第二十一章 一遍と神々の出会い(3)尼僧ということ(下)
5 中世(武家社会)の女性像 
 教科書的表現をすれば、中世の女性は「五障」にして「三従」(父・夫・子)を強いられ、「女性垢穢」の為「実成男子」により「成仏するもの」とされている。また江戸時代の儒教的女性軽蔑思想を加味して、中世の女性も同様に「差別化」された存在であったと認識されていないだろうか。                           
(1)フロイスの『日本覚書』 
 同時代資料として時代は16世紀に下るが、イエズス会のフロイスの『日本覚書』の興味ある記述を紹介したい。下克上の戦乱期にあっては土地・家を守るのは妻(女性)であり、現代女性以上に開放的に男女差別のない社会に住んでいたことが分かる。その自信を支える経済的な地盤があったと考えられる。                   
@ 日本の女性は処女の純潔をなんら重んじない。それを欠いても、栄誉も結婚(する資格)も失いはしない。
A 日本では、各々が自分のわけまえを所有しており、ときには妻が夫に高利で貸し付ける。
B 日本では、望みのまま幾人でも離別する。彼女たちはそれによって名誉も結婚(する資格)も失わない。
C 日本では、しばしば妻たちのほうが夫を離別する。
D 日本では、夫に知らさず、また両親に相談することもなく、自由にいきたいところに行く。
E 日本では、夫が後方を、妻が前方を行く。
F 日本では、女性の飲酒が非常に頻繁であり、祭礼においては度々酩酊するまで飲む。
 イエズス会のフロイスの『日本覚書』は主に西日本(九州、中国)であるが、瀬戸内の一遍を生んだ伊予国河野家また姻戚関係にあった毛利家の記録から家を取り仕切った妻や後家の役割や存在を見ていきたい。
(2)河野家通宣妻
 河野家の系譜については割愛するが、豊臣秀吉による四国統治により伊予の名門河野家も滅亡し、中国の覇者毛利家の小早川家が占領する。河野家滅亡期に重要な役割を果たすのが、毛利元就の孫に当たり、最後の当主「通直(牛福)」の母であり、河野左大夫通宣の妻であり、宍戸降家の妻で元就の愛娘五竜局の長女である「通宣後家(仕出・大方と呼称)の存在である。
 東雲女子大学西尾和美教授の精力的な研究で最近明らかになってきたが、毛利家は「通宣後家、宍戸降家・五竜局嫡女」を通して河野家の情報を正確かつ喫急に掴み、河野家内部に親毛利派を育成し掌中に納めた。「通宣後家」もまた実家の意向に沿い緊張関係にある両家の調整機能としての役割を果たした。
 「河野家文書」では「通宣後家」は「仕出」「大方」の名称で記載されている。「大方」は一般呼称であろうが、「仕出」は「通直(牛福)」家屋と住み分けて居住した場所と推定される。この場所で「通宣後家」自身も河野家の政治に係わったのである。
 更に宍戸降家の次女は吉川元春の長男元長、三女は毛利輝元の正室であり、毛利家を中心にした血縁、閨閥の強固なネットワ−クが宍戸家を支え同時に「河野通宣後家」を支えていた。
 戦国時代の主家同士の婚姻は「悲劇の女性」として歴史文学では描かれがちであるが、男が戦場で命を賭けると同様に、女も実家と婚家先の「和平の使者」としての命を賭けることが求められ、また期待に応えたといえる。人質とは本質的に違う位置づけであった。
(3)毛利家の女性の地位
@毛利元就の「三本の矢の戒め」は後世の創作であろうが、長男隆元、次男(吉川)元春、三男(小早川)隆景、嫡女(宍戸)五竜局の結束させ毛利家を仕切ったのは元就正室妙玖の力であり、妻を無くしてから「内をば母親をもっておさめ、外をば父親をもって治め候と申す金言、すこしもたがわずまでにて候」と述懐している。
A長男隆元正室尾崎局は隆元死後実子輝元の養育を夫に代わり担当し、元就への報告についても「隠密事項」は家老を通さず家臣団に対する影響力を持ち続けた。義弟吉川元春、小早川隆景宛の輝元護持の書状が数多く残されている。
B「小早川家文書」の弘景の置文(1443年)には「娘が縁あって他家に嫁ぐ時は子供と思い扶持こと。事情で当家に居る場合は十貫位扶持して心安く過ごさせよ。」と記載している。経済的な支援を怠るなと家督を継ぐ者に要請しているのである。
C「吉川家法度」(1617年制定)ではイ、ロ、ハなどは公認されている。妻の財産は個人的な財産でなく実家が管理する財産であることが分かる
イ) 子供なく妻死亡の場合は「女持ち来るの財宝」は実家返戻 
ロ) 実子ある場合は妻の財産は子供に譲渡
ハ) 夫の過失に因る離婚の場合は「女持ち来るの財宝」の他「家中財宝」持ち出し
D毛利家の婿養子の財産取扱(「萩藩閥閲録」)  
二) 婿養子が家督を相続しても妻離婚の場合は妻に相続財産一切を返戻 
河野家通宣妻の立場も上記毛利家と同様の取扱いを河野家が認めた(或いは武家社会の一般的な通念)と考えると、後家となっても河野家内での発言権は変わらず或いは更に強固になったと考えられる。夫の供養に為「尼」となり住所(庵、院)を別に構えても、実家さえ強固であれば、一定の影響力を保持できたと考えられる。 
 この考え方を一遍遊行当時の鎌倉時代初期(十二、十三世紀)にまで拡大解釈できるかどうかは史料による検証が必要だろう。
6 鎌倉期(12世紀以降)の尼僧と尼寺
(1)出家の機縁
 前段における毛利家、河野家の女性の地位は特殊な例示かもしれないが、16世紀前半に成立した『七十一番職人歌合』には多くの女性が描かれ、一番一組で百四十二種類の職人が描かれているが、この内三十四種(約25%)が女性であり、今日で云う社会進出を果たしていた。女性=経済弱者ではなく自立した女性も多く居た証左と云えよう。
 武家社会が確立し、戦乱が続発し結果として死が日常化していき、民衆は死を直視して生きなければならなった。また密教や浄土思想が庶民に普及浸透し、貴族から庶民まで等しく阿弥陀仏を通して浄土往生を願う時代へと移行してきた。
 出家の機縁は@肉親(親、夫、子供)の菩提かA老年、病気、臨終出家に分けられが、出家同士の相互扶助や共同生活が広まり、孤独や生活上の不安が薄らいできている。
(2)尼僧・尼寺の形態 
 この集団の形態は
@ 富裕層による尼寺の創建あるいは復興 定着定住の尼僧グル−プ
A 僧寺周辺の草庵
B 在家居住尼
C 遍歴尼(談義比丘尼、源氏読比丘尼、芸能比丘尼など) 非定住の尼僧グル−プ
D 勧進比丘尼(熊野比丘尼、善光寺比丘尼、伊勢比丘尼など)
E 遊行比丘尼(時衆など)
F 乞食比丘尼
 更に機縁があれば尼僧になる可能性のある後家たちがG比丘尼予備軍として都市、農村、山村、漁村を問わず存在していたと考えられる。『一遍聖絵』の記述によっても遊行時に多くの尼を亡くしているが、尼僧の不足を悔やむ叙述はない。現地調達が可能であったと推量しても間違いではあるまい。                        
7 おわりに 
 一遍について読書し研究を続けると一遍をとりまく集団の中に常に女性の存在があることに気付くことが多い。 
 一遍出生寺といわれる宝厳寺や近郊の願成寺の縁起を調査すると忽然と尼寺が浮かび上がってくる。戦国騒乱の武家時代の河野家や毛利一族の古文書に当たると、強固な戦国武将集団を内部から支えたのは妻であり後家であった。通説では源頼朝と(北条)政子、豊臣秀吉と(杉原)弥々を始めとして「英雄」を支え信頼し後継者を育成したのは妻であり「後家」であった。
 浄土真宗の親鸞上人を別にすると教祖(始祖)と尼(比丘尼)の関係に触れることはタブー視されてきたのではあるまいか。時宗(時衆)の盛衰発展の歴史も尼(比丘尼)を蔑視しては正鵠を期しがたいと考える。とは云えあまりに時宗における尼(比丘尼)関連史料は少な過ぎるのではあるまいか。強いていうと、時宗発展の鍵は女性(尼)登用にあるのではあるまいか。一遍の時代に遊行集団に参集した女性の熱気を是非宗門のなかに取り入れて欲しいものである。
8 参考 『一遍聖絵』記述の女性・尼僧 
 本章の説明すると長文になるので記載内容を項目的に列挙する。頁は岩波文庫聖戒編大橋俊雄校注『一遍聖絵』に拠った。 
(1)『一遍聖絵』
【母の死】 第1章 第1段 P7 
【岩屋寺縁起】 第2章 第1段 P15
【伊予出立】 第2章 第2段 P18〜19 
【同行等放棄】  第3章 第2段 P26
【備前吉津宮神主の妻女出家】 第4章 第3段 P36〜38
【信州佐久郡大井太郎姉弟の供養】 第4章 第3段 P47〜48
【尼法師の無作法】 第5章 第2段 P48
【悪党時衆の尼を捕らんとす】 第5章 第4段 P51 
【桂の里で病む】  第7章 第4段 P82〜84 
【十二道具】 第10章 第1段 P114
【淡河殿と申す女房賦算】 第12章 第2段 P139〜140
(2)『播磨法語集』
【念仏の機】               法語集  18   P154 
【仏阿弥陀仏】 法語集 31 P161  
(3)引用文献
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