遣羽子の笑ひ聞ゆる小道かな   子規 
平成28年1月  「遣羽子の笑ひ聞ゆる小道かな   子規 

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年1月の句は「遣羽子の笑ひ聞ゆる小道かな   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「遣羽子」(新年)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 新年」(165頁)、第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟 明治二十八年新春」〔附明治二十八年俳句草稿補遺〕(129頁)に掲載されています。

 明治28年の遣羽子の句には下記句もある。
「遣羽子に去年の娘見えぬかな   子規」

 明治28年、根岸の子規庵で三度目の新年を家族で迎える。子規庵近くの小道で遣羽子(羽子つき)を楽しむ少女たちの笑い声が聞こえてくる。羽子を打ち損じると白粉か墨を付けられることもある。追っかける子、逃げる子、どっと笑い声。やがて静かになって羽子を打つ音が聞こえてくる。戦前には男の子は凧揚げ、女の子は羽子つき、すこし大人びてくると「百人一首」が正月の光景だった。ところで「去年の娘見えぬかな」は陸羯南のお嬢さんか、それとも・・・ 

 のどかな正月風景を彷彿させる。『寒山落木』明治28年の冒頭を飾る句は「紀元二千五百五十五年哉  子規」である。紀元二千六百年は老生の幼稚園時代である。

今年(平成28年)は「紀元二千六百七十六年哉」である。あけましておめでとうございます。本年もお付き合いのほどよろしくお願いします。

子規さんにあやかって一句

 「門松や笑ひ聞ゆる無人駅   子規もどき 」 道後関所番
  横町の又横町や梅の花   子規 
平成28年2月  「横町の又横町や梅の花   子規 

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年2月の句は「横町の又横町や梅の花   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「梅」(春)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 春」(200頁)、第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟 明治二十八年新春」〔附明治二十八年俳句草稿補遺〕(137頁)に掲載されています。
新聞「日本」の明治31年4月8日号にも載っています。なお、この句の前書きに「根岸」と場所を特定しています。

根岸といえば、東京下町特有の、横町をまがるとまた横町という入り組んだ町並みです。京都の町屋とは随分違った雰囲気です。

子規の根岸住まいは明治25年2月29日のことで「本郷区駒込追分町三十番地」から「下谷区上根岸町八十八番地」に転居します。陸羯南宅の西隣で羯南の紹介によるものです。この場所が、今日も現存する「子規庵」です。

転居の翌年に当たる明治26年の句に「梅もたぬ根岸の家はなかりけり  子規」がありますが、下町には梅を植えた家が多くあり驚いたのかもしれません。子規が幼少期を過ごした松山のご城下も同じように梅を植えていたのでしょうか。旧道後村の拙宅には梅、柿が残っており、現在でも、梅干や干し柿を季節が来ると楽しんでいます。

句の鑑賞というより「映像」としてこの光景が浮かんできます。子規さんが碧梧桐や虚子と散策した横町であり、鳴雪や漱石が句会に訪ねた路地でもありました。

子規さんにあやかって一句
  根岸 子規庵
 「横町の又横町や梅の庵    子規もどき」 道後関所番
 「何として春の夕をまぎらさん   子規 」
平成28年3月  「何として春の夕をまぎらさん   子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年3月の句は「何として春の夕をまぎらさん   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「春」(春)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 春」(170頁)、第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟 明治二十八年春」〔附明治二十八年俳句草稿補遺〕(134頁)に掲載されています。

詞書きは「独居恋」です。「独居恋」は『広辞苑』には載っていません。「独居」はひとり住まいのことで、今日では「独居老人」が話題になっています。この句の場合が「独り居」の意味です。「ただひとりでいること。狭衣物語4「かかる独り居し給ひつつ身を焦し給ふ事」(『広辞苑』)

句の解釈としては、春の夕べに独りで過ごしていると恋しいひとのことが思い出されて、どのように気持ちをまぎらせてよいのだろうかということでしょう。まさに「狭衣物語」そのものの世界でしょう。古典的な陳腐化した俳句と言えるでしょう。

もっとも、子規さんを対象に考えると、具体的に誰を想って詠んだ句かということに興味が湧きます。詩人 堀内統義さんの『恋する正岡子規』(創風社2013)には何人かの恋する女が描かれてはいますが、それとも・・・・・

春の愁いといえば、与謝蕪村の「愁いつつ岡に登れば花茨」を思い出します。この句の季語は「花茨」で「夏」ですが、「春愁」のことばが初恋や幼恋に結びつきます。幼稚園や小学校の女先生との別れ、中学校、高校での女友達との別れもきまって「春」でしたし、卒業から進学、就職までの無為の日々は愁いの日々でもあったようです。いやはや。

もっとも明治28年春といえば、親友であり夏目漱石が松山中学に赴任した時期でもあります。漱石を想ってとも考えられないこともありませんが、ここでは[幻のひと]としておきましょうか。

子規さんにあやかって一句
 独居老  
 「何として独りの春をまぎらさん     子規もどき」 道後関所番
平成28年4月  「世の中は桜が咲いて笑ひ声   子規 
平成28年4月  「世の中は桜が咲いて笑ひ声   子規 

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年4月の句は「世の中は桜が咲いて笑ひ声   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「桜」(春)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 春」(205頁)に掲載されています。

この年、桜の句を六十句詠んでいます。
 
  吉原  二句
うちかけや一かたまりの桜散る
うちかけの並んで通る桜かな
  従軍の首途に
いくさかな我もいでたつ花に剣
  金州にて
故郷の目に見えてたゞ桜散る
  松山龍穏寺
めづらしや梅の莟に初櫻
 
 龍穏寺の桜は「十六日桜」として松山では著名である。河野家の菩提寺のひとつでもあり当家の旦那寺でもある。昭和20年7月の松山大空襲で焼失したが檀家が殆どなく本堂の再建が叶わなかった。隠居寺であった「西禅寺」が残された宝厳寺の檀家の面倒をみている。

 子規が詠んだ句は、東京とすると上野の桜か小金井の桜かもしれませんが、少年の日の松山城か道後公園、石手川の桜かもしれません。日本人にとって桜は「国花」だし、それぞれに桜の名所が心象として残っているのでしょう。

 学生時代、会社員時代には「同期の桜」を肩を組み合って歌い、やがて「散る桜残る桜も散る桜」の心境で戦友たちと別れを告げたことが思い出されます。

「世の中にたえてさくらのなかりせば春のこころはのどけからまし」在原業平
「願わくば花の下にて春死なん、その如月の望月のころ」西行法師

 毎年、松山神社、常信寺、道後公園、石手川公園、松山城公園(城山)で花を愛でながら弁当を食べ、夜桜を眺め、そして拙宅の庭の桜も照明をつけて近所の人と花談義をしています。まさに、桜咲いての笑い声が続きます。

子規さんにあやかって一句
   
 「東北は桜が咲いて笑ひ声     子規もどき」 道後関所番
「この二日五月雨なんど降るべからず   子規 」
平成28年5月  
       母の東へ帰りたまふに
  「この二日五月雨なんど降るべからず   子規 」



子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年5月の句は「母の東へ帰りたまふに この二日五月雨なんど降るべからず  子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「五月雨」(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 夏」(235頁)と第二十一巻「病後漫吟 明治二十八年夏」(62頁)掲載されています。なお「病後漫吟」では、前書きが「母の東帰し給ふに」と簡略化されている。

明治二八年日清戦争従軍からの帰国途上の五月十七日「佐渡国丸」の船中で喀血、上陸後「神戸病院」に緊急入院。六月四日、東京から母八重と碧梧桐が到着、子規とともに看護に当たる。

六月二八日、八重は松山に三年振りに帰郷、七月九日、松山から戻った母は碧梧桐と東京に帰る。根岸の自宅に戻る母を気遣って、家に着くまでの二日間は五月雨が降らないでほしいという思いが切々と伝わってくる。

ちなみに官報に記載された「東京の天候」によれば、七月八日は快晴、九日は晴れ、十日は快晴、十一日、十二日は雨であった。まさに子規の願いを天が聞き届けてくれたようだ。

子規さんにあやかって一句
  
   孫の旅立ちに
 「新学期地震なんど起こるべからず  子規もどき」 道後関所番
「夏山にもたれてあるじ何を読む   子規 
平成28年6月  
       神戸市錬卿寓居にて
 
 「夏山にもたれてあるじ何を読む   子規 」

 
子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年6月の句は「神戸市錬卿寓居にて  夏山にもたれてあるじ何を読む   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「夏山」(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 夏」(240頁)と第十八巻書簡一 明治二十八年(561頁)、第二十一巻 草稿ノート「病余漫吟」明治二十八年 夏」(64ぺ頁)に掲載されています。

この俳句の背景は子規自身が河東秉五兄(碧梧桐)宛書簡に詳細に書かれています。(7月22日付)。

 「拝啓 御在神中は一方ならぬ御看護にあづかり御厚志の段奉謝候
 虚子より承候へば御帰京後御病気の由容体によりては入院の上御療治ある方後来のため よろしきかと存候 竹村尊兄へも其事 申上置候 兎に角にふぐり大事と御保養可被成候
 地図四枚落掌御手数奉謝候 近来同図は版磨滅致し候へども新地図は多少の修正ありて 鉄道線路など大方出居候は愉快に存 候
 小生は多分明日退院と決定致居候 併し天気都合にて延引いたすべく候
 一昨日より散歩をはじめ昨日は無始無終楼上に半日をくらし申候 主人扇を出して一句 をと請はれて病筆ふるへながら 
   夏山にもたれてあるじ何を読む  
 など即景を興し申候 御一笑にそなへ候
 小生近来来雲百句をはじめ候 一首々々の苦吟却て興味多く覚え候大略 怱々
  七月二十二日
   秉五兄 几下 

 すべては子規の碧梧桐宛書簡書簡に尽きるが、若干の説明を付しておきたい。

 明治28年7月21日に神戸病院に友人の竹村鍛(きとう)を訪問した時の句であることがわかる。竹村鍛は河東秉五兄(碧梧桐)の実兄で、当時神戸に住んでいた。竹村の漢詩文の号は錬卿(れんきょう)であった。当日、人力車で虚子とともに鍛の家を訪ね半日を過ごす。その節に、鍛が扇を出して子規に一筆書いた句が「夏山にもたれてあるじ何を読む」である。

 夏山は窓越から見える六甲山系であろうか。子規は二十四日に神戸病院を退院、そして須磨保養院に移った。8月20日須磨保養院を退院、25日松山に帰り湊町4丁目の大原恒徳宅に入る。松山中学校の教師であった夏目漱石の寄宿していた「愚陀仏庵」に落ち着いたのは27日からであった。 」   

子規さんにあやかって一句
  
   「松山中学校明教館にて   城山にもたれて子規子夏季講話   子規もどき」  道後関所番
 「ことづてよ須磨の浦わに昼寝すと  子規 」
平成28年7月 
       虚子の東帰にことづてヽ東の人々に申遣はす 
    「
ことづてよ須磨の浦わに昼寝すと  子規 」


 子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年7月の句は「虚子の東帰にことづてヽ申遣はす  ことづてよ須磨の浦わに昼寝すと  子規 」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「昼寝」(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 夏」(229頁)と第二十一巻 草稿ノート「病余漫吟」明治二十八年 夏」(59頁)に掲載されています。

 子規博懸垂幕俳句ですが3ヶ月連続して、28年夏の子規の須磨での療養時の句を撰んでいます。正直「仏の顔も三度まで」の気持ちです。竹田美喜館長、ごめんなさい。

平成28年5月は「母の東へ帰りたまふに 
            この二日五月雨なんど降るべからず  子規」

平成28年6月は「神戸市錬卿寓居にて  
            夏山にもたれてあるじ何を読む   子規 」

平成28年7月は「虚子の東帰にことづてヽ東の人々に申遣はす 
            ことづてよ須磨の浦わに昼寝すと  子規 」

 
 子規の須磨での療養の記述は5.6月の鑑賞エッセイと重複するので割愛します。虚子の行動に絞って記述します。全体像がお分かり頂けると思います。内容は、和田克司編「子規の一生」(『子規選集M』増進会出版社2003)に拠る。

「須磨の浦わ」の「浦わ」は、『広辞苑』のよれば「浦曲」「浦廻」で、@海べの曲がって入りこんだ所。A海岸をめぐりながら進むこと。

 
○明治28年5月27日(月)
京都で鼠骨とともにいた虚子のもとに、陸羯南から子規の入院先の神戸病院へ行くように書簡が来て、虚子が来る。碧梧桐、神戸病院の病床のできごとを少しも漏らさず書き残しておこうと、虚子と交代で日記をつける。

○明治28年6月13日(木)
虚子は松山に帰る。

○明治28年6月中
虚子、神戸に戻る。。

○明治28年7月1日(月)
虚子、鳴雪、五州、碧梧桐らと運座。「はれの日」と題して須磨の子規に送り講評を乞う。

○明治28年7月9日(火)
母八重と碧梧桐は東京に帰る。虚子が残る。

○明治28年7月23日(火)
須磨保養院に移る。8月20日まで過ごす。虚子は子規を送って行き、二、三日滞在する。

○明治28年7月23日(火)〜25日(木)中
虚子とともに松原を通って波打ち際に出、散歩した。

○明治28年7月25日(木)
虚子、須磨保養院の子規と別れ、帰京。本郷台町二番地、香山方に寓居。虚子の帰京に際して「贈るべき扇も持たずうき別れ」を詠む。

子規さんにあやかって一句
  
   「遍路の東帰にことづてヽに級友たちに申遣はす 
    「ことづてよ道後の温泉にて冬篭り  子規もどき 」        道後関所番
 「秋高し鳶舞ひ沈む城の上   子規
平成28年8月 
    松山城 
    「秋高し鳶舞ひ沈む城の上   子規


 子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年8月の句は「松山城  秋高し鳶舞ひ沈む城の上   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「秋高し」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 秋」(281頁)と第十三巻 小説紀行「散策集」明治28年9月20日」(609頁)、新聞「日本」明治31年9月21日号に掲載されています。

『散策集』によれば、明治28年9月20日午後、「今日はいつになく心地よければ折柄来合せたる○堂を催してはじめて散歩せんとて愚陀仏庵を立ち出づる程秋の風のそゞろに背を吹てあつからず 玉川町より郊外には出で」石手寺、道後公園を散策する。

 杖によりて町を出づれば稲の花
 秋高し鳶舞ひ沈む城の上
 大寺の施餓鬼過ぎたる芭蕉かな
 秋晴れて見かくれぬべき山もなし

と四十五句の俳句を詠んでいる。来年出版する『子規と松山 ふるさと事典』(仮称)では、9月20日の項は老生が執筆しているので詳細は割愛したい。

明治26年の句に 秋高し鳶飛んで天に到るべうがある。まさに有頂天というか鳶頂天の句だが、明治28年の句は写生句でありはるかに優れている。

子規さんにあやかって一句
  
   「秋高し松山城の曲輪かな   子規もどき 」 道後関所番
  「桔梗活けてしばらく仮の書斎かな   子規
平成28年9月 
       漱石寓居の一間を借りて 
    「桔梗活けてしばらく仮の書斎かな   子規


 子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年9月の句は「桔梗活けてしばらく仮の書斎かな   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「桔梗」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 秋」(221頁)と第二十一巻 草稿ノート「病余漫吟」明治28年秋」(97頁)に掲載されています。

ここ数ヶ月、明治28年の句が続きます。今回も、漱石が松山中学校外国人教師が寄宿した「愛松亭」から「愚陀仏庵」に引っ越した下宿に、結核の療養を兼ねて帰郷した子規が転がり込みます。

ここでの50数日の共同生活から、俳句の革新の機運が生まれ、子規の同志たちが誕生することになります。

「桔梗活けて」の上五句に、この俳句の良さがこめられています。「桔梗」の花言葉は
「気品」「誠実」「清楚」「変わらぬ心」「優しい愛情」といった言葉です。だから子規さんが桔梗を活けたとは思いませんが、漱石との変わらぬ友情、漱石の優しい思いやり、書斎に相応しい「気品」、「清楚」な部屋の佇まいが感じられます。子規さんは、片付けの後、ごろりと横になって、ふるさと松山の良さを感じ取ったに違いありません。

愚陀仏庵復元の市民運動が何度となく起こり、消え失せ、またよみがえっています。老生はこの運動から一歩下がって、外国人教師たち【ノイス(Noyes)、ターナー(Turner)、ホーキンス(Hawkins)、ジョンソン(Johnson)】が住み、松山にアメリカの文化を伝えた「愛松亭」の復元の呼び掛けています。「愚陀仏庵」と「愛松亭」が直径500メーターゾーンで復元できればと願っています。

子規さんにあやかって一句
  
   「桔梗活けてしばし野菊の君想ふ 子規もどき 」 道後関所番
     松山を立ち出づる時 
平成28年10月 
       松山を立ち出づる時 
    「行く秋のまた旅人とよばれけり
   子規」



 子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年10月の句は「行く秋のまた旅人とよばられり   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「行く秋」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 秋」(276頁)と第二十一巻 草稿ノート「病余漫吟」明治28年秋」(77頁)に掲載されています。

今月も明治28年の句が続きます。今回は、漱石が松山中学校外国人教師が寄宿した「愛松亭」から親友夏目漱石の下宿「愚陀仏庵」に身を寄せた8月27日から52日間の共同生活から別れを告げ上京する節の句です。

「愚陀仏庵」では、俳句結社「松風会」会員の句作指導をし、漱石や柳原極堂らと市内や郊外を散策し、子規が目指そうとする俳句を伝えていきます。『散策集』が置き土産になりました。

同年10月19日に子規は上京することになるが、それに先立ち、10月12日の午後、二番町にある「花廼舎」の広間で漱石や松風会会員17名によって送別会が開かれた。この席で「行く秋のまた旅人とよばれけり」が詠まれた。

17日に子規は帰京のため三津浜に向かい、久保田回漕店で送別句会を開いている。翌18日の午後、柳原極堂ら10名が三津浜まで見送りに来て、子規のいる客室で句作や揮毫を行った。この時の留別の句が「十一人一人になりて秋の暮   子規」です。

19日、松山を発った子規は、宇品、須磨、大阪、奈良を巡って上京。その間、法隆寺では有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を残している。31日、新橋停車場にて、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪の出迎えを受けて根岸の子規庵に帰った。子規にとって最後の帰郷と長旅であり最後に目にした松山となった。

「行く秋の」はふるさと松山への惜別の思いでしょうか。子規は学生時代から旅に出ることも多く明治28年には遠く遼東半島まで新聞「日本」の「従軍記者」として出かけます。俳句を通して、西行や芭蕉と同じ「旅人」と理解したのかもしれません。もっとも一遍のように「非定住」に徹しきった「人生の旅人」になりきれなかったのは時代がなせる思想と行動でしょうか。

明治28年の季語「行く秋」の句を取りまとめておきます。これだけ「大量生産」されると佳句の醍醐味も薄れませんか。いやはや。

○余戸手引松     「行く秋や手を引きあひし松二本」
○感あり       「行く秋の我に神無し佛無し」
○松山を立ち出づる時 「行く秋のまた旅人と呼ばれけり」
○客舎に臥して    「行く秋の腰骨いたむ旅寝哉」
○三月堂       「行く秋や一千年の佛だち」
○法隆寺       「行く秋をしぐれかけたり法隆寺」
○法隆寺       「行く秋を雨に気車待つ野茶屋哉」
○帰菴三句      「行く秋を生きて帰りし都哉」
           「行く秋の死にそこなひが帰りけり」
           「行く秋や菴の菊見る五六日」

子規さんにあやかって一句
     定年で東京を去る時
   「行く秋のまた伊予猿とよばれけり   子規もどき 」 道後関所番
  「汽車此夜不二足柄としぐれけり   子規」
平成28年11月 
   
 「汽車此夜不二足柄としぐれけり   子規」


子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年11月の句は「汽車此夜不二足柄としぐれけり   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「時雨」(冬)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 冬」(365頁)と第二十一巻 草稿ノート「病余漫吟」明治28年冬」(113頁)に掲載されています。「病余漫吟」では「汽車この夜不二足柄としくれけり」と表記されています。

この年「時雨」の句を40句詠んでおり、そのうち下の句「しぐれけり」は7句です。「蝉時雨」「袖の時雨」などの単語もありますが、一般には、秋の末から冬の初め頃に、降ったりやんだりする雨のことで、子規にとって、健康にすぐれず、気分の動揺があり、「時雨」の句が多くなったのかなとも考えられます。

今月も明治28年の句が続きます。病気療養で8月25日に帰郷し、松山中学の英語教師として勤務していた親友夏目漱石の下宿「愚陀仏庵」に別れを告げ、10月31日半年ぶりに東京の根岸の自宅(現在の子規庵)に帰宅します。このときの心境は「行く秋を生きて帰りし都哉  子規」であったでしょう。

10月30日、大阪を13時7分発の汽車で発ち、翌31日8時15分に新橋に着いています。同じ車中で「后の月足柄山で明けにけり」「朝寒の風が吹くなり雪の不二」の句を詠んでいます。大阪〜東京間が19時間、老生の学生時代は10時間、現在は3時間余といったところですが、いまや大阪〜東京間で旅情を感じる人は殆どいなくなったようです。

丹那トンネルの開通は昭和9年(1934)で、子規の時代は現在の御殿場線であり、箱根をぐるりと回ってである。東京在勤中に家族で「冨士屋ホテル」に宿泊して足柄山に登ったが富士山の眺望は見事であった。

「此夜」は旧暦9月13日の「十三夜」で、足柄山あたりで夜が明け、不二(冨士)が雪をいただいて月光に映えているといった風情か。まさに子規の三句で、墨絵の世界を髣髴とさせてくれる。この後、子規は根岸での横臥の日常生活が待っており、二度と雄大な冨士を眺めることはなかった。「汽車此の世不二足柄としぐれゆく」とでもいうべきか。

子規さんにあやかって一句
     
   「歩き遍路岩屋窪野もしぐれけり  子規もどき 」  道後関所番
平成28年12月   「煤拂や神も仏も草の上 
平成28年12月   「煤拂や神も仏も草の上   子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年12月の句は「煤拂や神も仏も草の上   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「煤拂」(冬)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 冬」(357頁)、第四巻 俳論俳話一 「俳句二十四體 即興體」(417頁)、第十六巻 俳句選集 「新俳句 冬の部」(363頁)、第二十一巻 草稿ノート「病余漫吟」明治28年冬」(109頁)に掲載されています。

「煤拂」の句を子規は明治26年に12句、28年には9句詠んでおり、明治二二年の「煤はらひしてくる年のまたれけり」が「煤拂」としては初出である。俳句としては初心者の句でほほえましい。

〇明治二二年
煤はらひしてくる年のまたれけり

〇明治二五年
煤拂のほこりの中やふじの山

〇明治二六年
鼻水の黒きもあはれ煤拂
南無阿弥陀仏の煤も拂ひけり
牛はいよいよ黒かれとこそ煤拂
煤拂のほこりを迯(逃)て松の鶴
煤拂のほこりに曇る伽藍哉
煤拂ひ鏡かくされし女哉
来あはした人も煤はく庵哉
梢から烏見て居る煤拂ひ
煤拂て金魚の池の曇り哉
煤拂て香たけ我に岡見せん
煤拂のありともしらず今年竹
煤拂や竹ふりかさす物狂ひ

〇明治二七年
該当句なし

〇明治二八年
煤拂の門をおとなふ女かな
煤拂や神も仏も草の上
煤はくとおぼしき船の埃かな
煤はいて蕪村の幅のかゝりけり
煤はきのこゝだけ許せ四畳半
煤はらひ又古下駄の流れ来る
大佛の雲もついでに煤はらひ
佛壇に風呂敷かけて煤はらひ
 奈良
千年の煤もはらはず佛だち

煤拂いの情景が浮かぶが、年末の大掃除は、旧家では例年12月13日から始まった。まずは神棚、仏壇から始めた。子供時代の記憶では、裏庭から竹を切って笹を束にしての作業なので、男衆が担当していたように思う。子規さんの見た光景も同じだろう。

神棚と仏壇は別の部屋に祭られているが、小春日和だったのだろうか、庭の草の上に移動させて煤拂をしたのであろう。多くは「佛壇に風呂敷かけて煤はらひ」の方が多かったと思われる。

最近では神社仏閣城郭の煤拂いは「季節の風物詩」としてTVで放映されることが多い。こゝ松山の道後温泉では、12月上旬に温泉本館と「椿の湯」が一日臨時に休館して屋根や軒下のほこりを払っている。

子規さんにあやかって一句
     
   「煤拂や半寿の年を了へにける  子規もどき」  道後関所番