第十二章 一遍と神々の出会い @夢託ということ
 一遍聖ほど神仏に寛容であった仏教者はない。神仏混淆であったが日蓮、親鸞の如く鎌倉時代の仏教者としてアイデンティーを主張することも可能であった。神々について語ることは今日の学会、教育界、マスコミ、世論は自ら口を閉ざしてきたが、一遍を語るに当たって神々を無視しては全貌を掴み得ないと考える。同時に神々からのメッセージを一遍聖は「夢託」(夢の中での神からの信託)という形式で時衆に伝え、聖戒の残した「一遍聖絵」ほかに克明に記録されている。
一 神仏との出会い
 「一遍聖絵」での夢託或いは紫雲に関する記述は三十ケ所に及ぶ。「一遍上人語録」の明和版には熊野の神詠が記載されている。それぞれが一遍にとって重要な信仰の転機を表しているが、今回は一遍聖にとりもっとも重要な回天の機縁となった
1) 出家の動機  弘長三年(一二六三)以降 伊予国・河野領別府
2) 賦算(御札配り)開始 天文十一年(一二七四) 紀伊国・熊野権現 
3) 単独遊行  建治二年(一二七六)  大隅国・大隅正八幡宮
4) 死出の旅路 正慶二年(一二八九) 淡路国・志筑北野天神
の四ケ所での夢託(神託)に触れる。                     
彼の輪鼓の時、夢に見給へる歌
世をわたりそめて高ねのそらの雲 
たゆるはもとのこゝろなりけり
 歌の意味は「世俗に交わる生活を始めていたものの、輪鼓の一件から高嶺の空にかかっていた迷いの雲がからりと晴れた。これこそ本来のあるべき心であったのだなあ。」 
 一遍は出家し、還俗し、再出家したが、再出家の要因は識者により種々説明がなされているがいずれも確証はない。「聖絵」では童子と輪鼓遊びの折に輪廻転生につき思いを致し発心したとするがいかにも根拠が薄弱である。「遊行上人縁起絵」では親類の中に遺恨により一遍を殺害せんとして額に傷を負うが太刀を奪い取って一命と取りとめるとしている。また江戸時代初期の「北条九代記」では美貌で心優しい愛妾が二人を寵愛したが二人の昼寝の時毛髪が小蛇となって絡みついているのを見て出家を決意したとしている。
 一遍の出家は情緒的な精神的な要因よりも経済的要因であると考えている。承久の役が伊予に於ける河野家は一時衰亡するが、北条方に加勢した通久・通継と出家していた通広の子である通真・通尚(一遍)・通定(聖戒)・仙阿が残った。父通広と長兄通真の死後通朝が家督を継ぐが、還俗した一遍以外は若年であり家督の任に当たったと考えられる。「田分け」せず長子相続を保持することが一族を守ることであり、一遍・聖戒・仙阿は出家することになる。後年になるが聖戒は時宗歓喜光寺、仙阿は時宗宝厳寺派を創設する。
熊野権現より夢に授け給ひし神詠
まじへ行く道にないりそくるしきに
本の誓のあとをたづねて
 歌の意味は「雑善雑行の道は苦を生むもとだから行ってはいけない。阿弥陀仏の本願を追慕しているのに」である。
 熊野の神託は一遍の賦算(御札配り)の決定的な出来事であり、熊野権現の教示により他力念仏の本旨を悟ったとされる。時宗では一遍の賦算開始を文永十一年(一二七一)の熊野の神託〔時宗辞典〕とするが、熊野出発前の摂津・四天王寺説〔今井雅晴〕や伊予・桜井説〔金井清光〕もある。
 私は熊野権現教示説を取るが、一遍は万一を考えたかどうかは不明だが、後継者として聖戒を想定し熊野から新宮に出た時に、聖戒宛「また念仏札の形木を授ける。仏縁に結ばれるよう」との書を与え念仏房(か?)に届けさせている。聖戒が賦算したかどうかの記載は「聖絵」にないが、聖戒が形木を保有していたとすると賦算権があった筈だが聖戒は自らその権利を放棄したのであろうか。熊野の神託による権威付けで一遍のみに賦算権があることを明示したとも考えられる。今日でも賦算は遊行上人のみが行うことが出来る崇高な宗教的な儀礼である。
 
さて大隅正八幡宮にまうで給ひけるに、御神のしめし給ひける歌
かかりやすらむみねのうきくも
なもあみだぶつにむまれこそすれ
                              
 歌の意は「いつまでも変わらずに南無阿弥陀仏を唱えれば、そのままあなたもきっと南無阿弥陀仏になりきって浄土に往生するのである。 
 建治二年(1276) 九州の聖達上人を訪ね、その後九州を修行することになったが、困苦にを極めた。「聖絵」ではその情景を描写している。 
 「九州修行の間は、ことに人の供養などもまれなりけり。春の霞あぢはひつきぬれば、無生を念じて永日を消し、夕の雲ころもたえぬれば、慚愧をかさねて寒夜をあかす。かくて念仏を勧進し給けるに、僧の行あひたりけるが、七条の袈裟のやぶれたるをたてまつれりけるを、腰にまとひて、只縁に随ひ足にまかせてすすめありき給けり。山路に日くれぬれば、苔をはらひて露にふし、渓門に天あけぬれば、梢をわけて雲をふむ。」まさに死と直面した難行苦行である。一遍に迷いがなかったとはいえない。死を覚悟しなかったとも言い切れない。           

 同国しづきといふ所に、北野天神勧請したてまつれる地あり、聖をいれたてまつらざりける

よにいづることもまれなる月景(影)に
かかりやすらむみねのうきくも

 歌の意は「めったに世に現れることもない月(一遍聖)を峰の浮雲(神官ら)が蔽い隠すだろうか。(聖のお参りを妨げてはならない)」                 
 この歌は「聖絵」にはあるが、他阿上人も淡路の旅は同行している筈であるが「遊行上人縁起絵」に記載されていない。それ以外の淡路での五句は双方に出ている。
@ おもふことみなつきはてぬうしと見し よをばさながら秋のはつかぜ
A きえやすきいのちはみづのあはじしま 山のはながら月ぞかなし
B きえやすきいのちはみづのあはじしま 山のはながら月ぞかなし声 
C 名にかなふこゝろはにしのうつせみの もぬけはてたる声ぞすゞしき
D 旅衣木のねかやのねいづくにか 身のすてられぬところあるべき
 歌が社壇(神殿)に現れるとはいかなることか。刻は夜半であろう。神官も聖戒も恐らく一遍上人も夢の中に天神の託宣が現れ急ぎ社殿の中にお入れしたのであろうか。他阿上人には夢託はなかったのだろうか。「一遍聖絵」は二祖他阿上人と正当性を争って破れた聖戒が正当性を主張して完成した絵巻物であるだけに、他阿上人と聖戒の救いがたい葛藤を感受することができよう。                          
二 夢託の世界
  1) 夢のイメージ
 「古事記」人代篇崇神天皇の項に有名な夢託の記述がある。崇神天皇代に疫病が流行し天災が多発したので天皇は神牀に籠もるが、オホモノヌシ(大国主)をオホタタネコ(大国主の五代後裔)に祭らせば国を安らかにするとの夢託があり大神神社として祭りアマテラス系(天神)とオオクニヌシ系(地祇)の共存が確認される件である。聖徳太子が籠もる法隆寺金堂を夢殿と呼称するのも夢託の存在を前提にしている。
 今日でも庶民の間に流布する仏教的な世界は「夢をみる」ことを歌ったものが数多くある。例えば中村雨紅の「夕焼け小焼け」、「梁塵秘抄」、「いろは歌」があり、夢合・夢占・夢語・夢違・夢主・夢枕・夢見・夢解といった非現実的な場を想像する言葉が多い。「字統」によれば夢の故字は「 」で「媚蠱などの呪儀を行う巫女の形。目の上に媚飾を施している。その呪霊は、人の睡眠中に夢魔となって心を乱すもので、夢はそのような呪霊のさす技とされた」。貴人が没す時に薨の字は夢魔に逢って俄に去るの意であろう。
  2)一遍の夢の捉え方
  「播州法語集」では「又云、称名の外に見仏(けんぶつ)を求むべからず。称名即真実の見仏なり。肉眼(にくげん)を以て見る所の仏は、実の仏にあらず。われら当体の眼に仏を見るは、魔としるべし。但し、夢に見るはまことなる事あり。これゆゑに、夢は六識が亡じて、無分別の位にみる故なり。故に、経には『夢定』と説り。」とある。     フロイト以降「夢は内から来るもの」として科学的に解明されているが、鎌倉時代いや奈良、平安から中世まで「夢は外から来るもの」で神仏からのメッセージであると神秘的に解釈されてきた。
@神仏が人間に何か大事なことを伝えようとしている〔夢託〕
Aそれをたまたま自分が受けた〔夢見〕
Bだから皆に話さなくてはならない〔夢語〕
Cやがて夢の共有や共生化が図られ、夢集団(カルト)が結成され、神話や信仰が現実化される。
D夢集団(カルト)=教団の指導者(教祖)と同じ夢を見ることに寄って一体化・従属関係が確立する。
 一遍聖自身が理解していたかどうかは不明であるが、一遍は夢託(夢の中での神託)を和歌の形式で集団に周知し、夢の共有化により時宗集団の結束維持を図り、多くの帰依者を広げていったのではないだろうか。更に時衆布教で大きな力となったのは、古代の巫女にみる様に神により近く、「夢託」を感性として理解でき、躍踊という身体表現を可能にした女性集団(尼僧)の存在があったと考えている。                                                 
(続く)