第五章 平安時代の伊予・道後 @〜E
@ 〜伊予は居よいか住みよいか〜
 平安時代は七九四年(鳴くよ鶯平安京)から一一九二年(いい国造り鎌倉武士)までの約四〇〇年である。中央では貴族文化の最も華やかな時代といえるが、全十三巻の膨大な「松山市史料集」を繙いても僅か数頁しか平安時代の事項は記述されていない。殆ど資料がないことが重要かつ重大な歴史事実だと捉えて平安時代の伊予を無謀ではあるか描いておきたい。学生時代、英国中世農村を再現するのに教会 税の遺産目録からその生活実態を構築した手法にあ やかってデ−タ−分析から始める。

 平安初期の「延喜式」の国等級では上国として六六ヵ国中 四八ヵ国(中)以上に格付けされていたが、一二〇〇年頃平基親が取り纏めた「官職秘抄」 では「伊予・播磨四位上臈任之」と記載されている。三位以上は公卿即ち「いとやんごとなき御方」であるから正四位格といえば行政官としては東京都知事或いは米国大使に匹敵する最高の格であることは間違いない。事実、白河・鳥羽院政期(一〇八六〜一 一五六)国守(受領)から公卿になった十五名中十二名は伊予守を経ており更に驚くべきことに伊予守 から直接公卿に昇格した者が五名(三分の一)を占めている。平安末期、伊予の国守が最高位の地方行政官であったことは伊予が最高の大国であった証左ではないか。それを可能にしたのは何か。
A 〜伊予は摂関家の直轄国か〜 
 国の等級は大国・上国・中国・下国に区分される が、基準は院や摂関家への上納額に拠る。白河・鳥 羽院政期(八十四年間)の院・摂関家系の国守(受領)在任年数は伊予(七六年)を筆頭に六十年以上は美作・播磨の二国、五十年以上でも六八国中十一ヵ国を数えるに過ぎない。この間の伊予の国守を列挙する。高階為家・藤原敦家・藤原顕季*・高階泰仲・藤原国明・藤原長実*・藤原基隆*・藤原家保 *・藤原忠隆*・藤原清隆*・高階盛章・藤原親隆*と藤原一族が続く。(*印公卿昇格) 

 このことは伊予国の受領収入額がトップ級であったことを裏書きする。更に受領収入=国内収取量−国家納入量〔税金〕とすれば、受領収入の過半は院や摂関家に上納したとしても、受領(国守)も多額の収入を得たに相違あるまい。このことは伊予国の収奪が過酷であったことを示すものではない。国家納入量〔税金〕を減額しその分を納させたケ−スも考えられるが、耕地面積と生産性は余り特異性が考えられないとすれば、海上交通と交易(&海賊)のメリットを無視することはできない伊予の国府の実力者で瀬戸内海を一時支配した藤原純友の乱(九三六〜九四一)が象徴している。いづれにせよ伊予は巨大な受領収入を支える 生産力・経済力を持つ大国であった。 
B  〜伊予は摂関家の繁栄の支え手か〜 
 白河・鳥羽院政期に先立つ藤原道長・頼通時代 (996〜1061)の伊予国受領は下表の通り道長・頼通に繋がる一族であることが歴然としている。
高階 明順 中宮(定子/道長兄道隆の娘)大進
藤原 広業 道長家司 東宮(敦良)学士
藤原 為任 皇后(成子)亮
源  頼光 三条院別当(道長近親者)
藤原 済家 道長家司、敦成親王家別当
藤原 章信 敦成親王(母・道長娘彰子)家蔵人
源  章任 後一条乳母子
藤原 資業 後一条乳母夫
平  範国 頼通家司
高階 成章 東宮(敦良/母・道長娘彰子)大進
藤原 隆佐 頼通家司 東宮(敦良)大進
藤原 邦恒 頼通家司 敦成親王家侍者
藤原 実綱 頼通家司 後一条乳母子
注:敦成親王→後一条天皇/敦良親王→後朱雀天皇

 源姓、平姓で伊予守に任じられている者が若干いる。源頼光は長く美濃守を勤めたが、長和四年(1 015)に女婿藤原道綱が頼光邸で道長の為に宴を催したことからも終生道長の忠実な部下であったことが分かる。章任、範国も同様である。                        
C 〜伊予の全国シェアは千年不変とは〜 
 わが国最古の分類体の漢和辞書である「倭名類聚鈔(和名鈔)」は源順著で承平年中(九三一〜九三 八)、醍醐天皇の皇女勤子内親王の命によって撰進された。 

 弥永貞三「日本古代社会経済史研究」によれば、八・九世紀の田積数は全国約862,000町、伊予13,501町で約1・6%、郷数は全国約4000郷、伊予72郷で約1・8%である。西日本で伊予を上回る国は大和、近江、播磨、讃岐、筑前、 肥後、肥前の7国で、大和を除けば今日でも日本有数の米作地帯である。奈良時代に人口は約500万と推定されるから、田積数と郷数から1・7%のシェアとすれば8・5万人だから伊予の人口は凡そ8万から9万人であったと考えられる。      

  四国(伊予・讃岐・阿波・土佐)合計では42千町歩で約4・9%であるから今日のGDPのシェアと変わらない。愛媛のシェア1・6%も大同小異である。一〇〇〇年を経ても国(県)力に大幅な変動がないことをどの様に理解したらよいのか。

日本が内乱(戦国時代)は別としても比較的平和で安定的に発展したこと、また均質・均衡ある発展が国是であることも一因であろう。藤原純友の乱の後遺症(経済的打撃)が少なかったのは地上戦でなく海上戦 (交易覇権争い)であったことに因るのか。(続く)
D 〜源氏は伊予の棟梁となりえたか〜 
 源頼光と言えば大江山の酒呑童子を四天王と共に勅命を奉じて退治したとして絵巻、お伽草紙、浄瑠 璃璃歌舞伎の題材となっているが、寛仁二年(一〇一八)に伊予守となる。この年藤原道長が土御門邸を新築したが、頼光はその家具調度類一式献上し耳目を驚かした。伊予国の受領が如何に大きかったかの証左でもある。終生道長の忠実な侍に徹したがその子頼国が摂津源氏の祖となった。      

 時代は大きく下るが、元暦二年(一一八五)安徳天皇はじめ平氏一門は壇の浦で壊滅し、頼朝と義経の不和が表面化する。義経は後白河法王から伊予守を命ぜられ西国の海上権を得て「頼朝追討」に立つが、西国への渡航が嵐の為に失敗し、最後は東北の平泉の藤原秀衡の許に身を寄せ悲劇的な生涯を終える。若し海上が平穏で無事伊予に渡り、伊予守として中国・九州・四国を取り纏め後白河法王とともに 反鎌倉体制を確立したとすれば、以後の武家政治の展開がどの様に進んだのであろうか。

 「大国伊予」は平安時代から武家社会への移行期に最後の閃光を放って、古代の熟田津から保持してきた日本の表舞台から消え失せることになる。武家社会の成立は、東日本と西日本、武士層と天皇公家 の二極体制となり他勢力は疎外された。
E 〜忘れられた町・道後〜
 平安期の伊予を論述しながら、道後郷について一切触れていないことを怪訝に思われたかも知れない。源氏物語で描く「伊予の湯桁」に痕跡を留めるように文学や記の世界には道後郷は生きているが実態はどの様になっていたのか。          

 伊予国府(今治・桜井周辺)の在庁官人層の分布を見ると 1)新居系〔高井氏・新居氏・越智氏〕 2)大三島神社系〔大祝氏〕 3)日吉神社系〔日吉氏・別宮 氏〕 4)河野氏 5)紀氏らが群雄割拠しており,国衙による統制が徐々に乱れてきている。        

 かつては港湾に恵まれた熟田津であったが土砂の堆積や開墾によって平野が広がり道後郷も戦略的な価値を失うことになった。当然に内陸部にあたる道 後郷は交通の要衝とは疎遠になった。時代は下って河野氏が鎌倉幕府の信任を得て道後に湯築城を築城し拠点化した。戦前の道後村「字今市」は通説では当時の市の跡を示している。温泉周辺に七世紀頃の湯之町廃寺、内代廃寺(斉明天皇朝鮮出 兵時)が確認されているが平安期の寺院で特記するものはない。条里制からの分析も確たる成果はない。 華やかな平安文化を支えた「植民地」としての経済的な価値はあっても文化的には抹殺される事例は世界史に於ける「野蛮国」も同様であろうか。