平成26年1月 「新年や床は竹の画梅の花  子規
子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成26年1月の句は「新年や床は竹の画梅の花   子規」です。明治28(1895年)の作品で、季語は新年(正月)です。『子規全集』第二巻 俳句二 「寒山落木 明治二十八年 正月」(161頁)と『子規全集』第二十一巻草稿[附明治二十八年俳句草稿補遺](128頁)に掲載されています。
明治二七年二月に下谷区上根岸八八番から現在の子規庵(八二番)に転居して初めての新年を迎えている。正月の床の間に飾っている「竹の画」は、江戸時代の松山藩の南画家である吉田蔵沢が描いた墨竹画である。
明治三十年の句に、「草庵」と前書きして「冬さひぬ蔵沢の竹明月の書   子規」がある。明月は「風呂吹き大根」で有名な松山の円光寺の僧である。また明治三一年には「蔵沢の竹も久しや庵の秋  子規」と詠んでいる。子規周辺の仲間である画家の浅井忠や下村為山、中村敷設らは吉田蔵沢高く評価しており、漱石も蔵沢の画を所蔵した。拙宅にも蔵沢の墨竹画があるが納戸に仕舞ったままである。「猫に小判」ならぬ「隠居に蔵沢(蔵宅)」である。いやはや。
一説には子規庵には、蔵沢の墨竹画と明月の書の二幅しかなかったとか。今日再評価されている久米日尾八幡宮宮司の三輪田米山の書は子規の文のなかには出て来ない。
明治三八年の新年の句として「紀元二千五百五十五年哉   子規」がある。
そこで子規さんにあやかって二句
 松竹梅を寿ぐ
「松の内床は竹の画梅の花   子規もどき」
「紀元二千六百七十四年哉   子規もどき」
道後関所番
平成26年2月 「緋の蕪や膳のまはりも春けしき  子規」
子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成26年2月の句は「緋の蕪や膳のまはりも春けしき   子規」です。明治26(1893年)の作品で、季語は春(春)です。『子規全集』第三巻 俳句三 「寒山落木 拾遺 明治二十六年」(532頁)と『子規全集』第十四巻 評論日記 [獺祭書屋日記 明治二十六年 三月六日](326頁)に掲載されています。
明治25年11月に母八重と妹律を東京根岸に迎え、12月1日に神田雉子町の「日本新聞社」に初出勤する。子規にとっての「社会人」としての第一歩である。やがて明治26年の春を迎えることになる。
食膳に春色を賑わせたのは故郷松山の「緋の蕪」である。緋の蕪は松山の名産で、塩漬けした 緋蕪を橙酢につけて紫紅色を引き立たせたものだが結構食欲をそそるのである。もともとは、松山藩主加藤嘉明の後継として近江の蒲生忠知が藩主になったときに近江の日野の赤カブ(日野菜カブ)を移植したのが原種である。
母八重と妹律が用意した「緋の蕪」の鮮やかな赤色が、お膳の周りまで春色に染めてしまったというような情景が子規をよろこばせたのだろう。
「獺祭書屋日記」から抜粋する。
三月五日 桃雨氏宅小会、
  春風や三味線堀のさゝら哉
三月六日 非風来末永氏来出社
  緋の蕪や膳のまはりも春けしき
三月七日 出社
   家君祥月
  春風の中に一筋寒き哉
三月八日 訪陸細君病、出社、猿男氏宅話雑誌宿桃雨氏宅
  君が家に春の寝心夢もなし
子規さんは、のどかな春の幸せを食卓の周辺の春けしきに昇華させたのだろうか。大学中退という挫折はあったが、子規さんの短い人生にとっての春の季節であったようだ。
そこで子規さんにあやかって一句
 
 「緋の蕪や戦時の春が鮮やかに    子規もどき」
平成26年3月 「巡礼の杓に汲みたる椿かな  子規」
平成26年3月 「巡礼の杓に汲みたる椿かな  子規」
子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成26年3月の句は「巡礼の杓に汲みたる椿かな  子規」です。明治28(1895年)の作品で、季語は春(椿花)です。『子規全集』第二巻 俳句二 「寒山落木 巻四 明治二十八年 春」(210頁)と『子規全集』第二十一巻「附明治二十八年俳句草稿補選」(138頁)に掲載されています。
なお、「附明治二十八年俳句草稿補選」では、「巡礼の杓にくみたる椿かな  子規」と「汲む」が「汲む」になっています。
この句は道後温泉椿の湯女湯の湯釜に彫られているので地元の女性にとっては著名な句でもあります。 男湯の湯釜には「十年の汗を道後の温泉尓(に)洗へ」が彫られている。
巡礼は必ずしも四国霊場八十八ヶ所だけでなく、西国三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所の巡礼が著名であるが、椿との組み合わせでは四国遍路であろう。写生にこだわれば、明治28年3月に子規は松山に帰省しているので石手寺かもしれない。
参拝前に手水所で手と口を清めるが、手にした柄杓で椿の花を汲んだ光景である。椿は花全体が枝から落ちるので手水槽に浮かんでいることはないので、水中の椿をそのまま掬ったのであろうか。 
「巡礼の杓に汲みたる椿かな           子規」  と合わせて他に二句椿花を詠んでいる。
「宮守のはき集めたる椿かな            子規」
「ほったりと笠に落ちたる椿哉           子規」
この三句を鑑賞すると、スローモーションで遍路の姿を追っているように思われる。
春は遍路の季節である。今日も、石手寺から大山寺に向う遍路が子規記念博物館の前を通っていく。
そこで子規さんにあやかって一句
「巡礼の杓に映りし椿かな    子規もどき」
平成26年4月 「石手寺へまはれば春の日暮れたり  子規
平成26年4月 「石手寺へまはれば春の日暮れたり  子規
子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成26年4月の句は「石手寺へまはれば春の日暮れたり  子規」です。明治28(1895年)の作品で、季語は「春の暮れ」(春)です。『子規全集』第二巻 俳句二 「寒山落木 巻四 明治二十八年 春」(170頁)と第三巻俳句三「獺祭書屋俳句帳抄」(623頁)、同じく第二十一巻草稿ノート「病吟漫吟 明治二十八年春」(42頁)に掲載されています。
明治28年といえば、子規さんにとっては「天国と地獄」を自ら体験した年でもあるし、ふるさと松山にも二回帰っている。3月14日に帰省し15日には法龍寺の父の墓に詣で、17日には松山から広島に向かっている。4月には従軍記者として大陸に旅立ち、5月下旬帰国するが、船中で喀血、そのまま神戸病院に入院、退院後療養のため松山に戻る。漱石の下宿先「愚陀仏庵」での共同生活にとつながっていく。
この句の時系列としては、三月帰省時の句になるが、石手寺を訪ねたか否かは不明である。句は「春の陽気につられて石手寺(四国霊場五十一番札所)まで出掛けた。気がつくと春の日は暮れていた。」という解釈になろうが、松山の御城下から小一時間の距離だから、第四十六番札所浄瑠璃寺からの遍路とすると、いかにも松山らしい句となるのだが・・・・・
この句の英訳は
walking around 
as far as Ishite-ji temple
a spring day ends
と紹介されている。
「日暮れ」を「day ends」とするのはいかがなものかと翻訳者((Minako Noma))に尋ねたら、自分も同感であるが、アドバイザーの外国人女性(Ruth Vergin)が「endである」と強行に主張したので・・・・・ということだった。 いやはや。
そこで子規さんにあやかって一句
平成二十五年八月十日、一遍生誕寺焼失
 「宝厳寺へまはれば春の日暮れたり      子規もどき」
平成26年5月 「ふるさとや親すこやかに酢の味  子規
平成26年5月 「ふるさとや親すこやかに酢の味  子規
子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成26年5月の句は「ふるさとや親すこやかに酢の味  子規」です。明治28(1895年)の作品で、季語は「酢」(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二 「寒山落木 巻四 明治二十八年 夏」(227頁)と十八巻 書簡一「明治二十八年 七月三十日 五百木良三宛」(576頁)、同じく第二十一巻草稿ノート「病吟漫吟 明治二十八年夏」(59頁)に掲載されています。
「十八巻 書簡一」と「第二十一巻草稿ノート」では、「故郷や親すこやかに酢の味  子規」となっている。
明治28年夏は、日清戦争の従軍記者として4月に大陸に旅立ち、5月下旬帰国するが、船中で喀血、そのまま神戸病院に入院、須磨保養院で静養した。退院後療養のため松山に戻り、漱石の下宿先「愚陀仏庵」での共同生活にとつながっていく。
この句は、須磨保養院で静養中に、同郷の五百木瓢亭(良三)宛に出した書簡の中の句である。母と妹はすでに東京に引っ越しているので、ふるさと(松山)、(母)親、松山鮓が直接には結びつかない。
子規さんの頭には、退院後はふるさと松山で静養し、松山中学校の教師をしている夏目漱石や友人たちとの語らいを考えているのだろう。食いしん坊の子規さんにとって、故郷は「われ愛すわが豫州松山の酢」であり、母がつくる松山酢こそ最大の馳走なのだろう。いつまでも母親はすこやかであってほしい、松山鮓をこれからもつくってほしい、自分も健康を回復していきたいとの祈りを込めて・・・・・
私事になるが、長男家族は、春・夏・正月と、世帯をもってからは決まって帰省する。親としては嬉しいのだが、帰省の道中に寄り道するやら、東日本や北日本の見聞を広めてほしいとは思うのだが・・・・・
そこで子規さんにあやかって一句
 「ふるさとや孫のびのびと鮓の味   子規もどき」
平成26年6月 「青簾捲けよ雲見ん岩屋寺        子規
平成26年6月 「青簾捲けよ雲見ん岩屋寺        子規
子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成26年6月の句は「青簾捲けよ雲見ん岩屋寺  子規」(あおすだれ まけよくもみんいわやでら)です。明治28(1895年)夏のの作品で、季語は「青簾」(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二 「寒山落木 巻四 明治二十八年 夏」(223頁)と第二十一巻「草稿ノート」の「病吟漫吟 明治二十八年 夏」(61頁)に掲載されています。尚、同句は、『早稲田文学』(明治30年3月1日号)にも掲載されています。
明治28年夏といえば、子規が従軍記者として遼東半島に出掛け、帰国時に船中で大喀血して須磨病院で療養中の句でしょうが、夢うつつで明治14年7月に友人たちと岩屋寺まで遠出したことが夢に出てきたのでしょうか。
岩屋寺は久万高原町にある四国霊場四十五番札所の古刹で、本尊は「不動明王」で弘法大師や一遍上人の修行地でもあります。『一遍聖絵』に因縁が詳しく書かれております。松山から車で1時間半、格好の「避暑地」であり、温泉も湧出しています。当時は(現在も同様ですが)付近に民家はありませんから、もし実際に青簾を捲いたとすると宿坊で休憩中のことになるのでしょうが、細かい詮索は止しましょう。
「青簾捲けよ雲見ん」は『枕草子』の「香炉峰の雪は簾を揆げて看る」(白居易)になぞらえて清少納言が御簾を上げた自慢話が背景にあります。それだけの句かなと思います。同時期に「青簾」で三句詠んでいます。同趣向の句でしょうか。
青簾猫掻き上がる影すなり      子規
青簾六位の君の笑ひけり       子規
青簾かすれかすれの白帆かな    子規  
個人的な体験ですが、昔俳誌『麦』の主宰であった橋爪鶴麿氏と一夕を共にしたとき、座興で「寒山は素足なりしか霜の寺   やすはる」を披露したら「故事来歴を句にすることも可也」とコメントをいただきました。子規さんの句も、「故事来歴を句にすることも可也」でしょうか。ふと、思い出しました。いやはや。
そこで子規さんにあやかって一句
青簾捲けよ帆を見ん鞆の浦   子規もどき」
何処へなりと遊べ夏山夏の川

平成26年7月 「何処へなりと遊べ夏山夏の川      子規」 

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成26年7月の句は「何処へなりと遊べ夏山夏の川  子規」(どこへなりと あそべなつやま なつのかわ)です。明治28(1895年)夏の作品で、季語は「夏山」「夏の川(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二 「寒山落木 巻四 明治二十八年 夏」(241頁)と第十二巻「随筆二」の(俳句時事評)(明治二十八年)(51頁)、第二十一巻「草稿 ノート」(64頁)に掲載されています。尚、第十二巻「随筆二」と第二十一巻「草稿 ノート」の句には前書きあって「暑中休暇」と記されています。

 

明治28年夏といえば、子規が従軍記者として遼東半島に出掛け、帰国時に船中で大喀血して須磨病院で療養中の句でしょうが、「暑中休暇」どころか生死を分けた闘病中でしたから、青年時代の元気だったひと夏か、それとも学生時代の夏休みを思い浮かべたのかも知れません。

神戸須磨は瀬戸内海の高台に在り、南の内海は夏の太陽に映え、北の須磨から神戸に掛けては六甲の山並みが東西に走っている。病床に臥す現在の子規さんと元気だった頃には山や海に旅し過去の子規さんが居る。病床の子規が元気な子規に呼びかける。「何処なりと遊んで来い。夏山もいいぞ。夏の川も海もいいぞ。」と。

ふたりの子規の対話のような情景を想像します。そこには悲惨さはないし、常に前向きな、楽天的な、能天気の子規さんが病床で叫んでいるようです。

先週(平成26年6月27日)、宇和島から予土線に乗車して四万十川の源流から太平洋の河口に開かれた小京都・中村まででかけました。四国山脈の山間を流れる四万十川では(天然)うなぎを漁り、カヌーで遊び、川辺では裸の子たちが遊んでいました。

そこで子規さんにあやかって一句

「何処へなりと遊べ夏山四国猿 子規もどき」

平成26年8月 「城山の北にとヾろく花火かな     子規」

平成26年8月 「城山の北にとヾろく花火かな     子規」 

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成26年8月の句は「城山の北にとヾろく花火かな   子規」(しろやまの きたにとどろく はなびかな)です。

明治28(1895)年の作品で、季語は「花火」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 秋」(282頁)と第二十一巻「草稿 ノート」の(病余漫吟 明治二十八年)(81頁)に掲載されています。 

明治28年秋といえば、子規は日清戦争従軍後の病気療養のため松山に帰省し、松山尋常中学校教師として松山に居た夏目漱石の下宿「愚陀仏庵」で52日間居候します。この花火の句は、漱石とともに夏の夜に体験したできごとでしょう。

地理的にいうと、愚陀仏庵は城山の南にありますから、城山の北は見ることはできません。打ち上げ花火にしろ、花火そのものを見ることは不可能です。花火の「ど、ど、ど、ど、どん」だとか「しゅる、しゅる、どん」という音は、明治28年当時であれば、城北の一角の花火(の音)は楽しむことができたでしょう。縁台に座って団扇をあおきながらの納涼している光景が浮かびます。

ところで、城北での花火ですが、当時の城北には松山連隊の練兵場があり、付近に鍾馗さんがありました。鍾馗とは、中国の故事では、巨眼・多髯で、黒冠をつけ、長靴をはき、右手に剣を執り、小鬼をつかみ、魔を祓い病を癒したとつたえられています。

松山の夏祭りは7月11日、木屋町の「鍾馗寺」から始まります。鐘馗寺は全国でも珍しく鐘馗を本尊とする寺(神社?)でもあります。記録はありませんが、当時鐘馗さんの夏祭りは盛大で(いまでも盛大ですが)山車が道に並び花火を打ち上げたのだろうと想像されます。

・・・・・と書いてきて、子規さんが帰省したのは、明治28824日夜に三津浜港に着きました。8月末に花火を打ち上げた酔狂人が当時の松山にいたがどうか。子規さん の「よもだ描写」とでもしておきましょうか、いやはや。

そこで子規さんにあやかって一句

「城山の北にとヾろく稲光    子規もどき」

平成26年9月 「花木蓮雲林先生恙なきや     子規」

平成26年9月 「花木槿雲林先生恙なきや     子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成26年8月の句は「花木槿雲林先生恙なきや   子規」(はなむくげ うんりんせんせい つつがなきや)です。

明治28(1895)年の作品で、季語は「木槿」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 秋」(321頁)、第十三巻 小説 紀行 明治二十八年 散策集(615頁)、第二十一巻「草稿 ノート」の(病余漫吟 明治二十八年)(101頁)に掲載されています。いずれの句も、「浦屋先生村荘の前を過ぎて」と前書きがあります。「散策集」の記述でmこの句を詠んだのは、明治28年10月2日であったことがわかります。

明治28年秋といえば、子規は日清戦争従軍後の病気療養のため松山に帰省し、松山尋常中学校教師として松山に居た夏目漱石の下宿「愚陀仏庵」で52日間居候しています。子規が散策にたびたび出掛けましたが、102日、子規の幼年時代に漢詩の指導を受けた浦屋雲林先生の屋敷の前を通ったときの句です。
挨拶句とでも言うのでしょうか。「お庭に花木槿が咲いている。浦屋雲林先生はお元気であろうか。お会いしたいものです。」というメッセージなのでしょうか。

浦屋雲林先生について『伊予偉人録』城戸徳一著(昭和十一年六月十五日発行 愛媛県文化協会刊行)から引用する。 

  
「松山藩士浦屋寛親の長男。名は寛制、通称は登蔵。幼より学を好み、日下伯厳、高橋復斎らに学んで漢学を修め、最も詩文を善くし、その書また雅致に富んだ。藩に仕へて小姓役より祐筆に進んだ。明治維新の後は城南藤原村に私塾桃源黌を開いて少壮子弟を教育し、来り学ぶもの頗る多かった。温厚にして声色を動かすことなく、恭倹にして常に古めかしき袴を着け、冬季には自ら手附き火鉢を携へて、しづしづと教場に入り、満堂の生徒を一々懇導して倦まなかった。又独立自営を尚び、後年松山中学より聘せられんとしたが固辞して応じなかった。


 その家塾の趾は今は亀の井(柳井町)といふ料理屋となってゐるが邸内に広大な池あり、夏季は水浴する門生もあったらしく、又旱魃の時は藤原村民の請ひに応じ水車を据えて灌漑の利に供したといふ。 門下には太田格広、野中水村、金崎彦四郎などあり俳聖正岡子規、内藤鳴雪らも嘗て漢学の教を受けたさうである。近藤南洋、河東静渓らと親交したが、何よりも詩作を好み夜を徹して草すること稀しからず、終ひに数千首に及んだといふ。明治三十一年十月に没す。年五十九。西山の宝塔寺に墓がある。(現戸主 浦屋魁)」 

   
浦屋魁の長男が浦屋薫(雅号・南風、南光)で、松山子規会会長、松山坊ちゃん会会長、 一遍会代表を務めた。 公私共に御世話になった大先輩である。

個人的なことですが、雲林先生は道後温泉の帰途、拙宅にたびたび立ち寄ったようです。明治二十七年五十五歳の時の漢詩が残っています。祖父が雲林先生の私塾の塾生だったようです。

「訪 道 後 村 三 好 生 観 牽 牛 花」  

奇 種 多 移 自 武 州  
奚 唯 一 様 碧 牽 牛     
非 経 暮 〃 朝 〃 苦     
争 得 紅 〃 紫 〃 秋 
満 砌 牽 牛 帯 露 萃    
温 泉 咫 尺 是 君 家    
好 将 浴 後 清 澄 眼    
對 比 西 風 澹 〃 花  

そこで子規さんにあやかって一句

「百日紅怪我の悪餓鬼恙なきや     子規もどき」

平成26年10月

平成26年10月 「秋風や高井のていれぎ三津の鯛     子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成26年10月の句は「秋風や高井のていれぎ三津の鯛   子規」です。

明治28(1895)年の作品で、季語は「秋風」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 秋」(304頁)、第二十一巻「草稿 ノート」の(病余漫吟 明治二十八年)(88頁)に掲載されています。いずれの句も、「故郷の蓴鱸(じゅんろ)くひたしいひし人もありとか」と詞書があります。

『広辞苑』には載っていませんが『大辞泉』の説明によると下記です

【蓴羹鱸膾】(じゅんこう‐ろかい)・・・・・張翰(ちょうかん)が、故郷の蓴菜(じゅんさい)の羹(あ つもの)と鱸(すずき)の膾(なます)の味を思い出し、辞職して帰郷したという「晋書」文苑伝の故事から「故郷の味。ふるさとを思う気持ちのおさえがたさ」をたとえていう語です。

食いしん坊の子規さんらしく、三津の朝市で瀬戸内の鯛を求めて、高井の里の清流に自生する美しい緑色の水草(ていれぎ)を刺し身のツマにして一献すれば、まさにふるさとの至福のひとときになろう。

松山の人であれば、この句を見て「伊予節」の歌詞を思い出すに違いありません。「三津の朝市」「高井の里のていれぎ」の借用です。「伊予節」は江戸時代に生まれた座敷歌ですから、東京で、松山で、先輩や仲間たちと口ずさんだことでしょう。

伊予の松山 名物名所 三津の朝市

道後の湯 おとに名高き五色ぞうめん

十六日の初桜 吉田さし桃こかきつばた

高井の里のていれぎや 紫井戸や

片目鮒 うすずみ桜や 緋のかぶら

ちょいと 伊予絣

伊予の 道後の名物名所 四方の景色は

公園地 音に名高き 紅葉の茶屋に

意気な料理は かんにん桜

道後煎餅や 湯ざらし艾

お堀の渕の川柳 冠山や玉の石

さても見事な 碑文石

ちょいと 見やしゃんせ

明治28年秋といえば、漱石と共に過ごした愚陀仏庵に思い出を残し帰京しますが、その後病魔が進行し松山に帰ることはできなかった。新鮮な三津の鯛を二度と口にすることはありませんでした。ふるさとの味への切なる思いが感じられる作品といえよう。

道後育ちの筆者からは子規にこの句を送りたい。

子規さんにあやかって一句

「秋の月熟田津の酒道後の温泉    子規もどき」  道後関所番

平成26年11月 「しぐるゝや右は亀山星が岡    子規」

平成26年11月 「しぐるゝや右は亀山星が岡    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成26年11月の句は「しぐるゝや右は亀山星が岡   子規」です。

明治28(1895)年の作品で、季語は「時雨」(冬)です。この年「時雨の句」を40数句作っております。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 冬」(366頁)、第二十一巻「草稿 落」の(病余漫吟 明治二十八年)(116頁)に掲載されています。

子規忌は別名「糸瓜忌」ですが、芭蕉忌は「時雨忌」とも称します。

前詞「五百里の旅路を経て、暑かりし夏も過ぎ、悲しかりし秋も暮れて、古里に冬を迎え、山家の時雨にあへば」   初時雨猿も小蓑を欲しげなり   芭蕉

芭蕉を意識したのではなく、病床にあった子規さんは、時空を越えて、興にまかせて、次々と時雨の句を詠んでいったのでしょうか。

○しぐるゝや上野谷中の杉木立

○しぐるゝや隣の小松庵の菊

○しぐるゝや腰湯ぬるみて雁の声

○しぐるゝや紅薄き薔薇の花

○土佐の海南もなしにしぐれけり

○島守のあらめの衣しぐれけり

となると、この句は松山の歴史的な風景を描いていますが。今日の都市化した大・松山市には、残念ながら「しぐるゝや」の風情はありません。

松山市の南に、天山、星が岡、土亀山、東山の標高50メートルほどの小山があります。天山は『伊予国風土記』逸文に高天原から下った山の片割れになっています。他の片割れが「天の香具山」ですから、斑鳩の都と伊予国の久米族との親しい関係があるのでしょうか。そういえば、星が岡、土亀山、東山も、斑鳩の時代との結びつきがあるような優雅は名称です。またこの地は、南北朝時代の古戦場としても知られています。『太平記』の世界です。

子規さんも、秋山好古、真之兄弟と「坂の上の雲」を見上げて松山城(城山)に上った折には、松山平野に点在する小山を眺めたことでしょう。

子規さんにあやかって現代句を一句

「黄沙飛来右は亀山星が岡 子規もどき」  道後関所番

平成26年12月 「梅活けし青磁の瓶や大三十日    子規」

平成26年12月 「梅活けし青磁の瓶や大三十日    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成26年12月の句は「梅生けし青磁の瓶や大三十日   子規」です。

明治28(1895)年の作品で、季語は「大三十日」(冬)です。「大三十日」は「大晦日」で「おおみそか」と読みます。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 冬」(352頁)、第二十一巻「草稿 ノート」の(病余漫吟 明治二十八年)(108頁)、『早稲田文学』明治二九年十一月一日「子規雑詠」に掲載されています。

明治二八年の大晦日、梅を活けた青磁の瓶(おそらく郷里伊予の砥部焼でしょうか)を眺めながら、病床の子規さんは、久々に上京した夏目漱石を待っています。愚陀仏庵での共同生活から別れて3ヶ月、元気だった子規は腰痛で苦しんでいた。

この日の来客は漱石の外にも後輩の高浜虚子が訪ねてきます。

漱石虚子来る

「漱石が来て虚子が来て大三十日   子規」

そして三人の会話が進みます。

「語りけり大つごもりの来ぬところ  子規」

漱石の上京は、のちに妻となる中根鏡子との見合いが目的だが、大三十日に子規庵を訪ねる由手紙を送っていた。虚子の方は突然の訪問であるが、明治二五年八月十日頃漱石が子規の実家(松山市湊町四丁目一六番戸)を初めて訪ねて松山寿司の馳走を受けた時にも学生の高浜清(虚子)が同席していたから、三人の運命的なつながりを感じる。

病気の子規さんにとっては無縁になった結婚のこと、松山中学(愛媛県尋常中学校)のこと、俳句のことと話は尽きなかったのでしょう。インターネット時代の今日、友情に結ばれた語らいは羨ましく思います。

子規さんにあやかって三句

「紅白の歌合戦や大三十日    子規もどき」

「長男が来て次男来て大三十日    子規もどき」

「飲み明かす大つごもりの来ぬところ  子規もどき」

わが家の師走風景です。ともあれ今年一年をつつがなく終えたいものです。 道後関所番