平成24年1月 「弘法は何を書きしぞ筆始     子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成24年1月の子規さんの句は「弘法は何を書きしぞ筆始    子規」です。
明治25年の作品で、季語は「筆始」(新年)です。『子規全集』第一巻 俳句一 「寒山落木 抹消句 明治二十五年」(430頁)に掲載されています。明治二十六年にも弘法の句がありますが、これも抹消句です。前書が「大文字火」で「弘法の投筆かなに大文字   子規」です。『子規全集』第一巻 俳句一 「寒山落木 抹消句 明治二十六年」(498頁)に掲載されています。
両句ともに子規自身が抹消しておりますが、いかにも書生っぽい理屈俳句ですし、弘法が何を書こうと「烏の勝手でしょう」が「落ち」になるのでしょうか。いやはや。厳粛な正月に子規の俳句を茶化しては失礼ですから、もっともらしく観賞してみます。
明治25年の正月は、子規は初めての小説『月の都』を執筆するために面会謝絶としましたが、勝田明庵、新海非風、五百木瓢亭ら郷里の親しい俳句仲間が子規宅で「文章会」を開いています。「筆始」は「書初め」に当りますが、いざ筆下ろしにあたって何を書こうかと迷いました。そこで古今の三筆のひとり弘法大師は何を書いたかなと自問したのでしょう。記録では子規の年初の句は「箕笠を蓬莱にして旅の春    子規」ですから、この句を色紙に書いたのでしょうか。
選句をされた天野祐吉氏は著書の中で「弘法大師は書き初めにどんな言葉をかいたのでしょうか。まさか、「初日の出」じゃないよね。」とおちょくったよもだ節を披露しています。(天野祐吉・南伸坊『笑う子規』(筑摩書房2011)上句は弘法でなくとも小野道風でも菅原道真でも良さそうですが、「弘法も筆の誤り」「弘法筆を選ばず」のたとえもあるように、弘法だから「動かない句」になっているのかなと思います。実作者のご見解をぜひうかがいたいものです。
ところで諸兄姉は「書初め」はいかがですか。老生は、年頭に頂いた年賀状に目を通し、出し忘れた方への賀状書きが恒例の書初めになっています。いやはや。
そこで子規さんにあやかって一句

  「道真は何を読みしぞ読始(よみはじめ)   子規もどき」
 
 「一遍は何を唱ふぞ経始(きょうはじめ)  道後関所番]
(一言付け加えたい御仁への正月プレゼント)
  時宗開祖道後奥谷・宝厳寺で生まれた一遍知真の代表的な法歌
   「唱ふれば我も仏もなかりけり南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏  一遍
平成24年2月 「北風に鍋焼饂飩呼びかけたり     子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成24年2月の子規さんの句は「北風に鍋焼饂飩呼びかけたり    子規」です。明治30年(1897)の作品で、季語は「北風、鍋焼饂飩」(冬)です。『子規全集』第十六巻 俳句選集「新俳句 冬の部」(381頁)に掲載されています。
『新俳句』は明治31年3月14日付で民友社から出版されており、正岡子規が校閲し、上原三川と直野碧玲瑠の共編です。獺祭書屋主人こと正岡子規が「『新俳句』のはじめに題す」を寄せています。
「俳句は元禄に始まる。元禄以前に俳句あるも取らざるなり。俳句の選集亦元禄に始まる。」として、元禄の俳人松尾芭蕉から俳句が始まったことを明言する。さらに、「明治の俳句をいふ。しかも明治の新俳句が世に出でたるは明治二十五年以後の事とす。」と規定し、子規によって新俳句が誕生したことを自らが高らかに宣言している。
さてその「新俳句」に選句された「北風に鍋焼饂飩呼びかけたり  子規」は一読して名句であろうか。
進学した東京の下宿や就職した大垣の独身寮に入居していた当時、夜遅くなってチャルメラの音を耳にし、いつもの時間に、いつも場所に夜鳴きそばの屋台が近づくと、おやじに「中華、中華」と窓から声をかけたことを思い出す。
子規さんも同様だったのではないだろうか。句会が終わって友人と通りに出たら、屋台が通り過ぎていく。「鍋焼饂飩 鍋焼饂飩」を呼んでも、木枯らし(北風)が強くて聞こえないらしい。「鍋焼饂飩 鍋焼饂飩」と大声で叫んで、やっと屋台は止まった。寒さの中での鍋焼饂飩の美味しいこと。食いしん坊の子規さんの姿が浮かんでくるようです。
「北風に鍋焼饂飩呼びかけり」は凡句ですが、「北風に鍋焼饂飩呼びかけたり」で非凡の句になったのでしょうか。 ここまで書いて、念のため子規さんの随筆に目を通したら、「鍋焼饂飩の真実」が書かれていました。
「余学校の寄宿舎にありし日(中略)ある日の事なりき 寒風指を落すほどに寒く身体も縮まりて動く能はざるほどの夜に同級生数人と二重の柵をなんなくこえて表に出づれば はや夜は三更に近く家々の窓に光りなくただ犬の声わんわんと遠方に聞ゆ、それより一町ばかり行きて小川町の勧工場の裏手に至れば 折もよし鍋焼き饂飩にあひたれば天の与へと喜びて 二、三杯づつの饂飩をふきながらフーッツルツルフーッフーッツルツルザブザブとくひ終りて、ああうまし ああさむしといひながら、小川町にいづれば店は皆戸をおろし(後略)」
(注)子規随筆集「筆まかせ」にある「ある日の事」の一節です。おそらく、その当時の光景を思い出して一句にしたのだろうか。いやはや。
われら松山人としては、大街道に出かけた折は、銀天街の裏手にあるアルミ鍋の「鍋焼きうどんのことり」で、愛想のないおばさんに「鍋焼きうどん」を注文しようか。子規さんが「何ぞな、一杯だけかな。二杯、三杯は食べたうちに入らんぞな。」と、のたまうだろうな、きっと。
そこで子規さんにあやかって一句

  「木枯らしに鍋焼饂飩二、三杯   子規もどき」 いやはや   道後関所番
平成24年3月 「二番目の娘みめよし雛祭    子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句のの子規さんの句は「二番目の娘みめよし雛祭   子規」です。明治32年(1899)の作品で、季語は「雛祭」(春)です。『子規全集』第三巻 俳句三「俳句集 明治三十二年 春」(248頁)に掲載されています。子規さんには、勝気ではありましたが三歳はなれた兄思いの妹・律さんがいましたから、一緒に雛祭を楽しんだのだろうなと思います。
「二番目の娘」が「みめよし」(眉目良し)と言い切っていますから驚きです。雛壇を前にして何人かの娘さんがおしゃべりしたり、甘酒を飲んだりして楽しんでいるのでしょうか。子規さんも招かれて同じ居間に居るのか、それとも・・・・・
明治三十二年春に雛祭の句を十句つくっています。
雛祭る田舎の家や桃の雨
雛立てゝ花屋呼び込む戸口哉
まじへ買ふ桃と桜や雛祭
天冠を雛に著せたり桃の花
雛棚に桜活けたり三段目
灯ともせは雛に影あり一つつゝ
雛過ぎて瓶の桜の盛り哉
二番目の娘みめよし雛祭
母方の善き家柄や雛祭
雛祭り姉の娘に惚れて見ん
この雛祭十句の流れから判断すると、幼き日に松山で、「善き家柄」である母方の大原観山家の雛祭に妹・律と(あるいは母・八重も)一緒に呼ばれた時の追憶かもしれません。十句目の「姉の娘に惚れて見ん」は「二番目の娘みめよし」に対応しているのでしょうが、子規には実姉はいませんから「文学的幻影」なのでしょう。実作者の感想をお聞かせください。
東京根岸の子規庵の隣家に住む陸羯南氏の四人のお嬢さんのことも想定しましたが、上記の「雛祭十句」からみて無理があるように思います。老生は男兄弟二人ですし子供も二人とも男子でしたので、雛祭への深い思い入れはありません。「みめよし」妹さんをお持ちの那須の宗匠はじめ雛祭に思い出をお持ちのみなさん、青春の告白など伺いたいものです。いやはや。
そこで子規さんにあやかって一句
  わが青春を回想して

「二番目の見合いも終へぬ雛あらし  子規もどき」 いやはや。
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平成24年4月 「のどかさや娘が眠る猫が鳴く    子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の子規さんの句は「のどかさや娘が眠る猫が鳴)く   子規」です。
明治29年(1896)の作品で、季語は「のどかさ」(春)です。『子規全集』第二巻 「寒山落木 巻五 明治二十九年 春」(398頁)と第十五巻「俳句会稿 明治二十九年」(422頁)に掲載されています。
明治二十九年というと、漱石が松山中学を去り第五高等学校(熊本)に赴任したのが4月11日のことです。子規は病床に伏すことが多いのですが、俳句革新に燃えて句会を頻繁に子規庵で開いています。
「のどかさや娘が眠る猫が鳴く   子規」の鑑賞といっても、くどくど説明するには平明すぎます。この句のどこに子規さんが俳句の革新を提唱したエッセンスがあるのかなとかえって訝しく思います。
それはさておき、明治二十九年三月六日の句会で、子規さんは「長閑」で三句発表しています。
長閑さや娘が眠る猫が鳴く     子規
病人も床をはなれて長閑さや    子規
長閑さの人崩れ立つ夕かな     子規
二十九年の句に同じ趣向の句があります。
のどかさや杖ついて庭を徘徊す   子規
「病人も床をはなれ」るほどの長閑さとはどのような陽気なのかよくは分かりませんが、日向ぼこにもっともふさわしい暖かさ、明るさ、静かさの昼下がりでしょうか。根岸の子規庵によく出入りする隣家の猫が甘えて鳴いている。妹の律さんは茶の間で居眠りしている。居間で寝ていた子規さんが床から這い出してきて、あまりに長閑なひとときなので、杖をついて、庭を歩きまわる。そのような情景を想像してみました。
「春眠暁を覚えず 処処啼鳥を聞く 夜来風雨の声 花落つること知んぬ多少ぞ」(孟浩然) の季節になりましたが、多忙な人は多忙なりに、閑な人は閑なりに、春眠をむさぼって、さらに長閑さの中での仮眠を楽しみますか。いやはや。

そこで子規さんにあやかって一句
「長閑さや亭主居眠り犬欠伸     子規もどき」  
「のどかさや主人物書き猫欠伸   漱石もどき」   道後関所番

鯛鮓や一門三十五六人    子規

平成24年5月 「鯛鮓や一門三十五六人    子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の子規さんの5月の句は「鯛鮓や一門三十五六人   子規」です。
明治25年(1892)の作品で、季語は「鮓(鮨・寿司)」(夏)です。『子規全集』第一巻 「寒山落木 巻一 明治二十五年 夏」(70頁)に掲載されています。この句には前書きがあって、「身内の老幼男女打ちつどひて」とあります。
明治25年6月、子規は帝国大学の学年試験に落第、これを機に退学を決意します。7月7日東京を発って帰省しますが、大阪までは漱石と一緒でした。11日に松山湊町四丁目十六番戸に帰宅します。8月中旬に、漱石が金比羅参詣の序に子規宅を訪ね、母の八重さんが松山鮓でもてなす。虚子も同席しています。
母 八重の実家大原家で、暑気払いか、お盆か、何かの家行事で、ご親族が集まったのだろう。大原家は大家族で「故郷はいとこの多し桃の花  子規」(明治28年4月1日)であり、一族郎党35〜6人が集まって鯛鮓の宴を開いたのだろう。
個人的なことですが、松山子規会例会での席が暗黙の了解で決まっています。右側の席は和田克司氏、平松牛夫氏、老生の順に座っています。牛夫氏は子規の従兄弟姉妹(いとこ)のなかで唯一の現存者であり、ご高齢ですが大変ご壮健です。県社会人卓球協会会長として現役でご活躍中です。
因みに子規さんの母堂 八重さんは大原観山の長女、牛夫氏の実父恒元(俳号 三鼠)は八重さんの末弟にあたります。子規さんにとっての従兄弟姉妹(いとこ)は32人です。牛夫さんの句に「子規いとこひとりとなりぬ桃の花   牛歩」があります。
鯛鮓は「松山鮓」(ばら鮨)とは違い鯛が主役と思うが「鯛めし」とは違うのだろうか。郷土料理に精通しておられる女性の方にご教授いただきたいものである。いずれにしても、食いしん坊の子規さんは瀬戸内の鯛鮨をたらふく食べて幸福感を味わったことだろう。
そこで子規さんにあやかって一句
 
「鯛鮓や鯛は一尾老夫婦   子規もどき」 いやはや  道後関所番
平成24年6月 「夕立や並んでさわぐ馬の尻    子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の子規さん6月の句は「夕立や並んでさわぐ馬の尻   子規」です。明治29年(1896)の作品で、季語は「夕立」(夏)です。『子規全集』第二巻 「寒山落木 巻五 明治二十九年 夏」(480頁)に掲載されています。
明治28年には子規さんは松山に病気療養のため帰省し漱石と愚陀仏庵で一時期過ごしたことは松山人のほとんどの人はご存知ですが、帰京してからは病気のこともあり遠出はできなくなりました。
この句の情景は誰でも描くことができそうですが「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川」のように実際に見た情景かといわれると自信がなくなります。実際の情景ではなく、絵画的にイメージした句かもしれません。南国四国では「馬が並ぶ」情景は、松山連隊の軍馬か、道後公園の競馬か、馬市ぐらいしか想像がつきません。子規さんの時代であれば、鉄道馬車などがあったかもしれません。
牛と違って馬はおとなしいし臆病な動物ですから、突然の夕立に、あるいは稲光が走り、雷鳴が鳴り響くと、並んで繋がれていた馬が、驚き、嘶き、蹄を打ちならして大騒ぎになったのでしょうか。「並んでさわぐ」の中句が、いかにも子規さんらしく、ダイナミックな句になっています。NHK大河ドラマ「平清盛」の戦陣で、このような情景を活写すれば視聴率があがるかもしれません。いやはや。
明治29年には「夕立」の句を29句(うち「夕立や」は9句)詠んでいます。
夕立や市ちらばって地蔵尊
夕立や並んでさわぐ馬の尻
夕立や野道を走る人遠し
夕立や片頬濡れたる石の像
夕立やかしこ過ぎたる人の蓑
夕立や動きもならぬ鷺一羽
夕立や逃げそこないし鷺一羽
夕立や広野の中に牛一つ
夕立や腰の抜けたるいざりども
突然の夕立の光景で描かれたのは、地蔵尊、馬、人、石の像、鷺、牛、いざりですが、動と静のコントラストが非常に面白いと思います。いかがでしょうか。
そこで子規さんにあやかって一句
 
「運動会並んでさわぐ一年生   子規もどき」   道後関所番

平成24年7月 「雷をさそふ昼寝の鼾哉    子規」

平成24年7月 「雷をさそふ昼寝の鼾哉    子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の子規さん7月の句は「雷をさそふ昼寝の鼾哉   子規」です。明治31年(1898)の作品で、季語は「雷」「昼寝」(夏)です。『子規全集』第三巻「俳句稿 明治三十一年夏」(157頁)と第十五巻「俳句会稿 明治三十一年(648頁)に掲載されています。 新聞「日本」の明治32年8月4日付にも掲載されています。
俳句会(運座)の日付は不明ですが、墨水、一五坊、左衛門、宏策、白浜、子規、碧梧桐の7名です。第1回運座では「蚊」、第2回は「雑」、第3回は「昼寝」でした。子規のこの句には残念ながら点が入りませんでした。
自分の鼾に驚いて跳び起きたという猛者の話をよく聞きますが、突然の雷鳴を誘うほどの大きな鼾をかいて昼寝している人を詠んだ滑稽句です。平凡な、平易な句でしょうか。雷、昼寝と季重ねですが、子規さんだけに、気にしない気にしないで鑑賞したいものです。
ところで鼾の主は誰かと詮索したくなります。ひと夏を漱石と共に過ごした愚陀仏庵時代の思い出があるのかもしれません。
明治23年に帰省中の子規さんが東京の漱石に「当地のあつさハ実ニきびしく昼間ハ読書どころのさわぎでハない、小生ハただ午睡と読経とに日をくらしをり候。消夏の良方ハ実ニこの二者に出でずと信じ候。君は昼寝の隊長故その味ハ先刻御承知ならん。」(7月15日付)と書き送っている。
漱石の返信では「午睡の利益今知るとは愚か愚か 小生などは朝一度昼過一度、二十四時間中都合三度の睡眠也。昼寝して夢に美人に邂逅したる時の興味などは言語につくされたものにあらず。昼寝もこの境に達背ざればその極点に至らず。貴殿己に昼寝の堂に?る。よろしく、その室に入るの工夫を用ゆべし」(7月20日付)と書き送っている。
二人ともに昼寝の天才だったようだが、子規さんが漱石を「昼寝の隊長」と奉っているので、昼寝では漱石の方が一枚上手であったらしい。もしかしたら、ふたりともに昼寝の鼾は雷を誘うほどのすごい鼾だったとすると、愚陀仏庵の昼下がりは鼾の競演であったかもしれない。いやはや。
この運座での子規さんの句をご紹介します。
筆を手に夏書の人の昼寝哉
昼寝する人も見えけり須磨の里
雷をさそふ昼寝の鼾哉
酒臭き車夫の昼ねや蝿の中
昼寝さめて湖畔の森に遊ひけり
茶屋女蘆生のひるね起しけり
寺しんと昼寝の鼾きこえけり
竹娑婆と昼寝の床を動きけり
昼寝さめて腕さするや畳の目
地震して昼寝覚めたり蒸暑き
そこで子規さんにあやかって一句
 
「犬と吾昼寝の鼾凄まじき  子規もどき」   道後関所番
平成24年8月 「忍ぶれど夏痩にけり我恋は   子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の子規さん8月の句は「忍ぶれど夏痩にけり我恋は           子規」です。明治29年(1897)の作品で、季語は「夏痩」(夏)です。『子規全集』第二巻「寒山落木 巻五 明治二十九年夏」(468頁)と「早稲田文学」明治二十九年三月十五日「恋」十二・6に掲載されています。 「早稲田文学」には目を通していません。
「拾遺和歌集」の平兼盛の和歌「忍ぶれど色は出にけれわが恋は 物や思ふと人のとふまで」を本歌としていることは明白です。この句は、高校時代に口ずさんだ方も多いのではないかなと愚考しています。
NHK大河ドラマ「平清盛」が放映中ですが、兼盛は清盛とは直接の関係はありません。生年は不明ですが没年は 正暦元年(991年)です。父は光孝天皇の曾孫にあたる大宰大弐・篤行王で、兼盛は臣籍臣籍降下前は兼盛王と名乗り官位は従五位上・駿河守でした。清盛は平安末期の武士で生誕は、元永元年(1118年)、没年は治承5年(1181年)、享年64歳でした。
兼盛は三十六歌仙の一人で、この歌(忍ぶれど色は出にけれわが恋は・・・)は、「天徳内裏歌合」における壬生忠見との対決の歌で、百人一首にもとられています。兼盛が妻と離婚した際、妻は既に妊娠しており赤染時用と再婚した後に娘を出産しましたが、その娘が女流歌人として著名な赤染衛門です。
閑話休題。
兼盛の歌には、苦しい恋に耐えても人から問われると表面に出てきてしまうという切ない忍ぶ恋が?にじみ出ています。一方、子規さんの句は、苦しい恋を耐えているうちに、ついに夏痩してしまったと滑稽句に仕立てています。
子規さんとて男ですから、二十九歳ともなれば、恋のひとつやふたつは経験していますし、吉原にも遊びに行っていますから、男の照れ隠しの句ではなさそうです。
明治二十九年に作った夏痩の句は五句です。
「忍ぶれど夏痩にけり我恋は」  
「夏痩や風吹き入るゝ老の膝」
「  仏国にて写されたる叔父君の写真を見るにいたく肥え給ひければ
 ふらんすに夏痩なんどなかるべし」
「  女の写真に
 夏痩やつゝみかねたる指の尖」
「  死恋
 夏痩の思ひつめたる命かな」
老生は子規さんが迫り来る死を予感した「死恋」の句に惹かれます。
そこで子規さんにあやかって一句

 「忍ぶれど夏痩にけり友見舞ふ  子規もどき」   
「桃太郎は桃金太郎は何からぞ
平成24年9月 「桃太郎は桃 金太郎は何からぞ    子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の子規さん九月の句は「桃太郎は桃 金太郎は何からぞ   子規」です。明治三五年(1902)の作品で、季語は「桃の実」(秋)です。『子規全集』第三巻 俳句三 「俳句稿以後 明治三十五年」(506頁)と第十一巻 随筆「仰臥漫録二 明治三十五年」(596頁)に掲載されています。
「仰臥漫録」には、俳句鑑賞に適切な一文が子規さんにより草せられています。
 男の子一人ほしいといふ人に代わりて  桃太郎は桃 金太郎は何からぞ
 女の子ほしといふを          花ならば爪くれなゐやおもしろや
 年ふけて修学する不幸女へ       女郎花女なからも一人前
子規さんは明治三五年九月一九日未明に死去していますから、最晩年も最晩年の句ということになりますが、正確にはわかりません。生涯独身で子供を持たなかった(持てなかった)子規さんだけに、却って子供への想いが純粋で、強かったのかもしれません。天野祐吉さんが、この句を選んだ背景には、ご自身にもお子様がいないのかなとも勝手に思いました。
この句は正当な俳句なのか、俳句でないのか、正直よくわかりません。特に、下句の「何からぞ」は俳句になじまないのでは・・・・実作者の方で先人の句に「何からぞ」を読み込んでいる句をご存知であればご教示ください。お願いします。
「古池や蛙飛び込む何故ゆえぞ」では「とんち教室」になってしまいます。天野祐吉氏著『笑う子規』では「金太郎は飴からに生まれたに決まっとるじゃろ。」と一刀両断ですが、あまりに味気ない回答だから、そこで子規さんにあやかって夏ボケのとんち俳句を一句
 「桃太郎は桃 金太郎はへそ栗から   子規ボケもどき」  いやはや。 道後関所番 
平成24年10月 「行く秋にしがみついたる木の葉哉    子規」
平成24年10月 「行く秋にしがみついたる木の葉哉    子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の子規さん十月の句は「行く秋にしがみついたる木の葉哉   子規」です。明治二一年(1888年)の作品で、季語は「行く秋」(秋)です。『子規全集』第一巻 俳句一 「寒山落木 抹消句 明治二十一年」(418頁)に掲載されています。
同趣の句が、明治24年の抹消句で残っています。
「行く秋にしがみついたり蔦紅葉    子規」 この句の方が、後に子規さんが提唱した写生句に近い句と云えましょう。初心者向けの句でしょうか。
「行く秋にしがみついたる」の表現は子規さんならでは表現でしょう。木の葉が、木の枝から離れないように、落ちないように、しっかりとしがみついている風情を、「行く秋」にしがみついていると見立てたのでしょう。木の葉を擬人化した滑稽句の面白みがよく表現されています。
明治21年当時、子規さんは第一高等中学校の学生ですが、8月に同郷の三並良とドイツ人宣教師(シュミーデル博士)と富士登山している。秋には遠出はありませんが、上野や飛鳥山にはよく散策しており、この句は上野の森での印象かもしれない。
そこで子規さんにあやかって一句
 
「紅葉路しがみついたる野猿哉   子規もどき」 
10月2日の新聞の一面(内閣改造)を眺めて川柳一句

「行く秋にしがみついたり永田町   どぜう」  いやはや。 道後関所番
平成24年11月 「秋風の一日何を釣る人ぞ     子規」
平成24年11月 「秋風の一日何を釣る人ぞ     子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の子規さん十一月の句は「  子規」です。明治二五年(1892年)の作品で、季語は「秋風」(秋)です。『子規全集』第一巻 俳句一 「寒山落木 第一 明治二十五年 秋」(121頁)に掲載されています。原句は 「釣る人ぞ」ではなく「釣る人そ」になっています。
この句に詞書があって「大磯にて終日垂釣の人を見て」とあります。子規もまた、終日、釣り人を眺めていたのでしょうか。この句の鑑賞に当たって、明治25年(1892)9月3日から17日まで大磯、伊豆へ旅行していますので、子規さんの文章から行程を抜書きしてみます。(和田克司編『子規の一生』に拠る)
 3日(月) 晴れ。新橋で汽車に乗り、大磯松林館に泊まる。5日は旧暦の8月15日  に相当し「観月無比の良地」であったらしい・
 4日(火) 月が晴朗で、海岸を散歩する。虚子宛に海岸から宿を見た画を送る。
 5日(水) 旧8月15日仲秋名月。月は雲の隠れている。海岸を歩く。夜半、月光が鮮やかに輝いていた。
 6日(木) 丘に登り、木を伐って杖にする。月は海の上に上がっている。
 7日(金) 大磯の浜で地引網を見る。
 8日(土) 微雨。潮の音が高い。夕方、犬とともに海岸に行き、波を見る。
 9日(日) 一日中、微雨。外に出ないで過ごす。
10日(月) 一日中、雨で家を出ない。
11日(火) 雨、晩に晴れる。雨のため、箱根に行けず。
12日(水) 曇。朝、千丈敷に上り薄を見る。雨が降ってくる。稲の黄色と海の青色が広がる。
13日(木) 午後、晴れ。大磯を汽車で発ち、国府津に着き、箱根路に入り、鉄道馬車で湯本に行く。鎌倉屋に泊まる。「旅の旅又その旅の秋の風   子規」
14日(金) 快晴。二子山に近づき、茶屋で力餅を食べる。元箱根村を下に見て、芦ノ湖を見、箱根駅で名物の「赤腹」(30センチの大きさの魚)で昼食、山を下り、三島神社参詣。三島の相模屋(現・三島プラザホテル)に泊まる。
15日(土) 朝、早くに乗合馬車で修善寺に行き、参詣。仁田まで歩き、21時過ぎに軽井沢(函南町)に着き宿泊。
16日(日) 軽井沢峠から熱海に下り、人力車で江の浦に向かう。汽車で大磯に帰る。
17日(月) 夜、帰京。
帰京後、帝大に退学届けを提出し、子規の保護者でもある陸羯南から家族の呼び寄せの話が出て11月には松山から母と妹を呼び寄せ、12月には、陸羯南が経営する日本新聞社に就職します。
のんびりした旅行のように見えますが、子規さんにとっては将来を決める前夜の静寂のひと時だったのでしょうか。「何を釣る人ぞ」はまさに子規さんの自画像であったのしょうか。
そこで子規さんにあやかって一句
 公園にて終日苦吟中の人を見て

「秋風の一日何を詠む人ぞ   子規もどき」  いやはや 道後関所番
平成24年12月 「年行くと故郷さして急ぎ足    子規」
平成24年12月 「年行くと故郷さして急ぎ足    子規」
 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の子規さん十二月の句は、「年行くと故郷さして急ぎ足    子規」です。明治二九年(1896年)の作品で、季語は「行く年」(冬)です。
 『子規全集』第三巻 俳句三 「寒山落木 拾遺 明治二十九年 秋」(562頁)に掲載されています。同句には「明治廿九年俳句稿」と付記されていますが、『子規全集 第二巻 俳句二 寒山落木 巻五 明治二十九年冬」(588〜625頁)には記載がありませんでした。
一読して子規さんの望郷の句であることが分かります。子規さんが郷里松山で迎えた最後の元旦は、なんと明治23年松山市湊町四丁目十六番戸の自宅でした。血気盛んな学生時代でした。
 明治22年12月24日(または25日)、従兄弟の藤野古白とともに新橋を発って浜松で一泊、26日は名古屋で一泊、翌日京都に立ち寄り、神戸から「新八幡丸」(上等席)で松山に向かい、29日三津港に着く。(神戸〜松山間の船旅は約30時間)
年末の30日は師の河東静渓宅を訪ね、中学生の碧梧桐に野球を教えキャッチボールをする。(伊予の野球事始め) 年が明けて1月24日に三津浜を発ち、東京には28日の夕刻に帰着しています。私どもの昭和29年から昭和30年代の学生時代の冬休み(帰省)の過ごし方とくらべて、子規さんは士族で旧制高校(高等中学校)生であり、庶民(平民)とはまったく違う行動様式、生活スタイルであったことを痛感します。
 この句ができたのは明治29年ですから、子規さんは脊椎カリエスで病床にあり、正月を故郷松山で過ごすことは「夢のまた夢」でした。明治29年の冬の句から「行く年」を拾ってみます。
行く年を人純にして子を得たり 子規
行く年を母すこやかに我病めり  子規
行く年の我いまだ老いず書を読ん    子規
 歌集『竹乃里歌』の明治31年「故郷を憶ふ」9首中の1つである
  「足なへの病いゆとふ伊豫の湯に飛びても行かな 鷺にあらませば      子規」
にまで、望郷の思いは病気の進行とともに深まって行ったのではないでしょうか。
 「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」(犀星)かもしれませんが、ふるさとは心温かくていいものです。「よう、お帰りたわい」が10数年前に帰郷したときに、みなさんから寄せられた言葉でした。まさに「故郷の山はありがたき哉」(啄木)でした。
 歳末、迎春の準備で多忙でしょうが、ふと手を休めて、子規さんの句を味わっていただけませんか。
 そこで子規さんにあやかってやせ我慢の一句
   「行く年の我老いずいま青春ぞ    子規もどき」   いやはや。  道後関所番
 よいお年をお迎えください。来年もよろしくお願いします。   三好 恭治