平成29年1月  俳句の盛運を祝す「蓬莱に俳句の神を祭らんか    子規」
平成29年1月  俳句の盛運を祝す「蓬莱に俳句の神を祭らんか    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年12月の句は「蓬莱に俳句の神を祭らんか   子規」です。前書きは「俳句の盛運を祝す」とあります。

明治29年(1896)の作品で、季語は「蓬莱」(正月)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻五 395頁)に掲載されています。

「蓬莱」(ほうらい)は三神山の一つ。中国の伝説で、東海中にあって仙人が住み、不老不死の地とされる霊山。蓬莱山。[史記秦始皇本紀]であるが、ここでは、新年の祝儀に三方の盤上に白米を盛り、上に熨斗鮑のしあわび・伊勢海老・勝栗・昆布・野老ところ・馬尾藻ほんだわら・串柿・裏白・譲葉・橙・橘などを飾ったもの。年賀の客にも饗した。蓬莱飾(ほうらいかざり)を指す。[広辞苑]

句意は、俳句の盛運を祝して、蓬莱飾りに俳句の神を祭ろうという新年の決意であろう。明治29年(1896)は、子規にとって俳句界に手ごたえを感じる年であり、同じ年頭に「今年はと思ふことなきにしもあらず」とも詠んでいる。

「発句始」には松山から帰省中の夏目漱石が出席、第二回運座から軍医学校長森鴎外が来会、高浜虚子、河東碧梧桐、石井露月、佐藤紅緑の「子規門四天王」ら若手が台頭し、「日本派俳句」が飛躍の年を迎えることになる。

もっとも子規自身の健康状態は、28年松山での療養生活を切り上げて上京してから快復しておらず、歩行はままならず、根岸の子規庵での病臥の状態が継続している。

「蓬莱」の句は縁起がよく、毎年の年初には数句詠んでいる。

明治二五年
簑笠を蓬莱にして草の庵
蓬莱の山を崩すや嫁が君
蓬莱の松にさしけり初日の出

明治二六年
動きなき蓬莱山の姿哉
蓬莱の上にしたるる柳哉
蓬莱に我身ちぢめてはいらうよ

明治二七年
三宝に東海南山庵の春
蓬莱に橙の朝日昇りけり
蓬莱や南山の蜜柑東海の鰕
蓬莱の山も動かぬ代なりけり
歯朶の羽蓬莱鶴の如くなり
大内は蓬莱山の姿かな
蓬莱に似たり小窓の松の山
君か家は蓬莱橋をかざし哉

明治二八年
蓬莱に貧乏見ゆるあはれなり
鼠どもの蓬莱をくふてしまひけり
蓬莱に喰ひたきものもなかりけり

明治二九年
蓬莱の小く見ゆる書院かな
蓬莱の陰や鼠のささめ言
蓬莱にすこしなゐふる夜中哉
鶏鳴いて蓬莱の山明けんとす
蓬莱に俳句の神を祭らんか

明治三〇年
三宝に蓬莱の山静かなり
蓬莱のうしろの壁を漏る日哉
大なる蓬莱見ゆる町家哉
蓬莱に根松包むや昔ぶり
蓬莱や上野の山と相対す

明治三一年
蓬莱にテーブル狭き硯哉

明治三二年
かたよせて蓬莱小し梅がもと
蓬莱に一斗の酒を盡しけり
蓬莱の蜜柑ころげし座敷哉
蓬莱の一間明るし歌かるた
蓬莱に我は死なざる今年哉
蓬莱に我生きて居る今年哉
蓬莱のかち栗かちる七日哉
蓬莱にくふべきものを探りけり
蓬莱や名士あつまる上根岸
蓬莱の小さき山を崩しけり
蓬莱の歯朶踏みはづす鼠哉
蓬莱や襖あけたる病の間

明治三三年
蓬莱やふぶきを祝ふ吹雪の句
蓬莱に鼠のうからやから哉
蓬莱の鼠に崇る疫かな

明治三五年
蓬莱に家越車や松の内

ところで、子規さんが詠む「俳句の神」とは一体どのような神なのだろうか。芭蕉か蕪村か天神か八幡か、それとも・・・ 遊行聖一遍、西行ではあるまい。

子規さんにあやかって一句
  
 道後温泉の盛運を祝す
「蓬莱に出雲の神を祭らんか    子規もどき」 道後関所番
平成29年2月 「荷を解けば浅草海苔の匂ひ哉    子規
平成29年2月 「荷を解けば浅草海苔の匂ひ哉    子規

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年1月の句は「荷を解けば浅草海苔の匂ひ哉   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「海苔」(春)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四」179頁 (明治二十八年 春)、第十五巻 俳句会稿「明治二十八年二月十七日於気尾井坂公園 第三回十二人(大会)従軍送別」(明治二十八年)、二十一巻草稿ノート「附明治二十八年俳句草稿補遣」135頁 (明治二十八年春)に掲載されています。

表題にもある通り、日清戦争の従軍記者として大陸(金州、旅順)に出かけることが決まった子規の為に、明治2年2月17日、紀尾井坂公園で送別句会が開催された。総勢十二人(鳴雪・子規・松城・爛腸・酒竹・古白・非風・墨風・可全・虚子・碧梧桐・藪鶯)。

紀尾井坂公園は現在の清水谷公園付近でしょうか。明治11年、明治の元勲 大久保利通が島田一郎らに襲われた「紀尾井坂の変」のあった場所の近くです。個人的には勤務先の東京支社が赤坂に在り、赤坂見附から清水谷公園付近は昼も夜も交遊の場所でした。公園の中に東屋があったのでしょうか。ご存知であればご教示ください。

句意は、荷を解いた瞬間、浅草海苔の匂いがふわっと広がったという光景でしょうか。浅草や日本橋にも近い根岸に住む子規さんの句としては意外な感じです。伊予で荷を解いたのであれば、浅草海苔の匂い、江戸の匂いに共感できるのですが・・・・・

「海苔」の題で下記の句が詠まれています。

「海苔焼て曽我物語聞かばやな   酒竹」
「海苔粗朶の干潟に残る春日哉   碧梧桐」
「此庵に人あり海苔の匂ひかな   松城」
「海苔舟や七砲台の四日月     非風」
「雪晴れや海苔船並ふ羽田沖    不明」
「初旅のわらじにかゝる海苔の味  不明」 
「ヌッと過ぐ海苔干す露地の白帆哉 不明」

翌月の3月3日、子規は新橋から汽車で大阪に向かい、4日大阪で一泊、6日に広島に着く。14日には松山に8度目の帰省をしている。子規が第二近衛師団に従って宇品を出発したのは4月10日であった。

子規さんにあやかって一句
  
「荷を解けば瀬戸の蜜柑の匂ひ哉  子規もどき」 道後関所番
平成29年3月 「雛もなし男許りの桃の宿    子規」
平成29年3月 「雛もなし男許りの桃の宿    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年3月の句は「雛もなし男許りの桃の宿  子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「雛」(春)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四」180頁 (明治二十八年 春)、第十二巻 随筆二 陣中日記 77頁(明治二十八年)、二十一巻草稿ノート 病余漫吟 44頁 (明治二十八年春)に掲載されています。

この句の背景については子規自身が詳しき書いています。

1)「寒山落木」
 日本新聞社楼上に従軍の酒宴を張りて吾を送らる折ふし三月三日なりければ雛もなしといふ題を皆々詠みけるにわれも筆を取りて 二句
 雛もなし男許りの桃の宿
 首途(かどいで)やきぬぎぬをしむ雛もなし
2)「陣中日記」
 正午の頃同僚十余人酒を置て吾を送る。恰も新暦の節句なれば雛もなしといふ題にて人々句を作るに
 雛もなし男許りの桃の酒  
 首途やきぬぎぬをしむ雛もなし
などわれも戯る。
3)「病余漫吟」
 雛もなし男はかりの桃の宿

句に「桃の宿」と「桃の酒」の二種あるが、日本新聞社での送別会の句は「雛もなし男許りの桃の酒」であって、のちにこの句を「桃の宿」として、出発に際しての一夜を「桃の宿」で過ごしたという俳句的虚構にまとめあげたのであろう。もっとも「男許りの桃の宿」では送別の余情はまったく感じられないのだが・・・

日本新聞社壮行会の参加者は福本日南、中村不折、仙田土仏、石井露月、佐藤紅緑、諫早(小林)李坪、斉藤信の7名。
新橋駅から3月3日16時10分発の汽車で広島に向かう。前途を暗示するかのように大雪であった。4日、大阪着。5日、夜21時45分発にて広島に向かい、6日、正午に広島に到着。

子規さんにあやかって一句

 昭和33年3月大学を卒業す 
「桜散る男許りの傘寿会  子規もどき」 道後関所番
平成29年4月 「鶯の籠をかけたり上根岸    子規」
平成29年4月 「鶯の籠をかけたり上根岸    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年4月の句は「鶯の籠をかけたり上根岸  子規」です。

明治30年(1897)の作品で、季語は「鶯」(春)です。『子規全集』第三巻 俳句三「俳句稿」25頁 (明治二十八年 春)に掲載されています。

同じ時期に鶯の句を十数句詠んでいます。

鶯や寺子屋に行く道の藪
楢の木や鶯来鳴く家の北
鶯のうたゝ眼白の眼を妬む
木さへあれば鶯啼くや上根岸
鶯の松になく也寛永寺
我病んで鶯を待つ西枕
梅が枝にあれ鶯が鶯が
鶯の籠をかけたり上根岸
寺町の鶯鳴くや垣つたひ
根岸行けば鶯なくや垣の内
十日ばかり鶯遅し椎の雨

現在の根岸から想像もつきませんが、根岸は江戸時代から「初音の里」と呼ばれるほど鶯が多く、子規庵のあたりは「鶯横町」(うぐいすよこちょう)と呼ばれていたそうです。上記11句から汲み取れる情景は、まさに鶯の里と云えそうです。

明治30年頃は子規は病臥の状態でしたが、子規庵の軒に小鳥籠をかけ、鶉を飼ったり、雀を飼ったりしていたようです。鶯も籠の入れていたことが、この句から分かります。

道後の拙宅の庭にも晩春には里山から鶯が引っ越してきて「ほ ほけきょう」の美声を着かけてくれます。子規も、鶯の声を聞きながら、虚子・碧梧桐と語りあったのでしょうか。

鶯を捕まえたことはないのですが、雀のように、餌でおびき寄せて、籠をパタンと倒して捕えるのでしょうか。ご同輩の子供の頃の話を聞かせていただけませんか。雀は籠に入れても怯えて餌を食べようとしないので、夕方には逃がしてやったものですが・・・・・

子規さんにあやかって一句
「鶯の鳴く方一里道後村  子規もどき」 道後関所番
平成29年5月 「すよすよと舟の側飛ぶ蛍かな   子規
平成29年5月 「すよすよと舟の側飛ぶ蛍かな   子規

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年5月の句は「すよすよと舟の側飛ぶ蛍かな  子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「蛍」(夏)です。『子規全集』第四巻 俳句二「寒山落木」248頁 (明治二十八年 夏)と第二十一巻 草稿ノート67ページに掲載されています。

明治二十八年の蛍の季節といえば6月頃か、子規は従軍記者として大陸に渡り、帰国時船中で喀血し神戸病院に入院したのが5月23日、須磨保養院に移ったのが7月22日であるから、この句が作られたのは神戸であり神戸病院のベッドかもしれない。

子規は、生死のさまよう中で、蛍が闇の中を進む小舟の側を「すよすよ」と飛んでいく幻想をみたのかもしれない。。蛍は子規、あるいは子規の魂かもしれない。飯田蛇笏が芥川龍之介の死を悼み詠んだ「たましひのたとへば秋のほたるかな」を思い出した。

「すよすよと」という言葉は『日本国語大辞典』にもないし『広辞苑』にも載っていない。子規の造語かと思い探索を始める。
「すよすよとのびて淋しや女郎花」(寒山落木巻二 明治二六年秋)
「寒燈明滅小僧すよすよと眠りけり(寒山落木巻二 明治二九年冬)

寒燈明滅の「すよすよ」は、「すやすや」と「そよそよ」の合体か。女郎花の「すよすよ」は「なよなよ」の感じもある。とすると、蛍の句は・・・・・
明治期、松山では「すよすよと」という表現があったのだろうか、非常に興味あることばである。ぜひ、ご意見をお寄せいただきたい。

子規さんにあやかって一句
 妻の死を悼む
「すよすよと吾の側飛ぶほたるかな 子規もどき」 道後関所番
平成29年6月 「温泉上がりに三津の肴のなます哉   子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年6月の句は「温泉上がりに三津の肴のなます哉   子規」です。

明治23年(1890)の作品で、季語は「冲膾」(夏)です。『子規全集』第三巻 俳句三「寒山落木 拾遺」494頁 (明治二十八年)と第十八巻 書簡一 165ページに掲載されています。

明治二十三年八月三日付け「大谷藤治郎(是空)」宛書簡を掲載する。

「此度愈鉄窓の方角士を辞し大阪の大川町の大谷といふ身故まづ大三字といふ役に栄転せられたる処欣抃(きんべん)々々 然るに又もや病魔に襲はれ給ふよし不欣抃(きんべん)々々(差引零となる之を是空といふ) 早く来給へ御馳走して待てゐるよ
    温泉上がりに三津の肴のなます哉 」

子規にとっての「親友」である是空に、ふるさと道後の温泉とふるさと料理で病気の友を励まそうとする、子規の優しい気持ちが感じられる句である。

今も同様であるが、近海物は三津であり、伊予節に「三津の朝市 道後の温泉」とある。

子規さんにあやかって一句
 
「温泉上がりに伊予のみかんと団子哉 子規もどき」 道後関所番
平成29年7月 「夏痩せて大めし喰ふ男かな   子規」
平成29年7月 「夏痩せて大めし喰ふ男かな  子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年7月の句は「夏痩せて大めし喰ふ男かな   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「夏痩」(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四」227頁(明治二十八年)、第十八巻 書簡一 内藤素行宛書簡六月三十日付 555頁、第二十一巻 草稿ノート 病余漫吟(明治二十八年)57頁に掲載されています。

出典により漢字等の使い方が少し違っています。子規博句は「寒山落木」に拠っています。
@「寒山落木」では「夏痩せて大めし喰ふ男かな」
A「書簡」では前書(追々元気づき申し候)があって「夏やせて大めし喰ふ男哉」
B「病余漫吟」では「夏やせて大めし喰ふ男哉」

この句は明治二十八年八月三十日付、内藤素行(鳴雪)宛書簡に添えられた句です。
子規が日清戦争の従軍記者として大陸に渡り帰国の船中で喀血し神戸病院に入院したのが5月22日である。静養の為松山に戻ったのが8月25日である。虚子、碧梧桐が克明に記した「病床日誌」には子規の大食いの記述があるので、回復とともに「食いしん坊」になっていったのであろう。この句は、神戸や須磨の病院での子規自身を呼んだ滑稽句、自嘲句でもあろう。読む人にとっては、子規の快復振りが目に浮かぶ句であったろう。夏痩せというより病痩せであるが・・・

子規さんにあやかって一句

 弥生四日に妻を亡くして百日余
 「夏痩せてバイキング喰ふ寡(やもめ)かな  子規もどき」  道後関所番
平成29年8月「水草の花まだ白し秋の風   子規」
平成29年8月「水草の花まだ白し秋の風   子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年8月の句は「水草の花まだ白し秋の風   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「秋の風」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四」303頁(明治二十八年)、第三巻 俳句三「獺祭書屋俳句帖抄」637頁(明治二十八年 秋)、第十三巻 小説紀行 散策集 613頁、第二十一巻 草稿ノート 病余漫吟(明治二十八年 秋)86頁に掲載されています。前書きは「道後公園」。

この句の初出は「散策集」です。

明治二十八年四月、新聞「日本」の記者として日清戦争に「従軍」し、五月金州から帰航時発病、予後郷里松山に帰郷。52日間愚陀仏庵で漱石と起居を共にする。9月20日から10月7日にかけて五回、松山近郊を松風会のメンバーと吟行する。

「水草の花まだ白し秋の風」は最初の散策時で、同行は柳原極堂(碌堂)である。コースは、愚陀仏庵から玉川町を抜けて、石手川を歩き石手寺で遊ぶ。帰途は、道後に向かい、湯築城址の外堀を巡って持田に出る。

道後公園(湯築城址)は「御竹薮(おたけやぶ)」と呼ばれ一帯は竹林であった。端には、睡蓮の花だろうか、白い水草の花が咲いている。

書き出しの文章は次のように始まる。
「今日はいつになく心地よければ折柄来合せたる碌堂を催してはじめて散歩せんとて愚陀仏庵を立ち出づる程秋の風のそぞろに背を吹てあつからず玉川町より郊外には出でける見るもの皆心行くさまなり」

子規さんらしい写実の描写である。

子規さんにあやかって一句

 送り火 
「亡き妻のうしろ姿や秋の風   子規もどき」  道後関所番
平成29年9月「碌堂といひける秋の男かな   子規
平成29年9月「碌堂といひける秋の男かな   子規

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年9月の句は「碌堂といひける秋の男かな   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「秋」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木」282頁(明治二十八年)、第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟」80ページ(明治二十八年秋)、同じく第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟」120ページ「留送別会」(明治二十八年)に載っています。
「寒山落木」での「前書き」は「碌堂に戯る」、「病余漫吟」では「碌堂におくる」になっています。

同時期に碌堂を詠んだ二句を対句として鑑賞すると、子規と碌堂(柳原極堂)の幼馴染の交友ぶりが彷彿とします。
   碌堂に別る 
  秋三月馬鹿を尽して別れけり
   碌堂に戯る
  碌堂といひける秋の男かな 

 明治二十八年「愚陀仏庵」に寄寓した子規の元に松風会の会員が日毎夜毎集まります。特に熱心だった数人は「日参組」と呼ばれ、その中に碌堂(柳原極堂)も入っています。

この句は、明治二十八年十月十二日、帰京する子規の為に、松山二番町の「花廼屋」(はなのや)で送別会を開催した際、子規が参会者十七名の俳号を詠み込んだ句を作る。この句は、そのうちのひとつです。「留送別会」に書き留めている。

「秋の男」といえば「白秋」である。透明な輝きもあり、惜別にあたっての寂しさも残る。子規、漱石、極堂は慶応二年生まれである。十七名の松風会員の最後を碌堂(極堂)の句で締めたのは、後に残った松風会の活動を碌堂(極堂)に托したのではあるまいか。

同席した漱石への句も披露しておきたい。
   石女(うまずめ)の蕣(むくげ)の花に嗽(うがひ)かな

子規さんにあやかって一句

 妻を偲ぶ
「春雅温妙といひける女かな  子規もどき」  道後関所番
柿喰へば鐘が鳴るなり法隆寺 
平成29年10月「柿喰へば鐘が鳴るなり法隆寺   子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年10月の句は「柿喰へば鐘が鳴るなり法隆寺   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「柿」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木」325頁(明治二十八年 秋)、第三巻 俳句三「獺祭書屋俳句帳抄」633頁(明治二十八年 秋)、第十一巻 随筆一 「病床六尺」369頁 明治三十五年、 第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟」105ページ(明治二十八年秋)に掲載されている。

(注)
1)「前書き」に若干の異同がある。
第二巻「寒山落木」では「法隆寺の茶店に憩ひて」
第二十一巻「病余漫吟」では「法隆寺茶店にて」

2)第十一巻「病床六尺」の文章は下記である。
「柿喰へば鐘が鳴るなり法隆寺 
この句を評して「柿喰ふて居れば鐘鳴る法隆寺」とは何故いはれ無かったであらうと書いてある。これは尤の説である。併しかうなると稍句法が弱くなるかと思ふ。」

子規の代表的な俳句であり、松尾芭蕉の「古池や蛙とびこむ水の音」に次いで、日本人の誰もが記憶し、口にする句です。
書きたいことは山ほどありますが、子規さんに敬意を表して、鑑賞エッセイと「子規もどき俳句」は載せないことにしました。御了承ください。
平成29年11月「芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし   子規」
平成29年11月「芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし   子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年11月の句は「芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし   子規」です。

明治31年(1898)の作品で、季語は「芭蕉忌」(冬)です。『子規全集』第三巻 俳句稿226頁(明治三十一年 冬)に掲載されている。

松尾芭蕉については解説の必要はなかろうが『広辞苑』の説明を念の為掲載する。

「江戸前期の俳人。名は宗房。号は「はせを」と自署。別号、桃青・泊船堂・釣月軒・風羅坊など。伊賀上野に生まれ、藤堂良精の子良忠(俳号、蝉吟)の近習となり、俳諧に志した。一時京都にあり北村季吟にも師事、のち江戸に下り水道工事などに従事したが、やがて深川の芭蕉庵に移り、談林の俳風を超えて俳諧に高い文芸性を賦与し、蕉風を創始。その間各地を旅して多くの名句と紀行文を残し、難波の旅舎に没。句は「俳諧七部集」などに結集、主な紀行・日記に「野ざらし紀行」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」などがある。(1644〜1694)」

『ホトトギス』誌の明治31年12月号の「芭蕉忌・選者吟」に七句掲載されている。
 
 芭蕉忌に何の儀式もなかりけり
 旅に病んで芭蕉忌と書く日記哉
 芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし
 蒟蒻に発句書かばや翁の日
 無落款の芭蕉の像を祭りけり
 芭蕉忌や其角嵐雪右左
 芭蕉忌や吾に派もなく伝もなし

子規は、没後二百年の芭蕉が遺した句のうち秀句は僅かで、多くは悪句、駄句の類と談じているが、子規もまた没後百年を経て「遺した句のうち秀句は僅かで、多くは悪句、駄句の類」とされる。もっとも子規崇拝者は松山には多いが、彼らに対しては、子規の句「芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし」の芭蕉を子規に詠みかえて、煎じて飲めばよかろう。

七句を通して読めば、子規は明らかに芭蕉翁に重ねており、「俳諧の開祖 芭蕉」と「新俳句の創造者 子規」の対比と理解するのは、評者の読み過ぎだろうか。

子規さんにあやかって二句

 「子規忌過ぐ子規子に媚びる人いやし   子規もどき」
 「糸瓜忌や虚子碧梧桐右左         子規もどき」    道後関所番
平成29年12月「唐の春奈良の秋見て冬こもり
平成29年12月「 唐の春 奈良の秋見て 冬こもり   子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年12月の句は「唐の春奈良の秋見て冬こもり   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「冬こもり」(冬)です。『子規全集』第二巻 俳句二 「寒山落木 巻四」361頁(明治二十八年 冬)と第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟」110頁(明治二十八年冬)に掲載されている。

明治28年の句というと、子規にとっては、生涯でもっともドラスチックな一年であった。
春には志願して日清戦争の従軍記者となった子規は、中国に渡り、金州城や遼東半島の各地を訪ねている。講和条約の締結もあり、帰国の船中で喀血し、須磨で療養する。
小康を得て松山に帰郷し、夏目漱石との52日間の「愚陀仏庵」の生活を送る。10月帰京の途中奈良に立ち寄り、東大寺、興福寺、薬師寺、法隆寺を周る。子規の代表句の一つでもある「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、この時の句である。
ほとんど知られていないが「行く秋のわれに神なし仏なし」とか「無着天親その外の仏秋の風」に、俳句としての深みを思えるのは吾一人なのであろうか。

根岸に戻ってからの子規は、亡くなるまで病臥の人となり、旅に出ることは叶わなかった。まさに最後の閃光とでもいうべき印象的な一年間の締めくくりの一句と言えよう。

ここで云う「唐」とは、中国大陸・朝鮮半島を指している。

子規さんにあやかって一句
「江戸の春京の秋見て冬安居   子規もどき」

(補足)早春に妻を喪った。春には上京して櫻を追い求め、秋には上洛して紅葉を愛でるのが老夫婦の楽しみであった。夏は上高地、冬は九州の温泉めぐりであった。この冬は旅する気分にもならず、炬燵を友として冬安居に入ることになるのだろうか。