第二章 伊予の湯桁 @〜E
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 熟田津の時代の文化を描く段になって思わぬ障害が出てきた。古代の熟田津には素晴らしい文化があったと思うが、今日でも同様だが文化の発信地は奈良であり京都でありそして東京である。地方が発信しても中央が認知しない限り幾時代にも亘って記録としては残っていかない。風土記の世界から柳田民俗学まで飛んでしまうのではないか。

 「広辞苑」から「伊予」に関する項目を抽出してみる。「伊予」「伊予温湯碑文」「伊予絣」「伊予札」「伊予白目」「伊予簾」「伊予簾垂」「伊予染」「伊予砥」「伊予胴丸」「伊予の湯桁」「伊予柾紙」「伊予蝋」の十三項目である。うち特産品が八項目(絣・白目・簾・簾垂・染・砥・柾紙・蝋)、武具は二項目(札・胴丸)であり、伊予は地名、伊予温湯碑文は聖徳太子が熟田津を讃えた華麗な漢文で記した碑文である。             
 湯桁といえば当代の人は草津温泉の湯桁を想起するだろうが古代の人にとっては伊予(熟田津)の湯桁でなければならなかった。古事記、日本書紀から万葉集にも親しんだ紫式部は伊予に来遊したことはないが伊予の湯は当然知っていた筈だし「伊予の湯桁」なる伊予から伝えられた歌謡も、佐渡おけさの元歌である「伊予は居よいか住みよいか」同様に口ずさみ、源氏物語に伊予の湯桁を残した。
A
 源氏物語から「伊予の湯桁」の一節を抜粋する。
○「いで、この度は負けにけり。隅のところどころ、いでいで」と指を屈めて「十、二十、三十、四十」など数ふるさま、伊予の湯桁もたどたどかるまじう見ゆ。(空蝉巻)
○(伊予介は)国の物語など申すに「湯桁はいくつ」と問はまほしくおぼせど、あいなくまばゆくて、御心の中に思し出づる事もさまさまなり。(夕顔巻)
 前段は空蝉が継娘の軒端の萩と碁を打っているのを源氏が垣間見ている場面、後段は源氏の許に空蝉を伴って伊予に赴任していた伊予介が帰郷の挨拶に参上した場面である。時代は下るが、鎌倉時代の藤原定家の「体源抄」(源氏注釈書)には「伊予の湯の湯桁はいくついさ知らず数へずよまず君ぞ知るらん」とあるし、南北朝の四辻善成の「河海抄」(源氏注釈書)にも「伊予の湯の湯桁の数は左八つ右は九つ中は十六」と詠まれている。
 思うに「佐渡おけさ」の元歌である「伊予は居よいか住みよいか」と同様に歌人達には数の多さの例えとして詩的な響きを持つ「伊予の湯桁」を使ったに違いあるまい。文学史上「伊予の○○」なる使用例を今後調査してみたい。
B
 伊予の湯桁の元歌は「雑芸催馬楽」。豊原統秋著「體源抄」(永正12年/1515) に収録されている。
@ 伊予ノ湯ノ 湯桁ハイクツ イサ知ラズヤ 数ヘズヨマズ ヤレ ソヨヤ ナヨヤ 君ゾ知ルラウヤ
A 伊予ノ湯ノ下 下ヨリ湧クノ 白糸ノヤ クル人タエヌ ヤレ ソヨヤ ナヤ モノニゾアリケルヤ 
B 伊予越エノ ナゴエノツヅラ 我ガ引カバ ヤウヤウ寄リ来 ヤレ ソヨヤ ナヤ 忍ビ忍ビニヤ 
C 伊予ノ湯ノ サラハニ立チテ 見ワタセバヤ タケノ都ハ 手ニトリテ見ユヤ
 歌意は@女が私の思いはと誘うとA女の所に通う男が多いと揶揄しB女が私の合図で忍んで来い(夜這い?)と告げC恋は成就し朝帰り。「サラハ」は伊佐爾波の岡(道後公園)「タケ」は和気(熟田津)を指している。今も昔も愛媛(姫)ロマンか?
 思うに、この歌のおおらかな性の讃歌は平安の貴族と女官にとって愛すべきものであったのに違いない。近年愛媛大学の教官(中小路駿逸)により催馬楽譜によって復元された。
C
 「源氏物語」後の湯桁の歌を記載しておく。
○神さぶる伊予の湯桁のそれならで 我が老いらくも数ぞ知られぬ (前大納言季継/新葉和歌集)
○むすびても今はなにせむ伊予の湯のめぐる数にもあまる齢は (正徹/草根集) 
○めぐりあひぬ古き涙もわきかへり伊予の湯桁の数のみのりに (長嘯/林葉累塵集)
 ところで肝腎の湯桁だが木で囲った浴槽は、左八つ右九つ中十六で合計三十三であったらしい。
○伊予の湯の湯桁の数は左八つ右は九つ中は十六 (六花和歌集)
 思うに飛鳥から平安の時代に、妙齢の女性が当然着衣して入浴するのだろうが、木枠を歩いて中十六の湯桁に滑り込んだのか、男女混浴?の男性がエスコートしたのか古文書には全く記載はない。古代の女性や性は開放的で健康的であり燦々と日の照る湯桁の中で相聞歌を詠んだのであろうか。宮廷の女官が道後温泉に憧れたのは無理もあるまい。
D
 伊予の湯桁の図の初見は室町期の「和歌秘書集」(伝冷泉為家作・筆者不明)である。前回艶っぽい入浴法を例示したが、湯桁の歴史的分析をする。
@ 原始的な露天砂湯で源泉脇に井字型組違いの枠を作り混浴(古代)
A 底のない箱の様な木枠を浴槽に嵌め込み混浴(古代〜中世)−−伊予の湯桁の時代 
B B湯釜と浴槽を設け身分別・男女別入浴(近世)に大別されるが陸奥の湯治様式にその残滓を垣間見ることが出来よう。
「伊予風土記」時代(太古)は湯壺(源泉)に幾つもの木を渡してその上で沐浴(井上通泰/上代地理歴史新考)したらしい。蒸し風呂の座板の様なものかと思われる。語源的には井桁?湯桁と捉えれば聖徳太子碑文に温泉を神井と表現しているので温泉源が井の様であったと想像できる。
 AからBへの移行期即ち戦国時代から江戸時代初期には湯桁(碁盤目板枠囲い)別に身分別・男女別入浴形態が一般化し、入浴客の増大に対応し今日見られる様な浴場形式が普及した。元禄十五年(一七〇二)頃には、一の湯(士族・僧侶)、二の湯(婦人用二室)、三の湯(庶民男子用三室)が棟別に建設された。その他に惣入れごみ湯と生類憐令の関連で馬(牛)湯も設置された。四国遍路(乞食)や所謂部落民の入浴所の記録は不明である。
E
 紫式部「源氏物語」と違って、清少納言の「枕草 子」には残念ながら伊予の湯桁の記載はないが、 伊予簾には筆を運ばせている。
 ○にくきもの。(中略)伊予簾など懸けたるに うちかづきて、「さらさら」とならしたるも いとにくし。(二十五段)
 ○庭いと清げに掃き、紫草して伊予簾懸けわたし、布障子張らせて(以下略)(一七〇段)
「源氏物語」は柏木、浮舟巻に記載あり。
 四国遍路の起源は古いし、熟田津には古代寺院も多く五十一番札所熊野山石手寺を始めとして真言・天台密教の寺院も数多くあるが、伊予の湯桁に触れた縁起に目を通していないし「一遍聖絵」でも同様である。江戸期の伊能忠敬日記〔道後・鹿島屋泊〕(一八〇八)や一茶の「寛政紀行」(一七九五)にも記述はない。
思うに熟田津では湯桁はありふれた存在であり文学的表現までには昇華しなかった。  明治初年の松山英学所並びに松山中学校初代校長草間時福(慶応義塾出身)が四〇年振りに道後を訪れた時「長らへし甲斐はありけれ伊予の湯のゆ桁のかずをまたもかぞへて」と詠んだ。自由民権運動に挺身した草間翁には伊予の湯桁は人生の安らぎの記号であったのであろうか。