平成25年1月 「書初の今年も拙かりけるよ    子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の子規さんの平成25年1月の句は、「書初の今年も拙かりけるよ    子規」です。明治30年(1897年)の作品で、季語は「書初」(新年)です。
 『子規全集』第三巻 俳句三 「俳句稿   明治三十年 新年」(8頁)に掲載されています。新聞「日本」の明治31年1月4日号に掲載されました。 同日の俳句欄には下記の子規さんの句も載っています。
飾小く門と知らで人の行き過ぎぬ      子規
初夢の何も見ずして明けにけり       子規
福引の何やら知れぬ包み哉         子規
 明治30年の正月三ヶ日は子規庵で過ごしており、4日に子規庵で新年の発会式(11名参加)しています。1月4日付けの新聞ですから、三ヶ日中に書初めをしたのでしょうか。新年の書初めが今年もあまり上手に書けなかったなあという気持ちを素直に詠んだ句ですが、子規さんの遺墨をいる限り能筆だと思うのですが・・・・・
子規さんの幼少時代の住まいの近郊にある井手神社では、「大文字」といって、天神祭(旧暦6月24、5日)に手習いを奉納して境内に掲げて、字の上達を祈願していました。子規さんも、この「大文字」を楽しみにしていたようです。
 私共の国民学校(小学校)時代には、講堂で書初め大会が開催されていました。その後、廊下に張り出されてみんなで見て回った記憶があります。いまだに「天・地・人」に入賞した腕白仲間のことは記憶しています。最近はどうなっているのでしょうか。孫から、書初めの話は聞いていませんが・・・・・
そこで子規さんにあやかって一句
「書初めの今年も天に届かざる   子規もどき」   道後関所番
平成25年2月 「衣更着や爺が紙衣の衣がへ    子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の子規さんの平成25年2月の句は、「衣更着や爺が紙衣の衣がへ    子規」(きさらぎや じじがかみこの ころもがえ)です。明治二十六年(1893年)の作品で、季語は「衣更着(如月 きさらぎ)」(春)です。
 『子規全集』第一巻 俳句一 「寒山落木  明治三十六年 抹消句」(464頁)に掲載されています。季語「衣更着」を使った「衣更着や稚なまぬるき不二嵐   子規」(明治二十五年)の句がありますが、この句も抹消句になっています。二月は「如月」ですが、「如月」は「衣更着」が語源かと思って『広辞苑』を検索したら間違っていました。
「きさらぎ【如月・衣更着】
(「生更ぎ」の意。草木の更生することをいう。着物をさらに重ね着る意とするのは誤り)陰暦2月の異称。きぬさらぎ。」
二月(陽暦の三月)になって、爺(じじ)さまが寒さを防ぐための紙衣(かみこ)を脱いで衣更ええしているという春が到来した喜びの情景句でしょう。
紙衣も明治初期には着用したのでしょう。『広辞苑』によれば、「紙製の衣服。厚紙に柿渋を引き、乾かしたものを揉みやわらげ、露にさらして渋の臭みを去ってつくった保温用の衣服。もとは律宗の僧が用いたが、後には一般にも用い、元禄(1688〜1704)の頃には遊里などでも流行した。かみぎぬ。」と記載されています。昭和生まれ世代の記憶では「でんち」(袖なし半纏)にあたるのでしょうか。もっとも「衣更着や爺がでんちの衣がへ    子規もどき」では俳句の境地までにはほど遠いですなあ。いやはや。
中村草田男の句として著名な「降る雪や明治は遠くなりにけり   草田男」ですが、その昔、高校の恩師である渡部勝巳先生から、草田男から直接聞いたという貴重な話を伺いました。
草田男は旧制松山中学・旧制松山高等学校を卒業して東京帝国大学に進学しますが、10数年ぶりに小学校時代通学した赤坂区青南尋常小学校(のち港区立青南小学校)を再訪する。その日は校庭に雪が積もり長靴を履いた学童が元気よく帰宅している。草田男の小学校時代は長靴はなく、(高)下駄を履いて通学に難渋した記憶がよみがえった。そこで、「明治の風情はなってしまった」という感慨を句にしたのだそうだ。
子規さんの衣更着の句も、もう体感することのできない「明治の句」であろう。
そこで子規さんにあやかって一句
「衣更着や爺婆身軽の寺まいり   子規もどき」(きさらぎや じじばばみがるの てらまいり)   道後関所番
平成25年3月 「春雨や裏戸明け来る傘は誰    子規
平成25年3月 「春雨や裏戸明け来る傘は誰    子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の子規さんの平成25年3月の句は、「春雨や裏戸明け来る傘は誰    子規」です。明治三十三年(1900年)の作品で、季語は「春雨」(春)です。
 『子規全集』第三巻 俳句三 「俳句稿  明治三十三年 春」(325頁)に、前書きに「草庵」と記して掲載されています。この句に類似する「春雨や裏戸入り来る傘は誰   子規」が、『子規全集』第十二巻 随筆二「春浅き庵」(444頁)にも記載されており、『俳星』(第一巻第二号)明治33年4月10日号)に寄稿されています。
子規さん自身のエッセイから句趣を味わってみます。
「ガラス戸の向ふに当り裏木戸ありてこゝより往来する人も少からず。つれづれの人待ちかぬる折からこゝをあくる郵便脚夫に驚かされて望を失ひながら故郷の新聞を受け取りて知りたる人の名前を見つけ出すせめてもの嬉しさ。牛乳に珈琲入れて今日もはや三時過なり。
  春雨や裏戸入り来る傘は誰   」
「春雨や裏戸入り来る傘は誰  子規」」と「春雨や裏戸明け来る傘は誰  子規」のいずれがオリジナルの句かとなると、実作者のご見解をお聞きしたいものです。
老生は 「裏戸入り来る傘は誰」の方が実景で、「裏戸明け来る傘は誰」は子規さんの技巧の句と思います。「明け来る」の「明け」に引っかかります。もっともそのほうが良いのだという俳人もいらっしゃるでしょう。
最近は拙宅に来る書状類はダイレクトメールが多く、筆(ペン)書きの書状は稀にしか届きません。賀状は別として、宛名と氏名だけは自筆で通しているのですが・・・・・
そこで子規さんにあやかって一句

「春雨や裏戸入り来る子猫かな   子規もどき」   道後関所番
平成25年4月 「遠足の十人ばかり花の雨    子規」
平成25年4月 「遠足の十人ばかり花の雨    子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の子規さんの平成25年4月の句は、「遠足の十人ばかり花の雨  子規」です。明治三十二年(1899年)の作品で、季語は「花の雨」(春)です。
 『子規全集』第三巻 俳句三 「俳句稿  明治三十二年 春」(262頁)に掲載されています。この句は文芸誌「ふた葉」(明治32年6月1日付)根岸庵臨時会』と新聞「日本」(明治34年4月4日付)「桜花・雨」にも掲載されています。子規さんにとっても自信の句だったのかもしれません。
(注)文芸誌「ふた葉」は、大阪の金尾文淵堂が明治32年に発刊、33年には『ふた葉』を 改題し雑誌『小天地』となった。
 10人ばかりの仲間が集まって花見の遠出に出かけたのでしょう。折悪しく花見の最中に雨が降ってきたのでしょう。「花の雨」は花時に降る冷たい雨をさします。まさに花冷えの雨の風情といえましょう。
 満開の桜も良いが雨中の桜もまた良しとして桜狩を愉しもうといったところでしょうか。明治32年といえば、子規さんの遠出は考えられませんから、元気だった頃の花見の思い出でしょうか。
 ところで「遠足」という言葉ですが、今日の「遠足」は学校での見学や運動を目的とした日帰りの校外指導をイメージします。子規さんの使っている「遠足」は日帰りできるくらいの遠い道のりを歩くのが遠足のイメージです。 『広辞苑』では、福沢諭吉の福翁百話「強壮に誇る若紳士の仲間には、游泳競漕遠足等の大挙動なきに非ざれども」と、ものものしく「遠足」を紹介しています。いやはや。
 そこで子規さんにあやかって一句

「吟行の十人ばかり花の雨    子規もどき」   道後関所番
平成25年5月 「寝ころんで書読む頃や五六月    子規
平成25年5月 「寝ころんで書読む頃や五六月    子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の子規さんの平成25年5月の句は、「寝ころんで書読む頃や五六月  子規」です。明治二十九年(1896年)の作品で、季語は「五六月」(夏)です。 「書」は「ふみ」と読みます。
 『子規全集』第二巻 俳句二 「寒山落木 明治二十九年 夏」(457頁)に掲載されています。この句は「早稲田文学」(明治29年6月15日)に掲載されています。当時の「早稲田文学」は坪内逍遥時代ですが、同誌(明治29年6月15日)に当たってみると子規の句が多く掲載されています。
篭城の水の手きれぬ雲の峰  
更衣老妓を招く詩会かな  
寝ころんで書読む頃や五六月  
連翹に一閑張の机かな   
二大隊花見の中を通りけり   
雀子や学問にうとく見え給ふ  
永き日の兵糧はこぶ大手哉   
新緑の中でごろりと横になって本を読むという風情は誰しも経験したところですが、「寝ころんで書読む頃」イコール「五六月」という理屈っぽさが先立ちます。私の好みからいうと、あまり感心しないし、子規さんの句らしくないと思います。鑑賞しようにも「新明解辞典」流そのままなので割愛します。もっとも傘寿を来年に控えた老眼のシニアには「寝ころんで書読む頃は過ぎ去りし」です。いやはや。実作者の方の鑑賞をぜひご教授ください。
明治29年春には漱石が愛媛県尋常中学校から熊本の第五高等学校に移り、子規は2月に脊椎カリエスの診断でショックを受けた時期に当たります。子規さんの句作は明治18年からですが、その当時の句に「ねころんで書よむ人や春の草   子規」があります。18歳の子規さんの句のほうが、25歳の句より俳句らしいと思うのは老生ひとりだけでしょうか。
そこで子規さんにあやかって一句
「まどろんでみる老いの夢五六月    子規もどき」  道後関所番
平成25年6月 「よって来て話聞き居る蟇   子規
平成25年6月 「よって来て話聞き居る蟇   子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の子規さんの平成25年6月の句は「よって来て話聞き居る蟇  子規」です。明治29年(1896年)の作品で、季語は[蟇(ひきがえる)](夏)です。
『子規全集』第二巻 俳句二 「寒山落木 巻四 明治二十八年 夏」(245頁)と第二十一巻 草稿ノート 「病餘漫吟 明治二十八年夏」(65頁)に掲載されています。「病餘漫吟」では「よって来て話きゝゐる蟇   子規」となっています。
一読して「鳥獣人物戯画」(京都・高山寺伝来)で大活躍する蛙が眼前に現れました。愛嬌のある擬人化された蛙たちです。この句の背景は「病餘漫吟 明治二十八年夏」から推察が可能となります。
明治28年5月に日清戦争の従軍記者として赴任し、帰国の船中で喀血します。危篤の状態で県立神戸病院に担ぎ込まれ、須磨保養院で静養を続け、8月に松山に帰省し、愛媛県尋常中学校の英語教師として勤務中の夏目漱石の寄宿先で愚陀佛庵に転り込み、松風会の仲間とともに俳句革新の烽火を上げたことは先刻ご存知のことと思います。
 この句は、神戸病院で死線をさまよった時に、「子規倒れる」の報に接した母八重さんをはじめ親類縁者、虚子や碧梧桐らの門弟、会社の仲間が駆けつける。当初の暗い話から、徐々に明るい話になり、見舞い客の声もやがて明るい大きな話声になっていく。子規さんの声がひときわおおきかったのかもしれない。
部屋の隅っこで聞き耳をたてていた蟇も、その場の雰囲気に誘われて近くに寄ってきたのを、子規さんは「鳥獣人物戯画」よろしく句にまとめたように思われます。見事な作品です。
いかにも子規さんらしい俳句と思います。そこで子規さんにあやかって一句
「寄って来て話聞き居る夜の蝶   子規もどき」  
駄作ですが思い当たるご同輩も多いのでは・・・・・いやはや。   道後関所番
平成25年7月 「これはこれはこれはことしの熱さかな   子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の子規さんの平成25年7月の句は「これはこれはこれはことしの熱さかな  子規」です。明治26年(1893年)の作品で、季語は[熱さ(暑さ)](夏)です。『子規全集』第一巻 俳句一 「寒山落木 抹消句 自明治十八年至同二十六年」(483頁)に掲載されています。
(注)「これはこれはこれは・・・・・」の第2、第3番目の「これは」は、縦書きでは「く」の重ねになっています。横書きでの繰り返しの表示ができませんので悪しからず。
「これが俳句か」と聞かれれば、天野祐吉・子規記念博物館名誉館長好みの「よもだの句」でしょうとお答えするしかありません。近年抹消句の選句が多いのですが、一般には「抹消句」かどうか分かりません。子規さんが何らかの理由があって(そのなかには実験句や駄作が当然含まれています)抹消したのでしょうが・・・・・
たとえば明治20年の抹消句に「夕暮より道後へ行きて帰るに  昼は青田夜は蛙聞く往来哉   子規」があります。「昼は○○ 夜は○○ ○○哉」は、子規が否定した月並み俳句の典型のように思えます。今月の句の「これはこれはこれはことしの○○かな」は、マスコミが流す今年の長期予測か世相のように思われます。「昼は○○ 夜は○○ ○○哉」も同趣向でしょう。実作者のお叱りがあると思いますが、初心者の方でも「一人千句」に挑戦できますね。いやはや。
明治26年の夏は猛暑だったのでしょう。「暑さ」を「熱さ」と表現していますので、じっとしていても汗が流れ出るような感じです。因みに、同じ年に、「ただあつし起きてもゐてもころんでも  子規」とか「けふをこそ限りなるべきあつさかな   子規」などの句を残しています。
この猛暑を東京のこととして鑑賞してもいいのでしょうが、実際は7月19日から8月20日まで約1ヶ月間、日本新聞社の補助もあり、東北方面に各地の宗匠を訪ね歩いています。『はてしらずの記』として紀行文を残しています。
旅の道中の熱さ(暑さ)と理解すると真夏の四国遍路のように「これはこれはこれはことしの熱さかな」も実感できるかもしれません。もっとも天候不順で、しかも猛暑でもあり、子規は体調を崩しての「奥の細道」の旅であったようです。それだけに「ことし(東北)の熱さ」が身にこたえたのかもしれません。
古稀から傘寿の年代になると暑さに鈍感になるそうです。すべてにそうかもしれませんが、くれぐれも水の補給をお忘れなく。いやはや。
そこで子規さんにあやかって一句
「これはこれはこれはことしの新酒かな   子規もどき」 

「昼は青田夜は蛙聞く遍路哉    子規もどき」     道後関所番
平成25年8月 「撫子に踏みそこねるな右の足  子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の子規さんの平成25年8月の句は「撫子に踏みそこねるな右の足   子規」です。明治30年(1897年)の作品で、季語は[撫子](秋)です。『子規全集』第三巻 俳句三 「俳句稿 明治三十年 夏」(62頁)と第十四巻 試論 日記「病床日誌 明治三十年」(46頁)に掲載されています。
(注)子規は「撫子」を夏の季語にしています。7月に咲くから夏の花でしょうが、「秋の七草」にも顔を出しているから秋の季語のほうが相応しいのでしょうか。それとも「大和撫子」は日本女性の美称ですが、最近の肉食系撫子は夏の季語かな。いやはや。
 この句には前書「送肋骨」があり、俳人佐藤肋骨に送った句であることを分かります。俳句そのものは「撫子の花に見とれて、右足を踏み損ねることのないように気をつけなさい」という意味だろうと思います。なんだかよく分からない挨拶句ですが、幸い、子規さんが「病床手記」の8月6日に「夜佐藤肋骨来ル明日ヲ以テ山陰ノ旅行ニ上ラントスル也」と記載していますので若干解説してみます。
 この句には前書「送肋骨」があり、俳人佐藤肋骨に送った句であることを分かります。俳句そのものは「撫子の花に見とれて、右足を踏み損ねることのないように気をつけなさい」という意味だろうと思います。なんだかよく分からない挨拶句ですが、幸い、子規さんが「病床手記」の8月6日に「夜佐藤肋骨来ル明日ヲ以テ山陰ノ旅行ニ上ラントスル也」と記載していますので若干解説してみます。
佐藤肋骨(明治四〜昭和一九)は、東京に生まれ、本名は安之助。陸軍少将で永く在外武官として活躍し、シナ通として重きをなした。近衛連隊在職中から五百木瓢亭(新聞「日本」編集長)、新海非風{陸軍士官学校中退)らと作句し、子規の教えを受けている。別号隻脚庵主人であり、日清戦争従軍中に右足を失っている。(『子規全集』第二十二巻 年譜資料「子規門人略伝」(769頁)
という次第で、山陰に旅立つ佐藤肋骨に、あえて失った右足に言及し、左足一本での旅の安全を心から祈り、門出を祝った子規の優しい真情が伝わってきます。
俳句のメッセージ性を再確認しました。作品を人前に披露する、選者の気に入る俳句を作る、或いは「俳句甲子園」でディベイトするといった俳句と違って、その人の為に、その人だけにわかる俳句もいいものですなあ。青春時代のラブレターの想いを老年の俳句メッセージに凝縮したらすばらしい俳句が生まれるのでしょうか。もう遅いかなあ。いやはや。
大学2年次に「万翠荘」(久松家別邸)でダンスパーティを企画した記憶が甦りました。那須の宗匠、ご記憶ですね。
そこで子規さんにあやかって一句
「舞踏会踏みそこねるな右の足  子規もどき」 道後関所番
平成25年9月 「へちまとは糸瓜のやうなものならん  子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の子規さんの平成25年9月の句は「へちまとは糸瓜のやうなものならん   子規」です。明治30年(1897年)の作品で、季語は[糸瓜](秋)です。『子規全集』第三巻 俳句三 「俳句稿 明治三十年 秋」(94頁)と第十四巻「病床手記」九月八日(426頁)に掲載されています。 また新聞「日本」の明治三五年十月二七日号に掲載されています。
手記には
「九月八日 大雨 
   朝痰ニ血少許ヲマジユ 
   今日ハ起キテ坐セズ
   此夜雷鳴大雨暁方ニ至リ暴風屋ヲ揺カス
   此夜ハジメテ蚊帳ヲ釣ラズ」
と記し十七句書き留めています。そのなかの一句が「へちまとは糸瓜のやうなものならん」ですが3句前に「蜻蛉の蜻蛉にとまる水の上」があり、同じ季語を重ねる楽しみを味わっていたのかもしれません。
それにしても、この句の鑑賞は難しい、まるで禅問答のようです。
修行僧「へちまとは何ぞや」に対して、師が「へちまとは糸瓜なり」と答える。修行僧はなにを会得したか。所詮、名前は名前、なんと呼ぼうが実体は変わりっこない。
子規は辞世の句として「糸瓜三句」を残しており、子規と糸瓜(へちま)は切り離せません。糸瓜への思い入れがあるのかもしれません。事実、糸瓜は子規さんにとって咳止め、痰きりのくすりとして生命の水でした。へちまは所詮へちまにすぎないが、俺にとっては糸瓜なんだと云いたかったのかもしれません。
8月に、四国カルストに出掛けて涼を味わい、帰途、第19回を迎えた西予市城川の「かまぼこ板の絵」展覧会を鑑賞してきました。かまぼこ板が板に載せた蒲鉾と比べ物にならない芸術作品になり、思い出づくり、絆づくりに役立っていることを体感しました。「蒲鉾板」と「かまぼこ板」は、城川ではまったく違う異次元の存在でした。
そこで子規さんにあやかって東洋史的三句を披露します。
「きゅうりとは胡瓜のやうなものならん  子規もどき」
「かぼちゃとは南瓜のやうなものならん  子規もどき」
「すいかとは西瓜のやうなものならん   子規もどき」 いやはや。  道後関所番
平成25年10月 「小坊主や何を夜長の物思ひ  子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の子規さんの平成25年10月の句は「小坊主や何を夜長の物思ひ   子規」です。明治27年(1894年)の作品で、季語は[夜長](秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二 「寒山落木 明治二十七年 秋」(86頁)に掲載されています。
「秋の夜長の物思い」は万葉から古今の時代、江戸から明治期にも脈々と語り継がれた「慣用句」であり、なんら新鮮味もない。とすれば、子規らしい発想は「小坊主」にあるのだろうか。小坊主の意味は(1)修行中の少年僧(2)親しんで呼びかける少年の二つか。
(1)であれば、小坊主が大人のように何を物思いしているのだろうか。修行の悩みか、それとも実家の父母を思ってのホームシックか。まさか「坊さん、かんざし」ではあるまい。それにしても平凡な句である。
(2)であれば、俳句を好んでいる少年か。虚子・碧梧桐をまさか小坊主とは呼ばないだろうが、夜長の物思ひもほどほどにして写生に徹した句づくりをしたらどうなのか。
それとも子規さんが、旅にあって(たとえば木曽路)、とある山寺で、名月のもとで虫の声を愛でながら、ひとりっきりで物思いにふける小坊主を連想したのだろう。そうだとすると、もっと真っ当な子規さんらしい句が生まれたのではないだろうか。
ありふれた素材を使った「よもだ」の句というか、滑稽句のひとつでしょうか。同趣向の夜長の句が、この年には多く散見します。
長き夜の山門へ通う鼠かな
誰が謡ふ旅の夜長のつれつれに
山里は月もなき夜の長さかな
長き夜や誰がきぬきぬと?が鳴く
そこで子規さんにあやかって一句
「八十翁や何を夜長の物思ひ  子規もどき」 いやはや。  道後関所番
平成25年11月 「温泉の町を取り巻く柿の小山かな  子規
 子規記念博物館懸垂幕子規俳句は天野祐吉氏が館長、名誉館長時代の10年弱選者を務めてこられたが先月逝去された。今月からは、天野氏の「よもだ俳句」とは違った選句になるだろうと推察していたが予想通りの句となった。
子規さんの平成25年11月の句は「温泉の町を取り巻く柿の小山かな   子規」です。明治28(1895年)の作品で、季語は[柿](秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二 「寒山落木 明治二十八年 秋」(325頁)に掲載されています。
 明治28年夏、日清戦争取材中に「日本」の記者であった正岡子規は、船内で喀血し、神戸・須磨で療養の後、静養をかねて松山に帰省する。春から松山尋常中学校(県立松山中学前身)の英語教師をしていた夏目漱石が寄宿していた「愚陀仏庵」に身を寄せ、52日間生活を共にする。明治28年10月6日、漱石と連れ立って道後方面を散策するのだが、このときの記録は『散策記』として残っている。
 「温泉の町」は道後温泉界隈で、前年に竣工した道後温泉本館(現存し国重要文化財)の三層楼に登り、南・西方向の道後・松山市街、南東から東方の里山の光景を楽しんだ。大雑把にいうと奥谷・宝厳寺の南が「柿木谷」、東は「桜谷」で、柿木谷は現在「にぎたつ会館」、「メルパルク」、テニスコートなどがあり、戦前は道後小学校の校庭であった。
その昔は、石手から道後一帯は西条柿の一大産地であったらしい。明治中期に持田分家の三好保徳(1862−1905)が「伊予柑」を普及させ、愛媛県は日本一の蜜柑生産県になった。この句は、柿から蜜柑に里山の風景が一変する前の光景を抜き取った俳句として貴重である。
この句の隣に「柿の木や宮司が宿の門構   子規」が詠まれている。道後温泉からの帰途、伊佐爾波神社から道後温泉駅に下る坂道(元の馬場道であるが)にある社家の門構えを見ての句と思うが、子供の頃から見慣れている宮司の野口家、烏谷家なのかは不明である。現在の「ふなや」の場所に「宮司の宿」があったのではないか。その一角に道後の町長を勤め、また初代町長伊佐庭如矢の実家である成川家が20年位前まで残っていた。さらに、この句の隣に「法隆寺の茶店に憩ひて」と前書きして、有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺   子規」と続く。 
道後温泉本館の竣工は明治27年(1894年)で、来年が120周年を迎えるので、上記の伊佐庭如矢の顕彰が大々的に実施される。「坊ちゃん劇場」でも伊佐庭如矢がミュージカルの主人公として公演の予定である。
俳句鑑賞というより、道後温泉界隈の歴史の紹介になってしまった。ところで現在は、この界隈には柿の木を探すのに苦労する。
そこで子規さんにあやかって一句
「温泉の町を取り巻くビルの小山かな  子規もどき」 いやはや。  道後関所番
平成25年12月 「梅活けて君待つ庵の大三十日  子規
子規さんの平成25年月の句は「梅活けて君待つ庵の大三十日   子規」です。明治28(1895年)の作品で、季語は大三十日<おおみそか>](冬)です。『子規全集』第二巻 俳句二 「寒山落木 明治二十八年 冬」(352頁)に掲載されています。
先月(11月)の句「温泉の町を取り巻く柿の小山かな  子規」は明治28年夏、子規が静養をかねて松山に帰省し夏目漱石が寄宿していた「愚陀仏庵」に身を寄せ52日間生活を共にするなかでの散策の句ですが、12月の句は、それからk3ヶ月経過し、場所が東京は上根岸の子規庵に移ります。
俳句の前書きに「漱石来るべき約あり」とあって、この句「梅活けて君待つ庵の大三十日   子規」が記載されています。
併せて「漱石虚子来たる 二句」として
   「語りけり大つもごりの来ぬところ    子規」
   「漱石が来て虚子が来て大三十日     子規」
が披露されています。
漱石は十二月二六日朝、東京に向けて松山を出立し翌々日の二八日、中根鏡(鏡子)と虎ノ門の貴族院書記官長舎の二階広間で見合いし婚約が成立する。婚約の報告を兼ねて三一日に漱石は子規庵に訪れる。子規は漱石の結婚には随分気にかけており、逆に漱石から自分のことはあまり気にしないようにとの書状を送っている。鏡子の父は貴族院書記官長中根重一、母は豁子(かつこ)で長女にあたる。
梅を活けたのは子規ではあるまいが、漱石の訪問を母の八重も妹の律も大歓迎したことが読み取れる。前後して虚子も訪ねて来たので、子規庵では話に花が咲き、まさに「大つもごりの来ぬところ」となったのであろう。
明治二八年という子規にとっては春には従軍記者として清国金州に渡り、夏には喀血で一時危篤となり神戸病院、須磨保養院で入院生活を送り、秋には五十余日、松山で漱石の寄宿先「愚陀仏庵」で凄し、十月十九日故郷を後にする。これ以降子規の病状は回復せず、再度帰省するという夢はかなわなかった。
そこで子規さんにあやかって一句
  孫を連れて帰省する息子へ

「燗をして君待つ庵の大三十日    子規もどき」  いやはや。  道後関所番