平成20年1月  「婆々さまの話し上手なこたつ哉 子規」
子規記念博物館選句の平成20年1月の子規さんの句は 「婆々さまの話し上手なこたつ哉 子規」 です。
『寒山落木 明治二十九年』(「子規全集」B563頁)に記載されております。「婆々さま」は<ばばさま>で<ばあさま>とは読みません。明治29年といえば、正月は根岸の子規庵で迎え、新年句会に松山に赴任している夏目漱石や軍医学校長森鴎外も来会し、数日置いて秋山真之も三年ぶりに訪ねてきます。漱石や真之との話では松山の話題も弾んだことだろうと思われます。
婆々さまといえば、冬になれば縁側に出て座布団に座って猫を膝に抱っこして着物の仕立て直しをしたりお茶をすすったりといったゆったりした時間の流れを感じます。夜ともなれば炬燵に座って孫たちに昔話を聞かせる。
「昔むかしのことじゃけんど、近くの鎮守の杜でなあ・・・」とくると孫たちはあの話かと目を輝かせてくる。「芝居小屋が建ってなあ、見かけない男や女の人が来るんや。子供は可哀想にかどわかされたということじゃが。そこになあ、首の長い〜い女の娘さんや一つ目小僧がおってなあ。」孫たちは筋道は知っているが結末は知らない。婆々さまは孫が眠ってしまうまでお話を続けるのだから。案外婆々さまも結末はご存じないのかもしれない。いやはや。
最近は新聞では「老女」といい、「グランマ」というハイカラ英語を使わせたり、沖縄ブームで「ぢ〜ぢ、ば〜ば」が普及したりと時代を反映しており、「爺々」「婆々」は死語になってしまいました。私にとっての「爺々・婆々」は森鴎外の短編『ぢいさんばあさん』につきます。ことしも炬燵で目を通すことにしています。
ところで子規さんの父(隼人常尚)方の祖母は松山藩士佐伯景影の妻むらですが正岡家から嫁しており、隼人常尚は正岡家の入り婿です。母(八重)方の祖母は儒学者大原観山の妻重(しげ)で、漢学者歌原松陽の長女になります。子規さんの幼馴染の三並良の生家は歌原家です。この句の婆々さまは子規さんの祖母さまなのかどうか詮議してもしなくとも、鑑賞には差し支えないように思えます。鑑賞者が描く身近な婆々さまであってほしいものです。
そこで子規さんにあやかって一句
「爺々さまの鼾の凄きこたつ哉  子規もどき」
ことしも唯我独尊の子規さん俳句を鑑賞し発表させていただきます。引き続き宜しくお願い致します。 道後関所番
【あいあい宗匠から】
一月も半ばが過ぎ、“歳月矢の如し”を感じますが、皆様には如何お過ごしでございましょうか。瓶一杯に白根を伸ばした水栽培のヒヤシンスが、このところの陽気で緑の三角芽をグンと膨らませ、今にも蕾が覗き始めるのではと、楽しみなこの頃です。
今月の子規記念館懸垂幕俳句は「婆々さまの話し上手なこたつ哉  子規」でした。 今年も関所番さま、お世話様になり感謝申し上げます。新らしい年の最初の懸垂幕句が“爺々さま”でなく“婆々さま”で意を強くしましたが、この婆々さま、 文学者子規を取り巻く婆々さまなら賢く話し上手も当然でしょうね。 この場合の話しとは関所番様の例のように昔話、童話、民話の類なんでしょうね。後に炬燵と来れば尚更。
当世の孫どもは、「きっちょむさんの団子」から「泣いた赤鬼」「モチモチの木」まで母親が本を読み聞かせているため、振り返ると、婆々さまは話のネタがなく、何時も困ったものでした。ある時、藤村の「椰子の実」をお伽話にアレンジして話していたら、どんなに転がしても、もともと果実は果実、収拾が付かなくなり、終に「とっぴんぱらりのぷー」が出せなくて困った挙句、「これは(島崎藤村)という偉い人の詩で、お伽話ではありませんでした」と白状して逃げきりましたが・・・
 「椰子の実」は渥美半島の恋路が浜に、南の島から黒潮に乗って幾年月の果て流れ着いたのを柳田国男が見て親友の藤村に話したところ、藤村は自分の故郷を離れてさまよう憂いを重ねこの詩を書いた、と、もの の本にあります。「偉大な詩人の作品をお伽話にしようとしたあいあいは所詮お猿の化身でした」の一幕でした。
掲出句の明治の「婆々さま」は、やはり心和む永遠の理想像ですね。
【道後関所番から】
「成人の日」が年々移動するのは困ったものですが、今日は「小正月」。改めて「婆々さまの話し上手なこたつ哉  子規」を味わっています。あいあい「婆々さま」の「椰子の実」のお話を「拝聴」しながら、道後関所番「爺々さま」が孫に自信を持って語ったのは「桃太郎」「かちかち山」「金太郎」「一寸法師」・・・といった物語だったことを思い出しました。
今年の「東洋大学 現代学生百人一首」に感動的な歌がありました。
○「おじいちゃん みんなの話題と違うけど 私はちゃんと聞いてるよ」
○「おばあちゃん さっきも言ったよ その話 忍びよる影そっと肩抱く」
身につまされますなあ。それにしてもなんと優しい現代っ子でしょうか。梅木さんから紹介がありました。さすが教職にあっただけに、若者の純な気持ちに強く感銘を受けられたのでしょう。
もう一つ、お付き合いしている旧姓与謝野様から先日メールを頂きました。【「婆婆さまの話し上手なこたつ哉」の句に目が留まり、三好様の「子規記念博物館の『今月の俳句』」をクリックしました。我が家の昔の光景が思い出されました。いい句ですね。】ということは、「婆婆さま」は歌人与謝野晶子に当たるのだろうか。急に情熱の歌人・与謝野晶子の老いの姿が身近く感じられた次第。長生きはするものですなあ。いやはや。道後関所番
【月見に一杯さんから】
昔と違って今ではエアコンやストーブなどの暖房器具で空気自体を暖めているので同じ炬燵に入っていても折角の話し上手な婆々様の話に神経が集中できないのではと心配しながら当時の冷え切った部屋の暖かい炬燵の風景が見えるようです。
<「婆婆さま」は歌人与謝野晶子に当たるのだろうか。急に情熱の歌人・与謝野晶子の老いの姿が身近く感じられた次第。>の件を読んでいて逆に晶子氏の若き日の情熱の生々しい歌を思い出しましたよ。
    「春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳(ち)を手にさぐらせぬ」   なんともはやどうもどうも。
【道後関所番から】
「春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳(ち)を手にさぐらせぬ」。いい歌をご披露有難うございました。
教科書では「君死に給うことなかれ」を教わり反戦歌人としていまだに持てはやされていますが、本質は感情豊かな、11人の子供に恵まれた、麗しき女性であり、肝っ玉母さんであり、話し上手な婆々さんなんですなあ。「初恋の味カルピス」は晶子のコピーとの「伝説」もありますなあ。晶子は昭和17年に亡くなりましたから、先述の旧姓与謝野様は4〜5歳頃だったのだろうと思います。
晶子の四男(四郎)が太平洋戦争に出征する時に送った歌が残っています。「水軍の大尉となりて我が四郎み軍(いくさ)に往く猛く戦へ」。この歌の方が晶子らしいと思うのですが、如何でしょうか。もっとも文化人と称する輩や良心的と称するマスコミが抹殺したがっている歌ですが、「君死に給うことなかれ」と「水軍の大尉となりて猛く戦へ」を並列して教えれば、人間晶子像がもっとはっきりすると思います。
蛇足ですが、満州事変後の上海事変では「肉弾三勇士の死を尊い自己犠牲である」と肯定しており、夫である鉄幹は「廟行鎮の夜はふけて」を作詞し、この「肉弾三勇士の歌」は一躍有名になりました。案外晶子「婆々さま」は夫の作詞した軍歌を歌いながら戦争の話をしたのかもしれませんなあ。あいあい宗匠、夢を壊して御免なさ〜い。いやはや。 道後関所番
平成20年2月  「筆ちびてかすれし冬の日記哉  子規」
子規記念博物館選句の平成20年2月の子規さんの句は 「筆ちびてかすれし冬の日記哉  子規」 です。 季語は(冬・時候)になります。
『俳句稿 明治三十三年』(「子規全集」B362頁)に記載されています。俳誌『ホトトギス』明治33年3月号の「筆(冬季結)・選者吟 五句」中、第一句が「凍筆をホヤにかざして焦がしけり」で第二句が「筆ちびてかすれし冬の日記哉」です。
「行灯のホヤ(火をおおうガラス製の筒)で筆の穂先を焦がして、ちびてしまった筆で日記を書くとかすれてしまった」と第一句と第二句を一気通貫で鑑賞すると、子規さんの苦笑いした滑稽さを感じます。僕が筆を持つのは「御祝」と「御不幸」の時が殆どですが、字がかすれるのは墨が少なくなった時で、ちびた筆を使うと黒々とした筆跡になるのですが、僕だけの経験でしょうか。いやはや。
やや専門的になりますが、この筆については昭和8年に妹の律さんと河東碧梧桐と対談した「家庭より観たる子規」(全集BP296)で律さんが詳細に語ってくれています。支那筆の「小筌毫」という安筆で、3本に1本ぐらいしか書けない。子規さんは元来細書きですから筆がすぐにちびてしまった。10本纏め買いしても、二ヶ月くらいでおしまいになった由です。
鑑賞に当たって「冬の日記」は絶対に動かない表現です。春でも、夏でも、秋でも平凡な日記になります。「話しじょうずな婆婆さまの昔話」(子規博平成20年1月句)などを思い出しながら、炬燵に入って日記を書く」風情こそ日本そのもの、日本人そのもののように思われます。いかがでしょうか。
閑話休題 
明治33年というと子規さんの最晩年に当ります。新聞『日本』の原稿や「俳句分類」や膨大な量の手紙や短冊を、まさに筆一本で書き続けました。ここでいう「明治33年当時の冬の日記」は現在まで発見されていません。) 『松蘿玉液』(明治29年)と『墨汁一滴』(明治34年)『仰臥漫録』(明治34年〜)『病床六尺』(明治35年)の「空白期の冬の日記」とはどのような日記だったのでしょうか。
翌明治34年の句に「(墨汁一滴を書かんと思ひたちて)筆禿びて帰り咲くべき花もなし」(季語は冬・冬木)を残しています。子規記念博物館で子規さんの揮毫した短冊や、多くの書を眺めますと、どのような墨や筆、和紙を使ったのだろうと思います。僕らの時代は「墨は古梅園」で「小刀は肥後守」と決まっていましたが・・・
ところで「冬の日記」いや年頭に「筆おろし」した日記や家計簿は続いていますでしょうか。子規さんのように死の床にあっても自己表現を続けた松山の生んだ大先輩にあやかって生きていきたいものです。
そこで子規さんにあやかって一句
「歯のちびし足駄の子らや雪の道 子規もどき 」 いやはや。
平成20年3月  「蝶々や順禮の子のおくれがち 子規」
子規記念博物館選句の平成20年3月の子規さんの句は 「蝶々や順禮の子のおくれがち  子規」 です。
季語は(春・蝶)になります。『寒山落木 第一 明治二十五年』(「子規全集」@52頁)に記載されています。新聞「日本」には明治26年9月13日号に掲載されました。明治25年1月30日付の河東碧梧桐宛書簡には「蝶々や順禮の子のおくれ勝」となっています。又『獺祭書屋俳話 附録俳句選句集」(明治28年9月5日)にも記載されています。
春ともなれば四国遍路(順礼)の姿を当地では多く目にするようになる。とは云え子連れの順礼は気になるものである。親の祈りの気持ちとは別に子供は蝶々の飛ぶ様に見とれ追い求める。遅れ勝ちの子は離れた親に気付き慌てて駆けていくといった光景が何度となく繰り返していく。子規さん25歳の若々しい俳句である。と、素直に鑑賞したのだが、実は大きな落とし穴があった。珍しく子規さん自身がこの句を酷評しているので紹介しておきたい。明治29年発行の『獺祭書屋俳話正誤』でこの句を没(抹消)にしているのである。
【蝶々や順禮の子のおくれがちの一句稗気ありて言ひおほせず。「がち」の二字客観を離れたる処殊に拙し。「おくれ」と終に置きたるも拙し。此句の趣向の上に於て最も眼目とすべきは順禮の子の蝶に戯れ草を摘みなどする処に在るなり。されば親に後るゝもかまはず道草を取るとこそいふべきに、此句道草を取りたるためにおくれたりといふやうに作れり。斯くてはおくれたる事主眼となりて道草は僅かに其原因をあらはすに過ぎざるなり。是れ理屈なり。故に此句を削る。】(「子規全集C337頁)
実作者の方にこの句の鑑賞と子規さんの解釈についてお伺いしたい。子規さんがこの句を没(削除)にしたのは妥当なのかどうかは僕には全く分からない。同時にこの句を「今月の子規さんの句」として披露した子規記念博物館の見識を高く評価すべきなのか、それとも「よもだぶり」を賞賛すべきなのかも僕には全く分からない。
個人的には「蝶々や順禮の子のおくれがち  子規」を口にして、川端康成の『伊豆の踊り子』の一高の学生と踊り子の出会いから別れまでの道中の光景が目に浮かんだ。高校時代に読んだ青春小説では川端康成『伊豆の踊り子』、三島由紀夫『潮騒』、若杉慧『エデンの海』が忘れられない。いずれも20代になって映画化され渋谷の安っぽい映画館で見たように記憶している。
そこで子規さんにあやかって一句
「蝶々や伊豆の踊り子おくれがち 子規もどき」 いやはや。 
平成20年4月 内のチョマが隣のタマを待つ夜かな  子規」
子規記念博物館選句の平成20年4月の子規さんの句は「内のチョマが隣のタマを待つ夜かな  子規」 です。
季語は(春・猫恋)ですが、連想ゲームのような季語です。実作者にお聞きしたいのですが、現在でも句会などでは同類の句の季語は「猫恋」として取り扱っておられるのでしょうか。
『寒山落木 第五 明治二十九年』(「子規全集」A424頁)『獺祭書屋俳句帳抄』(「子規全集」B644頁)『新俳句 春之部』(「子規全集」O256頁)に記載されています。『寒山落木』と『獺祭書屋俳句帳抄』では「(猫恋)内のチョマが隣のタマを待つ夜かな」ですが『新俳句 春之部』では「(猫の恋)うちのちょまが隣のたまを待つ夜かな」と微妙にニュアンスが違っています。尚『新俳句 春之部』は明治31年東京民友社発行で収録俳人598名、総句集4858句(うち子規句509句)です。)
猫の句といえば平成19年12月の子規博俳句「餅ついて春待顔の小猫かな  子規」の項で 子規の随筆『飯待つ間』(明治32年10月10日執筆)を抜粋して子規さんは猫嫌いではないが妹の律さんは猫嫌いであったことを紹介しましたが、明治29年当時根岸の子規庵では猫(チョマ)を飼っていたのでしょうか。時間の余裕がなく未調査ですが、猫好きな方で子規庵のチョマをご存知であれば是非お知らせください。
寒中から早春にかけての猫の恋の季節では一匹の雌に数匹の牡が鳴き寄り、赤ん坊のような声を出し、時には牡同士の争いもある。根岸の子規庵のチョマと隣家のタマは既に恋仲なのだろうか。タマの声を待っているのは、チョマもさることながら、横臥する日が多くなった子規さんも同様らしい。
明治29年には「猫恋」を七句詠んでいます。
○内のチョマが隣のタマを待つ夜かな
○恨みわびニヤニヤと泣く也猫の妻
○忍びあへず男猫泣くなり塀の上
○恋猫の別れを惜む戸口かな
○両方で睨みあひけり猫の恋
○三匹になりて喧嘩す猫の恋
  初恋
○初恋の心を猫に尋ねばや
110年前の俳句とは思えない恋歌となっています。子規さんの初恋の女性は誰だったのでしょうか。「猫の恋詮索するほど野暮でなし  道後関所番」いやはや。
そこで子規さんにあやかって一句
「うちまごがそとまごを待つ春休み 子規もどき」  道後関所番
平成20年5月  「家あって若葉家あって若葉哉  子規」
子規記念博物館選句の平成20年5月の子規さんの句は「家あって若葉家あって若葉哉  子規」 です。季語は(若葉/夏)です。『寒山落木 第二 明治二十七年』(「子規全集」A75頁)に記載されています。
この句を目で見て、口にして簡潔な日本語で歯切れがよかったのですが、子規さんが何処で詠んだのかを理解するのに数分かかりました。家が現れたかと思ったら若葉が現れ、また家が現れ若葉が現れる。走馬灯のような光景というか、絵巻物を見ているようなシーンです。子規さんは汽車に乗って、窓を開けて、心地よい風を車内に取り込みながら、車窓から田舎の村々を眺めているのでしょう。
汽車のスピード感と田舎と若葉の取り合わせ・・・心憎いほどに旅情を感じさせてくれます。時間と場所の移動を大胆に俳句に取り入れた稀有な句と思うのですが、如何でしょうか。昭和中期までの蒸気機関車は過去の遺物でしょうが、煙の匂いの記憶はいまだに消えることはありません。新幹線世代には絶対に分からない句かもしれません。ざまあ見ろ。いやはや。
ところで子規さんは短い生涯で何回くらい蒸気機関車(汽車)に乗ったのでしょうか。子規会理事の宇和宣さんの調査では長短合わせて51回旅行しています。
1)東京〜神戸間の東海道本線が開通したのは明治22年(1889)ですから、明治16年6月10日三津浜を発った子規の初上京は汽船を利用しました。
2)子規の帰省旅行は前後9回あります。@明治18年7月〜8月A明治20年7月〜8月B明治22年7月〜9月C明治22年12月〜1月D明治23年7月〜8月E明治24年6月〜8月F明治25年7月〜8月G明治28年3月H明治28年8月〜10月<最後の帰省>。他に明治25年11月に母八重と妹律を迎えに神戸に出掛けています。
3)若葉の瑞々しい初夏の旅行とすると明治24年6月25日上野を出発し、軽井沢・長野善光寺・木曽路・木曽川・神戸のコースかもしれません。同じ明治27年に「山に沿ひて汽車走り行く若葉哉」(「子規全集」A75頁)という同趣向の句があります。
ご興味のある方は子規年譜(全集(22))でお調べ頂いたら更に興味ある事実が発見できるかもしれません。
そこで子規さんにあやかって一句
 (地球温暖化)
「山あって砂漠海あって砂漠哉   子規もどき」  道後関所番
(追って)
4月末比叡山の若葉を愛でてきました。足が悪くなったので八瀬比叡山口からの登山は断念してケーブルとロープウエイで山頂まで上り、東塔・西塔・横川を半日かけて散策(山策)しました。琵琶湖がよく見え「湖<うみ>あって若葉湖あって若葉哉」の風情でした。子規さんを偲んで「目には青葉山時鳥初鰹  素堂」で軽く一杯やりましょうか。
平成20年6月  「五月雨は人の涙と思ふべし  子規」
 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成20年6月の子規さんの句は「五月雨は人の涙と思ふべし  子規」 です。季語は(五月雨/夏)です。『寒山落木 巻五 明治二十九年』(「子規全集」A479頁)に記載されています。
 この句には「海嘯惨澹(かいしょうさんたん)」という題がついています。広辞苑の説明では「【海嘯】満潮が河川を遡る際に、前面が垂直の壁となって、激しく波立ちながら進行する現象。潮津波。【惨澹】いたましく悲しいさま。見るも無残なさま】」です。歴史的な事実としては、明治29年(1896)6月15日に三陸沖地震が発生、大津波が沿岸部を襲い死者は2万数千余りに達しました。その日は陰暦の5月5日に当たります。子規は同時に次の句を残している。題 海嘯三陸の民を害す  「皐月寒し生き残りたるも涙にて」と詠んでいる。
 二句を同時に鑑賞すると子規さんの明治三陸地震津波に寄せる思いの激しさ、強さが伝わってきます。明治以降の日本最大の地震・津波被害で気象庁の公式記録では死者は2万1959人の多きを数えます。梅雨寒の雨が降りしきる中、生き残った人にとっても、肉親を失い阿鼻叫喚のまさに地獄絵だったろうと思います。この雨は生き残った人の涙、死者にとっての無念の涙、そして子規さんを含めて日本人すべての哀悼の涙に他ならなかったのでしょう。この句は新聞「日本」の6月29日号に掲載されました。同時代の人は、この地震津波から半月しか経過していませんから、この句を通して改めて地震津波のことを考えたことでしょう。
 そして今日只今のわれわれは、グローバルにこの句を味わっている。5月2・3日にミャンマー南部を襲ったサイクロン「ナルギス」はサイクロン被害のみならず全土に及ぶ大洪水で更なる被害を生み、12日には中国 四川省の成都の近郊を震源とする大地震により史上最大規模の人命被害を出している。いまや両国に対して国際的な支援が始まったばかりであり、句の鑑賞は不謹慎でもあり差し控えさして頂こう。ご容赦願いたい。
 この句を「子規さんの今月句」として提供していただいた子規記念博物館関係者に敬意を表しておきたい。子規さんの句が110余年を経ても、「今日の句」として我々の胸を打つ俳句のエネルギーを再確認させていただいた。
 そこで子規さんにあやかって一句
 (地球惨澹)
「皐月晴人の涙よ乾くべし  子規もどき」  道後関所番
(参考) 三陸沖は地震の多発地帯であり、主要な地震を列挙する。
@ 貞観三陸地震:869年7月13日発生。マグニチュード8.6〜9.0は日本史上最大のマグニチュードと推測。死者約1,000人。
A 慶長三陸地震:1611年12月2日発生。マグニチュードは8.1。死者2000〜5000人。
B 明治三陸地震:1896年6月15日発生。大津波が発生、死者2万1915名・行方不明者44名。綾里湾では津波の最大波高38.2mを記録。
C 昭和三陸地震:1933年3月3日発生。津波により甚大な被害が出た。
死者1522名、行方不明者1542名、負傷者1万2053名、家屋全壊7009戸、流出4885戸、浸水4147戸、焼失294戸。
D 平成三陸沖地震:2005年11月15日発声。マグニチュードは7.1。岩手県大船渡市で最大50cmの津波を記録。
平成20年7月 念仏や蚊にさされたる足の裏  子規
 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成20年7月の子規さんの句は「念仏や蚊にさされたる足の裏  子規」です。季語は(蚊/夏)です。『俳句稿 明治三十年 夏』(「子規全集」B57頁)に記載されています。 原句は「念仏や蚊にさゝれたる足の裏」です。
 この句には誰しも子供時代の記憶がよみがえるのではないでしょうか。面の皮よりも足の裏の方が厚くて神経も鈍いと思うのですが、結構痛かった記憶があります。お盆の棚経でお寺さんの全く意味不明のお経を聞きながら、早く終わってスイカを食べたい、蝉取りに出掛けたいと思ったものでした。特に「念仏」「蚊」「足の裏」の取り合わせはまさに妙である。一休さんのマンガに出てきそうな一コマである。
 ところで30歳になった子規さんにとってのこのシーンは少年時代に祖母や母に連れられて「念仏講」に出掛けた時の記憶ではあるまいか。松山ではすっかり廃れてしまった盆行事であるが、浄土宗の寺院の大広間に檀家が集まり車座になって数珠の大きな輪を回しながら「南無阿弥陀仏」を唱和する。その昔は夜を徹して百万遍となえたのだろうが、いまは1〜2時間が普通である。僕も松山に帰省してから、この行事に参加した。全員の唱和に溶け込んで無我の境地になる。大念仏が終わった後で、我に返って足の裏にさされた蚊に気付く。お盆中は「不殺生」であるから、蚊をそっと逃がしてやる。厳格な家庭であったから、やんちゃの子規さんも、祖母や母の前では戒律を守ったのだろうか。
 子規庵で机に向かった子規さんに蚊が寄ってきた。ぴしゃりと叩いたと同時に、一瞬このシーンが浮かんだのではないかと、蚊取り線香をくべてワープロを叩いている僕は思った次第である。
そこで子規さんにあやかって一句
「念仏や蚊も寄りつかぬへちま足  子規もどき」  道後関所番
平成20年8月 一さじのアイスクリムや蘇る 子規
 子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成20年8月の子規さんの句は「一さじのアイスクリムや蘇る 子規」です。季語は(アイスクリーム(夏菓)/夏)です。『俳句稿拾遺 明治三十二年』(「子規全集」B571頁)に記載されています。元句は「一匕のアイスクリムや蘇る」です。 初出句は、明治32年8月23日付高浜清(虚子)宛の書簡です。(「子規全集」B571頁)
明治32年8月23日、珍しく体調が良く、3月以来5ヶ月振りの外出で、神田猿楽町に住む高浜虚子宅を訪れようと人力車で出掛ける。虚子と娘は写真を撮りに出掛けて留守。やがて戻ってくる。アイスクリーム、ベルモットが出て、西洋料理の宴となる。飄亭、雄美も参加し、歌、小説から松山の獅子舞のことまで談笑が尽きない。駿河台、御茶の水、池の端、上野を通って帰宅となる。
虚子宛の礼状が残っているので紹介します。
マーチャンに托す
今日は西洋料理難有候
生憎昼飯を早くくひしために晩飯に頂戴致候処二皿より上はたべられ不申候 若し昼飯二度にたべ候はゞ四皿たべ可申か 昨年に比しても衰弱思ひ知られ候 アイスクリームは近日の好味早速貪り申候
     一匕のアイスクリムや蘇る    [三補]
     持ち来るアイスクリムや簟    [三補]
(注) マーチャンは虚子の長女「真砂子」  
簟は「たかむしろ」と読むか。アイスクリムを入れた竹篭であろう。
アイスクリームが東京で普及するのは明治32年(1899)7月、東京銀座の資生堂主人、福原有信が売り出してからであり、子規にとっても感激の一味ではなかったろうか。尚、日本人でアイスクリームを始めて口にしたのは万延元年(1860)に咸臨丸で渡米した福澤諭吉ら遣米使節団一行であるとされている。
この句の背景を知ることによって、子規さんの蘇った「詩と真実」が何かをお分かり頂けたかと思います。それにしても、明治32年当時に突然来訪してアイスクリーム、ベルモット、西洋料理の接待が出来た30歳前の虚子の家庭の水準の高さに驚いた次第である。
個人的な体験であるが、年数回の上京時に年一度は上野の神保町に降りて、岩波ホールから馴染みの古書店数店に顔を出し「藪」で休憩。駿河台、御茶の水、池の端、不忍池を通って博物館か上野公園を回遊。夜は浅草で「どぜう」か「とんかつ」を食べて寄席で楽しむことが多い。子規さんの世界の追体験をしているようでもある。東京にお住まいの松山人の方には、子規さんの東京の足跡を通して故里を思い出して頂きたいものである。
松山で始めてアイスクリームを口にしたのは、昭和21年春からである。開店したばかりの大街道の「ロンドン屋」に道後から自転車でアイスクリームを買いに出掛けるのが小学生の僕の勤めであった。肝臓ガンを患った祖母の口に合う数少ない味覚だった。おいしそうに食べては、残りを分けてもらった記憶が鮮明である。
そこで子規さんにあやかって一句
「一杯の道後麦酒や蘇る 子規もどき」  
松山東高同期会のご同輩、「EAST29」の昨今の低調ぶりを嘆いているひとりです。今月の句は馴染みやすい、結構作りやすい(真似やすい)子規さんの句です。いかがですか、「子規もどきの句」をつくって「EAST29」に披露されませんか。「子規払い」、いや「暑気払い」になりますよ、いやはや。  道後関所番
【那須の宗匠から】
お暑うございます。 涼しい那須も今日は蒸し暑く日中は30度近くなったのではないでしょうか。18時現在で23℃と凌ぎやすくなりました。
明治中期にアイスクリームを食するとは子規さんはお洒落な生活をしていたのですね。
売り出されたのが7月で、食したのが8月 子規も虚子も流行に敏感だったのでしょうね。尤も敏感な感性が無ければ俳句を完成させることは出来なかったでしょう。
しかし それにしても「大街道のロンドンや・・・」とは懐かしい。氷金時・宇治金時美味しかったですねえあんな美味しい物はありませんでした。10歳年下の弟が廻らない口で「ホッカイドウノドンドンヤ・・・」と云っていたのを思い出しました。今でも「大街道のロンドン屋」は健在なのでしょうか?
  一さじのアイスクリーム零すなよ  〜てんこ盛りの氷金時を想い起しながら〜那須のイヤシンボ
【道後関所番から】
「一さじのアイスクリーム零すなよ」  那須の宗匠の名句拝見しました。<こぼすなよ>と読むのでしょうか。
明治の「伊予の山猿」たちは流行、いや食ファッションに敏感だったのですね。平成の山猿も見習うべきでしょうが、これほど物価が高くなると、食ファッションも「ご飯と漬物・梅干」に戻るのでしょか、いやはや。
「大街道のロンドン屋」は僕が帰郷した時はありましたが、5年ほど前に閉店しました。今、元の場所に「ビッグ ベン」なるビヤホールレストランがあります。ロンドン→ビッグベンですから、資本的には同じ経営者かもしれません。この間の事情をご存知の方は是非お知らせいただきたいものです。
「倫敦は遠しロンドン屋のアイスクリム   漱石もどき」

ところで、こんなホームページをご存知ですか。県外の方も、地元の方も、是非ご覧頂いて薀蓄を傾けられてはいかがですか。ところで道後関所番は如何なる仮面で登場していたかは詮索しないでいただきたい。
【懐古】昔の愛媛はこうじゃった 第一幕 http://machibbs.net/~tyousan/1106573335.html
平成20年9月 枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル 子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成20年9月の子規さんの句は「枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル 子規」です。季語は(枝豆/秋)です。『仰臥漫録』明治三十四年九月十三日付(「子規全集」J411〜415頁)に記載されています。
死の一年前の九月の句です。茹でた枝豆の鞘を摘まむとぽんと弾いて口に入る。勢いよく(三寸)飛んで口に入るのは味覚と視覚を楽しませてくれる。面白くて堪らない食いしん坊の子規さんの病臥の姿が浮かんでくるもっとも今どきの枝豆には冷凍輸入物は多いから、三寸は無理で口元でといったビヤホールの風情かもしれない。
この日は珍しく体調が良かったのか、枝豆の句を十二句詠んでいる・
 枝豆ヤ病ノ牀ノ昼永シ
 枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル
 (枝豆ヤ盆ニ載セタル枝ナガラ)・・・抹消句
 学校ニ行カズ枝豆売ル子カナ
 枝豆ノ月ヨリ先ニ老イニケリ
 枝豆ノツマメバハヂク仕掛カナ
 名月ノ豆盗人ヲ照シケリ
 枝豆ノカラ棄テニ出ル月夜カナ
 芋ヲ喰ハヌ枝豆好ノ上戸カナ
 芋アリ豆アリ女房ニ酒ヲネダリケリ
 名月ヤ枝豆ノ林酒ノ池
 枝豆ヤ俳句ノ才子曹子建   (注)曹子建不明。ご教示下さい。
 枝豆ヤ月ハ糸瓜ノ棚ニ在リ 
更に興に乗ってか、戯れ歌を作っている
       俚歌ニ擬ス
 枝豆 枝豆 ヨクハヂク枝豆 プイト飛ンデ 三万里
 月ノ兎ノ目ニアテタ 目ツカチ兎
 ヨクハヂク枝豆 十三夜ノオ月様 
枝豆は旧暦8月15日の仲秋の名月にお供えするので「月見豆」とも云うらしい。「枝豆ヤ盆ニ載セタル枝ナガラ」は抹消句としたが、十三夜にひっかけて十三句作ったと思われる。名月の宴を友と、家族で開かれてはいかがでしょうか。僕は子規会の井手康夫会長はじめ有志と毎年石手川で名月観月ならず銘酒酩酊しています。「名月ヤ枝豆ノ林酒ノ池  子規」の実践です。いやはや。
そこで子規さんにあやかって一句
「枝豆ヤ三寸飛ンデ目ニ入ル 子規もどき」  お粗末句です。道後関所番
平成20年10月 「秋の蚊のよろよろと来て人を刺す  子規」
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成20年10月の子規さんの句は「秋の蚊のよろよろと来て人を刺す 子規」です。季語は(秋の蚊/秋)です。『仰臥漫録』明治三十四年九月二十日付(「子規全集」J429頁)と『俳句稿以後』(「子規全集」B426頁)に記載されています。
先月(20年8月度句「枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル」)と同じく死の一年前の九月の句です。鑑賞の余地がないほどの完璧な写生句そのものですが、死の床に伏した子規さんの姿をイメージすると、程なく生を絶つことが運命付けられている「秋の蚊」がよろよろと歩く姿を見て子規は自分の運命と重ね合わしたのでしょうか。自分の膚に針を刺している「秋の蚊」を殺すこともなく眺めて、飛び立つのを待っていたように僕には思われるのです。
この日、「秋の蚊」など秋の句を五句詠んでいます。
病人の息たえたえに秋の蚊帳
病室に蚊帳の寒さや蚊の名残
秋の蚊の源左衛門(伊庭想太郎ヵ)と名乗けり
秋の蚊のよろよろと来て人を刺す
残る蚊や飄々として飛んで来る
当時の東京市全体ではないのでしょうが、根岸あたりでは九月下旬でも蚊帳を吊っていたことを知りました。秋の蚊も「よろよろした蚊」や「飄々とした蚊」も飛んでいるとはまさに俳諧の滑稽さを感じます。
伊庭想太郎は、明治34年(1901年)、政治家・星亨を暗殺して無期徒刑となり、獄中で病死したテロリストですが、徳川育英会幹事、東京農学校校長、日本貯蓄銀行頭取などを歴任した一廉の人物でした。「源左衛門」の横に小さく「伊庭想太郎ヵ」と書かれているのは、蚊が伊庭想太郎のような刺客として自分を刺しにきたと読者に発信したのは、ジャーナリスト正岡子規の面目躍如たるものがある。まさに歴史的な「伊庭想太郎蚊」ですなあ。いやはや。
そこで子規さんにあやかって一句
「台風のよろよろと来て雨残す    子規もどき」 
お蔭様で秋祭り前々日は終日の雨で、松山の水飢饉は一応解消し、伊佐爾波神社の8台の神輿の鉢合わせも今朝(10月7日)無事終了しました。ご心配をお掛けしましたなあ。 道後関所番
平成20年11月 宿とりて淋しき宵や柿を食ふ  子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成20年11月の子規さんの句は「宿とりて淋しき宵や柿を食ふ 子規」です。季語は(柿/秋)です。『俳句稿』明治三十二年 秋(「子規全集」B287ページに記載されています。尚、雑誌『世界之日本』32年7月に掲載されていますが、「宿とりさひしき宵や柿を食ふ」になっています。
とここまで書いて、「おやおや、この句は過去に『子規さんの今月句(懸垂幕)』で発表された俳句ではないか」と思い、調べてみたら平成18年9月の発表句でした。子規記念博物館に同じ俳句を掲げていることを連絡しましたガ、なんと子規記念博物館の関係者はどなたも気付かなかった由です。「俳句王国 伊予松山」の名が廃れます。天野祐吉名誉館長しっかりしてくださいな。
というわけで、申し訳ありませんが2年前の9月に掲示した鑑賞を再掲させていただきます。事情ご賢察の上、ご寛恕下さい。
「子規記念博物館」天野祐吉館長推奨の平成18年9月の子規さんの句は 「宿取りて淋しき宵や柿を喰ふ  子規」です。
明治32年の「俳句稿」に載っているのですが、当時は脊椎カリエスが悪化して寝返りもままならなかった筈ですから、病床で元気だった当時の旅の記憶を思い出して作った一句でしょうか。とすると「子規、柿、旅」のキーワードから「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺  子規」を誰しも思い浮かべます。特に松山人にとっては、明治28年愚陀仏庵で五十二日間漱石とともに過ごし、漱石から借金して帰京の途中に立ち寄った古都奈良が子規さんにとっての最後の旅であり、最後の宿でもありました。
松山での俳句仲間とも別れ旅先の宿で奈良名産の柿を食べながら夜を過ごしている。静か過ぎる宿でもあり、寂しさを紛らわすことも出来ない。せめて好物の柿を喰らって秋の一夜を送ることにしようかという句意でしょうか。
(注)子規の宿泊した旅籠は、名門旅館「対山楼」で「かどや」とか「角定」とも呼ばれる一級旅館である。山岡鉄舟が「対山楼」と命名し、新政府高官やフェノロサや天心も泊まっている。「奈良角定にて  大仏の足もとに寝る夜寒かな 子規」の句がある。宿泊代は高かったのだろうか、借りた金は費やしてしまったと漱石に報告している。

子規さんの明治32年の句には驚くほど柿を詠んでいます。
○句を閲すラムプの下や柿二つ
自ら自らの手を写して     ◎樽柿を握るところを写生哉
○大なるやはらかき柿を好みたり
○我好(スキ)の柿をくはれぬ病哉
○柿店に馬繋ぎたる騎兵哉
○渋柿の木蔭に遊ぶ童哉
○風呂敷をほどけば柿のころげゝり
○柿を入れし帽子小脇にかゝへけり
○停車場に柿売る柿の名所かな
○酔さめや戸棚を探る柿二つ
○干柿や湯殿のうしろ納屋の前
○初なりの柿を仏にそなへけり


(胃病八句より)
○胃を病で柿をくほれぬいさめ哉
○側に柿くふ人を怨みけり
◎柿もくはて随問随答を草しけり
○柿あまたくひたるよりの病哉
○柿くはぬ病に柿をもらひけり
○柿くはぬ腹にまぐろのうまき哉
○癒えんとし柿くはれぬそ小淋しき  

(注)◎は高浜虚子選「子規句集」掲載の句です。

なんという柿好き、なんという食欲さ、なんという無邪気さ・・・「俳聖子規」ではなく松山人にとっては「食いしんぼの子規さん」以外の何者でもありませんね。あと一ヶ月もすれば柿を口にするのでしょうか。お気に入りの子規さんの柿の一句を是非お仲間にご披露してくださいな。

子規さんにあやかって一句     
「をととひの熟せし柿も喰わざりし」   子規もどき」
子規さんの死が十月だったら辞世の句は糸瓜でなく柿になっていたのでしょうか。いやはや。道後関所番
そこで子規さんにあやかって一句
 おととしと同じ宿屋や柿を食ふ  子規もどき」  子規さん、御免なさい。2年前の柿を食わせてしまいました。いやはや。道後関所番
平成20年12月 片側は冬木になりぬ町はつれ   子規
子規記念博物館(名誉館長 天野祐吉氏)選句の平成20年12月の子規さんの句は「片側は冬木になりぬ町はつれ 子規」です。季語は(冬木/冬)です
新聞『日本』明治二十九年一月十三日付「三・即景体」(「子規全集」C417頁)と『寒山落木』(「子規全集」A619頁)に記載されています。発表された 明治29年1月といえば、秋山真之や夏目漱石、森鴎外も根岸の子規庵に顔を出した華やかな年始でした。2月にはカリエスと分かり手術を受けるので、まさにうたかたの華やいだ新春であったのかもしれない。
(注)「三・即景体」は新聞『日本』に1月7日から4月21日まで断続的に「俳句二十四体」として連載された俳論俳話中、第三話「即景体」のことです。因みに真率体・即興体・即景体・音調体・擬人体・広大体・雄荘体・勁抜体・雅樸体・艶麗体・繊細体・滑稽体・奇警体・妖怪体・祝賀体・悲傷体・流暢体・佶(人偏+告)屈体・天然体・人事体・主観体・客観体・絵画体・神韻体の二十四体に子規は俳句を分類している。研究者や実作者にとっては大いに参考になる俳論ではないかと思います。
明治期の武蔵野の光景を想像してみる。町並みを通り抜けると、人家もまばらになってくる。武蔵野を吹き荒ぶ木枯らし除けなのだろうか、道の片側の木々だけが冬木になって突っ立っている。道行く人の跡絶えた寒々とした光景が重なって見えてくる。子規自らの解説によると、自然を「天然的客観的」にとらえた句で「即興体に比すれば静止の方に傾けり」としている。
南国に住まいする者としては疑問も残る。冬木は落葉樹なのか常緑樹なのか、片側だけの冬木とは、もう一方の片側は住居なのか、広場なのか、土手か川なのか。更に冬木は並木なのか、一本だけなのか。英訳俳句によれば「a tree is already bare /on one side / the outskirts of town」で単数(a tree)である。芭蕉の「古池や蛙とびこむ水の音」と同様に一本の冬木と捉えた方が、俳句的虚構としては寂寞とした冬の景になるのではないかと愚考する次第である。
もっとも子規は同時に六句「冬木」の句を詠んでいる。どうも「天然的客観的」には「あちらこちらに」に「ぼくぼくと」と「ニ三本」ずつ立っていたらしい。
ニ三本冬木とりまく泉哉
片側は冬木になりぬ町はずれ 
田の畦のあちらこちらに冬木哉
瘠村に行列とまる冬木かな
古道に馬も通らぬ冬木哉
ぼくぼくと冬の木並ぶ冬木哉
そこで子規さんにあやかって一句
「(子規、漱石も訪ねし時宗・宝厳寺参道に佇んで) 北側は冬木になりぬ松ヶ枝町    子規もどき」 
子規宗匠、この句は真率体・即興体・即景体のうち、どの分類に該当するのでしょうか。いずれにも該当せず「滑稽体」なのでしょうか。いやはや。
お蔭様で、ことしも「道後発子規さんの句」を毎月ご披露できました。子規記念博物館の竹田美喜館長はじめ全国の子規フアン、俳句フアンの方々から、ご支援、ご高評を頂き有難うございました。よき新年をお迎えになりますように念じております。来年度も引き続き宜しくお願い致します。   道後関所番
【那須の宗匠から】
「片側は冬木になりぬ・・・」とはどの様な風景なのでしょうか?立ち木が片側だけと云うのはなんとなくしっくりしません。やはり並木は道の両側が自然に感じます。私には冬木は一本木でなく並木と思えるのですが如何でしょう。でも並木では句の意味がおかしくなりますね。
「天然的客観的」、「即興体に比すれば・・・・・」解説は難しすぎます。矢張り子規は「天才」だと思います。木立で記憶にある句は松山記念切手シートにあった「汽車道の 一すじ長し 冬木立」です。この冬木立は一本木のように受け止めていましたが迷いが出ています。
【てまり宗匠から】
俳句は素人の私の描いたイメージは二つ。
一つは新立橋あたりの石手川岸の風景。冬木を落葉樹と勝手に決めての話だけど、南側の川岸に落葉した榎が並んでいます。子どもの頃に新立から西の和泉へ買い出しに行ったこの川沿いの道に松並木があったような記憶があります。残念ながら空襲が怖くてもう片側は記憶にありません。
もう一つは汽車から眺めた見奈良から横河原の風景。線路の片側にずっと続いたクヌギ林は今はほんの少ししかないけど。田んぼの中に点在する広い農家が北西は風を防ぐために常緑樹を植えて、南東は日当たりを良くするために柿なんか植えている風景。
【道後関所番から】
てまり宗匠ご指摘の二つの光景を目に浮かべますと、向井潤吉画伯の藁葺き屋根の民家と静まりかえった村々や防風林の画が同時に浮かんできました。
子規さんの【片側は冬木になりぬ町はずれ】の句には、心象風景を浮かび上がらせるだけの「俳句力」があったんだなあとつくづく感じました。見奈良から横河原あたりも、松山市のベッドタウン化して「明治は遠くなりにけり」いや「昭和も遠くなりにけり」になってしまったんでしょうね。
【月見の宗匠から】
「片側は冬木になりぬ・・・」の三者三様の解釈やイメージ楽しく読まさせて頂きました。 立ち木が一本か並木かで解釈も分かれてくるし風景は勿論違ってくる。 そこで私は次のようなもう一つの風景をイメージしてみました。
今でも武蔵野の風景であったろうと思われる農家の防風林的役割のケヤキの木が並んでいるのを五日市街道沿いによく見ます。 それは各戸一本だったり二本だったり或いは五六本だったり色々です。 ケヤキのような落葉樹もあれば樫の木の様な常緑樹もあります。
前置きが長くなりましたが 例えば町外れに一本と二本が向かい合っている場合や二本が並んで立っていた場合に何れも「片側は・・・」と表現できるのではないだろうかこんな風景は今でも飛び飛びに見ることが出来ます。 勝手な解釈でちょっと的を外しているかも知れません。
【道後関所番から】
五日市街道・・・残念ながら土地勘がありませんが、まだまだ武蔵野の風情が残っているんですね。(五日市というと、四国では広島の五日市は身近な町なのですが・・・) 「片側」の捉え方は斬新ですなあ。
関東と四国では「冬木」のイメージが随分違いますから、子規さんも興のおもむくままに、冬木六句を作ったのでしょうか。またひとつ話題が増えました。今後とも俳句エッセイを宜しくお願いします。