平成22年1月 「銭湯を出づる美人や松の内 子規」 |
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子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成22年1月の子規さんの句は「銭湯を出づる美人や松の内 子規」です。季語は(松の内/新年)。
『俳句稿』明治三十三年新春(「子規全集」③316頁)、『俳句会稿』明治三十三年一月十四日(「子規全集」⑮721頁)に掲載されています。この句は新聞「日本」の明治34年1月1日号「松の内」、「俳星」明治33年3月10日号に掲載されました。なお、『俳句稿』では「銭湯を出つる美人や松の内 子規」となっています。 |
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この句は明治三十三年一月十四日の新年句会で詠まれました。子規、虚子、碧梧桐、青々ほか18名の参会者があり、「毛布」「礼者」「初荷」「冬の川」「銭湯」[福寿草]「狐狸宴会図」「寒垢離」「初暦」の各題が記録に残っています。碧梧桐の「初荷すや花王石鹸キメチンキ」には思わず噴きだしました。
選句を終えて新年宴会となり、酒、豚汁、刺身、焼肴、口取、飯、香の物が並び、余興に福引、落語、三題噺、茶番などなどで、病床の子規も、痛みを暫し忘れて、笑い転けたことでしょう。 |
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子規さんの句は「写生」ですから、実景としてこの句の鑑賞してみます。(よもやとは思いますが) |
湯上りの女性は浮世絵を見ても、ぞくぞくするほどの艶かしい美しさで描かれています。髪洗いの女の姿に心ときめく思いを男性なら誰しも抱いたことでしょう。感受性の強い子規さんなら人並み以上の思いであったとしても当然でしょう。
松の内は関東では七日までですが、家事から開放されてゆったりと銭湯で長湯を楽しみ、肌の手入れをし、洗い髪まで済ませたのかもしれません。銭湯から出てきた女性は美人そのものでした。のどかで華やかな江戸の松の内の風情ですなあ。 |
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男の目からみると、この美人は見知らぬ女性ではなく顔馴染みの女性で、改めて女らしさを感じたとしたいのですが・・・もっとも勝気な妹の律さんではありますまい。いやはや。 |
それにしても子規さんは「食い気」だけでなく、死を前にした晩年でも「色気」も失っていないのには驚きです。 |
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そこで子規さんにあやかって一句 |
「銭湯を出づれば憂き世松の内 子規もどき」 |
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添え句は「それにつけても人恋しさよ」でしょうか。いやはや。 道後関所番 |
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平成22年2月 「一村の梅咲きこぞる二月哉 子規」 |
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子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成22年2月の子規さんの句は「一村の梅咲きこぞる二月哉 子規」です。季語は(梅 または 二月/春)。 |
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『寒山落木』明治二十七年春(「子規全集」②22頁)、『俳句を拾ふの記』(「子規全集」⑬587頁)に掲載されています。この句は新聞「小日本」の明治27年3月24日号に掲載されました。なお、新聞「小日本」は明治27年2月11日に創刊されたばかりで、編集長は弱冠28歳の子規でした。 |
細かいことになりますが、『俳句を拾ふの記』では「一村の梅咲きこぞる二月かな」になっていますので引用に当ってはご留意ください。ところで季語は「梅」なのか「二月」なのか迷っています。初心者には「季重ね」となるのでしょうが、実作者はいかにお考えでしょうか。お教えください。 |
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明治27年3月中旬(日は確定できません)に新聞「小日本」の取材を兼ねて「同宿の高浜虚子をそそのかして」探梅に出掛けました。コースは、千住街道・・・梅島村・・・草加・・・西新井・・・大師堂(梅園・奥の院・茶店)・・・王子(松宇亭)・・・上野です。もっとも、王子から上野までは最終の汽車に乗車しています。紀行文には子規の句が18句、虚子の句が11句載っています。 |
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「梅の中に紅梅咲くや上根岸」 |
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「燕やくねりて長き千住道」 |
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「鶯の梅島村に笠買はん」 |
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「梅を見て野を見て行きぬ草加迄」 |
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「一村の梅咲きこぞる二月かな」 |
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「梅咲て仁王の面の赤きかな」 |
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「春の夜の稲荷に隣るともしかな」 |
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「一村の梅咲きこぞる二月哉」に詠まれた梅の村は草加から西新井に向かう途中にあり、村一面が梅に埋もれた光景を「写生」したものでしょう。食いしん坊の子規さんのことですから、探梅しながら、草加煎餅をぽりぽり食べ、新井薬師で茶を啜りながら草餅を喰らい、仕上げが王子の松宇亭での懐石でしょうか。残念ながら記録は残っていませんが・・・ |
そこで子規さんにあやかって季重ねの一句 |
「一村の花咲きこぞる弥生哉 子規もどき」
いやはや。 |
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平成22年3月 「何いそぐ春よりさきに行く君は 子規」 |
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子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成22年3月の子規さんの句は「何いそぐ春よりさきに行く君は 子規」です。季語は(行く春/春)。『寒山落木』明治二十九年春(「子規全集」②406頁)に掲載されています。前書は「今川某を悼む」。この句が新聞「日本」の明治29年5月9日号に掲載された時には、前書は「今川氏嗣氏を悼む」に変更されている。 |
前書から今川氏嗣氏への哀悼の句であることが分かる。同氏は、東京大学農科大学別科に学んだ子規の俳句仲間で、俳号は「虚空」である。闘病中も俳句を友として過ごした。(手元に人名事典がないので後日追記させていただきます。) |
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この句は、前年9月に子規が金州から帰国の途中喀血し療養をかねて松山に帰省、漱石と愚陀仏庵で過ごしてから半年、漱石も熊本に旅立ったころの作品である。松山からの帰京以来、子規は病臥を余儀なくされた。子規庵でゆっくりした春の移ろいに浸っていた子規に友の訃報が届く。まだまだ春を堪能していない「君」は何を急いであの世に旅立つたのか、脊椎カリエスに苦しみ死を前にしていた「われ」を追い越して「君」は亡くなってしまった。嗚呼。 |
季語は「春」と捉えると詩情(俳趣)は消え失せましょう。「行く春」は季節感としては「まさに終わろうとする春への惜別」であります。言葉に厳密な子規さんだけに、春への惜別と友への惜別が折り重なった俳句となりました。「君」を知っている俳句の仲間たちは、この句を読んで込み上げて来る哀しみの涙を押さえることができなかったろう。 |
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「行く春」といえば芭蕉『奥の細道』の佳句が自然に口に出てくる。
行春や鳥啼き魚の目は泪
行春を近江の人とおしみける |
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そこで子規さんと芭蕉翁にあやかって一句 |
「何いそぐ旅ぞ春よりさきに行く 子規もどき」
「行く春を歩き遍路とおしみける 芭蕉もどき」 |
いやはや。道後関所番 |
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平成22年4月 「花盛りくどかば落ちん人許り 子規」 |
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子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成22年4月の子規さんの句は「花盛りくどかば落ちん人許り 子規」です。季語は(花盛/春)。『寒山落木』明治二十六年春(「子規全集」①231頁)に掲載されています。 |
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明治26年と云えば子規さんは意気軒昂とした青年でした。 |
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同年3月26日始発の汽車で鎌倉に出掛けます。由比ガ浜、鶴岡八幡、建長寺、円覚寺に参詣、翌27日は長谷の観音堂に参詣、大仏を観て、翌28日には鎌倉宮、源頼朝・大江広元の墓を詣でて帰京。31日には虚子と上野博物館、4月3日には虚子、古白と上野の美術展覧会を鑑賞し、吉原を見物、向島で遊び、浅草の凌雲閣(十二階)に登っています。夜は国分青厓の宴席に顔を出しています。 |
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子規さんの住む根岸から上野の山は程近く、往時も今も桜の名所ですから、四月ともなれば酔客あり、綺麗どころありで、上野は花見客で大賑わいです。花盛りに負けないように、この日ばかりは無礼講で、すその乱れも気にしないで、花見の宴が盛り上がっていたのでしょう。
「くどかば落ちん」女性ばかりとは、女性蔑視の人権差別といわれそうですが、子規さんに免じて許していただきたい。もっとも、子規、虚子、古白の三人の「伊予猿オヤジ」がきょろきょろと花見の宴を眺め回しても相手にされなかった僻み根性がこの句に滲み出たのかもしれませんなあ。いやはや。 |
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老生は三月末から四月初めに桜見物で遠出しました。阿蘇の外輪の桜、筑前秋月城址「杉の馬場」の桜並木、関門海峡布刈(めかり)から桜の遠望、萩城址のミドリヨシノサクラ、津和野殿町の桜、岩国錦帯橋の桜と、土地土地の人が愛情をこめて育ててきた桜には歴史と人情があり、捨てがたい味がありました。拙宅の庭にある三本のソメイヨシノの老木も限りある樹齢だけに懸命に咲いています。 |
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そこで子規さんにあやかって一句 |
「花盛り酒と喧嘩と子規の江戸 子規もどき」
道後関所番 |
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