平成23年1月 「恭賀新禧一月一日日野昇  子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成23年1月の子規さんの句は「恭賀新禧一月一日日野昇  子規」です。季語は(新年/新年)。『子規全集』(B巻「俳句稿 明治三十一年」128頁に掲載されています。
「恭賀新禧」(きょうがしんき)は古風ですが「恭賀新年」です。「一月一日」は勿論「元旦」で、「日野昇」は「日の昇る」で「初日の出」を表わしています。「季重ね」というより季を重ね重ねてしかも一句がすべて漢字という子規さんの意識した新年祝賀の挨拶句と云えます。『子規全集』では句の上に(広告)と記載されています。新聞「日本」か雑誌の広告欄に載っていたのでしょうか。掲載紙(誌)をご存知のかたはご教示下さい。
漢字だけの正月句を子規さんは明治28年にも作っています。
「紀元二千五百五十五年哉」(『子規全集』A巻「寒山落木 巻四」161頁)
季語は(新年/新年)ということでしょうか。この句が俳句かなと疑問を呈したくもなります。虚子や碧梧桐の感想を聞いてみたいですなあ。いやはや。
この「恭賀新禧一月一日日野昇」は「新聞雑詠」(五句)のなかの一句です。子規庵の正月の雰囲気が伝わってきます。年末には加藤拓川の資金援助で畳がえをしております。
蓬莱にテーブル狭き硯箱
聖徳を頌する文や筆始
元旦の雨を記すや屠蘇の酔
恭賀新禧一月一日日野昇
新聞を門で受け取る初日哉
第一句の「蓬莱」は「広辞苑」によれば、【新年の祝儀に三方の盤上に白米を盛り、上に熨斗鮑(のしあわび)・伊勢海老・勝栗・昆布・野老(ところ)・馬尾藻(ほんだわら)・串柿・裏白・譲葉・橙・橘などを飾ったもの。年賀の客にも饗した。蓬莱飾。宝莱。季語・新年】です。
第三句の「元旦の雨」ですが、明治30年11月20日から翌31年1月2日までの東京地方は快晴続きの好天気でした。根岸にぱらっと雨が降ったので「屠蘇の酔」の中で「元旦の雨」と強調したのでしょうか。それとも俳句の虚実でしょうか。
第五句は、小・中学校時代に、クラスの誰がこんな句をつくったような気にしてくれる素直な句だと思います。
そこで子規さんにあやかって二句
「恭賀新年七十七歳陽の昇る  子規もどき」
「西暦二千壱十一年喜寿の春  子規もどき」     道後関所番
平成23年2月 「紅梅や秘蔵の娘猫の恋  子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成23年2月の子規さんの句は「紅梅や秘蔵の娘猫の恋  子規」です。明治29年の作品で、季語は春ですが、(紅梅/春)なのか(猫の恋/春)なのか迷うところです。『子規全集』(A巻「寒山落木巻四 明治28年」201頁と(21)巻「俳句草稿補遺」137頁に掲載されています。子規さんにとっては確信犯的な「季重ね」ですなあ。主宰と呼ばれている宗匠以外は避けるべき句作りではないでしょうか。実作者のご意見を伺いたいものです。
この句を一読して新派の花柳章太郎と水谷八重子の新派「婦系図 湯島の白梅」が浮かんできました。子規と漱石の世界では、松山は大街道の芝居小屋「新栄座」で観た「てには狂言(照葉狂言)」の舞台かもしれません。
「紅梅」と「花も恥らう秘蔵の乙女」と「猫の恋」という三大噺となると子規さんの近代俳句とは一体全体何なのかと問い掛けたくもなりますが、子規記念博物館天野祐吉名誉館長の「よもだ選句」の術中に嵌まってしまいますから、このあたりで鑑賞することにしましょう。
紅梅の咲く春先に求愛する猫の姿に人間の恋を重ね合わせ、親が溺愛する箱入り娘も恋心を抱く青春の到来を滑稽の表現したのでしょうか。それとも、前年松山の愚陀仏庵で静養して帰京後は根岸の子規庵で寝たっきりでしたから、恋も結婚も断念せざるを得なかった子規さんの自虐的な表現でしょうか。
そこで子規さんにあやかって一句

「白梅や独居老人猫の恋  子規もどき」いやはや。道後関所番
平成23年3月 「うららかや岡に上りつ野に下りつ  子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成23年3月の子規さんの句は「うららかや岡に上りつ野に下りつ  子規」です。明治30年の作品で、季語はうららか(春です。『子規全集』(B巻「俳句稿 明治三十年 春」14頁に掲載されています。明治30年1月15日付で柳原極堂が松山で俳句雑誌「ほととぎす」を発刊し子規に助力を依頼しています。子規さんにとってはこの上ない喜びでしょうが、健康状態は徐々に悪化してきており作句数も減ってきました。ご参考までに句数の推移を記しておきましょう。
明治25年 3092句、26年 4968句、27年 2557句、28年 3245句、29年 3445句、30年 1659句、31年 1502句、32年 1019句となっており、日本新聞社入社(25年)から日清戦争従軍から愚陀仏庵当時(28〜29年)までが句作のピークでした。
この句を一読して温暖な気候になって根岸の子規庵から上野公園への起伏の道を散策したときの写生句かなと感じましたが、実際には散策はままならなかったようです。健康な時代に逍遥した光景を心に描いて作った句でしょうか。まったく作為のない、年齢を問わず、性別を問わず、誰しも経験した懐かしい情景のようです。誰でも作れそうな句ですが、「上りつ 下りつ」に子規さんの非凡な才能を認めざるをえません。素晴しい春の句ではないでしょうか。
中句の「岡に上り」で、高校時代の国語の授業で習った「愁ひつつ岡にのぼれば花いばら  与謝蕪村」を思い出しました。「郷愁の詩人 与謝蕪村」(萩原朔太郎)と「楽天の詩人 正岡子規」の差異が「岡を上る」にも明白にあらわれているようですなあ。いやはや。
このあとに次の句が続きます。
パノラマを見て玉乗りを見て日の永き
永き日の人ぞろぞろと上野哉
永き日の山越えて伊豫の城見ゆる
(注)パノラマ 都市や大自然・聖地などの眺望を屋内で見せる絵画的装置。円環状の壁面に緻密で連続した風景を描き、立体模型を配したり照明をあてたりして、中央の観覧者に壮大な実景の中にいるような感覚を与える。1789年イギリスのロバート=バーカー(R. Barker1739〜1806)が制作。日本では1890年(明治23)上野・浅草で公開。映画などの発達により衰退。(「広辞苑」)
上野の山から富士山を眺望し、遥か遠くに幻の松山城が見えたのでしょうか。松山人子規さんの気持ちを汲んであげたいものです。
そこで子規さんにあやかって一句

「うららかや岡に上りて子規の里  子規もどき」  道後関所番
平成23年5月「五女ありて後の男や初幟   子規」
五月の椿事とでも云うのでしょうか、雨が上がったので、子規博物館の「特別展なじみ集」 第二回『子規、俳句革新の前夜』を参観に出掛けた。なんと、なんと、懸垂幕に子規さんの句が掲げてありました。市民の反響が大きかったので、元に戻したのでしょうか。さっそく、観賞エッセイを執筆しました
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成23年5月の子規さんの句は「五女ありて後の男や初幟   子規」です。明治32年の作品で、季語は幟(夏)です。『子規全集』B巻「俳句稿 明治三十二年 夏」(298頁)とO巻「春夏秋冬 夏の部」(436頁)に掲載されています..
『春夏秋冬』は、明治30年以後の俳句を集めて4分冊で刊行された日本派(子規派)の第2句集です。最初の「春の部」が刊行されたのが明治34年5月で、翌年の9月19日には子規は死去していますから、残りの夏、秋、冬の部は、高弟である河東碧梧桐と高浜虚子が編纂しています。
この句は、明治33年5月5日付で新聞「日本」の俳句欄(季題「端午・幟」)に掲載されています。
観賞の鍵は「五女ありて後の男や」にあるのでしょう。子規周辺の人々には女の子が5人続けて生まれ、やっと男子が出生して喜んだ人物の名前をよく知っていました。その人物こそ子規さんの保護者であり、自宅の隣家(子規庵)に住まわせた日本新聞社社主・陸羯南その人で、長男の乾一の初節句に当たっての子規さんからのお慶びの句です。
その後、女の子が二人も生まれて、羯南は一男七女の子福者となりますが、残念ながら乾一は幼少時に亡くなってしまいます。もっとも子規さんのほうが早く亡くなりますから、この哀しい事実を詠むことはありませんでした。
子規さんは病床にあって、隣家の陸羯南邸に大きな幟が立って緋鯉が薫風を吸って元気に躍っている姿を見、臥しているときはその薫風の音を耳にしていたことでしょう。新しい命の誕生と生長を祈ると共に、自らの命も永らえることを願っていたのでしょうか。
そこで子規さんにあやかって一句

東日本大震災の復興を祈願して
「家喪せし後の嬰児初幟   子規もどき」 
平成23年6月「五月雨や畳に上る青蛙   子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成23年6月の子規さんの句は「五月雨や畳に上る青蛙   子規」です。明治34年の作品で、季語は五月雨(夏)と青蛙(夏)です。『子規全集』B巻「俳句稿以後 明治三十四年 夏」(398頁)とO巻「春夏秋冬 夏の部」(446頁)に掲載されています。
「雨蛙」は三句連作です。
第一句は「園茂み傘に飛びつく青蛙 
第二句は「竹縁や青き色なる青蛙  
第三句が「五月雨や畳に上る青蛙  
子規」
子規」
子規」 です。
第一句は、小野道風と青蛙の有名な逸話を連想します。 
第二句の「竹椽」は「竹縁」の誤字ではないでしょうか。「椽」は「垂木」ですから、青蛙がいかに跳躍力があるとはいえ、椽(垂木)との対比はいささか無理があると思います。
第三句は子規さんの確信犯的な「季重ね」(五月雨・青蛙)ですが、季重ねが必要な程の名句とは思えません。「畳に上る青蛙」は写実とはいえ、小学生でも、初心者でも、描写は可能でしょう。季重ねを避けるのが俳人の力量と云うべきかと愚考する次第です。いやはや。
子規さんを弁護するとすれば、死の一年前の夏であり、病床で呻いている子規さんが根岸の子規庵に臥せって居ます。五月雨(長雨)のなか、雨宿りのためにぴょんと畳に上って目をくるりと開いてキョトンと子規さんを眺めている青蛙を連想します。生き生きしている青蛙を、子規さんは限りなく愛おしいと思ったことでしょう。
子規さんが敬愛した松尾芭蕉や与謝蕪村には「五月雨」の名句がありますが、「青蛙」の名句は浮かんできません。
ご存知であれば教えて下さい。     
五月雨を集めて早し最上川      
五月雨の降り残してや光堂     
五月雨や大河を前に家二軒     
さみだれや名もなき川のおそろしき
松尾芭蕉『奥の細道』
松尾芭蕉『奥の細道』
与謝蕪村『蕪村句集』
与謝蕪村『蕪村句集』
そこで子規さんにあやかって一句

東日本大震災の復興を祈願して
「五月雨や崩れし屋根に青蛙    子規もどき」 
平成23年7月「愛憎は蝿打つて蟻に与えけり   子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成23年7月の子規さんの句は「愛憎は蝿打つて蟻に与えけり   子規」です。
明治31年の作品で、季語は蝿(夏)です。『子規全集』B巻「俳句稿以後 明治三十一年 夏」(169頁)に掲載されています。この句は「ホトトギス」明治32年 8月10日号に発表されました。
それにしてもけったいな俳句だなあと一読して思いました。蝿と蟻の対比の妙は分かるのですが・・・・「蝿打つて蟻に与えけり」は、「蝿叩き」で蝿を打って、まだ手足をぴくぴく動かしている蝿を、蟻の行列に与えたという実体験でしょうか。身体に止まって血を吸った憎き蚊を蟻に与えたというのなら、そんな実体験があったかなとも思うのですが・・・ 
それにしても、この衝撃的な行動と、上句の「愛憎は」をどのように結びつけて観賞したらいいのでしょうか。日本語のもつ、俳人のもつ、ましてや子規さんのもつ「愛憎」感が、こんな安っぽいものとは思いたくありません。平凡かもしれませんが、一茶の「やれ打つな蠅が手を摺り足をする  一茶」の光景に人間としての本来の営みがあるように思えてなりません。
正直今回は観賞の体をなしていません。猛暑のせいかもしれません。ごめんなさい。是非皆さんご教授ください。
そこで子規さんにあやかって一句

「生死(しょうじ)とは蝿打つて蟻に与えけり    子規もどき」   いやはや
平成23年8月「涼しさや人さまさまの不恰好   子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成23年8月の子規さんの句は「涼しさや人さまさまの不恰好   子規」です。明治27年の作品で、季語は「涼し」(夏)です。
俳句の季語の面白さですが、「歳時記」には「暑し」とならんで「涼し」が載っています。夏の暑さは当然ですが、夏は暑いからこそひとしお涼気が意識され、一抹の涼気がこころよく感ぜられるということでしょう。朝涼、夕涼、晩涼、夜涼、微涼、涼風、灯涼し、影涼し、月涼しなど、次々と季語が浮かんできます。もっとも「財布涼し」い昨今ですが、こればかりは「季語」にはないますまい。いやはや。です。『子規全集』A巻「寒山落木 巻三 明治27年夏」(62頁)に掲載されています。
明治27年夏は子規さんにとって比較的体調が落ち着いた時期でしたから「俳句分類」に真剣に取り組んでいた時期ともいえましょう。「涼し」の句をこの時幾つも作っています。
涼しさや人去て鷺舟に立つ
涼しさや石に注連張る山の奥
涼しさや柳につなぐ裸馬
涼しさや夕波くゞる大鳥居
涼しさや水楼を下る白拍子
涼しさや都を出づるうしろつき
涼しさや梅も桜も法の風
涼しさや人さまさまの不恰好
もっとも「涼しさや人さまさまの不恰好  子規」には「夕顔棚の下涼みのかたに」という前書きがあります。想像ですが、根岸の子規庵に漱石や鴎外、鳴雪、虚子、碧梧桐(どの俳人でもいいのですが・・・)が集まって句会を開く。中休みには、濡れ縁や棚に坐って、俳句談義を交わしている姿が目に浮かぶようです。「さまざまの不恰好」な姿にも、子規さんを中心に集まった青年たちの溌剌とした明治の息吹、日本派俳人の青春を感じます。
庭に縁台を出して、冷やしそうめんを食べながら半年振りに父子のたわいない話が続く。孫たちは蝉取りに飽きて花火をせがみ始める。母と嫁たちが、都会の流行や進学のことを真剣に語っている。さっと微風が過ぎさると、その一角には夏の涼しさが漂う。ことしのお盆も近くなりました。そろそろ、どこのご家庭でも非日常的な数日を大家族で迎えられることでしょう。
そこで子規さんにあやかって一句

「夏休み人さまさまの幼き日   子規もどき」 道後関所番
平成23年9月「渋柿は馬鹿の薬になるまいか   子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成23年9月の子規さんの句は「渋柿は馬鹿の薬になるまいか   子規」です。明治29年の作品で、季語は「柿」(秋)です。『子規全集』A巻「寒山落木 巻五 明治二十九年夏」(571頁)に掲載されています。
一年前の明治二八年夏は、結核療養を兼ねて松山に帰省し漱石の下宿先「愚陀仏庵」で過ごしていますが、上京後は病床にあって歩行もままならず、外出は人力車をつかうという日常生活になったようです。この句には前書きがあるのですが、この句だけでは「馬鹿につける薬」の宣伝コピーではないかと誤解されそうです。いやはや。
前書は「露月国手を嘲る」とあります。
「露月」とは石井露月(いしいろげつ)のことで明治から昭和前期の俳人(1873−1928)です。上京して明治27年から正岡子規に師事し,新聞「日本」の記者となる。のち医師試験に合格し,秋田で開業。33年島田五空『俳星』誌を創刊,子規の日本派俳風をひろめました。
「国手」とは、@国を医する名手、名医。A囲碁の名人の意味があります。露月が子規庵での句会後の雑談で「国手」を名指しにして嘲(あざけ)ったのでしょうが、「国手」が「国を医する名手」なのか「神の手を持った名医」なのか具体的な事実は承知していません。ご存知の方がいらっしゃればご教示ください。
もっとも選句者である天野祐吉氏のホームページに「渋柿は馬鹿の薬になるまいか  子規」に触れた一文があり、「国を医する名手」を皮肉っておりますのでご紹介します。
「あの渋柿の渋さって、ほんと、キョ?レツだよね。口の中から頭の中心にすごい渋さが駆け抜けて、頭がこむら返りを起こしたような衝撃に襲われる。その衝撃のすごさは、馬鹿も直ってしまうのではないかと思われるほどだ。・・・
そうそう、ボッスの絵に「馬鹿の石」ってのがあるよね。馬鹿は頭の中には石が入ってるらしい。で、それを医者が手術して取ってるって絵。この際、こっちの馬鹿は棚に上げて、あの絵に渋柿を添えて、国会に贈ってあげたいね。」
(注)『天野祐吉のあんころじい』http://amano.blog.so-net.ne.jp/2011-06-03 
   ここにはボッスの絵「馬鹿の石」が掲載されています。是非ご覧ください。
柿好きの子規さんのことですから柿を採り上げた句は多いし、渋柿の句も結構あります。もっとも渋柿はそのままでは食べるわけにはいきませんから食いしん坊の子規さんの渋柿評は辛辣です。
「渋柿の庄屋と申し人悪き    子規」
「渋柿や猪隣村へ来る      子規」
子規の高弟の一人である松根東洋城が主宰した俳誌に『渋柿』があります。この『渋柿』のいわれは、大正3年(1914)、東洋城が宮内省式部官のとき大正天皇から俳句について聞かれ「渋柿のごときものにては候へど」と答えたことが有名となったことから命名した由です。
子規さんの没後、高浜虚子との決定的な軋轢があり『ホトトギス』を離れることになった東洋城の最後を看取ったのは、松山東高校二九年同期会の副会長である娘時代の樋口加寿子さんでした。知る人ぞ知るといった「秘話」でしょうか。詳しくは『明教』誌の樋口さんの名文をご覧ください。

そこで子規さんにあやかって一句
「笑い茸馬鹿の薬になるまいか   子規もどき」  道後関所番
「馬鹿は死ななきゃ治らない」に引っ掛けましたが、絶対に「笑い茸」は食べないようにお願いします。念の為。 いやはや。
【てまり宗匠⇒  】
懸垂幕の句を通りがかりの者の視点で考えてみました。
@ まず、柿好きの子規さんは十分さわしてない柿を食べて渋さに腹が立ち、ろくでもない渋柿は馬鹿(知的障害者ではありません)の薬にでもならんのかと問いかけている。
A 薬剤師の友人は「強烈な渋さから薬を想像したと思う。柿渋は民間薬の一つで赤本にも載っていて皮膚病や脳卒中に効くから」とおっしゃいました。わたしはそんならワーファリンを止めて飲もうかと思えども勇気無く干し柿を食べようと思った次第です。
B「脳の中の石」は腫瘍か血栓かと。
C 前書きのある句を裸で出したのは、自由な解釈を楽しみ、それで飽き足りない人は子規の本を買いなさいと言う天野氏の策略でしょうか?
わたしは、通りすがりに見て、言葉遊びの種に利用する派です。こんなことでごめんなさい。
【道後関所番⇒】
ブログを一昨日拝見し連句(連歌)の掛け合いを成程なるほどと思っていました。お相手は薬剤師さんだったのですね。これからも「通りすがり」の俳句エッセイを楽しみにしています。
「馬鹿」で思い出したのですが、京言葉では「馬鹿」は平安時代の貴族言葉、次いで「たわけ(田分け)」が室町時代、「あほ(阿呆)」は新しくて近世のようです。東京の親しい友人と会うと「お前、馬鹿だなあ」は今でも常套語になっています。松山では絶対使いませんが・・・。子規さんグループも「東京人」発想で「馬鹿の薬」といったのかもしれません。
関西流では「おまえ、アホやなあ。アホなお前には、渋柿がええ薬やでえ」というニュアンスでしょうか。中京では「どたわけ。渋柿かじって頭冷やしてこい」になるのでしょうか。全国各地の「馬鹿の薬」を教えてください。  ところで、松山での「馬鹿の薬」は・・・・・
【あいあい宗匠⇒  】
子規博懸垂幕9月号「渋柿は馬鹿の薬になるまいか  子規」はまたまた傑作でしたね。渋柿を齧って脳天ひっくりかえし、賢くならない今のあいあいでも解釈出来たつもりで読み笑い転げました。
この句には、「露月国手を嘲る」の前書きがあるそうですが、これが関所番さま言われる通り‘露月(が)国手を嘲る’なのか、‘(子規が)露月国手を嘲る’なのか・・・?で解釈鑑賞もおのずと異なってくると思います。前者の国手は「国を医する名手」、後者なら「名医」でしょうか。露月は当時、記者、俳人、医師と三束の草鞋を履いていたから何れにもとれると思います。子規博名誉館長天野氏が前書きを外されたのはてまりさまが言われる通り、‘自由にご鑑賞を’の氏のご配慮と思います。

コラムニストのお顔で天野氏の「国を医する名手」を皮肉ったエッセイはボッスの絵の引用と共に流石!と面白く拝読しました。居眠り議員にはもう一つおまけに子規の掲出句の短冊も添えて・・・(笑)本当に頭のいい秀才は「馬鹿」と言われても全く気にならないのだそうですね。馬鹿!より嫌いっ!の方が怖いみたい(笑)では本当の馬鹿は?馬鹿でもそんな本当のこと(差別用語)は言わない・・

同じ馬鹿と言われるならあいあいは東京弁の馬鹿より関西弁のアホの方が耳に優しいからいいですね。富山では方言に‘だら’がありましたがそれが微妙で‘どぁーらー’とか、イントネーションやアクセントで巧みに感情表現を連発しながら小中学生が野球などしていたのを思い出します。

では最後に駄作を一句「猿柿は渋柿なるぞアホあいあい  aiai
【道後関所番⇒ 】
さすがさすが鋭いご指摘、有難うございました。「露月国手を嘲る」は「石井露月医師」そのひとではないかと、早速『子規全集』の「子規年譜」を調べました。明治29年(1896)10月26日の条に記録がありました。

目黒不動前の茶屋福島屋で、露月の送別会を兼ねた俳句小集(表題。栗飯)が開催されました。子規、碧梧桐、虚子、墨水、杷栗、肋骨、愚哉、蒼苔、露月、繞石、秋骨が出席しています。そこでの子規さんと露月とのやりとりです。
露月国手を嘲る
渋柿は馬鹿の薬になるまいか    子規
留別
渋柿を喰つてしまへば帰るなり    露月

老生は「嘲る(あざける)」をまともに解してしまいました。石井露月が郷里秋田に大医者先生として錦を飾る餞として「渋柿は馬鹿の薬になるまいか 」と「馬鹿の薬」で子規さん一流の「よもだ」でおちょくったのでしょう。露月も露月で「留別」(旅立つ人が、あとに留まる人に別れを告げること)と前書きして「渋柿を喰つてしまへば帰るなり  露月」 と切り返します。恐らく出席者全員が大笑いしたことでしょう。 こんな句会なら参加してみたいものです。ご指摘深謝。さすが実作者の深い読みですなあ。勉強になりました。  皆さんにもご紹介したくて駄文を記しました。  

九月十九日の子規忌を前にして
「渋柿は三途の渡船代になるまいか    子規もどき」  いやはや。   道後関所番
平成23年10月 「話ながら枝豆をくふあせり哉   子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成23年10月の子規さんの句は「話ながら枝豆をくふあせり哉   子規」です。明治31年の作品で、季語は「枝豆」(秋)です。『子規全集』B巻「俳句稿 巻五 明治三十一年秋」(212頁)とD巻「俳論俳話二」中「立待月」(73〜79頁)に掲載されています。
明治31年10月2日(旧暦8月17日・立待月)に上野元光院の月見の会に子規さんは出席しました。参加者は20人でした。子規さんは観月会を題材に百句詠み、同年10月7日付の新聞「日本」に「立待月」と題して掲載しました。この句は、その中の一句でした。
枝豆はビールのつまみに最適ですが、十五夜に供えるので「月見豆」とも呼ばれています。上野元光院の月見の会でも枝豆が供えられ、卓上にも枝豆が出されていたのでしょう。食いしん坊でおしゃべりの子規さんですから、観月はそっちのけにして、仲間との俳句談義と枝豆に夢中になってしまって気がついたら皿の枝豆は空っぽになっていたのでしょうか。「あせり哉」の使い方の妙が、なんともいえないですなあ。
明治33年の子規さんの句に「枝豆は喰ひけり月は見ざりけり   子規」があります。やや月並みの句といえそうですが・・・・・現代のビヤホールの光景も、明治のそれとまったく変わりませんなあ。いやはや。
「立待月」の百句は十句づつ10の括りになっており表題がつけられています。一句目と十句目をリストアップしてみました。遅れ立待月で観賞していただければ幸いです。明治の時代、東京にも「芋炊き」があったのでしょうか。
精舎 卓上
三十六坊一坊残る秋の風
僧の書あり瓶に活けたる秋の風
名物や月の根岸の串団子
精進に月見る人の誠かな
準備 雑談
朝曇り観月会の用意かな
芋の用意酒の用意や人遅し
蘭の如き君子桂の如き儒者
外にありや扇の骨の紋処
始夕 琵琶
夕焼けて日和になりぬ秋の雲
庭の灯に人顔映る夜寒かな
琵琶聴くや芋をくふたる顔もせず
瓶花露をこぼす琵琶三両曲
待月 囲碁
松蔭や月待つ人の話声
ある僧の月を待たずに帰りけり
碁の音の林に響く夜寒かな
碁に負けて厠に行けば月夜かな
月出 人散
月白も無くて月出る野末かな
月の雲木の葉動かぬ雨気かな
月曇る観月会の終りかな
有明に鬼と狐の別れかな
平成23年度高校同期会総会を祝す

「喜寿の宴狐と狸の出会いかな   子規もどき」 

「話ながら枝豆くふを忘れたり   子規もどき」  いやはや 道後関所番
平成23年11月 「猫老て鼠もとらず置炬燵   子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成23年11月の子規さんの句は「猫老て鼠もとらず置炬燵   子規」です。
明治25年の作品で、季語は「置炬燵」(冬)です。『子規全集』@巻「寒山楽木 巻一 明治二十五年 終りの冬」(159頁)に掲載されています。 なお、新聞「日本」明治25年12月18日『動物合せ』にも載っています。
新聞「日本」の同年同月同日の俳句欄に目を通していませんが、『動物合せ』とは正月の遊びの企画でしょうか。子供のときに遊んだ「兎と亀」「猿と蟹」といった「絵合わせ」の類かなと勝手に想像しています。後日、新聞「日本」の復刻版で「動物合わせ」の句を調べてご報告しましょう。とすると、この句は俳趣とは異質な滑稽句で、絵札としても使用できる目的的な句といえるのでしょうか。実作者の方の反論がありそうですが、置炬燵の掛け布団の上に老猫が寝転んでいて鼠が畳の上で踊っている絵札を見たような気もします。
明治25年11月14日に母八重と妹律を神戸に出迎え、17日東京に着き、いよいよ根岸で家族三人の生活が始まる。家財道具もあまりない根岸の(子規庵の)居間にぽつんと火燵が置いてある。ノンビリしているのは子規さんのほうで、八重さんと律は、師走を控えて、たすき掛けでの大忙しの日々であったのではなかろうか。
そこで子規さんにあやかって一句

「人老いて電話も取らず置炬燵   子規もどき」 
携帯電話とエアコンの時代には古すぎるかなあ。
東京・大阪では電力使用削減の要請下、炬燵と湯たんぽの再活用が見直されているようですなあ。四国は電力使用制限がありませんから、いっそ避寒に来松されませんか。いやはや   道後関所番
平成23年12月 「追々に狐集まる除夜の鐘   子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成23年12月の子規さんの句は「追々に狐集まる除夜の鐘    子規」です。明治30年の作品で、季語は「除夜の鐘」(冬)です。『子規全集』第二巻 俳句三 「俳句稿 明治30年冬」(101頁)に掲載されています。
前書に「王子」とあるので、王子権現(王子神社)の境内にある王子稲荷を詠んだことがわかります。天保七年(1837)の『江戸名所図会』によると、稲荷神社付近の装束畑、衣装榎の下に、大晦日の夜関八州の狐が集まり、王子稲荷に翌年の官位を請うたといわれました。その灯った火の連なりが「王子の狐火」として江戸時代から有名でした。
この句を観賞するにしても、子規はこの話を下書きにしているので、「除夜の鐘が鳴る時刻が迫ってきて関八州の狐が追追集まってきて狐火の数もだいぶ多くなったわい。」ということになるのでしょう。
通説では稲荷大明神の狐の官位は「正一位」で、狐の最高位になりますが、正確には稲荷大明神の主祭神は、食物を担当する倉稲魂神(うがのみたまのかみ)ですから、この主祭神に正一位の神階が贈られるということになります。狐は主祭神の眷属(従者)だから狐に正一位が贈られたわけではないのですが・・・
四国松山では狐でなく狸が主人公で、特に松山では「八百八狸」が著名です。八百八狸の総帥が隠神刑部で久万山の古い岩屋に住み、松山城を守護し続けていたという化け狸で、「刑部」の名称は松山城の城主の先祖から授かった称号です。家臣から信仰され、藩の農民からは親しまれた。
東雲神社から東に下って伊予鉄市内線「上一万駅」の近くに建っている六角堂稲荷社<狐>の傍に八又榎大明神(お袖大神<狸>)を祀るお堂があります。狐と狸が同居する松山人の大らかな気分に敬意を表します。いやはや。
そこで子規さんにあやかって一句
 隠神刑部大明神
「追々に狸集まる久万の雪   子規もどき」  道後関所番 
【御用とお急ぎでない詮索好きの方に】
きつね‐び【狐火】 『広辞苑』
(狐が口から吐くという俗説に基づく)
〓暗夜、山野に見える怪火。鬼火・燐火などの類。狐の提灯。〓〓冬〓
きつね‐び【狐火】 『ウイキペディア』
一般に死骸がバクテリアに分解される際、リン化合物が光って狐火になる現象だったのではないかと言われているが、現在のところそれを確定する根拠は示されてはいないし、なぜバクテリアが減少する冬によく発生するのか説明がつきにくい。
しかし、狐火がよく出た年は豊作であるという言い伝え(宮城地方)などは、化学肥料がなかった時代、動物の死骸の数と米の収穫量の関係からその説を支持する。 また、狐火がキツネと関係しているという迷信は、キツネが死肉もあさるということや、木の根付近に食べ残しを埋めて忘れる習性から生じたものではないかといわれる。 狐火については鬼火項を参照。
狐火については判らないことも多く、今後の解明が待たれる。