平成19年1月   「雑煮食ふてよき初夢を忘れけり    子規」
明けましておめでとうございます。
天野祐吉子規記念博物館長選句の平成19年1月の子規さんの句は「雑煮食ふてよき初夢を忘れけり  子規」です 。この句は新聞「日本」の明治32年1月2日「歳旦十題・初夢」に掲載されています。「子規全集」では明治31年の「新年」の項に載っています。
「季語原理主義者」?の「道後関所番」にとっては、季語は「雑煮」なのか「初夢」なのか正直迷ってしまいます。通説では「初夢」でしょうが、食道楽の子規さんに敬意を評して「雑煮」といきたいですね。
明治31年当時既に根岸の子規庵で病臥にあった子規さんですが、雑煮を腹一杯食べて満足感で「よき初夢」も忘れてしまったと即物的に解釈すると滑稽味が出てきます。明治27年の句に「七椀の雑煮くひけり梅の花   子規」とありますから、病臥でも三椀くらいは軽く平らげていたのかもしれません。お屠蘇気分でメールをご覧の皆さんはどのように鑑賞されるのでしょうか。
例によって理屈っぽく分析してみます。子規さんにとっての「雑煮」は元旦の朝(元朝)こそ待ちに待った正月料理であった筈です。ところで「初夢」は昔から元旦の夜に「一富士 二鷹 三茄子」と夢見るものです。と、するとこの雑煮は二日目の雑煮ということになってしまいます。と、すると季語は「雑煮」ではなくて「初夢」が正解なのでしょうか。
ところで「初夢」では明治28年の句に「初夢の思ひしことを見ざりける   子規」の先行句があります。いかに恋しき人を、懐かしき故郷を、芭蕉を、蕪村を恋しても初夢には現れない。誰しもこんな経験はあるのではないでしょうか。
おまけをひとつ正月句をご披露させていただきます。
明治27年の新年句に「紀元二千五百五十四年なり  子規」があります。本年ならば「紀元二千六百六十七年なり  子規翁」といったところでしょうか。子規は慶応3年(1867年)に生まれましたので、今年は生誕140年になります。松山ではセレモニーが次々と企画されています。トップバッターは子規記念博物館で、松山市の市章をデザインした子規さんの友人である「画家・下村為山特別展」が正月からオープンです。
 子規さんにあやかって一句 
「雑煮食ふて来年のことのど仏     子規もどき」
1月3日の新聞には毎年のように餅をのどに詰めて亡くなった老人の記事が出ます。正月に縁起でもなかろうと云われそうですが、人生70歳を過ぎると私どもも無縁ではありますまい。気をつけたいものです。雑煮餅は高校卒業年に18個食べたのが生涯の最高記録です。さすがに一日中食欲はありませんでした。徐々に数が減り、60歳台では7個、それが5個になり、今年は3個になりました。やがて2個、1個になり・・・・・雑煮餅が食べれなくなったら、子規さん同様に生きている甲斐がなくなってしまいそうです。なんとか「のど仏」さまが「寿限無」であらんことを祈っています。いやはや。道後関所番
平成19年2月     「まだ咲いてゐまいと見れば梅の花   子規」
天野祐吉子規記念博物館長選句の平成19年2月の子規さんの句は「まだ咲いてゐまいと見れば梅の花   子規」です 。
この句は「寒山落木 拾遺」(明治25年)に載っていますが、同じ句が五百木飄亭宛の明治25年2月26日付書簡には「正月の梅のさく頃駒込の梅園にて」と前書きがあります。25歳の子規さんにとって人生を変えざるを得なかった出来事がこの年ですから、この句に寄せる子規さんの思いを感じ取る必要があろうかと考えます。
明治25年正月には駒込追分町の借家で「来客ヲ謝絶ス」と張り紙をして処女作となる小説『月の都』を執筆する。2月下旬には幸田露伴を訪ね批評を頼むが数日を経ずして返却される。自信家の子規さんだけにショックが大きく5月には「僕ハ小説家ニナルヲ欲セズ 詩人トナランコトヲ欲ス」と虚子宛の手紙に記している。追い討ちをかけるように6月には大学の学年末試験に落第し退学を決意する。明治のエリートコースから挫折したが陸羯南の縁で「日本新聞」の社員となり、俳句を中心にした子規さんの35歳までの「後半生」が始まっていくことになる。
五百木飄亭宛の2月26日付手紙から、2月下旬には幸田露伴を訪ねているので、『月の都』執筆もおそらく最終章か或いは完結しておる時期と思われる。駒込の借家から「駒込の梅園」は程近い場所にあったのだろう。息抜きに梅園に出掛けると、なんと梅は蕾ではなく凛として花をつけておるではないか。馥郁とした香りすらしている。数ヶ月集中した処女作『月の都』が蕾で終わるのではなく花となるのだ。露伴、紅葉、逍遙を越える小説家正岡子規の誕生を暗示している。子規さんの鼓動が聞こえてくるようだ。不安と安堵、成功と挫折は、誰にとっても青春そのものではあるまいか。
尚、飄亭は明治3年松山生まれで子規さんより3歳年下ですが常磐会寄宿舎時代からの子規の俳友。新聞「日本」の編集長でのち「日本及日本人」を主宰したジャーナリストである。昭和12年77歳で没した。
(注)この句の解釈は独断に過ぎると感じる方が殆どでしょう。子規さんは、どんな挫折があっても究極の楽観者です。俳友の皆さんもご自分の句を「虚子を越えている」とか「芭蕉の寂びに通じる」などと自己陶酔されたことはありませんか。子規さんはこのような生き方ができたからこそ大病の中で俳句の革新が可能になったと信じます。
子規さんにあやかって一句 
「頭出してゐまいと見ればつくしんぼ   子規もどき」
「つくしんぼ」でも「蕗の薹」でも良いのですが、陽気に誘われて散策すると草や木の生命力に驚きます。今時分「春は名のみの」でも早いくらいの季節ですが、春が其処に来ているような錯覚をします。暖冬なんでしょうか、今年になって木枯らしの吠える音を聞いていません。案外「まだ咲いてゐまいと見れば桜かな   子規もどき」の方が今春に限ってはぴったりなのでしょうか。いやはや。道後関所番
平成19年3月   「面白さ皆夢にせん宵の春     子規」
天野祐吉子規記念博物館長選句の平成19年3月の子規さんの句は「面白さ皆夢にせん宵の春   子規」です。
この句は「寒山落木巻二」(明治26年)に載っています。句意は「この世の面白いことを皆やり尽くして一瞬の夢を楽しもうではないか。春の宵は短い、人生もまた斯くの如しか。春宵のひととき酒を酌み交わし語り合おうではないか。」と云ったところでしょうか。蘇軾の「春宵一刻値千金」を念頭に於いて鑑賞すべきでしょう。
(注)宋 蘇軾 七絶  「春夜」又は「春宵」
春宵一刻値千金(春の夜はわずかな時間でも非常な価値があり)
花有C香月有陰(花には清らかな香があり月は陰ることがある。
歌管樓臺聲細細(歌声と管楽器の音色が樓臺から微かに聞こえてきて)
鞦韆院落夜沈沈(鞦韆院<ぶらんこのある中庭>に夜は静かに更けていく)
子規は明治26年3月に(東京)帝国大学を退学し(決意したのは前年の6月試験を落第したことが原因)4月1日より日本新聞社に正式に出社する。年譜を見ても、退学のストレスは全くなく新聞「日本」を中心に精力的に執筆活動を進めると共に、連日のように外出し、先輩、同輩、後輩と出会い、また頻繁に句会を開いている。子規さん中心に世の中が廻っているようだ。
26歳の子規さんにとっての「面白さ」とは何だったのだろうか。「春の宵」であれば使い古された言葉なので面白い夢も生まれそうもないが、「宵の春」ともなれば宵の風情が生きてくる。当時はネオンの華やかさはないだろうが、子規庵にも灯され、外灯が点る。人の影が障子や壁に、そして道に写しだされる。子規さんには女っ気が感じられないが、句会や酒席で車座になって語り明かそうとしている男達の群像が目に浮かぶ。時代が変わっても20歳台の男の話なんぞ、神代の昔から今日までそれ程変わることもなかろう。もっとも気概だけは違う。明治20年代の青年は大言壮語し、日本を、世界を飲み干そうとしている。
 年のせいもあるが、3月初旬というのに蘇軾の「春宵」どころか、孟浩然の「春暁」を連日体験しています。ご存知の「春眠不覺曉 處處聞啼鳥 夜來風雨聲 花落知多少 」です。そこで子規さんにあやかって一句
「面白さ皆夢となる暁の春   子規もどき」
ご同輩、見果てぬ夢でも語りませんか。いやはや。道後関所番
平成19年4月   「散った桜散る桜散らぬ桜哉  子規」
天野祐吉子規記念博物館長選句の平成19年4月の子規さんの句は「散った桜散る桜散らぬ桜哉  子規」です
この句は「寒山落木巻五」(明治29年)に載っています。「上野二句」としてこの句の前に「鬼事や女の鬼に花が散る  子規」と詠んでいます。(注)子規博の懸崖幕では「散った桜散る桜散らぬ桜かな 子規」になっています。為念。
明治29年2月から脊椎カリエスに苦しめられ以後死ぬまで子規さんは臥褥の状態になるのですが、この年4月の中旬に人力車で上野を一周し桜を見物しました。4月も10日を過ぎれば、上野の桜は満開の時期を過ぎ人も疎らだったのかもしれません。子規さんの目には華やかな桜ではなく無常の桜が写ったのかもしれない。当時の医学では不治の病を抱え、まさに死を暗示する「散った桜」であり「散(りつつあ)る桜」として自画像を重ねたに違いありますまい。
そして「散った桜」である身内や友人の在りし姿が思い浮かんでくる。父常尚の二五回忌、外祖父大原観山の二十二回忌、自死した藤野古白の一周忌、清水則遠の十一回忌などが続く。「散る花」の運命にありながら「散らぬ桜」を子規さんの姿として捉えると、過去・現在そして未来の時間の経過の中で自己の存在を明確に位置づけているように思えてなりません。
正直云って六・五・八の破調の句には付き合いかねます。
「詠み人知らず」(ご存知の方があればご教示下さい)ですが「散る桜残る桜も散る桜」を口にした特攻隊員も多かっただろうし、定年を前にして今日只今この句をつぶやいている団塊の世代が多くいるのだろう。「みんなが渡れば恐くない」ではないが従容として死を、定年を待ち受けるのは何時の世でも同じなのだろうか。仏教(ヒンズー教)では「学生・家住・林棲・遊行」を人生の四つのライフステージと認識し実践している知識人も多いが、日本人は「遊行」(捨ててこそ)は苦手らしい。
子規さんは物的(色)なものはすべて捨てざるを得なかったが、俳句という素晴らしい無窮の文学(空)を残してくれた。「散った俳句」「散る俳句」は無数にあるが「散らぬ俳句」の永遠の生命を信じたい。
桜と共に「全入全卒」の学生が今年も巣立ち実社会に出る。昔と違い公務員や企業への「本採用入学」が難しい世の中になったし、卒業(定年)するのが例外となる時代に突入した。
そこで子規さんにあやかって一句
「咲く桜咲かぬ桜も散る桜  子規もどき」
高度経済成長、バブル景気を満喫したご同輩、まずは良い時代を歩んだのではないでしょうか、いやはや。道後関所番
【追伸】(平成19年4月6日)
「子規博四月の俳句」を月初にメール致しましたが、鑑賞に当って決定的な間違いをしたのではないか悩んでいます。
是非是非ご教示いただきたくお願いします。「散った桜散る桜散らぬ桜哉  子規」を「六・五・八の破調句」と読んでしまいました。
「花は桜木 人は武士」とか申します。桜を「はな」と読みますと「散った桜(はな)散る桜(はな)散らぬ桜(さくら)哉  子規」で「五・七・五」の正調になります。併せて桜木を離れてしまった「桜(はな)」と枝についた「桜(さくら)」で死と生を峻別しているとしたら・・・・・
考え過ぎでしょうか。少しでも子規さんの心境に近づきたいと願っています。ご意見を是非お聞かせ下さい。宜しくお願いします。 道後関所
【追記】(平成19年4月7日)
○あいあい宗匠から細やかな、かつ心温まる文章を頂いた。
四月の子規記念博物館の懸垂幕俳句、「散った桜散る桜散らぬ桜かな  子規メールのpart1では、三好さんの研ぎ澄まされた銘鑑賞に、命がスキャンされ、メーリングメンバーの1人として幸せをかみ締めているひとときです。
国花でもある桜は、大和人の魂と重ねるに相応しく、はな(花)と言えば古今、さくら(桜)は常識とするところですが、さて、part2の五、七、五、に読ませる 「はな、はな、桜」説は如何なものでしょうか?
尤も、俳句は韻文で“調べ”を重視する文学ですから、五七五が六五八では減点も大きく、仰る通り付き合いかねますが、そこまで知性をエスカレートさせないほうがいいと、あいあいは思います。そのわけは;
この句をもし耳から、上五中七まで聞いたら、段階的に別の花を連想しかねないと思うのは情勝りのあいあいだけでしょうか?桜桜桜の対比的表現は言葉の響きも美しく桜の花のイメージも広がって参ります。減点より加点のほうが大きい・・・(あいあい説)
かくして、破調も、むしろ句の内容を深めている・・・とまで思えてきました。
「散る桜残る桜も散る桜  良寛」   後世まで語り継がれる句は、江戸時代の曹洞宗僧侶で歌人、書家でも有名な良寛の辞世句。
「咲き満ちてこぼるる花もなかりけり  虚子
桜の満開は七分咲きを言うとか、本当でしょうか?何方か気象庁に確認して下さいませんか?
「学生も遊行もなくて花見酒     あいあい」  ひたすらに馬齢、いや猿齢を重ねています。
【追記】(平成19年4月7日)
○あいあい宗匠に返信する
四月の子規記念博物館の懸垂幕俳句、「散った桜散る桜散らぬ桜かな  子規」についてのご高評有難うございました。
「あいあい」さんから頂いた実作者としてのご指摘で得心いたしました。俳句は目で味わい、耳で味付けし、改めて目と耳で賞味してこそ真髄に迫ることが出来るんですね。「減点」と「加点」・・・・・なるほど、うまい表現ですなあ。
昨夜湯築城公園の夜桜見物に出かけましたが、「散った桜」「散る桜」「散らぬ桜」を手にしました。今後記憶に残る子規さんの花の句になりました。併せてご紹介いただいた俳句も記憶のポケットに仕舞っておきます。
散る桜残る桜も散る桜   良寛
咲き満ちてこぼるる花もなかりけり  虚子
学生も遊行もなくて花見酒  あいあい
どうも有難うございました。
【追記】(平成19年4月8日)
○那須の宗匠から
関所番さん 皆さん
良寛さんの「残る桜も散る桜」は散り残っている桜もいずれは散る運命にあるといった悲哀を込めての思いでしょうか? 私の抱いている飄々とした良寛のイメージと一寸違って感じられました。矢張り人は色々な側面を持っているのでしょうね。
ところで 花=桜でしょうか? 桜以外の花は「梅の花」とか「○○の花」と固有名を頭に付けますね。虚子の句の「花」を菜の花や牡丹の花と受け取る人は居ないでしょう。季語ではどのようになってますか?変な疑問でごめんなさい。季語には「姥桜」なんてのは無いでしょうね。知性に欠けますね。
下野新聞読書面「各地の本」の欄に漱石・松山百句 創風出版 坪内稔典 中居由美編なる本が紹介されてました。松中時代の一年間に子規の指導で句作に熱中、約七百句を創ったそうです。その中から愛媛の俳人が百句を選び解説しているようです。「松山時代の漱石の心象風景を知る興味深い一冊」と評しています。編者の坪内氏は「水青し土橋の上に積もる雪」なる句を選んでいるようです。創風出版へ注文しようと思っています。地方紙は地方紙独自の面白さを持っています。
それにしても話題は広がりますね。  那須の極楽蜻蛉 平田
【追記】(平成19年4月8日)
○那須の宗匠に返信す。
那須の宗匠さん&みなさん
今日4月8日は「虚子忌」です。没後48年に当たります。芦屋の虚子記念文学館では句会が開催されているのだろうと思います。「あいあい」さんから送っていただいた「咲き満ちてこぼるる花もなかりけり  虚子」をしみじみと味わうことが出来ました。有難うございました。
那須の宗匠の鋭い切り口に参った参ったです。「姥桜」が突如出てきましたが、ご安心下さい。「歳時記」にちゃんと載っています。子規さんが使っているかどうかは「宿題」にしてください。朝桜、夕桜、夜桜、庭桜、家桜、若桜、姥桜、早桜、遅桜、・・・・・なんでもありですね。それだけ桜は日本人の心を惑わす魅力がある「花」なんですなあ。「那須桜」で創作されてはいかがでしょうか。小生は「温泉桜」といきましょうか。いやはや。
「花」イコール「桜」とは一概に言えないようです。俳人によっては桜を含めた「春の花」のイメージで詠んでおられるのではないでしょう。漱石の「燕来て障子に動く花の影  漱石」などはおそらく桜ではありましょうが、この句では具体的な花(色)でなく象徴としての花(空)のように思われます。象徴句(漱石の心象風景)とでもいうのでしょうか。いい句だなあと思います。
「漱石・松山百句 創風出版 坪内稔典 中居由美編」はまだ目を通していませんが、「坂の上の雲」を通して漱石さんも登場しそうですね。いよいよ松山は旬(春)になってきたようです。 道後関所番
【追記】(平成19年4月9日)
○あいあい宗匠から一部修正の知らせ
三好さま、平田さま、皆さま
「散る桜残る桜も散る桜  良寛」は良寛の辞世句と思っていましたが、只今ネットで調べましたら、“良寛?、親鸞?、その後に詠まれたもの?”と、書いてある箇所がありました。決定的でないので補足訂正いたします。
良寛、親鸞なら無常観の漂うこの句は辞世に相応しいものになりますが、この俳句を4月の懸垂幕俳句、「散った桜散る桜散らぬ桜かな 子規」と比較すると、俄然子規の句が、エネルギッシュでヴァイタリティーのある句に思えて来ませんか?。上五、中七、下五、をすべて当時の子規自身に置き換えると、下五の「散らぬ桜かな」は「かな」の強意と共に「我が文学(俳句)は永遠に不朽である」と豪語しているように思えます。
かたくりの花は春、葛湯は冬の季語ですね。桃の花は春、桃(実)は晩夏又は秋、と歳時記により少し季がずれることがあります。
今日は虚子忌でしたね。先日は偶然虚子の句を書きましたが、芭蕉にもいい句がありますね「さまざまなこと思ひだす桜かな   芭蕉」 姥桜は小野小町のような美しい女性が年老いたらなれるのでしょうか(・・?これからも色々ご指導くださいますようお願い致します。  赤崎 あいあい
【追記】(平成19年4月9日)
○長州の宗匠から
季節に敏感な三好様はじめ皆様へ。
さっそく「姥桜」を検索してみました。 するとありましたね。 “ 姥桜 咲くや老後の思ひ出 (おもいいで) ”   芭蕉 寛文4年 21歳とあります。
姥桜は八重の避寒桜だそうで、葉よりも花が先というところから葉なし、つまり歯無しの老婆に喩えたものとか、若き日の芭蕉もなかなかの皮肉やさんであったのかも。
ついでに、芭蕉の師の季吟にいたっては“ むづ折れや ぽくり往生 姥桜 ”などと、嫁入らず観音様のPRのような句がありますようで・・・。
そこで一句、 
“ とりたてて行かずともよし 姥桜 ”わが身を見れば事足りるというか、なんだか淋しいですね。
桜の季節のひと時を、愉しませていただいて有難うございました。  長州の taechan 
【追記】(平成19年4月9日)
○長州の宗匠への返信
これはこれは 妙美宗匠、「姥桜」のご紹介有難うございました。
「姥桜 咲くや老後の思ひ出  芭蕉」の句に刺激されて、宿題にしていた子規さんの「姥桜」を探しに出かけました。 那須の宗匠、ありました。ありました。宿題を提出します。
「我知らじ老いたるをこそ姥桜    子規」
    秋色桜
「十三の年より咲て姥桜        子規」
子規26歳の句です。第二句は特定の女性を指しているのでしょうか。子規学者も指摘していないのではないかと思いますが、しかも松山の女性となると妹の律さんでしょうか。この年、子規さんは母と妹を東京に呼び寄せました。二人の水も滴る姥桜に囲まれて根岸の子規庵で「姥桜」見物をしたのでしょうか。いやはや。
24,5歳の女性を「姥桜」とは女性に対する侮辱ではないかって。最近は20歳を過ぎると「おばさん」と呼ぶらしいですね。念のため「広辞苑」を引いてみました。【姥桜】A娘盛りが過ぎてもなお美しさが残っている年増 と書いてありました。
昔の日本人は優しかったのでしょう。「番茶も出花」を過ぎれば女性は死ぬまで姥桜として男の憧れだったのでしょう。「小町娘も老いぬれば身は百歳の姥桜」。間違っても「姥桜」などとは人前では申しませんが、皆さんにはいつまでも「なお美しさが残っている」女性であってほしいものです。道後関所番
【追記】(平成19年4月9日)
○那須の宗匠から
長州の宗匠 関所番さん 皆さん
知性欠如の質問に早速ご教示下さり感謝、感激 有難うございました。
「姥桜」なる言葉に拘りが合ったのは、褒め言葉の含みを持って使ったところ差別用語との指摘を受けました。例句を拝読し、広辞苑の解釈をお聞きすると私が使った意味合いが間違いでなかったと安心致しました。持論ですが「何時までもいい女であれ」、歳を重ねるにつれ深みを増す女性こそ「いい女」でしょう。「いい女」とは単なる美人とは違いますよね。
「十三の年より咲て姥桜 子規」気に入りました。いい句だと感じ入りました。
「姥桜咲くや老後の思い出 芭蕉」 芭蕉は21歳でこの様な発句が出来るとは老成していたのでしょうか?それとも仰せの通りの皮肉でしょうか?淡い面影を何時までも抱き続ける芭蕉と自分流に解釈します。
お花見は未だですが充分に楽しみました。これに懲りずにご教示下さい。那須の極楽蜻蛉 平田
平成19年5月   「五月雨や畳に上る青蛙  子規」
子規記念博物館選句の平成19年5月の子規さんの句は「五月雨や畳に上る青蛙  子規」です 。
前月までは天野祐吉館長選句と付記したのですが、4月1日付人事で天野館長は名誉館長になり、新館長には竹田美喜副館長が就任されました。竹田館長は気さくな方で、母校の後輩であり同窓会総会にもよく顔を出されています。済美平成中等学校の教諭で愛媛大学の講師も兼任され、万葉集学者でもあります。引き続き天野祐吉名誉館長が選句されるとのことです。
この句は明治34年6月26日の新聞「日本」に掲載されました。季語は「五月雨」で陰暦5月(新暦では6月)ですから勿論「夏」の俳句です。また子規編の『春夏秋冬』の「夏之部」に集録されている。
(注)同日付の新聞「日本」に「雨蛙(三句)」として「五月雨の句」と並んで「園茂み傘に飛びつく青蛙  子規」「竹椽や青き色なる雨蛙  子規」が掲載されています。
明治34年といえば、子規さんは病状が悪化し、床に臥したままで寝返りも出来ない状態にあった。伊藤左千夫の文章(明治34年6月「子規子の近況」)を引用すると「六畳の畳に所々麻にて手をかける様なものを床の四方にこしらへあり、これは寝反りの時に是につかまって僅かに体を動かすために候、又東の鴨居に麻縄を張り、其より白木綿の紐を釣り、それにつかまって幾分にても体を浮かして痛み所をゆるめるために候」とある。想像しても身の毛のよだつ、阿修羅というか生き地獄である。
そのような病状で、しかも降り続く五月雨で気も沈んでいただろう。そこへ青蛙がひょっこりと縁側から畳の上まで這い上がってきた。寝たっきりの子規さんはこの小さい訪問客が目に留まり、恐らく心も和んだことだろう。写生俳句の真髄のような句がすぐに出来上がった。平凡といえば平凡、子供でも初心者でも作れそうな句である。それだけに、じっくり味わってみたい。
「五月雨」といえば高校時代の教科書で学んだ芭蕉と蕪村の句が浮かんでくる。
「五月雨や大河を前に家二軒   蕪村 」
「五月雨を集めてはやし最上川  芭蕉」
堂々たる先人の二句に比し、子規さんの句は根岸の子規庵の小宇宙の中で生命の賛歌を表現したものだと格調高く鑑賞も出来ようが・・・・・
そこで子規さんにあやかって一句
「青蛙昭和も遠くなりにけり  子規・草田男もどき」
道後村から田圃がなくなって青蛙を見ることはなくなりましたなあ。いやはや。道後関所番
【那須の宗匠から】
我が家の前の田圃に水がはられ、急に蛙の声が騒々しくなってきました。今日は八十八夜 新茶の美味しい時期にとなりましたね。
5月度の句は素直で、判りやすく気に入りました。気に入ったなんて生意気ですね。ひょいと季寄せを開いて見ましたら「五月雨や上野の山も見飽きたり 子規」 が載ってました。いつ頃ごろの句でしょうか? 動けないわが身の苛立たしさの現われかと感じたのですが。
道後関所番さんの毎月の句を拝見しては季寄せを開く。月初の慣例となりました。松山人としてはチョイト勉強不足とは思いますがご勘弁を。「五月雨や網戸に張り付く雨蛙  関所番もどき」
【道後関所番から】
那須の宗匠のお宅の前は田圃ですか。羨ましいなあ。小学校唱歌を口にしました。
「かえるのうたが きこえてくるよ
 クヮ クヮ クヮ クヮ ケケケケ ケケケケ クヮクヮクヮ
かえるのうたが きこえてくるよ
 クヮ クヮ クヮ クヮ ケケケケ ケケケケ クヮクヮクヮ」
「五月雨や上野の山も見飽きたり 子規」 は明治34年7月6日付の新聞「日本」に載っています。
今月の「五月雨や畳に上る青蛙   子規」が同年6月26日付ですから、この年は東京は長雨だったのでしょうか。さすがに子規さんもうんざりして「動けないわが身の苛立たしさ」から「見飽きたり」と絶叫したのでしょうか。ご指摘の通りだと思います。
【あいあい宗匠から】
我が家の南面は民家までの間に田圃が残っていて6月半ばともなれば、早苗田の蛙の合唱を聞くことが出来ます。田舎に生まれ育った者にとって、蛙の鳴き声は五月蝿いと言うより郷愁ですね・・・。
5月子規記念館懸垂幕俳句「五月雨や畳に上る青蛙 子規」は関所番様、那須の極楽蜻蛉様ご両人の鋭く的を得た名鑑賞、何時ものように味読させて頂きました。五月雨(さみだれ)の「さ」は五月(さつき)のさ、「みだれ」は水垂れの意、五月雨は梅雨期に降る雨、青蛙も夏の季語、この句の一見「季重ね」は中七下五が一つのフレーズとみなせるから異存はなしですね。
「注意」
蛙(俳句ではかわずと読むこと)は、春の季語、雨蛙、青蛙は夏の季語ですね。では、蜻蛉は?(従来は秋の季語として扱われているが)初夏にはもう見られることから夏(盛夏)に(水原秋桜子は)入れています。ただ「赤蜻蛉」は秋の季語として別扱いにしています。
【道後関所番から】
「蛙(かわず)は、春の季語、雨蛙(かえる)、青蛙(かえる)は夏の季語」とのご説明有難うございました。俳句の世界の約束事の難しさを改めて知りました。ところで子規さんは、「蛙」と「青蛙」は春の季語、「雨蛙」は夏の季語と思っていたようです。
新聞「日本」の明治34年6月26日号で「五月雨や畳に上る青蛙 子規」は「春の部」で、同じ日付の「竹椽や青き色なる雨蛙  子規」は「夏の部」になっています。虚子・碧悟桐が編集した俳書『春夏秋冬』で「夏の部」におさめて、爾後「青蛙」の季語は夏になった様です。自信がなかったので子規記念博物館の竹田美喜館長に確認しました。
中国の故事に「白馬非馬論」(白馬も黒馬は馬であるとすると馬は何色か)がありますが、俳句では蛙(かわず)と青蛙(かえる)は別物なのですね。勉強になりました。有難うございました。「蛙(かわず)とは蛙(かえる)のことか郷蛙(里帰る) 道後関所番」 いやはや。
【那須の宗匠から】
同じ蛙であっても季節の違いがある。勉強になりました。日本語の奥深さを感じますね。 私たちは折角の言葉を粗末にしすぎていますね。敬語論争を含めもっともっと日本語を大切にする論議が活発になるべきでしょう。なんて云っても極楽蜻蛉では仕様がありませんね。
広辞苑には「浮ついた暢気者を罵って云う言葉」と記載されています。その語源は???不勉強で調べた事はありません。季語としては通季とでもしておきますか。
今日は朝から爽やかな五月晴れ、前の田圃で「田植え」が始まりました。季寄せに「田を植ゑる しずかな音へ 出でにけり  草田男」なる句が載っています。でも最近の田植えは自動田植機でエンジン音を響かせての機械作業。田植唄を唄いながらの共同作業ではありませんね。
昨日は八十八夜 「霜なくて 曇る 八十八夜かな 子規」 昨日の朝は4℃と遅霜注意報が出てました。ぴったりの季節感でした。季語は「春」 一夜明けての「田植え」は夏、季語に相応しくまさしく初夏。季語の適切さに驚きを感じています。「茶摘笠今朝は田植えの花となり  草田男もどき」
平成19年6月   「十年の汗を道後の温泉に洗へ  子規」
子規記念博物館選句の平成19年6月の子規さんの句は「十年の汗を道後の温泉に洗へ  子規」です 。
この句は5月中の「東の窓」【http://www2.ezbbs.net/02/pikuma/】に道後関所番が「子規さんは道後温泉に入浴していない!?」と記述したら、那須の極楽蜻蛉さんが「へえ〜 驚いたアー」と突っ込みをいれたので、再度道後関所番が「十年の汗を道後の温泉に洗ふ  子規もどき」と茶化しましたっけ。
以下の3個の枠囲い文は「東の窓」掲載分です。
子規さんは道後温泉に入浴していない!?(道後関所番 日付:5月27日)
昨日の同窓会総会で「坂の上の雲」ブームを前にして母校の「明教館」を訪ねてくる観光客の説明ボランティアを50名募集との話がありました。湯築城ボランティアが20名弱だから、話半分としても多過ぎないのかなあ。
ところで新発見して悩んでいることがあります。少年時代自由闊達に生きた子規さんですが、子規さんの俳句にも文章にも道後温泉に入浴したという表現がありません。漱石は虚子を誘っては温泉に来ていますが、子規さんは子供時代はもとより成人してからも道後温泉に入浴していないようです。明治28年漱石と道後温泉に来た時も三階から展望しただけでした。
子規さんが道後温泉に入浴した時に詠んだ俳句か文章をご存知であれば教えていただけませんか。それとも風呂嫌いだったのでしょうか。どちらにしても「子規さんと道後温泉」で新たな「観光情報」にしたいと考えています。いやはや。
へえ〜 驚いたアー(那須の極楽蜻蛉 日付:5月28日)
子規さんが道後の湯に入っていなかったとは夢にも思っていませんでした。椿湯にある「十年の汗を・・・」はてっきり子規さんの体験句だと思っていました。ジパング利用のケチケチ旅で岩木山麓百澤温泉、五能線沿い不老不死温泉、八甲田蔦温泉へ行ってましてしばらく「窓」開けていませんでした
「十年の汗を道後の温泉に洗ふ  子規もどき」(道後関所番 日付:5月28日)
「十年の汗を」の句には前書きがあって「小川氏大学を卒へて帰国するよし聞きて申遺す」と記しています。送別句になります。自分が入浴したとすると「十年の汗を道後の温泉に洗ふ  子規もどき」でしょうか。
那須の極楽蜻蛉さん、愚陀仏庵から漱石と子規が道後温泉に出掛けて、浴槽で泳いで「つぼやの団子」を食べるという「新・坊っちやん物語」で「坊っちやん文学賞」に応募しましょうか。いやはや。
椿湯の女湯には「巡禮の杓に汲みたる椿かな  子規」( 明治28年春)が彫られているそうです。
という次第で真面目に鑑賞しにくいのですが、「東の窓」をご覧頂いていない定期読者も大勢いらっしゃいますので解説させていただきます。
この句は明治29年夏の句です。前書きに「小川氏大学を卒へて帰国するよし聞きて申遺す」と記しています。送別句で「小川君 東京での十年の汗を松山に戻って道後温泉でゆっくりお流しや.。一晩で疲れは取れれるじゃろ。」といったメッセージでしょうか。となると小川某とは何者かを知る必要がありそうです。
小川某とは小川尚義(ひさよし)のことで、子規より2歳年下で松山中学時代から交流があった幼馴染です。明治2年(1869)生まれで昭和22年(1947)に没しています。東京帝大博言学科を卒業し、台湾総督府編修官、台北高等学校校長、台北帝大教授を歴任し「台日大辞典」「日台大辞典」を編纂する。退官後は松山に戻り下掛宝生流謡曲に長じ、松山を代表する文化人として余生を過ごされた由です。
俳句にご趣味の方は、旧制松山高女(県女)出身の代表的な俳人吉野義子さん(俳誌「星」主宰)のご尊父と申し上げた方が分りやすいかもしれません。
子規さんが明治23年に軽いタッチで執筆した珍道中記「しゃくられの記」の相方が小川尚義といとこの三並良(みなみはじめ)です。
明治29年といえば、カリエスと判り第一回目の手術を受けた年ですが、漱石、鴎外との交流も深まり文学人生の充実期に入った時期に当たります。郷土の兄貴分としての子規さんの颯爽とした姿を彷彿させてくれる句でもあります。
そこで子規さんにあやかって一句
「十年の汗を道後の温泉(ゆ)に洗ふ  子規もどき」は先刻「東の窓」に掲載しましたので、もう一句お付き合い下さい。
「古希の汗涙とともに道後温泉(ゆ)に洗ふ  子規もどき」 いやはや。
【那須の宗匠から】
小川尚義氏が吉野義子さんの御尊父とは知りませんでした。亡母が「星」でお世話になっており私も何度か句作に誘われましたが逃げ出しました。故和田和子さんが同人にいらしたのを思い出しました。母から時々「星」を送ってきました折に、和田さんの句を読み、その生活ぶりを想像していたのも懐かしく感じます。
しかし、子規さんは自分は入らなくても「道後の湯で永年の疲れの癒される」ことを承知していたのですね。私も家の掃除に疲れた汗を毎度道後の湯で洗っています。
【あいあい宗匠から】
今月の子規記念館懸垂幕俳句、「十年の汗を道後の温泉に洗え  子規」は、関所番様の名解説(子規をとりまく当時の背景)のお陰で、鑑賞文を十分に理解し、味わうことが出来ました。(以前の掲示板の「片付けの汗を道後の温泉に流せ  子規もどき」は、解説なしでも、容易に理解できましたが・・・。)
子規が メッセージを送った小川氏は、吉野先生(もと星の主宰)が、ご講演の度に、父が・・・父が・・・と言っておられた方で、このメッセージ句の受け取り主なのですね。何でもこの句、道後温泉の男湯に刻まれているとか・・・。
我らが後輩(31年卒)のN子さんの英訳句集『Cosmos』が、アメリカ合州国のカリフォルニア州立図書館に永久保存されたのは数年まえの出来事で記憶に新しいですが、子規の掲出句を、もし英訳したら・・・と考えると大変さがうかがえます。今日の旧端午に因み、N子さんの句集から鯉幟の句を写し出してもいいのですが、本題から外れますので又の機会に・・・。
【道後関所番から】
那須の宗匠、あいあい宗匠&みなさん   コメント有難うございました。
俳句を翻訳するのは至難でしょうね。俳句を微分すると異次元(季節、場所、主体、客体)の「キーワード」の組み合わせの妙でしょうから、超意訳になるのでしょうか。「十年の汗」を複数で表示すると淑女は鼻をつまむのでしょうし、いやはや。
今、鳥越碧さんの『漱石の妻』(講談社刊)を読んでいます。悪妻の誉れ高い(!?)鏡子夫人については知らないことが多いのですが、英国留学中の漱石に代わって鏡子夫人が子規さんを見舞い、葬儀に参列している情景が描かれており驚きました。寺田寅彦と式場で話しているシーンが書かれていますので「本当かもしれません」が信じられません。真偽の程はいかがなんでしょうか。 道後関所番
平成19年7月   「さまざまの夢見て夏の一夜哉  子規」
子規記念博物館選句の平成19年7月の子規さんの句は「さまざまの夢見て夏の一夜哉  子規」です 。
明治31年夏開かれた「俳句会稿」に記載されています。季語は「夏の夜」である。(注「子規全集」第15巻643P) この句を目にしてシェークスピアの「真夏の夜の夢」や夏目漱石の「夢十夜」を連想しました。実作者でないのでよく分りませんが、「夏の夜」は「短夜(みじかよ)」で夏の夜は短く、まだ宵ながら明けるといった感じで、いつまでも涼を納れる人たちが起きているといった風情であろう。しかもその中で特に一夜と強調している。さらに「さまざまな夢見し」(過去形)でなく「さまざまな夢見て」(現在進行形か現在完了形)である。
個人的な体験を加味して独断で鑑賞すると、「しらじらと夜も明けてきた。さまざまなことを夢に見て目覚めた今もよく覚えている。早くそれらの夢語りしたい。いくら話しても話し足りない位だ。」夏の夜の短さと夢の長さが対蹠して描かれているのではないだろうか。
実は講談社版「子規全集」では同趣向の俳句で、一ヶ月ほど前の明治31年の「夏 時候」に「第十二議会解散」と前書きがあって「いろいろの夢見て夏の一夜哉  子規」が載っています。
前書の「第十二議会解散」がこの鑑賞を的確に判断するキーワーとなる。「第十二回帝国会議解散」は明治31年(1898)6月10日である。第3次伊藤博文内閣は、日清戦争(明治28〜29年)の戦後処理と軍備拡張のために地租・酒造税などの増徴案を出すが、衆議院は同案を圧倒的大差で否決した。そこで、政府は衆議院を解散したが、自由党と進歩党の提携機運が高まり、6月22日に憲政党が結成された。同月25日に伊藤内閣は総辞職し30日に第1次大隈内閣(大隈・板垣内閣)が成立する。
子規さんの勤務先である「日本」もジャーナリズムとしての主張を展開している。とすると「さまざまな夢」は私的な夢というより公(おおやけ)に関連する夢ではなかろうか。子規さんたちが「坂の上の雲」を見つめて語り合った夢の挫折だったかもしれない。子規さんの著作の中にヒントがある筈だが不勉強でよくわからないし、俳句鑑賞には特に必要もなかろう。
興味があるのは本年7月28日の参議院選挙を前にしてこの句を挙げた天野祐吉名誉館長の魂胆というかウイットというか「よもだぶり」である。安倍晋三総理大臣は「憲法改正を含む戦後政治の総決算」を大胆に提言している。どのように国民が判断を下すか大変興味がある。夏の一夜と言わず選挙運動期間中を通して、さまざまな夢を見て、夢を語っていきたいものである。110年前の明治31年の第十二回帝国会議解散に当たっての子規さんが俳句に込めた感慨が、今日只今の我々の胸に迫ってくるものがある。
そこで子規さんにあやかって一句
「第21回参議院議員通常選挙   さまざまの悪夢見果てむ夏の夜  子規もどき」   いやはや。 
【月見の宗匠から】
マンスリー レポート ありがとうございます。理屈抜きにして、読後の第1感では「暑い夏の夜 うつらうつら寝られぬままに、あれこれ国の行き先や仕事の先行き俳句のこと等ああであって欲しいこうでありたいなど考え疲れて浅い眠りから目が覚めれば、最早白々と夜が明けて もう朝なんだ」と感じましたが・・・・・
「さまざまに夢変わりけむ夏一夜  」   博物館の垂れ幕の後ろに見える空はまだ水不足を煽りそう。 月見に一杯
【那須の宗匠から】
関所番さん 皆さん  昨日(7月3日)のニュースでは「道後・松山」の雲形ナンバーの話題が大きく取り上げられています。市長も登場「坂の上の雲」での街PRは成功しましたね。日本語って奥深い言葉だと改めて感じ入りました。「さまざま」と「いろいろ」、このように並べて読むと使い分けが必要だと感じますね。
漢字で書くと「様々」と「色々」で良いのでしょうか?でも漢字では子規さんの思いは表現出来なかったのでしょうね。時々迷うのですが俳句での使い分けはあるのでしょうか。
「さまざまのやり残し夢果たす夏」にしたいものです。入ってない温泉の夢を今夜は見そうです。 どうも俗人は駄目ですねえ〜。 那須の極楽蜻蛉 
【あいあい宗匠から】
道後関所番さま、皆さま
 七月懸垂幕俳句 「さまざまの夢見て夏の一夜哉  子規」   この句の“さまざまな夢”は読み手が気の向くままに好きに解釈、鑑賞してもいいと思いましたが、当時の社会的背景や前書き付き俳句等考え合わせると自ずと答えが出てきますね。
 いろいろの を、さまざまの に手直しした子規の気持ちには賛同しますが、さてその違いを説明・・・となると、???です。ただ、ご存知のように俳句って字面(じづら)が大事だから、子規はこの句の場合漢字よりひらがなを選んだのだと思います。
 関所番様、いろいろと資料集め、またご教示有難うございました。子規記念博物館会長の“時を得た「よもだぶり魂胆」”が面白く受け、又考えさせられる今月の俳句でした。
 「若き日の潰えし夢や明け易し  あいあい 」  こんなフィクションの句で今月は逃げきらせて頂きます。 赤崎 あいあい 
【道後道後関所番から】
宗匠さま&みなさん
「さまざまの夢見て夏の一夜哉  子規」
「いろいろの夢見て夏の一夜哉  子規」
「さまざまの悪夢見果てむ夏の夜  子規もどき」
「さまざまに夢変わりけむ夏一夜  月見に一杯」
「さまざまのやり残し夢果たす夏 那須の極楽蜻蛉」
「若き日の潰えし夢や明け易し  あいあい 」 
七月の子規さん俳句は「さまざま」と「いろいろ」について考えさせてくれました。どちらも「ナ行活用」ではうまく俳句は展開するようです。
さまざまな夢見て さまざまに夢見て さまざまの夢見て
いろいろな夢見て いろいろに夢見る いろいろの夢見て
ところが「いろいろと夢見て」と云えても「さまざまと夢見て」とはいえません。まさに「何でだろう、何でだろう」です。いやはや。
そこで国語の先生方にお願いしたいのですが、「さまざま」と「いろいろ」の相違を分りやすく説明していただけませんか。子規さんが「いろいろの夢見て」を「ざまざまの夢見て」に変更した理由がありそうな気がしますので・・・・・
「さまざまの夢いろいろとながし吹く   道後関所番」
平成19年8月   「夕立や野道を走る人遠し  子規」
子規記念博物館選句の平成19年8月の子規さんの句は 「夕立や野道を走る人遠し 子規」です 。
明治29年の作品ですが、何故か明治31年8月9日付「日本」に掲載されています。季語は「夕立」で夏の句になります。 (注「子規全集」第2巻480P) 
この句は特に注釈は必要ありますまい。私自身の心象風景としては次のような展開です。  
眼前には何の前触れもなく、地上のすべてのものを叩きつけるように激しい夕立が襲ってきた。遠くの野道には雨宿りを求めて走る人が見える。行き先は自分でも分らない。雨に打たれながら捜し求めるだけである。稲光、雷鳴、黒雲の不穏な気配の中で逃げ惑うかのような人影。大自然は決して容赦しない。自然の中で人間はなんと小さく、力ない存在であるのか。
眺めている吾(子規さん)は逃げ惑うことなく、夕立にずぶ濡れになりながら毅然として突っ立っている。俳句の革新を了え、明治29年には新体詩を発表し、明治31年春には「歌よみに与ふる書」で『古今集』を否定した。まさに疾風怒涛(シュトルム ウント ドランク)の真っ只中に現在する子規さんが居る。
広重の浮世絵に描かれた名作「名所江戸百景 大川橋・あたけの夕立」の光景を思い出します。子規さんは明治29年に夕立の句を28句も作っていますし、生涯に200句近く詠んでいるようです。夕立が好きだったのでしょうか。
ところで、子規博に写真を撮りに出掛けて、公園北口の公衆トイレ入口の案内板に気付きました。汚れていますが「新発見」です。なんと伊予銀行道後支店(昔の紀伊国理髪店)辺りから石手寺に通じる県道が外堀跡で、ふなやの庭園(鴉谷)に直結します。西は現在の伊予鉄の軌道辺りまでが外堀だったのでしょうか。湯築城史跡発掘調査の結果ですから説得力があります。子規博のお帰りに是非公衆トイレに立ち寄って、案内版を見ながら一席ぶっていただけませんか。鎌倉・室町時代の「城下町道後」の町おこしに役立ちます。「道後関所番」も「湯築城外堀番」を兼務する必要がありそうです。いやはや。
そこで子規さんにあやかって一句
「夕立や野武士の走る濠遠し   子規もどき」 
【あいあい宗匠から】
今月の子規懸垂幕俳句、「夕立や野道を走る人遠し 子規」
 遠景を切りとった子規と被写体の距離は「遠し」で位置づけがはっきりすることは、申すまでもありませんが、子規は果たして夕立に濡れているのでしょうか?何処にもそのことは書いてありませんが、あいあいの平凡な解釈では濡れていないのではと思います。自分が濡れ鼠になって、野道を走る人・・などと詠む心のゆとりがあるでしょうかねぇ?
「舞台は夕立、子規は天井桟敷の見物人・・・」と考えるあいあいは少しお調子が過ぎると、子規さんにお叱りを受ますかしら?・・・
 ずっと以前、ある夏の日の午後、少し離れた山裾の蓮池に画のデッサンに出かけたら、帰りに激しい夕立に会いました。やっと辿り着いた民家の納屋の軒下に雨宿りして、彼とぺちゃくちゃお喋りしていたら、お向かいの家のご婦人が傘を二本持ってきて、「いつでも黙って玄関脇に置いておけばいいですから・・・」
   夕立きて親切尽くす伊予言葉   あいあい
   涼しかりけり親切な伊予言葉   当時の主宰添削
 報告俳句と、内容が色々に解釈出来、余韻が広がる俳句の違いは、結社を退いた(今年1月)今頃になって分かるような気が致します。
【道後関所番から】
あいあい宗匠の「舞台は夕立、子規は天井桟敷の見物人」のご指摘に感服致しました。有難うございました。少々お調子が過ぎた我田引水的鑑賞になったようです。いやはや。
明治29年2月に子規さんはカリエスの手術をして以後、根岸子規庵で病臥中でした。外出した実景であれば「人力車から」が正しいのだろうと推察します。実は「寒山落木五巻(明治29年)」に「五月雨ノ頃板橋赤羽ニ遊ビ一宿シテ帰ル」と記述しています。この年1回だけの遠出でした。歩行は困難ですから人力車に乗って移動したのでしょう。連れが誰で、一泊先は何処かは研究すれば分るのでしょうが、詳細は不明です。
「人力車の高所から板橋赤羽の野道を望んで一句」では興が湧かないので、子規さんらしく「夕立に濡れながら」とイメージした次第です。
   「夕立や正岡升(のぼる)此処に在り  子規もどき」 道後関所番
平成19年9月   「神鳴ノ鳴レトモ秋ノ暑サカナ  子規」
子規記念博物館選句の平成19年9月の子規さんの句は 「神鳴ノ鳴レトモ秋ノ暑サカナ 子規」です 。
子規さんの遺稿でもある『仰臥漫録』の明治34年9月5日付に執筆されています。翌年の9月19日死去しましたから一年前の句に当たります。常人でも猛暑、残暑の厳しさは身体に堪えます。子規さんのように病臥にある者にとっては耐え難い暑さ、苦しみだったに違いありません。それにしても子規さんの食気には驚きますなあ。正直あやかりたいものです。遠くに雷の音を聞き一雨来ないかと願いながら、期待が外れて一層暑さが耐え難くなった無念さが「神鳴ノ鳴レトモ」に込められているようです。雷を神鳴と表現した子規さんの心境がわかっていただけるかと思い、『仰臥漫録』の原文を記載します。
九月五日 雨 夕方 遠雷
朝 粥三椀 佃煮 瓜の漬物
昼 メジノサシミ 粥四椀 焼茄子
間食 梨一ツ 紅茶一杯 菓子パン数個
夕 鶏肉 卵二ツ 粥三椀 煮茄子
  若和布二杯酢カケ
 午前 陸妻君巴サントオシマサントヲツレテ来ル 陸氏ノ持帰リタル朝鮮少女ノ服ヲ巴サンニ着セントナリ 服ハ立派ナリ 日本モ友禅ナドヤメテ此ヤウナモノニシタシ
     芙蓉ヨリモ朝顔ヨリモウツクシク
 夕刻三吉氏来ル 明日京へ帰ルト也
     夕皃ト絲瓜残暑ト新涼ト  
     青鴻g愚庵芭蕉ト蘇鉄哉
       青麹。愚庵ニ逗留
       題払子 肋骨ノクレシ払子毛ノ長サ三尺モアリ
     馬の尾に仏性ありや秋の風
     神鳴ノ鳴レトモ秋ノ暑サカナ  
 「神鳴」(かみなり)は雷で「夏の季語」、「秋」は勿論「秋の季語」、「暑さ」は「夏の季語」ですが、この句の季語は秋で、秋の俳句とされます。子規さんともなれば季語など融通無碍なんですなあ。「神鳴」を雷の当て字にした用例は初めてですが、雷は太鼓を持った雷神の仕業と伝えられ、蚊帳に入ってへそを隠せと子供の頃に教えられましたなあ。いやはや。
 ところで「神鳴」を逆にした「鳴神」(なるかみ)は雷の別名です。ご存知の歌舞伎十八番の一つである「鳴神」は、鳴神上人が戒壇を設けていなかったのに立腹し降雨の道を絶ったが、雲の絶間姫の女色に迷って呪法は破れてしまうという筋書きです。男は高齢になっても「久米の仙人」同様女性の色香には弱いですなあ。昨今マスコミで話題の参議院議員の「さくら親爺」も・・・・・クワバラクワバラ。
そこで子規さんにあやかって一句
 「素裸ニナレトモ秋ノ暑サカナ  子規もどき」 いやはや。 
追って
 竹田美喜・子規記念博物館新館長の発案で、子規さんの命日に当たる来る9月19日に子規博で「子規生誕140年 糸瓜忌(へちまき)」(10:00〜11:00)を開催します。内容は「献花」「朗読 漱石の子規回想 (まつやまアーツマネジメント山本清文氏)「合唱 松山女子合唱団による子規新体詩『月と星』『花売る歌』」です。入場は全館無料です。「東の窓」でも話題になりましたが、細川人美さんも勿論出演されます。俳句愛好家並びに自由時間愛好者の皆さん、是非子規記念博物館に来館して子規さんを偲びませんか。
 当日の午後13:00からは松山市駅近くの子規庵・正宗寺で「子規忌」の行事(法要並びに講演会)を執り行います。こちらにもお越しいただいて、この日は一日子規さんにどっぷりつかりませんか。
平成19年10月   「一日の秋にぎやかに祭りかな  子規」
 子規記念博物館選句の平成19年10月の子規さんの句は 「一日の秋にぎやかに祭りかな  子規」です 。
 明治27年8月13日午後4時過ぎ、内藤鳴雪翁が子規庵を訪ねて王子の祭りを見に行こうと誘う。隣家の中村不折画伯と三人打ち揃って出発し、上野の「忍川」で夕食をとる。汽車に乗り王子に至り、王子権現に参詣し、瀧野川に向う。瀧野川渓頭の茶店で休憩を取る。夜更けてから飛鳥山下から帰路についた。この句を独立した俳句として鑑賞すると、秋祭りのイメージが湧きます。10月5・6日には伊佐爾波神社の秋祭りで、大唐人、小唐人から道後、湯之町神輿まで八基の神輿の鉢合わせがあるだけにこの句にぴったりします。
当今の祭りで云えば8月では「夏祭り」でしょうが、戦前まではお盆は七月盆が一般的でしたから「盆踊り」の季語は盛夏になっています。秋を待ち焦がれての祭りなればこそ「一日の秋」と詠みきったのでしょうか。子規さんは『王子紀行』に一文を取り纏めていますので、王子権現の件を抜粋しますので、子規さんの眼で鑑賞することにしましょう。
 王子権現に詣づ。老杉雲に聳えて木の間に露店を連ね児童四五宮を廻りて戯るさま祭とは見ゆれど田楽などあるべき様にもあらねば茶店の婆々殿に尋ぬれば今日は田楽なしといふ。社殿に花笠などその面影ばかりを残したり。
初秋の石壇高し杉木立
一日の秋にぎやかに祭りかな
祭見に狐も尾花かざし来よ
杉高く秋の夕日の茶店かな
 田楽見ぬも亦風流なりと御社の正門を出で瀧の川に向ふ。途上日暮れなんとして田舎めきたるあはれなり。(略)】
 鳴雪翁のおごりで夕食を済ませて居るのだが、茶店の田楽にこだわっているところがいかにも食いしん坊の子規さんらしい。
 学生時代と通算して10年ほど東京で過ごしました。年に何回かは都電荒川線の電車に乗って松山のチンチン電車を思い出していました。王子で電車を降りて、王子(権現)神社→王子稲荷神社→名主の瀧→金剛寺→正覚院→音無親水公園→飛鳥山公園の2時間の散策は快適でしたし、10年前までは江戸の風景が色濃く残っていましたなあ。時間があると、鬼子母神から早稲田の森に足を伸ばしました。懐かしいなあ。秋風を背に王子界隈を散策して、王子権現や王子稲荷の写真をメールして、松山の友に「江戸の秋」をお裾分けしていただけませんか。
 そこで子規さんにあやかって一句
「大江戸の秋にぎやかに祭りかな  子規もどき」 いやはや。 道後関所番
【あいあい宗匠から】
 十月の声を聞くと風がすっかり秋めいてまいりました。いかがお過ごしでいらっしゃいますか?お伺い申し上げます。今月の子規記念館の懸垂幕俳句は「秋祭り」がテーマでした。山が当たりました!(過去は殆ど外れでしたが・・・)
一日の秋にぎやかに祭かな    子規    
 「にぎやかに」と、副詞の措辞が注目されます。仮に、もしこれを「にぎやかな」と、形容詞にしたら、句の内容はどうかわるでしょう?形容詞の場合は平面的な絵画の風景を連想しますが、副詞の場合は後に省略されている動詞が、読み手に余韻となって迫ってくるように思います。
 昔は祭り(季、夏)といえば、六月に行われる京都の加茂祭を指し、他の社の祭りは夏祭りと言った。然し現在では一般の祭りを言うようになり、特に夏祭りという言葉はあまり使わなくなった。(「秋桜子・歳時記」より) 子規も意識的に季節の秋を入れたのでしょうか。私の気持ちの中では祭りといえば、約束事は抜きに、秋が一番にイメージされますが・・・
 富山時代に、祭り太鼓の音が聞こえ出すと「血が騒ぐ」と言って、遠路新居浜まで帰郷した「祭り女」がいましたっけ・・・。富山の新湊は「からくり山車」でした。お二人の昔男児が、写真と担いだ記憶をご披露くださいましたが、祭りはやはりお神輿ですね。私のふるさと牛渕の浮島神社(県社)の宮出しは今も昔のように「おねり」があり、他所から見物客が見えているのかしら?懐かしいです。
提灯の著き家紋や秋祭     あいあい
菊の香や屋敷幟の杭を打つ  あいあい
【道後関所番から】
 「歳時記」での「祭り」のご説明有難うございました。「祭り」「夏祭り」「秋祭り」「冬祭り」「春祭り」・・・と「祭りの世界」が広がりました。そういえば、町では虫除け(厄払い)で夏祭り、村では収穫を祝い秋祭りということになるのでしょうか。
 「にぎやかに」と 「にぎやかな」の感じはよく分りました。「きれいに」掃除して「きれいな」部屋で本でも読もうかな。そうだ、秋晴れの一日、早速掃除に取り掛かります。いやはや。道後関所番
【道後関所番から】A
あいあい宗匠&みなさん
 「賑やかな」と「賑やかに」を考えていたら、何で「賑やか」だったんだろうと疑問を持ちました。数回訪れた時は、いつも閑散として今でも狐が出そうだったのですが・・・・・インターネットでやっと「賑やか」の正体をつかみました。内藤鳴雪翁が子規さんを誘ったのは、有名な王子神社の田楽踊りを見ることにあったようです。数時間も延々と続く踊りのようです。そういえば「郡上踊り」や「越中おはらの風の盆」も徹夜踊りです。「一日の秋にぎやかに祭りかな   子規」の句の「一日のイメージ」がやっと浮かんできました。
ところが、なんと
王子神社の「田楽踊り」のことを知らなかったので、大変な間違いをしでかしました。「田楽」を茶店の「田楽」と間違えて「食いしん坊の子規さん」に結び付けてしまいました。なんと舞踊の「田楽踊り」のことでした。いやはや、穴があったら入りたい心境です。とすると、当日の王子の祭りは賑やかでなかったのではないか。子規さんは「見てきたような嘘をついて」この句を詠んだのでしょうか。・・・・・謎は深まるばかりです。
それはそれとして、王子神社の田楽踊りの説明です。クリックしてお楽しみ下さい。
【http://www2.ocn.ne.jp/~sasara/1-3chukou.html】  道後関所番
【あいあい宗匠から】A
 毎月初めの子規の懸垂幕俳句では、話題が広がり、お勉強させていただき感謝いたします。関連資料集めは関所番様ならではと、有難く存じております。鳴雪、不折、子規の三人が連れ立って王子権現に詣でた際の文章で、最後のくだり、「社殿に花笠などその面影ばかりを残したり」が、ご説明の納得箇所です。
 ところで、ネットを検索していましたら、「田楽のルーツは芸能から!」というサイトがありました。・・・そもそも田楽とは「五穀豊穣を祈る為」「お百姓さんの労をねぎらう為」の芸能で朝鮮半島から渡来した・・・・・獅子舞や踊りなどの「田楽踊り」は「田楽法師」という職業的芸能人によって、田植えの間続けられた・・・・・その雑技の中に「高足」という一本足の竹馬のようなものに乗って飛び跳ねる芸があった・・・・・・・・・・・・・。
 豆腐に味噌を塗り、竹串を刺して焙るその料理が田楽法師の高足の姿に似ていることから田楽の名がついた。・・・田楽のルーツは芸能から!だそうです。 その後、長い歳月をかけて、その土地特有の「田楽踊り」が出来上がっていったのでしょうか。
王子田楽に使われている「ささら」は我が家にも実物があります。五箇山の民芸品店で買ったものですが、孫娘が幼いころ、鳴らしながら♪「こきりこのおたけは・・・」と踊っていました。あの楽器は要領よく力を使わないと、音がうまく出せません。あいあいより孫娘のほうが、音がよく出て響いていました。
最後に一言、「猿楽」というのは、あいあいの芸ではありませんよ!
(注)田楽のルーツは芸能から!<同名のHPをコピーしました。お許し下さい>
平安時代に書かれた『栄華物語』という物語の中に出てくる『田植風景』としてかかれている様子が本来の『田楽』といわれています。
「そもそも田楽とは『五穀豊穣を祈る為』、『お百姓さんの労をねぎらう為』の芸能で、朝鮮半島から渡来したものといわれています。」と田楽座わかやの店長さん。獅子舞や演奏、踊りなどの『田楽踊り』は、『田楽法師』という職業的芸能人によって田植えの間延々と続けられ、田植えが一段落したら軽業を中心とした雑芸(雑技や百技)が演じられていました。この雑技の中に『高足』という一本足の竹馬のようなものに乗って飛び跳ねる芸があるのですが、(実際には田んぼのあぜ道では無理なので、多分形は違ったと言われています)この雑技が『田楽踊り』のメインだったと言われています。
そして芸能である田楽芸能は永い間、京の都で流行した後、室町時代にすたれていき自然と消滅してしまいます。が、その頃、豆腐にみそを塗り、竹串をさして焙るという料理が流行し、その料理が田楽法師の『高足』の姿に似ているという事から、『田楽』という名前がついたのだそうです。
平成19年11月   「菊活けて黄菊一枝残りけり  子規
子規記念博物館選句の平成19年11月の子規さんの句は 「菊活けて黄菊一枝残りけり  子規」です 。
『俳句稿拾遺』(「子規全集」B571頁)に記載されており、明治32年の作品です。季語は「菊」で秋の句になります。新聞『日本』の同年11月3日号に掲載されています。 11月3日といえば戦前の「明治節」ですが、子規さんの時代は明治天皇が御存命ですから、天皇誕生日即ち「天長節」に当たります。日本が隆盛の時代でもあり、新聞「日本」では子規が選者となって「菊五十句・活けられたる」として菊の句五十句を揃えて祝意を表しています。
この句を素直に鑑賞すれば、黄菊・白菊、大輪・小輪といろいろな菊を活けて、やって出来上がってみれば黄菊が一枝残っていたといった風情でしょうか。多くの俳人の鑑賞態度と違って、僕自身は子規さんが「一枝残しけり」でなく「一枝残りけり」と詠んだことに拘わって鑑賞したいのです。
この句の作者(子規)が菊を活けたのではないことを強調したいのです。恐らく母の八重さんか妹の律さんが菊を活けている姿を子規さんは病床で眺めていて、「おゝ、やっと見事な菊が活け上がったなあ。一枝残った黄菊は、窓際の文机用かな。」と感じたのではないのだろうか。僕の子供の頃の記憶では、母が茶の間や台所でよく季節の花を活け、玄関や居間に飾っていました。いつも数本は残して洗面所や小窓などの「一輪挿し」にもお裾分けの草花が飾られ、家中が明るくなったものでした。根岸の子規庵も同様ではなかったのでしょうか。
子規さんの明治天皇への想いは強く、明治33年の天長節には『日本』に長歌「明治三年十一月三日の佳辰に遇ひて詠める歌」、明治31年の天長節には『日本』に「賀の歌」を掲載している。日本の国花は慣習上は桜であるが天皇家の紋章は菊であり、最高の勲章は「大勲位菊花章」、真の友情は「菊花の契り」、春は蘭、夏は竹、秋は菊、冬は梅と古来「四君子」と称えられた花でもある。「菊酒」は長命の薬で、とりわけ重陽の節句(旧暦九月九日)に飲めば長寿は疑いなしである。良いことづくめであるが、小学校のクラス編成は松・竹・梅・桜・菊の順で、ランクは上位とは云えなかった、いやはや。
そこで子規さんにあやかって一句
「菊活けて黄菊一枝残しけり 子規もどき」  
【あいあい宗匠から】
 さて、十一月の子規記念博物館懸垂幕俳句は「菊活けて黄菊一枝残りけり 子規」 でした。関所番様は菊を活けたのは母親の八重か妹の律と鑑賞されましたが、私は子規自身だと思います。なぜなら俳句は原則として一人称だから・・・と単純に考えましたが、どうでしょう?
 上五の菊は、黄を含め二種類以上の色の菊が用意されていて、活け終わったら黄菊一枝が残った。完成された見事な壷の菊もさることながら、残った黄菊一枝子規はひとしおの思い入れを詠みたかったのでは?と思います。残し(他動詞)、残り(自動詞)の違いは大きく、前者は作者の心中に意図的なものが伺え、後者は自然の成り行きでそうなった、で、子規の場合、「残りけり」は動かない。
ではその思い入れとは?となると、良く分かりません。色のインパクトが強く、ゴロもいいから黄菊にしたのかな??・・・
【道後関所番から】
 子規さんの「菊活けて黄菊一枝残りけり」(明治32年秋)につき、今月も実作者としての鑑賞の在り方を教えていただき有難うございました。特に「なぜなら俳句は原則として一人称だから」の貴重なご指摘は、大いに参考になりました。
 ところで子規さんが水彩画を描き出すのは明治32年の夏からです。中村不折に貰った絵具ではじめて「秋愁裳」を描きます。不折に見せると褒められる。調子に乗って「自分の左の手に柿を握って居る処を写生」して虚子に見せると、うんともすんとも答えない。子規が「手に柿を握っている」と説明すると、やっと合点して「さっきから馬の肛門のやうだと思っていた」という滑稽な『絵』というエッセイが残っています。
子規さんはこの時期寝ながら熱心に植物の写生をして「画集」を残しています。残った(残した)黄菊は写生用だったかもしれません。手元に「画集」がないので確認していませんが、黄菊が描かれているかもしれません。尚、子規さんが横臥して菊を活けたのかどうかは「随筆集」を読み返してみることにします。道後関所番
【あいあい宗匠から】A
 「俳句は原則として一人称だから」は、言い古された当たり前のことですがでも、これってどういう意味でしょう。句の後ろに作者の姿が見え、その物事柄に対する作者の思い入れが読み手に伝われば、広義では件の原を踏まえていると考えてもいいと思いますが。(アイアイ説で理論は苦手です)
 今月(11月)の子規の句で花を活けたのは誰か?(母の八重か妹の律)(子規自身)この場合、どちらにも解釈、鑑賞できると思います。普通にえれば花を活けるのは女で、まして病で横臥の子規を考えるのは間違かもしれませんが、子規が活ければダイレクトで「一句の力」が強まるよう気がしたまでなんですけど、写生の為なら、「残し」になるのでしょうか?
平成19年12月   「餅ついて春待顔の小猫かな  子規」
子規記念博物館選句の平成19年12月の子規さんの句は 「餅ついて春待顔の小猫かな  子規」です。
『俳句稿 明治三十二年』(「子規全集」B306頁)と『俳句会稿 十二月十日会』(「子規全集」N700頁)に記載されており、明治32年12月10日の根岸・子規庵での句会の作品です。季語は「餅搗」で冬の句になります。句会での原句は「餅搗て春待顔の小猫哉」です。更に「顔」には「皃」の字が充てられていますが、詮索すればきりがありませんから今回は割愛します。
明治32年12月10日の句会には子規、虚子、鳴雪、碧梧桐ら17名の俳人が集まり、席題は「借著(冬または新年)」「餅搗」「干大根」「冬の蠅」「氷柱」「クリスマス」などでした。子規は「餅搗」で次の三句を披露していますが、一句も選に入りませんでした。
「餅搗て根岸に叔母を尋ねけり   子規」
「鉢巻して弟子餅をつく鍛冶屋哉  子規」
「餅搗て春待顔の小猫哉       子規」
土間で餅を搗きあげて、鏡餅から雑煮餅や神棚・仏壇用の餅まで家族全員和気藹々の中で揉みあげる。いよいよお正月である。春待顔の中に家族の一員である小猫も、背中を丸くして餅を狙っている。病臥の子規さんにとっては夢の様な家族の団欒の光景だったのでしょうか。この句が漱石であったら小説『我輩は猫である』の猫になるのでしょうが・・・尚漱石は『坊っちやん』の中で子供と小供を区別しています。子供は身内の子で、小供は近所の子です。猫にも小猫と子猫があるのでしょうか。いやはや。
【お願い】僕は猫派ではありませんので「春待顔の小猫」の顔が浮かんできません。猫派の皆さん、この機会に猫の豊かな顔の表情について薀蓄をご披露いただきたいのですが・・・・・
ところで子規さんのクリスマスの俳句は珍しいですからお愛嬌でご披露しておきましょう。明治30年代でも東京ではクリスマスプレゼントの交換があったとは驚きです。子規さんは貰い専門だったのでしょうか。
「贈り物の数を盡してクリスマス  子規」
「うき人に物もらひたりクリスマス 子規」
そこで子規さんにあやかって一句
「餅ついて咽につかえし仏かな  子規もどき」
「新老人」に程近い御同輩、お雑煮にはご用心、ご用心。よき新年をお迎え下さい。 道後関所番
【あいあい宗匠から】
【子猫には、春生まれと秋生まれがあって、(普通子猫は春の季語扱いですが)春待顔の措辞から秋生まれの子猫と分かりますネ。「昔の人のことわざに(麦藁を踏んだ猫は育つけれども、稲わらを踏んだ猫は育たない)があります。これは夫々暖かくなって行く時期、寒さに向かう時期を誰にでも理解できるよう平易な事例で教えてくれているのでしょうが、それにしても何と哀れな諺でしょう。この句、皆様と同様にまず師走の家族総出の餅つき風景が思い浮かびます。
次に大景から小景へ、作者子規は、春待顔のいとけない小猫にフォーカスを合わせました!(病臥のわが身ゆえ、憐憫の情ひとしおであるは余分)と鑑賞するのが常道で、餅つきと待春の字面が競いあってる(景が二つ)と取るのはピントが狂った解釈でしょうか?  赤崎 あいあい 
【道後関所番から】
「麦藁を踏んだ猫は育つけれども、稲わらを踏んだ猫は育たない」・・・この「ことばのちから」は残酷な事実なんですね。明治期の乳児死亡率は秋冬生まれが高かった歴史的事実を思い出しました。貴重なお話、有難うございました。
「餅ついて春待顔の小猫かな  子規」の鑑賞の蛇足で小猫・子猫のニュアンスについて触れましたが、子規庵で小猫を飼っていたかどうかも興味がありました。随筆『飯待つ間』(明治32年10月10日執筆)によると、子規さんは猫嫌いではなく、寝床に迷い込んできた猫を写生するくらい愛情を持っていたようですが、妹の律さんは猫嫌いだったようです。とすると世話をするのは律さんしか居ませんから、この小猫は飼い猫(子猫)ではなかったのでしょう。
それにしてもこの句を詠んだのが明治32年12月10日ですから、10月10日から2ヶ月経って野良猫君が「子規庵」出入り自由になったと想像すると、なんだか心温まる猫物語となるのですが・・・いやはや。
(参考)子規の随筆『飯待つ間』(明治32年10月10日執筆)抜粋
「写した正に了る時妹再び来りて猫をつまみ出しぬ。猶追へども去らず、再び何やらにて大地に突き落しぬ。猫は庭の松の木に上りて枝の上に蹲りたるまゝ平らなる顔にてこなたを見おこせたり。斯くする間此猫一たびも鳴かざりき。」  道後関所番
【那須の宗匠から】
子猫と小猫 日本語は含蓄がありますね。「餅ついて・・・・・」がここまで広がるとは お二人の学識に敬意を表します
年の瀬 今日の毎日新聞の「季節のたより」に「煤はきのここだけ許せ四畳半  子規」が紹介されています。
坪内稔典氏の解説によると「自分の部屋をかき回されたくない子規の気持ちは、近代的で新しい。」とあります。餅つき・すす払い・年賀状・・・と自堕落に過ごしている私にも年の瀬は忙しく感じます。
【勝岡備前守から】
猫のページを見付けました。  http://ww3.tiki.ne.jp/~nsasax/pet/feeling.html
【道後関所番から】
猫のページ拝見しました。春待顔の小猫は日向ぼっこ顔なのか、食って満足の顔なんでしょうか。那須のお住まいは暖炉の由。「煤はらい」はされませんか。