第二十七章 子規記念博物館「今月の俳句」(懸垂幕)鑑賞
松山市立子規記念博物館では天野祐吉館長により毎月初子規の句を選句し、垂れ幕に墨書して啓蒙している。最初は奇異な感じがあったが今では心待ちする人も多くなってきた。ふるさと発信を兼ねて松山東高校の同期生のメール仲間に紹介しているのがこの「子規記念博物館『今月の子規俳句』鑑賞」である。私自身松山子規会の理事を務めているが実作経験はあまりない。唯我独尊的な解釈ではあるがお許し願いたい。
平成15年
1 月  めでたさも一茶くらいや雑煮餅 明治31年 新年
2 月 きさらぎや人の油断を花になる 明治26年 春
3 月 似た花も似ぬ花もあり春の草 明治24年 春
4 月 入口も桜出口も桜かな 明治29年 春
5 月 大風の俄かに起る幟かな 明治27年 夏
6 月 夕立や蛙の面に三粒程 明治33年 夏
7 月 夏草やベースボールの人遠く 明治31年 夏
8 月 すずみがてら君を送らんそこらまで 明治28年 夏
9 月 行く我にとどまる汝に秋二つ 明治28年 秋
10月 秋モハヤ塩煎餅ニ渋茶哉 明治34年 秋
11月 一日は何をしたやら秋の暮 明治25年 秋
12月 人間を笑ふが如し年の暮 明治31年 冬
平成16年
1 月 蒲団から首出せば年の明けて居る 明治30年 新年
2 月 いくたびも雪の深さを尋ねけり 明治29年 冬
3 月 毎年よ彼岸の入に寒いのは 明治26年 春
4 月 人を見ん桜は酒の肴なり 明治29年 春
5 月 心よき青葉の風や旅姿 明治28年 夏
6 月 六月を奇麗な風の吹くことよ 明治28年 夏
7 月 門しめに出て聞て居る蛙かな 明治25年 春
8 月 ある人の平家贔屓や夕涼み 明治28年 夏
9 月 ツクヽヽボーシツクヽヽボーシバカリナリ 明治34年 秋
10月 螽焼く爺の話や嘘だらけ 明治31年 秋
11月 芭蕉忌や吾に派もなく伝もなし 明治31年 冬
12月 思ふこと今年も暮れてしまひけり 明治28年 冬
平成17年
1 月 一年は正月にあり一生は今にあり 明治32年 新年
2 月 ここぢゃろ家ありうめも咲て居る  明治27年 春
3 月 春風のとり乱したる弥生哉  明治26年 春
4 月 弥次郎衛喜多八帰る桜かな 明治29年 春
5 月 国なまり故郷千里の風かをる  明治26年 夏
6 月 明け易き夜を初戀のもどかしき  明治28年 夏
7 月 書を倦まばお堀の松を見て涼め  明治29年 夏
8 月 炎天や草に息つく旅の人  明治33年 夏
9 月 草の花少しありけば道後なり 明治28年 秋
10月 名月に飛び去る雲の行方哉  明治31年 秋
11月 秋の雨荷物ぬらすな風ひくな  明治30年 秋
12月 漱石が来て虚子が来て大三十日 明治28年 冬
平成18年
1 月 今年はと思ふことなきにしもあらず  明治29年 新年
2 月 春寒き手を握りたる別哉   明治32年 春
3 月 風船のふわりふわりと日永哉  明治29年 春
4 月 行く春ややぶれかぶれの迎酒  明治34年 春
5 月 薫風や千山の緑寺一つ  明治33年 夏
6 月 水無月やうしろはほこり前は池 明治29年 夏
7 月 薄物の羽織や人のにやけたり  明治33年 夏
8 月 夏休み来るべく君を待まうけ 明治31年 夏
9 月 宿取りて淋しき宵や柿を喰ふ  明治32年 秋
10月 夜更ケテ米トグ音ヤキリギリス  明治34年 秋
11月 銭湯で下駄換へらるる夜寒かな  明治29年 秋
12月 行き逢ふてそ知らぬ顔や大三十日 明治32年 冬
平成19年
1 月 雑煮食ふてよき初夢を忘れけり  明治31年 新年
2 月 まだ咲いてゐまいと見れば梅の花  明治25年 春
3 月 面白さ皆夢にせん宵の春   明治26年 春
4 月 散った桜散る桜散らぬ桜哉 明治29年 春
5 月 五月雨や畳に上る青蛙  明治34年 夏
6 月 十年の汗を道後の温泉に洗へ 明治29年 夏
7 月 さまざまの夢見て夏の一夜哉 明治31年 夏
8 月 夕立や野道を走る人遠し 明治29年 夏
9 月 神鳴ノ鳴レトモ秋ノ暑サカナ  明治34年 秋
10月 一日の秋にぎやかに祭りかな   明治27年 秋
11月 菊活けて黄菊一枝残りけり   明治32年 秋
12月 餅ついて春待顔の小猫かな   明治32年 冬
平成20年
1 月 婆々さまの話し上手なこたつ哉 明治29年 冬
2 月 筆ちびてかすれし冬の日記哉  明治33年 冬
3 月 蝶々や順禮の子のおくれがち 明治25年 春
4 月 内のチョマが隣のタマを待つ夜かな 明治29年 春
5 月 家あって若葉家あって若葉哉  明治27年 夏
6 月 五月雨は人の涙と思ふべし  明治29年 夏
7 月 念仏や蚊にさされたる足の裏  明治30年 夏
8 月 一さじのアイスクリムや蘇る 明治30年 夏
9 月 枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル 明治34年 秋
10月 秋の蚊のよろよろと来て人を刺す 明治34年 秋
11月 宿取りて淋しき宵や柿を喰ふ  明治32年 秋
12月 片側は冬木になりぬ町はつれ  明治29年 冬
平成21年
1 月 去年の夢さめて今年のうつゝ哉  明治26年 新年
2 月 生垣の外は荒野や球遊び 明治32年 冬
3 月 うたゝ寝に風引く春の夕哉 明治31年 春
4 月 女生徒の手を繋き行く花見哉 明治32年 春
5 月 短夜や幽霊消えて鶏の声 明治29年 夏
6 月 六月の海見ゆるなり寺の庭  明治28年 夏
7 月 和歌に痩せ俳句に痩せぬ夏男  明治33年 夏
8 月 夕立や豆腐片手に走る人 明治26年 夏
9 月 羽織着る秋の夕のくさめ哉  明治31年 秋
10月 押しかけて餘戸でめしくふ秋のくれ 明治25年 秋
11月 毛布着て毛布買ひ居る小春かな 明治35年 冬
12月 占ひのつひにあたらで歳暮れぬ 明治30年 冬
平成22年
1 月 銭湯を出づる美人や松の内  明治33年新年
2 月 一村の梅咲きこぞる二月哉 明治27年 春
3 月 何いそぐ春よりさきに行く君は  明治29年 春
4 月 花盛りくどかば落ちん人許り 明治26年 春
5 月 昼顔の花に乾くや通り雨     明治31年 夏
6 月 六十のそれも早乙女とこそ申せ 明治29年 夏
7 月 生きてをらんならんといふもあつい事   不明    夏
8 月 行水や美人住みける裏長屋  明治33年 夏
9 月 干柿や湯殿のうしろ納屋の前 明治32年 秋
10月 先生はいつも留守なり菊の花  明治29年 秋
11月 山門をぎいと鎖すや秋の暮 明治29年 秋
12月 冬の部に河豚の句多き句集哉 明治33年 冬
平成23年
1 月 恭賀新禧一月一日日野昇 明治31年 新年
2 月 紅梅や秘蔵の娘猫の恋 明治29年 春
3 月 うららかや岡に上りつ野に下りつ 明治30年 春
4 月 事情により未発表
5 月 五女ありて後の男や初幟  明治32年 夏
6 月 五月雨や畳に上る青蛙  明治34年 夏
7 月 愛憎は蝿打つて蟻に与えけり 明治31年 夏
8 月 涼しさや人さまさまの不恰好 明治27年夏
9 月 渋柿は馬鹿の薬になるまいか 明治27年秋
10月 話ながら枝豆をくふあせり哉 明治31年秋
11月 猫老て鼠もとらず置炬燵 明治27年冬
12月 追々に狐集まる除夜の鐘  明治30年冬
平成24年
1 月 弘法は何を書きしぞ筆始 明治25年新年
2 月 北風に鍋焼饂飩呼びかけたり 明治30年 冬
3月 二番目の娘みめよし雛祭 明治32年 春
4 月 のどかさや娘が眠る猫が鳴)く 明治29年 春
5 月 鯛鮓や一門三十五六人 明治25年 夏
6 月 夕立や並んでさわぐ馬の尻 明治29年 夏
7 月 雷をさそふ昼寝の鼾哉  明治31年 夏
8 月 忍ぶれど夏痩にけり我恋は  明治29年 夏
9 月 桃太郎は桃 金太郎は何からぞ 明治35年 秋
10月 行く秋にしがみついたる木の葉哉 明治21年 秋
11月 秋風の一日何を釣る人ぞ 明治25年 秋
12月 年行くと故郷さして急ぎ足  明治29年 冬
平成25年
1 月 書初の今年も拙かりけるよ  明治30年 新年
2 月 衣更着や爺が紙衣の衣がへ  明治26年 春
3月 春雨や裏戸明け来る傘は誰  明治33年 春
4 月 遠足の十人ばかり花の雨 明治33年 春
5 月 寝ころんで書読む頃や五六月 明治29年 夏
6 月 よって来て話聞き居る蟇 明治29年 夏
7 月 これはこれはこれはことしの熱さかな 明治26年 夏
8 月 撫子に踏みそこねるな右の足  明治30年 秋
9 月 へちまとは糸瓜のやうなものならん   明治30年 秋
10月 小坊主や何を夜長の物思ひ 明治27年 秋
11月 温泉の町を取り巻く柿の小山かな 明治28年 秋
12月 梅活けて君待つ庵の大三十日  明治28年 冬
平成26年
1 月 新年や床は竹の画梅の花 明治28年 正月
2 月 緋の蕪や膳のまはりも春けしき 明治26年 春
3 月 巡礼の杓に汲みたる椿かな 明治28年 春
4 月 石手寺へまはれば春の日暮れたり 明治28年 春
5 月 ふるさとや親すこやかに酢の味   明治28年 夏
6 月 青簾捲けよ雲見ん岩屋寺 明治28年 夏
7 月 何処へなりと遊べ夏山夏の川 明治28年 夏
8 月 城山の北にとヾろく花火かな 明治28年 秋
9 月 花木槿雲林先生恙なきや 明治28年 秋
10月 秋風や高井のていれぎ三津の鯛 明治28年 秋
11月 しぐるゝや右は亀山星が岡 明治28年 冬
12月 梅生けし青磁の瓶や大三十日 明治28年 冬
平成27年
1 月 梅提げて新年の御慶申しけり 明治28年 正月
2月 小城下や辰の太鼓の冴え返る  明治28年 春
3 月 故郷はいとこの多し桃の花 明治28年 春
4 月 散る花に又酒酌まん二三人 明治28年 春
5 月 更衣少し寒うて気あひよき 明治28年  夏
6 月 我見しより久しきひょんの茂哉  明治28年  夏
7 月 草茂みベースボールの道白し  明治29年  夏
8 月 稲の穂に湯の町低し二百軒 明治29年  秋
9 月 ジュズダマや昔通ひし叔父の家 明治29年  秋
10月 色里や十歩はなれて秋の風 明治28年  秋
11月 あけ放す窓は上野の小春哉 明治28年 初冬
12月 足柄はさぞ寒かったでござんしょう  明治28年  冬
平成28年
1月 遣羽子の笑ひ聞ゆる小道かな 明治28年 正月
2 月 横町の又横町や梅の花 明治28年 春
3月 何として春の夕をまぎらさん  明治28年 春
4 月 世の中は桜が咲いて笑ひ声 明治28年 春
5 月 この二日五月雨なんど降るべからず 明治28年 夏
6 月 夏山にもたれてあるじ何を読む 明治28年 夏
7 月 ことづてよ須磨の浦わに昼寝すと 明治28年 夏
8 月 秋高し鳶舞ひ沈む城の上 明治28年 秋
9 月 桔梗活けてしばらく仮の書斎かな  明治28年 秋
10月 行く秋のまた旅人とよばられり  明治28年 秋
11月 汽車此夜不二足柄としぐれけり 明治28年 冬
12月 煤拂や神も仏も草の上  明治28年 冬
平成29年
1 月 蓬莱に俳句の神を祭らんか   明治28年正月
2月 荷を解けば浅草海苔の匂ひ哉 明治28年 春
3 月 雛もなし男許りの桃の宿 明治28年 春
4 月 鶯の籠をかけたり上根岸 明治30年 春
5 月 すよすよと舟の側飛ぶ蛍かな 明治28年 夏
6 月 「温泉上がりに三津の肴のなます哉   明治23年 夏
7 月 夏痩せて大めし喰ふ男かな 明治28年 夏
8 月 水草の花まだ白し秋の風  明治28年 夏
9 月 碌堂といひける秋の男かな  明治28年 秋
10月 柿喰へば鐘が鳴るなり法隆寺  明治28年 秋
11月 芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし 明治31年 冬
12月 唐の春奈良の秋見て冬こもり 明治28年 冬
平成30年
1 月 正月の人あつまりし落語かな 明治28年新年
2 月 春寒き机の下の湯婆哉 明治32年春
3 月 春や昔十五万石の城下哉 明治28年春
4 月 故郷や どちらを見ても 山笑ふ 明治26年春
5 月 我庭の薔薇も葵も 咲きにけり 明治29年夏
6 月 夏山や五十二番は岩屋寺 明治30年夏
7 月 おかこひに泳ぎの人のつどひけり 明治30年夏
8 月
9 月
10月
11月
12月
30-01
平成30年1月 「 正月の 人あつまりし 落語かな    子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年1月の句は「正月の人あつまりし落語かな   子規」です。

明治28年(1895)といえば「紀元二千五百五十五年哉   子規」なる句を残している。季語は「正月」(新年)です。『子規全集』第二巻 俳句二 「寒山落木 巻四」166頁(明治二十八年 新年)に掲載されている。

正月に子規が友人と一緒に落語を聞きに行ったという記述にはお目にかかっていない。が、上京以来、秋山真之や柳原極堂とよく寄席に通っていたし、江戸っ子である夏目漱石とは寄席がきっかけで親しくなったという逸話も残っている。

一世を風靡した三遊亭円朝師匠は明治二十八年には57歳で晩年期を迎えている。円朝師匠は子規にとってお気に入りの落語家であり、円朝師匠の言文一致の口述が近代文学に与えた影響は大きい。円朝を頂点とする落語は講談と併せて、正月にはなくてはならぬ演芸であったろう。

現存する上野の「鈴本亭」は、安政四年(1857年)開設された「軍談席本牧亭」まで遡れる老舗席亭であり、経営者鈴木家の(鈴)と本牧亭の(本)をとって鈴本亭と名付けられた由。子規も立ち寄ったかもしれない。
上京時には、上野「鈴本亭」か国立劇場演芸場には顔を出しているが、個人的には、落語は江戸、漫才は上方のフアンである。

子規さんにあやかって一句
「正月の人あつまりし伊予万歳    子規もどき」 道後関所番
平成30年2月「 春寒き 机の下の 湯婆哉   子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年2月の句は「春寒き机の下の湯婆哉   子規」です。

季語は「春浅き」(春)です。『子規全集』第三巻 俳句稿 246頁(明治三十二年 春)と第十二巻 随筆二「室内の什物」291頁(明治三十二年)に掲載されている。

ことしの如月は殊の外寒い。気象観測では平成に入ってから一番寒い「冬」らしい。明治32年当時といえば、暖房は火鉢と炬燵と湯婆(ゆたんぽ)と厚着くらいか。根岸の子規庵の寒々とした居室で、机の下にゆたんぽを置いて、文学活動に取り組む子規さんの姿が浮かんでくる。子規の病状は悪化し、左脚は曲がったままで伸びなくなっていたらしい。湯婆(ゆたんぽ)の暖かさは、家族の温もりでもあり、短歌革新に燃える子規自身の情熱でもあったろう。

随筆「室内の什物」で子規さんが挙げた品は下記である。

@軸一つ       「軸掛けて椿活たる忌日かな
A油畫の額一つ   「油畫極彩色や春の宿」
B水畫の額一つ   「雪の絵を春も掛けたる埃かな」
C写真版の額一つ  「古文に羅馬の春の残りけり」
D蓑一つ       「蓑掛けし病の牀や日の永き」
E笠一つ       「春雨のふるき小笠や霰の句」
F机一つ       「春寒き机の下の湯婆哉」
Gラムプ一つ     「暗き灯や蛙鳴く夜の写し物」
H絵巻物一つ    「絵巻物三月の部は花見なり」
I花瓶一つ       「投入の椿山吹調和せず」


子規さんにあやかって一句
「春寒き机の下の足温器   子規もどき」 

味気ない一句だが、書斎の机に向かって、膝に毛布を掛け、机の下には足温器を置いて、只今子規さん俳句の鑑賞エッセイを執筆している。
思い出した。子規さんの机は置き机で、左膝のあたる部分をくり抜いた専用の机であった。当方の机は、20年前の阪神淡路大震災で自宅が倒壊し、疎開先の大阪で急いで購入した安物の机である。「ゆたんぽ」を愛用していたが、妻を亡くしたこの冬からは「あんか」になり、「湯たんぽ」二つが押入れで冬眠中である。
「室内の什物」にはそれぞれ歴史があり、所有者(使用者)にとっては忘れがたい思い出がある。   道後関所番
平成30年3月「 春や昔 十五万石の 城下哉   子規 」
平成30年3月「 春や昔 十五万石の 城下哉   子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年3月の句は「春や昔十五万石の城下哉   子規」です。

季語は「春」(春)です。『子規全集』第二巻 「寒山落木 巻四」177頁(明治二十八年 春)と第二十一巻 草稿ノート「病余漫吟」43頁(明治二十八年 春)に掲載されている。前書きに「松山」と付されている。

伊予では子規を代表する句である「春や昔十五万石の城下哉」が子規記念博物館選句の子規さん俳句が始めて登場するとは思えず、慌てて平成15年1月からの現在までの百八十二句に当たってみたが該当句がない。まさに「真打登場」である。「正岡屋〜」と叫んでみたくなる。

明治28年春、日清戦争の従軍記者として出発予定だった子規が、出征前の3月14日から三日間、松山に帰省する。体調から判断して、故郷へ別れの旅立ちを告げたかったのであろうか。父の墓参も済ませ、遼東半島に旅立つ。

改めて、松平(久松)十五万石の親藩であるご城下の佇まいも維新後三〇年近く経つと明治の佇まいとなったことを痛感したが、後輩に当たる「松風会」の仲間との触れ合いに、尽きせぬ思いを語ったことだろう。

この句は「月やあらぬ 春や昔の春ならぬ わが身一つはもとの身にして」(『伊勢物語』)が下敷きになっているのだろうか。

道後生まれの筆者が子規さんにあやかっての一句

「春や春一遍産みし道後の湯泉(ゆ)  子規もどき」 

因みに、一遍智真が生まれたのは延応元年(1239)陰暦二月十五日である。おそらく、宝厳寺の建つ奥谷の早咲きの山桜は咲いていたのだろう。奥の谷の北には桜谷の地名が残っている。   道後関所番
平成30年4月 「 故郷や どちらを見ても 山笑ふ    子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年4月の句は「故郷や どちらを見ても 山笑ふ   子規」です。

季語は「山笑ふ」(春)です。『子規全集』第一巻 「寒山落木 巻二」206頁(明治二十六年 春)に掲載されています。

この句と並んで「恐ろしき 灘をへだてゝ 山笑ふ」を詠んでいる。灘はおそらく伊予灘であろう。また「のどかさに耳なし山も笑ひけり」がある。ともに明治26年の作である。

もっとも子規は明治26年には帰省していない。至近の帰省は明治25年で、故郷の家を畳んで、母と妹を東京に迎えている。

「山笑ふ」の出典は『臥遊録』の「春山淡冶にして笑うが如く、夏山蒼翠にして滴るが如く、秋山明浄にして粧うが如く、冬山惨淡として眠るが如し」に拠っている。文人にとってはステレオタイプの情景か、あまり著名な俳句も生まれていない。

 「越の雪大蓮華山笑ひけり   はぎ女」
 「津軽野の泣面山も笑ひ初む  蓬 矢」

など文字遊びのようだ。子規の「のどかさに耳なし山も笑ひけり」も同趣向か。

子規の故郷の「どちらを見て」の山は、城下の中心にある城山、東の道後・湯山、南の砥部や皿ヶ峰、障子山、北の高輪山、西の大峰ヶ台など、山、山、山である。陸奥や北陸の自然が春近くなって一斉に生き生きと動き始める情景は想像できるが、温暖な四国では如何なものか。

という次第で、子規さんの句の「どちらを見ても」も借用しての一句

「城山やどちらを見ても花見客」  子規もどき」 

道後関所番

平成30年5月 「 我庭の 薔薇も葵も 咲きにけり    子規」
 
子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年5月の句は「我庭の薔薇も葵も咲きにけり     子規」です。

季語は「薔薇」(夏), 「葵」(夏)です。 『子規全集』第二巻 「寒山落木 巻五」517頁(明治二九年 夏)に掲載されています。「全集」の編纂者も頭を痛めたのだろうか、季語欄には「草雑」と表記している。
 
この句の「詞書」に「病中」とあります。明治二九年に入ると子規の病状(脊椎カリエス)は進行し、立ち上がることさえ困難になり、子規庵での病臥の生活が続く。この句は、病床から庭の草木を眺めての句であろう。
 
 この句は、見たままの写生句としかコメントのしようがない。薔薇も葵も季語は夏である。子規だから、季語の重なりは許されてよいということにはならない。駄作であるし、初心者は真似てはなるまい。

 明治三三年作の「鶏頭の十四五本もありぬべし」は同じ病床の句であるが、顕微鏡的な観察を通して俳句の世界を表現しているが(高浜虚子は評価していない)、「我庭の薔薇も葵も咲きにけり」はバカチョンカメラで撮った写真しか浮かんでこない。

という次第であるが、子規さんに敬意を表してバカチョンカメラで撮った我が家の庭の情景を詠んだ一句を捧げる。

「我庭の紫蘭鈴蘭咲きにけり  子規もどき」 いやはや 

道後関所番

平成30年6月 「 夏山や 五十二番は 岩屋寺    子規
 

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年6月の句は「夏山や五十二番は岩屋寺   子規」です。

季語は「夏山」(夏)です。 『子規全集』第三巻 俳句三「俳句稿」161頁(明治三十一年 夏)に掲載されています。
 
子規は岩屋寺を四国霊場五十二番と詠んでいますが、実際は四十五番札所です。四十四番札所大宝寺の奥の院が岩屋寺です。子規の明らかに記憶違いですが、病臥にあるとは云え、子規だから許されていいことにはなりません。選句自体に疑問を感じています。

ちなみに五十二番札所は松山観光港からも登れる松山市大山寺町の里山に在り、五十一番石手寺と同様に四国霊場の中でも著名な古刹寺院です。

岩屋寺は伊予道後奥谷の建つ宝厳寺で生まれた一遍智真が修行した山岳霊場で、弘法大師も修行された名刹です。本尊は不動明王です。
住職は松山東高校で一級下の後輩に当る大西善和師で、一遍会例会では「一遍聖と真言宗」について講演を依頼しました。上浮穴郡久万高原町の標高七〇〇米の高みに建っています。

子規が岩屋寺を友人と訪ねたのは松山中学在学中の明治一四年七月三一日、一四歳の時です。早朝に出立し、正午には久万町「橋本屋」に着く。翌日岩屋寺を参詣、帰途は疲れ果てて重信川を越えた森松辺りで子規一人が人力車に乗せられて家路についたと記録されています。
それだけに、病臥の子規にとって、少年時代の苦しくもあった懐かしい思い出が甦り一句を残したのでしょうか。

四国遍路で回る知人が、国民宿舎「岩屋荘」で宿泊し、翌朝岩屋寺に参詣して松山に向かうのですが、宿泊先の道後温泉に着けず四十九番浄土寺でギブアップ、鷹ノ子温泉まで出迎えたことが数回ありました。「子規さんと同じだな」と思いますが、歩き遍路の方は七〇才を越えるシニアですから、一四歳の子規さんの体力の無さがよくわかります。

岩屋寺には数回参詣し「日本経済新聞」の同行取材もありましたが、子規さんを偲びながら、子規さんが立ち寄らなかった岩窟のお堂の情景を詠んだ一句を捧げる。

「夏山や お籠堂(おこもりどう)に白き道  子規もどき」 

少々説明します。
「白き道」は「二河白道」、「お籠堂」は「阿弥陀仏が待つ浄土」をイメージしました。いやはや。 道後関所番
 おかこひに 泳ぎの人の つどひけり
平成30年7月 「 おかこひに 泳ぎの人の つどひけり    子規」
  
子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年7月の句は「おかこひに泳ぎの人のつどひけり   子規」です。

季語は「泳ぎ」(夏)です。 『子規全集』第三巻 俳句三「俳句稿」40頁(明治三十年 夏)に掲載されています。詞書に「松山」とある。

松山人と云っても戦後生まれには分からないだろう。と云うことは、戦後73年だから、70歳以下の人は分からないということになろう。

「おかこひ」とは「お囲い池(御囲い池)」のことで、松山藩の水練場で「松山神伝流」を学ぶ場であった。子規の祖父に当たる六代恒武は神伝流師範伊東祐根に入門、水練上達により御徒歩に取り立てられ藩士となり江戸在番(後年大小姓格)となった。お囲い池あっての正岡家であった。
(注)二神将「松山神伝流と正岡家」(『子規博だより』110号)

司馬遼太郎の『坂の上の雲』では、維新後、秋山真之の父は「お囲い池」の監視員をやっていたらしい。江戸時代は、上士の師弟は「お囲い池」では水練をしなかったという。
 
「お囲い池」は現在「青少年センター」(松山死築山町)になっているが、城下に育った友人たちは、ここで水泳をマスターしたようだ。道後育ちは、岩堰に遠征したり山田池(祝谷)で泳いだ。個人的な思いでは、息子ファミリーが帰省した折は、家族揃って「青少年センター」で卓球をしたものだ。

明治30年当時は既に子規は根岸の子規庵で病臥の体になっていたが、漱石は松山中学教師時代(明治28年)に「お囲い池」で泳いでいる。

ところで、この句の鑑賞であるが、プール(お囲い池)に水泳をやりに人が集まっているということだけで、まったく詩情が感じられない。小学校低学年の俳句としても撰には入らないのではあるまいか。仲間だけしか通じない「おかこひ」では俳句の未来はあるまい。

子規さんにあやかって一句

「湯月城跡に 月見の人の つどひけり  子規もどき」 

夏井いつき宗匠の「プレバト」で凡人の最後にランクされるかな。いやはや。 道後関所番