平成17年1月 「一年は正月にあり一生は今にあり 子規」
道後の子規記念博物館の元旦風景スナップをお送りさせて頂きます。垂れ幕は卒業50周年記念同期会でご講演頂いたコラムニスト天野祐吉さん(子規記念博物館館長)が選んだ正月句 『一年は正月にあり一生は今にあり  子規』です。 道後関所番
平成17年2月  「ここぢゃろ家ありうめも咲て居る  子規」
2月の子規記念博物館はガラガラです。是非お出かけ下さい。お近くの梅は満開でしょうか。伊予熟田津「山の辺の道」が昨年末に「美しい日本歩きたくなる道500選」に選ばれました。「道後・町おこし」でちょっとだけお手伝いしました。石手寺・伊佐爾波神社・宝厳寺・鷺谷墓地・常信寺・松山神社・護国神社・御幸寺・一草庵・千秋寺・来迎寺・ロシア人墓地・竜仙寺・長建寺・弘願寺・帰還熊八幡宮・軽之神社・比翼塚の18ヶ所がチェックポイントです。桜の季節に散策はいかがでしょうか。丸一日のコースですが「熟田津」にどっぷり浸かって頂きたいものです。道後関所番
(追記)
俳人 赤崎アヤ子 さんの俳句鑑賞に当たっての的確な読みの深さと表現の豊かさに心から敬意を表します。俳句とはあまり縁のない者にとっては鑑賞は句作りより難しい。
この句「こゝぢゃあろ家あり梅も咲いて居る」は子規さん27歳の句で『寒山落木』に載っています。「もう1人お連れがいて話しかけた言葉が句になったのか」のご指摘ですが、お連れとは内藤鳴雪翁でした。「こゝぢやろ」の句の前に「草庵」と前書きして「根岸にて梅なき宿と尋ね来よ」と子規の住む根岸庵を自嘲し、「こゝぢやろ」の句の後の「根岸 二句」では「家五百ことごとく梅咲きにけり」と対比させています。お二人がどなたを訪ねたのかは残念ながら分かりません。明治27年当時は根岸から墨田にかけて町中梅の香がこもっていたのでしょうか。鳴雪翁とは「弘道館」で別れていますが、弘道館は水戸の藩校の名称ですから水道橋の後楽園(元の水戸藩上屋敷跡)まで散策したのでしょうか。
俳句の鑑賞には理屈は不要かとは思いつつも、探索好きですから作者の置かれた「時と場」を穿って楽しんでいます。それにしても素晴らしいお二方の吟行だったのですね。いやはや。赤崎アヤ子,原田明美さんには、道後の子規記念博物館での松山市民俳句大会に来られていたのですね。
印象に残った一句についてご紹介がありましたが、子規さんの句にありそうな私自身も経験した様な「懐かしい句」ですね。今後足が弱くなれば誰しも経験しそうな豆まきでしょうから是非記憶しておいてその時には苦笑いでもして誤魔化しましょうか。
ご参考になるかと思い当日句をご連絡致します。「躓きて 一度に豆撒き 終わりけり  (松山市) 津吉百合子様」で岡田武夫氏選の「当日入選句」でした。津吉さんは存じませんが、珍しいお名前なので印象に残っています。 
「ふなや旅館」での「濃田綾美無量寿雛人形展 雅の世界」は明日までの由、温泉帰りに立ち寄ってみます。今日午前中「朝日放送」で「道後ギヤマンの庭」の放映がありました。「道後版プロジェクトX」でしたが皆さんご覧いただけましたでしょうか。是非是非道後の誇る新しい美術館にも足を運んでいただきたいものです。道後のことをPRし過ぎると「ピエロさん」から私設道後観光協会長?と再度言われそうですから本日はここまでにします。いやはや。道後関所番
平成17年3月 「春風のとり乱したる弥生哉   子規」
子規記念博物館の3月のメッセージは「春風のとり乱したる弥生哉   子規」 です。陰暦の3月は新暦の3月末でしょうが、春風の悪戯は野や山や町や人にも伝播して気持ちも落ち着かなくなってくるのでしょうか。季題がダブっていますが、これは子規の「よもだ」でしょうか。
ローカル放送ですが今夕17時10分から放映のNHKテレビ「いよかんワイド」中「リポート道後温泉街の景観整備」で戦前の道後温泉街の写真が披露さしました。ご覧頂いた道後温泉街の戦前の写真をご入用の方はメールでお送りします。お問い合わせ下さい。道後関所番
平成17年4月 「弥次郎衛喜多八帰る桜かな  子規」
4月の子規博物館の俳句メッセージは「弥次郎衛喜多八帰る桜かな」です。一九の「東海道膝栗毛」に目を通していないので、弥次さん、喜多さんが江戸に戻ってきたのが桜の季節かどうかわかりませんが、この句も「よもだ」の句として鑑賞すると面白いなあと感じました。
新暦四月は旧暦三月弥生の季節。弥生となれば「よっお 弥次郎衛」と云ったところで花見酒となるのでしょうか。赤崎さんの細やかな鑑賞をぜひ教えてください。
小生、春を待ちきれず「愛 地球博」に出掛けました。千里万博から三十五年、感無量の「還暦の旅」でもありました。EXPOは体力との勝負ですが、リニ中回廊(木道)」を歩き、「外国館」中心に数を稼ぎました。「マンモス」と「ロボット」だけで丸一日が必要とは、いやはや。京阪神、東海にお住みの方、会場での「予約券」獲得のノウハウを是非「東の窓」メンバーにこっそり公開していただけませんか。お願いします。「徳川美術館」で大名雛を鑑賞し、弥次さん喜多さんの終着地点である京三條から先斗町を経て祇園歌舞練場の「都をどり」をうっとり眺めてきました。今宵は道後公園で町内会のメンバーを杯を交わします。花は良いですなあ。道後関所番
平成17年5月 「国なまり故郷千里の風かをる    子規」
「国なまり故郷千里の風かをる    子規」子規記念博物館(天野祐吉館長筆)の子規五月の句です。
素人にも分かりやすい句ですなあ。入学、入社、転勤などなど住み慣れた土地を離れて迎える春五月。戦後では「黄金週間の集い」が思い出されます。そう云えば、昭和二十九年新宿御苑に同期が集まったのも五月ではなかったでしょうか。伊予弁コンプレックスを忘れて、みんなよくしゃべったなあ。学生服の男性と華やかな装いの女性・・・眩しかったなあ。
石川啄木の「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」の比して、なんと底抜けに明るい「伊予訛り」なんだろうか。根岸で子規さんが道後煎餅をかじりながら訪ねてきた伊予人と悪がき時代の話をしていてもおかしくないなあ。県外で古希の五月を迎えた皆さん、お国訛りで故郷コールは如何でしょうか。道後関所番
(追)
「EAST29」で子規博五月の句(「国なまり故郷千里の風かをる 子規」)を紹介しましたところ、俳句では「春五月」はないだろうとのコメントがありました。ご指摘有難うございました。俳句とは無関係に「春五月」を文中「黄金週間」の頭に使ったのですが、いやはや。俳句の世界の約束事ですが「黄金週間(ゴールデンウイーク)」「風光る」は【季題春】、「風薫る」は【季題夏】ということになります。
尚、子規の句は「寒山落木」(巻二)に載っています。添え書きに「松山会」とあり「根岸で子規さんが道後煎餅をかじりながら・・・」といった風情です。尚「お遊び」に鯉幟と菖蒲を挿入した子規記念博物館をご披露させていただきます。「鯉幟」と「菖蒲」はいずれも【季題夏】です.。
平成17年6月 「明け易き夜を初戀のもどかしき   子規」
「明け易き夜を初戀のもどかしき   子規」子規記念博物館(天野祐吉館長筆)の子規六月の句です。初恋になんの説明が要りましょうか。子規二十八歳の句です。子規さんは「明け易き」や「短夜」の句を随分たくさん作っていますが、煩悶して感情が昂ぶった時はとろとろと仮眠している内に夜が明けて驚いた経験を誰しもお持ちでしょう。「恋」を子規の句の通り「戀」の字に置き換えると『恋とは「糸し(愛し)」「糸し(愛し)」と「云う(言う)」「心」よ』と先輩に教わった純情だった当時のことを思い出しました。道後関所番
平成17年7月  「書を倦まばお堀の松を見て涼め   子規」
七月の子規博の子規の句は「把栗に寄す【書を倦まばお堀の松を見て涼め】」(明治29年夏 「寒山落木・巻五」所載)です。
福田把栗(フクダハリツ・1865〜1944)は子規門の俳人で和歌・南画と多趣味であった由です。水道橋界隈のお堀でしょうか。よくは分かりません。鬱陶しいこの季節に相応しいとは感じつつも、それにしても暑すぎて俳句など鑑賞できそうもないなと一瞬思いました。
天野祐吉館長は数ある子規の「涼し」からは採用せずに「涼め」を選んでいただいて「さすがさすが」と感心しました。「書を倦まばお堀の松を見て涼し」で端を連想しました。また天野館長が子規博の執務室で仕事に厭いて道後公園の内堀と松を見て「これこれ。しめた。」と「よもだ」で選句したのかなとも思いました。・・・どうも雑念が多すぎますなあ。同じ明治29年作「下谷区の根岸の奥の風涼し」は子規の佇まいが偲ばれます。
先月の「明け易き夜を初戀のもどかしき  子規」に関して子規の「初恋の人は」とのご質問がありましたが、東京大学予備門の同級生である南方熊楠や夏目漱石が色々と暴露していました。結構猥雑なことが好きだった様ですね。メールでは「発禁」になりましょうから同期会の二次会などで如何でしょうか。いやはや。道後関所番
平成17年8月  「炎天や草に息つく旅の人   子規」
子規博物館、天野祐吉館長選の今月の子規の句は「炎天や草に息つく旅の人   子規」です。明治33年の夏の句ですが、明治35年秋には子規は逝去していますから、子規にとっては晩年に当たり、当然病床の句になりましょう。一読の瞬間、芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる  芭蕉」が浮かびました。芭蕉とは違いますが「草」を俳句、「旅の人」を子規その人に当てはめると、炎天下根岸の庵の病床で俳句、和歌の改革に生命を削りながら苦闘している子規の壮絶な後半生が浮かんできました。本来は叙情的に解釈するのでしょうが・・・
子規博「はがき歌」全国コンテストの最優秀作をご披露しましょう。
「遙々とお四国を踏んでくださった蜜柑ちぎってホイ持って行けや」
「おばあちゃんへ 最近ね 万葉仮名を習いましたさあ読めるかな『安曽比仁幾天祢』」
同期会総会の出欠連絡は8月10日までに年度幹事宛ご送付下さい。県外の方は、是非是非『安曽比仁幾天祢』。いやはや。道後関所番
平成17年9月  「草の花少しありけば道後なり  子規」
子規記念博物館九月の子規の句は 「草の花少しありけば道後なり  子規」です。
秋を待ち焦がれて珍しく8月中に垂れ幕が掲げられました。写真に小さく写っている「道後寄席」は子規博主催の出し物で今年は美輪明宏(歌手・俳優) ・ いっこく堂(腹話術) ・クミコ(歌手) ・赤瀬川原平(作家)・ 竹本住大夫(文楽太夫)といった豪華メンバーです。
明治28年9月20日に柳原極堂と松山の郊外を散策した時の句です。ご存知のようにこの年8月に子規は結核を病んで松山に帰省し、松山中学の教師として赴任していた旧友夏目漱石の下宿先「愚陀佛庵」で52日間の共同生活を送ることになります。初めての吟行は愚陀佛庵→(常信寺)→砂土手(松山東高の西)→石手寺→御竹藪(道後公園)のコースを散策したことになります。軽く一万数千歩でしょうから病み上がりの子規は案外健脚だったんだなと思います
「少しありけば(歩けば)道後」ですから砂土手から遠望すると本村(持田町、南町)や道後村は田畑が広がっていましたから、ご城下からの道後往還道の向こうに冠山(湯神社)や伊佐爾波の森が手に取るように見えたのでしょう。この句は「散策集」に漱石らとの吟行を含めて冒頭部分に載っています。俳句にご興味のない方も子規遺稿の「散策集」は芭蕉の「奥の細道」のように俳文紀行(ちょっと大袈裟かな)になっていますのでご覧いただきたいものです。
この句は「秋の山松鬱として常信寺」の次の句でその後に「砂土手や西日をうけて蕎麦の花」が続きます。通説では常信寺に立ち寄ったことになっていますが道後の住人としては「あり得ない散策路」と考えます。皆さんはどのようにお考えになりますか。この句の季語は「草の花」で「秋」となっております。 道後関所番
平成17年10月  「名月に飛び去る雲の行方哉  子規」
10月の子規さんのメッセージは「名月に飛び去る雲の行方哉  子規」です。
明治31年の作品です。俳誌「ほととぎす」が松山の柳原極堂の手を離れて東京に移転したのが明治31年9月です。「名月」は「中秋の名月」のことで陰暦の8月15日に当たります。また今年の「中秋の名月」は9月18日でしたが翌19日は「子規忌」でしたので、天野祐吉子規博館長は諸々の因縁を感じてこの句をメッセージにしたのでしょう。(あくまで僕の見解ですが、そのように解釈するとこの句に歴史的な重みを付与できるかなと思います。)
「切れ字」のことですが、一般には「名月や飛び去る雲の行方哉  子規もどき」になるのでしょうが「名月に」で平凡な句が非凡な句になった様に思います。名月を鑑賞しながら(子規さんは食通ですから月見団子を食べていたに違いありますまい)あの流れている雲はどこへ行くのだろうといった感興でしょうが、「名月に」と言い切ったことで「動かざる名月(満月)」が強く印象付けられました。赤崎さん、原田さんはじめ俳人のみなさん如何でしょうか。道後関所番
平成17年11月  「秋の雨荷物ぬらすな風ひくな  子規」
子規記念博物館から天野祐吉館長が発信する今月の句は「秋の雨荷物ぬらすな風ひくな  子規」です。
ここ数日で急に冷え込みが厳しくなり紅葉・黄葉の彩りも鮮やかになりました。一方今冬は新型鳥インフルエンザウイルスが世界的な規模で拡大との由です。「おせんかすな 馬肥やせ」ではありませんが「家族泣かすな 風邪引くな」と云ったところでしょうか。今月の子規の句は漱石に送った挨拶句で、その背景も、詠まれた日も明らかですので記録を掲載します。鑑賞は皆さんでお願いします。
明治二十九年春松山中学校から熊本高等学校講師として赴任した漱石・夏目金之助は翌三十年七月上旬妻鏡子を伴って上京し妻の実家である貴族院書記官長官舎に泊まる。滞在中に鏡子は流産する。在京中根岸の子規庵を度々訪ね、句会にも出席しています。九月六日に漱石から子規に離京の挨拶状が届き、子規は早速返信を送り「病状手記」にメモを遺します。
○九月六日付 夏目金之助宛 端書「秋雨蕭々汽車君をのせて又西に去る鳥故林を恋はす遊子客地に病む萬縷尽さす只再会を期す 敬具 」
○九月六日付 「病状手記」メモ「九月六日  漱石明日一番汽車にて新橋を発する由端書あり句を送る萩芒来年逢んさりなから秋の雨荷物ぬらすな風引くな」
畏友・漱石への恋文のような惜別の情がジーンと伝わってくるようです。ところで当時東京から熊本まで何時間要したのでしょうか。「鉄道マニア」の方、当時の「時刻表」で調べていただけませんか。30時間くらいでしょうか。いやはや。道後関所番
平成17年12月 「漱石が来て虚子が来て大三十日  子規」 
子規記念博物館から天野祐吉館長が発信する今月の句は「漱石が来て虚子が来て大三十日  子規」です。「大三十日」(おおみそか)は「大晦日」です。新暦では「大三十一日」でしょうが旧暦(太陰暦)は三十日周期ですから「三十日」なのでしょう。
大晦日に漱石や虚子が病床にあった根岸の子規庵を訪ねてきたことの喜びを率直に表現した句といえます。この句が特に重要な意味を持つのは明治28年12月31日の作品であることです。ご存知のように漱石が松山中学校に赴任したのは明治28年4月のことです。一方子規は4月に従軍記者として満州に渡り、5月帰国の船中で喀血し須磨病院に入院する。小康を得て松山に帰省し8月27日漱石の下宿先である愚陀仏庵に転がり込む。この日から52日間の漱石と子規の同居生活が始まりち寄り「柿くへば鐘は鳴るなり法隆寺」の句想を得る。それから二ヶ月余り、年末に漱石は帰京し貴族院書記官長中根重一の長女鏡子とお見合いをする。この日の漱石、虚子との子規庵での鼎談は松山のこと、俳句のこと、見合いのことなどなど子規は病気のことなど忘れて語り合い至福の大晦日(大三十日) を送ったに違いありますまい。尚蛇足ですが漱石が松山中学を題材にした小説「坊つちゃん」の上梓から来年は100年を迎えます。
ところで「孫が来て曾孫が来て大三十日  子規もどき」といったご家庭が同期の仲間で誕生しておられるのでしょうか。ともあれおめでとうございます。よき新年をお迎えになられますように・・・・・  道後関所番