第二十九章 一向聖・一遍聖 略年表(作業中)
本「略年表」は、平成19年2月度一遍会例会で発表する「浄土時宗開祖 一向俊聖〜一遍の一歩先を歩いた遊行聖〜」の添付資料である。一向・一遍両聖の対比により、「一遍聖絵」の理解が一層進むことを期待している。
西暦
年号
年齢
一 向 俊 聖
一 遍 智 真
1192 建久2年 . . 頼朝、征夷大将軍 祖父通信(谷)と頼朝(政子)は義兄弟
1213 建保1年 . .. 証空、西山善峰寺住持(聖達・華台・如仏は同輩)、
1221 承久3年 .. .
【承久の変】
祖父通信奥州江刺流刑 長男通俊戦死、次男通政斬死、三男通広仏門 四男通末信州流刑、五男通久北条方 六男通継北条方、通広長男通真北条方
1239
暦仁2年
延応1年
1歳
正月朔日、筑後国竹野庄に誕生。幼名松童丸。
父:(藤原)草野冠四郎永泰(草野太夫永平・弟)
母:(藤原)草野兼房女
.
2月7日伊予国に誕生(次男)。幼名松壽丸。
父:河野七郎通広(如仏)出家(鎌倉→京都→伊予)
母:不詳
義弟または実子:仙阿(寶厳寺住持)、聖戒(歓喜光寺住持)
1245 寛元3年 7歳 2月15日播州書写山に上り10年修行す。 .
1248 宝治2年 10歳 . 母と死別。父の命で「継教寺」で出家「隋縁」と号する
1251 建長3年 13歳 .
春、大宰府西山派聖達上人の禅室に入る。
肥前国清水寺の華台上人に浄土の初学を学ぶ。「智真」と改号。
1252 建長4年 14歳 . 春、聖達上人の元に戻り12年修行す。
1253 建長5年 15歳 3月18日剃髪受戒し「俊聖」と号する。 ..
1254 建長6年 16歳 夏、書写山を下り6年間南都諸宗歴訪。 ..
1259 正元1年 21歳
巳未3月、清水寺参詣。
鎌倉蓮華寺の鎮西派然阿良忠(記主禅師)の門弟となり随従15年。一向専念の文【一向専念無量寿佛】により名を「一向」と改め専修行者となる。
○四大自本空 五蘊仮建立 宝号留所々 名之謂一向
..
1263 弘長3年 25歳 . 5月24日父如仏死去により伊予に戻る。妻帯し子を設ける。
1271 文永8年 33歳 .
春、信州善光寺参詣、二河白道図を写す。
秋、伊予窪寺に閑室を設け念仏三昧に入る。
○己心領解の法門(十一不二頌)を悟る。
1273 文永10年 35歳
2月 師の元を辞し諸国遊行に出る。
夏、「無常の偈」「浄土和讃」を作り徒衆に示す。
門徒を「時衆」と呼称する。
.
1274 文永11年 36歳
【文永の役】(10月)
夏、大隅八幡宮参詣。四十八夜の不段念仏執行。
神託【四十八蓮華】を受ける。
牧子を拾い縫い合わせ袈裟とする。
秋、肥後の菊池遊行。
.
春、摂津四天王寺参篭、念仏札を配り勧進する。高野山に上る。
夏、熊野本宮参篭。熊野権現の啓示。「六十万人偈」等を作り自ら法門を表す。
「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」の念仏形木を伊予聖戒に送る。
1275 建治1年 37歳
豊前国宇佐八幡にて踊念仏修す。鰐口の一面を授かる。
大菩薩から鰐口表一面給う。一遍は裏一面給う。
『にしへ行山の岩かどふみならしこけこそ道のさわりなりけり』(こけ=虚仮・苔)
薩摩国修行。8月中頃 四国(讃岐)渡海。
秋、熊野、京都・九州(宇佐八幡宮?)を経て伊予に帰り、国中を念仏勧進し去る。
『にしへ行山の岩かどふみならしこけこそ道のたよりなりけり』(こけ=虚仮・苔)
1276
建治2年
38歳
船中の消息を踊念仏にして「四反十二段」の法式とする.
春 阿波国遊行
秋 伊予国桑村にて俊阿、上人の初弟子となる.
再度伊予に戻る。九州の聖達上人の禅室に赴く。
筑前国の武士の館で念仏勧進。九州念仏は困苦を極める。
大隈正八幡宮参詣。
。『とことはに南無阿弥陀仏ととなふればなもあみだぶにむまれこそすれ』
豊後大友兵庫頼泰の帰依を受けて滞在。
真教(他阿弥陀仏)が同行を約す。
1277
建治3年
39歳
夏 備中の吉備津宮にて7日の念仏執行.。
礼智阿、弟子となる. 馬場(番場)二代上人となる。
建治3年10月中旬備前国修行。
(豊後在)
1278
弘安1年
40歳
春、芸州宮嶋  礼智阿門弟西運(草壁兵部) 同国高田
8月 雲州水尾宮 7日の念仏執行
同国意宇の郷の古き道場 7日の別時執行.
存阿→奥州学牛「往生寺」開基.
夏、伊予に帰る。安芸厳島参詣。
冬、備前国藤井の吉備津宮野神主の子息の妻女出家し
夫が福岡の市に追うが同心して出家。
1279
弘安2年
41歳
長州豊浦遊行.  解畏阿初めて随身。
石集邇摩
春、京都因幡堂。8月善光寺。
歳末、信濃佐久郡伴野の市場の在家で歳末別時念仏修行。
小田切の里で踊り念仏始め。大井太郎邸で踊り念仏。
1280
弘安3年
42歳
作州勝田郡
善光寺から奥州(白河の関、江刺郡の祖父河野通信の墓)を経て
松島・平泉、常陸、武蔵国へ。
1281
弘安4年
43歳
【弘安の役】(5〜7月)
因幡遊行。
丹州草野辺【礼智阿と兵衛の問答】
.
1984
弘安5年
44歳
. 春、鎌倉入り。
7月伊豆国(三島神社) 蒲原(あぢさか入道)
1283
弘安6年
45歳
夏、華洛に入り古跡霊場を巡礼。礼智阿伊勢国に赴く。
鞍馬毘沙門堂に17日参籠、念仏法楽。
尾張国(甚目寺) 美濃国  近江国守山(閻魔堂・草津)
1284
弘安7年
46歳
春、加州金沢 弥陀安置道場にて躍躍念仏。
夏、江州坂田郡馬場米山の草堂(釈迦像安置)にて念仏執行、
此処に留まる。
礼智阿、尾州津島を化道し馬場に参る。
近江国(関寺)
京都(四条京極釈迦堂 三條悲田院 雲居寺 六波羅蜜寺 市屋)
秋、山陰篠村(穴生寺)
1285
弘安8年
47歳
. 5月、丹後久美の浜 因幡国 伯耆国逢坂 美作国(一の宮)
1286
弘安9年
48歳
. 四天王寺、住吉神社、磯長聖徳太子廟 大和国(当麻寺)
冬、岩清水八幡宮、淀(うへの)、四天王寺
兵庫(光明福寺)院 南野教信寺
1287
弘安10年
49歳
11月12日発病、18日の死を予告、礼智阿を後継に指名す。
11月18日亥の時立ちながら息絶える。立ち往生
尊骸を仏前に安置し諸人との結縁を済ませ火葬にす。
12月2日二祖礼智阿回国発足沙汰。土肥入道道日の懇請で留まる。回国上符を存阿に譲る。
三祖存阿は奥州学牛に精舎(往生寺)を建て独住。
春、播磨(書写山 松原八幡)備中国 備後
一ノ宮(吉備津神社)
秋、安芸国(厳島神社)
1288
正応元年
50歳
. 伊予に渡る。菅生岩屋寺、繁多寺、
12月16日大山祇神社参詣
1289
正応2年
. . 大山祇神社(桜会) 讃岐(善通寺・曼荼羅寺) 阿波国 淡路島
兵庫光明福寺 8月23日辰(午前7時頃)「涅槃像」往生。
火葬
1301
正安3年
. 四祖を願何と定め丑6月三祖存阿は回国遊行に出る。
.
1325
正中2年
. 正月13日、二祖礼智阿15日の死を予告し同阿に附法。
15日巳の時73歳で息絶える。
.
(注1)
「一向上人伝」嘉暦三歳仲冬(1328)元祖の諱日に当りて是を書し畢ヌ
「一遍聖絵」正安元年<己亥>(1299)八月二十三日西方行人聖戒記之畢
(注2)
一向の詳しい伝記は『一向上人伝』という絵巻によるほかない。これは番場蓮華寺を正統とする立場から近世に書かれたと考えられる。したがって、同じ一向の系統を引く寺院の多い出羽国方面に伝わる伝承とはかなり異なる。鎮西派ではなく、西山派の僧であったとする系譜もある。そしていずれの伝承も、内容が説話化していて信憑性に欠けるところがあった。しかし近年山形県天童市の高野坊遺跡より、応長元年(1311年)に「一向義空菩薩」二十七年忌をおこなったことを墨書した礫石経が多数出土し、一向の菩薩号が義空であるという伝承に一致することから、一向の実在が立証された(ただし没年がずれることになる)。
  
(注3)
時衆とは善導の「観経疏」の一節「道俗時衆等、各發無上心」からきており、一日を6分割して不断念仏する集団(ないし成員)を指し、古代以来、顕密寺院にいた。