| 第二十七章 子規記念博物館「今月の俳句」(懸垂幕)鑑賞 |
| 松山市立子規記念博物館では天野祐吉館長により毎月初子規の句を選句し、垂れ幕に墨書して啓蒙している。最初は奇異な感じがあったが今では心待ちする人も多くなってきた。ふるさと発信を兼ねて松山東高校の同期生のメール仲間に紹介しているのがこの「子規記念博物館『今月の子規俳句』鑑賞」である。私自身松山子規会の理事を務めているが実作経験はあまりない。唯我独尊的な解釈ではあるがお許し願いたい。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 平成20年1月 「婆々さまの話し上手なこたつ哉 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館選句の平成20年1月の子規さんの句は 「婆々さまの話し上手なこたつ哉 子規」 です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 『寒山落木 明治二十九年』(「子規全集」B563頁)に記載されております。「婆々さま」は<ばばさま>で<ばあさま>とは読みません。明治29年といえば、正月は根岸の子規庵で迎え、新年句会に松山に赴任している夏目漱石や軍医学校長森鴎外も来会し、数日置いて秋山真之も三年ぶりに訪ねてきます。漱石や真之との話では松山の話題も弾んだことだろうと思われます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 婆々さまといえば、冬になれば縁側に出て座布団に座って猫を膝に抱っこして着物の仕立て直しをしたりお茶をすすったりといったゆったりした時間の流れを感じます。夜ともなれば炬燵に座って孫たちに昔話を聞かせる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「昔むかしのことじゃけんど、近くの鎮守の杜でなあ・・・」とくると孫たちはあの話かと目を輝かせてくる。「芝居小屋が建ってなあ、見かけない男や女の人が来るんや。子供は可哀想にかどわかされたということじゃが。そこになあ、首の長い〜い女の娘さんや一つ目小僧がおってなあ。」孫たちは筋道は知っているが結末は知らない。婆々さまは孫が眠ってしまうまでお話を続けるのだから。案外婆々さまも結末はご存じないのかもしれない。いやはや。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 最近は新聞では「老女」といい、「グランマ」というハイカラ英語を使わせたり、沖縄ブームで「ぢ〜ぢ、ば〜ば」が普及したりと時代を反映しており、「爺々」「婆々」は死語になってしまいました。私にとっての「爺々・婆々」は森鴎外の短編『ぢいさんばあさん』につきます。ことしも炬燵で目を通すことにしています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ところで子規さんの父(隼人常尚)方の祖母は松山藩士佐伯景影の妻むらですが正岡家から嫁しており、隼人常尚は正岡家の入り婿です。母(八重)方の祖母は儒学者大原観山の妻重(しげ)で、漢学者歌原松陽の長女になります。子規さんの幼馴染の三並良の生家は歌原家です。この句の婆々さまは子規さんの祖母さまなのかどうか詮議してもしなくとも、鑑賞には差し支えないように思えます。鑑賞者が描く身近な婆々さまであってほしいものです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そこで子規さんにあやかって一句 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「爺々さまの鼾の凄きこたつ哉 子規もどき」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ことしも唯我独尊の子規さん俳句を鑑賞し発表させていただきます。引き続き宜しくお願い致します。 道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 【あいあい宗匠から】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 一月も半ばが過ぎ、“歳月矢の如し”を感じますが、皆様には如何お過ごしでございましょうか。瓶一杯に白根を伸ばした水栽培のヒヤシンスが、このところの陽気で緑の三角芽をグンと膨らませ、今にも蕾が覗き始めるのではと、楽しみなこの頃です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 今月の子規記念館懸垂幕俳句は「婆々さまの話し上手なこたつ哉 子規」でした。 今年も関所番さま、お世話様になり感謝申し上げます。新らしい年の最初の懸垂幕句が“爺々さま”でなく“婆々さま”で意を強くしましたが、この婆々さま、 文学者子規を取り巻く婆々さまなら賢く話し上手も当然でしょうね。 この場合の話しとは関所番様の例のように昔話、童話、民話の類なんでしょうね。後に炬燵と来れば尚更。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 当世の孫どもは、「きっちょむさんの団子」から「泣いた赤鬼」「モチモチの木」まで母親が本を読み聞かせているため、振り返ると、婆々さまは話のネタがなく、何時も困ったものでした。ある時、藤村の「椰子の実」をお伽話にアレンジして話していたら、どんなに転がしても、もともと果実は果実、収拾が付かなくなり、終に「とっぴんぱらりのぷー」が出せなくて困った挙句、「これは(島崎藤村)という偉い人の詩で、お伽話ではありませんでした」と白状して逃げきりましたが・・・ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「椰子の実」は渥美半島の恋路が浜に、南の島から黒潮に乗って幾年月の果て流れ着いたのを柳田国男が見て親友の藤村に話したところ、藤村は自分の故郷を離れてさまよう憂いを重ねこの詩を書いた、と、もの の本にあります。「偉大な詩人の作品をお伽話にしようとしたあいあいは所詮お猿の化身でした」の一幕でした。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 掲出句の明治の「婆々さま」は、やはり心和む永遠の理想像ですね。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 【道後関所番から】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「成人の日」が年々移動するのは困ったものですが、今日は「小正月」。改めて「婆々さまの話し上手なこたつ哉 子規」を味わっています。あいあい「婆々さま」の「椰子の実」のお話を「拝聴」しながら、道後関所番「爺々さま」が孫に自信を持って語ったのは「桃太郎」「かちかち山」「金太郎」「一寸法師」・・・といった物語だったことを思い出しました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 今年の「東洋大学 現代学生百人一首」に感動的な歌がありました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 身につまされますなあ。それにしてもなんと優しい現代っ子でしょうか。梅木さんから紹介がありました。さすが教職にあっただけに、若者の純な気持ちに強く感銘を受けられたのでしょう。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| もう一つ、お付き合いしている旧姓与謝野様から先日メールを頂きました。【「婆婆さまの話し上手なこたつ哉」の句に目が留まり、三好様の「子規記念博物館の『今月の俳句』」をクリックしました。我が家の昔の光景が思い出されました。いい句ですね。】ということは、「婆婆さま」は歌人与謝野晶子に当たるのだろうか。急に情熱の歌人・与謝野晶子の老いの姿が身近く感じられた次第。長生きはするものですなあ。いやはや。道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 【月見に一杯さんから】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 昔と違って今ではエアコンやストーブなどの暖房器具で空気自体を暖めているので同じ炬燵に入っていても折角の話し上手な婆々様の話に神経が集中できないのではと心配しながら当時の冷え切った部屋の暖かい炬燵の風景が見えるようです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| <「婆婆さま」は歌人与謝野晶子に当たるのだろうか。急に情熱の歌人・与謝野晶子の老いの姿が身近く感じられた次第。>の件を読んでいて逆に晶子氏の若き日の情熱の生々しい歌を思い出しましたよ。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳(ち)を手にさぐらせぬ」 なんともはやどうもどうも。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 【道後関所番から】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳(ち)を手にさぐらせぬ」。いい歌をご披露有難うございました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 教科書では「君死に給うことなかれ」を教わり反戦歌人としていまだに持てはやされていますが、本質は感情豊かな、11人の子供に恵まれた、麗しき女性であり、肝っ玉母さんであり、話し上手な婆々さんなんですなあ。「初恋の味カルピス」は晶子のコピーとの「伝説」もありますなあ。晶子は昭和17年に亡くなりましたから、先述の旧姓与謝野様は4〜5歳頃だったのだろうと思います。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 晶子の四男(四郎)が太平洋戦争に出征する時に送った歌が残っています。「水軍の大尉となりて我が四郎み軍(いくさ)に往く猛く戦へ」。この歌の方が晶子らしいと思うのですが、如何でしょうか。もっとも文化人と称する輩や良心的と称するマスコミが抹殺したがっている歌ですが、「君死に給うことなかれ」と「水軍の大尉となりて猛く戦へ」を並列して教えれば、人間晶子像がもっとはっきりすると思います。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 蛇足ですが、満州事変後の上海事変では「肉弾三勇士の死を尊い自己犠牲である」と肯定しており、夫である鉄幹は「廟行鎮の夜はふけて」を作詞し、この「肉弾三勇士の歌」は一躍有名になりました。案外晶子「婆々さま」は夫の作詞した軍歌を歌いながら戦争の話をしたのかもしれませんなあ。あいあい宗匠、夢を壊して御免なさ〜い。いやはや。 道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成20年2月 「筆ちびてかすれし冬の日記哉 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館選句の平成20年2月の子規さんの句は 「筆ちびてかすれし冬の日記哉 子規」 です。 季語は(冬・時候)になります。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 『俳句稿 明治三十三年』(「子規全集」B362頁)に記載されています。俳誌『ホトトギス』明治33年3月号の「筆(冬季結)・選者吟 五句」中、第一句が「凍筆をホヤにかざして焦がしけり」で第二句が「筆ちびてかすれし冬の日記哉」です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「行灯のホヤ(火をおおうガラス製の筒)で筆の穂先を焦がして、ちびてしまった筆で日記を書くとかすれてしまった」と第一句と第二句を一気通貫で鑑賞すると、子規さんの苦笑いした滑稽さを感じます。僕が筆を持つのは「御祝」と「御不幸」の時が殆どですが、字がかすれるのは墨が少なくなった時で、ちびた筆を使うと黒々とした筆跡になるのですが、僕だけの経験でしょうか。いやはや。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| やや専門的になりますが、この筆については昭和8年に妹の律さんと河東碧梧桐と対談した「家庭より観たる子規」(全集BP296)で律さんが詳細に語ってくれています。支那筆の「小筌毫」という安筆で、3本に1本ぐらいしか書けない。子規さんは元来細書きですから筆がすぐにちびてしまった。10本纏め買いしても、二ヶ月くらいでおしまいになった由です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 鑑賞に当たって「冬の日記」は絶対に動かない表現です。春でも、夏でも、秋でも平凡な日記になります。「話しじょうずな婆婆さまの昔話」(子規博平成20年1月句)などを思い出しながら、炬燵に入って日記を書く」風情こそ日本そのもの、日本人そのもののように思われます。いかがでしょうか。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 閑話休題 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 明治33年というと子規さんの最晩年に当ります。新聞『日本』の原稿や「俳句分類」や膨大な量の手紙や短冊を、まさに筆一本で書き続けました。ここでいう「明治33年当時の冬の日記」は現在まで発見されていません。) 『松蘿玉液』(明治29年)と『墨汁一滴』(明治34年)『仰臥漫録』(明治34年〜)『病床六尺』(明治35年)の「空白期の冬の日記」とはどのような日記だったのでしょうか。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 翌明治34年の句に「(墨汁一滴を書かんと思ひたちて)筆禿びて帰り咲くべき花もなし」(季語は冬・冬木)を残しています。子規記念博物館で子規さんの揮毫した短冊や、多くの書を眺めますと、どのような墨や筆、和紙を使ったのだろうと思います。僕らの時代は「墨は古梅園」で「小刀は肥後守」と決まっていましたが・・・ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ところで「冬の日記」いや年頭に「筆おろし」した日記や家計簿は続いていますでしょうか。子規さんのように死の床にあっても自己表現を続けた松山の生んだ大先輩にあやかって生きていきたいものです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そこで子規さんにあやかって一句 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「歯のちびし足駄の子らや雪の道 子規もどき 」 いやはや。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成20年3月 「蝶々や順禮の子のおくれがち 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館選句の平成20年3月の子規さんの句は 「蝶々や順禮の子のおくれがち 子規」 です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 季語は(春・蝶)になります。『寒山落木 第一 明治二十五年』(「子規全集」@52頁)に記載されています。新聞「日本」には明治26年9月13日号に掲載されました。明治25年1月30日付の河東碧梧桐宛書簡には「蝶々や順禮の子のおくれ勝」となっています。又『獺祭書屋俳話 附録俳句選句集」(明治28年9月5日)にも記載されています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 春ともなれば四国遍路(順礼)の姿を当地では多く目にするようになる。とは云え子連れの順礼は気になるものである。親の祈りの気持ちとは別に子供は蝶々の飛ぶ様に見とれ追い求める。遅れ勝ちの子は離れた親に気付き慌てて駆けていくといった光景が何度となく繰り返していく。子規さん25歳の若々しい俳句である。と、素直に鑑賞したのだが、実は大きな落とし穴があった。珍しく子規さん自身がこの句を酷評しているので紹介しておきたい。明治29年発行の『獺祭書屋俳話正誤』でこの句を没(抹消)にしているのである。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 【蝶々や順禮の子のおくれがちの一句稗気ありて言ひおほせず。「がち」の二字客観を離れたる処殊に拙し。「おくれ」と終に置きたるも拙し。此句の趣向の上に於て最も眼目とすべきは順禮の子の蝶に戯れ草を摘みなどする処に在るなり。されば親に後るゝもかまはず道草を取るとこそいふべきに、此句道草を取りたるためにおくれたりといふやうに作れり。斯くてはおくれたる事主眼となりて道草は僅かに其原因をあらはすに過ぎざるなり。是れ理屈なり。故に此句を削る。】(「子規全集C337頁) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 実作者の方にこの句の鑑賞と子規さんの解釈についてお伺いしたい。子規さんがこの句を没(削除)にしたのは妥当なのかどうかは僕には全く分からない。同時にこの句を「今月の子規さんの句」として披露した子規記念博物館の見識を高く評価すべきなのか、それとも「よもだぶり」を賞賛すべきなのかも僕には全く分からない。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 個人的には「蝶々や順禮の子のおくれがち 子規」を口にして、川端康成の『伊豆の踊り子』の一高の学生と踊り子の出会いから別れまでの道中の光景が目に浮かんだ。高校時代に読んだ青春小説では川端康成『伊豆の踊り子』、三島由紀夫『潮騒』、若杉慧『エデンの海』が忘れられない。いずれも20代になって映画化され渋谷の安っぽい映画館で見たように記憶している。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そこで子規さんにあやかって一句 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「蝶々や伊豆の踊り子おくれがち 子規もどき」 いやはや。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成20年4月 「内のチョマが隣のタマを待つ夜かな 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館選句の平成20年4月の子規さんの句は「内のチョマが隣のタマを待つ夜かな 子規」 です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 季語は(春・猫恋)ですが、連想ゲームのような季語です。実作者にお聞きしたいのですが、現在でも句会などでは同類の句の季語は「猫恋」として取り扱っておられるのでしょうか。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 『寒山落木 第五 明治二十九年』(「子規全集」A424頁)『獺祭書屋俳句帳抄』(「子規全集」B644頁)『新俳句 春之部』(「子規全集」O256頁)に記載されています。『寒山落木』と『獺祭書屋俳句帳抄』では「(猫恋)内のチョマが隣のタマを待つ夜かな」ですが『新俳句 春之部』では「(猫の恋)うちのちょまが隣のたまを待つ夜かな」と微妙にニュアンスが違っています。尚『新俳句 春之部』は明治31年東京民友社発行で収録俳人598名、総句集4858句(うち子規句509句)です。) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 猫の句といえば平成19年12月の子規博俳句「餅ついて春待顔の小猫かな 子規」の項で 子規の随筆『飯待つ間』(明治32年10月10日執筆)を抜粋して子規さんは猫嫌いではないが妹の律さんは猫嫌いであったことを紹介しましたが、明治29年当時根岸の子規庵では猫(チョマ)を飼っていたのでしょうか。時間の余裕がなく未調査ですが、猫好きな方で子規庵のチョマをご存知であれば是非お知らせください。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 寒中から早春にかけての猫の恋の季節では一匹の雌に数匹の牡が鳴き寄り、赤ん坊のような声を出し、時には牡同士の争いもある。根岸の子規庵のチョマと隣家のタマは既に恋仲なのだろうか。タマの声を待っているのは、チョマもさることながら、横臥する日が多くなった子規さんも同様らしい。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 明治29年には「猫恋」を七句詠んでいます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 110年前の俳句とは思えない恋歌となっています。子規さんの初恋の女性は誰だったのでしょうか。「猫の恋詮索するほど野暮でなし 道後関所番」いやはや。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そこで子規さんにあやかって一句 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「うちまごがそとまごを待つ春休み 子規もどき」 道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成20年5月 「家あって若葉家あって若葉哉 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館選句の平成20年5月の子規さんの句は「家あって若葉家あって若葉哉 子規」 です。季語は(若葉/夏)です。『寒山落木 第二 明治二十七年』(「子規全集」A75頁)に記載されています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| この句を目で見て、口にして簡潔な日本語で歯切れがよかったのですが、子規さんが何処で詠んだのかを理解するのに数分かかりました。家が現れたかと思ったら若葉が現れ、また家が現れ若葉が現れる。走馬灯のような光景というか、絵巻物を見ているようなシーンです。子規さんは汽車に乗って、窓を開けて、心地よい風を車内に取り込みながら、車窓から田舎の村々を眺めているのでしょう。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 汽車のスピード感と田舎と若葉の取り合わせ・・・心憎いほどに旅情を感じさせてくれます。時間と場所の移動を大胆に俳句に取り入れた稀有な句と思うのですが、如何でしょうか。昭和中期までの蒸気機関車は過去の遺物でしょうが、煙の匂いの記憶はいまだに消えることはありません。新幹線世代には絶対に分からない句かもしれません。ざまあ見ろ。いやはや。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ところで子規さんは短い生涯で何回くらい蒸気機関車(汽車)に乗ったのでしょうか。子規会理事の宇和宣さんの調査では長短合わせて51回旅行しています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 1)東京〜神戸間の東海道本線が開通したのは明治22年(1889)ですから、明治16年6月10日三津浜を発った子規の初上京は汽船を利用しました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 2)子規の帰省旅行は前後9回あります。@明治18年7月〜8月A明治20年7月〜8月B明治22年7月〜9月C明治22年12月〜1月D明治23年7月〜8月E明治24年6月〜8月F明治25年7月〜8月G明治28年3月H明治28年8月〜10月<最後の帰省>。他に明治25年11月に母八重と妹律を迎えに神戸に出掛けています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 3)若葉の瑞々しい初夏の旅行とすると明治24年6月25日上野を出発し、軽井沢・長野善光寺・木曽路・木曽川・神戸のコースかもしれません。同じ明治27年に「山に沿ひて汽車走り行く若葉哉」(「子規全集」A75頁)という同趣向の句があります。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ご興味のある方は子規年譜(全集(22))でお調べ頂いたら更に興味ある事実が発見できるかもしれません。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そこで子規さんにあやかって一句 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| (地球温暖化) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「山あって砂漠海あって砂漠哉 子規もどき」 道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| (追って) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 4月末比叡山の若葉を愛でてきました。足が悪くなったので八瀬比叡山口からの登山は断念してケーブルとロープウエイで山頂まで上り、東塔・西塔・横川を半日かけて散策(山策)しました。琵琶湖がよく見え「湖<うみ>あって若葉湖あって若葉哉」の風情でした。子規さんを偲んで「目には青葉山時鳥初鰹 素堂」で軽く一杯やりましょうか。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成20年6月 「五月雨は人の涙と思ふべし 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成20年6月の子規さんの句は「五月雨は人の涙と思ふべし 子規」 です。季語は(五月雨/夏)です。『寒山落木 巻五 明治二十九年』(「子規全集」A479頁)に記載されています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| この句には「海嘯惨澹(かいしょうさんたん)」という題がついています。広辞苑の説明では「【海嘯】満潮が河川を遡る際に、前面が垂直の壁となって、激しく波立ちながら進行する現象。潮津波。【惨澹】いたましく悲しいさま。見るも無残なさま】」です。歴史的な事実としては、明治29年(1896)6月15日に三陸沖地震が発生、大津波が沿岸部を襲い死者は2万数千余りに達しました。その日は陰暦の5月5日に当たります。子規は同時に次の句を残している。題 海嘯三陸の民を害す 「皐月寒し生き残りたるも涙にて」と詠んでいる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 二句を同時に鑑賞すると子規さんの明治三陸地震津波に寄せる思いの激しさ、強さが伝わってきます。明治以降の日本最大の地震・津波被害で気象庁の公式記録では死者は2万1959人の多きを数えます。梅雨寒の雨が降りしきる中、生き残った人にとっても、肉親を失い阿鼻叫喚のまさに地獄絵だったろうと思います。この雨は生き残った人の涙、死者にとっての無念の涙、そして子規さんを含めて日本人すべての哀悼の涙に他ならなかったのでしょう。この句は新聞「日本」の6月29日号に掲載されました。同時代の人は、この地震津波から半月しか経過していませんから、この句を通して改めて地震津波のことを考えたことでしょう。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そして今日只今のわれわれは、グローバルにこの句を味わっている。5月2・3日にミャンマー南部を襲ったサイクロン「ナルギス」はサイクロン被害のみならず全土に及ぶ大洪水で更なる被害を生み、12日には中国 四川省の成都の近郊を震源とする大地震により史上最大規模の人命被害を出している。いまや両国に対して国際的な支援が始まったばかりであり、句の鑑賞は不謹慎でもあり差し控えさして頂こう。ご容赦願いたい。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| この句を「子規さんの今月句」として提供していただいた子規記念博物館関係者に敬意を表しておきたい。子規さんの句が110余年を経ても、「今日の句」として我々の胸を打つ俳句のエネルギーを再確認させていただいた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そこで子規さんにあやかって一句 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| (地球惨澹) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「皐月晴人の涙よ乾くべし 子規もどき」 道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| (参考) 三陸沖は地震の多発地帯であり、主要な地震を列挙する。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 平成20年7月 念仏や蚊にさされたる足の裏 子規 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成20年7月の子規さんの句は「念仏や蚊にさされたる足の裏 子規」です。季語は(蚊/夏)です。『俳句稿 明治三十年 夏』(「子規全集」B57頁)に記載されています。 原句は「念仏や蚊にさゝれたる足の裏」です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| この句には誰しも子供時代の記憶がよみがえるのではないでしょうか。面の皮よりも足の裏の方が厚くて神経も鈍いと思うのですが、結構痛かった記憶があります。お盆の棚経でお寺さんの全く意味不明のお経を聞きながら、早く終わってスイカを食べたい、蝉取りに出掛けたいと思ったものでした。特に「念仏」「蚊」「足の裏」の取り合わせはまさに妙である。一休さんのマンガに出てきそうな一コマである。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ところで30歳になった子規さんにとってのこのシーンは少年時代に祖母や母に連れられて「念仏講」に出掛けた時の記憶ではあるまいか。松山ではすっかり廃れてしまった盆行事であるが、浄土宗の寺院の大広間に檀家が集まり車座になって数珠の大きな輪を回しながら「南無阿弥陀仏」を唱和する。その昔は夜を徹して百万遍となえたのだろうが、いまは1〜2時間が普通である。僕も松山に帰省してから、この行事に参加した。全員の唱和に溶け込んで無我の境地になる。大念仏が終わった後で、我に返って足の裏にさされた蚊に気付く。お盆中は「不殺生」であるから、蚊をそっと逃がしてやる。厳格な家庭であったから、やんちゃの子規さんも、祖母や母の前では戒律を守ったのだろうか。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規庵で机に向かった子規さんに蚊が寄ってきた。ぴしゃりと叩いたと同時に、一瞬このシーンが浮かんだのではないかと、蚊取り線香をくべてワープロを叩いている僕は思った次第である。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そこで子規さんにあやかって一句 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「念仏や蚊も寄りつかぬへちま足 子規もどき」 道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成20年8月 一さじのアイスクリムや蘇る 子規 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成20年8月の子規さんの句は「一さじのアイスクリムや蘇る 子規」です。季語は(アイスクリーム(夏菓)/夏)です。『俳句稿拾遺 明治三十二年』(「子規全集」B571頁)に記載されています。元句は「一匕のアイスクリムや蘇る」です。 初出句は、明治32年8月23日付高浜清(虚子)宛の書簡です。(「子規全集」B571頁) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 明治32年8月23日、珍しく体調が良く、3月以来5ヶ月振りの外出で、神田猿楽町に住む高浜虚子宅を訪れようと人力車で出掛ける。虚子と娘は写真を撮りに出掛けて留守。やがて戻ってくる。アイスクリーム、ベルモットが出て、西洋料理の宴となる。飄亭、雄美も参加し、歌、小説から松山の獅子舞のことまで談笑が尽きない。駿河台、御茶の水、池の端、上野を通って帰宅となる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 虚子宛の礼状が残っているので紹介します。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| この句の背景を知ることによって、子規さんの蘇った「詩と真実」が何かをお分かり頂けたかと思います。それにしても、明治32年当時に突然来訪してアイスクリーム、ベルモット、西洋料理の接待が出来た30歳前の虚子の家庭の水準の高さに驚いた次第である。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 個人的な体験であるが、年数回の上京時に年一度は上野の神保町に降りて、岩波ホールから馴染みの古書店数店に顔を出し「藪」で休憩。駿河台、御茶の水、池の端、不忍池を通って博物館か上野公園を回遊。夜は浅草で「どぜう」か「とんかつ」を食べて寄席で楽しむことが多い。子規さんの世界の追体験をしているようでもある。東京にお住まいの松山人の方には、子規さんの東京の足跡を通して故里を思い出して頂きたいものである。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 松山で始めてアイスクリームを口にしたのは、昭和21年春からである。開店したばかりの大街道の「ロンドン屋」に道後から自転車でアイスクリームを買いに出掛けるのが小学生の僕の勤めであった。肝臓ガンを患った祖母の口に合う数少ない味覚だった。おいしそうに食べては、残りを分けてもらった記憶が鮮明である。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そこで子規さんにあやかって一句 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「一杯の道後麦酒や蘇る 子規もどき」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 松山東高同期会のご同輩、「EAST29」の昨今の低調ぶりを嘆いているひとりです。今月の句は馴染みやすい、結構作りやすい(真似やすい)子規さんの句です。いかがですか、「子規もどきの句」をつくって「EAST29」に披露されませんか。「子規払い」、いや「暑気払い」になりますよ、いやはや。 道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 【那須の宗匠から】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| お暑うございます。 涼しい那須も今日は蒸し暑く日中は30度近くなったのではないでしょうか。18時現在で23℃と凌ぎやすくなりました。 明治中期にアイスクリームを食するとは子規さんはお洒落な生活をしていたのですね。 売り出されたのが7月で、食したのが8月 子規も虚子も流行に敏感だったのでしょうね。尤も敏感な感性が無ければ俳句を完成させることは出来なかったでしょう。 しかし それにしても「大街道のロンドンや・・・」とは懐かしい。氷金時・宇治金時美味しかったですねえあんな美味しい物はありませんでした。10歳年下の弟が廻らない口で「ホッカイドウノドンドンヤ・・・」と云っていたのを思い出しました。今でも「大街道のロンドン屋」は健在なのでしょうか? 一さじのアイスクリーム零すなよ 〜てんこ盛りの氷金時を想い起しながら〜那須のイヤシンボ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 【道後関所番から】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「一さじのアイスクリーム零すなよ」 那須の宗匠の名句拝見しました。<こぼすなよ>と読むのでしょうか。 明治の「伊予の山猿」たちは流行、いや食ファッションに敏感だったのですね。平成の山猿も見習うべきでしょうが、これほど物価が高くなると、食ファッションも「ご飯と漬物・梅干」に戻るのでしょか、いやはや。 「大街道のロンドン屋」は僕が帰郷した時はありましたが、5年ほど前に閉店しました。今、元の場所に「ビッグ ベン」なるビヤホールレストランがあります。ロンドン→ビッグベンですから、資本的には同じ経営者かもしれません。この間の事情をご存知の方は是非お知らせいただきたいものです。 「倫敦は遠しロンドン屋のアイスクリム 漱石もどき」 ところで、こんなホームページをご存知ですか。県外の方も、地元の方も、是非ご覧頂いて薀蓄を傾けられてはいかがですか。ところで道後関所番は如何なる仮面で登場していたかは詮索しないでいただきたい。 【懐古】昔の愛媛はこうじゃった 第一幕 http://machibbs.net/~tyousan/1106573335.html | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成20年9月 枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル 子規 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成20年9月の子規さんの句は「枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル 子規」です。季語は(枝豆/秋)です。『仰臥漫録』明治三十四年九月十三日付(「子規全集」J411〜415頁)に記載されています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 死の一年前の九月の句です。茹でた枝豆の鞘を摘まむとぽんと弾いて口に入る。勢いよく(三寸)飛んで口に入るのは味覚と視覚を楽しませてくれる。面白くて堪らない食いしん坊の子規さんの病臥の姿が浮かんでくるもっとも今どきの枝豆には冷凍輸入物は多いから、三寸は無理で口元でといったビヤホールの風情かもしれない。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| この日は珍しく体調が良かったのか、枝豆の句を十二句詠んでいる・ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 更に興に乗ってか、戯れ歌を作っている | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 枝豆は旧暦8月15日の仲秋の名月にお供えするので「月見豆」とも云うらしい。「枝豆ヤ盆ニ載セタル枝ナガラ」は抹消句としたが、十三夜にひっかけて十三句作ったと思われる。名月の宴を友と、家族で開かれてはいかがでしょうか。僕は子規会の井手康夫会長はじめ有志と毎年石手川で名月観月ならず銘酒酩酊しています。「名月ヤ枝豆ノ林酒ノ池 子規」の実践です。いやはや。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そこで子規さんにあやかって一句 「枝豆ヤ三寸飛ンデ目ニ入ル 子規もどき」 お粗末句です。道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成20年10月 「秋の蚊のよろよろと来て人を刺す 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成20年10月の子規さんの句は「秋の蚊のよろよろと来て人を刺す 子規」です。季語は(秋の蚊/秋)です。『仰臥漫録』明治三十四年九月二十日付(「子規全集」J429頁)と『俳句稿以後』(「子規全集」B426頁)に記載されています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 先月(20年8月度句「枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル」)と同じく死の一年前の九月の句です。鑑賞の余地がないほどの完璧な写生句そのものですが、死の床に伏した子規さんの姿をイメージすると、程なく生を絶つことが運命付けられている「秋の蚊」がよろよろと歩く姿を見て子規は自分の運命と重ね合わしたのでしょうか。自分の膚に針を刺している「秋の蚊」を殺すこともなく眺めて、飛び立つのを待っていたように僕には思われるのです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| この日、「秋の蚊」など秋の句を五句詠んでいます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 当時の東京市全体ではないのでしょうが、根岸あたりでは九月下旬でも蚊帳を吊っていたことを知りました。秋の蚊も「よろよろした蚊」や「飄々とした蚊」も飛んでいるとはまさに俳諧の滑稽さを感じます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 伊庭想太郎は、明治34年(1901年)、政治家・星亨を暗殺して無期徒刑となり、獄中で病死したテロリストですが、徳川育英会幹事、東京農学校校長、日本貯蓄銀行頭取などを歴任した一廉の人物でした。「源左衛門」の横に小さく「伊庭想太郎ヵ」と書かれているのは、蚊が伊庭想太郎のような刺客として自分を刺しにきたと読者に発信したのは、ジャーナリスト正岡子規の面目躍如たるものがある。まさに歴史的な「伊庭想太郎蚊」ですなあ。いやはや。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そこで子規さんにあやかって一句 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「台風のよろよろと来て雨残す 子規もどき」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| お蔭様で秋祭り前々日は終日の雨で、松山の水飢饉は一応解消し、伊佐爾波神社の8台の神輿の鉢合わせも今朝(10月7日)無事終了しました。ご心配をお掛けしましたなあ。 道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成20年11月 「宿とりて淋しき宵や柿を食ふ 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成20年11月の子規さんの句は「宿とりて淋しき宵や柿を食ふ 子規」です。季語は(柿/秋)です。『俳句稿』明治三十二年 秋(「子規全集」B287ページに記載されています。尚、雑誌『世界之日本』32年7月に掲載されていますが、「宿とりさひしき宵や柿を食ふ」になっています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| とここまで書いて、「おやおや、この句は過去に『子規さんの今月句(懸垂幕)』で発表された俳句ではないか」と思い、調べてみたら平成18年9月の発表句でした。子規記念博物館に同じ俳句を掲げていることを連絡しましたガ、なんと子規記念博物館の関係者はどなたも気付かなかった由です。「俳句王国 伊予松山」の名が廃れます。天野祐吉名誉館長しっかりしてくださいな。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| というわけで、申し訳ありませんが2年前の9月に掲示した鑑賞を再掲させていただきます。事情ご賢察の上、ご寛恕下さい。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| そこで子規さんにあやかって一句 おととしと同じ宿屋や柿を食ふ 子規もどき」 子規さん、御免なさい。2年前の柿を食わせてしまいました。いやはや。道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成20年12月 「片側は冬木になりぬ町はつれ 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成20年12月の子規さんの句は「片側は冬木になりぬ町はつれ 子規」です。季語は(冬木/冬)です | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 新聞『日本』明治二十九年一月十三日付「三・即景体」(「子規全集」C417頁)と『寒山落木』(「子規全集」A619頁)に記載されています。発表された 明治29年1月といえば、秋山真之や夏目漱石、森鴎外も根岸の子規庵に顔を出した華やかな年始でした。2月にはカリエスと分かり手術を受けるので、まさにうたかたの華やいだ新春であったのかもしれない。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| (注)「三・即景体」は新聞『日本』に1月7日から4月21日まで断続的に「俳句二十四体」として連載された俳論俳話中、第三話「即景体」のことです。因みに真率体・即興体・即景体・音調体・擬人体・広大体・雄荘体・勁抜体・雅樸体・艶麗体・繊細体・滑稽体・奇警体・妖怪体・祝賀体・悲傷体・流暢体・佶(人偏+告)屈体・天然体・人事体・主観体・客観体・絵画体・神韻体の二十四体に子規は俳句を分類している。研究者や実作者にとっては大いに参考になる俳論ではないかと思います。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 明治期の武蔵野の光景を想像してみる。町並みを通り抜けると、人家もまばらになってくる。武蔵野を吹き荒ぶ木枯らし除けなのだろうか、道の片側の木々だけが冬木になって突っ立っている。道行く人の跡絶えた寒々とした光景が重なって見えてくる。子規自らの解説によると、自然を「天然的客観的」にとらえた句で「即興体に比すれば静止の方に傾けり」としている。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 南国に住まいする者としては疑問も残る。冬木は落葉樹なのか常緑樹なのか、片側だけの冬木とは、もう一方の片側は住居なのか、広場なのか、土手か川なのか。更に冬木は並木なのか、一本だけなのか。英訳俳句によれば「a tree is already bare /on one side / the outskirts of town」で単数(a tree)である。芭蕉の「古池や蛙とびこむ水の音」と同様に一本の冬木と捉えた方が、俳句的虚構としては寂寞とした冬の景になるのではないかと愚考する次第である。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| もっとも子規は同時に六句「冬木」の句を詠んでいる。どうも「天然的客観的」には「あちらこちらに」に「ぼくぼくと」と「ニ三本」ずつ立っていたらしい。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| そこで子規さんにあやかって一句 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「(子規、漱石も訪ねし時宗・宝厳寺参道に佇んで) 北側は冬木になりぬ松ヶ枝町 子規もどき」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規宗匠、この句は真率体・即興体・即景体のうち、どの分類に該当するのでしょうか。いずれにも該当せず「滑稽体」なのでしょうか。いやはや。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| お蔭様で、ことしも「道後発子規さんの句」を毎月ご披露できました。子規記念博物館の竹田美喜館長はじめ全国の子規フアン、俳句フアンの方々から、ご支援、ご高評を頂き有難うございました。よき新年をお迎えになりますように念じております。来年度も引き続き宜しくお願い致します。 道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 【那須の宗匠から】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「片側は冬木になりぬ・・・」とはどの様な風景なのでしょうか?立ち木が片側だけと云うのはなんとなくしっくりしません。やはり並木は道の両側が自然に感じます。私には冬木は一本木でなく並木と思えるのですが如何でしょう。でも並木では句の意味がおかしくなりますね。 「天然的客観的」、「即興体に比すれば・・・・・」解説は難しすぎます。矢張り子規は「天才」だと思います。木立で記憶にある句は松山記念切手シートにあった「汽車道の 一すじ長し 冬木立」です。この冬木立は一本木のように受け止めていましたが迷いが出ています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 【てまり宗匠から】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 俳句は素人の私の描いたイメージは二つ。 一つは新立橋あたりの石手川岸の風景。冬木を落葉樹と勝手に決めての話だけど、南側の川岸に落葉した榎が並んでいます。子どもの頃に新立から西の和泉へ買い出しに行ったこの川沿いの道に松並木があったような記憶があります。残念ながら空襲が怖くてもう片側は記憶にありません。 もう一つは汽車から眺めた見奈良から横河原の風景。線路の片側にずっと続いたクヌギ林は今はほんの少ししかないけど。田んぼの中に点在する広い農家が北西は風を防ぐために常緑樹を植えて、南東は日当たりを良くするために柿なんか植えている風景。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 【道後関所番から】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| てまり宗匠ご指摘の二つの光景を目に浮かべますと、向井潤吉画伯の藁葺き屋根の民家と静まりかえった村々や防風林の画が同時に浮かんできました。 子規さんの【片側は冬木になりぬ町はずれ】の句には、心象風景を浮かび上がらせるだけの「俳句力」があったんだなあとつくづく感じました。見奈良から横河原あたりも、松山市のベッドタウン化して「明治は遠くなりにけり」いや「昭和も遠くなりにけり」になってしまったんでしょうね。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 【月見の宗匠から】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「片側は冬木になりぬ・・・」の三者三様の解釈やイメージ楽しく読まさせて頂きました。 立ち木が一本か並木かで解釈も分かれてくるし風景は勿論違ってくる。 そこで私は次のようなもう一つの風景をイメージしてみました。 今でも武蔵野の風景であったろうと思われる農家の防風林的役割のケヤキの木が並んでいるのを五日市街道沿いによく見ます。 それは各戸一本だったり二本だったり或いは五六本だったり色々です。 ケヤキのような落葉樹もあれば樫の木の様な常緑樹もあります。 前置きが長くなりましたが 例えば町外れに一本と二本が向かい合っている場合や二本が並んで立っていた場合に何れも「片側は・・・」と表現できるのではないだろうかこんな風景は今でも飛び飛びに見ることが出来ます。 勝手な解釈でちょっと的を外しているかも知れません。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 【道後関所番から】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 五日市街道・・・残念ながら土地勘がありませんが、まだまだ武蔵野の風情が残っているんですね。(五日市というと、四国では広島の五日市は身近な町なのですが・・・) 「片側」の捉え方は斬新ですなあ。 関東と四国では「冬木」のイメージが随分違いますから、子規さんも興のおもむくままに、冬木六句を作ったのでしょうか。またひとつ話題が増えました。今後とも俳句エッセイを宜しくお願いします。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成21年1月 「去年の夢さめて今年のうつゝ哉 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年1月の子規さんの句は「去年の夢さめて今年のうつゝ哉 子規」です。季語は(去年今年新年)です。『寒山落木拾遺』明治二十六年に記載されています。 (「子規全集」B535頁) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| この句だけで鑑賞すると、師走の夜にいろいろな夢を見た。が、年が明けてみると、去年今年で特に変わったこともない現実(うつつ)が広がっているというところだろうか。高浜虚子の名句「去年今年貫く棒の如きもの」を知る者にとっては、平凡な理屈っぽい句に思える。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 実は文学史的にはこの句には実に興味深い事実が隠されている。帝国大学文科大学(現・東京大学文学部国文学科)の唯一の同期である菊池壽人が「夢の浮橋」なる狂歌狂文を明治25年の大晦日から新年にかけて執筆、子規に見せたところ、子規は狂歌狂文を読みつつ興に任せて朱で俳句を書き綴っていった。この句を含めて32句残っている。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| この句は壽人の「年と年の終り始めのたは言の 中うち渡す夢の浮橋」に対して子規は「去年の夢さめて今年のうつゝ哉」と朱筆している。ご興味のある方は、菊池壽人著「夢の浮橋」をご覧頂きたい。(「子規全集」D583〜595頁)。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「夢の浮橋」とは『源氏物語』52巻の最終巻であり『宇治十帳』の最終章でもある。今年の初夢に間に合わすべく『源氏物語』の「夢の浮橋」に想いを馳せられてはいかがであろうか。「老いらくの恋」とでるか「高校三年生の悲恋」とでるかは、正に初夢の楽しさであり、夢覚めてうつつに戻る趣向などいかがであろうか。いやはや。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| それにしても子規さんの言葉遊びには「恐れ入りやの鬼子母神」である。そこで子規さんにあやかって一句。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「去年今年布団のなかの夢うつつ 子規もどき」 道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成21年2月 「生垣の外は荒野や球遊び 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年2月の子規さんの句は「生垣の外は荒野や球遊び 子規」です。季語は(荒野/冬)です。『俳句稿』明治三十二年冬に記載されています。 (「子規全集」B308頁) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 明治32年子規33歳の作品です。年譜によれば脊椎カリエスの病状は更に進み、寝返りも不自由になり、包帯の交換が大苦痛で、座ることもままならなくなっています。病室の障子がガラス戸に変り、暖炉が設置されました。このような病室に臥せている子規さんを想像しながらこの句を鑑賞したいと思います。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 身動きのできない子規さんですが、根岸の子規庵の生垣の外から元気な子供たちの「球遊び」(草野球)に興じる声が飛び込んできます。野球好きだった子規さんに去来するのは、予備門(旧制第一高校)や常盤会(松山藩学生寮)や松山に帰省した時城北の練兵場で少年虚子や碧梧桐に教えたベースボールの光景だったのでしょうか。もう一度「球遊び」をしたいなあと願う子規さんの想いが伝わってきます。今では子規庵の周囲は人家が密集していて「生垣の外は荒野」だったとは想像もつきませんが、明治中期は根岸といえども原っぱが広がっていたんですね。季語の制約で原っぱが荒野になったのでしょうか。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 松山に野球を伝えたのは子規さんで、明治22年松山中学校の学生だった碧梧桐にボールとバットを与えて野球を教え、翌23年には虚子にも野球をコーチしています。明治19年にベースボールに「弄球」と訳語をつけ、自分の幼名である升(のぼる)にちなんで「能球」「野球」(ノボール)の雅号をつけています。翌20年には道後公園の広場で勝田主計(愛媛県初の大臣)とキャッチボールをしたことをご存知の方も少なくなりました。「野球王国・愛媛」の原点は道後公園なんですよ。いやはや。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「温泉と城と文学の街・松山」にとって「坊っちゃん球場」の命名はいかがなものだったのでしょうか。「子規記念球場」は永遠に東京都台東区の「財産」になってしまいましたなあ。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そこで子規さんにあやかって一句。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「生垣の外は路地裏羽子を突く 子規もどき」 道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成21年3月 「うたゝ寝に風引く春の夕哉 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年3月の子規さんの句は「うたゝ寝に風引く春の夕哉 子規」です。季語は(春の夕/春)です。『俳句稿』明治三十一年春に記載されています。 (「子規全集」B131頁) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 明治31年子規32歳の作品です。年譜によれば明治31年は比較的病気も安定しており、2月、3月にかけて有名な「歌よみに与ふる書」を10回にわたって「日本」に掲載し、短歌革新を目指して第1回子規庵歌会を開催しています。暖かな日差しに、ついうとうととうたた寝してしまう。目をさますと鼻がうずうずして春風邪をひいてしまったらしい。時代を感じさせない春の風情でしょうし、だれもが経験した記憶があるように気がします。そういえば、50数年前、大学受験の最後の追い込みに入っている時に鼻風邪になって心配したことを思い出しました。いやはや。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「目病み女に風邪ひき男」は江戸時代の「はやり言葉」ですが、風邪ひき男がなんで色っぽいのか分りかねます。特に最近の顔の半分を隠してしまうマスクをつけた性別不詳の若者を見ていると宇宙人の感じすらします。とは云え、流感は三月に入ってぶり返すかもしれません。お雛祭りの甘酒で「うたた寝」という初心な年齢ではないでしょうが、うたゝ寝に呉々もご用心、ご用心です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そこで子規さんにあやかって一句。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「うたた寝に灯火揺れる春の宵 子規もどき」 道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成21年4月 「女生徒の手を繋き行く花見哉 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「四月馬鹿」の「馬鹿陽気」と云いたいのですが、道後は残念ながら「花曇り」で午後から小雨の由、天気予報が最近はよく当るので困っています。お変わりありませんか。昨日、花見で近郊を散策しました。松山神社→常信寺(昼食)→鷺谷・大禅寺跡→宝厳寺→伊佐爾波神社→義安寺→道後公園(湯築城跡)の約6キロコースです。寺も神社も公園も櫻で化粧して綺麗に見えました。公園ではボクシングジムオーナーと文化教室の教師と気が合って一緒に花見酒を楽しみました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年4月の子規さんの句は「女生徒の手を繋き行く花見哉 子規」です。季語は(花見/春)です。『抹消句』明治三十二年春に記載されています。(「子規全集」B478頁) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規33歳の作品です。年譜によれば明治32年春に上野や飛鳥山に花見に出掛けたという記録は残されていません。女学生が手を繋いで愉しく語らいながら上野に花見に出掛ける姿を根岸の子規庵で眺めているのだろうか。「手を繋ぎ行く」シーンにあどけなさの残る少女の姿が浮かんできます。 子規さんが女生徒を歌いこんだ俳句は、この句以外に二句あります。「女生徒の遊びところや絲櫻」(「俳句稿」明治31年)と「女生徒の遊ぶ處や花菫」(「俳句稿」明治31年)です。「絲櫻」はシダレザクラの別称です。もっとも三句とも花に圧倒されて、いい句とは思いませんが・・・ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そこで子規さんにあやかって一句。 「女房と手を繋き行く花見哉 子規もどき」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「の」と「と」の一字の違いで、男女の仲も随分違ってきますなあ。今宵、お連れ合いとご一緒に夜桜見物などいかがでしょうか。いやはや。 道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成21年5月 「短夜や幽霊消えて鶏の声 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年5月の子規さんの句は「短夜や幽霊消えて鶏の声 子規」です。季語は(短夜/夏)です。『寒山落木』明治二十九年夏(「子規全集」A451頁)、『獺祭書俳句帖抄』(B646頁)、『松蘿玉液』(J24頁)、『俳句会稿』N444頁)に記載されています。尚、新聞「日本」(明治29年6月15日付)に掲載されています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 明治29年6月6日子規庵で運座(句会)が開催され、表題は「みしか夜」でした。当日の参加は子規、月我(吉田文夫)、肋骨(佐藤安之助、陸軍少将)、紅緑(佐藤治六、小説家)、虚子、碧梧桐の6名でした。子規にとって、随筆でもこの句に触れておりますので、案外気に入った一句だったのかもしれません。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 夏が近づくと徐々に夜が短くなり一眠りするともう白々と夜が明けてくる。松山と較べて東京は小一時間日の出が早いから偶々に上京すると驚くことがある。ところでこの句であるが、一番鶏の「こけこっこう」という甲高い鳴き声に驚いて幽霊が消え去ると思いがちだが、時系列で味わってこそ俳句の面白みが伝わってくる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 幽霊が暗闇の世界で時を忘れて動き回っていたら早くも夜が明けてきた。慌てふためいて姿が消えてしまった後で、やっと早起きの鶏の時を告げる鳴き声が聞こえてきた。なんとまあ「短夜」になったものよという雰囲気でしょうか。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規さんも結構運座(句会)でのウケを狙って、たとえば、シンデレラの午前零時の魔法解けや夜が明けてくれるなと念じる歌舞伎の八百屋お七と吉三郎の舞台を詠み込んだのかなあとも思いました。連歌などは夜通しの百吟など多いようですが、子規庵での運座も3回も続けると、弟子達は雑魚寝して朝を待つのでしょうか。この時の運座(句会)の句に「短夜を一番汽車の通りけり 虚子」とか「短夜や一番汽車に乗り遅れ 子規」が残っています。いやはや。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そこで子規さんにあやかって一句。 「短夜や鶏の一声遍路道 子規もどき」 道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成21年6月 「六月の海見ゆるなり寺の庭 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年6月の子規さんの句は「六月の海見ゆるなり寺の庭 子規」です。季語は(六月/夏)です。『寒山落木』明治二十八年夏(「子規全集」A218頁)、『病餘漫吟』(子規全集(21)54頁、61頁)に掲載されています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 但し、A218頁と(21)54頁記載句は「寺の庭」ではなく「寺の椽」になっています。「椽」は「広辞苑」によれば「〔音〕テン〔訓〕たるきで、この字は「縁側」の「縁」に当て用いられた」と解説されています。「寺の椽」は「てらのえん」と読むのでしょう。私なら天野祐吉氏とは違って、「六月の海見ゆるなり寺の椽 子規」 を選句したいと思います。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| この句を鑑賞する前に、明治28年の春から秋にかけての子規の動向を把握しておきたいと思います。 明治28年春従軍記者として4月朝鮮に渡り、5月17日帰国の船中で喀血、23日神戸に上陸し県立神戸病院に入院、7月23日同院を退院して須磨保養院に転院する。翌24日、須磨寺へ行き「敦盛蕎麦」を食う。8月20日退院して、岡山、広島を経て24日夜三津浜につく。8月28日から10月17日まで夏目漱石の下宿先「愚陀仏庵」で共同生活。同月19日に三津浜を出航し広島(宇品)に向かう。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 旧暦6月は新暦で7月、子規さんは小康を得て、須磨保養院に移って早速近くにある須磨寺を訪ねています。須磨寺の庭(恐らく本堂の縁側)に佇んで、須磨の海を眺めた時の句でしょう。「敦盛蕎麦」を食べたと記していますから「平家物語」の「須磨の段」が脳裏にあったと思います。子規さんの食欲には驚きです。いやはや。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 私なりに鑑賞してみました。 朝鮮から帰国の途中に喀血し、神戸に上陸後人事不省になり病院に担ぎ込まれ、肉親が駆けつける。生命力のある子規さんは持ち直し、2ヵ月後病院を退院して須磨の結核療養所に移る。須磨寺を散策して、しみじみと生きている自分、生かされている自分のこととともに、17才で若き命を須磨の海に絶った笛の名手でもある平家の公達敦盛と熊谷次郎直実の武士のロマンが甦る。 この海の向こうには、四国が、ふるさと松山が、友人夏目金之助も居る。更に朝鮮への出発直前に拳銃で自決した従兄弟の藤野古白の墓に詣りたい・・・と心に去来するものが次々と浮かんでくる。子規さんは一気に「六月の海見ゆるなり寺の庭」と歌い上げたと思います。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 尋常小学唱歌に「青葉の笛」があり、作詞者は宇和島出身の大和田建樹氏です。いい唱歌ですなあ。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| そこで子規さんにあやかって一句。 「六月の山六月の海を見ゆ 子規もどき」 道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成21年7月 「和歌に痩せ俳句に痩せぬ夏男 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年7月の子規さんの句は「和歌に痩せ俳句に痩せぬ夏男 子規」です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 季語は(夏または夏痩/夏)です。『俳句稿』明治三十三年夏(「子規全集」B389頁)、『俳句会稿』(子規全集(N)785頁)に掲載されています。この句は明治33年7月8日子規庵で詠まれましたが、当日は朝から雨で会者は子規、山田三子、金森匏瓜<ほうか>、田山耕村、鳴珠、矢田挿雲の僅か六名でした。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 明治31年「日本」に「歌よみに与ふる書」を発表し短歌の革新に乗り出した子規さんですが、俳句は湧くように出て来るのですが和歌は苦吟したのでしょうか、それとも己の人生に比し短歌の革新が遠い道程であることを慨嘆しているのでしょうか・・・季語は本来は「夏痩」でしょうが、「夏」でも差し支えありますまい。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| それにしても「夏男」とは、この句では「夏痩せの男」になるのでしょうか。『広辞苑』には掲載されていません。「春男」「夏男」「秋男」「冬男」など聞いたこともありません。こじんまりした句会の雰囲気で座興に「夏男」なる言葉が生れたのでしょう。もし「夏男」なる日本語があるとすれば、榎本其角の「夕涼み よくぞ男に生まれける」 浴衣姿の夏男か、夏祭りで太鼓を叩く無法松的夏男を連想したいですなあ。もっとも「夏女草木の如く痩せにけり」なる句もあるようです。とすると「秋女」は「天高く馬肥ゆるの女」なのでしょうか。いやはや。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 更に深読みすると、7月といえば喀血して衰弱が激しくなる一ヶ月前です。子規さんはやせ細って病床にありましたから、「夏男」は子規さんが自嘲を込めて作った自画像なのかもしれません。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そこで子規さんにあやかって一句。 「痩せ細る骨や愛しき夏男 子規もどき」 道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成21年8月 「夕立や豆腐片手に走る人 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年8月の子規さんの句は「夕立や豆腐片手に走る人 子規」です。季語は(夕立/夏)です。『寒山落木』抹消句・明治二十六年(「子規全集」B389頁)に掲載されています。最近、抹消句が多いのですが、これも「よもだ」の選句でしょうか。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ,この句の鑑賞ですが、明治20年代の東京の下町の風情があまりよく分りませんので「豆腐片手に」のイメージが湧いてきませんが、「豆腐片手に」がキーワードでしょう。それぞれの生活体験から味わって欲しいものです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 明治25年26歳で根岸に家族を呼び寄せ一家を構えた子規さんにとって、家での夕餉は楽しみだったに違いありますまい。夕立は空が曇ったかと思うと急に大粒の雨が降ってきます。さあ、大変だ。遊んでいた子供達も蜘蛛の子を散らすように家に入る。そこを豆腐を片手に走って行く人がいる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「夕立」に「走る人」、互いに競争しているスピード感があります。その上「豆腐片手に」ですから、今にもつぶれそうで慌てている感じがユーモラスです。当今の漫画の一シーンを眺めているようです。子規さんの俳句の滑稽とスピード感の醍醐味が味わえます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 当時は、豆腐を買うときは竹で編んだ豆腐籠を提げていったということですが、「豆腐片手に」の豆腐は手の平に載せているのでしょうか。夕餉に「冷奴」でもと思い立って近くの豆腐屋に出掛けた主婦なのか、右手を肩まで上げて掌に豆腐を載せている酒盛り途中のいなせのあんちゃんなのか・・・いずれにしても、豆腐をつぶさぬように懸命に走っている下町らしい風情ですなあ。いやはや。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そこで子規さんにあやかって一句。 「夕立やケータイ片手に走る人 子規もどき」 道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成21年9月 「羽織着る秋の夕のくさめ哉 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年9月の子規さんの句は「羽織着る秋の夕のくさめ哉 子規」です。季語は(秋の夕/秋)です。『俳句稿』明治三十一年(「子規全集」B183頁)、『俳論俳話二』中「立待月」(「子規全集」D75頁に掲載されています。「立待月」では「羽織着る秋の夕のくさめかな」になっています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| この句は俳話「立待月」冒頭の記述から明治三十一年(1898)陰暦8月17日(新暦では10月2日)夜、上野元光院の観月会に20名集まって筑前琵琶を聴きながら風流を楽しんだ様子を俳句百首で取り纏めています。新聞「日本」の明治31年10月7日号に掲載されました。(注)新聞「日本」10月6日号掲載と記述して本もあります。研究者は原本で確認されたい。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 尚、東叡山寛永寺元光院は、 鴬谷駅から両大師に至る中程(徒歩3分)にあるが、明治期は現在の東京芸術大学の敷地に在った。開基は権僧正長清、寛永年中 (西暦1624〜1643年)備前守神尾元光公により創立。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| この句の鑑賞ですが、秋に入ると釣瓶落しに日が暮れ、風も急に肌寒くなってきます。子規さんは慌てて羽織を羽織ったのでしょうが、残念ながら間に合わず、くさめ(くしゃみ)が止まらなくなったようです。微妙な時間の経過がこの句を面白くしているようです。日暮れ→羽織る→くさめ(くしゃみ)と何気ない日常の動作が、子規さんの手にかかると、このような俳句にまで昇華するのですなあ。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 和歌の世界での「秋の夕」というと、代表的な下記の三句が浮かんできます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| もっとも子規さんは、定家の歌を「歌よみに与ふる書」で、「自分の歌にはろくな者無之「駒とめて袖うちはらふ」「見わたせば花も紅葉も」抔が人にもてはやさるる位の者に有之候」とこき下ろしております。子規さんの「秋の夕」は叙情性が皆無で、あまりにリアルなので恐れ入った次第です。いやはや。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そこで子規さんにあやかって一句。 「マスクする秋の夕のくさめ哉 子規もどき」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 新型インフルエンザが今冬は蔓延するとか。ワクチン摂取の順番ですが、健康な高齢者はかなり遅れることでしょう。関所番も関所を通る旅人からインフルエンザをうつされないよう気をつけます。くれぐれもご留意下さい。 道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 0910 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成21年10月 「押しかけて餘戸でめしくふ秋のくれ 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年10月の子規さんの句は「押しかけて餘戸でめしくふ秋のくれ 子規」です。季語は(秋の暮/秋)です。『寒山落木 拾遺』明治二十五年(「子規全集」B522頁)、『獺祭書屋日記』(「子規全集」M299頁)に掲載されています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 日記の原文を記す。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| これを「翻訳」してみよう。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| この句の「押しかけて他所で飯食う」はまさに日記そのものである。26歳の青年子規さんの「食いしん坊」の面目躍如たるものがある。鳴雪翁のお宅の夕食では故郷伊予松山の献立が食卓を飾ったのだろうか。 問題は「秋の暮」である。「秋の暮れ」というと「暮秋(晩秋)」ととる人もいるだろうが、「秋の夕間暮れ」と感じとる人も多いことだろう。十月下旬といえば、俳句の世界では一月遅れの十一月に相応するから「暮秋(晩秋)」と解釈できるが、清少納言が『枕草紙』で「秋は夕暮」と讃美するように、またミレーの「晩鐘」のアンジェラスの鐘が鳴り響くとバルビゾンの農夫婦が祈りを捧げる光景も捨て難い。実作者はいかがお考えだろうか。「前書き」がなければ「秋の夕間暮れ」で味あうほうが秋の風情に合うように思うのだが・・・ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 『獺祭書屋日記』は一日一句の句日記で、明治25年9月24日から翌年9月23日までの一年間である。 そこで子規さんにあやかって一句 「押しかけて他所で酒飲む秋の暮 子規もどき」道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 追って | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| この調子で「『東の窓』句日記」を作ってみませんか。ご同輩、いかがでござるかな。いやはや。 一日一日と秋の暮れが深まっています。新型インフルエンザの流行が広まりそうです。10月20日の同期会には「マスク無用」で願いたいものである。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成21年11月 「毛布着て毛布買ひ居る小春かな 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年11月の子規さんの句は「毛布着て毛布買ひ居る小春かな 子規」です。季語は(小春/冬)です。『俳句稿以降』明治三十五年(「子規全集」B433頁)、『評論日記(補遺)』(「子規全集」別巻B489頁)に掲載されています。この句は新聞「日本」の明治35年2月2日号に掲載されましたが、掲載句は「着る」が「著る」に変更されて「毛布著て毛布買ひ居る小春かな」となっています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 明治35年といえば、この年の9月19日に36歳で子規さんは死去していますから最晩年の冬の句になります。1月29日の日記が残っていますのでご紹介しましょう。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 同じ日に石井露月宛書状に「一刻モ早ク死ニタイト願ウハヨクヨクノ苦痛アルタメト思ハズヤ」としたためている。この頃から子規の死去まで、虚子や碧梧桐らが根岸の子規庵に交代で日夜介護に訪れています。これらを背景にこの句を鑑賞してみます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規さんの病は急速に悪化してモルヒネなくしては一日も過ごせない。毛布で温かくしているのだが体も冷え切っている。家族が気遣って、この冬を越すためにと更に毛布を買い求めてくれた。ところが皮肉なことに小春日が続いている。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| この句の面白みは「毛布」の語を重ねた滑稽味でしょうか。毛布の持つ温もりが伝わってくるようです。ちなみに東京気象台の記録では明治35年1月26日から29日までは快晴、30日は晴天の日となっています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そこで子規さんにあやかって、今秋巴里で遊んだ不謹慎な一句 「ブランド著てブランド買い居る巴里の秋 子規もどき」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 追って 新型インフルエンザと季節性感冒の大流行の予兆をマスコミが報じています。絶対安全な土地はウイルスのいない南極と北極ですが、こればかりはどうにもなりません。嗽、手洗い、洗面の励行で、後期高齢者予備軍はもっとも安くインフルエンザを切り抜けていきたいものですなあ。いやはや。 道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成21年12月 「占ひのつひにあたらで歳暮れぬ 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年12月の子規さんの句は「占ひのつひにあたらで歳暮れぬ 子規」です。季語は(年の暮/冬)です。『俳句稿』明治三十年冬(「子規全集」B103頁)、『俳句会稿』補遺・十句集(「子規全集」別巻B525頁)に掲載されています。この句は新聞「日本」の明治33年12月31日号「歳暮」に掲載されました。なお、『俳句会稿』では「うらなひの終にあたらで年暮れぬ 子規」となっています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 年の暮れともなると誰しも気忙しくなる。病臥にある子規さんは自分では動くことはないのだが、母や妹、訪ねてくる俳句の仲間の立ち居振る舞いに年の瀬の迫ったことをひしひしと感じる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 正月の占いでは「大吉」とか「病気快癒」とか嬉しいお告げがあったのだろうか。春から夏、そして秋から冬へと季節は移って、とうとう大晦日を迎えてしまった。健康とは縁遠い一年ではあったが、待望の俳誌『ほととぎす』が柳原極堂の手により故里松山で発刊されたことでもあり、いい一年であったとするか。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そこで子規さんにあやかって一句 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「宝くじつひにあたらで歳暮れぬ 子規もどき」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 返句は「それにつけても金の欲しさよ」でしょうか。いやはや。 道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成22年1月 「銭湯を出づる美人や松の内 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成22年1月の子規さんの句は「銭湯を出づる美人や松の内 子規」です。季語は(松の内/新年)。 『俳句稿』明治三十三年新春(「子規全集」B316頁)、『俳句会稿』明治三十三年一月十四日(「子規全集」N721頁)に掲載されています。この句は新聞「日本」の明治34年1月1日号「松の内」、「俳星」明治33年3月10日号に掲載されました。なお、『俳句稿』では「銭湯を出つる美人や松の内 子規」となっています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| この句は明治三十三年一月十四日の新年句会で詠まれました。子規、虚子、碧梧桐、青々ほか18名の参会者があり、「毛布」「礼者」「初荷」「冬の川」「銭湯」[福寿草]「狐狸宴会図」「寒垢離」「初暦」の各題が記録に残っています。碧梧桐の「初荷すや花王石鹸キメチンキ」には思わず噴きだしました。 選句を終えて新年宴会となり、酒、豚汁、刺身、焼肴、口取、飯、香の物が並び、余興に福引、落語、三題噺、茶番などなどで、病床の子規も、痛みを暫し忘れて、笑い転けたことでしょう。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規さんの句は「写生」ですから、実景としてこの句の鑑賞してみます。(よもやとは思いますが) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 湯上りの女性は浮世絵を見ても、ぞくぞくするほどの艶かしい美しさで描かれています。髪洗いの女の姿に心ときめく思いを男性なら誰しも抱いたことでしょう。感受性の強い子規さんなら人並み以上の思いであったとしても当然でしょう。 松の内は関東では七日までですが、家事から開放されてゆったりと銭湯で長湯を楽しみ、肌の手入れをし、洗い髪まで済ませたのかもしれません。銭湯から出てきた女性は美人そのものでした。のどかで華やかな江戸の松の内の風情ですなあ。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 男の目からみると、この美人は見知らぬ女性ではなく顔馴染みの女性で、改めて女らしさを感じたとしたいのですが・・・もっとも勝気な妹の律さんではありますまい。いやはや。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| それにしても子規さんは「食い気」だけでなく、死を前にした晩年でも「色気」も失っていないのには驚きです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そこで子規さんにあやかって一句 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「銭湯を出づれば憂き世松の内 子規もどき」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 添え句は「それにつけても人恋しさよ」でしょうか。いやはや。 道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成22年2月 「一村の梅咲きこぞる二月哉 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成22年2月の子規さんの句は「一村の梅咲きこぞる二月哉 子規」です。季語は(梅 または 二月/春)。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 『寒山落木』明治二十七年春(「子規全集」A22頁)、『俳句を拾ふの記』(「子規全集」L587頁)に掲載されています。この句は新聞「小日本」の明治27年3月24日号に掲載されました。なお、新聞「小日本」は明治27年2月11日に創刊されたばかりで、編集長は弱冠28歳の子規でした。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 細かいことになりますが、『俳句を拾ふの記』では「一村の梅咲きこぞる二月かな」になっていますので引用に当ってはご留意ください。ところで季語は「梅」なのか「二月」なのか迷っています。初心者には「季重ね」となるのでしょうが、実作者はいかにお考えでしょうか。お教えください。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 明治27年3月中旬(日は確定できません)に新聞「小日本」の取材を兼ねて「同宿の高浜虚子をそそのかして」探梅に出掛けました。コースは、千住街道・・・梅島村・・・草加・・・西新井・・・大師堂(梅園・奥の院・茶店)・・・王子(松宇亭)・・・上野です。もっとも、王子から上野までは最終の汽車に乗車しています。紀行文には子規の句が18句、虚子の句が11句載っています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 「一村の梅咲きこぞる二月哉」に詠まれた梅の村は草加から西新井に向かう途中にあり、村一面が梅に埋もれた光景を「写生」したものでしょう。食いしん坊の子規さんのことですから、探梅しながら、草加煎餅をぽりぽり食べ、新井薬師で茶を啜りながら草餅を喰らい、仕上げが王子の松宇亭での懐石でしょうか。残念ながら記録は残っていませんが・・・ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そこで子規さんにあやかって季重ねの一句 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「一村の花咲きこぞる弥生哉 子規もどき」 いやはや。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平成22年3月 「何いそぐ春よりさきに行く君は 子規」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成22年3月の子規さんの句は「何いそぐ春よりさきに行く君は 子規」です。季語は(行く春/春)。『寒山落木』明治二十九年春(「子規全集」A406頁)に掲載されています。前書は「今川某を悼む」。この句が新聞「日本」の明治29年5月9日号に掲載された時には、前書は「今川氏嗣氏を悼む」に変更されている。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 前書から今川氏嗣氏への哀悼の句であることが分かる。同氏は、東京大学農科大学別科に学んだ子規の俳句仲間で、俳号は「虚空」である。闘病中も俳句を友として過ごした。(手元に人名事典がないので後日追記させていただきます。) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| この句は、前年9月に子規が金州から帰国の途中喀血し療養をかねて松山に帰省、漱石と愚陀仏庵で過ごしてから半年、漱石も熊本に旅立ったころの作品である。松山からの帰京以来、子規は病臥を余儀なくされた。子規庵でゆっくりした春の移ろいに浸っていた子規に友の訃報が届く。まだまだ春を堪能していない「君」は何を急いであの世に旅立つたのか、脊椎カリエスに苦しみ死を前にしていた「われ」を追い越して「君」は亡くなってしまった。嗚呼。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 季語は「春」と捉えると詩情(俳趣)は消え失せましょう。「行く春」は季節感としては「まさに終わろうとする春への惜別」であります。言葉に厳密な子規さんだけに、春への惜別と友への惜別が折り重なった俳句となりました。「君」を知っている俳句の仲間たちは、この句を読んで込み上げて来る哀しみの涙を押さえることができなかったろう。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「行く春」といえば芭蕉『奥の細道』の佳句が自然に口に出てくる。 行春や鳥啼き魚の目は泪 行春を近江の人とおしみける | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そこで子規さんと芭蕉翁にあやかって一句 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「何いそぐ旅ぞ春よりさきに行く 子規もどき」 「行く春を歩き遍路とおしみける 芭蕉もどき」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| いやはや。道後関所番 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||