第二十七章 子規記念博物館「今月の俳句」(懸垂幕)鑑賞
松山市立子規記念博物館では天野祐吉館長により毎月初子規の句を選句し、垂れ幕に墨書して啓蒙している。最初は奇異な感じがあったが今では心待ちする人も多くなってきた。ふるさと発信を兼ねて松山東高校の同期生のメール仲間に紹介しているのがこの「子規記念博物館『今月の子規俳句』鑑賞」である。私自身松山子規会の理事を務めているが実作経験はあまりない。唯我独尊的な解釈ではあるがお許し願いたい。
平成15年
1 月  めでたさも一茶くらいや雑煮餅 明治31年 新年
2 月 きさらぎや人の油断を花になる 明治26年 春
3 月 似た花も似ぬ花もあり春の草 明治24年 春
4 月 入口も桜出口も桜かな 明治29年 春
5 月 大風の俄かに起る幟かな 明治27年 夏
6 月 夕立や蛙の面に三粒程 明治33年 夏
7 月 夏草やベースボールの人遠く 明治31年 夏
8 月 すずみがてら君を送らんそこらまで 明治28年 夏
9 月 行く我にとどまる汝に秋二つ 明治28年 秋
10月 秋モハヤ塩煎餅ニ渋茶哉 明治34年 秋
11月 一日は何をしたやら秋の暮 明治25年 秋
12月 人間を笑ふが如し年の暮 明治31年 冬
平成16年
1 月 蒲団から首出せば年の明けて居る 明治30年 新年
2 月 いくたびも雪の深さを尋ねけり 明治29年 冬
3 月 毎年よ彼岸の入に寒いのは 明治26年 春
4 月 人を見ん桜は酒の肴なり 明治29年 春
5 月 心よき青葉の風や旅姿 明治28年 夏
6 月 六月を奇麗な風の吹くことよ 明治28年 夏
7 月 門しめに出て聞て居る蛙かな 明治25年 春
8 月 ある人の平家贔屓や夕涼み 明治28年 夏
9 月 ツクヽヽボーシツクヽヽボーシバカリナリ 明治34年 秋
10月 螽焼く爺の話や嘘だらけ 明治31年 秋
11月 芭蕉忌や吾に派もなく伝もなし 明治31年 冬
12月 思ふこと今年も暮れてしまひけり 明治28年 冬
平成17年
1 月 一年は正月にあり一生は今にあり 明治32年 新年
2 月 ここぢゃろ家ありうめも咲て居る  明治27年 春
3 月 春風のとり乱したる弥生哉  明治26年 春
4 月 弥次郎衛喜多八帰る桜かな 明治29年 春
5 月 国なまり故郷千里の風かをる  明治26年 夏
6 月 明け易き夜を初戀のもどかしき  明治28年 夏
7 月 書を倦まばお堀の松を見て涼め  明治29年 夏
8 月 炎天や草に息つく旅の人  明治33年 夏
9 月 草の花少しありけば道後なり 明治28年 秋
10月 名月に飛び去る雲の行方哉  明治31年 秋
11月 秋の雨荷物ぬらすな風ひくな  明治30年 秋
12月 漱石が来て虚子が来て大三十日 明治28年 冬
平成18年
1 月 今年はと思ふことなきにしもあらず  明治29年 新年
2 月 春寒き手を握りたる別哉   明治32年 春
3 月 風船のふわりふわりと日永哉  明治29年 春
4 月 行く春ややぶれかぶれの迎酒  明治34年 春
5 月 薫風や千山の緑寺一つ  明治33年 夏
6 月 水無月やうしろはほこり前は池 明治29年 夏
7 月 薄物の羽織や人のにやけたり  明治33年 夏
8 月 夏休み来るべく君を待まうけ 明治31年 夏
9 月 宿取りて淋しき宵や柿を喰ふ  明治32年 秋
10月 夜更ケテ米トグ音ヤキリギリス  明治34年 秋
11月 銭湯で下駄換へらるる夜寒かな  明治29年 秋
12月 行き逢ふてそ知らぬ顔や大三十日 明治32年 冬
平成19年
1 月 雑煮食ふてよき初夢を忘れけり  明治31年 新年
2 月 まだ咲いてゐまいと見れば梅の花  明治25年 春
3 月 面白さ皆夢にせん宵の春   明治26年 春
4 月 散った桜散る桜散らぬ桜哉 明治29年 春
5 月 五月雨や畳に上る青蛙  明治34年 夏
6 月 十年の汗を道後の温泉に洗へ 明治29年 夏
7 月 さまざまの夢見て夏の一夜哉 明治31年 夏
8 月 夕立や野道を走る人遠し 明治29年 夏
9 月 神鳴ノ鳴レトモ秋ノ暑サカナ  明治34年 秋
10月 一日の秋にぎやかに祭りかな   明治27年 秋
11月 菊活けて黄菊一枝残りけり   明治32年 秋
12月 餅ついて春待顔の小猫かな   明治32年 冬
平成20年
1 月 婆々さまの話し上手なこたつ哉 明治29年 冬
2 月 筆ちびてかすれし冬の日記哉  明治33年 冬
3 月 蝶々や順禮の子のおくれがち 明治25年 春
4 月 内のチョマが隣のタマを待つ夜かな 明治29年 春
5 月 家あって若葉家あって若葉哉  明治27年 夏
6 月 五月雨は人の涙と思ふべし  明治29年 夏
7 月 念仏や蚊にさされたる足の裏  明治30年 夏
8 月 一さじのアイスクリムや蘇る 明治30年 夏
9 月 枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル 明治34年 秋
秋の蚊のよろよろと来て人を刺す 明治34年 秋
11月 宿取りて淋しき宵や柿を喰ふ  明治32年 秋
12月 片側は冬木になりぬ町はつれ  明治29年 冬
平成28年
1月 遣羽子の笑ひ聞ゆる小道かな 明治28年 正月
2 月 横町の又横町や梅の花 明治28年 春
3月 何として春の夕をまぎらさん  明治28年 春
4 月 世の中は桜が咲いて笑ひ声 明治28年 春
5 月 この二日五月雨なんど降るべからず 明治28年 夏
6 月 夏山にもたれてあるじ何を読む 明治28年 夏
7 月 ことづてよ須磨の浦わに昼寝すと 明治28年 夏
8 月 秋高し鳶舞ひ沈む城の上 明治28年 秋
9 月 桔梗活けてしばらく仮の書斎かな  明治28年 秋
10月 行く秋のまた旅人とよばられり  明治28年 秋
11月 汽車此夜不二足柄としぐれけり 明治28年 冬
12月 煤拂や神も仏も草の上  明治28年 冬
平成21年
1 月 去年の夢さめて今年のうつゝ哉  明治26年 新年
2 月 生垣の外は荒野や球遊び 明治32年 冬
3 月 うたゝ寝に風引く春の夕哉 明治31年 春
4 月 女生徒の手を繋き行く花見哉 明治32年 春
5 月 短夜や幽霊消えて鶏の声 明治29年 夏
6 月 六月の海見ゆるなり寺の庭  明治28年 夏
7 月 和歌に痩せ俳句に痩せぬ夏男  明治33年 夏
8 月 夕立や豆腐片手に走る人 明治26年 夏
9 月 羽織着る秋の夕のくさめ哉  明治31年 秋
10月 押しかけて餘戸でめしくふ秋のくれ 明治25年 秋
11月 毛布着て毛布買ひ居る小春かな 明治35年 冬
12月 占ひのつひにあたらで歳暮れぬ 明治30年 冬
平成22年
1 月 銭湯を出づる美人や松の内  明治33年新年
2 月 一村の梅咲きこぞる二月哉 明治27年 春
3 月 何いそぐ春よりさきに行く君は  明治29年 春
4 月 花盛りくどかば落ちん人許り 明治26年 春
5 月 昼顔の花に乾くや通り雨     明治31年 夏
6 月 六十のそれも早乙女とこそ申せ 明治29年 夏
7 月 生きてをらんならんといふもあつい事   不明    夏
8 月 行水や美人住みける裏長屋  明治33年 夏
9 月 干柿や湯殿のうしろ納屋の前 明治32年 秋
10月 先生はいつも留守なり菊の花  明治29年 秋
11月 山門をぎいと鎖すや秋の暮 明治29年 秋
12月 冬の部に河豚の句多き句集哉 明治33年 冬
平成23年
1 月 恭賀新禧一月一日日野昇 明治31年 新年
2 月 紅梅や秘蔵の娘猫の恋 明治29年 春
3 月 うららかや岡に上りつ野に下りつ 明治30年 春
4 月 事情により未発表
5 月 五女ありて後の男や初幟  明治32年 夏
6 月 五月雨や畳に上る青蛙  明治34年 夏
7 月 愛憎は蝿打つて蟻に与えけり 明治31年 夏
8 月 涼しさや人さまさまの不恰好 明治27年夏
9 月 渋柿は馬鹿の薬になるまいか 明治27年秋
10月 話ながら枝豆をくふあせり哉 明治31年秋
11月 猫老て鼠もとらず置炬燵 明治27年冬
12月 追々に狐集まる除夜の鐘  明治30年冬
平成24年
1 月 弘法は何を書きしぞ筆始 明治25年新年
2 月 北風に鍋焼饂飩呼びかけたり 明治30年 冬
3月 二番目の娘みめよし雛祭 明治32年 春
4 月 のどかさや娘が眠る猫が鳴)く 明治29年 春
5 月 鯛鮓や一門三十五六人 明治25年 夏
6 月 夕立や並んでさわぐ馬の尻 明治29年 夏
7 月 雷をさそふ昼寝の鼾哉  明治31年 夏
8 月 忍ぶれど夏痩にけり我恋は  明治29年 夏
9 月 桃太郎は桃 金太郎は何からぞ 明治35年 秋
10月 行く秋にしがみついたる木の葉哉 明治21年 秋
11月 秋風の一日何を釣る人ぞ 明治25年 秋
12月 年行くと故郷さして急ぎ足  明治29年 冬
平成25年
1 月 書初の今年も拙かりけるよ  明治30年 新年
2 月 衣更着や爺が紙衣の衣がへ  明治26年 春
3月 春雨や裏戸明け来る傘は誰  明治33年 春
4 月 遠足の十人ばかり花の雨 明治33年 春
5 月 寝ころんで書読む頃や五六月 明治29年 夏
6 月 よって来て話聞き居る蟇 明治29年 夏
7 月 これはこれはこれはことしの熱さかな 明治26年 夏
8 月 撫子に踏みそこねるな右の足  明治30年 秋
9 月 へちまとは糸瓜のやうなものならん   明治30年 秋
10月 小坊主や何を夜長の物思ひ 明治27年 秋
11月 温泉の町を取り巻く柿の小山かな 明治28年 秋
12月 梅活けて君待つ庵の大三十日  明治28年 冬
平成26年
1 月 新年や床は竹の画梅の花 明治28年 正月
2 月 緋の蕪や膳のまはりも春けしき 明治26年 春
3 月 巡礼の杓に汲みたる椿かな 明治28年 春
4 月 石手寺へまはれば春の日暮れたり 明治28年 春
5 月 ふるさとや親すこやかに酢の味   明治28年 夏
6 月 青簾捲けよ雲見ん岩屋寺 明治28年 夏
7 月 何処へなりと遊べ夏山夏の川 明治28年 夏
8 月 城山の北にとヾろく花火かな 明治28年 秋
9 月 花木槿雲林先生恙なきや 明治28年 秋
10月 秋風や高井のていれぎ三津の鯛 明治28年 秋
11月 しぐるゝや右は亀山星が岡 明治28年 冬
12月 梅生けし青磁の瓶や大三十日 明治28年 冬
平成27年
1 月 梅提げて新年の御慶申しけり 明治28年 正月
2月 小城下や辰の太鼓の冴え返る  明治28年  春
3 月 故郷はいとこの多し桃の花 明治28年  春
4 月 散る花に又酒酌まん二三人 明治28年  春
5 月 更衣少し寒うて気あひよき 明治28年  夏
6 月 我見しより久しきひょんの茂哉  明治28年  夏
7 月 草茂みベースボールの道白し  明治29年  夏
8 月 稲の穂に湯の町低し二百軒 明治29年  秋
9 月 ジュズダマや昔通ひし叔父の家 明治29年  秋
10月 色里や十歩はなれて秋の風 明治28年  秋
11月 あけ放す窓は上野の小春哉 明治28年 初冬
12月 足柄はさぞ寒かったでござんしょう  明治28年  冬
平成29年
1 月 蓬莱に俳句の神を祭らんか   明治28年正月
2月 荷を解けば浅草海苔の匂ひ哉 明治28年 春
3 月 雛もなし男許りの桃の宿 明治28年 春
4 月 鶯の籠をかけたり上根岸 明治30年 春
5 月 すよすよと舟の側飛ぶ蛍かな 明治28年 夏
6 月 「温泉上がりに三津の肴のなます哉   明治23年 夏
7 月 夏痩せて大めし喰ふ男かな 明治28年 夏
8 月 水草の花まだ白し秋の風  明治28年 夏
9 月 碌堂といひける秋の男かな  明治28年 秋
10月 柿喰へば鐘が鳴るなり法隆寺  明治28年 秋
11月 芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし 明治31年 冬
12月 唐の春奈良の秋見て冬こもり 明治28年 冬
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平成27年1月 「梅提げて新年の御慶申しけり    子規」

平成27年1月 「梅提げて新年の御慶申しけり    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年1月の句は「梅提げて新年の御慶申しけり   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「御慶」(新年)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 新年」(352頁)、第二十一巻「草稿 ノート」の(病余漫吟 附明治二年俳句草稿補遺)(128頁)に掲載されています。

なおこの句は『新声』(明治30110日号)にも掲載とのことですが、『新声』誌については未確認です。

(注)インターネット「コトバンク」によれば、文芸雑誌『新声』は1896年(明治297月創刊で1910年(明治433月 廃刊。この間休刊、再刊があって、3期に分かれ、発行所も新声社から隆文館に移る。後の新潮社社長佐藤義亮(ぎりょう)が創刊。『新潮』の前身である。

明治二八年の大晦日、梅を活けた青磁の瓶を眺めながら、病床の子規さんは、久々に上京した夏目漱石を待っています。愚陀仏庵での共同生活から別れて3ヶ月、腰痛で苦しんでいた。このときの句を先月(平成26年12月)紹介しました。

「梅活けし青磁の瓶や大三十日    子規」

「漱石が来て虚子が来て大三十日   子規」

「語りけり大つごもりの来ぬところ  子規」

同じ年の新年も梅で始まりますが、愚陀仏庵には梅の木があり、正月前後に蕾をつけて病床の子規さんの目と鼻を楽しませてくれているのでしょう。

「新年の御慶」はあまりお勧めできません.「御慶」は年始に交わす改まった挨拶のことですから「師走の大晦日」の類です。それはさておき、梅を手にして、しかるべき人(恩師)のお宅にお年賀に参上したという挨拶句でしょうか。

「梅提げて」の「提げて」が子規さんらしい表現かなと感じ入りました。「提げる」は「鞄を提げる」「土産物を提げてやってきた」(『広辞苑』)が一般的で、「梅を提げる」という持ち方が少々気になります。

正月早々に子規さんの句にケチをつけてしまいました。帰郷してから10数年経ちましたが、年始回りはしていません。伊佐爾波神社に初詣して義安寺に墓参りして道後湯之町を散策してというのが元旦のパターンになりました。家の屠蘇の場では、家長として年始挨拶をしますが、これが我が家に新年の御慶といえるかもしれません。

子規さんにあやかって一句

「日の丸や新年の御慶申しけり   子規もどき」

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。  道後関所番

  

平成27年2月 「小城下や辰の太鼓の冴え返る    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年2月の句は「小城下や辰の太鼓の冴え返る   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「冴え返る」(春)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 春」(167頁)、第二十一巻「草稿 ノート」の(病余漫吟)(42頁)に掲載されています。

なおこの句は『早稲田文学』(明治30年4月1日号「小」)にも掲載とのことですが、『早稲田文学』誌については未確認です。


明治28年は子規の生涯にとって大転換があった年です。従軍記者として大陸に渡り、帰国時に船中で喀血して須磨病院で入院、保養を兼ねて8月24日松山に帰省、漱石の下宿していた「愚陀仏庵」での共同生活・・・・10月18日三津浜を発ち帰京となります。この句は、28年の3月、従軍記者として出発前の3月14日から17日までの帰省中に体験した出来事でしょう。

同じ年に詠んだ「春や昔15万石の城下哉」(明治28年)は加藤嘉明が築城した松山の城下ですが、子規さんが小城下(小さな城下)と認識していたとは意外な感じがします。

「辰の太鼓」とは、辰の刻(午前8時頃)に開門を知らせる時太鼓のことですが、明治の時代にいかに静寂だったとは云え、天守閣の開門時の太鼓はご城下からは聞こえる筈はありません。また明治28年当時は、正午に城山から空砲の「ドン」を撃っていましたから、この「ドン」を耳にして幼年時代の記憶がよみがえってきたのでしょう。事実の穿鑿はそこまでとして、文学的表現として味わえばいいのでしょう。

「冴え返る」は「冴え渡る」以上に音の透明性が強調されています。さすが子規さんの語感といえましょう。

(注)『広辞苑』では
○冴え返る・・・光や音などが非常によく澄む。また、冷えきる。新後拾遺和歌集冬「しぐれつる宵の村雲冴え返り ふけ行く風にあられ降るなり」
○冴え渡る・・・光や音などがくまなく澄む。澄みわたる。詞花和歌集雑「雲の上は月こそさやにさえ渡れまた滯るものやなになる」

現在でも、土日祝日の朝9時に、天守開門時に登城太鼓が鳴っていますし、朝6時半には道後温泉の開湯を知らせる太鼓が三階楼から鳴り響きます。

子規さんにあやかって一句

「湯之町や朝湯の太鼓冴え渡る   子規もどき」  道後関所番

(注)「冴え渡る」の季語は「冬」で「冴え返る」の季語は「春」。この微妙な差異が分かる俳人がいるのだろうか。いやはや。
平成27年3月 「故郷はいとこの多し桃の花    子規
平成27年3月 「故郷はいとこの多し桃の花    子規

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年3月の句は「故郷はいとこの多し桃の花   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「桃の花」(春)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 春」(210頁)、第二十一巻「草稿 ノート」の(病余漫吟)明治二十八年 春(51頁)に掲載されています。

なおこの句は『ほととぎす』(明治31年4月30日号「松山」)にも掲載されていますがですが未確認です。

明治28年春、子規は結核を患いながら、ジャーナリストとしての意思と負けん気から、日清戦争に従軍記者として中国(清国)に出発します。日清戦争は実質的には終結しており講和会談が進められていました。

出発前の3月15日に松山に帰省しました。桃の花が満開で、母方の大原家からいとこたちが大勢集まってきました。子規にとっても、故郷の人にとっても、そして無心に咲く桃の花にとっても、口には出さないものの、これが見納めかなという気持ちもあったのでしょう。
16日には三番町の料亭「明治楼」で子規送別の会が開かれました。従軍のはなむけに武市雪燈から「千万里その行くさきも春の風」の句が贈られています。

この句のみで鑑賞するのであれば、次のような風情になるのでしょうか。

青年時代に遊学し、大成して何十年ぶりに故郷を訪ねた。父母も親戚の長老たちの顔もいまは見えない。桃の節句に「おなぐさみ」で集まったいとこたちと思い出を語りあう。小学唱歌「ふるさと」を口ずさむ。

個人的には、松山子規会の月例会で、子規のいとこで唯一生存している「平松丑松」さんと顔が合います。例会の席は、和田克司氏、平松丑松氏、愚生の配列です。
子規さんのいとこは全員で33名です。最後のおひとりは、松山在住の85歳の矍鑠とした老人で、現在も愛媛県社会人卓球連盟会長の要職にある「平松丑雄氏」です。ママさん卓球でご存知の方もいらっしゃるかと思います。

子規さんといえば明治中期に亡くなっていますが、血縁のいとこさんが松山にいらっしゃったとは、子規さんが急に近くなった感じです。大原・加藤・正岡・佐伯四家の家系図を頂きました。平松丑雄さんの句に「子規いとこ一人となりぬ桃の花」があります。

平松氏と愚生を結びつけた人物は、小学校時代の蛍雪会の仲間である松村正俊君です。平松さんも松村君も卓球の名選手で国体の愛媛県代表として活躍されたスポーツマンです。子規さんの大勢のいとこたちについて書いておきたいのですが、個人情報に触れますので割愛します。

子規さんにあやかって一句

「故郷は訛りばかりの桃の花   子規もどき」  道後関所番

平成27年4月 「散る花に又酒酌まん二三人    子規
平成27年4月 「散る花に又酒酌まん二三人    子規

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年4月の句は「散る花に又酒酌まん二三人   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「散る花」(春)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 春」(209頁)、第二十一巻「草稿 ノート」の(病余漫吟)明治二十八年 春(53頁)に掲載されています。

明治28年春には桜花の句を六〇句詠んでいます。この句も六〇句の中の一句ですが、詞書に「可惜落花君莫掃」(おしむべしらっかきみはらうことなかれと)あります。この漢詩は中国盛唐の詩人 岑參(しんじん)の漢詩「韋員外家花樹木歌」(いいんがいのいえのかじゅのうた)の一節です。
 
漢詩を得意とした子規さんが漢詩の情景に啓発されて句を詠んだと考えられます。たとえば

   羨君有酒能便酔羨君無銭能不憂
 花なくと銭なくと只酒あらば

   不□皇居壮安知天使尊  (注)□は「者見」「覩」
 恐る恐る花見る爺や丸の内

満開の桜も美しいが、散る桜の風情もよい。落花を愛でながら、また酒を酌み交わそうではないか。最後まで残った友が二三人いてくれる。
明治28年春の子規さんは、従軍記者として清国に出発する頃であり、桜花を愛でて酒を飲むことはありませんでしたが、二三人を鳴雪翁と虚子と碧梧桐にダブらせてみました。

櫻といえば、社会人当時は「貴様と俺とは 同期の櫻」でしたし、定年の頃は「散る桜 残る櫻も 散る桜」でした。
現在の心境は西行法師の「願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃」に年一年と近づきつつあるようです。

子規さんにあやかって一句

   竹馬の友と道後公園にて
「散る花を杯ごとに飲干さん   子規もどき」

   余命半年の告知を受けし義弟へ  
「来る年の花は彼岸で酒酌まん  子規もどき」  道後関所番
平成27年5月 「更衣少し寒うて気あひよき    子規」
平成27年5月 
「更衣少し寒うて気あひよき    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年5月の句は「更衣少し寒うて気あひよき  子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「更衣(ころもがえ)」(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 夏」(23頁)、第二十一巻「草稿 ノート」の(病余漫吟)明治二十八年 夏(60頁)に掲載されています。

今時分(平成27年5月1日)の句でしょうか。季節に応じて、着る物を夏用に衣更えした。当時は気温によって衣更えしたのでがなく、旧暦の四月一日に綿入れから袷に着替えたものだった。

もっとも学校の制服が夏服に変わったのは六月ではなかったかと思う。セーラー服の衣更えが眩しかった記憶が残っている。最近は大人の社会では「クールビズ」がすっかり定着したが、現役時代は真夏でも背広で通した。通勤車内は暑かったが、背広を着用するとピシッときまったのは決して痩せ我慢だけではなかった。

明治28年5月17日に子規は船中喀血で倒れたので神戸病院か、6月に入って須磨の病院に転院していた頃の作品か。少し肌寒く感じるほうが、かえって気合がはいって良い気分である。衣更えにあやかって、体調もすっきりしたいものである、という句意であろう。


『新古今集』の持統天皇の御歌「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」は初夏の句であろう。白妙の衣と香具山と取り合わせに聖なるものを感じる。

古代から今日まで、衣更えで気分を一新するのは、日本人の持つ感性か、それとも遺伝子のなせる業だろうか。

子規さんにあやかって一句

 「更衣遍路の鈴も気合よき   子規もどき」です。   道後関所番
平成27年6月 「我見しより久しきひょんの茂哉    子規」

平成27年6月 「我見しより久しきひょんの茂哉    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年6月の句は「我見しより久しきひょんの茂哉    子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「茂」(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 夏」(250頁)、第13巻「小説 紀行」中「散策集」(616頁)、第二十一巻「草稿 ノート」の(病余漫吟)明治二十八年 夏(72頁)、(102頁)に掲載されています。

「散策集」には「薬師二句」の前書きがあって「我見しより久しきひょんの木實哉」と「寺清水西瓜も見えず秋老いぬ」がある。
「病余漫吟」72頁では「松山南郊薬師」の前書きがあって「我見しより久しきひょんの茂り哉」とあるが、102頁は「茂哉」である。

「ひょんの木」は松山では多くの人が知っている木ですが、実は私は見たことはあったのですが覚えていません。東雲神社の境内にもあるとのことです。

明治28年当時の子規は、療養のため帰省し漱石と愚陀仏庵で共同生活した時期にあたります。随筆『散策集』によると、明治28年10月2日に少年時代に子規が遊んだ薬師寺に立ち寄っています。境内には昔のように「ひょんの木」があり、懐かしさもあり「我見しより久しきひょんの木實哉」と詠んでいます。

俳人仲間から聞いたのでしょうか、木の実に見えたのは実は虫が寄生してこぶ状になったもので、その後取りまとめた句稿では、「木實哉」を「茂哉」に改めました。

この機会に、松山の薬師寺や東雲神社の境内には「ひょんの木」がありますので、是非見てきたいと思っています。

子規さんにあやかって一句

   高校の同窓会にて
 「我見しより久しき野菊のごとき君  子規もどき」です。いやはや。   道後関所番
平成27年7月 「草茂みベースボールの道白し    子規」
平成27年7月 「草茂みベースボールの道白し    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年7月の句は「草茂みベースボールの道白し   子規」です。

明治29年(1895)の作品で、季語は「草茂る」(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻五 明治二十九年 夏」(513頁)に掲載されています。

子規とベースボールは切り離せない。野球を愛した明治の俳人、歌人として、没後100年の2002年(平成14年)に新世紀特別表彰で「野球殿堂入り」を果たした。この句は、「坊っちゃんスタジアム」正面の句碑に刻まれている。

最近は見ることがまったくないが、夏草の茂る広々とした広場で、ベースボールをやっている人たちが見える。ベース間の一線が白く光っている。観客はなく、日に焼けた子供たちの熱戦が続く・・・・・こんな情景だろうか。

子規さんは予備門時代にはピッチャーとキャッチャーを兼ねた名選手であり、ベースボール用語の解説やら楽しさを伝えたことでも著名である。碧梧桐も虚子もキャッチボールの指導を子規から受けている。

球うける極秘は風の柳かな    「つづれ錦」明治23年
若草や子供集まりて毬を打つ   「寒山楽木」明治29年
夏草やベースボールの人遠し   「俳句稿」 明治31年
生垣の外は枯野や球遊び     「俳句稿」 明治32年
蒲公英やボールコロゲテ通リケリ 「仰臥漫録」明治35年

俳句だけではなく小説「山吹の一枝」にもベースボールの情景を執筆しているがあまり評判にならなかった。

今春の全国高校野球選抜大会に子規さんの母校「松山東高校(松山中学校の後身)」が80数年ぶりに出場し、東京の二松学舎高校と対戦した。子規の郷土は野球に燃え、子規さんの後輩たちの野球熱は再燃した。時を同じくして道後温泉駅前の放生園に野球のユニフォーム姿の子規像が建立された。

子規さんにあやかって一句

  野球少年であった頃を偲んで
 「草茂み三角ベースに陽が落ちぬ  子規もどき」
平成27年8月     「 鷺谷眺望      稲の穂に湯の町低し二百軒    子規 
平成27年8月     「 鷺谷眺望      稲の穂に湯の町低し二百軒    子規 
 

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年8月の句は「鷺谷眺望  稲の穂に湯の町低し二百軒  子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「稲穂」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 秋」(341頁)、第十三巻 小説 紀行「散策集 明治二十八年」(617頁)、第二十一巻「草稿 ノート」「病余漫吟 明治二十八年 秋」(102頁)に掲載されています。

『散策集』から抜粋します。

明治廿八年十月六日
今日は日曜日なり 天気は快晴なり 病気は軽快なり 遊志勃然漱石と共に道後に遊ぶ 三層楼中天に聳えて来浴の旅人ひきもきらず
      温泉楼上眺望
  柿の木にとりまかれたる温泉哉
鷺谷に向ふ
  山本やうしろ上りに蕎麦の花
  黄檗の山門深き芭蕉哉
      道後をふり返りて
  稲の穂に温泉の町低し二百軒 
    (以下 略)

今年は夏目漱石が松山尋常中学校に赴任してから120年に当たる。漱石の下宿先である「愚陀佛庵」に病後の子規が転り込んだのもこの年である。

10月6日、体調がよかった子規は漱石と道後を散策し、道後温泉本館の三層楼に上がり、曾祖母小島久の眠る鷺谷の黄檗宗大禅寺に向かう。

このあたりは現在は山の手の旅館が立ち並んでいるのだが、老生の散策コースでもある。一遍が生誕したとされる時宗宝厳寺から山の辺の道を通って大禅寺跡に立ち寄り、松山藩主の眠る祝谷山常信寺から松山神社に抜けるコースである。結構な高台であり、戦前は伊予鉄経営の道後グラウンドがあった。

鷺谷から見ての稲の穂であるが、詩的には、黄金に色づいた稲穂の中に、道後温泉本館や湯之町の宿屋や商店が埋もれるように二百軒ばかり見えるというイメージだが、当時鷺谷には田圃はなかったし、水利から判断しても水田耕作は無理ではなかったか。旧祝谷村、道後村の稲田であろう。

子規は10月17日に東京に戻り、其の後ふるさと松山に戻ることなく、望郷の中でその生涯を終えた。

子規さんにあやかって一句

      奥谷眺望
  花すすき上人坂下二百軒    子規もどき
平成27年9月  「ジュズダマや昔通ひし叔父の家    子規 
平成27年9月  「ジュズダマ)や昔通ひし叔父の家    子規 

(注)子規はジュズダマ(数珠球)の漢名〈伊呂波字類抄〉を使用しています。本字は「漢和辞典」で確認してください。ジュズダマの漢字は@クサ冠の下が「意」とAクサ冠の下が「以」の二字です。

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年9月の句は「ジュズダマや昔通ひし叔父の家    子規 」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「ジュズダマ(数珠球)」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 秋」(335頁)、第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟 明治二十八年 秋」(102頁)、第二十二巻 年譜 資料「第三巻「俳句三」に掲載されています。

「寒山落木 巻四」の句には「余土村を過ぐるに二十年の昔思ひいだされて」、「病余漫吟」の句には「余土へ行く道にて」の前書きがある。「第三巻「俳句三」では「すゝ玉や昔通ひし叔父の家  子規」で、ジュズダマがすゝ玉になっている。

和田克司編『子規の一生』(増進会出版社)から、この句が生まれた明治28年10月7日の出来事を記述しておく。

10月7日(月)快晴。「散策集」第5回吟行。今出(いまづ)の村上霽月から誘われていたので、思い立って、人力車で今出へと向かう。正宗寺に寄って釈一宿を誘うが、同道できない。九時ころ小栗神社(雄群神社)付近で偶然森円月に会う。幼いころの思い出のある余戸(ようど)を過ぎて、御旅所の松、鬼子母神、保免の宮、土居田の社、竹の宮の手引松を経て霽月宅に着。・・・・・

余戸には父方の伯父(叔父?)の佐伯家があり、週末ごとに子規は妹の「律」をつれて、泊りがけで書道を習いに行っていた。道々でジュズダマ(数珠球)ととって遊んだ記憶が鮮明によみがえったのだろう。


子規さんにあやかって一句

   「百日紅昔通ひし戸川塾    子規もどき 」    
 
戸川塾は愛媛県立農科大学(現・愛大農学部)の戸川教授が開いた英語塾。中学時代に週2回レッスンを受けた。お孫さんが神戸大学に進学した時に保証人になった経緯がある。
平成27年10月  「道後寶厳寺   色里や十歩はなれて秋の風   子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年10月の句は「道後寶厳寺   色里や十歩はなれて秋の風   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「秋の風」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 秋」(303頁)、第十三巻 小説 紀行「散策集 明治二十八年 」(618頁)、第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟 明治二十八年秋」(87頁)に掲載されています。「散策集」には前文(前書き)が「寶厳寺の山門に腰うちかけて」とある。

和田克司編『子規の一生』(増進会出版社)から、この句が生まれた明治28年10月6日の出来事を記述しておく。

10月7日(月)快晴。「散策集」第四回吟行。病気も癒え、漱石とともに道後を吟行に行く。鷺谷、鴉渓の花月亭に上がる。松枝町を経て一遍上人誕生の地宝厳寺に参詣。帰りに大街道の芝居小屋で「てりは狂言」を観る。鷺谷共同墓地に入り、曾祖母小島久の墓を尋ねたが見あたらなかった。  

子規と漱石が松山の「愚陀仏庵」で過ごし松山近郊を散策した明治28年から今年は120年を迎える。前年に道後温泉本館が完成し、宝厳寺の地所内に左右十二軒の遊郭が繁盛している。伊佐庭如矢初代町長の下、道後温泉の「近代化」がすすめられた時期にあたる。

散策に疲れて子規と漱石は一遍上人誕生の地である宝厳寺の山門に腰掛けて、遊郭街、道後公園(現・湯築城跡)や松山城を眺めたことだろう。平成25年8月に本堂と庫裏は全焼したが山門は残った。

子規さんにあやかって一句

   「道後寶厳寺
      再建の高き槌音秋の風   子規もどき 」 道後関所番
平成27年11月  「病後  あけ放す窓は上野の小春哉   子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年11月の句は「病後  あけ放す窓は上野の小春哉   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「小春」(初冬)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 冬」(349頁)、第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟 明治二十八年冬」(107頁)、『日本』明治三十年十一月十九日「病中」に掲載されています。

「病余漫吟」では「開け放つ窓は上野の小春かな」である。
病後の句は二句あり、他の一句は「蜻蛉に馴るゝ小春の端居哉   子規」である。

和田克司編『子規の一生』(増進会出版社)から、この句が生まれた明治28年11月の天候を記述しておく。

明治28年10月19日静養中の松山(愚陀仏庵、同居中の漱石)に別れを告げ、大阪、奈良に遊び、10月31日東京に帰着し、7ヶ月ぶりに子規庵に戻る。

子規庵の病床の窓を開け放つと、明るい光が差し込み、上野の山も眺める。人や町のざわめきも聞こえてくる。小春日を楽しむ根岸の子規庵ののどかな一日を過ごす。この年の11月の天候は雨が3日、快晴が11日で、穏やかな日が続いた。旅の疲れがでたのか、リュウマチで11月中は外出はしていない。歩行できない状況が続く。

12月1日に、帰郷以来初めて日本新聞社へ出社を試みている。12月9日に虚子を伴って道灌山に出掛ける。

子規さんにあやかって一句

   「湯月   開け放す窓は城址の小春かな   子規もどき 」 道後関所番
平成27年12月  「漱石東京へ来たりしに  足柄はさぞ寒かったでござんしょう   子規 」
平成27年12月  「漱石東京へ来たりしに  足柄はさぞ寒かったでござんしょう   子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年12月の句は「漱石東京へ来たりしに  足柄はさぞ寒かったでござんしょう 子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「寒し」(冬)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 冬」(354頁)、第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟 明治二十八年冬」(108頁)に掲載されています。

「病余漫吟」では、漱石来訪に関して三句詠まれている。

「漱石来るべき約あり  梅活けて君待つ庵や大三十日   子規」
「漱石来        語りけり大つごもりの来ぬ處   子規」
「漱石帰京せしに贈る  足柄はさぞ寒かったでござんせう 子規」

 明治28年10月19日静養中の松山(愚陀仏庵、同居中の漱石)に別れを告げ、大阪、奈良に遊び、10月31日東京に帰着し、7ヶ月ぶりに子規庵に戻る。そして12月末、漱石は中野鏡子との見合いの為帰京し、その足で子規庵を訪れた。

男が男を恋うる歌と錯覚しそうな二人の友情が歌からほとばしってくるようである。まさに親友、真友、心友である。うらやましいかぎりである。

 足柄は箱根に続く足柄か。足柄山は坂田金時(金太郎)の伝説で有名であるが、南国の伊予から箱根越えは寒かったでしょうよとの労わりと感謝と喜びの気持ちであろうか。なぜ足柄なのかはよくわからない。ご存知の方はご教授願いたい。

 東京に居るとき家人と足柄山に登ったことがある。古代から東西交通の要路で、峠の標高759メ-トル。「箱根の山は天下の険」ほどではないが結構登り甲斐のある山だった。頂上に立つと真正面に富士山が迫ってきて感動したことを覚えている。子規さんは明治25年10月に箱根路を歩いているし「足柄や花に雲おく女郎花」の句がある。足柄山に登ってはいない。

子規さんにあやかって一句

   「一遍聖、祖父(河野)通信の墳墓の地を遊行す   
       陸奥はさぞ寒かったでござんしょう    子規もどき 」 道後関所番
平成28年1月  「遣羽子の笑ひ聞ゆる小道かな   子規 

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年1月の句は「遣羽子の笑ひ聞ゆる小道かな   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「遣羽子」(新年)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 新年」(165頁)、第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟 明治二十八年新春」〔附明治二十八年俳句草稿補遺〕(129頁)に掲載されています。

 明治28年の遣羽子の句には下記句もある。
「遣羽子に去年の娘見えぬかな   子規」

 明治28年、根岸の子規庵で三度目の新年を家族で迎える。子規庵近くの小道で遣羽子(羽子つき)を楽しむ少女たちの笑い声が聞こえてくる。羽子を打ち損じると白粉か墨を付けられることもある。追っかける子、逃げる子、どっと笑い声。やがて静かになって羽子を打つ音が聞こえてくる。戦前には男の子は凧揚げ、女の子は羽子つき、すこし大人びてくると「百人一首」が正月の光景だった。ところで「去年の娘見えぬかな」は陸羯南のお嬢さんか、それとも・・・ 

 のどかな正月風景を彷彿させる。『寒山落木』明治28年の冒頭を飾る句は「紀元二千五百五十五年哉  子規」である。紀元二千六百年は老生の幼稚園時代である。

今年(平成28年)は「紀元二千六百七十六年哉」である。あけましておめでとうございます。本年もお付き合いのほどよろしくお願いします。

子規さんにあやかって一句

 「門松や笑ひ聞ゆる無人駅   子規もどき 」 道後関所番
平成28年2月  「横町の又横町や梅の花   子規 

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年2月の句は「横町の又横町や梅の花   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「梅」(春)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 春」(200頁)、第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟 明治二十八年新春」〔附明治二十八年俳句草稿補遺〕(137頁)に掲載されています。
新聞「日本」の明治31年4月8日号にも載っています。なお、この句の前書きに「根岸」と場所を特定しています。

根岸といえば、東京下町特有の、横町をまがるとまた横町という入り組んだ町並みです。京都の町屋とは随分違った雰囲気です。

子規の根岸住まいは明治25年2月29日のことで「本郷区駒込追分町三十番地」から「下谷区上根岸町八十八番地」に転居します。陸羯南宅の西隣で羯南の紹介によるものです。この場所が、今日も現存する「子規庵」です。

転居の翌年に当たる明治26年の句に「梅もたぬ根岸の家はなかりけり  子規」がありますが、下町には梅を植えた家が多くあり驚いたのかもしれません。子規が幼少期を過ごした松山のご城下も同じように梅を植えていたのでしょうか。旧道後村の拙宅には梅、柿が残っており、現在でも、梅干や干し柿を季節が来ると楽しんでいます。

句の鑑賞というより「映像」としてこの光景が浮かんできます。子規さんが碧梧桐や虚子と散策した横町であり、鳴雪や漱石が句会に訪ねた路地でもありました。

子規さんにあやかって一句
  根岸 子規庵
 「横町の又横町や梅の庵    子規もどき」 道後関所番
平成28年3月  「何として春の夕をまぎらさん   子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年3月の句は「何として春の夕をまぎらさん   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「春」(春)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 春」(170頁)、第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟 明治二十八年春」〔附明治二十八年俳句草稿補遺〕(134頁)に掲載されています。

詞書きは「独居恋」です。「独居恋」は『広辞苑』には載っていません。「独居」はひとり住まいのことで、今日では「独居老人」が話題になっています。この句の場合が「独り居」の意味です。「ただひとりでいること。狭衣物語4「かかる独り居し給ひつつ身を焦し給ふ事」(『広辞苑』)

句の解釈としては、春の夕べに独りで過ごしていると恋しいひとのことが思い出されて、どのように気持ちをまぎらせてよいのだろうかということでしょう。まさに「狭衣物語」そのものの世界でしょう。古典的な陳腐化した俳句と言えるでしょう。

もっとも、子規さんを対象に考えると、具体的に誰を想って詠んだ句かということに興味が湧きます。詩人 堀内統義さんの『恋する正岡子規』(創風社2013)には何人かの恋する女が描かれてはいますが、それとも・・・・・

春の愁いといえば、与謝蕪村の「愁いつつ岡に登れば花茨」を思い出します。この句の季語は「花茨」で「夏」ですが、「春愁」のことばが初恋や幼恋に結びつきます。幼稚園や小学校の女先生との別れ、中学校、高校での女友達との別れもきまって「春」でしたし、卒業から進学、就職までの無為の日々は愁いの日々でもあったようです。いやはや。

もっとも明治28年春といえば、親友であり夏目漱石が松山中学に赴任した時期でもあります。漱石を想ってとも考えられないこともありませんが、ここでは[幻のひと]としておきましょうか。

子規さんにあやかって一句
 独居老  
 「何として独りの春をまぎらさん     子規もどき」 道後関所番
平成28年4月  「世の中は桜が咲いて笑ひ声   子規 
平成28年4月  「世の中は桜が咲いて笑ひ声   子規 

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年4月の句は「世の中は桜が咲いて笑ひ声   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「桜」(春)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 春」(205頁)に掲載されています。

この年、桜の句を六十句詠んでいます。
 
  吉原  二句
うちかけや一かたまりの桜散る
うちかけの並んで通る桜かな
  従軍の首途に
いくさかな我もいでたつ花に剣
  金州にて
故郷の目に見えてたゞ桜散る
  松山龍穏寺
めづらしや梅の莟に初櫻
 
 龍穏寺の桜は「十六日桜」として松山では著名である。河野家の菩提寺のひとつでもあり当家の旦那寺でもある。昭和20年7月の松山大空襲で焼失したが檀家が殆どなく本堂の再建が叶わなかった。隠居寺であった「西禅寺」が残された宝厳寺の檀家の面倒をみている。

 子規が詠んだ句は、東京とすると上野の桜か小金井の桜かもしれませんが、少年の日の松山城か道後公園、石手川の桜かもしれません。日本人にとって桜は「国花」だし、それぞれに桜の名所が心象として残っているのでしょう。

 学生時代、会社員時代には「同期の桜」を肩を組み合って歌い、やがて「散る桜残る桜も散る桜」の心境で戦友たちと別れを告げたことが思い出されます。

「世の中にたえてさくらのなかりせば春のこころはのどけからまし」在原業平
「願わくば花の下にて春死なん、その如月の望月のころ」西行法師

 毎年、松山神社、常信寺、道後公園、石手川公園、松山城公園(城山)で花を愛でながら弁当を食べ、夜桜を眺め、そして拙宅の庭の桜も照明をつけて近所の人と花談義をしています。まさに、桜咲いての笑い声が続きます。

子規さんにあやかって一句
   
 「東北は桜が咲いて笑ひ声     子規もどき」 道後関所番
「この二日五月雨なんど降るべからず   子規 」
平成28年5月  
       母の東へ帰りたまふに
  「この二日五月雨なんど降るべからず   子規 」



子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年5月の句は「母の東へ帰りたまふに この二日五月雨なんど降るべからず  子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「五月雨」(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 夏」(235頁)と第二十一巻「病後漫吟 明治二十八年夏」(62頁)掲載されています。なお「病後漫吟」では、前書きが「母の東帰し給ふに」と簡略化されている。

明治二八年日清戦争従軍からの帰国途上の五月十七日「佐渡国丸」の船中で喀血、上陸後「神戸病院」に緊急入院。六月四日、東京から母八重と碧梧桐が到着、子規とともに看護に当たる。

六月二八日、八重は松山に三年振りに帰郷、七月九日、松山から戻った母は碧梧桐と東京に帰る。根岸の自宅に戻る母を気遣って、家に着くまでの二日間は五月雨が降らないでほしいという思いが切々と伝わってくる。

ちなみに官報に記載された「東京の天候」によれば、七月八日は快晴、九日は晴れ、十日は快晴、十一日、十二日は雨であった。まさに子規の願いを天が聞き届けてくれたようだ。

子規さんにあやかって一句
  
   孫の旅立ちに
 「新学期地震なんど起こるべからず  子規もどき」 道後関所番
「夏山にもたれてあるじ何を読む   子規 
平成28年6月  
       神戸市錬卿寓居にて
 
 「夏山にもたれてあるじ何を読む   子規 」

 
子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年6月の句は「神戸市錬卿寓居にて  夏山にもたれてあるじ何を読む   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「夏山」(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 夏」(240頁)と第十八巻書簡一 明治二十八年(561頁)、第二十一巻 草稿ノート「病余漫吟」明治二十八年 夏」(64ぺ頁)に掲載されています。

この俳句の背景は子規自身が河東秉五兄(碧梧桐)宛書簡に詳細に書かれています。(7月22日付)。

 「拝啓 御在神中は一方ならぬ御看護にあづかり御厚志の段奉謝候
 虚子より承候へば御帰京後御病気の由容体によりては入院の上御療治ある方後来のため よろしきかと存候 竹村尊兄へも其事 申上置候 兎に角にふぐり大事と御保養可被成候
 地図四枚落掌御手数奉謝候 近来同図は版磨滅致し候へども新地図は多少の修正ありて 鉄道線路など大方出居候は愉快に存 候
 小生は多分明日退院と決定致居候 併し天気都合にて延引いたすべく候
 一昨日より散歩をはじめ昨日は無始無終楼上に半日をくらし申候 主人扇を出して一句 をと請はれて病筆ふるへながら 
   夏山にもたれてあるじ何を読む  
 など即景を興し申候 御一笑にそなへ候
 小生近来来雲百句をはじめ候 一首々々の苦吟却て興味多く覚え候大略 怱々
  七月二十二日
   秉五兄 几下 

 すべては子規の碧梧桐宛書簡書簡に尽きるが、若干の説明を付しておきたい。

 明治28年7月21日に神戸病院に友人の竹村鍛(きとう)を訪問した時の句であることがわかる。竹村鍛は河東秉五兄(碧梧桐)の実兄で、当時神戸に住んでいた。竹村の漢詩文の号は錬卿(れんきょう)であった。当日、人力車で虚子とともに鍛の家を訪ね半日を過ごす。その節に、鍛が扇を出して子規に一筆書いた句が「夏山にもたれてあるじ何を読む」である。

 夏山は窓越から見える六甲山系であろうか。子規は二十四日に神戸病院を退院、そして須磨保養院に移った。8月20日須磨保養院を退院、25日松山に帰り湊町4丁目の大原恒徳宅に入る。松山中学校の教師であった夏目漱石の寄宿していた「愚陀仏庵」に落ち着いたのは27日からであった。 」   

子規さんにあやかって一句
  
   「松山中学校明教館にて   城山にもたれて子規子夏季講話   子規もどき」  道後関所番
 「ことづてよ須磨の浦わに昼寝すと  子規 」
平成28年7月 
       虚子の東帰にことづてヽ東の人々に申遣はす 
    「
ことづてよ須磨の浦わに昼寝すと  子規 」


 子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年7月の句は「虚子の東帰にことづてヽ申遣はす  ことづてよ須磨の浦わに昼寝すと  子規 」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「昼寝」(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 夏」(229頁)と第二十一巻 草稿ノート「病余漫吟」明治二十八年 夏」(59頁)に掲載されています。

 子規博懸垂幕俳句ですが3ヶ月連続して、28年夏の子規の須磨での療養時の句を撰んでいます。正直「仏の顔も三度まで」の気持ちです。竹田美喜館長、ごめんなさい。

平成28年5月は「母の東へ帰りたまふに 
            この二日五月雨なんど降るべからず  子規」

平成28年6月は「神戸市錬卿寓居にて  
            夏山にもたれてあるじ何を読む   子規 」

平成28年7月は「虚子の東帰にことづてヽ東の人々に申遣はす 
            ことづてよ須磨の浦わに昼寝すと  子規 」

 
 子規の須磨での療養の記述は5.6月の鑑賞エッセイと重複するので割愛します。虚子の行動に絞って記述します。全体像がお分かり頂けると思います。内容は、和田克司編「子規の一生」(『子規選集M』増進会出版社2003)に拠る。

「須磨の浦わ」の「浦わ」は、『広辞苑』のよれば「浦曲」「浦廻」で、@海べの曲がって入りこんだ所。A海岸をめぐりながら進むこと。

 
○明治28年5月27日(月)
京都で鼠骨とともにいた虚子のもとに、陸羯南から子規の入院先の神戸病院へ行くように書簡が来て、虚子が来る。碧梧桐、神戸病院の病床のできごとを少しも漏らさず書き残しておこうと、虚子と交代で日記をつける。

○明治28年6月13日(木)
虚子は松山に帰る。

○明治28年6月中
虚子、神戸に戻る。。

○明治28年7月1日(月)
虚子、鳴雪、五州、碧梧桐らと運座。「はれの日」と題して須磨の子規に送り講評を乞う。

○明治28年7月9日(火)
母八重と碧梧桐は東京に帰る。虚子が残る。

○明治28年7月23日(火)
須磨保養院に移る。8月20日まで過ごす。虚子は子規を送って行き、二、三日滞在する。

○明治28年7月23日(火)〜25日(木)中
虚子とともに松原を通って波打ち際に出、散歩した。

○明治28年7月25日(木)
虚子、須磨保養院の子規と別れ、帰京。本郷台町二番地、香山方に寓居。虚子の帰京に際して「贈るべき扇も持たずうき別れ」を詠む。

子規さんにあやかって一句
  
   「遍路の東帰にことづてヽに級友たちに申遣はす 
    「ことづてよ道後の温泉にて冬篭り  子規もどき 」        道後関所番
平成28年8月 
    
松山城 
    「秋高し鳶舞ひ沈む城の上   子規


 子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年8月の句は「松山城  秋高し鳶舞ひ沈む城の上   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「秋高し」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 秋」(281頁)と第十三巻 小説紀行「散策集」明治28年9月20日」(609頁)、新聞「日本」明治31年9月21日号に掲載されています。

『散策集』によれば、明治28年9月20日午後、「今日はいつになく心地よければ折柄来合せたる○堂を催してはじめて散歩せんとて愚陀仏庵を立ち出づる程秋の風のそゞろに背を吹てあつからず 玉川町より郊外には出で」石手寺、道後公園を散策する。

 杖によりて町を出づれば稲の花
 秋高し鳶舞ひ沈む城の上
 大寺の施餓鬼過ぎたる芭蕉かな
 秋晴れて見かくれぬべき山もなし

と四十五句の俳句を詠んでいる。来年出版する『子規と松山 ふるさと事典』(仮称)では、9月20日の項は老生が執筆しているので詳細は割愛したい。

明治26年の句に 秋高し鳶飛んで天に到るべうがある。まさに有頂天というか鳶頂天の句だが、明治28年の句は写生句でありはるかに優れている。

子規さんにあやかって一句
  
   「秋高し松山城の曲輪かな   子規もどき 」 道後関所番
  「桔梗活けてしばらく仮の書斎かな   子規
平成28年9月 
       漱石寓居の一間を借りて 
    「桔梗活けてしばらく仮の書斎かな   子規


 子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年9月の句は「桔梗活けてしばらく仮の書斎かな   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「桔梗」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 秋」(221頁)と第二十一巻 草稿ノート「病余漫吟」明治28年秋」(97頁)に掲載されています。

ここ数ヶ月、明治28年の句が続きます。今回も、漱石が松山中学校外国人教師が寄宿した「愛松亭」から「愚陀仏庵」に引っ越した下宿に、結核の療養を兼ねて帰郷した子規が転がり込みます。

ここでの50数日の共同生活から、俳句の革新の機運が生まれ、子規の同志たちが誕生することになります。

「桔梗活けて」の上五句に、この俳句の良さがこめられています。「桔梗」の花言葉は
「気品」「誠実」「清楚」「変わらぬ心」「優しい愛情」といった言葉です。だから子規さんが桔梗を活けたとは思いませんが、漱石との変わらぬ友情、漱石の優しい思いやり、書斎に相応しい「気品」、「清楚」な部屋の佇まいが感じられます。子規さんは、片付けの後、ごろりと横になって、ふるさと松山の良さを感じ取ったに違いありません。

愚陀仏庵復元の市民運動が何度となく起こり、消え失せ、またよみがえっています。老生はこの運動から一歩下がって、外国人教師たち【ノイス(Noyes)、ターナー(Turner)、ホーキンス(Hawkins)、ジョンソン(Johnson)】が住み、松山にアメリカの文化を伝えた「愛松亭」の復元の呼び掛けています。「愚陀仏庵」と「愛松亭」が直径500メーターゾーンで復元できればと願っています。

子規さんにあやかって一句
  
   「桔梗活けてしばし野菊の君想ふ 子規もどき 」 道後関所番
     松山を立ち出づる時 
平成28年10月 
       松山を立ち出づる時 
    「行く秋のまた旅人とよばれけり
   子規」



 子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年10月の句は「行く秋のまた旅人とよばられり   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「行く秋」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 秋」(276頁)と第二十一巻 草稿ノート「病余漫吟」明治28年秋」(77頁)に掲載されています。

今月も明治28年の句が続きます。今回は、漱石が松山中学校外国人教師が寄宿した「愛松亭」から親友夏目漱石の下宿「愚陀仏庵」に身を寄せた8月27日から52日間の共同生活から別れを告げ上京する節の句です。

「愚陀仏庵」では、俳句結社「松風会」会員の句作指導をし、漱石や柳原極堂らと市内や郊外を散策し、子規が目指そうとする俳句を伝えていきます。『散策集』が置き土産になりました。

同年10月19日に子規は上京することになるが、それに先立ち、10月12日の午後、二番町にある「花廼舎」の広間で漱石や松風会会員17名によって送別会が開かれた。この席で「行く秋のまた旅人とよばれけり」が詠まれた。

17日に子規は帰京のため三津浜に向かい、久保田回漕店で送別句会を開いている。翌18日の午後、柳原極堂ら10名が三津浜まで見送りに来て、子規のいる客室で句作や揮毫を行った。この時の留別の句が「十一人一人になりて秋の暮   子規」です。

19日、松山を発った子規は、宇品、須磨、大阪、奈良を巡って上京。その間、法隆寺では有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を残している。31日、新橋停車場にて、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪の出迎えを受けて根岸の子規庵に帰った。子規にとって最後の帰郷と長旅であり最後に目にした松山となった。

「行く秋の」はふるさと松山への惜別の思いでしょうか。子規は学生時代から旅に出ることも多く明治28年には遠く遼東半島まで新聞「日本」の「従軍記者」として出かけます。俳句を通して、西行や芭蕉と同じ「旅人」と理解したのかもしれません。もっとも一遍のように「非定住」に徹しきった「人生の旅人」になりきれなかったのは時代がなせる思想と行動でしょうか。

明治28年の季語「行く秋」の句を取りまとめておきます。これだけ「大量生産」されると佳句の醍醐味も薄れませんか。いやはや。

○余戸手引松     「行く秋や手を引きあひし松二本」
○感あり       「行く秋の我に神無し佛無し」
○松山を立ち出づる時 「行く秋のまた旅人と呼ばれけり」
○客舎に臥して    「行く秋の腰骨いたむ旅寝哉」
○三月堂       「行く秋や一千年の佛だち」
○法隆寺       「行く秋をしぐれかけたり法隆寺」
○法隆寺       「行く秋を雨に気車待つ野茶屋哉」
○帰菴三句      「行く秋を生きて帰りし都哉」
           「行く秋の死にそこなひが帰りけり」
           「行く秋や菴の菊見る五六日」

子規さんにあやかって一句
     定年で東京を去る時
   「行く秋のまた伊予猿とよばれけり   子規もどき 」 道後関所番
  「汽車此夜不二足柄としぐれけり   子規」
平成28年11月 
   
 「汽車此夜不二足柄としぐれけり   子規」


子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年11月の句は「汽車此夜不二足柄としぐれけり   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「時雨」(冬)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 冬」(365頁)と第二十一巻 草稿ノート「病余漫吟」明治28年冬」(113頁)に掲載されています。「病余漫吟」では「汽車この夜不二足柄としくれけり」と表記されています。

この年「時雨」の句を40句詠んでおり、そのうち下の句「しぐれけり」は7句です。「蝉時雨」「袖の時雨」などの単語もありますが、一般には、秋の末から冬の初め頃に、降ったりやんだりする雨のことで、子規にとって、健康にすぐれず、気分の動揺があり、「時雨」の句が多くなったのかなとも考えられます。

今月も明治28年の句が続きます。病気療養で8月25日に帰郷し、松山中学の英語教師として勤務していた親友夏目漱石の下宿「愚陀仏庵」に別れを告げ、10月31日半年ぶりに東京の根岸の自宅(現在の子規庵)に帰宅します。このときの心境は「行く秋を生きて帰りし都哉  子規」であったでしょう。

10月30日、大阪を13時7分発の汽車で発ち、翌31日8時15分に新橋に着いています。同じ車中で「后の月足柄山で明けにけり」「朝寒の風が吹くなり雪の不二」の句を詠んでいます。大阪〜東京間が19時間、老生の学生時代は10時間、現在は3時間余といったところですが、いまや大阪〜東京間で旅情を感じる人は殆どいなくなったようです。

丹那トンネルの開通は昭和9年(1934)で、子規の時代は現在の御殿場線であり、箱根をぐるりと回ってである。東京在勤中に家族で「冨士屋ホテル」に宿泊して足柄山に登ったが富士山の眺望は見事であった。

「此夜」は旧暦9月13日の「十三夜」で、足柄山あたりで夜が明け、不二(冨士)が雪をいただいて月光に映えているといった風情か。まさに子規の三句で、墨絵の世界を髣髴とさせてくれる。この後、子規は根岸での横臥の日常生活が待っており、二度と雄大な冨士を眺めることはなかった。「汽車此の世不二足柄としぐれゆく」とでもいうべきか。

子規さんにあやかって一句
     
   「歩き遍路岩屋窪野もしぐれけり  子規もどき 」  道後関所番
平成28年12月   「煤拂や神も仏も草の上 
平成28年12月   「煤拂や神も仏も草の上   子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年12月の句は「煤拂や神も仏も草の上   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「煤拂」(冬)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 冬」(357頁)、第四巻 俳論俳話一 「俳句二十四體 即興體」(417頁)、第十六巻 俳句選集 「新俳句 冬の部」(363頁)、第二十一巻 草稿ノート「病余漫吟」明治28年冬」(109頁)に掲載されています。

「煤拂」の句を子規は明治26年に12句、28年には9句詠んでおり、明治二二年の「煤はらひしてくる年のまたれけり」が「煤拂」としては初出である。俳句としては初心者の句でほほえましい。

〇明治二二年
煤はらひしてくる年のまたれけり

〇明治二五年
煤拂のほこりの中やふじの山

〇明治二六年
鼻水の黒きもあはれ煤拂
南無阿弥陀仏の煤も拂ひけり
牛はいよいよ黒かれとこそ煤拂
煤拂のほこりを迯(逃)て松の鶴
煤拂のほこりに曇る伽藍哉
煤拂ひ鏡かくされし女哉
来あはした人も煤はく庵哉
梢から烏見て居る煤拂ひ
煤拂て金魚の池の曇り哉
煤拂て香たけ我に岡見せん
煤拂のありともしらず今年竹
煤拂や竹ふりかさす物狂ひ

〇明治二七年
該当句なし

〇明治二八年
煤拂の門をおとなふ女かな
煤拂や神も仏も草の上
煤はくとおぼしき船の埃かな
煤はいて蕪村の幅のかゝりけり
煤はきのこゝだけ許せ四畳半
煤はらひ又古下駄の流れ来る
大佛の雲もついでに煤はらひ
佛壇に風呂敷かけて煤はらひ
 奈良
千年の煤もはらはず佛だち

煤拂いの情景が浮かぶが、年末の大掃除は、旧家では例年12月13日から始まった。まずは神棚、仏壇から始めた。子供時代の記憶では、裏庭から竹を切って笹を束にしての作業なので、男衆が担当していたように思う。子規さんの見た光景も同じだろう。

神棚と仏壇は別の部屋に祭られているが、小春日和だったのだろうか、庭の草の上に移動させて煤拂をしたのであろう。多くは「佛壇に風呂敷かけて煤はらひ」の方が多かったと思われる。

最近では神社仏閣城郭の煤拂いは「季節の風物詩」としてTVで放映されることが多い。こゝ松山の道後温泉では、12月上旬に温泉本館と「椿の湯」が一日臨時に休館して屋根や軒下のほこりを払っている。

子規さんにあやかって一句
     
   「煤拂や半寿の年を了へにける  子規もどき」  道後関所番
平成29年1月  俳句の盛運を祝す「蓬莱に俳句の神を祭らんか    子規」
平成29年1月  俳句の盛運を祝す「蓬莱に俳句の神を祭らんか    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年12月の句は「蓬莱に俳句の神を祭らんか   子規」です。前書きは「俳句の盛運を祝す」とあります。

明治29年(1896)の作品で、季語は「蓬莱」(正月)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻五 395頁)に掲載されています。

「蓬莱」(ほうらい)は三神山の一つ。中国の伝説で、東海中にあって仙人が住み、不老不死の地とされる霊山。蓬莱山。[史記秦始皇本紀]であるが、ここでは、新年の祝儀に三方の盤上に白米を盛り、上に熨斗鮑のしあわび・伊勢海老・勝栗・昆布・野老ところ・馬尾藻ほんだわら・串柿・裏白・譲葉・橙・橘などを飾ったもの。年賀の客にも饗した。蓬莱飾(ほうらいかざり)を指す。[広辞苑]

句意は、俳句の盛運を祝して、蓬莱飾りに俳句の神を祭ろうという新年の決意であろう。明治29年(1896)は、子規にとって俳句界に手ごたえを感じる年であり、同じ年頭に「今年はと思ふことなきにしもあらず」とも詠んでいる。

「発句始」には松山から帰省中の夏目漱石が出席、第二回運座から軍医学校長森鴎外が来会、高浜虚子、河東碧梧桐、石井露月、佐藤紅緑の「子規門四天王」ら若手が台頭し、「日本派俳句」が飛躍の年を迎えることになる。

もっとも子規自身の健康状態は、28年松山での療養生活を切り上げて上京してから快復しておらず、歩行はままならず、根岸の子規庵での病臥の状態が継続している。

「蓬莱」の句は縁起がよく、毎年の年初には数句詠んでいる。

明治二五年
簑笠を蓬莱にして草の庵
蓬莱の山を崩すや嫁が君
蓬莱の松にさしけり初日の出

明治二六年
動きなき蓬莱山の姿哉
蓬莱の上にしたるる柳哉
蓬莱に我身ちぢめてはいらうよ

明治二七年
三宝に東海南山庵の春
蓬莱に橙の朝日昇りけり
蓬莱や南山の蜜柑東海の鰕
蓬莱の山も動かぬ代なりけり
歯朶の羽蓬莱鶴の如くなり
大内は蓬莱山の姿かな
蓬莱に似たり小窓の松の山
君か家は蓬莱橋をかざし哉

明治二八年
蓬莱に貧乏見ゆるあはれなり
鼠どもの蓬莱をくふてしまひけり
蓬莱に喰ひたきものもなかりけり

明治二九年
蓬莱の小く見ゆる書院かな
蓬莱の陰や鼠のささめ言
蓬莱にすこしなゐふる夜中哉
鶏鳴いて蓬莱の山明けんとす
蓬莱に俳句の神を祭らんか

明治三〇年
三宝に蓬莱の山静かなり
蓬莱のうしろの壁を漏る日哉
大なる蓬莱見ゆる町家哉
蓬莱に根松包むや昔ぶり
蓬莱や上野の山と相対す

明治三一年
蓬莱にテーブル狭き硯哉

明治三二年
かたよせて蓬莱小し梅がもと
蓬莱に一斗の酒を盡しけり
蓬莱の蜜柑ころげし座敷哉
蓬莱の一間明るし歌かるた
蓬莱に我は死なざる今年哉
蓬莱に我生きて居る今年哉
蓬莱のかち栗かちる七日哉
蓬莱にくふべきものを探りけり
蓬莱や名士あつまる上根岸
蓬莱の小さき山を崩しけり
蓬莱の歯朶踏みはづす鼠哉
蓬莱や襖あけたる病の間

明治三三年
蓬莱やふぶきを祝ふ吹雪の句
蓬莱に鼠のうからやから哉
蓬莱の鼠に崇る疫かな

明治三五年
蓬莱に家越車や松の内

ところで、子規さんが詠む「俳句の神」とは一体どのような神なのだろうか。芭蕉か蕪村か天神か八幡か、それとも・・・ 遊行聖一遍、西行ではあるまい。

子規さんにあやかって一句
  
 道後温泉の盛運を祝す
「蓬莱に出雲の神を祭らんか    子規もどき」 道後関所番
平成29年2月 「荷を解けば浅草海苔の匂ひ哉    子規
平成29年2月 「荷を解けば浅草海苔の匂ひ哉    子規

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年1月の句は「荷を解けば浅草海苔の匂ひ哉   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「海苔」(春)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四」179頁 (明治二十八年 春)、第十五巻 俳句会稿「明治二十八年二月十七日於気尾井坂公園 第三回十二人(大会)従軍送別」(明治二十八年)、二十一巻草稿ノート「附明治二十八年俳句草稿補遣」135頁 (明治二十八年春)に掲載されています。

表題にもある通り、日清戦争の従軍記者として大陸(金州、旅順)に出かけることが決まった子規の為に、明治2年2月17日、紀尾井坂公園で送別句会が開催された。総勢十二人(鳴雪・子規・松城・爛腸・酒竹・古白・非風・墨風・可全・虚子・碧梧桐・藪鶯)。

紀尾井坂公園は現在の清水谷公園付近でしょうか。明治11年、明治の元勲 大久保利通が島田一郎らに襲われた「紀尾井坂の変」のあった場所の近くです。個人的には勤務先の東京支社が赤坂に在り、赤坂見附から清水谷公園付近は昼も夜も交遊の場所でした。公園の中に東屋があったのでしょうか。ご存知であればご教示ください。

句意は、荷を解いた瞬間、浅草海苔の匂いがふわっと広がったという光景でしょうか。浅草や日本橋にも近い根岸に住む子規さんの句としては意外な感じです。伊予で荷を解いたのであれば、浅草海苔の匂い、江戸の匂いに共感できるのですが・・・・・

「海苔」の題で下記の句が詠まれています。

「海苔焼て曽我物語聞かばやな   酒竹」
「海苔粗朶の干潟に残る春日哉   碧梧桐」
「此庵に人あり海苔の匂ひかな   松城」
「海苔舟や七砲台の四日月     非風」
「雪晴れや海苔船並ふ羽田沖    不明」
「初旅のわらじにかゝる海苔の味  不明」 
「ヌッと過ぐ海苔干す露地の白帆哉 不明」

翌月の3月3日、子規は新橋から汽車で大阪に向かい、4日大阪で一泊、6日に広島に着く。14日には松山に8度目の帰省をしている。子規が第二近衛師団に従って宇品を出発したのは4月10日であった。

子規さんにあやかって一句
  
「荷を解けば瀬戸の蜜柑の匂ひ哉  子規もどき」 道後関所番
平成29年3月 「雛もなし男許りの桃の宿    子規」
平成29年3月 「雛もなし男許りの桃の宿    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年3月の句は「雛もなし男許りの桃の宿  子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「雛」(春)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四」180頁 (明治二十八年 春)、第十二巻 随筆二 陣中日記 77頁(明治二十八年)、二十一巻草稿ノート 病余漫吟 44頁 (明治二十八年春)に掲載されています。

この句の背景については子規自身が詳しき書いています。

1)「寒山落木」
 日本新聞社楼上に従軍の酒宴を張りて吾を送らる折ふし三月三日なりければ雛もなしといふ題を皆々詠みけるにわれも筆を取りて 二句
 雛もなし男許りの桃の宿
 首途(かどいで)やきぬぎぬをしむ雛もなし
2)「陣中日記」
 正午の頃同僚十余人酒を置て吾を送る。恰も新暦の節句なれば雛もなしといふ題にて人々句を作るに
 雛もなし男許りの桃の酒  
 首途やきぬぎぬをしむ雛もなし
などわれも戯る。
3)「病余漫吟」
 雛もなし男はかりの桃の宿

句に「桃の宿」と「桃の酒」の二種あるが、日本新聞社での送別会の句は「雛もなし男許りの桃の酒」であって、のちにこの句を「桃の宿」として、出発に際しての一夜を「桃の宿」で過ごしたという俳句的虚構にまとめあげたのであろう。もっとも「男許りの桃の宿」では送別の余情はまったく感じられないのだが・・・

日本新聞社壮行会の参加者は福本日南、中村不折、仙田土仏、石井露月、佐藤紅緑、諫早(小林)李坪、斉藤信の7名。
新橋駅から3月3日16時10分発の汽車で広島に向かう。前途を暗示するかのように大雪であった。4日、大阪着。5日、夜21時45分発にて広島に向かい、6日、正午に広島に到着。

子規さんにあやかって一句

 昭和33年3月大学を卒業す 
「桜散る男許りの傘寿会  子規もどき」 道後関所番
平成29年4月 「鶯の籠をかけたり上根岸    子規」
平成29年4月 「鶯の籠をかけたり上根岸    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年4月の句は「鶯の籠をかけたり上根岸  子規」です。

明治30年(1897)の作品で、季語は「鶯」(春)です。『子規全集』第三巻 俳句三「俳句稿」25頁 (明治二十八年 春)に掲載されています。

同じ時期に鶯の句を十数句詠んでいます。

鶯や寺子屋に行く道の藪
楢の木や鶯来鳴く家の北
鶯のうたゝ眼白の眼を妬む
木さへあれば鶯啼くや上根岸
鶯の松になく也寛永寺
我病んで鶯を待つ西枕
梅が枝にあれ鶯が鶯が
鶯の籠をかけたり上根岸
寺町の鶯鳴くや垣つたひ
根岸行けば鶯なくや垣の内
十日ばかり鶯遅し椎の雨

現在の根岸から想像もつきませんが、根岸は江戸時代から「初音の里」と呼ばれるほど鶯が多く、子規庵のあたりは「鶯横町」(うぐいすよこちょう)と呼ばれていたそうです。上記11句から汲み取れる情景は、まさに鶯の里と云えそうです。

明治30年頃は子規は病臥の状態でしたが、子規庵の軒に小鳥籠をかけ、鶉を飼ったり、雀を飼ったりしていたようです。鶯も籠の入れていたことが、この句から分かります。

道後の拙宅の庭にも晩春には里山から鶯が引っ越してきて「ほ ほけきょう」の美声を着かけてくれます。子規も、鶯の声を聞きながら、虚子・碧梧桐と語りあったのでしょうか。

鶯を捕まえたことはないのですが、雀のように、餌でおびき寄せて、籠をパタンと倒して捕えるのでしょうか。ご同輩の子供の頃の話を聞かせていただけませんか。雀は籠に入れても怯えて餌を食べようとしないので、夕方には逃がしてやったものですが・・・・・

子規さんにあやかって一句
「鶯の鳴く方一里道後村  子規もどき」 道後関所番
平成29年5月 「すよすよと舟の側飛ぶ蛍かな   子規
平成29年5月 「すよすよと舟の側飛ぶ蛍かな   子規

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年5月の句は「すよすよと舟の側飛ぶ蛍かな  子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「蛍」(夏)です。『子規全集』第四巻 俳句二「寒山落木」248頁 (明治二十八年 夏)と第二十一巻 草稿ノート67ページに掲載されています。

明治二十八年の蛍の季節といえば6月頃か、子規は従軍記者として大陸に渡り、帰国時船中で喀血し神戸病院に入院したのが5月23日、須磨保養院に移ったのが7月22日であるから、この句が作られたのは神戸であり神戸病院のベッドかもしれない。

子規は、生死のさまよう中で、蛍が闇の中を進む小舟の側を「すよすよ」と飛んでいく幻想をみたのかもしれない。。蛍は子規、あるいは子規の魂かもしれない。飯田蛇笏が芥川龍之介の死を悼み詠んだ「たましひのたとへば秋のほたるかな」を思い出した。

「すよすよと」という言葉は『日本国語大辞典』にもないし『広辞苑』にも載っていない。子規の造語かと思い探索を始める。
「すよすよとのびて淋しや女郎花」(寒山落木巻二 明治二六年秋)
「寒燈明滅小僧すよすよと眠りけり(寒山落木巻二 明治二九年冬)

寒燈明滅の「すよすよ」は、「すやすや」と「そよそよ」の合体か。女郎花の「すよすよ」は「なよなよ」の感じもある。とすると、蛍の句は・・・・・
明治期、松山では「すよすよと」という表現があったのだろうか、非常に興味あることばである。ぜひ、ご意見をお寄せいただきたい。

子規さんにあやかって一句
 妻の死を悼む
「すよすよと吾の側飛ぶほたるかな 子規もどき」 道後関所番
平成29年6月 「温泉上がりに三津の肴のなます哉   子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年6月の句は「温泉上がりに三津の肴のなます哉   子規」です。

明治23年(1890)の作品で、季語は「冲膾」(夏)です。『子規全集』第三巻 俳句三「寒山落木 拾遺」494頁 (明治二十八年)と第十八巻 書簡一 165ページに掲載されています。

明治二十三年八月三日付け「大谷藤治郎(是空)」宛書簡を掲載する。

「此度愈鉄窓の方角士を辞し大阪の大川町の大谷といふ身故まづ大三字といふ役に栄転せられたる処欣抃(きんべん)々々 然るに又もや病魔に襲はれ給ふよし不欣抃(きんべん)々々(差引零となる之を是空といふ) 早く来給へ御馳走して待てゐるよ
    温泉上がりに三津の肴のなます哉 」

子規にとっての「親友」である是空に、ふるさと道後の温泉とふるさと料理で病気の友を励まそうとする、子規の優しい気持ちが感じられる句である。

今も同様であるが、近海物は三津であり、伊予節に「三津の朝市 道後の温泉」とある。

子規さんにあやかって一句
 
「温泉上がりに伊予のみかんと団子哉 子規もどき」 道後関所番
平成29年7月 「夏痩せて大めし喰ふ男かな   子規」
平成29年7月 「夏痩せて大めし喰ふ男かな  子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年7月の句は「夏痩せて大めし喰ふ男かな   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「夏痩」(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四」227頁(明治二十八年)、第十八巻 書簡一 内藤素行宛書簡六月三十日付 555頁、第二十一巻 草稿ノート 病余漫吟(明治二十八年)57頁に掲載されています。

出典により漢字等の使い方が少し違っています。子規博句は「寒山落木」に拠っています。
@「寒山落木」では「夏痩せて大めし喰ふ男かな」
A「書簡」では前書(追々元気づき申し候)があって「夏やせて大めし喰ふ男哉」
B「病余漫吟」では「夏やせて大めし喰ふ男哉」

この句は明治二十八年八月三十日付、内藤素行(鳴雪)宛書簡に添えられた句です。
子規が日清戦争の従軍記者として大陸に渡り帰国の船中で喀血し神戸病院に入院したのが5月22日である。静養の為松山に戻ったのが8月25日である。虚子、碧梧桐が克明に記した「病床日誌」には子規の大食いの記述があるので、回復とともに「食いしん坊」になっていったのであろう。この句は、神戸や須磨の病院での子規自身を呼んだ滑稽句、自嘲句でもあろう。読む人にとっては、子規の快復振りが目に浮かぶ句であったろう。夏痩せというより病痩せであるが・・・

子規さんにあやかって一句

 弥生四日に妻を亡くして百日余
 「夏痩せてバイキング喰ふ寡(やもめ)かな  子規もどき」  道後関所番
平成29年8月「水草の花まだ白し秋の風   子規」
平成29年8月「水草の花まだ白し秋の風   子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年8月の句は「水草の花まだ白し秋の風   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「秋の風」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四」303頁(明治二十八年)、第三巻 俳句三「獺祭書屋俳句帖抄」637頁(明治二十八年 秋)、第十三巻 小説紀行 散策集 613頁、第二十一巻 草稿ノート 病余漫吟(明治二十八年 秋)86頁に掲載されています。前書きは「道後公園」。

この句の初出は「散策集」です。

明治二十八年四月、新聞「日本」の記者として日清戦争に「従軍」し、五月金州から帰航時発病、予後郷里松山に帰郷。52日間愚陀仏庵で漱石と起居を共にする。9月20日から10月7日にかけて五回、松山近郊を松風会のメンバーと吟行する。

「水草の花まだ白し秋の風」は最初の散策時で、同行は柳原極堂(碌堂)である。コースは、愚陀仏庵から玉川町を抜けて、石手川を歩き石手寺で遊ぶ。帰途は、道後に向かい、湯築城址の外堀を巡って持田に出る。

道後公園(湯築城址)は「御竹薮(おたけやぶ)」と呼ばれ一帯は竹林であった。端には、睡蓮の花だろうか、白い水草の花が咲いている。

書き出しの文章は次のように始まる。
「今日はいつになく心地よければ折柄来合せたる碌堂を催してはじめて散歩せんとて愚陀仏庵を立ち出づる程秋の風のそぞろに背を吹てあつからず玉川町より郊外には出でける見るもの皆心行くさまなり」

子規さんらしい写実の描写である。

子規さんにあやかって一句

 送り火 
「亡き妻のうしろ姿や秋の風   子規もどき」  道後関所番
平成29年9月「碌堂といひける秋の男かな   子規
平成29年9月「碌堂といひける秋の男かな   子規

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年9月の句は「碌堂といひける秋の男かな   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「秋」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木」282頁(明治二十八年)、第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟」80ページ(明治二十八年秋)、同じく第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟」120ページ「留送別会」(明治二十八年)に載っています。
「寒山落木」での「前書き」は「碌堂に戯る」、「病余漫吟」では「碌堂におくる」になっています。

同時期に碌堂を詠んだ二句を対句として鑑賞すると、子規と碌堂(柳原極堂)の幼馴染の交友ぶりが彷彿とします。
   碌堂に別る 
  秋三月馬鹿を尽して別れけり
   碌堂に戯る
  碌堂といひける秋の男かな 

 明治二十八年「愚陀仏庵」に寄寓した子規の元に松風会の会員が日毎夜毎集まります。特に熱心だった数人は「日参組」と呼ばれ、その中に碌堂(柳原極堂)も入っています。

この句は、明治二十八年十月十二日、帰京する子規の為に、松山二番町の「花廼屋」(はなのや)で送別会を開催した際、子規が参会者十七名の俳号を詠み込んだ句を作る。この句は、そのうちのひとつです。「留送別会」に書き留めている。

「秋の男」といえば「白秋」である。透明な輝きもあり、惜別にあたっての寂しさも残る。子規、漱石、極堂は慶応二年生まれである。十七名の松風会員の最後を碌堂(極堂)の句で締めたのは、後に残った松風会の活動を碌堂(極堂)に托したのではあるまいか。

同席した漱石への句も披露しておきたい。
   石女(うまずめ)の蕣(むくげ)の花に嗽(うがひ)かな

子規さんにあやかって一句

 妻を偲ぶ
「春雅温妙といひける女かな  子規もどき」  道後関所番
柿喰へば鐘が鳴るなり法隆寺 
平成29年10月「柿喰へば鐘が鳴るなり法隆寺   子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年10月の句は「柿喰へば鐘が鳴るなり法隆寺   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「柿」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木」325頁(明治二十八年 秋)、第三巻 俳句三「獺祭書屋俳句帳抄」633頁(明治二十八年 秋)、第十一巻 随筆一 「病床六尺」369頁 明治三十五年、 第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟」105ページ(明治二十八年秋)に掲載されている。

(注)
1)「前書き」に若干の異同がある。
第二巻「寒山落木」では「法隆寺の茶店に憩ひて」
第二十一巻「病余漫吟」では「法隆寺茶店にて」

2)第十一巻「病床六尺」の文章は下記である。
「柿喰へば鐘が鳴るなり法隆寺 
この句を評して「柿喰ふて居れば鐘鳴る法隆寺」とは何故いはれ無かったであらうと書いてある。これは尤の説である。併しかうなると稍句法が弱くなるかと思ふ。」

子規の代表的な俳句であり、松尾芭蕉の「古池や蛙とびこむ水の音」に次いで、日本人の誰もが記憶し、口にする句です。
書きたいことは山ほどありますが、子規さんに敬意を表して、鑑賞エッセイと「子規もどき俳句」は載せないことにしました。御了承ください。
平成29年11月「芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし   子規」
平成29年11月「芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし   子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年11月の句は「芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし   子規」です。

明治31年(1898)の作品で、季語は「芭蕉忌」(冬)です。『子規全集』第三巻 俳句稿226頁(明治三十一年 冬)に掲載されている。

松尾芭蕉については解説の必要はなかろうが『広辞苑』の説明を念の為掲載する。

「江戸前期の俳人。名は宗房。号は「はせを」と自署。別号、桃青・泊船堂・釣月軒・風羅坊など。伊賀上野に生まれ、藤堂良精の子良忠(俳号、蝉吟)の近習となり、俳諧に志した。一時京都にあり北村季吟にも師事、のち江戸に下り水道工事などに従事したが、やがて深川の芭蕉庵に移り、談林の俳風を超えて俳諧に高い文芸性を賦与し、蕉風を創始。その間各地を旅して多くの名句と紀行文を残し、難波の旅舎に没。句は「俳諧七部集」などに結集、主な紀行・日記に「野ざらし紀行」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」などがある。(1644〜1694)」

『ホトトギス』誌の明治31年12月号の「芭蕉忌・選者吟」に七句掲載されている。
 
 芭蕉忌に何の儀式もなかりけり
 旅に病んで芭蕉忌と書く日記哉
 芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし
 蒟蒻に発句書かばや翁の日
 無落款の芭蕉の像を祭りけり
 芭蕉忌や其角嵐雪右左
 芭蕉忌や吾に派もなく伝もなし

子規は、没後二百年の芭蕉が遺した句のうち秀句は僅かで、多くは悪句、駄句の類と談じているが、子規もまた没後百年を経て「遺した句のうち秀句は僅かで、多くは悪句、駄句の類」とされる。もっとも子規崇拝者は松山には多いが、彼らに対しては、子規の句「芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし」の芭蕉を子規に詠みかえて、煎じて飲めばよかろう。

七句を通して読めば、子規は明らかに芭蕉翁に重ねており、「俳諧の開祖 芭蕉」と「新俳句の創造者 子規」の対比と理解するのは、評者の読み過ぎだろうか。

子規さんにあやかって二句

 「子規忌過ぐ子規子に媚びる人いやし   子規もどき」
 「糸瓜忌や虚子碧梧桐右左         子規もどき」    道後関所番
平成29年12月「唐の春奈良の秋見て冬こもり
平成29年12月「 唐の春 奈良の秋見て 冬こもり   子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年12月の句は「唐の春奈良の秋見て冬こもり   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「冬こもり」(冬)です。『子規全集』第二巻 俳句二 「寒山落木 巻四」361頁(明治二十八年 冬)と第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟」110頁(明治二十八年冬)に掲載されている。

明治28年の句というと、子規にとっては、生涯でもっともドラスチックな一年であった。
春には志願して日清戦争の従軍記者となった子規は、中国に渡り、金州城や遼東半島の各地を訪ねている。講和条約の締結もあり、帰国の船中で喀血し、須磨で療養する。
小康を得て松山に帰郷し、夏目漱石との52日間の「愚陀仏庵」の生活を送る。10月帰京の途中奈良に立ち寄り、東大寺、興福寺、薬師寺、法隆寺を周る。子規の代表句の一つでもある「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、この時の句である。
ほとんど知られていないが「行く秋のわれに神なし仏なし」とか「無着天親その外の仏秋の風」に、俳句としての深みを思えるのは吾一人なのであろうか。

根岸に戻ってからの子規は、亡くなるまで病臥の人となり、旅に出ることは叶わなかった。まさに最後の閃光とでもいうべき印象的な一年間の締めくくりの一句と言えよう。

ここで云う「唐」とは、中国大陸・朝鮮半島を指している。

子規さんにあやかって一句
「江戸の春京の秋見て冬安居   子規もどき」

(補足)早春に妻を喪った。春には上京して櫻を追い求め、秋には上洛して紅葉を愛でるのが老夫婦の楽しみであった。夏は上高地、冬は九州の温泉めぐりであった。この冬は旅する気分にもならず、炬燵を友として冬安居に入ることになるのだろうか。
冬こもり 奈良の秋見て 唐の春