略)」 
       
 演説館の新設については「公衆を集め又は内の生徒を会して公然所思を演るの法に慣れ 、以て他日の用に供せんとする者にして、演説討論の稽古をする場所な」ることを強調 している。慶応義塾で福沢諭吉以下の薫陶を受けた草間時福が、松山中学校内の明教館 で率先して演説を普及させたのは当然といえば当然のことであった。                                               

 四、愛媛県権令岩村高俊との出会い 
                       
 草間時福は嘉永六(一八五三)年五月一九日京都御所南門衛士下田好文の四男に生まれ草間列五郎の養子となる。明治三年上京し安井息軒・中村敬宇に学び、ついで慶応義塾 に入り福沢諭吉の教えを受け明治八(一八七五)年卒業した。           
 上記は『愛媛人名辞典』に記載されている内容であるが、『慶応義塾入社帳』によると 入社〔入学〕は明治七戌年四月二日で年齢は二十歳四ヵ月となっており、誕生日は五月十五日である。尚保証人は杉浦正臣である。又郷土史家影浦稚桃は嘉永六年九月十九日出生としている。(『伊予史談一四〇号』) 
                  
 明治八年愛媛英学所を設立してその指導者を求めていた愛媛県権令岩村高俊は、宇和島出身の当時曙新聞の主筆をしていた末広鉄膓の仲介で草間青年と面談、民権自由論や国会論を議論して、三者三様に当代の「演説好き」であるだけに談論風発し、岩村の意に投じ、二三歳の書生ながら月俸四〇円の愛媛英学所総長(所長)として迎えられること になる。漱石・夏目金之助が月俸八〇円で松山中学英語教師として赴任するのは明治二八(一八九五)年二九歳の時であり、草間の赴任から二十年経過しているが、漱石の前職である東京高等師範学英語教授の報酬(年額)が四五〇円であることから判断しても異常に高額の報酬であったのは事実である。           

 愛媛県権令岩村高俊の評価は、愛媛県下の人物紹介では自由民権派の権令として評価が高いし、それだけの実績を挙げたのは事実であろう。しかし、歴史にロマンがあるとすればこれほどロマンのない政治家も少ないのではあるまいか。司馬遼太郎の小説に描かれた岩村の姿には冷酷なまでにメスを入れている。越後長岡藩の家老河井継之助の懇願を僅か半刻で切上げ、高圧的に振る舞い弁明を一切 聞かず五ヵ月に及ぶ奥州での戦闘に追い込んだ張本人は岩村であり(『峠』)、大久保 利通に取り入り、佐賀藩の江藤新平や島義勇の反乱を仕組み佐賀城を争奪し、維新の元 勲江藤を梟首で処刑したチョロマ(傲慢で無思慮な行動家)である佐賀県権令は同じく 岩村であった(『歳月』)。愛媛県権令として『坂の上の雲』なる松山に赴任した岩村は、これまでの挙動からは想像もつかない自由民権派であり、青年草間時福との波長は合致したものと思える。                                                                   

 五、松山中学校の「演説」
                            
 昭和五三(一九七八)年刊行の『愛媛県立松山東高校百年史』は、明教館時代に続いて 松山県学校時代、英学舎・英学所時代、北予変則中学校時代、松山中学校時代、愛媛県 第一中学校時代、愛媛県伊予尋常中学校時代、愛媛県尋常中学校時代を経て、愛媛県立 松山中学校以下の紹介に充てられている。               

 明治三(一八七〇)年一〇月松山藩校であった明教館に「皇・漢・洋学・数学・医科」 の五科が設けられ、鳴雪・内藤素行が運営を担当した。『鳴雪自叙伝』では、明治四年郷里松山に帰省したが、我々は東京で文明の新空気を吸って居ると云ふ誇りから「誰に向かっても、例の文明談の気焔を吐き散らした。と云って実際どれ丈の事を知って居る かと云ふに、先づ福沢諭吉翁の西洋事情三冊を読んだ位で・・・・」と遠慮勝ちに書い ているが、洋学は慶応義塾出身の稲垣銀蔵(銀治)、稲葉犀次郎(犀五郎)、中村吉( 田吉)で揃えた。(注)人名は『愛媛県教育史』に拠る。(  )内人名は『鳴雪自叙伝』記載。                                            

 愛媛県下でも大洲英学校が明治五年一〇月に慶応義塾出身の下井小太郎が中心となり設立され、明治六年一月には神山県(宇和島)の英学舎・不棄学校が福沢諭吉の指導を得て設立され、後年日本経済の指導者となった福沢諭吉の甥である中上川彦次郎と四屋純三郎が着任し、合わせて大洲英学校へも出張教授していた。急激な学制改革の嵐が吹き荒れ 旧宇和島藩、旧大洲藩の教育の母胎となるまでには成長できなかったが、前途有為な青年に大きな夢を与えることになった。             

草間時福の松山時代は、英学舎・英学所、北予変則中学校、松山中学校の時代に相当する。明治八(一八七五)年八月から明治一二(一八七九)年七月迄の四年間である。 草間時福の英学所・松山中学校の教育内容と「演説」については直弟子永江為政が『四十年前之恩師草間先生』に書き残している。英学所ではスマイルの『自助論』などを洋書でもって論じるかたわら、月二、三回の演説、討論会を開き、先生も生徒も交りあって議論の機会を持った。この文明開化を思わせる自由な学風が優れた生徒を集め多くの人材を輩出したが、中でも岡崎高厚・門田正 経・永江為政・森肇・矢野可宗ら言論人を志す者が多かった。                 

 「学生一同は英書を学ぶ以外に、月に二回又は三回、明教館の講堂の中央を議場の如く大円形に造り『テーブル』を置き直して正面に演壇を据へ、定期の演説会、若しくは討論会が開かれる。其時は必らず県庁から岩村権令が臨席される。内藤鳴雪翁などは無論の事、其他・・(略)・・などいふ県官中の政論家も、毎回出席せられて、討論の問題 に就いては草間先生から説明せらる。スルト、先生も生徒も皆一緒に成る。川中島の如く対陣して各其の席に着く、例へば『国は農を以て立つ乎、商を以て立つ乎』といふ様な問題が出ると、農業立国論者は右へ、商業立国論者は左へといふ塩梅に、相向って席 を定め、交々立て演説をする。・・(略)・・ 或時、岩村権令は正面の演壇に着席され、両側に居並ぶ児童を凝視しつゝ、一々指名せられて『銘々が立身の目的如何』といふ問題を提出になり、各其自席に起立して演説せよといふ事であったので、学生は皆陸 続起立した。そして其試問に応じて各自所思を演説した。」とつぶさに描写している。 明教館内の凛とした雰囲気が伝わってくる様だが、今日明教館で県知事、県会議員、教職員、高校生が「皆一緒に成」って「相向って席を定め、交 々立て演説をする」ことは想像もできない。まさに限定され場ではあるが、自由民権思想の胎動を感じる。今日の少人数学級以上のホームルームが全学的に実行されていたとも云えよう。                                            

 五、筆禍事件と自由民権運動                           
 草間時福にとっては愛媛英学所・松山中学校の所長・校長以上に劇的なドラマに幾つか 遭遇することになる。
                             
 一つは朝野新聞投稿の『改革論』筆禍事件である。明治八(一八七五)年七月、岩村権令、末広鉄膓との会談を遡ること四ヵ月前の同年三月、末広鉄膓が主宰する朝野新聞(社長・成島柳北)に『改革論』なる過激な一編を投書し、当時の新聞条例第一三条「国家を転覆し政府を変換する」条項に抵触し、編輯人の沢田直温は禁固二年罰金二〇〇円の重刑を受けた。執筆者である草間時福は松山で召還され、佐久間象山の甥に当たる佐 久間格が担当裁判官となった。禁固八ヵ月・罰金百円の判決内容を事前に岩間権令より知らされたが、裁判言渡当日岩間権令と佐久間裁判官との折衝により禁固二ヵ月・罰金 五十円に半減されたとのことである。尚、罰金五十円は岩村権令夫人から手渡された百 円札で支払い、松山では政治犯の獄舎がないので自宅禁固となった。どこの国の話かと 思うが、一二〇年程前の日本の話であることは、草間自身が述べた『懐旧談』に記録されているから確かであろう。岩村権令の意向で免職にもならず、県下の自由民権運動の盛り上がりの中で草間擁護論が強まった。                    
 二つには、明治九(一八七六)年九月『愛媛新聞』の元祖となる『本県御用愛媛新聞』 が岩村権令の発案で創刊され翌年『海南新聞』と改題するが、草間が主筆として論説を 書き、編集長は大属・天野御民が担当した。自由民権知事・岩村権令との組んで民権の一大キャンペーンが発進することになる。                    
 
 三つには、明治一〇(一八七七)年西南の役が起こり、土佐の立志社、阿波の自助社の活動が活発化するが、翌一一年に松山に政治結社公共社を設立し、その主張を海南新聞で発表することとなる。県図書館に資料は完備しているので内容については割愛する。土佐の立志社の有力メンバーが岩村権令の長兄岩村通俊と次兄林有造あるが、公共社との関連についても割愛する。                          
 明治一三(一八八〇)年以降は『集会条例』により「政治に関する事項を講談論議するため公衆を集め」る場合には管轄警察署に届けることが義務づけられる。草間の松山時代は恵まれていたと言えよう。上京してからも草間の政治への発言は停まらず、国会図書館「衆議院憲政史編纂会収集文書」中明治一三年一二月調・演説会結社人名に『嚶鳴社 麹町区内幸町二丁目五番地  草間時福』と記載されている。当時、郵便報知新聞、朝野新聞、東京日日新聞に『慶応義塾演説会』や『三田政談会』『三田政社』の記事や広告を散見するから福沢諭吉以下の三田社中の有力一員として活躍し、又期待もされたのであろう。        

 四つには、必ずしも草間の直接の影響とは言い難いが、それでいて最大の影響ではないかと考えるのは直弟子を中心に新聞・言論界に松山中学の人材が輩出したことである。 如何に草間時福の後姿が偉大且つ強烈であったのかと思う。                                                      
 荻川実・北越新聞  門田正径・松江新聞・大阪毎日新聞  清水(告森)隆徳・大阪日報  菅沼政典・兵神日報  林常直・浪華新聞  田中岩三郎・近事評論     永江為政・大阪毎日新聞  矢野可宗・鹿児島新聞・神戸又新日報  岡崎高厚・大阪毎日新聞  田中(遠山)岩三郎・近事評論                                                                                 

 六、松山中学校長退任と教え子の動向 
                     
 草間は明治十二(一八七九)年夏丸四年を迎えるに当たって、恩師である福沢諭吉に後任者を依頼している。福沢から草間宛の書簡が残されている。                                                      
 秋冷の好時節益御清適奉拝賀。陳ば先日拝眉の節、仁兄の御跡引受の為、一名入用の由に承はり候。右はいまだ御心当無之候哉。若し無之候はヾ爰に一人あり、即ち酒井良明なり。此人目下仕事なし。人物は無申分、実着の士なり。何卒御面話の上、可然と思召候はヾ御周旋被下度、即本人参上い才可申上、御聞取奉願候。右要用のみ申上度、早々頓首。       福 沢  
                                         
 詳しい事情は不明であるが、福沢諭吉が推薦した酒井良明は嘉永五(一八五二)年生まれで草間より一歳年上である。明治一三(一八八〇)年三重県津中学校校長となり、後 に母校慶応義塾の教員に就任している。決定までの間西川通徹が校長代理を勤め、二代校長に就任した。西川通徹は今日忘れられた存在ではあるが、慶応義塾の学生当時から 『東京曙新聞』への常連投書者であり、海南新聞編集長も経験したが、総房共立新聞・自由新聞・秋田日報・中外電報・絵入朝野新聞・大阪朝日新聞など生涯言論界に身を置 き、後半生官界に身を投じた草間時福より清冽な人生を歩んだとも言える。是非発掘したい郷土の明治人の一人と云えよう。南予出身であり、同郷の末広鉄膓に近い思想の新聞人であった。                                

 送別の宴は同年七月二〇日に明教館で開かれ、岩村権令はじめ学務官吏、新聞記者、知人等二百余名参集。交々立って演説をし、酒肴の饗応となった。最後は撃剣の試合でお開きになったが、「壮快雄絶なる送別会」と記録されている。
                                                   
 草間が松山を去るに伴い、草間を慕って上京する者が続出した。明治一二年当時は士族とはいえ経済的には大変であったろうが草間門下生の遊学の熱気はブームとなった。慶応義塾に八名、三菱商業学校に九名、司法省法律学校に三名、東京府商法講習所に二名、陸軍教導団(後の陸軍士官学校)に五名、更に私立済生学舎、神田共立学校、東京高等師範学校、大学予備門へと入学した。東京遊学熱はあったとは云え、草間時福校長の教育者としての吸引力が如何に強烈だったかの証左であろう。          
 『同窓会名簿』は明治一二年二月輩出以降の名簿であり細部は不明であるが、永江為政の記録では八名慶応義塾入学と記載されており、『慶応義塾入社帳』には七名のみで山路一遊の記録はない。参考までに慶応義塾入社(学)及び卒業年月を記載しておく。                                                        入学年月日     年齢       卒業年月日         
村井 保固  明治一〇・六    二二・八    明治一一・一二        
梅木 忠朴    一〇・一〇   一八・一〇     一四・七         
宮内 直挙    一〇・三    二〇・二      二三(特選)       
浅岡 満俊    一二・三    一七・二      三九(特選)       
矢野 可奈    一二・九    一七・四      一四・四         
門田 正経    一二・九    一七・七      三九(特選)       
細田 重房    一三・九    一七        一六・七                                               
 特選は正規の卒業ではないが、その年度に卒業生待遇を受けることになった。尚『慶応義塾入社帳』によれば矢野可奈と門田正経の保証人は草間時福であった。

 遊学した学生の記録は今後の調査を待たねばならないが、『同窓会名簿』で梅木忠朴が母校松山中学の教諭となっている。明治二七(一八九四)年五月から明治三七年一月の一〇年弱である。同時期に漱石・夏目金之助が赴任(明治二八年四月〜明治二九年四月)している。本論の主題ではないが、草間時福校長の直弟子で松山中学校出身の誇り高い英語教師が、『坊ちゃん先生』をどの様な気持ちで迎えたかを梅木忠朴が息子に語った記録が残っているので披露しておきたい。                「夏目さんが後年、世界的文豪になるなどとは夢にも思っていなかったから、明治二十八年四月、夏目金之助という文学士が、外人教師の後任として赴任すると、住田校長から聞き、いったいどんな男かな、と首を長くして待っていた。しかもわが輩と同じ英語を担任するので余計気になる。とうとうその日が来た。わが輩が教室に出掛けようという朝の時間、急に教員室が騒がしくなったので見ると、鼻下にひげをたくわえた小柄な男が住田校長と入って来た。教師にひとりひとりあいさつに回って、わが輩のところに来た。「夏目です。どうかよろしく」と頭を下げるから「いやていねいに、 こちらこそ どうぞよろしく」とあいさつ顔を合わした。黒ダブルの背広を着用して蝶ネクタイ、なかなかハイカラ紳士で、さすが江戸っ子だと思った。しかしよくよく顔を見ると、うっすらとアバタがある。ハハアこの先生、子どもの時ほうそうをわずらったなと思った。 それから一週間ばかりしても、あまり話し合うこともないので、なんだ、いやに江戸っ子風を吹かして生意気な青二才だと思った。ハハーン田舎者だと思ってバカにしているな、わが輩だってこう見えても、十年も東京のめしを食ったのだ。お江戸の水で顔を洗ってきたのだ、人をバカにしている、と、ちょっと反感をもった。それというのも、先輩を通り越した上席で、しかも月給はわが輩よりも倍も上だ。校長も校長だと大いに不満をもって西川忠太郎という同じ英語の教師とグチをこぼし合った。ところがこの江戸っ子のハイカラ野郎は、わが輩どころか校長よりも二十円月給が高いと知って、われわれ郷土の教師はみな目を丸くしておどろいた。」(新開宏樹『漱石追想』) 
    
 一方漱石は『坊っちゃん』の中で「夫れから英語の教師に古賀とか云ふ大変顔色の悪るい男が居た。」と記し「うらなり」の渾名を付けたが、当時の横地石太郎学校長事務取 扱と弘中又一数学教師の書き込みに「うらなりは梅木忠朴?」として「酒ニ酔フト磊落デ粗暴トナルガ常ニハ猫ノ様ナ人デアッタ侠気ノアル人、顔色蒼白」と記している。                                        
 六、四十年振りの師弟の再会 
                          
 草間時福が松山中学校を離れたのが二七歳の夏である。最初は朝野新聞で論説を書いたが、『巡行地方人民に告ぐ』や『日本人民は乞願ノ権理ヲ有セルカ』の論調は特に激しい。その後は、越佐新聞、北越新聞、東京横浜毎日新聞、日本立憲政党新聞の主筆として社説、論説を担当した。                           
 明治一七(一八八四)年三二歳で官界に入り、灯台局次長、為替貯金管理部長、郵便電 信学校長、航路標識管理所長などを歴任し、大正二(一九一三)年六一歳で定年退職し 官界を去る。彼の選んだ人生ではあるが、二〇代の華やかな舞台で青春のエネルギーを総て燃焼しつくした様に思えてならない。                     権令岩村高俊も明治一三年三六歳で内務大書記官〔内務省戸籍局長〕に栄転し、後任の 県令には漢学者で保守主義の関新平茨城県元権参事が着任し、それまでの民権主義的風潮が修正されていく。それは西南の役を克服した明治新政府の新しい動きに明治維新のエネルギーが吸収されていく過程でもあった。                  
 草間時福にとっての至福のひとときが大正一〇(一九二一)年に訪れる。門下生の招きで松山を訪れ、朝野を挙げての歓待となる。本稿で度々引用したが、永江為政の編集し た『四十年前之恩師草間先生』に詳細かつ感動的に語られているので割愛する。錦鶏間祇候に列せられ、昭和七(一九三二)年一月五日八〇歳で死去した。俳人として 活躍中の草間時彦は時福の孫に当たる。                                                            

 七、おわりに
                                   
 明治時代の教育にあって、開化思想は全国的に広まっていく。福沢諭吉の主唱する「実学」は国家による中央統制的な官僚機構や教育制度には合致せず、帝国大学、(高等) 師範学校出身者を中心に再編成されるに時間はあまり要しなかった。そして明治中期以 降は「殖産興業」の若々しい資本主義社会を支える実業界に慶応義塾出身の青年たちは飛び込み「独立自尊」を押し進め様とした。スピーチ(演説)とディベート(討論)こそは「言論の自由」の根底にある手法であり、言葉を以て人を感動させ、理想を語り、未来に向けて実践することは、武力よりも尊いペンの力ではないだろうか。                          
 IT革命により、中・高等教育に於ける活字文化と対面授業の非能率と非効率は指摘されており、その批判は更に激しくなっていくだろうが、親と子、先生と生徒、夫と妻、 男と女、首長と市民、国民と国民、国と国の最も強い結び付きは「信頼」であり、「心と心」であり、それを支える「ことば」ではないだろうか。僅か四年間の英学所・松山中学校の所長・校長であった草間時福の残したメッセージは 何だったかを考えることも今日無駄ではないのではないか。                            以上  (注)参考文献はHPの性格上割愛します。

(追記)平成17年9月29日
草間時福も墓所が判明したので付記します。(本所在は文献記載無く今回「慶応義塾」にも連絡したので、今後は塾出身者関係資料に記載されると思う。)
草間家は時福ー時光(鎌倉市長)ー時彦(俳人)−文彦[現存]と続いている。時光氏以下の草間家の墓所は逗子の法性寺(日蓮宗)内にあり、時福のみ個人墓が青山墓地内にある。