第二十七章 子規記念博物館「今月の俳句」(懸垂幕)鑑賞
松山市立子規記念博物館では天野祐吉館長により毎月初子規の句を選句し、垂れ幕に墨書して啓蒙している。最初は奇異な感じがあったが今では心待ちする人も多くなってきた。ふるさと発信を兼ねて松山東高校の同期生のメール仲間に紹介しているのがこの「子規記念博物館『今月の子規俳句』鑑賞」である。私自身松山子規会の理事を務めているが実作経験はあまりない。唯我独尊的な解釈ではあるがお許し願いたい。
平成15年
1 月  めでたさも一茶くらいや雑煮餅 明治31年 新年
2 月 きさらぎや人の油断を花になる 明治26年 春
3 月 似た花も似ぬ花もあり春の草 明治24年 春
4 月 入口も桜出口も桜かな 明治29年 春
5 月 大風の俄かに起る幟かな 明治27年 夏
6 月 夕立や蛙の面に三粒程 明治33年 夏
7 月 夏草やベースボールの人遠く 明治31年 夏
8 月 すずみがてら君を送らんそこらまで 明治28年 夏
9 月 行く我にとどまる汝に秋二つ 明治28年 秋
10月 秋モハヤ塩煎餅ニ渋茶哉 明治34年 秋
11月 一日は何をしたやら秋の暮 明治25年 秋
12月 人間を笑ふが如し年の暮 明治31年 冬
平成16年
1 月 蒲団から首出せば年の明けて居る 明治30年 新年
2 月 いくたびも雪の深さを尋ねけり 明治29年 冬
3 月 毎年よ彼岸の入に寒いのは 明治26年 春
4 月 人を見ん桜は酒の肴なり 明治29年 春
5 月 心よき青葉の風や旅姿 明治28年 夏
6 月 六月を奇麗な風の吹くことよ 明治28年 夏
7 月 門しめに出て聞て居る蛙かな 明治25年 春
8 月 ある人の平家贔屓や夕涼み 明治28年 夏
9 月 ツクヽヽボーシツクヽヽボーシバカリナリ 明治34年 秋
10月 螽焼く爺の話や嘘だらけ 明治31年 秋
11月 芭蕉忌や吾に派もなく伝もなし 明治31年 冬
12月 思ふこと今年も暮れてしまひけり 明治28年 冬
平成17年
1 月 一年は正月にあり一生は今にあり 明治32年 新年
2 月 ここぢゃろ家ありうめも咲て居る  明治27年 春
3 月 春風のとり乱したる弥生哉  明治26年 春
4 月 弥次郎衛喜多八帰る桜かな 明治29年 春
5 月 国なまり故郷千里の風かをる  明治26年 夏
6 月 明け易き夜を初戀のもどかしき  明治28年 夏
7 月 書を倦まばお堀の松を見て涼め  明治29年 夏
8 月 炎天や草に息つく旅の人  明治33年 夏
9 月 草の花少しありけば道後なり 明治28年 秋
10月 名月に飛び去る雲の行方哉  明治31年 秋
11月 秋の雨荷物ぬらすな風ひくな  明治30年 秋
12月 漱石が来て虚子が来て大三十日 明治28年 冬
平成18年
1 月 今年はと思ふことなきにしもあらず  明治29年 新年
2 月 春寒き手を握りたる別哉   明治32年 春
3 月 風船のふわりふわりと日永哉  明治29年 春
4 月 行く春ややぶれかぶれの迎酒  明治34年 春
5 月 薫風や千山の緑寺一つ  明治33年 夏
6 月 水無月やうしろはほこり前は池 明治29年 夏
7 月 薄物の羽織や人のにやけたり  明治33年 夏
8 月 夏休み来るべく君を待まうけ 明治31年 夏
9 月 宿取りて淋しき宵や柿を喰ふ  明治32年 秋
10月 夜更ケテ米トグ音ヤキリギリス  明治34年 秋
11月 銭湯で下駄換へらるる夜寒かな  明治29年 秋
12月 行き逢ふてそ知らぬ顔や大三十日 明治32年 冬
平成19年
1 月 雑煮食ふてよき初夢を忘れけり  明治31年 新年
2 月 まだ咲いてゐまいと見れば梅の花  明治25年 春
3 月 面白さ皆夢にせん宵の春   明治26年 春
4 月 散った桜散る桜散らぬ桜哉 明治29年 春
5 月 五月雨や畳に上る青蛙  明治34年 夏
6 月 十年の汗を道後の温泉に洗へ 明治29年 夏
7 月 さまざまの夢見て夏の一夜哉 明治31年 夏
8 月 夕立や野道を走る人遠し 明治29年 夏
9 月 神鳴ノ鳴レトモ秋ノ暑サカナ  明治34年 秋
10月 一日の秋にぎやかに祭りかな   明治27年 秋
11月 菊活けて黄菊一枝残りけり   明治32年 秋
12月 餅ついて春待顔の小猫かな   明治32年 冬
平成20年
1 月 婆々さまの話し上手なこたつ哉 明治29年 冬
2 月 筆ちびてかすれし冬の日記哉  明治33年 冬
3 月 蝶々や順禮の子のおくれがち 明治25年 春
4 月 内のチョマが隣のタマを待つ夜かな 明治29年 春
5 月 家あって若葉家あって若葉哉  明治27年 夏
6 月 五月雨は人の涙と思ふべし  明治29年 夏
7 月 念仏や蚊にさされたる足の裏  明治30年 夏
8 月 一さじのアイスクリムや蘇る 明治30年 夏
9 月 枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル 明治34年 秋
10月 秋の蚊のよろよろと来て人を刺す 明治34年 秋
11月 宿取りて淋しき宵や柿を喰ふ  明治32年 秋
12月 片側は冬木になりぬ町はつれ  明治29年 冬
平成21年
1 月 去年の夢さめて今年のうつゝ哉  明治26年 新年
2 月 生垣の外は荒野や球遊び 明治32年 冬
3 月 うたゝ寝に風引く春の夕哉 明治31年 春
4 月 女生徒の手を繋き行く花見哉 明治32年 春
5 月 短夜や幽霊消えて鶏の声 明治29年 夏
6 月 六月の海見ゆるなり寺の庭  明治28年 夏
7 月 和歌に痩せ俳句に痩せぬ夏男  明治33年 夏
8 月 夕立や豆腐片手に走る人 明治26年 夏
9 月 羽織着る秋の夕のくさめ哉  明治31年 秋
10月 押しかけて餘戸でめしくふ秋のくれ 明治25年 秋
11月 毛布着て毛布買ひ居る小春かな 明治35年 冬
12月 占ひのつひにあたらで歳暮れぬ 明治30年 冬
平成22年
1 月 銭湯を出づる美人や松の内  明治33年新年
2 月 一村の梅咲きこぞる二月哉 明治27年 春
3 月 何いそぐ春よりさきに行く君は  明治29年 春
4 月 花盛りくどかば落ちん人許り 明治26年 春
5 月 昼顔の花に乾くや通り雨     明治31年 夏
6 月 六十のそれも早乙女とこそ申せ 明治29年 夏
7 月 生きてをらんならんといふもあつい事   不明    夏
8 月 行水や美人住みける裏長屋  明治33年 夏
9 月 干柿や湯殿のうしろ納屋の前 明治32年 秋
10月 先生はいつも留守なり菊の花  明治29年 秋
11月 山門をぎいと鎖すや秋の暮 明治29年 秋
12月 冬の部に河豚の句多き句集哉 明治33年 冬
平成23年
1 月 恭賀新禧一月一日日野昇 明治31年 新年
2 月 紅梅や秘蔵の娘猫の恋 明治29年 春
3 月 うららかや岡に上りつ野に下りつ 明治30年 春
4 月 事情により未発表
5 月 五女ありて後の男や初幟  明治32年 夏
6 月 五月雨や畳に上る青蛙  明治34年 夏
7 月 愛憎は蝿打つて蟻に与えけり 明治31年 夏
8 月 涼しさや人さまさまの不恰好 明治27年夏
9 月 渋柿は馬鹿の薬になるまいか 明治27年秋
10月 話ながら枝豆をくふあせり哉 明治31年秋
11月 猫老て鼠もとらず置炬燵 明治27年冬
12月 追々に狐集まる除夜の鐘  明治30年冬
平成24年
1 月 弘法は何を書きしぞ筆始 明治25年新年
2 月 北風に鍋焼饂飩呼びかけたり 明治30年 冬
3月 二番目の娘みめよし雛祭 明治32年 春
4 月 のどかさや娘が眠る猫が鳴)く 明治29年 春
5 月 鯛鮓や一門三十五六人 明治25年 夏
6 月 夕立や並んでさわぐ馬の尻 明治29年 夏
7 月 雷をさそふ昼寝の鼾哉  明治31年 夏
8 月 忍ぶれど夏痩にけり我恋は  明治29年 夏
9 月 桃太郎は桃 金太郎は何からぞ 明治35年 秋
10月 行く秋にしがみついたる木の葉哉 明治21年 秋
11月 秋風の一日何を釣る人ぞ 明治25年 秋
12月 年行くと故郷さして急ぎ足  明治29年 冬
平成25年
1 月 書初の今年も拙かりけるよ  明治30年 新年
2 月 衣更着や爺が紙衣の衣がへ  明治26年 春
3月 春雨や裏戸明け来る傘は誰  明治33年 春
4 月 遠足の十人ばかり花の雨 明治33年 春
5 月 寝ころんで書読む頃や五六月 明治29年 夏
6 月 よって来て話聞き居る蟇 明治29年 夏
7 月 これはこれはこれはことしの熱さかな 明治26年 夏
8 月 撫子に踏みそこねるな右の足  明治30年 秋
9 月 へちまとは糸瓜のやうなものならん   明治30年 秋
10月 小坊主や何を夜長の物思ひ 明治27年 秋
11月 温泉の町を取り巻く柿の小山かな 明治28年 秋
12月 梅活けて君待つ庵の大三十日  明治28年 冬
平成26年
1 月 新年や床は竹の画梅の花 明治28年 正月
2 月 緋の蕪や膳のまはりも春けしき 明治26年 春
3 月 巡礼の杓に汲みたる椿かな 明治28年 春
4 月 石手寺へまはれば春の日暮れたり 明治28年 春
5 月 ふるさとや親すこやかに酢の味   明治28年 夏
6 月 青簾捲けよ雲見ん岩屋寺 明治28年 夏
7 月 何処へなりと遊べ夏山夏の川 明治28年 夏
8 月 城山の北にとヾろく花火かな 明治28年 秋
9 月 花木槿雲林先生恙なきや 明治28年 秋
10月 秋風や高井のていれぎ三津の鯛 明治28年 秋
11月 しぐるゝや右は亀山星が岡 明治28年 冬
12月 梅生けし青磁の瓶や大三十日 明治28年 冬
平成27年
1 月 梅提げて新年の御慶申しけり 明治28年 正月
2月 小城下や辰の太鼓の冴え返る  明治28年 春
3 月 故郷はいとこの多し桃の花 明治28年 春
4 月 散る花に又酒酌まん二三人 明治28年 春
5 月 更衣少し寒うて気あひよき 明治28年  夏
6 月 我見しより久しきひょんの茂哉  明治28年  夏
7 月 草茂みベースボールの道白し  明治29年  夏
8 月 稲の穂に湯の町低し二百軒 明治29年  秋
9 月 ジュズダマや昔通ひし叔父の家 明治29年  秋
10月 色里や十歩はなれて秋の風 明治28年  秋
11月 あけ放す窓は上野の小春哉 明治28年 初冬
12月 足柄はさぞ寒かったでござんしょう  明治28年  冬
平成28年
1月 遣羽子の笑ひ聞ゆる小道かな 明治28年 正月
2 月 横町の又横町や梅の花 明治28年 春
3月 何として春の夕をまぎらさん  明治28年 春
4 月 世の中は桜が咲いて笑ひ声 明治28年 春
5 月 この二日五月雨なんど降るべからず 明治28年 夏
6 月 夏山にもたれてあるじ何を読む 明治28年 夏
7 月 ことづてよ須磨の浦わに昼寝すと 明治28年 夏
8 月 秋高し鳶舞ひ沈む城の上 明治28年 秋
9 月 桔梗活けてしばらく仮の書斎かな  明治28年 秋
10月 行く秋のまた旅人とよばられり  明治28年 秋
11月 汽車此夜不二足柄としぐれけり 明治28年 冬
12月 煤拂や神も仏も草の上  明治28年 冬
平成29年
1 月 蓬莱に俳句の神を祭らんか   明治28年正月
2月 荷を解けば浅草海苔の匂ひ哉 明治28年 春
3 月 雛もなし男許りの桃の宿 明治28年 春
4 月 鶯の籠をかけたり上根岸 明治30年 春
5 月 すよすよと舟の側飛ぶ蛍かな 明治28年 夏
6 月 「温泉上がりに三津の肴のなます哉   明治23年 夏
7 月 夏痩せて大めし喰ふ男かな 明治28年 夏
8 月 水草の花まだ白し秋の風  明治28年 夏
9 月 碌堂といひける秋の男かな  明治28年 秋
10月 柿喰へば鐘が鳴るなり法隆寺  明治28年 秋
11月 芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし 明治31年 冬
12月 唐の春奈良の秋見て冬こもり 明治28年 冬
平成30年
1 月 正月の人あつまりし落語かな 明治28年新年
2 月 春寒き机の下の湯婆哉 明治32年春
3 月 春や昔十五万石の城下哉 明治28年春
4 月 故郷や どちらを見ても 山笑ふ 明治26年春
5 月 我庭の薔薇も葵も 咲きにけり 明治29年夏
6 月 夏山や五十二番は岩屋寺 明治30年夏
7 月 おかこひに泳ぎの人のつどひけり 明治30年夏
8 月 うつくしき 菓子贈られし 須磨の秋  明治28年秋
9 月 鮎はあれど 鰻はあれど 秋茄子  明治28年秋
10月 虚子を待つ 松茸鮓に 酒二合 明治30年秋
11月 冬や今年我病めり古書二百巻  明治28年冬
12月 漱石が来て虚子が来て大三十 明治28年冬
平成31年
1月 ふゝと笑ふ 夫婦二人や 福寿草 明治24年正月
2月 白梅の白きを以て強きかな 明治29年 春
3月 行燈の 火を消して見ん 朧月 明治26年 春
4月 散る花は 散らぬ花より うつくしき  明治25年 春
5月 明治28年 夏
6月 紫陽花や 赤に化けたる 雨上がり 明治31年 夏
7月 行けば熱し休めば涼し蝉の声  明治26年 夏
8月 紫のふつとふくらむ桔梗哉 明治30年 秋
9月 堀割を四角に返す蜻蛉哉 明治27年 秋
10月 団栗に添ふて落ちけりかぜの音 明治21年 秋
11月 行く秋や奈良は古寺古仏 明治28年 秋
12月 雪の日や巨燵の上に眠る猫 明治23年 冬
令和2年
1月 明治18年 冬
2月 明治25年 春
3月 明治33年 春
4月 明治29年 春
5月 白き花活けて新茶の客を待つ 明治29年 夏
6月 草の露 これも蛍になるやらん 明治23年 夏
7月 見送らん夏野に君の見えぬ迄 明治28年 夏
8月 秋もはや桔梗の名残花一つ 明治30年 秋
9月 刈あとやひとり案山子の影法師秋  明治30年 秋
10月 鳥は皆 西へ帰りぬ 秋の暮  明治29年 秋
11月 神送り 出雲へ向ふ 雲の脚 明治28年 冬
12月 花いけに一輪赤し 冬牡丹   明治26年 冬
令和3年
1月 ガラス越に日のあたりけり福寿草  明治33年新年
2月
明治26年 春
3月 てふやてふやなんじとならばどこまでも 明治24年 春
4月
明治22年 春
5月 明治33年 春
6月 打水や ぬれていでたる 竹の月 明治26年 夏
7月 雨乞の 天までとヾく 願ひかな  明治25年 夏
8月 朝顔や きのふなかりし 花のいろ  明治21年 秋
9月 秋風や 高井のていれぎ 三津の鯛 明治28年 秋
10月 人も居らず 栗はねて 猫を驚かす  明治29年 秋
11月 三日月を相手にあるく枯野かな 明治24年 冬
12月 行く年の雪五六尺つもりけり  明治28年 冬
令和4年
1月 初空に 去年の星の 残りかな   明治28年新年
2月 子に鳴いて見せるか雉の高調子 明治25年 春
3月 のどかさや 杖ついて庭を 徘徊す 明治29年 春
4月 ふらふらと 行けば菜の花 はや見ゆる 明治26年 春
5月 夕風や 白薔薇の花 皆動く 明治25年 夏 
6月 紫陽花に 絵の具をこぼす 主哉 明治28年 夏 
7月 夏山のすずみや海は一里先 明治25年 夏
8月 蕉破れて 古池半ば 埋もれり 明治28年 秋
9月 海原や 空を離るゝ 天の川   明治29年 秋
10月 紅葉して錦に埋む家二軒  明治26年 秋
11月 裏表きらりきらりとちる紅葉 明治25年 冬
12月 淋しさもぬくさも冬のはじめ哉 明治27年 冬
令和5年
1月 水仙も 処を得たり 庭の隅  明治30年 冬
2月 公園の 梅か香くはる 風のむき 明治22年 春
3月 大仏のうつらうつらと春日哉 明治26年 春
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
30-01
平成30年1月 「 正月の 人あつまりし 落語かな    子規 

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年1月の句は「正月の人あつまりし落語かな   子規」です。

明治28年(1895)といえば「紀元二千五百五十五年哉   子規」なる句を残している。季語は「正月」(新年)です。『子規全集』第二巻 俳句二 「寒山落木 巻四」166頁(明治二十八年 新年)に掲載されている。

正月に子規が友人と一緒に落語を聞きに行ったという記述にはお目にかかっていない。が、上京以来、秋山真之や柳原極堂とよく寄席に通っていたし、江戸っ子である夏目漱石とは寄席がきっかけで親しくなったという逸話も残っている。

一世を風靡した三遊亭円朝師匠は明治二十八年には57歳で晩年期を迎えている。円朝師匠は子規にとってお気に入りの落語家であり、円朝師匠の言文一致の口述が近代文学に与えた影響は大きい。円朝を頂点とする落語は講談と併せて、正月にはなくてはならぬ演芸であったろう。

現存する上野の「鈴本亭」は、安政四年(1857年)開設された「軍談席本牧亭」まで遡れる老舗席亭であり、経営者鈴木家の(鈴)と本牧亭の(本)をとって鈴本亭と名付けられた由。子規も立ち寄ったかもしれない。
上京時には、上野「鈴本亭」か国立劇場演芸場には顔を出しているが、個人的には、落語は江戸、漫才は上方のフアンである。

子規さんにあやかって一句
「正月の人あつまりし伊予万歳    子規もどき」 道後関所番
平成30年2月「 春寒き 机の下の 湯婆哉   子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年2月の句は「春寒き机の下の湯婆哉   子規」です。

季語は「春浅き」(春)です。『子規全集』第三巻 俳句稿 246頁(明治三十二年 春)と第十二巻 随筆二「室内の什物」291頁(明治三十二年)に掲載されている。

ことしの如月は殊の外寒い。気象観測では平成に入ってから一番寒い「冬」らしい。明治32年当時といえば、暖房は火鉢と炬燵と湯婆(ゆたんぽ)と厚着くらいか。根岸の子規庵の寒々とした居室で、机の下にゆたんぽを置いて、文学活動に取り組む子規さんの姿が浮かんでくる。子規の病状は悪化し、左脚は曲がったままで伸びなくなっていたらしい。湯婆(ゆたんぽ)の暖かさは、家族の温もりでもあり、短歌革新に燃える子規自身の情熱でもあったろう。

随筆「室内の什物」で子規さんが挙げた品は下記である。

@軸一つ       「軸掛けて椿活たる忌日かな
A油畫の額一つ   「油畫極彩色や春の宿」
B水畫の額一つ   「雪の絵を春も掛けたる埃かな」
C写真版の額一つ  「古文に羅馬の春の残りけり」
D蓑一つ       「蓑掛けし病の牀や日の永き」
E笠一つ       「春雨のふるき小笠や霰の句」
F机一つ       「春寒き机の下の湯婆哉」
Gラムプ一つ     「暗き灯や蛙鳴く夜の写し物」
H絵巻物一つ    「絵巻物三月の部は花見なり」
I花瓶一つ       「投入の椿山吹調和せず」


子規さんにあやかって一句
「春寒き机の下の足温器   子規もどき」 

味気ない一句だが、書斎の机に向かって、膝に毛布を掛け、机の下には足温器を置いて、只今子規さん俳句の鑑賞エッセイを執筆している。
思い出した。子規さんの机は置き机で、左膝のあたる部分をくり抜いた専用の机であった。当方の机は、20年前の阪神淡路大震災で自宅が倒壊し、疎開先の大阪で急いで購入した安物の机である。「ゆたんぽ」を愛用していたが、妻を亡くしたこの冬からは「あんか」になり、「湯たんぽ」二つが押入れで冬眠中である。
「室内の什物」にはそれぞれ歴史があり、所有者(使用者)にとっては忘れがたい思い出がある。   道後関所番
平成30年3月「 春や昔 十五万石の 城下哉   子規 」
平成30年3月「 春や昔 十五万石の 城下哉   子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年3月の句は「春や昔十五万石の城下哉   子規」です。

季語は「春」(春)です。『子規全集』第二巻 「寒山落木 巻四」177頁(明治二十八年 春)と第二十一巻 草稿ノート「病余漫吟」43頁(明治二十八年 春)に掲載されている。前書きに「松山」と付されている。

伊予では子規を代表する句である「春や昔十五万石の城下哉」が子規記念博物館選句の子規さん俳句が始めて登場するとは思えず、慌てて平成15年1月からの現在までの百八十二句に当たってみたが該当句がない。まさに「真打登場」である。「正岡屋〜」と叫んでみたくなる。

明治28年春、日清戦争の従軍記者として出発予定だった子規が、出征前の3月14日から三日間、松山に帰省する。体調から判断して、故郷へ別れの旅立ちを告げたかったのであろうか。父の墓参も済ませ、遼東半島に旅立つ。

改めて、松平(久松)十五万石の親藩であるご城下の佇まいも維新後三〇年近く経つと明治の佇まいとなったことを痛感したが、後輩に当たる「松風会」の仲間との触れ合いに、尽きせぬ思いを語ったことだろう。

この句は「月やあらぬ 春や昔の春ならぬ わが身一つはもとの身にして」(『伊勢物語』)が下敷きになっているのだろうか。

道後生まれの筆者が子規さんにあやかっての一句

「春や春一遍産みし道後の湯泉(ゆ)  子規もどき」 

因みに、一遍智真が生まれたのは延応元年(1239)陰暦二月十五日である。おそらく、宝厳寺の建つ奥谷の早咲きの山桜は咲いていたのだろう。奥の谷の北には桜谷の地名が残っている。   道後関所番
平成30年4月 「 故郷や どちらを見ても 山笑ふ    子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年4月の句は「故郷や どちらを見ても 山笑ふ   子規」です。

季語は「山笑ふ」(春)です。『子規全集』第一巻 「寒山落木 巻二」206頁(明治二十六年 春)に掲載されています。

この句と並んで「恐ろしき 灘をへだてゝ 山笑ふ」を詠んでいる。灘はおそらく伊予灘であろう。また「のどかさに耳なし山も笑ひけり」がある。ともに明治26年の作である。

もっとも子規は明治26年には帰省していない。至近の帰省は明治25年で、故郷の家を畳んで、母と妹を東京に迎えている。

「山笑ふ」の出典は『臥遊録』の「春山淡冶にして笑うが如く、夏山蒼翠にして滴るが如く、秋山明浄にして粧うが如く、冬山惨淡として眠るが如し」に拠っている。文人にとってはステレオタイプの情景か、あまり著名な俳句も生まれていない。

 「越の雪大蓮華山笑ひけり   はぎ女」
 「津軽野の泣面山も笑ひ初む  蓬 矢」

など文字遊びのようだ。子規の「のどかさに耳なし山も笑ひけり」も同趣向か。

子規の故郷の「どちらを見て」の山は、城下の中心にある城山、東の道後・湯山、南の砥部や皿ヶ峰、障子山、北の高輪山、西の大峰ヶ台など、山、山、山である。陸奥や北陸の自然が春近くなって一斉に生き生きと動き始める情景は想像できるが、温暖な四国では如何なものか。

という次第で、子規さんの句の「どちらを見ても」も借用しての一句

「城山やどちらを見ても花見客」  子規もどき」 

道後関所番

平成30年5月 「 我庭の 薔薇も葵も 咲きにけり    子規」
 
子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年5月の句は「我庭の薔薇も葵も咲きにけり     子規」です。

季語は「薔薇」(夏), 「葵」(夏)です。 『子規全集』第二巻 「寒山落木 巻五」517頁(明治二九年 夏)に掲載されています。「全集」の編纂者も頭を痛めたのだろうか、季語欄には「草雑」と表記している。
 
この句の「詞書」に「病中」とあります。明治二九年に入ると子規の病状(脊椎カリエス)は進行し、立ち上がることさえ困難になり、子規庵での病臥の生活が続く。この句は、病床から庭の草木を眺めての句であろう。
 
 この句は、見たままの写生句としかコメントのしようがない。薔薇も葵も季語は夏である。子規だから、季語の重なりは許されてよいということにはならない。駄作であるし、初心者は真似てはなるまい。

 明治三三年作の「鶏頭の十四五本もありぬべし」は同じ病床の句であるが、顕微鏡的な観察を通して俳句の世界を表現しているが(高浜虚子は評価していない)、「我庭の薔薇も葵も咲きにけり」はバカチョンカメラで撮った写真しか浮かんでこない。

という次第であるが、子規さんに敬意を表してバカチョンカメラで撮った我が家の庭の情景を詠んだ一句を捧げる。

「我庭の紫蘭鈴蘭咲きにけり  子規もどき」 いやはや 

道後関所番

平成30年6月 「 夏山や 五十二番は 岩屋寺    子規
 

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年6月の句は「夏山や五十二番は岩屋寺   子規」です。

季語は「夏山」(夏)です。 『子規全集』第三巻 俳句三「俳句稿」161頁(明治三十一年 夏)に掲載されています。
 
子規は岩屋寺を四国霊場五十二番と詠んでいますが、実際は四十五番札所です。四十四番札所大宝寺の奥の院が岩屋寺です。子規の明らかに記憶違いですが、病臥にあるとは云え、子規だから許されていいことにはなりません。選句自体に疑問を感じています。

ちなみに五十二番札所は松山観光港からも登れる松山市大山寺町の里山に在り、五十一番石手寺と同様に四国霊場の中でも著名な古刹寺院です。

岩屋寺は伊予道後奥谷の建つ宝厳寺で生まれた一遍智真が修行した山岳霊場で、弘法大師も修行された名刹です。本尊は不動明王です。
住職は松山東高校で一級下の後輩に当る大西善和師で、一遍会例会では「一遍聖と真言宗」について講演を依頼しました。上浮穴郡久万高原町の標高七〇〇米の高みに建っています。

子規が岩屋寺を友人と訪ねたのは松山中学在学中の明治一四年七月三一日、一四歳の時です。早朝に出立し、正午には久万町「橋本屋」に着く。翌日岩屋寺を参詣、帰途は疲れ果てて重信川を越えた森松辺りで子規一人が人力車に乗せられて家路についたと記録されています。
それだけに、病臥の子規にとって、少年時代の苦しくもあった懐かしい思い出が甦り一句を残したのでしょうか。

四国遍路で回る知人が、国民宿舎「岩屋荘」で宿泊し、翌朝岩屋寺に参詣して松山に向かうのですが、宿泊先の道後温泉に着けず四十九番浄土寺でギブアップ、鷹ノ子温泉まで出迎えたことが数回ありました。「子規さんと同じだな」と思いますが、歩き遍路の方は七〇才を越えるシニアですから、一四歳の子規さんの体力の無さがよくわかります。

岩屋寺には数回参詣し「日本経済新聞」の同行取材もありましたが、子規さんを偲びながら、子規さんが立ち寄らなかった岩窟のお堂の情景を詠んだ一句を捧げる。

「夏山や お籠堂(おこもりどう)に白き道  子規もどき」 

少々説明します。
「白き道」は「二河白道」、「お籠堂」は「阿弥陀仏が待つ浄土」をイメージしました。いやはや。 道後関所番
 おかこひに 泳ぎの人の つどひけり
平成30年7月 「 おかこひに 泳ぎの人の つどひけり    子規」
  
子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年7月の句は「おかこひに泳ぎの人のつどひけり   子規」です。

季語は「泳ぎ」(夏)です。 『子規全集』第三巻 俳句三「俳句稿」40頁(明治三十年 夏)に掲載されています。詞書に「松山」とある。

松山人と云っても戦後生まれには分からないだろう。と云うことは、戦後73年だから、70歳以下の人は分からないということになろう。

「おかこひ」とは「お囲い池(御囲い池)」のことで、松山藩の水練場で「松山神伝流」を学ぶ場であった。子規の祖父に当たる六代恒武は神伝流師範伊東祐根に入門、水練上達により御徒歩に取り立てられ藩士となり江戸在番(後年大小姓格)となった。お囲い池あっての正岡家であった。
(注)二神将「松山神伝流と正岡家」(『子規博だより』110号)

司馬遼太郎の『坂の上の雲』では、維新後、秋山真之の父は「お囲い池」の監視員をやっていたらしい。江戸時代は、上士の師弟は「お囲い池」では水練をしなかったという。
 
「お囲い池」は現在「青少年センター」(松山市築山町)になっているが、城下に育った友人たちは、ここで水泳をマスターしたようだ。道後育ちは、岩堰に遠征したり山田池(祝谷)で泳いだ。個人的な思いでは、息子ファミリーが帰省した折は、家族揃って「青少年センター」で卓球をしたものだ。

明治30年当時は既に子規は根岸の子規庵で病臥の体になっていたが、漱石は松山中学教師時代(明治28年)に「お囲い池」で泳いでいる。

ところで、この句の鑑賞であるが、プール(お囲い池)に水泳をやりに人が集まっているということだけで、まったく詩情が感じられない。小学校低学年の俳句としても撰には入らないのではあるまいか。仲間だけしか通じない「おかこひ」では俳句の未来はあるまい。

子規さんにあやかって一句

「湯月城跡に 月見の人の つどひけり  子規もどき」 

夏井いつき宗匠の「プレバト」で凡人の最後にランクされるかな。いやはや。 道後関所番
うつくしき 菓子贈られし 須磨の秋
平成30年8月 「 うつくしき 菓子贈られし 須磨の秋    子規」
  
子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年8月の句は「うつくしき 菓子贈られし 須磨の秋   子規」です。

季語は「秋」(秋)です。 『子規全集』第二巻 俳句二 「寒山落木 巻四」280頁(明治二十八年 秋)、第二十一巻 草稿 ノート 「病床漫吟」73頁(明治二十八年 秋)に掲載されています。

詞書に「須磨に在る頃都の人より菓子をおくりこしけるに」とある。尚、「病床漫吟」では「すまの秋」と表記されている。

まったく予備知識なく純粋にこの句を鑑賞すれば、「都の人」「うつくしき」「菓子贈られし」「須磨」「秋」となると、蘆花の「不如帰」ではないが、悲恋のうつくしき追憶のストーリーが描けるだろう。特に「うつくしき菓子」とは思い出の詰まった「(東)京銘菓」ということになろう。

閑話休題 子規の句に戻ろう。

明治二十八年、従軍記者として清国に派遣された子規は、帰国途中に船中で喀血し、神戸病院に緊急入院する。七月二十三日同病院を退院し、須磨保養院で約一ヶ月休養する。見舞品として東京から送られて来た菓子が「うつくしく見えた」ということだろう。

「うつくしい菓子」にこだわると、四国猿である自分が京の和菓子屋に立ち寄ると、四季折々の和菓子の意匠がこころに響き、口に入れるのがもったいないと感じることがままある。「うつくしき和菓子贈らる須磨の秋」となるのだが・・・・・

子規さんにあやかって一句

「美しき和菓子が届く妻の盆     子規もどき」    道後関所番
鮎はあれど

平成30年9月 「鮎はあれど 鰻はあれど 秋茄子     子規」
  
子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年9月の句は「鮎はあれど 鰻はあれど 秋茄子    子規」です。

季語は「秋茄子」(秋)です。 『子規全集』第二巻 俳句二 「寒山落木 巻四」338頁(明治二十八年 秋)、第二十一巻 草稿 ノート 「病床漫吟」96頁(明治二十八年 秋)に掲載されています。

詞書に「田舎」とある。田舎とは故郷松山のことである。明治二十八年の夏から秋にかけて病気療養で帰省し、漱石と52日間「愚陀仏庵」で過ごした。子規は漱石のお金で勝手に蒲焼を注文している。さすがに漱石もこのことをこぼしている。

「病床漫吟」では「鮎もあれど 鰻はあれど 秋茄子」を、「鮎もあれど」を「鮎はあれど」に変更している。

「茄子」「鰻」「茄子」の季語は「夏」であることに注目したい。「秋茄子は嫁に食わすな」と下世話に云われる様に、これ又旨い、旨い。特に醤油の味が染み込んだ冷えた秋茄子で食が進む。

食いしん坊の子規さんにとって、石手川、重信川の鮎も鰻も旨いが、なんと云っても秋茄子が最高だと評価している。いかにも子規さんらしい一句と思う。

子規さんにあやかって一句

「松はあれど 桜はあれど 秋の城    子規もどき」    道後関所番
虚子を待つ 松茸鮓に 酒二合

平成30年10月 「虚子を待つ 松茸鮓に 酒二合      子規」


子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年10月の句は「虚子を待つ松茸鮓に酒二合   子規」です。

季語は「松茸」(秋)です。『子規全集』第十四巻 「病状手記」452頁(明治三十年)と『子規全集』第三巻 俳句三 「俳句稿」99頁(明治三十年 秋)、)に掲載されています。

詞書に「碧梧桐先ず到る」とある。「病牀手記」の十一月三日の条には「瓢亭来ル羯南氏訪ハル」とあるが、碧梧桐・虚子来訪の記載はない。(注)和田克志編『子規選集M子規の一生 448頁)

詞書に「碧梧桐先ず到る」とあるので、子規は先に来た碧梧桐と一緒に虚子を待っている。「松茸鮓に酒二合」は同郷の弟子二人の為に、母八重さんと妹律が用意したのだろう。食いしん坊の子規さんが料理を前にして待ちきれないでいる情景が浮かぶ。「酒2本」が「酒3本」では弟子を思う詩情は浮かんでこない。

この日に露月の下に『ほととぎす』十号が届いているから、子規・碧梧桐・虚子3人で『ほととぎす』を酒の肴に風発談義する予定かもしれない。

2年前になる明治28年12月9日に、かの「道灌山事件」は起こったが、決定的な破局には至らず、虚子は『ほととぎす』を柳原極堂から引継ぎ、子規俳句を継承することになる。この3人を結び付けている根源には同郷人(松山人)の絆があるのだろうか。

子規さんにあやかって一句

「君慕ふ 松山鮨の 彼岸入り  子規もどき」    道後関所番
や今年我病めり古書二百巻

平成30年11月 「冬や今年我病めり古書二百巻      子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年11月の句は「冬や今年我病めり古書二百巻   子規」です。

季語は「冬」(冬)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木」巻四 356頁(明治二十八年 冬)と『子規全集』第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟」108頁(明治二十八年 冬)に掲載されています。

明治28年は子規にとって疾風怒濤のような一年でした。従軍記者として清国に派遣され、船中で喀血し九死に一生を得、帰郷し愚陀仏庵で漱石や松風会の仲間と俳句を実作し、俳句の指導を通して『俳諧大要』の執筆に取りかかる。

明治22年の大喀血後からライフワークとして俳句分類に取り掛かるが、第一段として明治28年10月から「俳句大要」が新聞「日本」に掲載される。この研究は残念ながら未完に終わったが、虚子、碧梧桐はじめ子規の後継者による研究発展はなかった。

「冬や今年」にはもう一句あり「冬や今年今年や冬となりにけり」がある。今年の冬には二百巻もの俳句集、俳論集を読んで俳句革新の決意を新たにしたいということであろうか。

子規さんにあやかって一句

「冬や今年我七度目の年男  子規もどき」    道後関所番

平成30年12月 「漱石が来て虚子が来て大三十日    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年12月の句は「漱石が来て虚子が来て大三十日    子規」です。

季語は「大三十日」(冬)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木」巻四 352頁(明治二十八年 冬)と『子規全集』第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟」108頁(明治二十八年 冬)に掲載されています。

句作の過程を眺めると子規の漱石に寄せる思いが伝わってくる。

「漱石が来て虚子が来て大三十日」が決定する前の句は「虚子が来て漱石が来て大三十日」とある。虚子・漱石の訪問の順では勿論ない。虚子とのこの時期の関係は微妙なものがあった。

松山の「愚陀仏庵」での五十二日間の子規・漱石の共同生活後、子規は帰京するが、年末に漱石は将来の妻となく「中根鏡子」との見合いもあり、根岸の子規庵を訪ねて来る事になった。

子規の抑えきれないほどの喜びが、前書き「漱石来るべき約あり」として「梅活けて君待つ庵の大三十日  子規」と読んでいる。まるで恋人を待つ乙女の恋歌のようだ。

一方虚子については、同月初めに道灌山で子規から後継者に指名されたが後継者にはなれない旨をきっぱりと子規に伝え申し出を断る。その虚子が、漱石の訪問の日に会わせた様に訪ねてくる。

病臥の子規にとって、子規の家族(母、妹)にとっても、迎春に相応しい大晦日となった。まるで映画の、いや活動写真のハッピーエンドのシーンでもある。この三人は、なに語り合ったのだろうか。あえて俳句論議は避けて、女性論、結婚観を述べ合ったのだろうか。

背景が分かればこの俳句のよさも理解出来ようが、独立句としては「漱石が来て虚子が来て○○○○○」は佳句には程遠い。○○○○○には何でも入れられる、座りの悪い一句でもある。
「医師が来て葬儀屋が来て大三十日」にならぬように、独居老人は日日を自重して過ごす必要もあろう。いやはや。

子規さんにあやかって一句

「兄が来て弟が来て除夜の鐘    子規もどき」 道後関所番

平成31年1月 「ふゝと笑ふ 夫婦二人や 福寿草    子規


子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成31年1月の句は「ふゝと笑ふ 夫婦二人や 福寿草   子規」です。

季語は「福寿草」(新年)です。『子規全集』第一巻 俳句一「寒山落木」抹消句 421頁(明治二十四年 )に掲載されています。

前書きが長く「ある人の有卦に入りたりとて ふ文字七つ入れて発句せよと所望に」とあります。

『広辞苑』によれば「有卦」とは「陰陽道で、その人の生年の干支により、七年間吉事が続くという年まわり」であり「有卦に入る」とは@有卦の年まわりに入る。A幸運にめぐりあう。調子にのる。」という意味である。

今年の干支「亥」で筆者は七度目の年男になる。もし「有卦」に入ったのだとすれば90歳までは健康で過ごすことが出来る。有難き哉。

子規に依頼した知人が誰かは不詳だが、なんと俳句って楽しい文学であることよ。「ことば遊び」には違いないが、「俳聖子規」に程遠い子規さんの姿がそこには生き生きとして存在している。もっとも明治24年の正月頃は「脳病」(スランプ うつ症)を煩っていた頃だから、俳句の逆療法かも知れないが・・・・・

それにしても「ふゝと笑ふ 夫婦二人や 福寿草」は、鴎外の小説「じいさんばあさん」を思い出す。或いは落語のご隠居夫婦の正月風情を連想する。明治24年が嘘のような平成の光景でもあろう。

妻を亡くして二年、このようにふゝと笑いあえるパートナーは居ない。
子規さんの句にあやかって一句

「達磨よし福禄寿よし屠蘇気分   子規もどき」 道後関所番
平成31年2月  「白梅の 白きを以て 強きかな   子規」

平成31年2月 
 「白梅の 白きを以て 強きかな   子規」


子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成31年2月の句は「白梅の白きを以て強きかな   子規」です。

季語は「白梅」(春)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木」巻五 431頁(明治二十九年春)に掲載されています。

明治29年当時、子規さんは子規庵で病臥の生活ですから、庭で咲いた白梅を詠んだ句かと思いましたが、当時の庭には梅の木はありませんでした。

明治32年に書かれた随筆「庭」には「梅は四年ほどになるが二本あるけれどもとてもまだ花をみるところへは往かぬ」と記述しています。

友人か知人が贈ってくれた白梅だとすると、白梅を眺めていて元気が湧いてきたよという御礼の句だったのでしょうか。贈り主も喜び安心したことでしょう。

「白梅の」「白き」の「白」、「白き」と「強き」の「き」の響きが、100余年を越えて現代のわれわれにも伝わって来るようです。なお「白梅」の句を子規は十四句読んでいます。

子規の句に「白梅の黄色に咲くや年の内」(明治27年)がありますが、白といえば、虚子の名句「白牡丹といふといえども紅ほのか」を思い出しました。良い句ですなあ。

子規さんの句にあやかって一句

 妻の三回忌
「白梅を供え佇む吾ひとり 子規もどき」 道後関所番
消して見ん 朧月 

平成31年3月「行燈の 火を消して見ん 朧月   子規」


子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)監修の子規さん平成31年3月俳句は「行燈の 火を消して見ん 朧月   子規」です。

季語は「朧月」(春)です。『子規全集』第一巻 俳句一(明治二十六年)469頁に掲載されています。 この句は子規自身による「抹消句」です。
何故、子規記念博物館の子規さん句に選ばれたのか皆目わかりません。

こゝ数年、子規の抹消句が代表句として紹介されますが抹消句は「生きている死体」(オルテガ・イ・ガセット)で「生体」ではないと考えています。
 
現にこの句ですが「行燈の火を消して見ん」は冗句すぎます。「行燈を消して見ん」で十分でしょう。同時期に「行燈」の句を六句残していますが、いずれも抹消句です。参考に挙げておきます。
 
 春の夜の雨も朧の姿かな
 
 朧月どこまで川の長いやら   

 どこ見ても高い山なし朧月

 梅か香はうしろになりぬ朧月

 行燈の火を消して見ん朧月

 あひのりのささめごとあり朧月

明治26年は、子規が俳句に熱中した時期で「椎の友社」の伊藤松宇らと句会を開き、生涯に読んだ句の約5分の一に当たる5千句あまり俳句を詠みました。
 
 子規記念博物館の西岡美咲学芸員の指摘によると、5千句の中に「朧月」「三日月」など「月」にまつわる季語を用いた俳句が二百句ほど読んでいるとのことです。「朧月」などは日本人の心情に強く響いて、歌唱や和歌、絵画など文化一般に広まった行った日本的な情緒でもありましょう。

子規さんの句にあやかって一句

   「行燈や土蔵は暗し家書の黴  子規もどき」

平成31年4月「散る花は 散らぬ花より うつくしき  子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの平成31年4月の句は「散る花は散らぬ花よりうつくしき   子規」です。

季語は「散花」(春)です。『子規全集』第一巻 俳句一「寒山落木」抹消句 436頁(明治二十五年)に掲載されています。

今月の句も抹消句である。道後公園での小学校の悪ガキとの花見の座でも、なぜ抹消句ばかり鑑賞さすのかとの苦情を受けた。抹消句は作者の意思で削除したものだから再現するのは如何なものか。

漱石の『坊っちゃん』の「四国あたりの」の元の原稿は「中国あた り」であったし、素直に読めば「松山・道後温泉」ではなく「山口・湯田温泉」だろう。案外「松山中学」ではなく「山口高等学校」ではなかったか。

句自体は、説明文的で、詩情はなく、常識的である。

会社を定年で去る時の先輩・同輩・後輩との交わした言葉は「散る桜残る桜も散る桜」だった。在職時代は宴会の後では「同期の桜」を歌ったものだ。それに比べてなんと平凡な句か。

「散る花は散らぬ花より〇〇〇〇〇」の〇〇〇〇〇に幼稚園から老人ホームの老幼男女に5文字書き込んでもらったら、短大クラスの卒業論文が書けるかもしれない。

同趣旨の「散った桜散る桜散らぬ桜哉」(明治29年)と言葉遊びのような子規の句が残っている。散った桜(はな) 散る桜(はな)散らぬ 桜(さくら)哉」と読むのだろうか。

「散る花は散らぬ花よりうつくしき」を鑑賞しようとして、3月に三回忌を迎えた亡き妻のことを思い出した。「永遠に女性的なる伴侶」であった。

「散る桜 残る桜や 口惜しき   子規もどき」を平成最後の桜への挽歌として、妻への挽歌として詠んでみた。
一つ二つ 日傘さしたる 渡し哉
令和元年五月「一つ二つ 日傘さしたる 渡し哉     子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和元年五月の句は「一つ二つ 日傘さしたる 渡し哉   子規」です。

季語は「日傘」(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四」231頁(明治二十八年 夏)と第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟」58頁(明治二十八年 夏)に掲載されています。

渡し舟に乗って日傘をさしている光景――木下恵介監督の映画「野菊のごとき君なりき」を思い出した。実際にこの光景が映画に写っていたかどうかは不明だが、柴又の土手から眺めた対岸の伊藤左千夫の旧居があった方角を眺めた時の「矢切の渡し」の光景ではあった。妻と文学散歩の途中に、日傘をさして乗船した。

幼き日、子供心にも日傘をさした美しかった母と手をつないで、あぜ道を歩いた光景を思い出す。

松山には「出合の渡し」「三津の渡し」「垣生の渡し」などがあり、現在も「三津の渡し」は利用されてはいるが、残念ながら詩情は感じられない。子規の句に「出会いの渡し」を詠んだ「若鮎の二手になりてのぼりけり」なる句があるが、日傘とはまったく異質の、無縁の光景といえよう。

明治28年病床に臥せた子規が季語「日傘」から印象深い「渡し」を思い起こしたとすれば、隅田川河畔か葛飾柴又あたりかもしれない。ドラマ的には、隅田川が見渡せる桜餅屋の部屋を借り受け、看板娘の「おとよさん」との語らい、外出するおとよさんの日傘、隅田川の「渡し」のシーンが展開する。

明治初年に、松山では、残念ながら日傘をさした優雅な女性はいなかったのではあるまいか。

子規さんにあやかって一句

「一つ二つ 頭が見える つつじ園  子規もどき」
「杖突いて 日傘さしたる 遍路哉  子規もどき」
令和元年六月 「紫陽花や 赤に化けたる 雨上がり     子規」


子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和元年六月の句は「紫陽花や 赤に化けたる 雨上がり    子規」です。

季語は「紫陽花」(夏)です。『子規全集』第三巻 俳句三「俳句稿」177頁(明治三十一年 夏)、第十五巻「俳句会稿」647頁(明治三十一年)と第十六巻「俳句選集」春夏秋冬 夏の部 451頁に掲載されています。

紫陽花が赤に化けた雨上がりの句です。

わが家の庭にも紫陽花が10数本あり今が盛りです。「赤に化ける」というのは、雨で鮮やかな赤色に蘇ったという風情でしょうが、新緑の庭の木々の緑も同様です。

子規さんは赤色好きですから、紫陽花の赤色の変化に注目したのでしょう。梅雨に入った根岸の子規庵の佇まいが眼に浮かんできます。

5月末に一週間東北の旅に出掛けました。三陸海岸は身長を遥かに越える「万里の長堤」や2〜3米も嵩上げした赤茶けた原っぱ、いかにも安っぽい罹災者住宅を前にして、芭蕉も、啄木も、吹っ飛んでしまいました。せめてもの救いは、山深い遠野の民話でした。遠野の紫陽花は夏休みでも楽しめるということでした。

子規さんにあやかって一句

「紫陽花の赤 遠野の天狗 辿りけり  子規もどき」
令和元年七月 「行けば熱し 休めば涼し 蝉の声    子規」


子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和元年七月の句は「行けば熱し休めば涼し蝉の声   子規」です。

季語は「蝉」(夏)です。『子規全集』第一巻 俳句一「寒山落木」492頁(明治二十六年 夏)、第十三巻「小説紀行」中「はて知らずの記」572頁(明治二十六年)に掲載されています。

この句は「寒山落木」では抹消句、「はて知らずの記」では「行けばあつしやめれば涼し蝉の声」です。常識的に云うと、抹消句ではなく活字化(公表)された俳句を表示すべきです。学生諸君が卒論を書く場合は決して「行けば熱し休めば涼し蝉の声」を使ってはダメです。老婆心ながら付言しておきます。

子規の「はて知らずの記」ですが、明治二六年七月一九日から八月二十日の間に、松尾芭蕉没後二〇〇年を祈念して芭蕉の『奥の細道』の跡をたどる旅を企画し、その旅行記を『はて知らずの記』としてまとめ、新聞「日本」に掲載しました。

この句から芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句が口に出て来ました。子規も「涼し蝉の声」と詠み、芭蕉の句から離れることはできなかったのでは・・・

八月五日、「広瀬川に沿うて遡り・・・・、野川橋を渡りてやうやうに山路深く入」ったあたりの句のようである。「川奇なり夕立雲の立ちめぐる」の句も残している。
「馬子より外は通はぬ田舎道に何憚るべきと独り裳を蹇げて歩めば蚋群ひ人を螫して血痕足を染めむ。
  世の中よ裾かゝぐれば蚋のくふ
  行けばあつしやめれば涼し蝉の声
  馬子歌のはるかに涼し木下道
  風涼し瀧のしぶきを吹き送る
  上下の瀧の中道裾すゞし  (以下 略)」
子規は旅行記を書く(描く)ことで、写生俳句の何たるかを感じ取ったに違いあるまい。

子規さんにあやかって一句

  TV「ぽつんと一軒屋」を見て
「一軒屋下りは涼し蝉の声    子規もどき」 いやはや。
紫のふつとふくらむ桔梗哉  子規
令和元年八月 紫の ふつとふくらむ 桔梗哉  子規


子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和元年八月の句は「紫のふつとふくらむ桔梗哉  子規」です。

季語は「桔梗」(秋)です。

『子規全集』第三巻 俳句三「俳句稿」96頁(明治三十年 秋)、第十四巻「評論 日記」中「病床手記」433頁(明治三十年)に掲載されています。

九月二十日 晴
 俳句ヲ分類ス
 午後阪本四方来ル
 瓢亭来ルボタ餅ヲモテナス
 夕方ヨリ雨、柳某来

 此頃の天気になりぬ秋の空
 松を伐てうれし小菊に旭のあたる
 紫のふつとふくらむ桔梗哉

この句の魅力は「ふっとふくらむ」という桔梗の蕾の生命力を的確に描いた子規さんの写生眼、写生力と思います。三句を通して、根岸の子規庵の庭の佇まいが浮かんできます。

子規博では、今年八月中は第65回特別企画展「子規と草花 ―命の輝き―」が開催中です。8月2日に内覧会があり出席しました。三部構成になっています。

1、子規のガーデンライフ −子規庵の庭から―
2、「草花は我が命なり」―子規の命をつないだ草花たち―
3、明治時代の園芸文化

 桔梗は子規庵の庭では、子規が病臥していた八畳間の左手の花壇に葉鶏頭・鶏頭・オシロイバナ・松葉牡丹などの一緒に植え込まれています。四季の移り行きの中で、身動きのきかない子規さんにとって、まさに「草花は我が命」だったのでしょう。

 老生は馬齢を重ね八十五才になりましたが、足が悪く、妻を喪ったこともあり、園芸作業は休止してしまいました。息子夫婦が帰省すれば、また復活するのでしょうが、今しばらくは無理なようです。せめてその日が来ても慌てないように、雑草だけは無心に引き抜いていますが・・・いやはや

子規さんにあやかって一句

  妻を偲んで
「七夕やぽっと赤らむ妻の顔  子規もどき」
堀割を四角に返す蜻蛉哉   子規
令和元年九月 「堀割を四角に返す蜻蛉哉   子規


子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和元年九月の句は「堀割を四角に返す蜻蛉哉  子規」です。

『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻三」108頁(明治二十七年 秋)に掲載されています。季語は「蜻蛉」(秋)です。

明治27年というと、上根岸に転居し、『小日本』の編集責任者として油の乗り切った時期でもあります。

「堀割の上をすいすいと四角く飛んでいる蜻蛉だなあ」という映像がすぐに浮かんでくる俳句です。蜻蛉が堀割の上を「四角に返す」という表現は、さすが子規さんの的確な写実と云えます。

私にとっての「堀割の記憶」は古びた酒蔵や醤油倉の裏手の路ですし、蜻蛉は長屋門の東のイチジクがあって蓮の葉っぱが覆いかぶさったまっ四角な池の周囲を飛んでいる姿です。
映像的には、江戸時代でもあり、昭和の時代の光景でもありました。

研究によると、同年11月2日の雨上がりに根岸の郊外を散策した折の写生句十七句のうちの一句です。

また明治29年の新体詩『病の窓』には「左にかけり右に行き終に戻りて竹竿の上にとまりて、こくこくと首を動かす影しるし」と庭を四角に飛ぶ蜻蛉を描いている。

子規さんにあやかって一句

「堀割にさしこむ夕陽蜻蛉つり  子規もどき」
令和元年十月 「団栗に添ふて落ちけりかぜの音  子規
令和元年十月 「団栗に添ふて落ちけりかぜの音  子規


子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和元年十月の句は「団栗に添ふて落ちけりかぜの音  子規」です。

『子規全集』第三巻 俳句三「寒山落木 拾遺」484頁(明治二十一年)に掲載されています。季語は「団栗」(秋)です。

『子規全集』「寒山落木 拾遺」で調査すると子規の最初期の俳句は判明する。

明治十八年  「ノート」       一句 「黒雲を起こしてゆくや蒸気船」
明治二十年  「写真の賛」      一句 「まだ花に心もこすか蝶の梦」
        『真砂の志良邊』   六句
明治二十一年 『真砂の志良邊』 十句

「団栗に添ふて落ちけりかぜの音 」は『真砂の志良邊』(明治二十一年十月十二日号)に掲載されているが、その時の句は「団栗に添ふて落ちりの是(これ)の音」であり、「寒山落木」では修正されている。もっとも元歌は解釈不能である。

山で栗の落ちる音は聞いたことはないが、団栗が地面に落ちる瞬間に一陣の風が吹いてくる。団栗と風の音が一体になって目と耳を驚かさせるという哲学的な俳句というか、哲学青年らしい俳句といえようか。

『真砂の志良邊』(まさごのしらべ)は松山三津に住む大原其戎が主宰する同人誌である。旧派ではあるが、子規に俳句をてほどきした俳人であり、子規は其戎を唯一の「我が俳諧の師」として慕い、毎月句を送り指導を受けた。

子規さんに肖ってい一句

「石垣に添ふて歩けり曼殊沙華   子規もどき」
行く秋や奈良は古寺古仏  子規
令和元年十一月 「行く秋や 奈良は古寺 古仏  子規

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和元年十一月の句は「行く秋や奈良は古寺古仏 子規」です。
『子規全集』二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟」79頁(明治二十八年秋)に掲載されています。季語は「行く秋」(秋)です。

今秋、奈良国立博物館で「正倉院展」を見て、その足で法隆寺と中宮寺を訪ねました。この句の鑑賞に相応しい秋の一日でした。

〇〇さん

ひさしぶりに法隆寺を訪ねました。足が弱くなり杖を突いていますので駅からお寺まで歩くのが億劫になり、最近は近鉄で西の京(薬師寺・唐招提寺・西大寺)を訪ねることが多くなりました。薬師寺では毎年写経をして、在りし日の高田好胤師を偲んでいます。JR法隆寺駅と法隆寺までの循環バスから1時間3本出ており助かりました。

南大門―西室―西円堂―中門&回廊―【西院伽藍】(五重塔・金堂・大講堂)―子規句碑&池―東室―大宝殿院(百済観音、夢違観音、玉虫厨子)―夢殿(救世観音像)から中宮寺(如意輪観世音菩薩半跏像、「天寿国曼荼羅繍帳」・・・・・と、60年前と同じコースを回りました。

五重塔内陣の説明を旅行中の女子大生がしてくれました。「東面は維摩居士と文殊菩薩の問答、北面は釈尊の入滅、西面は釈尊遺骨(舎利)の分割、南面は弥勒菩薩の説法などの場面です。」 お返しに女子大生に「聖徳太子の道後来湯」の話をし、「あなたに会えてよかった」と感謝の気持ちを伝えました。にっこり微笑んでくれました。初めてあなたに出会った六十年前の記憶がよみがえってきました。

「奈良は古寺古仏」ではありますが、法隆寺の内部は雰囲気が随分変わりました。
金堂の内部には昭二四年(1949年)の焼損の翳はまったく感じられません。百済観音は豪華な大宝殿院に安置されています。もっとも変わったのは、中宮寺のお堂です。改築されたのは50年も前ですが、古ぼけたお堂に安置された如意輪観世音菩薩半跏像と左手前にあった「天寿国曼荼羅繍帳」・・・国宝の繍帳は奈良国立博物館に寄託されています。庭には会津八一の歌碑が目立たぬように立っています。

 あなたがご壮健なら傘壽を迎えられたのですね。如意輪観世音菩薩半跏像とあなたがダブって「永遠に女性なるもの」を真剣に考え悩んだ青春でした。やがて妻を知ることになるのですが、妻は私を残して数年前に突然旅立ち、私にとって「永遠に女性なるもの」として菩提寺に眠っています。

偶然ですが、法隆寺の西伽藍の回廊を歩いている時に正午を知らせる鐘の音が聞こえてきました。子規も聞いた鐘の音です。回廊を出て、池のたもとに立つ子規の柿の句碑を眺めながら、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」と「行く秋や奈良は古寺古仏」を口に出しました。「鐘の鳴るなり」でなく「鐘が鳴るなり」の真実が分かった次第です。

子規と漱石が散策した松山・道後のコースを案内してあげたかったと今になって思う。せめても子規さんにあやかって子規もどきの一句をあなたに捧げる。

「秋冷や伊予は湯泉(ゆ)の国媛(ひめ)の国    子規もどき」
雪の日や巨燵の上に眠る猫  子規」
令和元年十二月 「雪の日や巨燵の上に眠る猫  子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和元年十二月の句は「雪の日や巨燵の上に眠る猫 子規」です。
『子規全集』第二巻 俳句三「寒山落木」493頁(明治二十三年)と第十三巻 小説紀行 「銀世界」(権妻の雪)に掲載されています。季語は「雪」(冬)です。

鑑賞としては、雪の降る寒い日、温かい炬燵の上で、猫が気持ちよさそうにねむっている。作者もこたつで猫と一緒に眠っているという情景でしょうか。外の寒さと家の中の暖かさの対比が鮮やかです。もっとも、「雪の日」と「巨燵」は季重なりですが、実作者のもなさんは如何お考えでしょうか。

子規の友人夏目漱石の処女作『吾輩は猫である』のイメージが強くて、珍野苦沙弥先生と飼われている猫の漱石邸のある日の情景が浮かんできます。

実はこの句は子規の短編小説「銀世界」に載っています。といっても、子規さんの小説は読んだことがないので、今回は子規博の学芸員である西岡美咲さんの解説を引用させていただきます。
(注)西岡さんの解説の文章中、「この句はその内の「権妻の妻」という題名の句」とありますが、正しくは「権妻の雪」です。誤植でしょう。

・・・短編小説「銀世界」は、雪景色にちなんだ全五編の小説です。この句は、その内の「権妻の雪」という題中の句で、主人公の「権妻」は、正妻ではない妻のことです。この物語は、旦那が本宅に帰ってしまうのを惜しむ情勢の目線で描かれています。旦那が帰った後、権妻はこたつで暖を取りながら酒をのみ、眠くなってしまいます。そのこたつでは、外の雪の寒さを知らぬ気の猫が、あたたかそうに眠っています。・・・

この句を詠んだ明治二三年一月は、子規の松山帰省中です。この頃の子規は、新海非風、五百木瓢亭の三人で合作することを日課にしており、非風と二人で「山吹の一枝」という作品を執筆しています。二三歳というと、今日では大学を卒業して実社会にスタートした時期ですが・・・・・

子規さんにあやかって一句

「雪の日や炬燵で絡む猫と足   子規もどき」
令和二年一月 「白猫の行衛わからず 雪の朝  子規


子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和二年一月の句は「白猫の行衛わからず 雪の朝 子規」です。
『子規全集』第一巻 俳句一「寒山落木 抹消句」415頁(明治十八年)に掲載されています。季語は「雪」(冬)です。

子規18歳の俳句ですが、郷里松山から上京し、暖国四国とは違う雪の光景に戸惑ったのかもしれません。それにしても理屈っぽい句です。白猫の白、雪の朝の白、白猫は雪の白さの中で存在がわからない。猫の足跡が残っていないから、雪は降り続いているのだろうか。それとも足跡を雪が消して静寂な朝を迎えたということか。今まで可愛がっていた白猫が行方不明になって白猫を案じている句でもある。

けがれのない白の世界である。もっとも作者は白に溶け込んでいなくて他者である。説明句ですし、現代の高校生の俳句に比して理屈っぽい駄作と云えましょう。写生句いうより観念句であろう。抹消句になっています。子規青年も、分かってのことでしょうか。

昭和初期、松山中学の後輩に当たる中村草田男が上京して東京の雪を初めて見たとき「降る雪や 明治は遠くなりにけり」と詠んでいます。更に後輩で東京帝大に学んだ渡部克巳(松山東高校、愛媛大学教官 漢文学)も同じ経験をしている。松山では下駄に足袋だが東京の小学生は長靴で雪の中を走り回っている。文明の格差である。
私も終戦後の昭和29年に上京したが、さすがに東京と松山の雪景色に落差を感じなかった。同時期東京大学に進学した大江健三郎も同様だろうと思う。

前月(令和元年12月)の子規句「雪の日や巨燵の上に眠る猫」も猫が主人公である。勿論、炬燵の猫と雪に消えた猫は同じ猫ではないのだが、ダブらせてみると、結構面白い。子規は猫が好きだったのだろうか。随筆で「子規と『吾輩は猫である』」を書いてみるか。いやはや。

子規さんにあやかって一句

「道も田も 一つ世界や 雪の朝   子規もどき」
「雪原に 黒点二つ 空高し  子規もどき」
令和二年二月 「まだ咲いてゐまいと見れば梅の花   子規


子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和二年二月の句は「まだ咲いてゐまいと見れば梅の花 子規」です。

『子規全集』第三巻 俳句三「寒山落木 拾遺」511頁(明治二十五年)、第十八巻 書簡一 274頁(明治二十五年)に掲載されています。季語は「梅」(春)です。

この句は、明治25年2月26日に五百木良三(瓢亭)に送った封書にしたためられた俳句で「正月の梅さく頃駒込の梅園にて」と書き添えられています。「残余の風七ヶ月」「煙草十二ヶ月」「十二支十二ヶ月」と題して三十三句披露しています。

それぞれの二月の句を抜書きします。
○春風にしぼむものあり干大根<残余の風>
○はいふきにしたあともあり落椿<煙草>
○牛部屋に牛のうなりや朧月<十二支>

俳句はともかく、子規らしい思いつきの十二ヶ月句を、同年2月21日(?)にも瓢亭に「灯火十二ヶ月」「男女句合十二ヶ月」と題して送っています。それぞれの二月の句を抜書きします。

○紅梅や雪洞遠き長廊下<灯火>
○一鞭に其数知れず落ち椿    男
 いもうとの袂さぐれば椿かな  女<男女句合>

この年、子規は「梅ちらりちらりと松の木の間哉」「鶯の奥に家あり梅の花」など、梅の句を二〇数句詠んでいます。明治期には食用にもなる梅は庭園に植えられていたものです。

子規さんと同じような体験は私にもあります。3年前までは、妻も元気でしたから、梅干と干し柿づくりは、ずうっと続けてきたのですが・・・・・

子規さんにあやかって一句

「まだ咲くまいと見上ぐれば 梅一輪    子規もどき」
令和二年三月 「名も知らぬ春の小鳥や腹青き   子規」


子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和二年三月の句は「名も知らぬ春の小鳥や腹青き 子規」です。

『子規全集』第三巻 俳句三「俳句稿」319頁(明治三十三年 春)、第十五巻 俳句会稿733頁(明治二十三年)に掲載されています。季語は「春」(春)です。この俳句会は明治33年2月11日子規庵で開催、19名参加。

戦前に生まれた人なら、十人が十人「名も知らぬ」と聞くと、「遠き島より流れ寄る椰子の実一つ」と口ずさむに違いあるまい。
明治三一年(1898)の夏、一ヶ月余り伊良子岬に滞在した柳田国男が浜に流れ着いた椰子の実の話を島崎藤村に語り、其の話を元に藤村が作詞した。明治三四年(1901)8月に刊行された『落梅集』に収録されている。
「名も知らぬ遠き島」と「名も知らぬ春の小鳥」は同質のリズムがある。子規の句は明治三三年(1900)であり、藤村の作詞が二年早い。

子規庵の病床にあった子規が庭を見上げると、小鳥の腹の青色が飛び込んできた。春を告げる腹青き小鳥である。小鳥の名称は・・・調べるのに時間がかかりそうだ。よもやメーテルリンクの「青い鳥」ではあるまい。いやはや。

2月11日は戦前の紀元節―日本の国の誕生日である。「青」と「春」、まさに「青春」を寿ぐかの様な句である。

子規さんにあやかって一句

「名も知らぬ神々集ふ出雲かな    子規もどき」

「名も知らぬ髭濃き像や草萌える   子規もどき」
令和二年四月 「花咲いて思ひ出す人皆遠し  子規


子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和二年四月の句は「花咲いて思ひ出す人皆遠し  子規」です。

『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻五」437頁(明治二十九年 春)に掲載されています。季語は「花」(春)です。

花(櫻)咲く季節は、出会いの季節でも別れの季節でもある。幼稚園、小学校、中学校、高等学校、笈を背負って遊学、卒業、就職、結婚、退職・・・・・私自身の八十数歳の人生でも、忘れられない出会い、別れの連続である。

幼児に小学校二年の兄を喪った、昭和十六年の春である。初めて恋文を手渡されたのは昭和二十九年の卒業式の直後だった。
妻との出会い(見合い)も春、そして別れは三年前の三月四日である。戒名である「三香院春雅温妙大姉」号を毎朝仏壇で唱えると、温和な妻の顔が浮かんでくる。

今春、親しい友人を喪った。高校、大学が一緒である同期は四人、二人はこの世を去り、一名は消息不明、残り一名は前渋谷区長である。同期の男性の半数は、この世には居なくなった。「散る桜残る櫻も散る桜」である。

子規の句は「時空」の空(無量光)を指すのであろうが、私の「時空」は「時」(無量寿)を指している。子規はこの時二十九歳である。不治の病に臥せている子規は、思い出す人に会いたいのだろうが、会うことは物理的に叶わない。哀しいかなである。
八十四歳翁にとっては、思い出す人は阿弥陀の世界に居るので当然会うことは叶わない。

子規さんの句の「鑑賞」が、個人的な「感傷」になってしまった。現在新規コロナウイルスがグローバルに蔓延しており、治療薬すらない。近代以前では加持祈祷を通して神仏にすがるしかなかったが、現代でも「自宅待機」がベストの選択とか。

歴史的に見て@ウイルスのパンデミック A火山の破局噴火&巨大地震 B大津波 は人間の叡智だけでは防御できない。「バベルの塔」ではないが、傲慢な人間に対する神の怒りなのかもしれない。はて、如何するか。

子規さんにあやかって一句

「花咲いて『春雅温妙大姉』哉    子規もどき」
令和二年五月 「白き花活けて新茶の客を待つ  子規

子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和二年五月の句は「白き花活けて新茶の客を待つ  子規」です。
『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻五」473頁(明治二十九年 夏)に掲載されています。季語は「新茶」(夏)です。

今年(令和二年)五月一日は「八十八夜」に当たり、子規博懸垂幕五月子規さんの句」の披露の日でもあります。

小学唱歌「茶摘」
夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る
あれに見える葉 茶摘みじゃないか
茜襷(あかねだすき)に菅(すげ)の笠
日和つづきの今日このごろを
心のどかに摘みつつ歌ふ
「摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ
摘まにゃ日本の茶にならぬ」

夏に時期の「白き花」は山梔子(くちなし)や鉄砲百合の類だろう。「白き花」の句がもう一句残っている。秋の句である。

「庭前
 白き花赤き花 秋立にけり」(明治三十三年 秋)

秋の時期の「白き花」は白菊、コスモス、マーガレット、アリッサム、キンギョソウ 「紅い花」は鶏頭、サルビア、コスモス、ベゴニアなどが浮かんでくる。

「新茶」の句を少し挙げてみたい。

宇治に似て山なつかしき新茶かな    支考 「梟日記」
霊前に新茶そゆるや一つまみ      浪化 「喪の名残」
猟人の念仏を聞く新茶かな       麦水 「葛箒」
馬?げ新茶かほらす萱が軒       蝶夢 「草根発句集」
新茶の香真昼の眠気転じたり      一茶 「寛政句帖」
新茶汲むや終りの雫汲みわけて     杉田久女 「杉田久女句集」
この国に新茶を贈るよき習ひ      長谷川櫂 「新年」

新茶の香りも味覚も詠みこまれていない。盆行事との結びつきすら感じる。

明治二九年と云えば、子規の病状は悪化し外出はほとんどできずな寝たっきりの状態である。宇治か、静岡か、それとも松山から新茶のお届けがあった。「白き花」を活けて子規庵は明るくなった。客人は、句会の俳人か、虚子、碧梧桐か、それとも・・・・・

子規さんにあやかって一句

「主亡き室や 新茶を供えけり   子規もどき」
令和二年六月 「草の露 これも蛍になるやらん  子規」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和二年六月の句は「草の露 これも蛍になるやらん  子規」です。

『子規全集』第三巻 俳句三「寒山落木 拾遺」499頁(明治二十三年)と第九巻 「初期文集」中「つヾれの錦」767頁に掲載されています。季語は「蛍狩」(夏)です。

「蛍狩」の題で八句詠んでいます。
 手の下をくゝつてにげる蛍かな
 草の露これも蛍になるやらん
 草の葉のほたるゆれるや水の音
 水音をはさむ蛍の屏風哉
 水にハきえ露にハもゆる蛍かな
 おのが火をたよりか一ツ飛ぶ蛍
 吹く風をとらへかねたるほたる哉
 姫たちも団扇で出るや蛍狩

子規23歳の句であるが、やや理屈ぽさが強く出ているが,情景は目に浮かんでくる。
非凡ではある。露、水、火、風という自然を形作る要素が上手く取り上げられているが、水と露の対蹠が興味深い。
蛍のかぼそい光は「はかない生命」であり、露もまた万葉詩人にとっては命の代名詞であった。「草葉の陰」とは魂の休む墓の下を指す。八句を通して、健康であった子規の命の陰りを察するのは筆者の独断だろうか。

蛍そのものもはかない生を感じる。「水辺の草に露がきらめいている。この露も夜の明かりで光る蛍になるのだろうか。」(子規博 西岡美咲学芸員)という詩人の感傷が読み込まれている。

「つヾれの錦」は明治22年常盤会寄宿舎の仲間8人(新海非風、五百木瓢亭ら)で「紅葉会」を結成し活動記録で、第一号は明治二三年2月から10月、最終第七集は明治二三年10月23日付けである。
この句は、回覧雑誌「つヾれの錦」の第四巻に掲載されている。

この巻では、「蛍狩」のほかに「辻占」「五月五日」「青簾」「団扇」「隅田川」などの題で発表しあっている。


子規さんにあやかって一句

 「草の露 蝉の甘露となるやらん   子規もどき」

新型コロナウイルス蔓延
  「台風迷走す  コロナの悪戯    子規よもだ」   


令和二年七月 「見送らん夏野に君の見えぬ迄  子規


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和二年七月の句は「見送らん夏野に君の見えぬ迄   子規」です。

『子規全集』第二巻 俳句三「寒山落木 巻四」238頁(明治二十八年 夏)と第二十一巻 「病余漫吟 明治二八年 夏」64頁に掲載されています。季語は「夏野」(夏)です。

同年に「夏野」を詠んだ句に
 旅人の兎追ひ出す夏野哉
 商人に行き違ふたる夏野哉
があり
 「見送らん」の前書き「送別」と同じ前書きのある句に
 飯くれぬ村はありとも苔清水 
がある。 

 明治28年といえば、日清戦争の取材に出掛けた子規は、5月に帰国の船中で喀血し、神戸病院、須磨保養院で治療、療養した。この句の「君」が誰かは特定できないが、子規を見舞った友人、知人は自分のことかと思うに違いない。なかなか手の込んだ仕掛けである。
「君」なる人物は、高浜虚子、河東碧梧桐、竹村鍛、太田正躬、福本日南、郷里松山からの親戚の方など大勢の見舞い客それぞれであろうか。

 明治28年の神戸・須磨の光景はよく分からないが、恐らく病後の須磨保養院ではなかろうか。見渡す限りの夏野が広がる場所が須磨保養院近くにあるとは思えないが、私のとっては見慣れた白砂青松の須磨・舞子は明治後半の光景かも知れぬ。
いずれにしても、遠隔地から見舞いに訪ねてくれた「君」への感謝の気持ちだろうし、健康が不安でもう二度と会えないのではないかという惜別の情が込められているのかもしれない。

須磨には、4〜50年前に勤務していた鐘紡の「教育センター」があり、新入社員教育、管理職登用研修、美容部員研修、看護士研修などで、社内教育の事務局や講師として毎月のように訪れた。夕暮れ、須磨や舞子の海岸を散策し、「舞子ビラ」でワインを飲みながら懇談した日々もあったが、当時の私には、子規は遥かに遠い郷土の先輩に過ぎなかった。

子規さんにあやかって一句

 「見送らん 卒業の日の分かれ道   子規もどき」
  
そうさ、「君」を見送ったんだよ、あの時。先にあの世に旅立つなよ、な。今度は「君」が「僕」を見送る番だよ。
令和二年八月 「秋もはや桔梗の名残花一つ  子規

子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和二年八月の句は「秋もはや桔梗の名残花一つ   子規」です。

『子規全集』第三巻 俳句稿91頁(明治三十年 秋)と第十四巻 評論日記417頁「病床手記」 明治三十年 秋」に掲載されています。季語は「桔梗」(秋)です。

「病牀手記」明治三十年八月二十三日の文章を記す。
  俳句分類ニ従事ス
  午後喜多郡五十崎の人佐伯重美来ル
  宮本仲氏来ル

  撫子の種つるしたり花もある
  種に刈る桔梗長く花一つ
  秋もはや桔梗の名残花一つ
  桔梗刈て菊の下葉の枯れし見ゆ


「病牀手記」は明治三十年八月二日から十一月二一日までの病状に記録を俳句と共に書き込んでいる。

 子規は病床に在る。子規庵の庭に咲いた草花も、桔梗の花を一つ残すのみになった。それにしても八月の桔梗はあまりに早すぎる。秋の花の王者は菊であろう。子規庵の庭に菊はなかったのか。
 菊には華やかさがあり「生の充実」がある。桔梗は静けさ寂しさがあり「生の儚さ」を感じさせてくれる。日光菩薩に対する月光菩薩であろう。「花一つ」に子規を充てると、子規の孤独が察せられよう。

子規さんにあやかって一句

   新型コロナウイルス蔓延
 「秋もはや 厄病神の居座れり   子規もどき」
令和二年九月 「刈あとやひとり案山子の影法師  子規


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和二年九月の句は「刈あとやひとり案山子の影法師秋   子規」です。

『子規全集』第三巻 俳句稿69頁(明治三十年 秋)と第十四巻 病牀手記407頁「病牀手記 八月七日」 明治三十年 」に掲載されています。季語は「案山子」(秋)です。

「病牀手記」明治三十年八月七日の文章を記す。
 
 午後俳句会、会スル者 墨水、葵山、露月、漱石、瀾水、緑、虚子、運坐二回、
  第一回課題ハ鴫焼、一ツ葉、汗拭、立秋、露、桔梗、蜩、七夕、影法師(秋)、題児戯図(夏又ハ秋)
  第二回課題ハ蓮五句、天川五句 
  第一回ハ漱石得点最多ッシ第二回は子規
  散会九時過 
  此夜亦腹痛二時ニ至ル雷雨屋ヲ揺カス

   鴫焼の律師と申し徳高し
   一つ葉や遠州流の活け習ひ
   汗拭香水の香をなつかしむ
   秋立つや瓜も茄子も老いの数
   太刀持ちの脛の白さよ草の露
   枝ふりの折るにたやすき桔梗哉
   蜩や柩を埋む五六人
   七夕の夜を待つとばかり書かれたり
   刈跡やひとり案山子の影法師
   秋の風きのふ行脚に出られたり」

  「蓮」五句 「天川」五句 省略 

 稲を刈り終えた田に、案山子がひとりぽつんと立っている。その影は夕陽を受けて長く伸びている。稲刈りの夫婦は、家路へと向かっている。ミレーの「晩鐘」の光景を連想する。

子供時代の道後の農村も同じであった。案山子ひとりが夕暮れの田んぼを守っている。案山子にすべてを任せているといっても良さそうだ。古き日本の農村の雰囲気が伝わってくる。中学時代、英語塾からの帰り道の田んぼでも案山子が見守ってくれていた。懐かしいなあ。

子規さんにあやかって一句
   
「秋めきて妻の墓石に影法師   子規もどき」
令和二年十月 「鳥は皆 西へ帰りぬ 秋の暮  子規」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和二年十月の句は「鳥は皆 西へ帰りぬ 秋の暮   子規」です。

『子規全集』第二巻 俳句二 525頁「寒山落木」(明治二十九年 秋)と第十五巻 俳句会稿467頁 明治二十九年 」に掲載されています。季語は「秋の暮(秋)です。

一読、二読、三読・・・浮かんでくる情景は、中村雨虹作詞の「夕焼け小焼け」(大正八年1919)で、思わず口ずさんだ。この童謡を、人生で何度口ずさんだことだろう。

随分昔昔に読んだ山折哲雄のエッセイに、外国人が来日した時、仏教の原点を日本では少年少女も歌うことに驚いたという文章に接した。更に論を発展させて、仏教の真髄、とりわけ『般若心経』の真言が訳されているとした。
「ぎゃーてい ぎゃーてい はーらーぎゃーてい
 はらそうぎゃーてい ぼーじーそわか」(着いた 着いた 彼岸に着いた。みんな彼岸に着いた。ここはお浄土だった)

この句の英訳は下記である。
「all the birds
have gone back west
autumn evening」

残念ながら、この句の情緒は伝わってこない。「夕焼け小焼け」の歌詞を記そう。

1)夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る
  お手々つないでみな帰ろう 烏と一緒に帰りましょう
2)子供が帰った後からは まるい大きなお月さま
  小鳥が夢を見るころは 空にはきらきら金の星

子規の句「鳥は皆西へ帰りぬ秋の暮」そのものではなかろうか。ご家族みなさんで、ご一緒に歌ってほしい。お孫さんの純粋な心に「お月様」は阿弥陀さま、「金の星」は極楽浄土が浮かんでくるかもしれない。「南無阿弥陀仏」と唱えるのは照れくさい御仁は、この歌を口称念仏と思って歌ってほしい。彼岸(浄土)に到達するのは必定であろう。

子規博の解説(西岡美咲氏)の一部を付記する。
「この句は、子規が梅沢墨水、歌原蒼苔、福田把栗とおこなった句会の第二回連座で詠んだものです。第一回運坐では春の季語を題に競い、第二回運坐は、季語にとらわれず、上五に「鳥は皆をはじめ「虫どもの」「煎餅の」「おもしろい」などを使って詠んでいる句が並んでいる。」

子規さんにあやかって一句
   
「夕焼けて 子犬を抱きし 老夫婦   子規もどき」
令和二年十一月 「神送り 出雲へ向ふ 雲の脚  子規


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和二年十一月の句は「神送り 出雲へ向ふ 雲の脚   子規」です。

『子規全集』第二巻 俳句二 357頁「寒山落木」巻四(明治二十八年 冬)と第二十一巻 草稿ノート 112頁 「病余漫吟」(明治二十八年 冬)に掲載されています。季語は「神送り(冬)です。

この句は典型的な説明句である。現代的には駄作の一句と云えよう。

陰暦十月は「神無月」と云い、諸国の「国つ神」は、大国主命が鎮座する出雲大社に集結する。出雲国だけは「神無月<かんなづき>」とは云わず「神在月<かみありづき>」と称する。

国つ神の出雲への出立を見送る祭事が「神送り」である。出雲神の大和朝廷への「国譲り」など『古事記』の世界は、戦前派は教科書で学んだ。子規の当時は、なおさらのことであろう。

この句は、神無月となり、出雲へ出立する神を見送る。神を乗せた雲の軌跡が長々と伸びていると情景であろうか。

この句は明治二八年作であり、子規は松山での52日間の漱石との愚陀仏庵を経て、根岸の子規庵で病に伏せていることを重ねると、神々と一緒に雲の乗って旅を楽しみたい気持ちも充分理解できる。

子規博の入り口に立つ子規の句碑「足なへの病いゆとふ伊予の湯に飛びても行かな鷺にあらませば」がふと浮かんできた。

子規さんにあやかって一句

「神無月 出雲へ向ふ 夜汽車の灯  子規もどき」

令和二年十二月 「花いけに一輪赤し冬牡丹  子規」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和二年十二月の句は「花いけに一輪赤し 冬牡丹   子規」です。
 
『子規全集』第一巻 俳句一 515頁「寒山落木 抹消句」(明治二十六年)に掲載されています。季語は「冬牡丹(冬)」です。

この句は写実句であるが、子規にとっては抹消句である。毎度のことだが、ナゼ抹消句を麗々しく「子規の句」として披露するのかが良く分からない。

「花いけにただ一輪、冬牡丹が赤々と輝いている」としか鑑賞できない。

子規の「病牀六尺」(明治三十三年五月七日)の記述では、派手で美しい大ぶりの牡丹は京都から東京へ、淡白な美しさをもった小ぶりの冬牡丹は東京から京都へ流通していたことを、上方と江戸それぞれの芸術や俳句の発達の特徴に結びつけて説明している。(子規博 西岡美咲さんの解説の引用)

6〜70年前の記憶では裏庭で蓑の笠をかぶせた牡丹の花や、妻と上野東照宮ぼたん苑で鑑賞した冬牡丹の情景は鮮明に記憶している。「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」は云い得て妙な女性描写である。現代女性のイメージでは浮かんでこないのだが・・・・・

同傾向の句として「花活に一輪赤し冬椿  子規」がある。『子規全集』第十五巻 俳句会稿 237頁(明治二十六年)掲載。このパターンは実作者がよくやる手である。却って子規さんに親しみを感じる俳人も居るだろう。いやはや

子規さんにあやかって一句

「花入れに鬼灯二枝三回忌   子規もどき」

(注)盂蘭盆会に鬼灯を一枝飾る。お盆の四日間、亡くなった人は鬼灯の空洞の中にその身を宿すという伝承がある。妻が3年前の3月に亡くなり初盆に供えた鬼灯を捨てる気にもならず遺影に並べた花入れに挿した。翌年のお盆、干乾びた去年の鬼灯とくりくりと赤い実をつけた今年の鬼灯、生死の時空を感じさせてくれた。解説つきの妻を偲ぶ句となった。南無阿弥陀仏。
令和三年一月 「ガラス越に日のあたりけり福寿草  子規

子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和三年一月の句は「ガラス越に 日のあたりけり 福寿草   子規」です。
 
『子規全集』第三巻 俳句三 316頁「俳句稿」(明治三十三年 新年)に掲載されています。季語は「福寿草(新年)」です。

この句には背景がある。明治三十三年一月十四日の新年句会で福寿草を題に詠んだものであるが、前年の十二月に虚子の発案で子規庵の庭に面した南側の障子をガラス戸に替えたこと、福が舞い込むように鉢植えの福寿草を買ってこさせたことである。     

子規は『新年雑記』(明治三十三年)に書き残している。

ガラス越しに新春の日が差し込む。子規の枕元に置いた福寿草にも日が当たる。陽気のせいだろうか、一輪花が咲いている。写生する子規の喜びは・・・・・

子規は二年後の明治三五年にこの世を去るのだが、子規の生涯を知る吾らには福寿草を通して、生の歓喜、生死の儚さ、瞬時の生命力を感じとることが出来よう。

ガラス戸は当時は珍しい家具であったのだろう。子規はガラスの句を数句詠んである。

   「ガラス越に冬の日あたる病間哉」(明治三十二年)
   「ガラス越しに灯うつりたる牡丹かな」(明治三十四年)

明治三十三年の「ガラス越に日のあたりけり福寿草」の下敷きが「ガラス越に冬の日あたる病間哉」(明治三十二年)ではなかったか、と思うのだが・・・・・

子規さんにあやかって一句

「新春の陽に 床の間の 福禄寿  子規もどき」

(注)わが家では「座敷の間」の「床の間」には伊佐爾波神社で明治初年まで祀った神鏡と稲穂と大黒様を祭るのがしきたりである。「次の間」は南面しており、今年は福禄寿の掛け軸を飾った。福・寿の偶然の一致に驚いている。

令和三年二月 「一枝は薬の瓶に梅の花  子規 」



子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和三年二月の句は「一枝は 薬の瓶に 梅の花  子規 」です。
 
『子規全集』第一巻 俳句一 222頁「寒山落木 第二」(明治二十六年 春)に掲載されています。季語は「梅」(春)です。

前書きに 「病中」とある。

和田克司編『子規選集14』「子規の一生」によれば、

2月11日(土)「桜雲台」の紀元節に出席するも、この日以降臥褥し、2月末まで出社できない。子規は日本新聞社に入社して三ケ月目で、気がはやったことであろう。
子規庵の床の間には梅が飾られ、その残りの一枝が薬の空き瓶に活けられている。

病床というより、仕事机の一隅に、この一枝の梅を飾り文筆を進めたのではあるまいか。気分のいい時は起き上がり、具合の悪い時は主治医の宮本仲が診察に来ている。句会を楽しみ、活力を蓄積している。まさに子規さんらしい病中である。

誰にも詠めそうな写生句だが・・・・・

子規さんにあやかって一句
 
   妻の四周忌

一枝は妻の墓標に梅の花  子規もどき
令和三年三月 「てふやてふやなんじとならばどこまでも  子規 


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和三年三月の句は「てふやてふやなんじとならばどこまでも  子規 」です。

 『子規全集』第三巻 俳句三 506頁「寒山落木 拾遺」(明治二十四年)と第二十一巻 草稿ノート663頁「ノート」に掲載されています。季語は「梅」(春)です。
同趣向の句が「ノート」に数句並んでいる。

○「こてふこてふ合宿たのむ草枕」

○「てふてふや合宿たのむ草枕」

○「てふやてふや汝とならどこまでも」

○「こてふこてふさあこい我も花狂ひ」

○「つくつくしゆるしてくれよ杖のとが」

子規さんの「よもだ句」のひとつではあるまいか。

句意は「蝶や蝶や、お前とならばどこまでも、旅が続けられそうだなあ」という芝居がかったせりふ調である。

子規研究者の一文(子規記念博物館 学芸員 壷内菜未氏)で、まったく見当違いの鑑賞であったことに気付く。

子規は明治二十四年学業を苦にして帝大の哲学科かあ国文学科へ転科するが、進級に一喜一憂しながら房総へと旅立つ。
この旅の記録は紀行文「かくれみの」に記されており、この中で「「てふてふやあひ宿たのむ草まくら」や「こてふこてふさあこい我も花狂ひ」など、蝶を読んだ句がある由。(一読しま〜す。申し訳ありません。)

子規さんにあやかって駄句を一句

 「八十の春 おまえとならば どこまでも」
令和三年四月 「我庭に一本さきしすみれ哉  子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和三年四月の句は「我庭に一本さきしすみれ哉   子規 」です。

『子規全集』第一巻 俳句一 15頁「寒山落木 巻一」(明治二十二年)に掲載されている。
読者の多くが見逃しているが、この年だけ「寒山枯木 明治己丑廿二年」で「寒山落木」となっていない。子規さんのうっかりか本心かは不明。
季語は「すみれ(菫)」で春である。尚、「一本」は「ひともと」と読む。

子規22才、東京は本郷区真砂町にあう常磐会寄宿舎の一隅にある庭を「我庭」と見立てて詠んだ句であるが、平凡極まりない句であう。
平かなで「わが庭に一本さきしすみれかな」と書き変えると、子規が学んだ今日の番町小学校の学童の句で多くの人は疑問は抱かないだろう。
このような句が続くと、俳句鑑賞エッセイも一休みしたくなる。

子規さんにあやかって未完の句を一句

 「我◇に 一本咲きし ◇◇◇かな  子規もどき 」

(注)◇に自由に書き入れてください、な。 おしまい。 道後関所番
令和三年五月 「水清き宇治に生れて茶摘かな  子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和三年五月の句は「水清き宇治に生れて茶摘かな   子規 」です。

『子規全集』第三巻 俳句三 324頁「俳句稿」(明治三十三 春年)と第十五巻 俳句会稿756頁(明治三十三年四月八日)に掲載されている。
季語は茶摘(春)である。

明治三十三年と云えば子規は根岸の子規庵で病臥していたが、子規庵では句会や歌会がたびたび開かれている。
子規は、この様子を「詩人去れば歌人坐にあり 歌人去れば俳人来たり 永き日暮れぬ」と詠んでいる。

この句会(明治三十三年四月八日)には十七名参加しており盛大であったらしい。

句意は「山紫水明たる京の宇治に生まれて茶摘人である嬉しさよ」である。出席者の誰が宇治生まれか不明だが、最上の挨拶句になっている。
子規さんは宇治を訪ねたことはなかったと思う。

宇治には度々訪れ、宇治川に佇み、平等院を散策し、宇治茶で喉の渇きを癒し、黄檗宗大本山萬福寺まで足を延ばし・・・といった妻との想い出は、遠くに去ってしまった。

子規さんにあやかって一句

 「御湯清き道後に生れて初湯かな  子規もどき 」

(注)「伊予の湯」は大国主命が少彦名命を蘇生させた神湯(御湯)から始まる。 道後関所番

令和三年六月 「打水や ぬれていでたる 竹の月    子規 」
 

子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和三年六月の句は「打水や ぬれていでたる 竹の月   子規 」です。

『子規全集』第一巻 俳句一 277頁「寒山落木 巻二」(明治二十六 夏)に掲載されている。
季語は打水(夏)である。

明治二十六年の夏は、東京では空梅雨で暑い日が続いた。「日録」に拠ると6月7日頃から頭痛が始まり、発熱、医師を迎え、一週間熱が下がらず。    
マラリア性の熱病だったようだ。当時の医学用語で言えば「瘧」(おこり)である。六月一杯、「瘧」が治まらず、月末にも医者を迎えている。

涼しさを求めて、家々で打水をして、しばしの涼を求めたようだ。
  
 打水に 小庭は苔の 匂ひ哉
 打水や ぬれていでたる 竹の月
 打水や 虹を投げ出す 大柄杓
 打水の 力ぬけたる 柳哉
 水うてば 犬の昼寝に とどきけり    

「打水や ぬれていでたる 竹の月」の「打水や」と「竹の月」で情景は思い浮かぶ。戦前派には、幼き日に誰もが経験した生活のひとこまといえよう。
「ぬれていでたる」は説明句であり、正直、秀句とは云いがたい。。他の四句も、大同小異であろう。

子規博掲載の句意は「打水で濡れた若竹を照らす月のなんと美しいことよ、と詠んだ一句です。
水を打つと、水の音と冷たい風が生まれ、その場全体が涼やかになります。
夕方の打水で濡れた竹の葉から落ちる雫を夜の月が煌煌と照らすさまは幻想的で、思わず夏の暑さを忘れる光景です。」

平成生まれには理解不能な世界ではあるまいか。子規句の鑑賞も、昭和、平成、令和と時代が進むと共に難解になってきたようだ。

子規さんにあやかって一句

 「打水や 車の跡が 残りけり  子規もどき 」
令和三年七月 「雨乞の 天までとヾく 願ひかな    子規 」
 

子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和三年七月の句は「雨乞の 天までとヾく 願ひかな   子規 」です。

『子規全集』第三巻 俳句三 514頁「寒山落木 拾遺」(明治二十五 )と第十五巻 俳句会稿 (松山競吟集〔第一回〕明治二十五年七月十五日)75頁に掲載されている。
季語は雨乞(夏)である。

同日は子規は松山に帰省しており、学生であった河東碧梧桐、高浜虚子と3人で俳句を詠んだ。題は、梅干、雨乞、打水、昼顔、風薫るである。

子規の「雨乞」の句を列挙する。

雨乞の 天までとヾく 願ひかな
あま乞や 祈らぬ里に ふりはじめ
雨こひや 天にひヽけと うつ太鼓
雨乞や 次第に近き 雲の脚
雨こひや 絵かきは雨を かひている
雨こひや領分外の 一くもり

25歳の、初歩的な句である。「雨乞」(季語)、「天までとヾく」、「願ひ」の三単語の連結は中学生的発想といえる。
この段階から、近代俳句が成長するのである。

同席の碧梧桐と虚子の句も紹介しよう。

雨乞や たちつくしたる ねはん像    碧梧桐
雨乞は 水無月のものと 極まりて    碧梧桐

雨乞に また出て来たり 雲の峰     虚子
雨乞や 塵外の庵に 友を得たり     虚子


若き日の子規さんにあやかって一句

 「台風一過 コロナの消えし町静か 子規もどき 」
令和三年八月 「朝顔や きのふなかりし 花のいろ  子規 」
 

子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和三年八月の句は「朝顔や きのふなかりし 花のいろ   子規 」です。

『子規全集』第三巻 俳句三 487頁「寒山落木 拾遺」(明治二十一年)と第九巻 初期文集 七草稿 明治二十一年234頁に掲載されている。季語は朝顔(秋)である。

元句は「朝顔や きのふはしらぬ 花のいろ」であるが、抹消して「朝顔や きのふなかりし 花のいろ」としている。

昨日は気付かなかった色の朝顔の花が咲いている。なんとその色の瑞々しいことか。21歳の子規らしい、素直な驚きを句に表現している。

以下は、通説とはまったく違う鑑賞エッセイである。ことしのコロナと猛暑で蟄居中の諸兄姉に、気持ちばかりの涼風をお届けしたい。

明治二十一年は子規にとり第一高等中学校予科から本科一年に進学した年である。

第一高等中学校寄宿舎の束縛からのがれて、夏休みに、三並良、藤野古白の従兄弟3人で向島の長命寺内の「月香楼」<桜餅のしるこ屋>に下宿する。
月香楼の一人娘と子規との噂が立った。子規は噂を取り消すべく、5〜60枚の文章を認め「七草集」に取りまとめ、内藤鳴雪翁、大谷是空、夏目漱石らに回覧している。

「七草集」にある「蕣(あさがお)の巻」に含まれる子規唯一の能作品に登場するシテの女のモデルが月香楼の一人娘「山本陸<ろく>」で、当時15,6歳であった。

「朝顔」を「月香楼の一人娘」に重ねると、昨日までは知ることもなかった小娘が、今朝は胸がときめく娘となった。・・・恋の句になっている。
初恋のときめきは、そのようなものではなかったかと、わが人生を振り返っても思い出す。

来年は米寿を迎える。小・中・高校の同期会を開催して、「朝顔の君」に会いたいものだなあ。

若き日の子規さんにあやかって一句

「色恋は いまだ米寿の 夕涼み   子規もどき」 いやはや
令和三年九月 「秋風や 高井のていれぎ 三津の鯛  子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和三年九月の句は「秋風や 高井のていれぎ 三津の鯛 子規 」です。

『子規全集』第二巻 俳句二 304頁「寒山落木 巻四」(明治二十八年 秋)と第二十一巻 草稿 ノート 88頁 病余漫吟 (明治二十八年 秋)に掲載されている。季語は秋風(秋)である。

「前書き」に「故郷の?鱸くひたしといひし人もありとか」と記載されている。
「?鱸」(じゅんろ)とは「蓴羹鱸膾」(じゅんこうろかい)の略。じゅんさいの吸物とすずきのなますのことで、故郷を思う気持ちの強いこと。中国の張翰の逸話に拠る。
この句は、子規の明治二十八年の出来事と松山人でないとなかなか子規の気持ちを汲むことが出来ないだろう。

従軍記者として大陸に渡り、帰国時喀血して死線をさ迷い、やっと故郷松山で療養帰省する。

死ぬまでに口にしたいという食い気は、子規さんならずとも、誰しも抱く願望だろう。

もっとも時代が違うから今時の人間にはぴったり来ないが、ピリッとした高井のていれぎと脂の乗った三津の鯛が最高の馳走であった。 「故郷の?鱸くひたしといひし人」とはまさに子規さんその人であったろう。

子規の帰省はこれが最後であったが、病床で臥せた子規は、故郷の菓子・煎餅や果物を死ぬまでこよなく愛したことは、彼の日誌からも推察できよう。

子規さんにあやかって、道後人の筆者が一句

(前書き)故郷の温浴がコレラの特効薬といひし人もありとか

   「秋風や 湯ざらし艾 道後の湯   子規もどき」


参考までに「伊予節」の一、二番を披露しておきたい。

伊予節 

(1)伊予の松山 名物名所 三津の朝市 
道後の湯 おとに名高き五色ぞうめん
十六日の初桜 吉田さし桃こかきつばた
高井の里のていれぎや 紫井戸や
片目鮒 うすずみ桜や 緋のかぶら
ちょいと 伊予絣

(2)伊予の 道後の名物名所 四方の景色は
公園地 音に名高き 紅葉の茶屋に
意気な料理は かんにん桜
道後煎餅や 湯ざらし艾
お堀の渕の川柳 冠山や玉の石
さても見事な 碑文石
ちょいと 見やしゃんせ
令和三年十月 「人も居らず 栗はねて 猫を驚かす   子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和三年十月の句は「人も居らず 栗はねて 猫を驚かす   子規 」です。

『子規全集』第二巻 俳句二 568頁「寒山落木 巻五(明治二十九年 秋)に掲載されている。季語は栗(秋)である。

明治二八年、病気養生も兼ねて松山に帰郷し、漱石の下宿先「愚陀仏庵」で五二日間過ごし奈良で遊んで帰京するのだが、その後子規は病臥の生活を送ることとなる。翌二九年には脊椎カリエスが進行し、歩行が困難になる。

食いしん坊の子規だから栗も好きだったと思う。明治二九年の栗の句を列挙する。

「栗飯や 不動参りの 大工連」
「栗落ちて 鼬の道の 絶えてけり」
「栗焼いて 経義争ふ 法師かな」
「落栗に 膝ついて居る 関所かな」
「人も居らず 栗はねて 猫を驚かす」
「怒る栗 笑ふ栗皆 落ちにけり」
「菊一輪 栗三升に 事足りぬ」
「栗飯や 目黒の茶屋の 発句会」 
「雑談の 間に栗の 焼けるべく」
「もてなしに 栗焼くとて妹が やけど哉」  
「(碧梧桐深大寺の栗を携へ来る) いがながら 栗くれる人の 誠哉」

句を味わいながら、栗を焼きながら食べた記憶を探す。記憶では戦前の子供時代である。七輪だったか、琺瑯の器に乗せていたように思う。

実は、最初に背景も知らずに素直に鑑賞したのが下記である。

来客もいない部屋で子規は寝ている。台所で栗を焼いているのだが、突然栗がはねて、近くにいた猫が驚いて子規の傍に駆け寄ってきたということか。居室の火鉢で栗を焼いていたとは想像できないのだが・・・・・

次に11句を列挙してみると、芝居(舞台)の笑いを誘う一場面ではないかとも思う。融通無碍の俳句の世界、まさに俳諧の世界と云えよう。

コンビニやスーパーで「焼き栗」を求めている現代の若い俳人は、明治の栗焼きを想像できるだろうか。子規の明治二九年の栗の句を鑑賞しながら栗を焼く光景が浮かんでくる。

松山近郊の「中山栗」を子規は食べたことがあるのだろうか。妻が健在の時、数年秋に中山を訪ね、、栗林を散策し、栗御膳を賞味し、近くのリゾートホテルに泊まったこともあった。近くの砥部も栗の名産地ではなかったか。

スーパーで栗を炒っているので一袋買い求めて、舌からも俳句鑑賞をすべきか、いやはや。

子規さんにあやかって一句

「神無月 人住まぬ里を 過ぎ急ぐ」
令和三年十一月 「三日月を 相手にあるく 枯野かな   子規 」

子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和三年十一月の句は「三日月を相手にあるく枯野かな   子規 」です。

『子規全集』第一巻 俳句一 41頁「寒山落木 巻一(明治二十四年 秋)に掲載されている。季語は枯野(冬)である。

明治24年といえば、子規の健康だった青春時代である。
俳句選集『猿蓑』や『三傑集』を読む。。芭蕉らの俳句に刺激を受けて、11月3日から三日間、武蔵野を旅する。ちょうど三日月の頃であった。
 3日 蕨の駅で菅笠を求める。(子規庵の柱に掲げられた)。忍、熊谷の小松屋一泊。「常磐豪傑譚」をかき始める。
 4日 「川越客舎」今福屋に一泊。「砧うつ隣に寒きたひね<旅寝>哉」の句を読む。
 5日 吉見の百穴を見物して帰る。
この吟行で写生に開眼を意識したらしい。十数句詠んでいるので下記する。

 (はせを忌)
 頭巾きて 老とよばれん 初しぐれ
 三日月を 相手にあるく 枯野かな
 秋ちらほら 野菊にのこる 枯野哉
 冬かれや 田舎娘の うつくしき
 夕日負ふ 六部背高き 枯野哉
 埋火や 隣の咄 聞いてゐる
 雲助の 睾丸黒き 榾火哉
 子春日や 浅間の煙 ゆれ上る
 木枯や あら緒くひこむ 菅の笠
 巡礼の 笠を霰の はしりかな
   松山百穴
 神の世は かくやありけん 冬籠
 笹の葉の みだれ具合や 雪模様
 しばらくは 笹も動かず 雪模様

 子規博の学芸員西岡美咲さんの解釈は秀逸である。引用させていただく。
 「寒空に細く輝く三日月を相手に子規が歩くのは、草花が枯れ果て人影もない、ひっそりとした枯れ野である。冴えた光は、一面の荒涼な枯れの中に子規の姿を浮かび上がらせます。冬の三日月が枯野の寂寥感を際立たせる一句です。・・・枯野を歩く姿は、俳句探求に花を咲かせようとする四季の意志を感じさせます。」
 「枯野」といえば、芭蕉の「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」
 「俳句探求」といえば、虚子の「春風や 闘志を抱き 丘に立つ」
が口に出た。

子規さんにあやかって駄句を一句

 「老犬を 相手に歩く 蜜柑山  子規もどき」

 日中は道後の生家で過ごしているが、道後祝谷山田部落にある「エデンの園」で夜を過ごしている。コロナの影響で「外泊」が出来ないので、時空とも二分された生活である。夕方帰園する道は、道後から祝谷・伊台に抜ける旧道で、山は蜜柑畑が続く。
 老婆と老犬が夕暮れの山道を歩く。お互いをいたわりあって、老婆は老犬に声を掛け、老犬は振り返って老婆の顔を見て・・・・・ 老いにとって幸せなひとときであろう。
 その後をゆっくりと追いかけ、そして追い越していく。又、明日の夕刻にこの山道で会おうねと老犬を振りかえる。老犬は尻尾を振って見送ってくれる。そんな人生の夕景である。
令和三年十二月 「行く年の雪五六尺つもりけり   子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和三年十二月の句は「行く年の雪五六尺つもりけり    子規 」です。

『子規全集』第二巻 俳句二 351頁「寒山落木 巻四(明治二十八年 冬)と第一五巻 俳句会稿377頁に掲載されている。季語は「行く年」(冬)である。

「俳句会稿」では「行年の」となっているが、感覚としては「行く年の」の方がよかろう。

写生句である。年末になって、雪が五、六尺あまり降りつもったなあという実景であろう。

明治28年1月6日に開催された句会で「行く年」のお題に子規が詠んだものである。鳴雪と虚子が選句している。

後年、『ほととぎす』第十一号(明治30年11月30日発行)の「試問」の仮題に「各地の冬季、新年の風俗習慣を詠む」を提出し、そのなかで子規は、雪国の例句としてこの句を紹介している。(子規博学芸員 稀代将司氏 稿より)

この年四月に従軍記者として清国に出掛け、帰国時に喀血し、以後病が癒えることはなかったが、行く年の雪に新年を期待したのではあるまいか。

筆者は来年「米寿」(数え年)を迎える。
子規さんにあやかって駄句を一句

 「行く年の鐘八十八かぞへけり  子規もどき」

令和四年一月 「初空に 去年の星の 残りかな   子規 」



子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和四年一月の句は「初空に 去年の星の 残りかな    子規 」です。

『子規全集』第二巻 俳句二 162頁「寒山落木 巻四(明治二十八年 新年)と第二一巻 草稿ノート128頁「附明治二十八年俳句草稿補遺」(明治二十八年新春)に掲載されている。季語は「初空」(新年)である。「補遺」では「初空に 去年の星の 残り哉」となっている。

元日の朝、新しい空を仰ぐと、昨夜(大晦日)の星が残っている。同時に、昨年の名残惜しさを感じる。

この句を現代の作と仮定すると、新型ウイルスの対決する医師の真摯な姿と反省と希望を表願した医師自身の句ではないかと思う。そしてそのように思いたい。何とか、今年は新型コロナを克服してほしいものだと思う。

ところで、この句は子規の句である。子規記念博物館 西岡美咲学芸員の作品の背景の解説が手元のあるので借用したい。

 「明治二十七年、新聞「日本」の姉妹誌「小日本」が発刊されると、子規は編集責任者に抜擢され、執筆から企画・編集・寄稿も交渉に至るまで、寝食を惜しむほど熱心に紙面の作成に取り組む。「小日本」は経済的な理由から、半年足らずで廃刊となる。力を入れてきた「小日本」の廃刊は子規は大きく落胆する。・・・志半ばとなった悔しさをバネに、新しい文学の道を力強く進めていく。」

筆者は「米寿」(数え年)を迎えた。子規さんにあやかって駄句を詠んだ。

 「行く年の鐘八十八かぞへけり  子規もどき」

 「星空に除夜の余韻が流れけり  子規もどき」
令和四年二月 「子に鳴いて見せるか雉の高調子   子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和四年二月の句は「子に鳴いて見せるか雉の高調子    子規 」です。

『子規全集』第一巻 俳句一 56頁「寒山落木 巻一(明治二十五年 春)に掲載されている。季語は「雉」(春)である。

「焼け野の雉子(きぎす)、夜の鶴」と古来から歌われているように、雉の親子の情愛は深いものがある。雉の高い鳴き声は危険を知らせるものか、親の所在を知らせるものか、

芭蕉の「父母のしきりに恋し雉子の声」「蛇くふと聞けばおそろし雉子の声」には親子の真の情愛がにじみ出ているが、二十五歳の子規にとっては雉の高調子の鳴き声は進軍ラッパであったのだろうか。

四月に文化大学の遠足で教授、学性一同、狭山、所沢へ旅行しているので、武蔵野の実景かもしれない。

個人的には雉を近くで見たのだ道後動物園だったが、国民学校一年の学芸会の「桃太郎」で雉役で舞台に上がった記憶がある。「学芸会犬猿雉の揃い踏み」である。

子規さんにあやかって一句

 「青葉梟の声静まりぬ子の寝息  子規もどき」
令和四年三月 「のどかさや 杖ついて庭を 徘徊す   子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和四年三月の句は「のどかさや 杖ついて庭を 徘徊す    子規 」です。

『子規全集』第二巻 俳句二 398頁「寒山落木 巻五(明治二十九年 春)に掲載されている。季語は「長閑<のどか>」(春)である。

句会で作者を不明にして鑑賞させれば、恐らく多くの俳人は以下の様な鑑賞をするのではあるまいか。

新型コロナの蔓延化の中で、部屋に閉じこもりがちである。春の陽気に誘われて、(施設の)老人も、杖をついて、三々五々庭園をうろつき、話に興ずる。のどかなひとときである。

句会の宗匠も、同感の意を表するに違いあるまい。それほどに平凡な句であるが、作者が分かると、それなりに解釈が高尚になっていくのは困ったものだ。

子規が詠んだこの句の庭は現存する東京の子規庵の20坪ほどの庭である。「小園の記」「庭」「根岸草蘆記事」などに、この庭の佇まいを書き残している。

子規さんに最大限の皮肉を込めて一言いうと「のどかさや 杖ついて庭を 俳諧す 」と詠んで欲しかった。
「人偏」に「非」の「俳」は「人に非ず」であり、「人間業とは思えない」「類まれな」の意である。「俳」は「俳諧(俳句)」や「俳優」以外には一般的ではない語である。
「徘徊」の「徘」は「行人偏」に「非」であるが「行きつ戻りつ、歩きが定まらぬ」という意であろうか。

70年ほど前のことになるが、松山東高校の国語の授業で中村草田男先輩の「降る雪や明治は遠くなりにけり」に類似する句を宿題に出したら大江健三郎先輩が級友に上句だけを変えた句を配って授業を混乱させたらしい。先輩である渡部克己先生(愛媛大学教授 『子規全集』編集委員)から伺った実話である。たとえば「初雪や」とか「名月や」とか・・・

偉大なる諸先輩にあやかって、松山東高校の母胎(前身)である松山中学校の先輩でもある「正岡常規」兄に数句捧げる。

「のどかさや 杖ついて庭を 徘徊す   子規」   (春)

「薫風や   杖ついて庭を 徘徊す   子規もどき」(夏)

「さわやかや 杖ついて庭を 徘徊す   子規もどき」(秋)

「冬晴れや  杖ついて庭を 徘徊す   子規もどき」(冬)

「初空や   杖ついて庭を 徘徊す   子規もどき」(新年)

久しぶりに道後関所番も俳人気分になりましたわい。いやはや。
令和四年四月 「ふらふらと 行けば菜の花 はや見ゆる   子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和四年四月の句は「ふらふらと 行けば菜の花 はや見ゆる    子規 」です。

『子規全集』第一巻 俳句一 241頁「寒山落木 巻二」(明治二十六年 春)と、第四巻 俳論俳話一 314頁「獺祭書屋俳話付録 俳句」(明治二十八年)に掲載されている。季語は「菜の花」(春)である。

ふらふらと野道を歩いていると、黄色に色づいた菜の花があちらこちらに咲いている。食いしん坊の子規さんは、夕餉の菜の花のおひたしを連想したのかもしれない。平和な、のんびりした春の日常のひとこまである。

子規は明治25年2月29日、駒込追分町から陸羯南の西隣の下谷区上根岸町88番地に移転する。翌年2月に「根岸十二月」と題して詠んだ二月の句である。

 一月 鶯よ名所の声は何となく
 二月 ふらふらと行けば菜の花はや見ゆる
 三月 山桜杉の闇よりもれにけり
 四月 わが庵は汽車の夜嵐時鳥
 五月 古澤や家居の中に鳴く水鶏
 六月 妻よりも妾の多し夕涼み
 七月 朝顔の入谷豆腐の根岸かな
 八月 ありく程の庭は持ちけりけふの月
 九月 菊の垣犬くぐりだけ折れにけり 
 十月 名物の蚊の長生きや神無月
十一月 呉竹の名に音立てゝ霞かな
十二月 掛乞ひに根岸の道を教へけり

一年12句を通して句を鑑賞すれば、子規庵の風情が目に浮かんでくる。子規は根岸近郊を吟行したのであろう。戦前のじじ・ばばには、懐かしい光景である。

子規さんにあやかって一句

「ふらふらと行けばてふてふ先導す   子規」  

令和四年五月 「夕風や 白薔薇の花 皆動く  子規 」



子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和四年五月の句は「 夕風や 白薔薇の花 皆動く   子規 」です。

『子規全集』第二巻 俳句二 507頁「寒山落木 巻五」(明治二十九年 夏)と、第三巻 俳句三 649頁「獺祭書屋俳句帖抄」(明治二十九年 夏)、第十九巻 書簡二  37頁 高浜清(虚子)宛に掲載されている。季語は「薔薇」(夏)である。

明治二五年、初期の作品である。すでに「子規庵」に移っている。下町の夏は蒸し暑い。
夕風が吹いてきた。白薔薇の花が一斉に揺れ動く。夕陽に映える白薔薇の香りと色彩が、庭一面に広がる。病身の子規にとって、この一陣の夕風と白薔薇で、救われた気分になって、穏やかなひとときを過ごしている。食いしん坊の子規さんには、夕餉が待ち遠しいのであろうか。

子規博の学芸員西岡美咲さんの解説によれば、この句の初出は高浜虚子宛書簡(明治二九年六月二〇日)で、四年も経過している。

『早稲田文学』第四二号では、門人である「中野其村」の「夕風や二階に上る夏の月」を紹介し、子規のその「上の一句」の「夕風や」をとって自身のこの句を並べた。子規の「白薔薇」の採り上げで、涼やかな夏の夕べが身近に迫ってくるようだ。
子規は「中の一句を取りて」や「下の一句を取りて」と題して、俳句のつながりを広げている。

子規さんの代表句「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺」は、友人漱石の「鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺  漱石」の「調べを取りて」というべきかな。いやはや。
 
子規さんにあやかって「よもだ句」を一句

「白薔薇の戸に表札のあたらしく  子規もどき」

拙宅界隈は道後温泉界隈から徒歩一〇分くらいの閑静な住宅地である。マンションや戸建ての新築も多いが、内部を改装して庭はそのままでという転居者も結構多い。つい最近のこと、白薔薇の花の咲いた入り口に新しい表札が・・・・
聞けば、市内の有名な医師で、病院は息子の譲って、老夫婦で静かに余生を送りたいとのことである。

「無一物中無尽蔵 有花有月有出湯  一遍もどき」  いやはや。 

令和四年六月 「紫陽花に 絵の具をこぼす 主哉  子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和四年六月の句は「紫陽花に 絵の具をこぼす 主哉  子規 」です。

『子規全集』第二巻 俳句二 260頁「寒山落木 巻四」(明治二十八年 夏)と、第二十一巻 草稿 ノート 68頁 病余漫吟(明治二十八年 夏)に掲載されている。季語は「紫陽花」(夏)である。

「病余漫吟」でこの句の推敲過程が分かる。

元の句は「紫陽花に絵の具こぼせしあるじ哉」である。「こぼせし」が過去形であり、「こぼす」は現在進行形であり、描写の強弱がよくわかる、
「あるじ」と「主」は、上・中・下句の漢字のバランスから見て「主」であろう。

紫陽花はその色の変化が多様で、咲き始めは淡い白っぽい感じだが、緑・青・紫と七変化する。もっとも、地中が酸性なら紫色で、アルカリ性なら青色になるといえば、詩情が吹っ飛んでしまうかな。

明治二八年といえば、子規が神戸病院に入院していた時期であり、病床から紫陽花を終日眺めたのだろう。となると、この主は、必ずしも子規と特定できないが・・・・・

紫陽花の色彩の移ろい、天候や一日の時刻の推移でも目に映る紫陽花の色合いに、誰かが絵の具をこぼしているようだと思ったに違いない。

結核が回復すれば、絵心のある子規さんだけに、自分もまた絵筆を持ちたいと思ったに違いあるまい。

子規さんは、その後、松山に帰省し、愚陀仏庵で漱石と共に五二日間過ごし、再度上京し俳句革新に燃えるが、俳句を通して大自然のキャンバスに十七文字の絵の具をこぼして行ったのは、子規さんその人であった。

子規さんにあやかって「よもだ句」を一句

「紫陽花が 手招く庭や 病み上がり  子規もどき」
令和四年月七月 「夏山のすずみや海は一里先  子規」 ]

子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修フ子規さんの令和四年七月の句は「夏山のすずみや海は一里先   子規 」です。

『子規全集』第一巻 俳句一 440頁「寒山落木 抹消句」(明治二十五年)に掲載されている。季語は「夏山」(夏)である。

今回も抹消句である。なぜ抹消句が子規さんの代表句として紹介されるのか、その意図が分からない。作者としては不満足だから抹消したのではあるまいか。ある意味で子規さんに対する現代人の冒?ではあるまいか。

夏山の、目には青葉の茂る木々の間の山道を登っていく。途中に、爽やかな風が汗で火照った頬を心地よく撫でて通る。(常套句的な表現になったが・・・)誰しも経験する山登りの記憶であろう。

頂上まで登りきって、あるいは途中の木陰かもしれないが、眼下に(一里先に)広がる海を眺めて、開放感に浸る。ひとり歩きもよし、夫婦歩きもよし、ツアー歩きもよしである。

子規さんは、健康な時も、病を患っても、数多くの旅をし、数多くの俳句を詠み。紀行文にまとめている。多くはひとり旅である

松山でいえば、四国霊場五十二番札所 瀧雲山 護持院 太山寺(山)を思い浮かべる。忽那七島も遠望できる。高浜から登っても、堀江から登っても、一汗も二汗もかく山である。
(注)太山寺を大山寺と誤記すると、鳥取の名山「大山」の麓にある「大山寺」になる。

子規さんにあやかって「よもだ句」を一句

「サマーコンサートの夕 宿は一里先  子規もどき」
令和四年月八月 「芭蕉破れて 古池半ば 埋もれり  子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和四年八月句は「芭蕉破(や)れて 古池半ば 埋もれり  子規 」です。

『子規全集』第二巻 俳句二 332頁「寒山落木 巻四」(明治二十八年秋)と第二十一巻 草稿ノート 102頁「病余漫吟(明治二十八年秋)に掲載されている。季語は「芭蕉」(秋)である。

同時期の芭蕉の句が四句ある。

 壁隣 芭蕉に風の わたりけり
 芭蕉四五株 朱蘭の橋の 苔ぬれたり
 黄檗の 山門深き 芭蕉かな
 猿松の 狸を繋ぐ 芭蕉かな

俳人芭蕉の深川の庵室には芭蕉が植えられた。俳号にもなった芭蕉であるが、芭蕉の葉は非常に裂けやすく、その性質から侘び感があり、庭園や寺院の境内に植えられてきた。

この句は明治28年の句で、日清戦争従軍の帰途喀血し、その後,松山で漱石と共に「愚陀仏庵」の50日余を過ごし、帰京し、根岸の自宅で庭を眺めての「想像上の写生句」だろうか。

正直なところ、芭蕉、古池とくれば、誰しも「古池や 蛙飛びこむ 水の音」が浮かぶだろう。その方が素直な鑑賞かも知れない。

同郷の後輩として素直に返句したい。お許しあれ。

 「子規逝きて百年余 古池に夏草   子規もどき 」

令和四年月九月 「海原や 空を離るゝ 天の川  子規 」



子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和四年九月句は「海原や 空を離るゝ 天の川   子規 」です。

『子規全集』第二巻 俳句二 538頁「寒山落木 巻五」(明治二十九年 秋)と第十九巻 書簡二 190頁 「書簡」(明治三十年 高浜清宛)に掲載されている。季語は「天ノ川」(秋)である。

高浜清(虚子)宛の書簡には11句「天の川」の句が併記されている。
 
 三尺の 幅とこそ見れ 天の川
 行行て 左になりぬ 天の川
 海原や 空を離るゝ 天の川
 野の空や ものをはなるゝ 天の川
 膳所越えて 湖水に落ぬ あまの川
 川上ハ 東と見えて 天の川
 立てかけし 杉の丸太や 天の川
 北国の 庇は長し 天の川
 天の川 少しねぢれて 星が飛ぶ
 天の川 山なき国の 真上哉
 複道や 銀河に近き 灯の通ひ

写生(描写)句としては「天の川 少しねぢれて 星が飛ぶ」が秀逸であろう。

夜の静かな海原に空の星々が写って、天の川が夜空を離れて海に流れて来たようだ。天と地が渾然一体となった大自然の中で、我もまた溶け込もうとしている。嗚呼! 

雄大な句である、「天の川」といえば、織姫と牽牛(彦星)の年一度の逢瀬の句が多いが、子規さんは「天の川」そのものを歌い上げている。

子規さんにあやかって、さらにどでっかい句を子規忌(九月十九日)を前にして霊前に捧げたい。

  「天の川 空即是色 白き道   子規もどき」

  (「白き道」とは「二河白道」に拠る。南無阿弥陀仏)
令和四年月十月 「紅葉して 錦に埋む 家二軒  子規 」

子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和四年十月句は「紅葉して 錦に埋む 家二軒   子規 」です。

『子規全集』第一巻 俳句二 367頁「寒山落木 巻五」(明治二十六年 秋)と第十三巻 小説紀行 584頁 「三方旅行」(金衣公行 水晶花見)に掲載されている。季語は「紅葉」(秋)である。

俳句の季語では「紅葉」は、「雪・月・花」、「時鳥」とあわせて「五個の景物」に数えられ、更に「錦」とくれば、下世話調で言えば「居る居るどんどん」であろう。
家一軒は寂しい、三軒なら多すぎる。 与謝蕪村の句に「五月雨や 大河を前に 家二軒」とある。

本句は、新聞「日本」に掲載された「三方旅行」の句で「瀧川紅葉」と前書きがある。「三方旅行」とは日本新聞の記者が「天然界」「実業界」「風俗界」の三方に別れての掲載記事である。

子規は「天然界」を担当し。下記の六句を詠んでいる。云うまでもないが、中国の風光明媚な景勝を描いた「瀟湘八景図」あやかっている。

飛鳥櫻花   花咲て けふや飛鳥の 春七日
大塚夕照   野開きて 夕日のどかに 八百里
豊嶋帰帆   若葉して 白帆つらなる 川一筋
権現森夜雨  聞て居て 涼しや闇の 雨三更
滝川紅葉   紅葉して 錦に埋む 家二軒
狐廟秋月   月満ちて 小豆の飯に 芋一串瀟湘八景
神宮落雁   雁落ちて 冬田に崩す 一文字
筑波暮雪   雪晴れて 筑波我を去る こと三尺

俳句のよる東京散歩でもある。ちなみに「道後八景」を挙げておきたい。地元の俳人がmそれぞれに俳句を詠んでいる。
 
義安寺蛍
奥谷黄鳥
円満寺蛙
冠山杜鵑
御手洗水鷄
湯元蜻蛉
古濠水禽
宇佐田雁  

 日本の片田舎の人気番組に「ぽつんと一軒屋」がある。全国のシニアにとって知名度の高い番組でもある。わが家は町中の「ぽつんと一軒屋」に住んでいるのだが・・・・・

 「『ぽつんと一軒家』紅葉に埋む    子規もどき」
 
 TVの見過ぎ・・「独立自尊」ならぬ「独立自存」で自然と共に生きる同輩への応援歌である。いやはや。
令和四年月十一月 「裏表 きらりきらりと ちる紅葉  子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和四年十一月句は「裏表きらりきらりとちる紅葉   子規 」です。

『子規全集』第一巻 俳句一 171頁「寒山落木 巻一」(明治二十五年 終わりの冬)と第十三巻 小説紀行 519頁 「日光の紅葉」(明治二十五年)、十六巻 俳句選集 571頁 獺祭書屋俳話 選句集 に掲載されている。季語は「散紅葉」(秋)である。

「日光の紅葉」(明治二十五年)に記載されている句のみ「裏表きらりきらりと散紅葉」 となっている。

「散紅葉」は「ちりもみじ」と詠むと思うが、「ちりもみじ」と「ちるもみじ」の情景は随分違うと思うが、俳人はどのように鑑賞しているのだろうか。

「きらりきらり」と散る様は、最高、最上の日本語の表現である。まさに子規さんの写実表現である。裏と表の微妙に異なる紅葉を、おなじ口調で表現できるとは・・・

この句は、明治25年、内藤鳴雪と日光に出掛けた時の旅の句であり、紀行文には数多くの「日光の紅葉」が歌いこまれている。中には、鳴雪翁との掛け合いのような句も散見する。

詳しい説明は割愛して、句をと通して、日光の紅葉と鳴雪翁と子規の旅姿を想像してもらいたい。

 「春の花は見るが野暮なり、秋の紅葉は見ぬが野暮なりと独り諺をこしらへて其言いわけに今年は日光の紅葉狩にと思い付きぬ。先づ鳴雪翁をおとづれてしかじかのよしをいへば翁病の床より飛び起きて我も行かんと勇み給ふ。」


 先生の草鞋も見たり紅葉狩
 日光は杖にするきも紅葉かな

 岩山やさけめさけめの薄紅葉       鳴雪
 すがりつく蔦もかつらも紅葉かな      鳴雪

 紅葉より瀧ちる谷間谷間かな
 中の茶屋はるかに見えて紅葉かな    鳴雪
 紅葉見え瀧見える茶屋の床机かな

 秋の山瀧を残して紅葉かな
 湖をとりまく山の紅葉かな
 石壇や一つ一つに散紅葉
 おくつきを守り申すぞむら紅葉       鳴雪
 神杉や三百年の葛紅葉

子規さんにあやかって一句

  三十年前、妻と中禅寺湖畔に泊る

  「全山の紅葉を映す 湖静寂   子規もどき」
令和四年月十二月 「淋しさもぬくさも冬のはじめ哉  子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和四年十二月句は「淋しさもぬくさも冬のはじめ哉   子規 」です。

『子規全集』第二巻 俳句二 129頁「寒山落木 巻三」(明治二十七年 終わりノ冬)に掲載されている。季語は「初冬」(冬)である。

冬枯れていく辺り一面の光景の淋しさと、冬日和のぬくもり、その対蹠的な大自然のいとなみに冬のはじめを感じます。

実はこの句を読んで、捨聖一遍さんの遊行・賦算の旅の光景が浮かんできました。国宝『一遍聖絵』には踊り念仏が描かれています。念仏で救われた庶民の歓喜の「ぬくもり」まで伝わってきました。

踊り念仏といえば、このたび「ユネスコ無形文化遺産」に登録された「風流踊」の中に佐久「跡部の踊り念仏」も入っています。時代を越えた「ぬくもり」も感じます。一遍さんも驚かれたことでしょう。

話が脱線しました。子規さんに戻ります。

 この句は、明治27年11月26日、子規の散策中の句です。7月に子規が編集責任者を務めた新聞『小日本』が廃刊になり時間的な余裕が出来たのか、毎日のように郊外散策したようです。

 子規は「秋の終わりから冬の初めにかけて毎日のように根岸の郊外を散歩した。そ時はいつでの一冊の手帳と一本の鉛筆を携えて得るに随て俳句を書きつけた。写生的の妙味はこの時に始めてわかったような心持がした」と後に述べています。

子規さんにあやかって一句

「ウイルスの居座る冬の初めかな    子規もどき」

「淋しさもぬくさも冬の遊行かな    一遍もどき」
令和五年月一月 「水仙も 処を得たり 庭の隅  子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和五年一月句は「水仙も 処を得たり 庭の隅   子規 」です。

『子規全集』第三巻 俳句三 123頁「俳句稿」(明治三十年 冬)と第十五巻 俳句会稿 609頁(明治三十年)に掲載されている。季語は「水仙」(冬)である。

 この句の詞書に「新宅祝」とある。明治30年には、高浜虚子が結婚を機に日暮里村に新居を設けたので、句会の題に「新宅祝」とされたのであろう。

虚子の新宅のイメージが湧かないが、寒気の中でも凛と咲く水仙を通して、虚子の門出を祝う子規の気持ちが伝わってくる。

虚子の妻は、河東碧梧桐の「思われ女<ひと>」であったが・・・漱石の「こころ」をイメージする。恋はいつの時代でも苦しいものである。

同句会での「交りは安火<あんか>を贈り祝ひけり」(河東碧梧桐)を虚子が採っている。微妙な友情の世界であろうか。

他の参加者の句も披露しておこう。

新宅を 賀すべく冬至 梅一枝    愚哉

新宅に 春待つ君を なつかしむ   繞石

新宅の 庭に咲きけり 玉椿     春風庵

子規さんにあやかって一句

元旦の時宗宝厳寺にて

「子を抱く庵主の正座 日向ぼこ   子規もどき」

令和五年月二月 「公園の 梅か香くはる 風のむき   子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和五年二月句は「公園の梅か香くはる風のむき   子規 」です。

子規「ノート」に明治22年4月5日付で記入されている。季語は「梅が香」(春)である。この「ノート」であるが、第一高等学校在学中、受講ノートの余白に書いたもので、俳句のほかに和歌、漢詩、小説など多岐に渡っている。

4月5日当日は、6日間の水戸旅行の途中で、梅の名所「偕楽園」を訪ねている。メモでなく受講ノート持参の旅行とは、ほほえましい。

(この項は、子規記念博物館 野口稔里学芸員の解説に拠る。)

月初に当月の子規さん句を確認に子規博に出かける。子規博に「仕掛け」があって、正面玄関の懸垂幕で道行く人にも「子規さんの句」がわかるようにしている。

懸垂幕を眺めて、この句を「公園の梅か 香ぐ 春風の向き  子規」と読んだが、梅と春風との「季重なり」である。凡句だなと感じた。

「公園の 梅が香配る 風の向き  子規」と分るまで、結構な時間がかかった。俳句とは難しい。いやはや。

句意は、公園(偕楽園)の広い園内を歩いていると、梅の香りが風に運ばれてくる。時には鼻につき、時にはほのかに香りが漂う。香りの微妙な変化と風の向きの感覚が、子規さんの鋭い観察眼といえよう。

梅の季節に、学生時代から偕楽園には何回か訪ねたが、水戸烈公や水戸学の歴史に視点があり、折角の梅の香まで味あう余裕はなかった。残念、残念。

子規さんにあやかって一句

「梅の香や 水戸烈公の 潔さ   子規もどき」
パソコンの容量がフルになりましたので、「松山発 子規サロン」第17 「子規さん俳句鑑賞」(続)に令和5年1月度から掲載しています。

令和五年月三月 「大仏のうつらうつらと春日哉  子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和五年三月句は「大仏の うつらうつらと 春日哉   子規 」です。

『子規全集』第一巻 俳句一 193頁「寒山落木 巻二」(明治二十六年 春)と第十三巻 小説 紀行 528頁「鎌倉一見の記」(明治二十六年)、第二十一巻 草稿 ノート 9頁「寒山落木別巻」に掲載されている。季語は「春日」(春)である。

 「寒山落木別巻」では「大仏のうつらうつらと春日哉」であるが、「寒山落木 巻二」「鎌倉一見の記」では「大仏のうつらうつらと春日かな」である。研究は別として、メモ
でなく公表(出版)された作品の句(この場合は「大仏のうつらうつらと春日かな」)を用いるべきであろう。

春のうららかな日に、訪れた(鎌倉)大仏の穏やかな表情はうつらうつらと微睡んでいるようだ。眺める観光客も同様だ。鎌倉市民も、鎌倉も、」ゆったりと春日を楽しんでいる。子規さんも東京への帰途、うつらうつらと微睡んで汽車の旅を楽しんでいる。

この句は「鎌倉一見の記」(明治二十六年)でエッセイとしてまとめているように、保養中の日本新聞社社長「陸羯南」を訪ねた旅の中で詠まれた。

   蛙鳴く 水田の底の 底あかり
   鶯や おもて通りは 馬の鈴
  
    鶯や 左の耳は 馬の鈴
   岡あれば 宮宮あれば 梅の花
   
   家ひとつ 梅五六本 こゝもこゝも
   旅なれば 春なればこの 朝ぼらけ

   陽炎や 小松の中の 古すゝき
   春風や 起きも直らぬ 磯馴松(そなれまつ)

   銀杏とは どちらが古き 梅の花
   陽炎と なるやへり行く 古柱

   鎌倉は 井あり梅あり 星月夜
   歌にせん 何山彼山 春の風

   大仏の うつらうつらと 春日かな
   梅が香に むせてこぼるゝ 涙かな

明治26年当時の鎌倉の春の情景が浮かんでくるようだ。

子規さんは「大仏」が気に入ったのか、前句で大仏を詠んだ句が65句ある。(『子規俳句索引』子規博編)

「鎌倉一見の記」は「泣く泣く鎌倉を去りて再び帰る俗界の中に筆を採りて鎌倉一見の記とはなしぬ」で結んでいる。

子規さんにあやかって一句
 
  妻の七回忌を父子三人で送る   

 「七回忌 うつらうつらと 春暮れる   子規もどき」  道後関所番