平成18年1月  「今年はと思ふことなきにしもあらず   子規」
平成十八年(2006年)正月の子規記念博物館からの子規の句は「今年はと思ふことなきにしもあらず   子規」です。
明治二十九年(1896年)の作品で「日本人」に掲載されました。この句には前書き「三十而立と古の人もいはれけん」があります。「古の人」とは孔子であり「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従いて、矩(のり)を踰(こ)えず。」といはれけん。子規は明治三十五年に三十五歳でこの世を去ります。楽天的な子規ですが天命を感じていたのかもしれません。「子規全集」を熟読すればヒントがあるのでしょうが、そればかりはご遠慮致します。いやはや。お屠蘇の酔いでこんな雑念が湧いてきました。あの世での子規さんと虚子さんの会話です。
子規 「今年はと思ふことなきにしもあらず」と三十にして詠んだが思うようにはいかなんだわ。もっとも脊椎カリエスという不治の病であるとは知らなんだ。
虚子 私はあんたより長生きしたので「去年今年貫く棒のごときもの」と詠んだが、そんなものじゃなかろうか。新年なんて僅か一日の違い、否、1分1秒の違い。瞬時にして今年が去年になるだけさ。
子規 「貫く棒のごときもの」とは上手く言ったと思うが、それじゃあ俳句の革新なんぞできんぞな。
虚子 俳誌「ほととぎす」を見ておみや。あんたや極堂さんが失敗しよって引き継いだけどいまだに日本を代表する「俳誌」よ。貫く棒というか継続は力なりよ。
子規 お前さんにはかなわんな。今年は漱石くんの「坊っちやん」が「ほととぎす」に発表されて100年になる。市長の中村くんは「坊っちゃん市長」としてマチ起しをするらしいな。
虚子 「市長が中学の後輩ならもっと嬉しいのじゃが。ところで昭和二十九年卒の後輩連中は今年三月で全員古希を迎えるのじゃが、しっかりやっとるんじゃろうか。
子規 わしの句を送ってやろわい。「七十而從心所欲不踰矩と古の人もいはれけん 今年はと思ふことなきにしもあらず  子規」
お互い前向きに頑張っていきましょい。改めてまして明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いいたします。 道後関所番
平成18年2月  「春寒き手を握りたる別哉   子規」
寒々とした道後公園内の子規記念博物館の写真ですが、天野祐吉館長選句の二月の子規さんの句「春寒き手を握りたる別哉   子規」をお送り致します。    
昨年「五月の句」を「春の句」として叱責(失笑)を頂きました。まだまだ寒い二月如月ですが、立春からは名実共に春ですから、この時期に「春寒」は相応しい季語なんでしょう。今日は春風が少し肌に寒く感じる陽気ですからピッタリの感じでした。
この句は明治32年、子規三十二歳の句ですから根岸の子規庵での風情ですが、誰の手を握ったかなどという下種の詮索は止めて素直に鑑賞したいものです。ところで、この句の初出は「ホトトギス」第2巻6号の募集句「手」の選者が子規さんで、選者吟として八句掲載している中の一句です。「春寒き手を握りたる別かな」・・・・・ (注)「哉(かな)」は「ホトトギス」では平仮名になっています。
「手に握る彼岸の小銭こぼしけり」
「花に遠く手を引かれたる病者かな」などです。
第二句は子規さんの「よもだの句」でしょうか。彼岸の小銭はあの世への渡し舟の乗船代かもしれないし、閻魔様への賄賂かもしれません。それをこぼしてしまうということは、まだまだ現世で頑張ってみようという子規さんらしい楽天的な気分でしょうか。第三句では強がりを云っていても次第に弱っていく子規さんの姿が浮かんでくるようです。そうなると第一句の相手が気になってしようがありませんが、残念ながら女性ではなさそうですなあ。いやはや。
個人的には卒業式が終わって、三田から銀座へ、そして夜遅く渋谷まで遠征して「恋文横丁」で打ち上げ、急に空腹を感じて友人らと焼き芋を食べて解散した東京での学生時代最後の夜のことを思い出します。春浅き夜、冷たい手で友人達と握手して別れましたが、このときの仲間と卒業後年一回銀座で祝杯を挙げる楽しみはまた格別です。今年も三月上旬に上京します。「春浅き手を握り合ふ岐路(わかれみち)  子規もどき」 
「初恋」は「短夜」同様に儚く、短く、もどかしいもの。子規さんにとっての初恋は松山なのか東京なのか・・・ご存知の方は教えてください。道後関所番
平成18年3月   「風船のふわりふわりと日永哉   子規」
天野祐吉子規記念博物館長選句の三月の子規さんの句「風船のふわりふわりと日永哉   子規」をお送り致します。
明治29年正月に「今年はと思ふことなきにしもあらず  子規」と文学の革新の決意を詠んだ子規さんですが、二月には左腰が腫れて痛みがひどくなり臥褥のままの状態になる。リュウマチの専門家の診断を受け結核性の脊椎炎(不治の病)であることが判明し、カリエスの手術を受ける。自らの身の上を「く者ハあらじ」と記している。このような精神的肉体的状況下での句として鑑賞すると、なんとなく何かが見えてくるようです
この句は同年3月13日下村為山と佐藤紅禄と3人で催した子規庵句会の席での句稿です。日永の長閑で穏かな一日、子規庵の限られた一室で風船の紐をゆるめると、ふわりふわりと風船が浮かんでいる。童心に戻って時の経つのを忘れて風船と無心に遊ぶ子規さんである。浮かんでいる風船は未来を追い求めた己の姿であり、しがらみを断ち切って俳句革新に向った姿でもあり、もはや自由に動くことのできない自分の切ない気持ちを託した姿かもしれない。「風船の」で一息入れ「ふわりふわりと」で精神の自由性を高らかに歌い上げているように思える。
実作者である皆さんは恐らく次のように鑑賞されると思う。春の日に子規庵周辺(或いは野原)で子供達が遊んでいる。風船がのんびりと風に乗って飛んでいる。いかにも長閑で穏かな時間が過ぎている。もっとも「風船」も「日永」も春の季語であり、今日のホトトギス系俳句では許されないのだが、子規さんの時代には風船は珍しい存在で季語ではありませんでした。
(注)あえて通説に反する鑑賞をしたのですが「物の本」(http://www.fuusen-senmon.com/history.htm)によると、風船は明治維新から明治20年代までは輸入品であり、明治30年代に入ってやっと国産の風船が製造された。輸入の風船は庶民にとっては高値の花で、あの「シンガーミシン」のオマケが輸入風船で売り上げ拡大に多大の寄与をしたという。恐らく子規さんの病気見舞いに森鴎外あたりが持参したのかもしれない。当時の庶民の風船は「紙風船」(富山の薬売り)だが、紙風船では「ふわりふわり」のイメージは浮かんでこない。「紙風船」は「羽子板」や「お手玉」と同じく「撞く」ものだった。どなたか東京の下町でハイカラなゴム風船で子供達が遊んだのはいつごろからなのか調べて頂けないでしょうか。
 「軽気球ふわりふわりと夕遍路    子規もどき」
○添付した赤い風船は松本治画「子規の似顔絵」です。風船の子規さんは如何でしょうか。原画は子規記念博物館に飾っています。 道後関所番
平成18年4月   「行く春や やぶれかぶれの迎酒   子規」
天野祐吉子規記念博物館長選句の四月の子規さんの句「行く春や やぶれかぶれの迎酒   子規」をお送り致します。
明治34年5月8日付けの新聞「日本」に掲載された句です。暮春の雰囲気があり、素直な句ですから素直に鑑賞したらよいのでしょうが、子規さんが迎酒を飲むなんて考えられないから一体全体それほどのストレスとは何だったのかと考えてみたくなりますなあ。
我々であれば、大学を卒業したが気に入った定職が見つからないとか、春の定期異動で左遷されて単身赴任させられるとか、子供の結婚の期待が「出来ちゃった婚」で吹っ飛んでしまったとか、やっと恙無く定年退職して第二の人生をと考えていたら「定年離婚」が待っていたとか、やぶれかぶれのがぶ飲みや二日酔いで迎酒の一度や二度の経験は誰しもお持ちでしょうが・・・・・いやはや。
明治34年といえば子規さんは寝たっきりの闘病生活ですから、酒だ酒だと騒いでみても、しっかり者の妹の律さんが酒を用意する筈は絶対にありますまい。子規さんにとっては願望に近い寝床からの叫びであったかもしれません。そこで、食いしん坊の子規さんの気持ちになりかわっての一句です。 
  「モルヒネや やぶれかぶれの柏餅   子規もどき」
花見にお出掛けの方も多いのでしょう。道後公園、石手寺、石手川公園を吟行?してきました。石手寺境内には市指定天然記念物の「みかえりの桜」があります。松山城の初代藩主加藤嘉明の子明成が愛でた由緒正しい桜です。イトザクラのようです。ご存知ない方が多いと思いますので五分咲きですがご披露致します。寺の東山に建つ大師像にもお参りしてきました。 道後関所番
追記(平成18年4月3日)
子規記念博物館垂幕四月俳句「今月の子規俳句」の「行く春ややぶれかぶれの迎酒  子規」をご披露したら、友人から書き込みがありました。
○4月にふさわしい句は、ポピュラーな「春や昔 十五万石の 城下かな」を推薦します。皆さんの子規4月句のご推薦はどんな句でしょう?(みさ女)
○子規のストレスは何だったのでしょうね?迎え酒を必要とするほどの自棄酒を飲んだのでしょうか?本当に不思議です。日本列島は長いですね。季語を見ても那須では一月遅れの感があります。サクラもまだまだです。「雪解けて雪駄の音の嬉しさよ 子規」の感じです。「寝転んで蝶とまらせる外湯かな  一茶」 花の中の露天風呂も風情があります。タオルを頭に載せ蝶を愛でながらの露天風呂は極楽です。(那須の極楽蜻蛉)
○「故郷はいとこの多し桃の花   子規」 明治28年の作。子規はこの年の3月、従軍記者として清国へ赴くため、広島経由で松山に帰郷しています。船中から眺めた三津あたりの桃畑は、懐かしい人々に会える子規の嬉しい心中を象徴するように花盛り・・・この句が私のいち推し句です。先だって兄、弟と3人で重信川の堤をドライブ、散策しましたら土手一面に咲く菜の花が香り、三分咲の桜並木など、一緒に遊んだいとこのことなど、昔が懐かしくよみがえりました。そこで子規の掲句が一人歩きをはじめ、挙句に・・・・・「駆け来るは幼きいとこ花菜畑」  (あいあい)
○早速のご挨拶有難うございました。前段に記載の「モルヒネや やぶれかぶれの柏餅  子規もどき」を春の句(柏餅→桜餅)に変更します。
「モルヒネや やぶれかぶれの桜餅  子規もどき」
子規と長命寺さくらもち屋の娘おろくとの「初恋」を知る漱石や碧梧桐、虚子から褒めてもらえそうな迷句となった。いやはや。 道後関所番
平成18年5月   「薫風や千山の緑寺一つ  子規」
子規記念博物館・天野祐吉館長選の平成18年5月の子規さんの句は「薫風や千山の緑寺一つ  子規」です。
明治33年7月8日根岸の子規庵で開催された句会の題が「風薫」でした。子規さんは病床の身ですから、壮健であった当時のイメージから句作りしたのかもしれません。「気持ちのよい爽やかな南風が吹いている。新緑当時から日々に緑を増してきた山々はまるで生きているようだ。その大自然の呼吸の中に寺一つがひっそりと埋もれているようだ。(自分も又病床でひっそりと暮らしている)」という感興でしょうか。
少し穿った見方をすると明治33年当時子規さんには数字へのこだわりがあったようです。子規の代表作(と僕は思っていますが)「鶏頭の十四五本もありぬべし」は明治33年の作品です。同じ年の「鶏頭の四五本秋の日和かな」とか「菜の花や一人乗りたる二人乗」などは俳句の中で数字を楽しんでいるなあと思います。当時子規さんは蕪村に深く傾倒していた様です。蕪村の「鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉」とか「牡丹散て打重りぬ二三片」の句に近いかなあと感じませんか。
博物館の駐車場に「小説『坊っちゃん』発表百年」の旗が立っていましたので子規さんの今月の句と一緒に写しました。漱石の小説『坊っちやん』が高浜虚子の主宰する俳誌『ほととぎす』に掲載されたのが明治39年(1905年)4月号です。今年が丁度100年に当ります。岩波の全集では『坊つちやん』、戦後は『坊っちゃん』、最近は『坊ちゃん』と小説の標題が時代と共に変わってきています。
「山嵐」のモデルは松山中学の名物数学教師渡部政和先生ということになっていますが、漱石は否定しています。今回「山嵐」のモデルは東京大学予備門での漱石と子規の共通の数学教師「隈本有尚」であるという新説を「子規会誌109号」に発表しました。ご興味のある方はマイHP「一遍会」→「熟田津今昔」→「第二十六章 隈本有尚と漱石・子規〜子規の東大学予備門「落第」の周辺〜」をご覧頂きたいのですが・・・・・
子規庵を偲びつつ   「薫風や上野の緑庵一つ  子規もどき」  道後関所番
追記(平成18年5月3日)
子規記念博物館垂幕五月俳句「今月の子規俳句」の「薫風や千山の緑寺一つ  子規」をご披露したら、友人から書き込みがありました。
○月初の恒例句楽しく拝読しました。お陰で松山の季節を実感できます。私の今日の発想としては「薫風と思えぬ風の暑さ哉」ですから恥ずかしくなります。「坊ちゃん」の表記が三つあるのも気が付きませんでした。毎月感じるのですが天野館長の選句は面白いですね。(面白いなんて失礼ですが……)「千山の緑」 山々の深さがしっかりと判りますね。(生意気いってらあ) 六月はどんな句が選ばれるでしょうか?興味深々です。(那須の極楽蜻蛉)
○「子規さん五月の句」・・・やはり五月といえば新緑ですね。人間がルーツに帰れる新緑、千山と来れば思わず深呼吸がしたくなります。うずくまる寺で一層千山の新緑が際立ち目に映えます。子規の同じ写生句で「摘草や三寸ほどの天王寺  子規 (M..26)」がありますが、視点の違いもさることながら、季節は摘み草の春から初夏へ、自然も人の心も躍動する麗しの五月来たれり!ですね。
子規の数字へのこだわり・・・興味深く読ませていただきました。「鶏頭の十四五本・・・」の句を代表的名句と推される方が多いようですが、識者が病床の子規の心境を慮った鑑賞によるもので、もしこれがあいあいの句だったら「よく数えれましたね!」ということでしょうか。数字のこだわりなら「三千の俳句を閲し柿二つ  子規 (M..30)なども如何でしょう。
子規さんの今月の俳句からお話しが弾みましたが、「あいあい」は所属結社では正直落ちこぼれています。「助けてくれー!」と皆さまに叫びたくなったら、「みんなお猿なんだ」と思うことに・・・。先だっての吟行の時のお猿の一句です。  奥山に一族三軒朴の花   (あいあい)  
○あいあいさん  実作者としての鑑賞有難うございました。さすがですね。俳句の鑑賞では同じ句会(座)に居るつもりで味わっています。柿好きの子規さんだけに「三千の俳句を閲し柿二つ  子規」は素晴らしいですね。漱石に「柿」なる綽名をつけたのも柿好き子規さんの洒落でしょうか。
高校同期のみなさんとの俳句談義もいいですね。 「奥山に一族三軒朴の花   あいあい」を拝見して、奥道後温泉山頂の杉立部落が浮かんできました。部落の出入り口に先祖代々の墓地があって同じ苗字の家が数軒点在していました。杉の大木が印象的でした。春秋に往復四時間かけて登っています。
朴の花といえば一草庵で手にしました。甘酸っぱい香りなんですね。大きな花びらで酒を受けました。あまり実作はしませんが記念になるかなと思い句を残してきました。
   山頭火終焉の地にて   
朴の花ひとひらとりてひとり酌む    やすはる          道後関所番
平成18年6月   「水無月やうしろはほこり前は池 子規」
子規記念博物館・天野祐吉館長選の平成18年6月の子規さんの句は「水無月やうしろはほこり前は池 子規」です。
明治29年の「俳句稿」に記載されています。水無月は梅雨の明けた陰暦の6月、太陽暦では7月になります。俳句では一ヶ月先取りのイメージですから梅雨前の選句としては如何かなと思います。
この句には「不忍」と前書きがありますから池は上野の不忍池で、子規さんの住む子規庵からは上野公園を通り抜ければ半時程の散策のコースでもあり、明治29年といえばカリエスが発症したとはいえ虚子・碧悟桐を従えて颯爽と闊歩したことでしょう。「水無月」→「水無し」→「埃(ほこり)」の連鎖は「よもだ発想」の典型でしょうし、それを受けて逆発想で「水を満々と湛えた不忍池」から「水有」といった俳句的発想は子規独自のものかもしれません。もっとも僕ら凡人が詠めば入選はまったく覚束ない凡作なのではとも思いますが・・・・・鑑賞としては「梅雨も終わり砂埃が舞う道と対照的に水を満々と湛えた不忍池が眼前に広がる。大都会の東京の夏は厳しくもあるなあ。」といったところでしょうか。
そこで現代の上野不忍池界隈を描写して一句
前書「不忍」   「水無月やうしろは排ガス前は池  子規もどき」     道後関所番
(追伸)
4月29日道後温泉本館東奥の小公園予定地で「坊っちやん之碑」の除幕式がありました。「松山坊っちやん会」の企画ですが、市から提供を受けたのは公衆トイレの直ぐ脇でした。国際温泉文化都市として如何かなと「道後関所番」は一人悩んでいます。道後温泉来訪時には、トイレのおついでにお立ち寄り下さいな。いやはや。
平成18年7月  「薄物の羽織や人のにやけたり  子規」
「子規記念博物館」天野祐吉館長推奨の平成18年7月の子規さんの句は「薄物の羽織や人のにやけたり  子規」です。
明治33年6月10日開催の子規庵句会例会の「句会稿」に記載されています。季題は羅(うすもの)です。現代では男性の大半は浴衣と旅館の「どてら」以外は和服を着る生活習慣がなくなり、一方若者は肌の露出を競う時代になりました。団塊ジュニアにとってはこの句の鑑賞は困難かもしれません。もっとも妻の薄物の姿を見て惚れ直した若き日の想いを記憶しておられませんか。いやはや。
ところで薄物の羽織は侶や紗の透ける布地だけに下着の色が妙になまめしく艶っぽく見えてくる。なんともいえぬ色気がそこはかとなく匂って来るようです。子規さんは同じ句会で「羅や風ふくまくる白き腕」「羅や赤きも見えて艶にすぐ」を披露しています。同年の「俳句稿」には「羅の蚊帳垂れてあり御寝処」「羅の赤き下著を重ねけり」「羅に腰の細さよ京女」と続きます。妹のお律さんのこととは思えないのですが・・・・
この句の説明は不要でしょう。男性であれば「なるほど、なるほど。さもありなん」と同感されるに違いありますまい。案外布団の上に座り薄物の羽織を着てにやけているのは子規さんではないかと想像します。
レイモンド・チャンドラー流に表現すると「男は食気がなければ生きていけない、色気がなければ生きていく価値がない。」ということかもしれません。子規さんは最後まで食気と色気を持ち続けた文人ではなかったのでしょうか。われらも斯くありたいものです。
そこで一句。
「薄物の羽織や人に食気あり  子規もどき」
(追伸)
@この句を女性の方はどの様に鑑賞されるのでしょうか。是非お便りをお寄せ下さい。
A「那須の極楽蜻蛉」さん、「東の窓」で激励有難うございました。温泉に入り「浴衣着てよくぞ男に生まれける」とビールを飲み干す醍醐味は格別ですなあ。もっとも浴衣姿の女性が道後温泉湯之町ハイカラ通りを散策する風情もまた良いですなあ。
B「ピエロ」さんの代わって一言。今晩「8時ですよ。全員集合!チャット」で集まりましょう。各自俳句か川柳を一句ご披露されては如何でしょうか。勿論席題は「羅(うすもの)・薄物」。御用とお急ぎの方は「羅や風ふくまくる○○○○○」の下の句五字で完成です。にやにやしないで子規さんにあやかって・・・・   道後関所番
平成18年8月  「夏休み来るべく君を待まうけ  子規」
「子規記念博物館」天野祐吉館長推奨の平成18年8月の子規さんの句は(前書 瀾水死にぬとの噂あり) 夏休み来るべく君を待まうけ  子規」です。
明治31年8月11日の「日本」に掲載されています。「瀾水の音信しばらく絶えて夏休みにも上がり来たらず仙台にみまかえりしやらんとある人の話ししは果して信か」との説明文があります。
瀾水こと若尾瀾水(1877〜1961)は高知県出身で京都三高当時に寒川鼠骨を知り、学制の関係で仙台二高へ転じ子規庵句会に出席する様になる。京都三高→仙台二高転校は高浜虚子、河東碧悟桐も同様である。子規没直後、俳誌「木兎」に「子規子の死」を発表したが、子規批判が受け入れらず俳壇から「追放」される。東京帝大卒業後は高知に戻り日本画をたしなみ、収集と著述に没頭する。大正年代俳誌「海月」を主宰して地方詩壇に復活し後進の指導に尽くした。
子規は遙々仙台から毎月の子規庵句会に顔を出す若尾青年をいとおしく思い気に掛けていたのだろう。夏休みの句会にはいつもの顔を見せない。どうしたんだうかと案じいたら仙台の消息に詳しい虚子が「彼は死んだらしい」とでもつぶやいたのだろうか。子規は優しい気持ちで句会に参加する筈の瀾水を待ち続けている。君の死を信じないが、もしかして・・・・・再び句会に顔を出して呉れるだろうか。子規の心配は杞憂に終わった。長い夏休みが終わって10月から瀾水は顔を見せるようになった。
初見の時「待まうけ」を「待ちぼうけ」と読んで「デイトのすれ違いとは現代的な句だな」と一瞬思った。「待ちぼうけ(待惚)」と「待まうけ(待真受)」とは待つ身の切々さが全く違うということだ。子規さんは何事にも真剣だったに違いない。
子規さんにあやかって一句 
「夏休み来るべく孫を待まうけ  子規もどき」
この句に共感される「じじ、ばば」も多くいらっしゃるのではないだろうか。当方もお盆には大家族になります。いやはや。  道後関所番
平成18年9月  「宿取りて淋しき宵や柿を喰ふ  子規」
「子規記念博物館」天野祐吉館長推奨の平成18年9月の子規さんの句は 「宿取りて淋しき宵や柿を喰ふ  子規」です。
明治32年の「俳句稿」に載っているのですが、当時は脊椎カリエスが悪化して寝返りもままならなかった筈ですから、病床で元気だった当時の旅の記憶を思い出して作った一句でしょうか。とすると「子規、柿、旅」のキーワードから「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺  子規」を誰しも思い浮かべます。特に松山人にとっては、明治28年愚陀仏庵で五十二日間漱石とともに過ごし、漱石から借金して帰京の途中に立ち寄った古都奈良が子規さんにとっての最後の旅であり、最後の宿でもありました。
松山での俳句仲間とも別れ旅先の宿で奈良名産の柿を食べながら夜を過ごしている。静か過ぎる宿でもあり、寂しさを紛らわすことも出来ない。せめて好物の柿を喰らって秋の一夜を送ることにしようかという句意でしょうか。
(注)子規の宿泊した旅籠は、名門旅館「対山楼」で「かどや」とか「角定」とも呼ばれる一級旅館である。山岡鉄舟が「対山楼」と命名し、新政府高官やフェノロサや天心も泊まっている。「奈良角定にて  大仏の足もとに寝る夜寒かな 子規」の句がある。宿泊代は高かったのだろうか、借りた金は費やしてしまったと漱石に報告している。
子規さんの明治32年の句には驚くほど柿を詠んでいます。
○句を閲すラムプの下や柿二つ
自ら自らの手を写して     ◎樽柿を握るところを写生哉
○大なるやはらかき柿を好みたり
○我好(スキ)の柿をくはれぬ病哉
○柿店に馬繋ぎたる騎兵哉
○渋柿の木蔭に遊ぶ童哉
○風呂敷をほどけば柿のころげゝり
○柿を入れし帽子小脇にかゝへけり
○停車場に柿売る柿の名所かな
○酔さめや戸棚を探る柿二つ
○干柿や湯殿のうしろ納屋の前
○初なりの柿を仏にそなへけり
(胃病八句より)
○胃を病で柿をくほれぬいさめ哉
○側に柿くふ人を怨みけり
◎柿もくはて随問随答を草しけり
○柿あまたくひたるよりの病哉
○柿くはぬ病に柿をもらひけり
○柿くはぬ腹にまぐろのうまき哉
○癒えんとし柿くはれぬそ小淋しき  
(注)◎は高浜虚子選「子規句集」掲載の句です。
なんという柿好き、なんという食欲さ、なんという無邪気さ・・・「俳聖子規」ではなく松山人にとっては「食いしんぼの子規さん」以外の何者でもありませんね。あと一ヶ月もすれば柿を口にするのでしょうか。お気に入りの子規さんの柿の一句を是非お仲間にご披露してくださいな。
子規さんにあやかって一句     
「をととひの熟せし柿も喰わざりし」   子規もどき」
子規さんの死が十月だったら辞世の句は糸瓜でなく柿になっていたのでしょうか。いやはや。道後関所番
追記(平成18年9月2日)
○那須の極楽蜻蛉さんからメール頂きました。
三好さん  定例の推奨句 有難うございました。秋ですねー 関西同期会で訪れた法隆寺を思い起こしました。
「淋しき宵や・・・」とは矢張り病気を思い、寿命の残こり少なさをどこかに感じていたのでしょうか? 考えすぎでしょうか?
俗人の私にとって「旅」は楽しい事ばかりで淋しさや侘しさをあまり感じないものですから・・・何時まで経っても餓鬼ンチョですな〜
○アイアイさんからメールを頂きました。
9月の天野館長の句、「宿取りて淋しき宵や柿を食う 子規」
 子規、柿、旅のキーワードから誰しも連想する「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 子規」の句も読み手に渡り、鑑賞が一人歩きを始めると、「柿は食べたし命は惜しし」の心境を仏におすがりして鐘一打・・・、病の治癒を祈願したのだとか、いつか何処かで聞いたような切り口を思い出しますが、こんな飛躍的な鑑賞より素直にお二人の解釈に同意します
 傍に柿食う人、柿食わぬ病に柿を貰いしこと,癒えんとし柿食われぬそ小淋しきこと、どれも子規さんにとっては、ある種のストレスであった筈ですが、その俳味は読み手に諧謔味すら呼び起こさせる・・・さすが俳人になるべくして生を受けた子規さんですね。
 「宿取りて淋しき宵や柿を喰うふ  子規」 の掲句も、宿に落ち着きホッと一息・・好物で名産の柿を食べ、至福の時を迎えると、病のストレスに加え、ふっと旅愁も・・・
 柿を食すのは主に中国人と日本人で西洋人はあまり食さず・・・と、聞いたことありますが長期滞在のご経験のある山崎さん、矢野さん、食文化、習慣などお詳しいのでは?
 昨日9/1は奥道後へ(せせらぎ亭を拠点に)吟行に参り、昼膳に鹿肉,雉肉、虹鱒のお刺身をいただきました。お仲間には震え上った人も居ましたが、それぞれ臙脂色、ピンク色、サーモンピンク色の生肉にお箸を付けたアイアイは、あくまでそれぞれが俊敏な生き物であるから、・・・肖りたいと思う一途な気持ちからでした。みんみん蝉が逝く夏を惜しみ、赤とんぼが飛び交う山里はすっかり秋でした。
○海外経験豊富な矢野さんからメールを頂きました。
柿は英語ではpersimmonといいますが、アメリカ南部では柿のきをみたこともなかったです。ただロスアンジェルスの妹の家の裏庭には大きい柿の木が植わっていて妹に食べてみるときかれましたが、食べませんでした。
スぺインのマラガでは果物屋さんにKAKIのスペルで売っていましたが、日本の柿みたいに大きい見事な果実ではありませんでした。
○道後関所番からのメール
俳句からハイクへ・・・グローバルな話題になりましたなあ。
アイアイ宗匠の鑑賞眼、さすがですなあ。勉強させていただきました。マイHP『子規記念博物館「今月の子規俳句」鑑賞』に掲載させていただきます。ご了承下さい。
ガリさんの「スぺインのマラガでは果物屋さんにKAKIのスペルで売っていましたが」という説明を読んで数年前のスペイン旅行を思い出しました。
ご存知の「アルハンブラ(アランブル)宮殿」の中庭に柿の木が一本あり実がなっていました。華麗な宮殿の美に圧倒された疲れでしばし憩っていましたら、教会の鐘が響いてきました。日本人である私は素直に「子規の法隆寺」を連想し、500年前のザビエルは東洋の地で同じ感慨に耽ったのではないかと思いました。
ガイドに聞くと「スペインでは柿はKAKIです」ということでした。宣教師が日本から持ち帰ったのでしょうか。ロマンを感じます。この光景の印象が強かったのでに珍しく俳句を旅行記に添えました。アイアイ宗匠、俳句になっているでしょうか。
「アルハンブラ宮殿にて   異教徒の丘の熟柿や夕の鐘  やすはる」
平成18年10月  「夜更ケテ米トグ音ヤキリギリス  子規」
「子規記念博物館」天野祐吉館長推奨の平成18年10月の子規さんの句は 「夜更ケテ米トグ音ヤキリギリス  子規」です。
 子規さんが病床で書き綴った「仰臥漫録」の明治34年9月9日分に記載されています。長年行方不明であった「仰臥漫録」ですが、平成13年5月に「子規庵の土蔵から発見」されて現在は芦屋の「虚子記念文学館」に陳列されています。俳人仲間ではやがて「国宝」になるだろうと密かに、或いは公然と話されています。子規さんが「俳聖子規」にならないようにと願っています。
 ところで明治34年9月9日分の記述は膨大で「子規全集第11巻」で4頁半に及びます。書き出しは決まって食事の記述です。
○便通及び包帯
○朝  栗小豆飯三碗(新暦重陽)佃煮
 間食 紅茶一杯半(牛乳来ラズ) 菓子パン三個
 午  栗飯ノ粥四碗 マグロノサシミ 葱の味噌相 白瓜ノ漬物 梨一ッ又一ッ 氷水一杯
 夕  小豆粥三碗 鰌鍋 昼ノサシミノ残リ  和布 煮栗
○朝両足ヲ按摩セシム
○長塚ノ使栗ヲ持チ来ル
このあとは目につくもの、耳に聞こえるもの、舌で味わうものを丹念に書きとめます。絲瓜、蝶、ジャガタラ雀、隣家の手風琴、蝉、蜻蛉、揚羽、山女郎、梨・・・・この感興をもとに24句も書きとめています。今月の「子規さん俳句」は24句中の最後の4句の中の1句です。
コホロギヤ物音絶エシ台所
サマザマノ蟲鳴ク夜トナリニケリ
夜更ケテ米トグ音ヤキリギリス  
痩臑ニ秋ノ蚊トマル憎キカナ
子規さんは夕食を済ませ「仰臥漫録」に病床での一日の記録と俳句を取り纏める。残暑も薄らぎ子規庵にも涼しい微風が流れ込み、庭の蟲が耳に心地よい。夜も更けてきたのか、大食の子規さんの為に母か妹が明日の米を研ぐ音が聞こえてくる。ああ、今日一日も無事に終わったなあ。季語は「キリギリス」である。
別に「キリギリス」でなくとも秋の虫であれば季節感はあるが、子規さんは意識してはいないがイソップの「蟻とキリギリス」の話を思い出した。「キリギリス」は冬を越せない。子規さんはこの年は越えることが出来たが翌々年の明治36年9月19日に逝去した。今年も命日に松山の正宗寺で第105回子規忌が執り行われ列席した。
 子規さんにあやかって一句。
  「夜更けてパソコンキーやキリギリス  子規もどき」
「東の窓」のインターネットご同好、ご同病の皆さんには、この俳句を体感されていると思いますが、いやはや。道後関所番こと三好恭治
追って
 10月21・22日(14:00〜、18:00〜)子規記念博物館講堂で「正岡子規物語 糸瓜咲て」(劇団旅芸人制作・演出)が上演されます。昨年9月根岸の子規庵近くにある「笹乃雪」の大広間で上演され大好評でした。主演の石坂重二さんが子規さんのイメージそっくりでした。俳句愛好家の皆さんにお奨めしたい演劇と思います。是非お出掛け下さい。チケットは2,000円です。
平成18年11月  銭湯で下駄換へらるる夜寒かな   子規」
 「子規記念博物館」天野祐吉館長推奨の平成18年11月の子規さんの句は「銭湯で下駄換へらるる夜寒かな   子規」です。
 「寒山落木巻五」に書かれています。明治29年の「秋の句」で、明治32年9月5日号の「日本」に「夜寒」と題して掲載されています。戦前、戦後の貧しい時代を心豊かに過ごした「小国民」には平易な句ですし、そのままに感じ取ればいい素直な俳句に違いありません。子規さんが元気な頃に子規庵近くの銭湯に通った記憶かと思いますが、不勉強ですので銭湯の所在を確認していません。
 現代の「小国民」にとっては難解な句になるのでしょうか。「銭湯」も「下駄」も、そして「夜寒」も死語になってきたようです。私事になりますが神戸に出掛けた時は、夕方孫と手を繋いで近くの銭湯に出かけることにしています。今ではお土産よりも銭湯を楽しみにしてくれています。成人してから「おじいちゃんとの思い出は銭湯」であって欲しいと願っています。
 明治29年といえば、前年の明治28年には喀血で須磨の病院に入院し、小康を得て松山に戻り漱石の下宿している「愚陀仏庵」で52日間をともに過ごし、郷友と俳句に興じ、漱石から借金して奈良で遊び・・・・・子規さんにとっても思い出に残る一年だったと思います。年明けた明治29年2月には脊椎カリエスの診断を受け、手術をし、やがて病臥の身になりますが、この年は外出もしばしばしています。
 子規さんの明治29年の作った「夜寒」の句を幾つか列挙してみます。
○三厘の風呂で風邪引く夜寒かな
○牧師一人信者四人の夜寒かな
○大寺のともし少き夜寒かな
○腹に響く夜寒の鐘や法隆寺
○穢多村のともし火もなき夜寒かな
○夜を寒み俳書の山の中に坐す
○夜を寒み背骨のいたき机かな
 「夜寒」のイメージからは加藤登紀子さんの「ひとり寝の子守唄」や南こうせつさんの「神田川」が浮かんできます。「三厘の風呂」「牧師一人信者四人」「ともし少し」「腹に響く」「背骨の痛き」のフレーズからは、今日の物が豊かで心わびしい風情とは違った一昔も二昔も前の時代を連想します。子規庵で床に臥したまゝ深更まで詩歌革新に情熱を傾ける子規さんの痛々しい姿に「夜寒」の真髄を感じるのは僕一人でしょうか。
子規さんにあやかって一句 
「町会で靴換へらるる夜寒かな  子規もどき」
 若い世代の方への「注釈」です。居住しています道後今市上町内会の出席はいまや高齢者の方が殆どです。公民館の薄暗い出口の下駄箱からそそくさと出席者は家路に急ぎます。決まったように最後の人には他人様の靴がご主人様を待ってくれています。皆さん慣れっこになっているので、そのまま間違った靴を履いて帰ります。翌日下駄箱に靴が戻っています。取替えにきた人も黙った靴を置いて帰ります。翌々日、下駄箱には靴が見当りません。いつまでもこんな町内会でありつづけて欲しいと願っています。町内会長さんの顔を見たいって、それは勘弁してくださいな。いやはや。道後関所番
平成18年12月 「行き逢ふてそ知らぬ顔や大三十日  子規」
「子規記念博物館」天野祐吉館長推奨の平成18年12月の子規さんの句は「行き逢ふてそ知らぬ顔や大三十日  子規」です。
 明治32年12月24日子規庵での第3回目蕪村忌句会での作ですが、新聞「日本」の明治33年12月31日号に「大三十日(おおみそか)」と題して掲載されました。蕪村忌句会には狭い子規庵に46名が参会し、長老の鳴雪や四方太は床の間に上がるほどの盛会で、名物の風呂吹も一片ずつだったということです。
席題の「大晦日」で七票が「聞き尽す五山の鐘や大晦日」(燕洋)、五票が「大年や食い余りたる米五表(雪腸)「湯の宿に一人残りて大晦日」(李坪)「酒買ふは李白が妻か大晦日」(翠竹)で子規の「行き逢ふて・・・・・」は三票でした。
「暮れも押し迫り、根岸界隈も行きかう人出でごったがえしている。知人に出会うが話す時間も勿体無いのでそ知らぬ顔で通り過ぎていく」と解釈すると味も素っ気もない客観俳句になってしまいますなあ。
「行き逢ふて」「そ知らぬ顔」に拘ると江戸落語の世界に行きつきます。借金・掛取りは年一回で除夜の鐘までが世間の常識というもの。子規さんが借金していたかどうかは知らぬが、借金相手に運悪く出逢ってしまい気付かない振りしてやり過ごす。この一呼吸が借金逃れのコツかもしれない。シメタシメタ、それでは団子でも食うかとニタリ顔といったところでしょうか。俳句の世界は面白いなあとつくづく思います。
子規さんにあやかって一句 
「行き逢ふて互いの皺や大三十日 子規もどき」
 昨今は正月の「おせち料理」もホテルからスーパー、コンビニとそれなりの値段に合った折り詰めが用意されている。マンションだと掃除する場所もない。行き会えば話に夢中になる。孫の自慢話から、頼りない息子のこと、親離れしない娘のこと、面倒見てくれそうもない嫁のこと、老老介護のこと、介護保険のことなど話がどこまでも続く。「皺と皺で幸せ」とは綾小路きみまろの台詞ですが、ともあれ今年も暮れていく。来年は6度目の亥歳を迎える。「猪突猛進」はもはや無理な年齢となったので静かに夫婦で皺と皺を合わせて除夜の鐘を聞きながらお猪口で一杯といきましょうか。いやはや。どなた様も良いお年をお迎え下さいませ。道後関所番