第三章 道後・南北朝時代之記憶 @〜E
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 南北朝時代の伊予と云えば当然河野一族の栄枯盛衰から記述すべきであろうが、『三好家文書』から始める我が儘をお許し願いたい。
 三好家伝来の古文書は南北朝時代からであり、東京大学史料編纂所影写本として保存されている。三好家では明治初年まで新田義貞発状と認識していた由だが、公家側の文書で確定した。明治二七年四月三好観次郎の記録があるので記載しておく。


 右新田義貞公之御書ト云ト伝エ秘蔵ス、然ルニ明治二一年四月編輯局長従五位重野安繹氏古文書閲トシテ全国巡回、古文書持来之義郡長ヨリ達有リ。  然ルニ此御書新田公之御書ニ非ズ、左中将四条喬定公之御書珎蔵品大切ニ秘蔵スベシ、然ルニ東京表迄借用致度證券可渡旨申聞ラル、且又系図所有尋有リ、是又持来、昔(青)巻ト中古巻(写)ト両巻ヲ出ス、昔巻一見セラレ実正ノ系図ト見ユ、借用申聞有レ・・(以下略)
 『大平記』の記述を参考にしながら、道後郷の小さな南北朝時代の抗争を描きたい。  
A
伊予の中世は越智・河野氏により支配されるが、承久の変(1221)で河野氏は通信以下一族の大部分が宮方につき伊予の支配権を一挙に失った。僅かに通信の庶子通久が鎌倉方についたに過ぎない。元寇の役(1281)での通久の孫通有の奮戦により河野氏の伊予支配が奇蹟的に復活する。

道後郷三好氏も宮方につき一旦歴史から消えるが、河野氏の復活とともに甦ってくる。居城跡と伝えられる湯之山食場付近には『大平記』の残滓が伝承として又地名として残っている。宮方の残党がひっそりと住み続けたのかもしれぬ。四国・九州の奥深い山地に残る平家伝説の様に・・・・後の建武年間(1334〜1338)に通有の孫に当たる通盛が道後湯築城を本拠とするが、「予陽河野家譜」からこの時代の河野家の系図を紹介しておきたい。尚「湯築」とは「湯付き」であり温泉に囲まれた城郭であったのかもしれない。

B
 『大平記』は著名な南北朝時代六〇年(1336〜1392)の軍記物語で四〇巻からなり応安(1368〜1375) の頃完成、作者は小島法師説が最有力である。伊予に関しては巻二二の『脇屋義助の伊予下向』と巻二三の『大森彦一と楠木正成の亡霊』が詳しい。  河野通盛(元寇の役で著名な通有の子)が貞和六年(1350)に室町幕府から伊予の領職に任ぜられ武家の拠点として伊予を固めようとした。一方宮方(南朝)には忽那義範がつき忽那島に後醍醐天皇の皇子懐良親王が下向した。次いで新田義貞の弟脇屋義助が伊予に下向して国分寺(今治)に入るが、二十日余りで病死する。その後讃岐の細川軍の攻撃を受け伊予守護大館氏明が戦死、宮方(南朝)の多くは戦死して以後伊予は武家方(北朝)の支配に入り、河野氏の支配体制が確立していく。        

ところで三好氏の去就であるが、阿波三好氏がその後足利幕府を牛耳る一大勢力を築いたことからみても、河野氏と共に武家方であったとも考えられるが、一方『大平記』『芳闕嵐史』では新田義貞の子義宗、脇屋義助の子義貞が湯之山(食場周辺)に隠れ、その後病没したとの記述があり、この地は道後郷三好氏の所領地だけに前述@軍令状からみても宮方か或いは宮方に認知された地方豪族であったのかもしれない。残念ながら現存の古文書では確かめられない。現地の伝承から「記憶」を甦らせたい 
C
 湯之山の藤野々に永徳山河野院円福寺があり、聖観音菩薩を祭る。 『二名集』に拠れば「(新田)義宗、(脇屋)義治卒於此地。奥之城主入道了雲、為二氏菩提。円福精舎興。為香資附日浦保別名地矣」とあり三好長門守の寄付状が記されている。 「奉寄進、観音御宝前、温泉郡湯之山内、藤野郷、円福寺林之事、合肆林在所者、寺裏山中東水落際西者谷口畝筋境而山上迄境之内也。右依御寄進之意趣者天長地久御願円満即武運長久但至難公事者永不可有国家沙汰者仍為後共降状如件、永禄八乙年(一五六五)三月十五日、三好長門守秀吉判」。 寺縁起では清和天皇代(八五八〜八七五)に釈安慧により堂塔を建立したとのことであるが本堂は元享三年(一三二三)九月再建された。同寺には新田義宗(義貞の子)、脇屋義治(義助の子)の位牌と過去帳があり、二人の墳墓がある。

近くの食場にある弥勒寺が天長五年(八二八)冬に定額寺になっているので寺縁起と時代的には矛盾しない。「天長五年冬伊予国弥勒寺預定額寺、同七年・辰以伊予国温泉郡定額寺為天台別院」(『類聚国史』)とあり、天台定額寺としては全国的にも早い時期に建立されている。最澄に重用された別当大師光定が、湯之山近くの菅沢出身と推定されており湯之山周辺には今日でも天台寺院が多く残っている。 
D
 漱石が松山中学校の教師時代に湯之山の南北朝の道を歩いている。明治二十八年十二月十四日付「正岡子規へ送りたる句稿その八」より抜粋する。
円福寺新田義宗脇屋義治公の遺物を観る 二句
つめたくも南蛮鉄の具足哉
山寺に太刀を頂く時雨哉
日浦山二公の墓に謁す 二句
塚一つ大根畑の広さ哉
応永の昔しなりけり塚の霜
湧ガ淵三好秀保大蛇を斬るところ 一句
蛇を斬った岩と聞けば淵寒し
荒正人著「漱石研究年表」を繙くに、十一月三日雨を冒して白猪唐岬に瀑を観た疲れが出て病気になった。同月十三日付の子規宛の句稿その六に「二十九年骨に徹する秋や此風」「我病めり山茶花活けよ枕元」とあり、同月二十二日付その七で六十九句送っている。病床の徒然に句を詠んだのであろうか。だとすると湯之山の五句は十二月上旬の吟行で生まれたものだろう。残念ながら誰が同行したかは不明である。尚十二月二十五日に上京し、二十八日には中根鏡と虎の門の貴族院書記官長官舎の二階で見合いし婚約が成立している
E
 子規の「春や昔十五万石の城下かな」で知られる松山城(勝山)だが、室町時代迄は味酒(みさけ)山と呼ばれた。南北朝時代に味酒山は宮方(吉野朝廷側)が占拠し、湯築城(道後山)主であった武家方(河野通盛)との間に戦闘があった。河野家文書に拠ると宮方は味酒山の外に湯並城(双海町上灘)・奈古居城〔名越城〕(川内町)を結んで湯築城に対抗していた。                 

先述した三吉卿法眼館宛の『為与州名越城後楯、令発向、浦々津々可致合戦思食状如件 十月八日 左中将〔四条喬定〕(花押)』は湯築城包囲作戦として湯之山菊ケ森城(三好氏)に加勢を頼んだと考えられる。湯築城の西に味酒山、南に名越城、東に菊ケ森城が位置している。宮方の決定的敗北後、菊ケ森城(三好氏)を頼って宮方の武将が湯之山に流れ込んだことから、新田義貞の子義宗、脇屋義助の子義貞の悲劇ドラマが生まれた。         

足利尊氏の覇権確立に伴い道後平野は河野氏により統一され、三好氏も本領安堵され河野家滅亡迄配下の武将として運命を共にすることになる。南北朝の戦乱は地方にあっては大義名分はなく所詮は土地の争奪戦ではなかったのか。宮方であった三好(三吉)氏が心ならずも武家方の河野氏の配下となるが「宮方としての記憶」を社寺と墓石に残したのではあるまいか。 
(注)
食場三好(三吉)家は江戸時代松山藩(松平・久松家)治下温泉郡大庄屋格として3百年存続する。旧里正として道後郷三好四家は食場村・高野村・道後村・持田村で維新を迎えることになる。旦那寺は河野家の菩提寺である曹洞宗龍穏寺(江戸時代初期に道後から現松山市山越に移転、昭和中期に廃寺となる)であり、墓地は食場・高野・道後に現存するが、高野三好家の墓地は他家の蜜柑畑に苔むした侭である。由緒ある墓地なのでせめて墓地まで通行できる様に期待したい。