平成21年1月 「去年の夢さめて今年のうつゝ哉  子規   
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年1月の子規さんの句は「去年の夢さめて今年のうつゝ哉  子規」です。季語は(去年今年新年)です。『寒山落木拾遺』明治二十六年に記載されています。 (「子規全集」B535頁)
この句だけで鑑賞すると、師走の夜にいろいろな夢を見た。が、年が明けてみると、去年今年で特に変わったこともない現実(うつつ)が広がっているというところだろうか。高浜虚子の名句「去年今年貫く棒の如きもの」を知る者にとっては、平凡な理屈っぽい句に思える。
実は文学史的にはこの句には実に興味深い事実が隠されている。帝国大学文科大学(現・東京大学文学部国文学科)の唯一の同期である菊池壽人が「夢の浮橋」なる狂歌狂文を明治25年の大晦日から新年にかけて執筆、子規に見せたところ、子規は狂歌狂文を読みつつ興に任せて朱で俳句を書き綴っていった。この句を含めて32句残っている。
この句は壽人の「年と年の終り始めのたは言の 中うち渡す夢の浮橋」に対して子規は「去年の夢さめて今年のうつゝ哉」と朱筆している。ご興味のある方は、菊池壽人著「夢の浮橋」をご覧頂きたい。(「子規全集」D583〜595頁)。
「夢の浮橋」とは『源氏物語』52巻の最終巻であり『宇治十帳』の最終章でもある。今年の初夢に間に合わすべく『源氏物語』の「夢の浮橋」に想いを馳せられてはいかがであろうか。「老いらくの恋」とでるか「高校三年生の悲恋」とでるかは、正に初夢の楽しさであり、夢覚めてうつつに戻る趣向などいかがであろうか。いやはや。
平成15年 1月分 めでたさも一茶くらいや雑煮餅 明治31年 新年
平成16年 1月分 蒲団から首出せば年の明けて居る 明治30年 新年
平成17年 1月分 一年は正月にあり一生は今にあり 明治30年 新年
平成18年 1月分 今年はと思ふことなきにしもあらず 明治29年 新年
平成19年 1月分 雑煮食ふてよき初夢を忘れけり 明治31年 新年
平成20年 1月分 婆々さまの話し上手なこたつ哉 明治29年 冬
それにしても子規さんの言葉遊びには「恐れ入りやの鬼子母神」である。そこで子規さんにあやかって一句。
「去年今年布団のなかの夢うつつ   子規もどき」   道後関所番
平成21年2月 「生垣の外は荒野や球遊び  子規」   
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年2月の子規さんの句は「生垣の外は荒野や球遊び  子規」です。季語は(荒野/冬)です。『俳句稿』明治三十二年冬に記載されています。 (「子規全集」B308頁)
明治32年子規33歳の作品です。年譜によれば脊椎カリエスの病状は更に進み、寝返りも不自由になり、包帯の交換が大苦痛で、座ることもままならなくなっています。病室の障子がガラス戸に変り、暖炉が設置されました。このような病室に臥せている子規さんを想像しながらこの句を鑑賞したいと思います。
身動きのできない子規さんですが、根岸の子規庵の生垣の外から元気な子供たちの「球遊び」(草野球)に興じる声が飛び込んできます。野球好きだった子規さんに去来するのは、予備門(旧制第一高校)や常盤会(松山藩学生寮)や松山に帰省した時城北の練兵場で少年虚子や碧梧桐に教えたベースボールの光景だったのでしょうか。もう一度「球遊び」をしたいなあと願う子規さんの想いが伝わってきます。今では子規庵の周囲は人家が密集していて「生垣の外は荒野」だったとは想像もつきませんが、明治中期は根岸といえども原っぱが広がっていたんですね。季語の制約で原っぱが荒野になったのでしょうか。
松山に野球を伝えたのは子規さんで、明治22年松山中学校の学生だった碧梧桐にボールとバットを与えて野球を教え、翌23年には虚子にも野球をコーチしています。明治19年にベースボールに「弄球」と訳語をつけ、自分の幼名である升(のぼる)にちなんで「能球」「野球」(ノボール)の雅号をつけています。翌20年には道後公園の広場で勝田主計(愛媛県初の大臣)とキャッチボールをしたことをご存知の方も少なくなりました。「野球王国・愛媛」の原点は道後公園なんですよ。いやはや。
「温泉と城と文学の街・松山」にとって「坊っちゃん球場」の命名はいかがなものだったのでしょうか。「子規記念球場」は永遠に東京都台東区の「財産」になってしまいましたなあ。
そこで子規さんにあやかって一句。
「生垣の外は路地裏羽子を突く  子規もどき」   道後関所番
平成21年3月 「うたゝ寝に風引く春の夕哉  子規」   
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年3月の子規さんの句は「うたゝ寝に風引く春の夕哉  子規」です。季語は(春の夕/春)です。『俳句稿』明治三十一年春に記載されています。 (「子規全集」B131頁)
明治31年子規32歳の作品です。年譜によれば明治31年は比較的病気も安定しており、2月、3月にかけて有名な「歌よみに与ふる書」を10回にわたって「日本」に掲載し、短歌革新を目指して第1回子規庵歌会を開催しています。暖かな日差しに、ついうとうととうたた寝してしまう。目をさますと鼻がうずうずして春風邪をひいてしまったらしい。時代を感じさせない春の風情でしょうし、だれもが経験した記憶があるように気がします。そういえば、50数年前、大学受験の最後の追い込みに入っている時に鼻風邪になって心配したことを思い出しました。いやはや。
「目病み女に風邪ひき男」は江戸時代の「はやり言葉」ですが、風邪ひき男がなんで色っぽいのか分りかねます。特に最近の顔の半分を隠してしまうマスクをつけた性別不詳の若者を見ていると宇宙人の感じすらします。とは云え、流感は三月に入ってぶり返すかもしれません。お雛祭りの甘酒で「うたた寝」という初心な年齢ではないでしょうが、うたゝ寝に呉々もご用心、ご用心です。
そこで子規さんにあやかって一句。
「うたた寝に灯火揺れる春の宵  子規もどき」   道後関所番
平成21年4月 「女生徒の手を繋き行く花見哉  子規」   
「四月馬鹿」の「馬鹿陽気」と云いたいのですが、道後は残念ながら「花曇り」で午後から小雨の由、天気予報が最近はよく当るので困っています。お変わりありませんか。昨日、花見で近郊を散策しました。松山神社→常信寺(昼食)→鷺谷・大禅寺跡→宝厳寺→伊佐爾波神社→義安寺→道後公園(湯築城跡)の約6キロコースです。寺も神社も公園も櫻で化粧して綺麗に見えました。公園ではボクシングジムオーナーと文化教室の教師と気が合って一緒に花見酒を楽しみました。
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年4月の子規さんの句は「女生徒の手を繋き行く花見哉  子規」です。季語は(花見/春)です。『抹消句』明治三十二年春に記載されています。(「子規全集」B478頁)
子規33歳の作品です。年譜によれば明治32年春に上野や飛鳥山に花見に出掛けたという記録は残されていません。女学生が手を繋いで愉しく語らいながら上野に花見に出掛ける姿を根岸の子規庵で眺めているのだろうか。「手を繋ぎ行く」シーンにあどけなさの残る少女の姿が浮かんできます。
子規さんが女生徒を歌いこんだ俳句は、この句以外に二句あります。「女生徒の遊びところや絲櫻」(「俳句稿」明治31年)と「女生徒の遊ぶ處や花菫」(「俳句稿」明治31年)です。「絲櫻」はシダレザクラの別称です。もっとも三句とも花に圧倒されて、いい句とは思いませんが・・・
そこで子規さんにあやかって一句。
「女房と手を繋き行く花見哉  子規もどき」 
「の」と「と」の一字の違いで、男女の仲も随分違ってきますなあ。今宵、お連れ合いとご一緒に夜桜見物などいかがでしょうか。いやはや。   道後関所番
平成21年5月 「短夜や幽霊消えて鶏の声  子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年5月の子規さんの句は「短夜や幽霊消えて鶏の声  子規」です。季語は(短夜/夏)です。『寒山落木』明治二十九年夏(「子規全集」A451頁)、『獺祭書俳句帖抄』(B646頁)、『松蘿玉液』(J24頁)、『俳句会稿』N444頁)に記載されています。尚、新聞「日本」(明治29年6月15日付)に掲載されています。 
明治29年6月6日子規庵で運座(句会)が開催され、表題は「みしか夜」でした。当日の参加は子規、月我(吉田文夫)、肋骨(佐藤安之助、陸軍少将)、紅緑(佐藤治六、小説家)、虚子、碧梧桐の6名でした。子規にとって、随筆でもこの句に触れておりますので、案外気に入った一句だったのかもしれません。
夏が近づくと徐々に夜が短くなり一眠りするともう白々と夜が明けてくる。松山と較べて東京は小一時間日の出が早いから偶々に上京すると驚くことがある。ところでこの句であるが、一番鶏の「こけこっこう」という甲高い鳴き声に驚いて幽霊が消え去ると思いがちだが、時系列で味わってこそ俳句の面白みが伝わってくる。
幽霊が暗闇の世界で時を忘れて動き回っていたら早くも夜が明けてきた。慌てふためいて姿が消えてしまった後で、やっと早起きの鶏の時を告げる鳴き声が聞こえてきた。なんとまあ「短夜」になったものよという雰囲気でしょうか。
子規さんも結構運座(句会)でのウケを狙って、たとえば、シンデレラの午前零時の魔法解けや夜が明けてくれるなと念じる歌舞伎の八百屋お七と吉三郎の舞台を詠み込んだのかなあとも思いました。連歌などは夜通しの百吟など多いようですが、子規庵での運座も3回も続けると、弟子達は雑魚寝して朝を待つのでしょうか。この時の運座(句会)の句に「短夜を一番汽車の通りけり  虚子」とか「短夜や一番汽車に乗り遅れ  子規」が残っています。いやはや。
そこで子規さんにあやかって一句。
「短夜や鶏の一声遍路道  子規もどき」  道後関所番
平成21年6月 「六月の海見ゆるなり寺の庭  子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年6月の子規さんの句は「六月の海見ゆるなり寺の庭  子規」です。季語は(六月/夏)です。『寒山落木』明治二十八年夏(「子規全集」A218頁)、『病餘漫吟』(子規全集(21)54頁、61頁)に掲載されています。
 但し、A218頁と(21)54頁記載句は「寺の庭」ではなく「寺の椽」になっています。「椽」は「広辞苑」によれば「〔音〕テン〔訓〕たるきで、この字は「縁側」の「縁」に当て用いられた」と解説されています。「寺の椽」は「てらのえん」と読むのでしょう。私なら天野祐吉氏とは違って、「六月の海見ゆるなり寺の椽  子規」 を選句したいと思います。
この句を鑑賞する前に、明治28年の春から秋にかけての子規の動向を把握しておきたいと思います。
明治28年春従軍記者として4月朝鮮に渡り、5月17日帰国の船中で喀血、23日神戸に上陸し県立神戸病院に入院、7月23日同院を退院して須磨保養院に転院する。翌24日、須磨寺へ行き「敦盛蕎麦」を食う。8月20日退院して、岡山、広島を経て24日夜三津浜につく。8月28日から10月17日まで夏目漱石の下宿先「愚陀仏庵」で共同生活。同月19日に三津浜を出航し広島(宇品)に向かう。
旧暦6月は新暦で7月、子規さんは小康を得て、須磨保養院に移って早速近くにある須磨寺を訪ねています。須磨寺の庭(恐らく本堂の縁側)に佇んで、須磨の海を眺めた時の句でしょう。「敦盛蕎麦」を食べたと記していますから「平家物語」の「須磨の段」が脳裏にあったと思います。子規さんの食欲には驚きです。いやはや。
私なりに鑑賞してみました。
朝鮮から帰国の途中に喀血し、神戸に上陸後人事不省になり病院に担ぎ込まれ、肉親が駆けつける。生命力のある子規さんは持ち直し、2ヵ月後病院を退院して須磨の結核療養所に移る。須磨寺を散策して、しみじみと生きている自分、生かされている自分のこととともに、17才で若き命を須磨の海に絶った笛の名手でもある平家の公達敦盛と熊谷次郎直実の武士のロマンが甦る。
この海の向こうには、四国が、ふるさと松山が、友人夏目金之助も居る。更に朝鮮への出発直前に拳銃で自決した従兄弟の藤野古白の墓に詣りたい・・・と心に去来するものが次々と浮かんでくる。子規さんは一気に「六月の海見ゆるなり寺の庭」と歌い上げたと思います。
尋常小学唱歌に「青葉の笛」があり、作詞者は宇和島出身の大和田建樹氏です。いい唱歌ですなあ。
一の谷の 軍破れ
討たれし平家の 公達あはれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞えしは これか 青葉の笛
そこで子規さんにあやかって一句。
「六月の山六月の海を見ゆ  子規もどき」   道後関所番
平成21年7月 「和歌に痩せ俳句に痩せぬ夏男  子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年7月の子規さんの句は「和歌に痩せ俳句に痩せぬ夏男  子規」です。
季語は(夏または夏痩/夏)です。『俳句稿』明治三十三年夏(「子規全集」B389頁)、『俳句会稿』(子規全集(N)785頁)に掲載されています。この句は明治33年7月8日子規庵で詠まれましたが、当日は朝から雨で会者は子規、山田三子、金森匏瓜<ほうか>、田山耕村、鳴珠、矢田挿雲の僅か六名でした。
明治31年「日本」に「歌よみに与ふる書」を発表し短歌の革新に乗り出した子規さんですが、俳句は湧くように出て来るのですが和歌は苦吟したのでしょうか、それとも己の人生に比し短歌の革新が遠い道程であることを慨嘆しているのでしょうか・・・季語は本来は「夏痩」でしょうが、「夏」でも差し支えありますまい。
それにしても「夏男」とは、この句では「夏痩せの男」になるのでしょうか。『広辞苑』には掲載されていません。「春男」「夏男」「秋男」「冬男」など聞いたこともありません。こじんまりした句会の雰囲気で座興に「夏男」なる言葉が生れたのでしょう。もし「夏男」なる日本語があるとすれば、榎本其角の「夕涼み よくぞ男に生まれける」 浴衣姿の夏男か、夏祭りで太鼓を叩く無法松的夏男を連想したいですなあ。もっとも「夏女草木の如く痩せにけり」なる句もあるようです。とすると「秋女」は「天高く馬肥ゆるの女」なのでしょうか。いやはや。
更に深読みすると、7月といえば喀血して衰弱が激しくなる一ヶ月前です。子規さんはやせ細って病床にありましたから、「夏男」は子規さんが自嘲を込めて作った自画像なのかもしれません。
そこで子規さんにあやかって一句。
「痩せ細る骨や愛しき夏男  子規もどき」    道後関所番
平成21年8月 「夕立や豆腐片手に走る人 子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年8月の子規さんの句は「夕立や豆腐片手に走る人  子規」です。季語は(夕立/夏)です。『寒山落木』抹消句・明治二十六年(「子規全集」B389頁)に掲載されています。最近、抹消句が多いのですが、これも「よもだ」の選句でしょうか。
,この句の鑑賞ですが、明治20年代の東京の下町の風情があまりよく分りませんので「豆腐片手に」のイメージが湧いてきませんが、「豆腐片手に」がキーワードでしょう。それぞれの生活体験から味わって欲しいものです。
明治25年26歳で根岸に家族を呼び寄せ一家を構えた子規さんにとって、家での夕餉は楽しみだったに違いありますまい。夕立は空が曇ったかと思うと急に大粒の雨が降ってきます。さあ、大変だ。遊んでいた子供達も蜘蛛の子を散らすように家に入る。そこを豆腐を片手に走って行く人がいる。
「夕立」に「走る人」、互いに競争しているスピード感があります。その上「豆腐片手に」ですから、今にもつぶれそうで慌てている感じがユーモラスです。当今の漫画の一シーンを眺めているようです。子規さんの俳句の滑稽とスピード感の醍醐味が味わえます。
当時は、豆腐を買うときは竹で編んだ豆腐籠を提げていったということですが、「豆腐片手に」の豆腐は手の平に載せているのでしょうか。夕餉に「冷奴」でもと思い立って近くの豆腐屋に出掛けた主婦なのか、右手を肩まで上げて掌に豆腐を載せている酒盛り途中のいなせのあんちゃんなのか・・・いずれにしても、豆腐をつぶさぬように懸命に走っている下町らしい風情ですなあ。いやはや。
そこで子規さんにあやかって一句。
「夕立やケータイ片手に走る人  子規もどき」    道後関所番
平成21年9月 羽織着る秋の夕のくさめ哉  子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年9月の子規さんの句は「羽織着る秋の夕のくさめ哉  子規」です。季語は(秋の夕/秋)です。『俳句稿』明治三十一年(「子規全集」B183頁)、『俳論俳話二』中「立待月」(「子規全集」D75頁に掲載されています。「立待月」では「羽織着る秋の夕のくさめかな」になっています。
この句は俳話「立待月」冒頭の記述から明治三十一年(1898)陰暦8月17日(新暦では10月2日)夜、上野元光院の観月会に20名集まって筑前琵琶を聴きながら風流を楽しんだ様子を俳句百首で取り纏めています。新聞「日本」の明治31年10月7日号に掲載されました。(注)新聞「日本」10月6日号掲載と記述して本もあります。研究者は原本で確認されたい。
尚、東叡山寛永寺元光院は、 鴬谷駅から両大師に至る中程(徒歩3分)にあるが、明治期は現在の東京芸術大学の敷地に在った。開基は権僧正長清、寛永年中 (西暦1624〜1643年)備前守神尾元光公により創立。
この句の鑑賞ですが、秋に入ると釣瓶落しに日が暮れ、風も急に肌寒くなってきます。子規さんは慌てて羽織を羽織ったのでしょうが、残念ながら間に合わず、くさめ(くしゃみ)が止まらなくなったようです。微妙な時間の経過がこの句を面白くしているようです。日暮れ→羽織る→くさめ(くしゃみ)と何気ない日常の動作が、子規さんの手にかかると、このような俳句にまで昇華するのですなあ。
和歌の世界での「秋の夕」というと、代表的な下記の三句が浮かんできます。
見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ 藤原定家
さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ 寂蓮法師
心なき身にもあはれは知られけりしぎたつ澤の秋の夕ぐれ  西行法師
もっとも子規さんは、定家の歌を「歌よみに与ふる書」で、「自分の歌にはろくな者無之「駒とめて袖うちはらふ」「見わたせば花も紅葉も」抔が人にもてはやさるる位の者に有之候」とこき下ろしております。子規さんの「秋の夕」は叙情性が皆無で、あまりにリアルなので恐れ入った次第です。いやはや。
そこで子規さんにあやかって一句。
「マスクする秋の夕のくさめ哉  子規もどき」    
新型インフルエンザが今冬は蔓延するとか。ワクチン摂取の順番ですが、健康な高齢者はかなり遅れることでしょう。関所番も関所を通る旅人からインフルエンザをうつされないよう気をつけます。くれぐれもご留意下さい。 道後関所番
0910
平成21年10月    「押しかけて餘戸でめしくふ秋のくれ  子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年10月の子規さんの句は「押しかけて餘戸でめしくふ秋のくれ  子規」です。季語は(秋の暮/秋)です。『寒山落木 拾遺』明治二十五年(「子規全集」B522頁)、『獺祭書屋日記』(「子規全集」M299頁)に掲載されています。
日記の原文を記す。
(明治二十五年)十月十八日
   午餐于陸氏、晩餐于破蕉翁、半夜帰家
     押しかけて餘戸でめしくふ秋のくれ
これを「翻訳」してみよう。
(明治25年)10月18日
   昼食を陸羯南宅で、夕食は内藤鳴雪宅でともにする。夜に帰宅。
     押しかけて他所で飯食う秋の暮
この句の「押しかけて他所で飯食う」はまさに日記そのものである。26歳の青年子規さんの「食いしん坊」の面目躍如たるものがある。鳴雪翁のお宅の夕食では故郷伊予松山の献立が食卓を飾ったのだろうか。
問題は「秋の暮」である。「秋の暮れ」というと「暮秋(晩秋)」ととる人もいるだろうが、「秋の夕間暮れ」と感じとる人も多いことだろう。十月下旬といえば、俳句の世界では一月遅れの十一月に相応するから「暮秋(晩秋)」と解釈できるが、清少納言が『枕草紙』で「秋は夕暮」と讃美するように、またミレーの「晩鐘」のアンジェラスの鐘が鳴り響くとバルビゾンの農夫婦が祈りを捧げる光景も捨て難い。実作者はいかがお考えだろうか。「前書き」がなければ「秋の夕間暮れ」で味あうほうが秋の風情に合うように思うのだが・・・
『獺祭書屋日記』は一日一句の句日記で、明治25年9月24日から翌年9月23日までの一年間である。
そこで子規さんにあやかって一句
「押しかけて他所で酒飲む秋の暮 子規もどき」道後関所番
追って
この調子で「『東の窓』句日記」を作ってみませんか。ご同輩、いかがでござるかな。いやはや。  
一日一日と秋の暮れが深まっています。新型インフルエンザの流行が広まりそうです。10月20日の同期会には「マスク無用」で願いたいものである。
平成21年11月    「毛布着て毛布買ひ居る小春かな  子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年11月の子規さんの句は「毛布着て毛布買ひ居る小春かな  子規」です。季語は(小春/冬)です。『俳句稿以降』明治三十五年(「子規全集」B433頁)、『評論日記(補遺)』(「子規全集」別巻B489頁)に掲載されています。この句は新聞「日本」の明治35年2月2日号に掲載されましたが、掲載句は「着る」が「著る」に変更されて「毛布著て毛布買ひ居る小春かな」となっています。
明治35年といえば、この年の9月19日に36歳で子規さんは死去していますから最晩年の冬の句になります。1月29日の日記が残っていますのでご紹介しましょう。
一月廾九日 晴 先日鎌倉ノ翠濤トイフ老人ヨリ温州蜜柑ナリトテ十許リ送リ来リシ返事ノ末ニ
  珍らしき蜜柑や母に参らせぬ
  蜜柑得てうれしき支那のたより哉
  正月の末にとゞきぬ支那蜜柑
日本文苑ノ句
  落葉掻き小枝ひろふて親子哉
  毛布着て毛布買ひゐる小春かな
  色さめし造り花売る小春かな
  (中略)

夜碧梧桐夫妻来ル 介抱ノタメ也 碧梧桐神田の藪蕎麦ヲ携ヘ来ル
同じ日に石井露月宛書状に「一刻モ早ク死ニタイト願ウハヨクヨクノ苦痛アルタメト思ハズヤ」としたためている。この頃から子規の死去まで、虚子や碧梧桐らが根岸の子規庵に交代で日夜介護に訪れています。これらを背景にこの句を鑑賞してみます。
子規さんの病は急速に悪化してモルヒネなくしては一日も過ごせない。毛布で温かくしているのだが体も冷え切っている。家族が気遣って、この冬を越すためにと更に毛布を買い求めてくれた。ところが皮肉なことに小春日が続いている。
この句の面白みは「毛布」の語を重ねた滑稽味でしょうか。毛布の持つ温もりが伝わってくるようです。ちなみに東京気象台の記録では明治35年1月26日から29日までは快晴、30日は晴天の日となっています。
そこで子規さんにあやかって、今秋巴里で遊んだ不謹慎な一句
「ブランド著てブランド買い居る巴里の秋 子規もどき」 
追って
新型インフルエンザと季節性感冒の大流行の予兆をマスコミが報じています。絶対安全な土地はウイルスのいない南極と北極ですが、こればかりはどうにもなりません。嗽、手洗い、洗面の励行で、後期高齢者予備軍はもっとも安くインフルエンザを切り抜けていきたいものですなあ。いやはや。  道後関所番
平成21年12月  「占ひのつひにあたらで歳暮れぬ  子規」  
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成21年12月の子規さんの句は「占ひのつひにあたらで歳暮れぬ  子規」です。季語は(年の暮/冬)です。『俳句稿』明治三十年冬(「子規全集」B103頁)、『俳句会稿』補遺・十句集(「子規全集」別巻B525頁)に掲載されています。この句は新聞「日本」の明治33年12月31日号「歳暮」に掲載されました。なお、『俳句会稿』では「うらなひの終にあたらで年暮れぬ  子規」となっています。
年の暮れともなると誰しも気忙しくなる。病臥にある子規さんは自分では動くことはないのだが、母や妹、訪ねてくる俳句の仲間の立ち居振る舞いに年の瀬の迫ったことをひしひしと感じる。
正月の占いでは「大吉」とか「病気快癒」とか嬉しいお告げがあったのだろうか。春から夏、そして秋から冬へと季節は移って、とうとう大晦日を迎えてしまった。健康とは縁遠い一年ではあったが、待望の俳誌『ほととぎす』が柳原極堂の手により故里松山で発刊されたことでもあり、いい一年であったとするか。
そこで子規さんにあやかって一句
「宝くじつひにあたらで歳暮れぬ  子規もどき」
返句は「それにつけても金の欲しさよ」でしょうか。いやはや。  道後関所番