平成27年1月 「梅提げて新年の御慶申しけり    子規」

平成27年1月 「梅提げて新年の御慶申しけり    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年1月の句は「梅提げて新年の御慶申しけり   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「御慶」(新年)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 新年」(352頁)、第二十一巻「草稿 ノート」の(病余漫吟 附明治二年俳句草稿補遺)(128頁)に掲載されています。

なおこの句は『新声』(明治30110日号)にも掲載とのことですが、『新声』誌については未確認です。

(注)インターネット「コトバンク」によれば、文芸雑誌『新声』は1896年(明治297月創刊で1910年(明治433月 廃刊。この間休刊、再刊があって、3期に分かれ、発行所も新声社から隆文館に移る。後の新潮社社長佐藤義亮(ぎりょう)が創刊。『新潮』の前身である。

明治二八年の大晦日、梅を活けた青磁の瓶を眺めながら、病床の子規さんは、久々に上京した夏目漱石を待っています。愚陀仏庵での共同生活から別れて3ヶ月、腰痛で苦しんでいた。このときの句を先月(平成26年12月)紹介しました。

「梅活けし青磁の瓶や大三十日    子規」

「漱石が来て虚子が来て大三十日   子規」

「語りけり大つごもりの来ぬところ  子規」

同じ年の新年も梅で始まりますが、愚陀仏庵には梅の木があり、正月前後に蕾をつけて病床の子規さんの目と鼻を楽しませてくれているのでしょう。

「新年の御慶」はあまりお勧めできません.「御慶」は年始に交わす改まった挨拶のことですから「師走の大晦日」の類です。それはさておき、梅を手にして、しかるべき人(恩師)のお宅にお年賀に参上したという挨拶句でしょうか。

「梅提げて」の「提げて」が子規さんらしい表現かなと感じ入りました。「提げる」は「鞄を提げる」「土産物を提げてやってきた」(『広辞苑』)が一般的で、「梅を提げる」という持ち方が少々気になります。

正月早々に子規さんの句にケチをつけてしまいました。帰郷してから10数年経ちましたが、年始回りはしていません。伊佐爾波神社に初詣して義安寺に墓参りして道後湯之町を散策してというのが元旦のパターンになりました。家の屠蘇の場では、家長として年始挨拶をしますが、これが我が家に新年の御慶といえるかもしれません。

子規さんにあやかって一句

「日の丸や新年の御慶申しけり   子規もどき」

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。  道後関所番

  

平成27年2月 「小城下や辰の太鼓の冴え返る    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年2月の句は「小城下や辰の太鼓の冴え返る   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「冴え返る」(春)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 春」(167頁)、第二十一巻「草稿 ノート」の(病余漫吟)(42頁)に掲載されています。

なおこの句は『早稲田文学』(明治30年4月1日号「小」)にも掲載とのことですが、『早稲田文学』誌については未確認です。


明治28年は子規の生涯にとって大転換があった年です。従軍記者として大陸に渡り、帰国時に船中で喀血して須磨病院で入院、保養を兼ねて8月24日松山に帰省、漱石の下宿していた「愚陀仏庵」での共同生活・・・・10月18日三津浜を発ち帰京となります。この句は、28年の3月、従軍記者として出発前の3月14日から17日までの帰省中に体験した出来事でしょう。

同じ年に詠んだ「春や昔15万石の城下哉」(明治28年)は加藤嘉明が築城した松山の城下ですが、子規さんが小城下(小さな城下)と認識していたとは意外な感じがします。

「辰の太鼓」とは、辰の刻(午前8時頃)に開門を知らせる時太鼓のことですが、明治の時代にいかに静寂だったとは云え、天守閣の開門時の太鼓はご城下からは聞こえる筈はありません。また明治28年当時は、正午に城山から空砲の「ドン」を撃っていましたから、この「ドン」を耳にして幼年時代の記憶がよみがえってきたのでしょう。事実の穿鑿はそこまでとして、文学的表現として味わえばいいのでしょう。

「冴え返る」は「冴え渡る」以上に音の透明性が強調されています。さすが子規さんの語感といえましょう。

(注)『広辞苑』では
○冴え返る・・・光や音などが非常によく澄む。また、冷えきる。新後拾遺和歌集冬「しぐれつる宵の村雲冴え返り ふけ行く風にあられ降るなり」
○冴え渡る・・・光や音などがくまなく澄む。澄みわたる。詞花和歌集雑「雲の上は月こそさやにさえ渡れまた滯るものやなになる」

現在でも、土日祝日の朝9時に、天守開門時に登城太鼓が鳴っていますし、朝6時半には道後温泉の開湯を知らせる太鼓が三階楼から鳴り響きます。

子規さんにあやかって一句

「湯之町や朝湯の太鼓冴え渡る   子規もどき」  道後関所番

(注)「冴え渡る」の季語は「冬」で「冴え返る」の季語は「春」。この微妙な差異が分かる俳人がいるのだろうか。いやはや。
平成27年3月 「故郷はいとこの多し桃の花    子規
平成27年3月 「故郷はいとこの多し桃の花    子規

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年3月の句は「故郷はいとこの多し桃の花   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「桃の花」(春)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 春」(210頁)、第二十一巻「草稿 ノート」の(病余漫吟)明治二十八年 春(51頁)に掲載されています。

なおこの句は『ほととぎす』(明治31年4月30日号「松山」)にも掲載されていますがですが未確認です。

明治28年春、子規は結核を患いながら、ジャーナリストとしての意思と負けん気から、日清戦争に従軍記者として中国(清国)に出発します。日清戦争は実質的には終結しており講和会談が進められていました。

出発前の3月15日に松山に帰省しました。桃の花が満開で、母方の大原家からいとこたちが大勢集まってきました。子規にとっても、故郷の人にとっても、そして無心に咲く桃の花にとっても、口には出さないものの、これが見納めかなという気持ちもあったのでしょう。
16日には三番町の料亭「明治楼」で子規送別の会が開かれました。従軍のはなむけに武市雪燈から「千万里その行くさきも春の風」の句が贈られています。

この句のみで鑑賞するのであれば、次のような風情になるのでしょうか。

青年時代に遊学し、大成して何十年ぶりに故郷を訪ねた。父母も親戚の長老たちの顔もいまは見えない。桃の節句に「おなぐさみ」で集まったいとこたちと思い出を語りあう。小学唱歌「ふるさと」を口ずさむ。

個人的には、松山子規会の月例会で、子規のいとこで唯一生存している「平松丑松」さんと顔が合います。例会の席は、和田克司氏、平松丑松氏、愚生の配列です。
子規さんのいとこは全員で33名です。最後のおひとりは、松山在住の85歳の矍鑠とした老人で、現在も愛媛県社会人卓球連盟会長の要職にある「平松丑雄氏」です。ママさん卓球でご存知の方もいらっしゃるかと思います。

子規さんといえば明治中期に亡くなっていますが、血縁のいとこさんが松山にいらっしゃったとは、子規さんが急に近くなった感じです。大原・加藤・正岡・佐伯四家の家系図を頂きました。平松丑雄さんの句に「子規いとこ一人となりぬ桃の花」があります。

平松氏と愚生を結びつけた人物は、小学校時代の蛍雪会の仲間である松村正俊君です。平松さんも松村君も卓球の名選手で国体の愛媛県代表として活躍されたスポーツマンです。子規さんの大勢のいとこたちについて書いておきたいのですが、個人情報に触れますので割愛します。

子規さんにあやかって一句

「故郷は訛りばかりの桃の花   子規もどき」  道後関所番

平成27年4月 「散る花に又酒酌まん二三人    子規
平成27年4月 「散る花に又酒酌まん二三人    子規

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年4月の句は「散る花に又酒酌まん二三人   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「散る花」(春)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 春」(209頁)、第二十一巻「草稿 ノート」の(病余漫吟)明治二十八年 春(53頁)に掲載されています。

明治28年春には桜花の句を六〇句詠んでいます。この句も六〇句の中の一句ですが、詞書に「可惜落花君莫掃」(おしむべしらっかきみはらうことなかれと)あります。この漢詩は中国盛唐の詩人 岑參(しんじん)の漢詩「韋員外家花樹木歌」(いいんがいのいえのかじゅのうた)の一節です。
 
漢詩を得意とした子規さんが漢詩の情景に啓発されて句を詠んだと考えられます。たとえば

   羨君有酒能便酔羨君無銭能不憂
 花なくと銭なくと只酒あらば

   不□皇居壮安知天使尊  (注)□は「者見」「覩」
 恐る恐る花見る爺や丸の内

満開の桜も美しいが、散る桜の風情もよい。落花を愛でながら、また酒を酌み交わそうではないか。最後まで残った友が二三人いてくれる。
明治28年春の子規さんは、従軍記者として清国に出発する頃であり、桜花を愛でて酒を飲むことはありませんでしたが、二三人を鳴雪翁と虚子と碧梧桐にダブらせてみました。

櫻といえば、社会人当時は「貴様と俺とは 同期の櫻」でしたし、定年の頃は「散る桜 残る櫻も 散る桜」でした。
現在の心境は西行法師の「願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃」に年一年と近づきつつあるようです。

子規さんにあやかって一句

   竹馬の友と道後公園にて
「散る花を杯ごとに飲干さん   子規もどき」

   余命半年の告知を受けし義弟へ  
「来る年の花は彼岸で酒酌まん  子規もどき」  道後関所番
平成27年5月 「更衣少し寒うて気あひよき    子規」
平成27年5月 
「更衣少し寒うて気あひよき    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年5月の句は「更衣少し寒うて気あひよき  子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「更衣(ころもがえ)」(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 夏」(23頁)、第二十一巻「草稿 ノート」の(病余漫吟)明治二十八年 夏(60頁)に掲載されています。

今時分(平成27年5月1日)の句でしょうか。季節に応じて、着る物を夏用に衣更えした。当時は気温によって衣更えしたのでがなく、旧暦の四月一日に綿入れから袷に着替えたものだった。

もっとも学校の制服が夏服に変わったのは六月ではなかったかと思う。セーラー服の衣更えが眩しかった記憶が残っている。最近は大人の社会では「クールビズ」がすっかり定着したが、現役時代は真夏でも背広で通した。通勤車内は暑かったが、背広を着用するとピシッときまったのは決して痩せ我慢だけではなかった。

明治28年5月17日に子規は船中喀血で倒れたので神戸病院か、6月に入って須磨の病院に転院していた頃の作品か。少し肌寒く感じるほうが、かえって気合がはいって良い気分である。衣更えにあやかって、体調もすっきりしたいものである、という句意であろう。


『新古今集』の持統天皇の御歌「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」は初夏の句であろう。白妙の衣と香具山と取り合わせに聖なるものを感じる。

古代から今日まで、衣更えで気分を一新するのは、日本人の持つ感性か、それとも遺伝子のなせる業だろうか。

子規さんにあやかって一句

 「更衣遍路の鈴も気合よき   子規もどき」です。   道後関所番
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平成27年6月 「我見しより久しきひょんの茂哉    子規」

平成27年6月 「我見しより久しきひょんの茂哉    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年6月の句は「我見しより久しきひょんの茂哉    子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「茂」(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 夏」(250頁)、第13巻「小説 紀行」中「散策集」(616頁)、第二十一巻「草稿 ノート」の(病余漫吟)明治二十八年 夏(72頁)、(102頁)に掲載されています。

「散策集」には「薬師二句」の前書きがあって「我見しより久しきひょんの木實哉」と「寺清水西瓜も見えず秋老いぬ」がある。
「病余漫吟」72頁では「松山南郊薬師」の前書きがあって「我見しより久しきひょんの茂り哉」とあるが、102頁は「茂哉」である。

「ひょんの木」は松山では多くの人が知っている木ですが、実は私は見たことはあったのですが覚えていません。東雲神社の境内にもあるとのことです。

明治28年当時の子規は、療養のため帰省し漱石と愚陀仏庵で共同生活した時期にあたります。随筆『散策集』によると、明治28年10月2日に少年時代に子規が遊んだ薬師寺に立ち寄っています。境内には昔のように「ひょんの木」があり、懐かしさもあり「我見しより久しきひょんの木實哉」と詠んでいます。

俳人仲間から聞いたのでしょうか、木の実に見えたのは実は虫が寄生してこぶ状になったもので、その後取りまとめた句稿では、「木實哉」を「茂哉」に改めました。

この機会に、松山の薬師寺や東雲神社の境内には「ひょんの木」がありますので、是非見てきたいと思っています。

子規さんにあやかって一句

   高校の同窓会にて
 「我見しより久しき野菊のごとき君  子規もどき」です。いやはや。   道後関所番
平成27年7月 「草茂みベースボールの道白し    子規」
平成27年7月 「草茂みベースボールの道白し    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年7月の句は「草茂みベースボールの道白し   子規」です。

明治29年(1895)の作品で、季語は「草茂る」(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻五 明治二十九年 夏」(513頁)に掲載されています。

子規とベースボールは切り離せない。野球を愛した明治の俳人、歌人として、没後100年の2002年(平成14年)に新世紀特別表彰で「野球殿堂入り」を果たした。この句は、「坊っちゃんスタジアム」正面の句碑に刻まれている。

最近は見ることがまったくないが、夏草の茂る広々とした広場で、ベースボールをやっている人たちが見える。ベース間の一線が白く光っている。観客はなく、日に焼けた子供たちの熱戦が続く・・・・・こんな情景だろうか。

子規さんは予備門時代にはピッチャーとキャッチャーを兼ねた名選手であり、ベースボール用語の解説やら楽しさを伝えたことでも著名である。碧梧桐も虚子もキャッチボールの指導を子規から受けている。

球うける極秘は風の柳かな    「つづれ錦」明治23年
若草や子供集まりて毬を打つ   「寒山楽木」明治29年
夏草やベースボールの人遠し   「俳句稿」 明治31年
生垣の外は枯野や球遊び     「俳句稿」 明治32年
蒲公英やボールコロゲテ通リケリ 「仰臥漫録」明治35年

俳句だけではなく小説「山吹の一枝」にもベースボールの情景を執筆しているがあまり評判にならなかった。

今春の全国高校野球選抜大会に子規さんの母校「松山東高校(松山中学校の後身)」が80数年ぶりに出場し、東京の二松学舎高校と対戦した。子規の郷土は野球に燃え、子規さんの後輩たちの野球熱は再燃した。時を同じくして道後温泉駅前の放生園に野球のユニフォーム姿の子規像が建立された。

子規さんにあやかって一句

  野球少年であった頃を偲んで
 「草茂み三角ベースに陽が落ちぬ  子規もどき」
平成27年8月     「 鷺谷眺望      稲の穂に湯の町低し二百軒    子規 
平成27年8月     「 鷺谷眺望      稲の穂に湯の町低し二百軒    子規 
 

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年8月の句は「鷺谷眺望  稲の穂に湯の町低し二百軒  子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「稲穂」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 秋」(341頁)、第十三巻 小説 紀行「散策集 明治二十八年」(617頁)、第二十一巻「草稿 ノート」「病余漫吟 明治二十八年 秋」(102頁)に掲載されています。

『散策集』から抜粋します。

明治廿八年十月六日
今日は日曜日なり 天気は快晴なり 病気は軽快なり 遊志勃然漱石と共に道後に遊ぶ 三層楼中天に聳えて来浴の旅人ひきもきらず
      温泉楼上眺望
  柿の木にとりまかれたる温泉哉
鷺谷に向ふ
  山本やうしろ上りに蕎麦の花
  黄檗の山門深き芭蕉哉
      道後をふり返りて
  稲の穂に温泉の町低し二百軒 
    (以下 略)

今年は夏目漱石が松山尋常中学校に赴任してから120年に当たる。漱石の下宿先である「愚陀佛庵」に病後の子規が転り込んだのもこの年である。

10月6日、体調がよかった子規は漱石と道後を散策し、道後温泉本館の三層楼に上がり、曾祖母小島久の眠る鷺谷の黄檗宗大禅寺に向かう。

このあたりは現在は山の手の旅館が立ち並んでいるのだが、老生の散策コースでもある。一遍が生誕したとされる時宗宝厳寺から山の辺の道を通って大禅寺跡に立ち寄り、松山藩主の眠る祝谷山常信寺から松山神社に抜けるコースである。結構な高台であり、戦前は伊予鉄経営の道後グラウンドがあった。

鷺谷から見ての稲の穂であるが、詩的には、黄金に色づいた稲穂の中に、道後温泉本館や湯之町の宿屋や商店が埋もれるように二百軒ばかり見えるというイメージだが、当時鷺谷には田圃はなかったし、水利から判断しても水田耕作は無理ではなかったか。旧祝谷村、道後村の稲田であろう。

子規は10月17日に東京に戻り、其の後ふるさと松山に戻ることなく、望郷の中でその生涯を終えた。

子規さんにあやかって一句

      奥谷眺望
  花すすき上人坂下二百軒    子規もどき
平成27年9月  「ジュズダマや昔通ひし叔父の家    子規 
平成27年9月  「ジュズダマ)や昔通ひし叔父の家    子規 

(注)子規はジュズダマ(数珠球)の漢名〈伊呂波字類抄〉を使用しています。本字は「漢和辞典」で確認してください。ジュズダマの漢字は@クサ冠の下が「意」とAクサ冠の下が「以」の二字です。

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年9月の句は「ジュズダマや昔通ひし叔父の家    子規 」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「ジュズダマ(数珠球)」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 秋」(335頁)、第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟 明治二十八年 秋」(102頁)、第二十二巻 年譜 資料「第三巻「俳句三」に掲載されています。

「寒山落木 巻四」の句には「余土村を過ぐるに二十年の昔思ひいだされて」、「病余漫吟」の句には「余土へ行く道にて」の前書きがある。「第三巻「俳句三」では「すゝ玉や昔通ひし叔父の家  子規」で、ジュズダマがすゝ玉になっている。

和田克司編『子規の一生』(増進会出版社)から、この句が生まれた明治28年10月7日の出来事を記述しておく。

10月7日(月)快晴。「散策集」第5回吟行。今出(いまづ)の村上霽月から誘われていたので、思い立って、人力車で今出へと向かう。正宗寺に寄って釈一宿を誘うが、同道できない。九時ころ小栗神社(雄群神社)付近で偶然森円月に会う。幼いころの思い出のある余戸(ようど)を過ぎて、御旅所の松、鬼子母神、保免の宮、土居田の社、竹の宮の手引松を経て霽月宅に着。・・・・・

余戸には父方の伯父(叔父?)の佐伯家があり、週末ごとに子規は妹の「律」をつれて、泊りがけで書道を習いに行っていた。道々でジュズダマ(数珠球)ととって遊んだ記憶が鮮明によみがえったのだろう。


子規さんにあやかって一句

   「百日紅昔通ひし戸川塾    子規もどき 」    
 
戸川塾は愛媛県立農科大学(現・愛大農学部)の戸川教授が開いた英語塾。中学時代に週2回レッスンを受けた。お孫さんが神戸大学に進学した時に保証人になった経緯がある。
平成27年10月  「道後寶厳寺   色里や十歩はなれて秋の風   子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年10月の句は「道後寶厳寺   色里や十歩はなれて秋の風   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「秋の風」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 秋」(303頁)、第十三巻 小説 紀行「散策集 明治二十八年 」(618頁)、第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟 明治二十八年秋」(87頁)に掲載されています。「散策集」には前文(前書き)が「寶厳寺の山門に腰うちかけて」とある。

和田克司編『子規の一生』(増進会出版社)から、この句が生まれた明治28年10月6日の出来事を記述しておく。

10月7日(月)快晴。「散策集」第四回吟行。病気も癒え、漱石とともに道後を吟行に行く。鷺谷、鴉渓の花月亭に上がる。松枝町を経て一遍上人誕生の地宝厳寺に参詣。帰りに大街道の芝居小屋で「てりは狂言」を観る。鷺谷共同墓地に入り、曾祖母小島久の墓を尋ねたが見あたらなかった。  

子規と漱石が松山の「愚陀仏庵」で過ごし松山近郊を散策した明治28年から今年は120年を迎える。前年に道後温泉本館が完成し、宝厳寺の地所内に左右十二軒の遊郭が繁盛している。伊佐庭如矢初代町長の下、道後温泉の「近代化」がすすめられた時期にあたる。

散策に疲れて子規と漱石は一遍上人誕生の地である宝厳寺の山門に腰掛けて、遊郭街、道後公園(現・湯築城跡)や松山城を眺めたことだろう。平成25年8月に本堂と庫裏は全焼したが山門は残った。

子規さんにあやかって一句

   「道後寶厳寺
      再建の高き槌音秋の風   子規もどき 」 道後関所番
平成27年11月  「病後  あけ放す窓は上野の小春哉   子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年11月の句は「病後  あけ放す窓は上野の小春哉   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「小春」(初冬)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 冬」(349頁)、第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟 明治二十八年冬」(107頁)、『日本』明治三十年十一月十九日「病中」に掲載されています。

「病余漫吟」では「開け放つ窓は上野の小春かな」である。
病後の句は二句あり、他の一句は「蜻蛉に馴るゝ小春の端居哉   子規」である。

和田克司編『子規の一生』(増進会出版社)から、この句が生まれた明治28年11月の天候を記述しておく。

明治28年10月19日静養中の松山(愚陀仏庵、同居中の漱石)に別れを告げ、大阪、奈良に遊び、10月31日東京に帰着し、7ヶ月ぶりに子規庵に戻る。

子規庵の病床の窓を開け放つと、明るい光が差し込み、上野の山も眺める。人や町のざわめきも聞こえてくる。小春日を楽しむ根岸の子規庵ののどかな一日を過ごす。この年の11月の天候は雨が3日、快晴が11日で、穏やかな日が続いた。旅の疲れがでたのか、リュウマチで11月中は外出はしていない。歩行できない状況が続く。

12月1日に、帰郷以来初めて日本新聞社へ出社を試みている。12月9日に虚子を伴って道灌山に出掛ける。

子規さんにあやかって一句

   「湯月   開け放す窓は城址の小春かな   子規もどき 」 道後関所番
平成27年12月  「漱石東京へ来たりしに  足柄はさぞ寒かったでござんしょう   子規 」
平成27年12月  「漱石東京へ来たりしに  足柄はさぞ寒かったでござんしょう   子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成27年12月の句は「漱石東京へ来たりしに  足柄はさぞ寒かったでござんしょう 子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「寒し」(冬)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 冬」(354頁)、第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟 明治二十八年冬」(108頁)に掲載されています。

「病余漫吟」では、漱石来訪に関して三句詠まれている。

「漱石来るべき約あり  梅活けて君待つ庵や大三十日   子規」
「漱石来        語りけり大つごもりの来ぬ處   子規」
「漱石帰京せしに贈る  足柄はさぞ寒かったでござんせう 子規」

 明治28年10月19日静養中の松山(愚陀仏庵、同居中の漱石)に別れを告げ、大阪、奈良に遊び、10月31日東京に帰着し、7ヶ月ぶりに子規庵に戻る。そして12月末、漱石は中野鏡子との見合いの為帰京し、その足で子規庵を訪れた。

男が男を恋うる歌と錯覚しそうな二人の友情が歌からほとばしってくるようである。まさに親友、真友、心友である。うらやましいかぎりである。

 足柄は箱根に続く足柄か。足柄山は坂田金時(金太郎)の伝説で有名であるが、南国の伊予から箱根越えは寒かったでしょうよとの労わりと感謝と喜びの気持ちであろうか。なぜ足柄なのかはよくわからない。ご存知の方はご教授願いたい。

 東京に居るとき家人と足柄山に登ったことがある。古代から東西交通の要路で、峠の標高759メ-トル。「箱根の山は天下の険」ほどではないが結構登り甲斐のある山だった。頂上に立つと真正面に富士山が迫ってきて感動したことを覚えている。子規さんは明治25年10月に箱根路を歩いているし「足柄や花に雲おく女郎花」の句がある。足柄山に登ってはいない。

子規さんにあやかって一句

   「一遍聖、祖父(河野)通信の墳墓の地を遊行す   
       陸奥はさぞ寒かったでござんしょう    子規もどき 」 道後関所番