平成22年1月  「銭湯を出づる美人や松の内  子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成22年1月の子規さんの句は「銭湯を出づる美人や松の内  子規」です。季語は(松の内/新年)。
『俳句稿』明治三十三年新春(「子規全集」B316頁)、『俳句会稿』明治三十三年一月十四日(「子規全集」N721頁)に掲載されています。この句は新聞「日本」の明治34年1月1日号「松の内」、「俳星」明治33年3月10日号に掲載されました。なお、『俳句稿』では「銭湯を出つる美人や松の内  子規」となっています。
この句は明治三十三年一月十四日の新年句会で詠まれました。子規、虚子、碧梧桐、青々ほか18名の参会者があり、「毛布」「礼者」「初荷」「冬の川」「銭湯」[福寿草]「狐狸宴会図」「寒垢離」「初暦」の各題が記録に残っています。碧梧桐の「初荷すや花王石鹸キメチンキ」には思わず噴きだしました。
選句を終えて新年宴会となり、酒、豚汁、刺身、焼肴、口取、飯、香の物が並び、余興に福引、落語、三題噺、茶番などなどで、病床の子規も、痛みを暫し忘れて、笑い転けたことでしょう。
子規さんの句は「写生」ですから、実景としてこの句の鑑賞してみます。(よもやとは思いますが)
湯上りの女性は浮世絵を見ても、ぞくぞくするほどの艶かしい美しさで描かれています。髪洗いの女の姿に心ときめく思いを男性なら誰しも抱いたことでしょう。感受性の強い子規さんなら人並み以上の思いであったとしても当然でしょう。
松の内は関東では七日までですが、家事から開放されてゆったりと銭湯で長湯を楽しみ、肌の手入れをし、洗い髪まで済ませたのかもしれません。銭湯から出てきた女性は美人そのものでした。のどかで華やかな江戸の松の内の風情ですなあ。
男の目からみると、この美人は見知らぬ女性ではなく顔馴染みの女性で、改めて女らしさを感じたとしたいのですが・・・もっとも勝気な妹の律さんではありますまい。いやはや。
それにしても子規さんは「食い気」だけでなく、死を前にした晩年でも「色気」も失っていないのには驚きです。
そこで子規さんにあやかって一句
「銭湯を出づれば憂き世松の内  子規もどき」
添え句は「それにつけても人恋しさよ」でしょうか。いやはや。  道後関所番
平成22年2月  「一村の梅咲きこぞる二月哉  子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成22年2月の子規さんの句は「一村の梅咲きこぞる二月哉  子規」です。季語は(梅 または 二月/春)。
『寒山落木』明治二十七年春(「子規全集」A22頁)、『俳句を拾ふの記』(「子規全集」L587頁)に掲載されています。この句は新聞「小日本」の明治27年3月24日号に掲載されました。なお、新聞「小日本」は明治27年2月11日に創刊されたばかりで、編集長は弱冠28歳の子規でした。
細かいことになりますが、『俳句を拾ふの記』では「一村の梅咲きこぞる二月かな」になっていますので引用に当ってはご留意ください。ところで季語は「梅」なのか「二月」なのか迷っています。初心者には「季重ね」となるのでしょうが、実作者はいかにお考えでしょうか。お教えください。
明治27年3月中旬(日は確定できません)に新聞「小日本」の取材を兼ねて「同宿の高浜虚子をそそのかして」探梅に出掛けました。コースは、千住街道・・・梅島村・・・草加・・・西新井・・・大師堂(梅園・奥の院・茶店)・・・王子(松宇亭)・・・上野です。もっとも、王子から上野までは最終の汽車に乗車しています。紀行文には子規の句が18句、虚子の句が11句載っています。
「梅の中に紅梅咲くや上根岸」
「燕やくねりて長き千住道」
「鶯の梅島村に笠買はん」
「梅を見て野を見て行きぬ草加迄」
「一村の梅咲きこぞる二月かな」
「梅咲て仁王の面の赤きかな」
「春の夜の稲荷に隣るともしかな」
「一村の梅咲きこぞる二月哉」に詠まれた梅の村は草加から西新井に向かう途中にあり、村一面が梅に埋もれた光景を「写生」したものでしょう。食いしん坊の子規さんのことですから、探梅しながら、草加煎餅をぽりぽり食べ、新井薬師で茶を啜りながら草餅を喰らい、仕上げが王子の松宇亭での懐石でしょうか。残念ながら記録は残っていませんが・・・
そこで子規さんにあやかって季重ねの一句
「一村の花咲きこぞる弥生哉  子規もどき」 いやはや。
平成22年3月 「何いそぐ春よりさきに行く君は  子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成22年3月の子規さんの句は「何いそぐ春よりさきに行く君は  子規」です。季語は(行く春/春)。『寒山落木』明治二十九年春(「子規全集」A406頁)に掲載されています。前書は「今川某を悼む」。この句が新聞「日本」の明治29年5月9日号に掲載された時には、前書は「今川氏嗣氏を悼む」に変更されている。
前書から今川氏嗣氏への哀悼の句であることが分かる。同氏は、東京大学農科大学別科に学んだ子規の俳句仲間で、俳号は「虚空」である。闘病中も俳句を友として過ごした。(手元に人名事典がないので後日追記させていただきます。)
この句は、前年9月に子規が金州から帰国の途中喀血し療養をかねて松山に帰省、漱石と愚陀仏庵で過ごしてから半年、漱石も熊本に旅立ったころの作品である。松山からの帰京以来、子規は病臥を余儀なくされた。子規庵でゆっくりした春の移ろいに浸っていた子規に友の訃報が届く。まだまだ春を堪能していない「君」は何を急いであの世に旅立つたのか、脊椎カリエスに苦しみ死を前にしていた「われ」を追い越して「君」は亡くなってしまった。嗚呼。
季語は「春」と捉えると詩情(俳趣)は消え失せましょう。「行く春」は季節感としては「まさに終わろうとする春への惜別」であります。言葉に厳密な子規さんだけに、春への惜別と友への惜別が折り重なった俳句となりました。「君」を知っている俳句の仲間たちは、この句を読んで込み上げて来る哀しみの涙を押さえることができなかったろう。
「行く春」といえば芭蕉『奥の細道』の佳句が自然に口に出てくる。
行春や鳥啼き魚の目は泪
行春を近江の人とおしみける
そこで子規さんと芭蕉翁にあやかって一句
「何いそぐ旅ぞ春よりさきに行く  子規もどき」
「行く春を歩き遍路とおしみける  芭蕉もどき」
いやはや。道後関所番
平成22年4月 「花盛りくどかば落ちん人許り  子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成22年4月の子規さんの句は「花盛りくどかば落ちん人許り  子規」です。季語は(花盛/春)。『寒山落木』明治二十六年春(「子規全集」@231頁)に掲載されています。
明治26年と云えば子規さんは意気軒昂とした青年でした。
同年3月26日始発の汽車で鎌倉に出掛けます。由比ガ浜、鶴岡八幡、建長寺、円覚寺に参詣、翌27日は長谷の観音堂に参詣、大仏を観て、翌28日には鎌倉宮、源頼朝・大江広元の墓を詣でて帰京。31日には虚子と上野博物館、4月3日には虚子、古白と上野の美術展覧会を鑑賞し、吉原を見物、向島で遊び、浅草の凌雲閣(十二階)に登っています。夜は国分青高フ宴席に顔を出しています。
子規さんの住む根岸から上野の山は程近く、往時も今も桜の名所ですから、四月ともなれば酔客あり、綺麗どころありで、上野は花見客で大賑わいです。花盛りに負けないように、この日ばかりは無礼講で、すその乱れも気にしないで、花見の宴が盛り上がっていたのでしょう。
「くどかば落ちん」女性ばかりとは、女性蔑視の人権差別といわれそうですが、子規さんに免じて許していただきたい。もっとも、子規、虚子、古白の三人の「伊予猿オヤジ」がきょろきょろと花見の宴を眺め回しても相手にされなかった僻み根性がこの句に滲み出たのかもしれませんなあ。いやはや。
老生は三月末から四月初めに桜見物で遠出しました。阿蘇の外輪の桜、筑前秋月城址「杉の馬場」の桜並木、関門海峡布刈(めかり)から桜の遠望、萩城址のミドリヨシノサクラ、津和野殿町の桜、岩国錦帯橋の桜と、土地土地の人が愛情をこめて育ててきた桜には歴史と人情があり、捨てがたい味がありました。拙宅の庭にある三本のソメイヨシノの老木も限りある樹齢だけに懸命に咲いています。
そこで子規さんにあやかって一句
「花盛り酒と喧嘩と子規の江戸  子規もどき」   道後関所番
平成22年5月  「昼顔の花に乾くや通り雨   子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成22年5月の子規さんの句は{昼顔の花に乾くや通り雨   子規」です。季語は(昼顔/夏)。『寒山落木』明治三十一年夏(「子規全集」B178頁)と『春夏秋冬』(子規全集O452頁)に掲載されています。
『春夏秋冬』は明治30年以後の『日本』の選句をもとにして四季四冊にまとめたものですが、「春之部」は子規自らが選に当りましたが、「夏之部」以降は病気のため碧梧桐、虚子の共選となりました。子規門の絶頂期の俳句集でもあります。「夏の部」は子規没後の明治35年5月15日付で発行されました。
明治31年は子規さんの病状は小康状態で、人力車で数度外出もしていますが、一方で有名な自らの墓碑銘を河東可全に送っているから、生と死の狭間の中で格闘した一年でもあったと云えましょう。
昼顔は朝顔のような溌剌とした生命を感じないし、夕顔のように暗闇に浮かぶ余命も感じない。『最新俳句歳時記』(山本健吉編)では「朝顔に似た小さな花をひらく。日中に咲いて夕べには萎む可憐な花である」とある。
子規さんは昼顔の句を毎年詠んでいるが、その多くは子規庵から眺めた庭の昼顔であったと思われる。通り雨は炎天下にざーっと勢いよく降ってきたが、さーっと去っていく。(俳句的なh誇張で云うと)昼顔の花にしずくも残さないほどの一瞬の通り雨であった。「花に乾くや」の切れ字が見事に効いている。日差しの強さ、昼顔の生命力、通り雨の激しさ・・・子規さんを取りまく動きの中で、病床に伏す自らの生命力を凝視している子規さんの姿がぽーっと浮かんでくるようだ。
そこで子規さんにあやかって一句
「昼顔の花盛んなり廃線路  道後関所番」  いやはや
平成22年6月 「六十のそれも早乙女とこそ申せ   子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成22年6月の子規さんの句は「六十のそれも早乙女とこそ申せ   子規」です。季語は(早乙女/夏)。『寒山落木』明治二十九年夏(「子規全集」A463頁)に掲載されています。
この句と合わせて四句「早乙女」の句が詠まれています。
早乙女に物問ふて居る法師哉
早乙女の弁当を覗く烏哉
六十のそれも早乙女とこそ申せ
歌もなき雨のさをとめ哀れなり
根岸の子規庵近くの実景かどうか分かりませんが、子規さんの時代は、田植えは早乙女の仕事でした。子供時代に早乙女に混じって田植えの手伝いをした記憶が甦ります。
絣の着物に手甲、脚絆、赤いたすきをきりりとかけた早乙女たちが、横一列に並んで慣れた手つきで稲の苗を植えていく光景は、当時は日本全国で見かけた農村風景でした。一家の護りである還暦を迎えたおしゅうとめも嫁や孫や隣家の乙女と一緒になって田植えする・・・農村という共同体の連帯を高らかに謳いあげています。
上記の四句から、子規さんも田圃に佇んで田植えを眺めながら、健康であれば自分も一緒に田植えをしたかったのかもしれないなと思うのです。田圃もなくなりマンションが立ち並んでいるかつての道後村ですが、小学唱歌「夏は来ぬ」(作曲小山 作之助 )を口ずさみながら子規さんの句を鑑賞してみました。ご一緒に歌ってみませんか。
(1) 卯の花の匂う 垣根に

  時鳥(ホトトギス) 早も来鳴きて

  忍び音もらす 夏は来ぬ
(4) 楝(オウチ)散る 川辺の宿の

  門(カド)遠く 水鶏(クイナ)声して

  夕月すずしき 夏は来ぬ
(2) さみだれの 注(ソソ)ぐ山田に

  早乙女が 裳裾濡らして

  玉苗植うる 夏は来ぬ
(5) 五月闇(サツキヤミ) 蛍飛び交い

  水鶏鳴き 卯の花咲きて

  早苗植えわたす 夏は来ぬ
(3) 橘の薫る 軒端(ノキバ)に

  窓近く 蛍飛び交い

  おこたり諌(イサ)むる 夏は来ぬ
そこで子規さんにあやかって一句
「老いてなほ酒呑童子とこそ申せ  子規もどき」 いやはや  道後関所番
平成22年7月 「生きてをらんならんといふもあつい事   子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成22年7月の子規さんの句は「生きてをらんならんといふもあつい事   子規」です。季語は(暑し/夏)。『子規全集』B575頁)に「年次不明」として掲載されています。
この句は短冊にのみ残されている句なので、子規さんが手元にあった短冊か、求められて即興で揮毫した句なのでしょうか。いろいろと情景を想像して解釈していいのではないでしょうか。
「こんなに暑い中で生きてをらんならんといふも、大変じゃがな。」という老人のため息が今晩の道後温泉の「椿の湯」で聞かれそうです。子規さんの周囲の老人の口から漏れてでた詞(ことば)かもしれません。「母の詞(ことば)自ら句になりて  毎年よ彼岸の入りに寒いのは」という著名な句を連想しました。
或いは子規さんが「あしはもう痛うて死んでしまいたいがな。そんでも、生きてをらんならん。暑いのお、この根岸は。松山も暑いのじゃろうか。」と虚子や碧梧桐にこぼしているのかもしれません。
それにしても「生きてをらんならん」といふ伊予弁の滑稽味、リズム感がなんともいえません。この句がいつ作られたのか分かりませんが、同席した同郷人は「ほんと、暑いのお。よう生きとらい。」とこぼしたのではないでしょうか。もっとも、俳句の出来としてはいかがなものでしょうか。あまり感心しませんが、天野祐吉・子規記念博物館名誉館長の「よもだ選句」に拍手と乾杯を送ります。
そこで子規さんにあやかって「乾杯」の一句
「生きてをらんならんといふも生ビール  子規もどき」 いやはや  道後関所番
平成22年8月 「行水や美人住みける裏長屋   子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成22年8月の子規さんの句は「行水や美人住みける裏長屋  子規」です。季語は(行水/夏)。『子規全集』(B340頁)に「俳句稿 明治三十三年 夏」として掲載されています。
『俳星』(明治33年8月11日)に「行水・選者吟」として八句挙げているなかの一句です。『俳星』は子規門下の俳人で医師であった石井露月が秋田に帰郷して創刊した俳誌に子規が命名した由です。
行水の後の夕餉や養老酒
此頃や退公遅く行水す
行水や秋海棠の湯の雫
行水や蟲干しの書のしまひさし
行水や再び汗の細工事
行水の盥や何や新世帯
行水や美人住みける裏長屋
行水や犬田が痣の在處
「養老酒」は和漢薬の混成酒で「養命酒」の類でしょうか。おそらく子規さんも愛飲していたのでしょう。「犬田が痣の在處」は、ご存知『南総里見八犬伝』は犬田小文吾悌順(いぬた こぶんご やすより)の尻に牡丹の痣があり・・・云々です。
一昔前には、行水は当たり前の光景でしたし、浮世絵にも盥(たらい)に入って片肘立てで行水する美人の姿があったように思います。艶かしいというより楚々とした女性のイメージを抱きます。十句も並ぶと、子規さんの言葉遊びの感もしますが、どの句が一番好みにあいますか、な。
道後村は村湯「西の湯」(現在の「椿の湯」)がありましたから、戦前は、殆どの農家に五右衛門風呂はありませんでした。冬はともかく、夏は盥で行水は当たり前でした。褌姿で近くの川で水をかぶっている青年団の男は憧れでもありました。女性は・・・ご体験はおありでしょう?
「行水や美人住みける裏長屋  子規」の鑑賞は、おひとりおひとりにお任せしましょう。まさか、うら若き乙女が、いや数十年前に美人だった「おっかあ」が路地裏でということではなく、行水の音から連想した句でしょうか。是非、みなさんの鑑賞エッセイをお知らせください。
そこで子規さんにあやかって一句
「行水や よくぞ男に生まれたる  子規もどき」 いやはや  道後関所番
平成22年9月 「干柿や湯殿のうしろ納屋の前   子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成22年9月の子規さんの句は「干柿や湯殿のうしろ納屋の前  子規」です。季語は(干柿/秋)。『子規全集』(B289頁)に「俳句稿 明治三十二年 秋」、同じく(O470頁)に「春夏秋冬 柿」として掲載されています。
明治32年12月1日付小林宗平(臍斎)宛に「きざ柿(甘柿)」の礼状に添えて「干柿や・・・」の短冊を送っている。臍斎は、この年以降毎年子規にきざ柿を贈っており、明治34年には「柿くふも今年ばかりと思ひけり」と礼状に書いている。子規は翌明治35年9月19日に逝去しているので、この年のきざ柿がまさに最後の甘柿となった。
子規さんといえば、糸瓜と柿になじみの句が多いのですが、生涯に何句作ったのか数えてもいません。膨大な数になることでしょう。この句は、健康だった時代の吟行の句か、松山の農村の光景なのかよく分かりませんが、日本画家向井潤吉画伯の田舎の絵によく出てくる光景を想像します。
萱葺きの屋根の母屋、母屋から離れて湯殿や納屋や厠があり、庭に柿の木が数本植えてある。「湯殿のうしろ納屋の前」の母屋の白壁の軒下に干し柿が幾重にも吊るしてある。「犬走り」には冬に備えて薪が積んである。子規さんのことだ、旨そうだなあ、一つほしいものだと思ったに違いあるまい。
拙宅でも毎年干し柿を作っています。長い竿で柿を獲って、蔕先を吊るしやすいように小枝を剪定鋏で二股に切る。皮を剥ぎ紐を掛け、軒下に吊るす。夫婦の「夜なべ作業」です。年の暮れには親類縁者におすそわけしますが、毎年好評です。もっとも老木ですので出来不出来が激して困ります。去年は豊作でしたから、ことしは残念ながら・・・です。「桃栗三年柿八年」ですから、今から植えても米寿には楽しめますよ、いかがですかご同輩、いやはや。
「東の窓」の過去ログを拝見していたら那須の宗匠師の一文が目にとまりました。(平成20年11月NO3517)
【三好さんの引用句の「干柿や 湯殿のうしろ 納屋の前」で干柿作りにかかる事にしました。「干柿や 二階の窓辺 小屋の前 (???もどき)」 昨年は100個作りました。忽那さん宅にはもうぶら下っていることでしょうね。】
そこで子規さんにあやかって一句
「干柿や マンションに住む四国猿  子規もどき」 いやはや  道後関所番
平成22年10月 先生はいつも留守なり菊の花  子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成22年10月の子規さんの句は「先生はいつも留守なり菊の花  子規」です。季語は(菊/秋)。『子規全集』(A「寒山落木 巻五」580頁)に掲載されています。 明治29年秋の作品ですが、明治32年9月13日付『日本』に「答人」と題してこの句が発表されている。
俳句としては、子規さんには悪いが小・中学生でもつくれるだろうと思えるほど平凡な句といえよう。子規さんらしい表現は「いつも留守なり」であろうか。先生が誰なのか、この句からはわからないが、句誌『ホトトギス』でお世話になっている「先生」だろう。句会の長老といえば内藤鳴雪翁であるが、子規さんは鳴雪翁を「先生」と呼んではいない。新聞「日本」の社長で子規さんの庇護者でもある陸羯南も「先生」の資格が充分あるのだが・・・・・
子規の「先生」の句としては以下の五句が挙げられる。
「先生の草鞋も見たりもみじ狩」 (明治25年10月)
 出 代
「先生の畑打て居る門の前」 (明治31年4月『反省雑誌』)
 浅井氏の洋行を送る
「先生のお留守寒しや上根岸」 (明治33年1月『ホトトギス』)
「先生の夏羽織脱ぐ揮毫哉」 (明治33年6月26日付『日本』)
「先生の筆見飽きたり冬籠」 (明治33年冬)
明治33年の三句は画家浅井忠で間違いないだろうが、もう一人の先生は郷里松山で教えを受けた私塾の「先生」ではなかったか。「今月の子規句」の「先生」は根岸子規庵に近い上根岸の浅井忠先生であろうか。
高校時代「先生」のお宅にお邪魔する機会はあまりなかったが、道後にお住まいの成川正先生、渡部勝巳先生、丸本哲郎先生の御宅や下宿先での「先生」との交流は忘れられない。渡部先生の新居はたまたま拙宅から四軒東のお宅であったので、本箱に囲まれた居間で美しい奥様にお茶を出していただくのが楽しみだった。いやはや。
下句の「菊の花」であるが、俳句の初心者であれば「「先生はいつも留守なり○○○○○」に、、曼珠沙華やら秋桜やら秋の七草やらを詠みこんで一人楽しむこともあろうか。現代人にとっては「菊の花」の座りは必ずしもよくないことを認めざるを得ない。
子規さんのこの句を読んだ明治人にとっては、明治天皇は絶対君主だったし、11月3日がご生誕日だけに、明治を象徴する花は「菊の花」であり「菊のご紋章」であった。「先生」も現在の「先生」とは違って近寄りがたく「三歩下がって師の跡を踏まず」の存在だった。そのような時代背景を考えると「菊の花」の季語は動かないのかなと思います。
昭和10年生まれの我々世代は『明治節』を歌ったギリギリの小学生だったからかもしれません。「俳句甲子園」に出場する次世代の俳人たちはどのように「先生はいつも留守なり菊の花」を鑑賞するのかなあと興味があります。あと一ヶ月弱で「明治節」・・・何十年ぶりに歌ってみるか。
   『明治節』  作詞 塩沢周安  作曲 杉江修一
一、亜細亜の東日出づる処 聖の君の現れまして
  古き天地とざせる霧を 大御光に隈なくはらい
  教あまねく道明らけく 治めたまえる御代尊
二、恵の波は八洲に余り 御稜威の風は海原越えて
  神の依させる御業を弘め 民の栄行く力を展ばし
  外つ国国の史にも著く 留めたまえる御名畏
三、秋の空すみ菊の香高き 今日のよき日を皆ことほぎて
  定めましける御憲を崇め 諭しましける詔勅を守り
  代代木の森の代代長えに 仰ぎまつらん大帝
そこで子規さんにあやかって一句
「先生はいつも和服や掘り炬燵  子規もどき」 道後関所番
平成22年11月 「山門をぎいと鎖すや秋の暮  子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成22年11月の子規さんの句は「山門をぎいと鎖すや秋の暮  子規」です。季語は(秋暮/秋)。『子規全集』(A巻「寒山落木 巻五」524頁、B巻「獺祭書屋俳句帖抄」652頁、O巻「春夏秋冬」456頁)に掲載されています。 明治29年秋の作品ですが、新聞『日本』には明治30年10月4日付にて掲載されています。
一読して格調高い句に圧倒されました。「秋の暮」は誰しも人生を感じさせてくれる季節ですが、不治の病に直面している子規さんには及ばないものの、後期高齢者としての「人生の黄昏」を老生も感じるようになりました。
「秋の暮」は歳時記のよれば「秋の夕暮れ」と「秋の終わり」の二つの表現がありますが、此の句からはどちらともいえない凄みを感じます。特に「ぎいと鎖(とざ)すや」に、何人も拒絶する山門の厳しい掟すら感じます。
「秋の夕暮れ」の体験に東大寺大仏殿や洛東・洛西の大寺を参詣していて、夕暮れとともに山門を後にした時、耳元に聞こえる扉を閉めるぎ〜いという音はいまだに耳に残っています。子規さんは「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の山門の鎖す音を聞いたのだろうか。
「秋の終わり」の個人的な体験ははっきりしないが、一冊の本から得た文学的体験は忘れられません。昭和48年、芥川賞受賞作品である森敦著『月山』を読んで正直唸りました。
著者である「わたし」が山形の月山のふもとにある注連寺という寺に居候して、部落と隔離されて一冬を越すという話である。「月山」は「死者のいくあの世の山」であり「注連寺」は「即身仏のミイラ」が著名である。子規は当然ながら山門の外からぎいと鎖す音をきいているが、寺内から聞く「わたし」は、「死」を自覚し、春を迎えることができれば「再生」し山門から出て行くことになる。淡々とした限界状況下の「わたし」の人生観がマンネリ化したビジネスマンにとっては強烈なパンチであった。
松山や四国霊場88ケ所寺院には「山門をぎいと鎖す」名刹もあるのだろうが、老生は残念ながら知らない。ぜひご紹介していただきたい。それにしても子規さんの「山門をぎいと鎖すや」の誌的感受性はすばらしい。視覚障害者にとっても、この俳句のすばらしさは健常者以上にこころに響くことだろう。
そこで子規さんにあやかって一句
松山城の往時を偲びて
「城門をぎいと鎖すや秋の暮  子規もどき」    道後関所番
平成22年12月 「冬の部に河豚の句多き句集哉  子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成22年12月の子規さんの句は「冬の部に河豚の句多き句集哉  子規」です。季語は(河豚/冬)。『子規全集』(B巻「俳句」363頁、R巻「書簡二」592頁に掲載されています。新聞『日本』には明治33年12月17日付にて「蕪村遺稿刻成る」の前書きが付いて掲載されています。
この句は明治33年12月某日に大阪市東区南久宝寺町に住む子規の門人である俳人水落義弌(露石)宛の葉書に書かれています。
蕪村遺稿難有候 製本上出来板下誠に見事に候
冬の部に河豚の句多き句集哉
東京上根岸
        正 岡 常 規
〈注〉『蕪村遺稿』は明治33年11月25日付で大阪鹿田松雲堂から刊行(板木)されました。
子規さんは水落露石から贈られてきた尊敬する与謝蕪村の句集を眺めながら、冬の部に河豚の句の多いことを「発見」し、その「発見」をお礼と共に露石に伝えています。挨拶句として率直で素晴しい句ではないかと思います。
無粋な老生にも、年間何冊か俳句や短歌の句集を頂きます。一通り句や歌に目を通しその所感をお礼に添えてご返信していますが、じっくり読み込んでささやかであっても新たな「発見」をお伝えすべきだと反省しました。
子規は明治30年から蕪村の命日に当る12月24日に「蕪村忌」の句会を毎年行っていますが、この日に併せて大阪の露石から贈られて天王寺鏑で「風呂吹」がもてなされています。「此頃足立ツコト出来ネバ匍匐シテ縁側ニ出デ僅ニ此姿勢ヲ保ツコトヲ得タ」る病状でしたが、食いしん坊の子規さんのことだから「風呂吹」をふうふうしながら食べたのでしょうか。老生は河豚のひれ酒で酔いしれ、ふぐ刺しや白子を口にする蕪村の姿を連想して今まで抱いていた蕪村像が一瞬にして消え去りました。いやはや。
もっとも河豚は鉄砲とも云い、あたれば一発で死ぬわけですから、江戸の俳人もそれなりにスリルを楽しんで河豚を「たべたのでろうか。
俳聖芭蕉翁や河豚好きで天寿を全うした蕪村の河豚の句を列挙してみます。
あら何ともなやきのふは過ぎてふくと汁 芭 蕉
鰒(ふぐ)汁の我活きてゐる寝覚めかな 蕪 村
逢はぬ恋思ひ切る夜やふくと汁 蕪 村
音なせそたゝくは僧よふくと汁 蕪 村
鰒(ふぐ)汁の宿赤々と灯しけり 蕪 村
ふく汁や五侯の家のもどり足 蕪 村
そこで子規さんにあやかって一句
「冬の座に河豚雑炊の集い哉  子規もどき」    道後関所番