第二十章 道後村庄屋催事記
 筆者も古希を迎えたので記憶に残る催事を記録に留めておきたい。資料は明治十三年九月改之『年中行事録』であり、江戸期の催事を御維新になり曽祖父が簡略化したものと推察される。残念ながら江戸期の催事の記録はないが、冠婚葬祭については幕末に遡ることが出来るので後述することにする。 
 献立内容については全く無知なので、初歩的な誤記する場合もあるので、ご指摘を頂き都度訂正していきたい。従って、本記録が完結までは「作業中」として内容の誤記は御寛恕いただきたい。
1 年中催事
(1) 新一月(新暦正月)催事
 旧暦は明治五年(1872) 12月23日に新暦(明治六年元旦)に切替えになったが、家行事としては新・旧暦併用が祖母が生存していた昭和前半迄続いた。「後家」が家事を取り仕切るのは旧家では特に珍しいことではない。
 
◇大晦日(12月31日) 
座敷床(床の間)に八ツ足(八脚で神官の具)を 置き年徳神様(その年の恵方を司る神様)を祭る。 【餅・橙・神酒・塩水】 
諸神様(脇神様で茶之間、化粧之間、竈、井戸、亭池、鬼門筋に神棚又は神祠を安置)を祭る。
注連飾張り(門、式台、玄関、木戸口)
長屋門両側に門松を建てる。
年徳神様、諸神様に夕刻献灯。
尚 「年越し蕎麦」は昭和中期に家行事とした。
◇元旦( 1月 1日) 
雑煮 上席 【白味噌・餅・大根・芋・焼豆腐・牛蒡・焼魚】 食事場所(土間)、食事内容とも家人とは差別していた。
下席 【すまし汁・餅・大根・芋・田作】 もっとも家人でも戦前までは特に魚肉類は珍品であった。
特記 一日休業し、下女男に白飯酒肴を給す。 「女身垢穢」差別で正月中煮炊きは男衆が担当した。
結果的には、女性は正月三ヶ日の下働きを軽減されていた。
(2) 旧一月一日(旧暦正月)      
新暦に移行しても農事を中心にする村落共同体では依然旧暦中心のしきたりが残った。 
◇正月三ケ日(旧暦) 
1) 三ケ日雑煮(新暦行事同様) 
2) 元日朝祝済家族一統祝盃(年長から屠蘇を頂く)。
3) 同日蔵開キ(カワラケ、山草ヲ敷 餅壱重 田作)
4) 同日湯殿始メ。
5) 三ケ日皆休業。下女男江白飯毎夕酒肴ヲ給ス。
(注)使用人は通いが中心。ほかに農家の娘が行儀見習いで複数住み込み。食客を含めて十名程度居た。
正月四日〜七日(旧暦)
1) 四日朝年徳神様ニ神燈を献シ休メル。
(注)恵方が東西南北とすれば@東・伊佐爾波A北・天満宮<現・松山神社>B南・宇佐八幡D西・不明<調査中>となろう。神札を床の間に飾ったのか。現在は「神鏡」のみ飾る。
2) 同朝年徳神様ヲ除クノ外飾ヲ除ル。
3) 同朝大黒様江福煖ヲ備ル。
(注)現在も大黒様を飾るが「福煖」が不明。
4) 同日鍬始メ。 
5) 六日夕、七日朝ナズナズシ。ナズナ湯を暖ス。 
6) 七日早朝松葉ノ中江□□入レ家内ヲふすぶる。
(注)竈に門松の松葉などを入れ燻らした。幼児の時代の記憶では家中の襖、障子を開いて煙を通した。
7) 同朝雑煮。同日休業。下女男江白飯毎夕酒肴ヲ給ス。
(注)正月七日を以て「旧正月行事」は終了する。
(3)正月(十日〜十五日)
1)十一日飾ノ穂種子トアラ麦トヲ煎リハタキ初メ   
(注)ハタキは「畑起」か「叩き」か不明 
2)同日諸神様ニ相備ル(神酒煖 □粉)
3)同日昼雑煮  
4)同日小豆粉ヲ食ス 
5)同日アサ漬出シ始メ  
6)十四日□餅搗  餅米五斗   
(注)かきもち用(餅を板状にし乾燥してあぶり焼いて食べる)。雛祭り頃まで食べていたように記憶している。
7)同日座敷床ニ八ツ足ヲ置キ通年徳神様ヲ祭ル 
8)同日夕 献灯  
9)同日諸神様ニ相備ル(神酒 餅 田作)
10)朝祝済年徳神様ヲ休メル(片付け) 
11)同日飾ハヤシ 
(注)お飾り外し。燃やして餅焼した記憶がある。
12)十五日朝雑煮
13)同日家祈祷 前日案内 両社神官 
(注)村社伊佐爾波神社宮司(野口家)と町社湯神社宮司(烏谷家)による新春祈祷。この時の祈祷神札を長屋門中央入口に掲げた。旧里正としての格式催事が戦前まで残った。 
14)同日座敷床ニ八ツ足ヲ置キ祭ル 
15)同夕 献燈 但諸神様にも同断  
16)十五、十六両日休業 
17)十五日 下女男江白飯酒肴ヲ給ス 
(注)藪入り。使用人少なく土間ががらんとしており、正月が終わったことを実感した。母も実家に里帰りした記憶がある。
(4)旧二月 
1)朔日昼雑煮。スマシ汁、餅、青葉、田作。  (注)朔日昼雑煮は「旧二月のみ」である。
2)同日休業。下女男江白飯酒肴ヲ給ス。
3)ヒガン前日迄ニ墓掃除立花取計。(注)彼岸の立花は樒(しきみ)で「花」ではない。
4)ヒガン入・中・オメ 三度仏壇ニダンゴを備ル。但菓子等ハ貰イ合ワセヲ盛ル。 
(注)供え物は「貰イ合ワセ」であり、現在でも頂き物はすべて仏壇に供え「お下がり」を頂くことにしている。                 
5)ヒガン中 出シ物。 (餅米六斗 弐重 ツツ □□物  葉 玉子 カツヲ 干大根 ケシ ) 食場 三好 仲田 
(注)旧二月は春彼岸月で、鰹が「彼岸の出し物」である。土佐の上り鰹の水揚げは二月からであり「春彼岸の鰹」は江戸の「青葉時の初鰹」同様に高価であったと推察される。鰹節ではあるまい。     
(注)「食場三好」は湯ノ山・三好宗家。宗家の観次郎秀保と道後・文平保和は兄弟。文平は宗家からの入り婿である。「仲田家」は是保の妻サダ(文平の義母)の実家で江戸時代城下の町年寄を勤めた商家である。両家から彼岸の供養に当主が来駕した。
(5)旧三月
1)旧二月晦日 雛建 
2)朔日 餅搗(餅米 六斗)
3)晦日二日 両日は有合ニテ祭ル 
4)三日 赤飯、 膳(大根 切身/ノレン大根 ホシワラビ 焼豆腐 切コンブ クズシ 平鉢 切ズシ/クズシ 焼アナゴ 玉子 クワイ 高野豆腐、 丼鉢 アヘ物(ワキギ 瀬戸具)/モズク 生ガ/煮込(竹ノ子 肴)      
5)四日 大豆飯 、膳(赤カブ 香ノ物/ 菜 フウ クズシ)、  酒肴前日残リ物見合せ
6)五日 雛仕舞 
7)籾蒔  ヤキ米
8)諸神様へ左之通備ル  ヤキ米  神酒
9)苗代江□木ヲ立 牛王札 ヤキ米 神酒 、ヘギガツヲ  
10)、同夕下男衆江酒肴ヲ給ス 
(注)旧三月の主要行事は雛祭りと苗代づくりである。雛祭りは子孫繁栄を祈願した女祭りであり、苗代づくりは農業経営の根幹である。    
(注)「牛王札」は牛なくしては成り立たなかった農耕の象徴でもある。修験者が村々を巡回したらしい。冬季に山伏姿のいかめしい男が杖をもって農家を一軒一軒訪ねていた記憶がある。
(注)「ヤキ米」は苗代に播いて余った種籾を煎って田の水口などに供えて豊作を祈る儀式。残った「ヤキ米」は家族、出入りの者と頂戴した。食べ過ぎると腹が膨れるぞと脅かされた記憶がある。
(6)旧四月
1)十七日早苗祭之節座敷床江八ツ足ヲ置左之通祭ル   神酒一 赤飯一 小魚一 塩水 
2)同日諸神様へ左之通備ル  神酒  赤飯   
3)同日諸神様へ献灯并新提灯ヲ灯ス
4)[献立〕
吸物  肴 
平鉢 切鮓
 同  板クズシ 焼アナゴ  厚焼 高野豆腐 紅ショウガ 
 同 イリ肴  サシ身  具々
丼鉢 竹ノ子  干瓢  ◇草  蓮根  エン豆
カブ粉ガラシ漬 
酒◇ 五斗    切餅 
5)案内先 食場三好 持田三好 婚家先 実家先 合計九家 
(注)「早苗祭り」は農家にとり秋祭りに匹敵する大行事である。酒◇五斗から察するに下男衆や小作人、早乙女(?)も参加しての大酒宴ではなかったか。残念ながら幼児の頃の記憶に残っていない。
(7)旧五月 *記載なし。  
(8)旧六月 *記載なし
(9)旧七月
1)七夕節句 六日、七日毎日左之通祭ル      ダンゴ スイクワ ウリ ナスビ フロヲ     神水 神酒 □灯  
2)井戸ノ上江莚ヲ億キ左之通水神様ヲ祭ル       新酒 洗米 ヘキガツヲ  
3)同日諸神様江神酒灯ヲ献ス 
4)盆苗墓掃除立花取計   
5)十三日仏壇左之通祭ル   三重高付(菓子/まん志ゆう/モモ)  華豆(そふめん)事付(だんご)
6)聖霊棚江左之通供ル  菓子/そふめん/まん志ゆう/だんご       水ノ子(なすび/ふろう/白米)
7)十四日朝墓及門前ニテ迎火ヲタク 
8)同日 昼ダンゴ カワラケ十六並ヒ弐タ通リ   昼(白飯 アラメ アゲ)  小昼(ソヲメン ナスヒ シイタケ アゲ)   夕(白飯 カボチャ ナスビ アゲ) 
9)十五日朝 茶トウ 同日夕 送りダンゴヲ供ル
10)同日夕 墓及門前ニテ送リ火ヲタク  
11)十四十五十六三日間休業下女男江戸白飯酒肴ヲ給ス 
(注)十四日朝迎火、十五日夕送リ火で食事毎にお膳を替えて御先祖様を接待した。十四日(竜穏寺)十五日(義安寺)が棚経当番寺である。
(10)旧九月  
1)九日節句諸神様ニ左之通備ル           クリ赤飯  神酒灯    
2)同日休業下男下女江白飯酒肴ヲ給ス         但時節柄農繁之節ハ廃休 
3)廿八日家祈祷  野口伊佐爾波神社宮司案内 
4)座敷床ニ八ツ足ヲ置キ左之通祭ル      ヘギ三枚  カワラケ三 小魚一 神酒壱     白米壱升  初穂五本      
5)鎮守様左之通祭ル                 同 上  
6)右ニ付調物左之通                大幣束   壱本   小幣束   壱本     注連竹   □本   注連縄   □□
7)諸神様ニ左之通備ル  神酒灯 献立(略) 
8)十五日宇佐社祭礼座敷床江八ツ足ヲ置キ祭ル     赤飯 一  小魚 一  神酒灯     
9)同日諸神様ニ神酒灯ヲ献シ并□□灯ヲ灯ス
10)同日休業下男下女江白飯酒肴を給ス         但時節柄農繁之節ハ廃休
11)内祭リ迄ニテ案内セズ尤家族而巳ニ付酒肴□□ 見斗有合ニテ済マス    
(注)家祈祷を正月十五日と九月二十八日に実施。両日とも敷地西北隅の鎮守(小祠)で執行する。農業祭礼のひとつと考えるが詳細不明である。当家では「湯祈祷」と呼んでいるので、「道後湯之町の湯祈祷」と併せて「道後村の湯祈祷」を当家で執行したものと思う。拙宅の鎮守は300年以上経過する大楠と地震による温泉の枯渇を危惧して道後村に植えた竹藪(平地の残存しているのは拙宅のみである)の間にある。
伊佐爾波神社、湯神社の両宮司で執行する祭礼は稀有であろう。古記録にも残っていない。庄屋としての権威を象徴しているのかもしれない。大正期の父(章)の日記にも煩わしい伝統行事と記している。湯之町(行政)と対等であった旧庄屋の伝来行事は、戦後の地主制度の崩壊とともに消滅した。
(11)旧十月
1)亥ノ子        餅米供神 
2)座敷床に斗枡ヲ置き左の通祭ル         餅 壱重  大根 数本  神酒灯   小魚 
3)諸神様に左の通供ル       餅 壱重  神酒灯    
4)餅送り先     食場(本家)持田(分家) 永木 仲田  
5)お供え      十一月には龍穏寺に大根十一本、義安寺に九本贈っている。漬物用であろうか。非常に興味深い資料である。併せて「旦那寺」である龍穏寺には四  月に新麦一斗、十月に新米一斗を贈っている。別に市隠軒禅寺には白米三斗、竈祓で玄米三斗を伊佐爾波神社に納めている。神仏と収穫感謝の結びつきは深く強い。
(注)亥ノ子行事は、旧暦十月の亥の日に行われる収穫祭である。田の神が村を去っていく日であり、子供らが石に縄をつけて家々を回るのだが全く記憶にない。道後では昭和初期に廃れたのだろうか。 新米の餅搗で収穫を祝ったと思われるが村衆は参加していない。(続く)
(12)旧十二月
1)廿日   餅ツキ                    餅米弐斗 
2)廿五日  飾ノベ                    ノベ飾コシキ 小杓子飾廿 松明四本 巻ワラ壱
3)晦日   両社神官江左通送ル           白米 壱斗献備壱銭ツツ           
4)節分   諸神様江左ノ備ル             神酒灯       
5)同夕   豆うち                   大豆三合五勺 
6)同日   鬼ぐいノ木ヲ□紫ノ葉ニテ包ミウワシヲ指   シ□々出入口土蔵物置雪隠等江留メ置 
(注)○コシキは「轂」で蒸籠(せいろう)に相当する。 ○小杓子飾廿の使用先不明(手水鉢は四カ所あり)  ○松明は若水汲み、邸内数カ所の祠参拝用  ○巻ワラ壱の使途不明(雑煮用初竈に利用か)  
(注)○献備壱銭?(年越し儀礼としての壱銭か) 
(注)○鬼ぐい(鬼杭、柊)に鰯の頭を刺し玄関等の出  入口に飾っていた。明治期には土蔵、物置、雪隠 (便所)、風呂場は独立した建物であった。温泉地でもあり浴場は贅沢な造りであり近在の百姓家では皆無に近かった。        (続く) 
2 慶弔記録
家の歴史を調べるには菩提寺の過去帳をひもどくとから始まる。残念ながら没年月日が分かっても生年月日は記載されていないし、成人して実家を離れた縁故者の記録は一切ない。女の記録が伝わらない大きな要因であろう。  
当家も同様であるが幸いなことに寛政年間(1789〜1801)以降は「古歓帳」「歓帳」に生年月日が記録され現存している。主に誕生の覚書であるが「吹聴(お知らせ)」「歓見舞(御祝)」「祝宴献立」「内祝(お返し)」の明細である。大庄屋(格)の位置付けにもよるが、総領に限らず末子、女子であっても差別なく慶事として親族、町方、村方から祝 福を受けている。伊佐爾波神神社宮司や河野家ゆかりの龍穏寺・義安寺・市隠軒禅寺住持、道後温泉を藩主から委任されている明王院金子家当主からも歓見舞を受け取っており、村の長として神社寺院との親密さを裏打ちしている。更に興味があるのは「名付け親」である。いかなる人物なのか特定出来ないが、武士階級と同様に将来への担保であり、慎重に人選したに違いあるまい。結婚に当たっての「釣書」が二世代あるいは三世代にわたる「家族の肖像」を明らかにして「系図」に追記されている。「(古)歓帳」は当主の覚書であり乱筆、癖字も多く判読が難しいがなんとか取り纏めておきたい。
(1) 寛政二年(1790)九月十二日に七代の当主となる團之丞(榮次郎、諡保喜)が出生し同月十八日名付 けされた。実父は六代善次郎(平兵衛、諡長保)。長男の出生に当たり以下に届け物をしている。
@ 成川節庵  銭札八匁 祝イ壱重 
A 加藤正安   銭札二拾目 樽 肴 祝イ壱重 
B 取上げ祝儀 銭札三拾目 木綿壱反 樽 肴 祝イ壱重 
C 親元大野 樽 肴 祝イ壱重 
D 乳◇ 祝儀   銭札四匁 祝イ壱重 
E 常信寺 銭札十弐匁  
F 不詳  祝イ壱重
(注)◇は不明字。
(参考)@成川家は湯之町の旧家。医師か?A不明。代官か?B「取り上げ」は産婆であろう。C実父善次郎は久米郡水泥村字大野柴田文六次男で入婿。D乳母の実家であろう。E常信寺は松山藩主の菩提寺の一つであるが道後村の庄屋との関係は希薄である。銭札のみであり特に祝い物は用意していない。 
七夜には成川、加藤、大野家の外に温泉管理の「かぎや(鍵屋)」こと金子明王院他二家を案内している。村と町の緊密な関係を示す貴重な資料と云えよう。お慶びの頂戴物は町方、村方を通して七十四名の記載がある。庄屋の総領誕生は村にも家にも一大慶事であったことの証左だろうか。  
(2) 誕生記録は寛政二年以降残っているが婚姻について江戸時代の記録は残っていない。
祖父(寛馬)の明治三十三年春に結婚式を挙げた。四月十四日結納、二十七日挙式並びに親族・縁戚披露宴(約三十名)、二十九日地縁関係者披露宴(約二十名)。
初日・二日目は【本膳】向・平・汁・飯、吸物、 浜焼大鯛、寿司、三宝、生盛、卯之花、煮込、酢物、きんとん、大平、吸物、引物、中折詰。
三日目は、 【本膳】向・平・汁・飯、浜焼大鯛、生盛、寿司、 吸物、大平、吸物、中折詰(切寿司、口取、煮込、 □物)。
四日目は吸物、寿司、焼鯛、そふめん外である。
鯛が主役であるが、四日間豪勢な披露宴が続 く。仕出しか料理人を招いたと思うが、手伝いとし て二十六名(下男・下女は除く)の名前が記載され ている。うち女子は七名である。
婚礼道具受取人足は二十四名(内一枚は宰頭)で先様とはご城下で交代したとすると約五十人が運ん だことになる。記録では箪笥四棹(十人)、長持二 棹(六人)ハン基(四人)を割り当てている。江戸時代の婚礼は武家に遠慮したと思うが、明治期の地主クラスの婚礼は家柄による縁結びであり、商人とも違う婚礼様式であった。納戸に黒漆の箪笥が残っており、使い勝手が悪く格納している。誰の嫁入り道具かは不明である。 
(3)法事については天明三年(一八八三)十二月十六日付当家五代の「等元陳享居士」(平兵衛謚等陳)の葬儀記録から残っている。施料は龍穏寺方丈・同 寺血脈・同寺先住以下五項、次いで義安寺が六項、 宝厳寺四項、千□寺、石手寺、市穏軒ほかである。 龍穏寺、義安寺、市穏軒は曹洞宗である。宝厳寺は 時宗であり全く関係ないと判断されるが、施料を四 項喜捨しており葬儀にも参画したと判断される。大 変興味ある史料である。宝厳寺と道後村庄屋との関 係は今後の検討課題である。  
覚書には進物、御見舞控、初七日御菓子、御供物、御悔先、葬儀日程などなどが列挙されている。温泉 郡の大庄屋格であったので、東方、下林、上野、井 戸(門)、高野、食場、竹野、井戸(門)、竹原村 など現在の松山市域の村々にも伝達されている。  「過去帳」は龍穏寺と義安寺にあるが、記載内容に若干の差異がある。明治以降は龍穏寺を主、義安寺 を従として葬儀を執り行っている。尚、龍穏寺は格式のみで実体がなく隠居寺である西禅寺住持が兼任している。
法事は一周忌、三回忌、七回忌、十三回 回忌、十七回忌、二十五回忌、三十三回忌、五十回 忌、六十六回忌、百回忌(以降は五十回忌加算)。 尚、初代秀重(圓海雲龍居士)の三百五十回忌は八年後の平成二十六年(二〇二四)である。
            
3 社寺覚書  
(1)龍穏寺
旦那寺である天臨山龍穏寺は曹洞宗であり江戸時代は松山・今治・西条三藩の曹洞寺院を管轄し、寺格は「常恒会地」で四国では最高の格式を誇った。戦前の住職中野弘道師は第三十七世であった。
龍穏寺の前身は天徳寺で、天徳寺の前身は奈良朝に遡るがその由来は不詳である。延徳二年1490に道後湯月城主河野通宣が月湖契初禅師を請じて開山し菩提寺とした。通宣の実子通直に嗣子がなく豫州家の通政を嗣とするに反対し女婿の村上通康に家を譲り内乱となる。結果通政が湯月城に入り、通直は髪をおろし龍穏寺殿海岸希清大和尚となる。
戦国時代加藤家が松山藩主となり、山越に天徳寺と龍穏寺を建て天徳寺は加藤家の臨済宗妙心寺派となり、曹洞宗の龍穏寺とは完全に別れた。寺宝の河野家伝来の宝物は第二次世界大戦で寺院とともに消滅し、再建できないまま今日に至っている。 
歴代住職は当家が中心になって寺院の再建を熱望しているが残念ながら再建に必要な資力はないので廃寺になるかもしれない。境内にあった十六日桜はラフカディオ・ハ−ンの「怪談」にも登場するが今は名ばかりである。現在は住持の隠居寺であった西禅寺の住職が兼務し、当家を含めて龍穏寺の檀家の供養をしている。現西禅寺住持中野裕道師は第三十七世弘道師の甥に当たる。 
(2)義安寺
道後三好家の墓地としては確認済のものは三ヶ所である。旧食場、高野、道後村にあるが、食場と高野は旧屋敷跡近くの丘陵地に在る。無縁墓地化しても当然だが、縁者が彼岸にお参りをしている。お盆には山越の龍穏寺住職が遠路出向いて頂く。有難いことである。一説には龍穏寺の発祥は食場という。湧ガ淵の大蛇(龍)伝説、杉立山(貴船神社分社)を重ね合わせるとロマンの世界が広がる。
道後の墓地は護国山義安寺内に在る。松山・松平隠岐守の招聘(指示)で道後村に移住してから三百五十年は経過しているので「過去帳」記載は四十四名を数える。当家の墓地には不詳の墓石が十幾つ混ざっている。明治初年の曾祖父文平(保和)の記録も不明となっている。義安寺保存の「過去帳」でも判然としない。お盆には華が供えられているので縁者と思うが、深入りは避けている。
三古湯と云われるだけに道後(温泉)の歴史は古いが現存寺院は、河野家ゆかりの義安寺(曹洞宗)、市隠軒(曹洞宗/尼寺)、宝厳寺(時宗)、円満寺 (浄土宗)の四寺である。尚、明治期に廃寺となった鳥越山鷺谷大禅寺は黄檗宗である。旧石手村には四国遍路五十一番札所石手寺があるが、「宗門改め」当時は道後村は村として自己完結していた筈である。何故真言系の寺院が道後になかったのか。(続く) 
(3)市隠軒             
盆の棚経には龍穏寺(西禅寺)、義安寺の外に東照院市隠軒が来る。義安寺同様龍穏寺の末寺である。父母は「しんけんさん」でなく陰では「チャクレンジさん」と呼んでいた。物心ついてから「湯沢山茶くれん寺」という別称であることを知った。「茶くれん寺」で有名なのは太閤伝説のひとつでもある京都今出川千本の「浄土院」であるが、市隠軒のそれについては不詳である。松山藩主が絡んだ物語でもあるのだろうか。
市隠軒は湯築城西門前にある。「市」は城下の市 で「今市」なる地名が残り拙宅は今市に在る。「隠」は隠居で「軒」は庵であろう。寺伝では河野通宣の女章子が将軍足利義昭の妾となり義昭失脚後湯築城下に戻り庵を結んだという。市隠軒は元来尼寺であったが現在は関家住職が代々継承している。 
一昔前の父母の時代までは、拙宅の月命日は毎月数回あった。法事は龍穏寺、義安寺、月命日は市隠軒の担当であったので、幼少時代「しんけんさん」 は拙宅によく出入りして馴染みであったが、龍穏寺さんはおっかない畏敬の存在であった。最近では月命日も省略し、寺との付き合いはお盆と年一回程度の法事位になってしまった。布施一本だったのが、寺費・施餓鬼料・回向料・棚経料と細かく区分され寺院との付き合いが金額表示化した。  
4 庄屋の系譜(「源姓三好氏系図」)
「源姓三好氏系図」原本2巻(赤巻、青巻)は現在食場在の「三好隠居」家が所有している。本来当家が所有すべきでものであったが諸般の事情で当家を離れた。その経緯は家記に残されている。もし実兄が存命であれば次男の私が三好宗家を継承していたのだが実兄の死により宗家は断絶し今や土塀しか残っていない。
「源姓三好氏系図」の写本は明治初年に新政府に提 出され現在東京大学資料編纂所に格納されているが、影写本は同所のデ−タベ−ス検索で閲覧可能である。室町時代末期の三好長慶はじめ阿波の三好一族の研究者や氏姓の研究家に利用されている。全国の「三好会」にも情報が流れ、各地で三好家系図の比較研 究がなされている。赤巻は清和天皇−貞純親王−源経基−満仲(多田 源氏始祖)・・・長浦(小笠原家、阿波守)・・・三好義長(阿波三好荘始祖)・・・長慶・・・之家−為勝の系譜である。三好為勝(秀吉、長門守)が 食場三好家初代で菊森城城主、その子秀勝が「湧ケ淵の大蛇銃殺」の主人公である。「豫陽河野家譜」には為勝、秀勝の武人としての戦闘の活躍と伊豫の名家河野家最後の通直公に随行し安芸の竹原で俘虜となったことが記されている。
「源姓三好氏系図」原本2巻(赤巻、青巻)の写本は伊予史談会所蔵で愛媛県図書館で公開されている。手元資料は写本のコピ−と「道後三好家系図」である。道後三好家としては十二代目に当たるが男系孫が二人居るので十四代目まで家系は続くことになるので安心している。 
【初代】三好秀重(重高)
高野三好家三代目九郎右衛門秀重が高野村庄屋役を隠居後、松山藩二代藩主から道後村庄屋を申し付けられ道後村に移住する。延宝三年(1675)に没しているので略々340年前頃と考えられる。  
【二代】三好秀安(通称平兵衛)
長男小兵衛は上野村宮脇家入り婿、三男平蔵(儀兵衛)は持田村に分家、墓所は義安寺であるが、儀兵衛・妻・子の墓石は山門脇の地蔵堂に安置。食場・高野・道後・持田・上野の庄屋として松山藩の認知を受けていくことになった。
【三代】三好秀伴(通称平兵衛)
宝永四年(1707)の大地震で温泉の湧出が止まったが「湯神社再興諸日記」に「一七日勤めの内、時の代官福本平三衛門殿、鯉口伊兵衛殿、大庄屋三好平兵衛殿始其外郡方替り替りに御出成、湯之町にては明王院はじめ町人替り替り参籠」とある。温泉郡の大庄屋になったことが分かる。
【四代】三好秀行(通称平兵衛)
松山藩「増田家記」に拠れば「安永元年(1772)伊 達和泉守村賢(吉田公也) 為御入湯道後へ入らせられ御宿は同所三好平兵衛宅也」とある。又「伊予吉田藩・藤蔦延年譜」に拠れば宝歴六年(1756)加藤泰広公は20日間以上長期滞在している。松山藩は親藩であり外様大名は庄屋宅を利用したものと思われる。御成門、式台、御駕籠置石などは現在も拙宅に残っている。
【五代】三好等陳(通称平兵衛) 
天明の凶作で持田村の年貢米を供出できず庄屋を免職され天明三年(1873)自死(切腹?)。長子門蔵(保教)は桑原村庄屋として分家し、その子勇次郎 (等陳孫)が持田村庄屋を申し付けられる。
【六代】三好長保(通称善次郎、平兵衛) 
家督相続が辛うじて認められ等陳長女に久米郡水泥村庄屋柴田文六の次男を婿養子とする。柴田家との姻戚関係は現段階では不明である。天明六年(1785)「温泉郡道後村地坪御伺書」は代官山崎伊兵太殿宛に庄屋善次郎を筆頭に百姓108名の印がある。道後村111町7反5畝8歩中、庄屋役地は1町4反9畝29歩で持ち分山畑は2反1畝17歩である。松山藩では甘薯の栽培は禁止されており天明の飢饉は他藩以上に大被害を蒙った。  (続く)
【七代】保喜(通称平兵衛)  
四男四女に恵まれる。天保五年(1834)旱魃もあり 湯山村の凶作により年貢取立等の職務怠慢により宗 家に当たる庄屋伴蔵免職。保喜が「預り庄屋」となり長男源之進が跡目相続し湯山村(食場・高野)庄屋となる。次男が道後村八代目を継ぎ、三男柳平が分家本村(持田)三好家を継ぐ。石手村を除く湯山・道後・持田・味酒(一部)の庄屋として、松山藩の信頼を得て幕末を迎えることになる。土佐藩の松山藩接収に当たり、城代家老奥平家の妻女を匿い、朝敵となった藩主久松定昭公の救済嘆願書を郡大庄屋として取り纏めた。
【八代】是保(通称平次兵衛、平次平) 
文政九年(1826)生、明治十九年(1886)没。妻サダは本町の町役仲田家から嫁す。 
【九代】保和(幼名大平、通称文平)
湯山村三好家からの入り婿。妻タツ(是保三女)とは又兄妹になる。旧松山藩最後の道後村庄屋(旧里正)である。明治に入り県職員として勤務した。几帳面な性格で県辞令はすべて保存されており貴重な郷土史料となっている。長男は松山藩内の私塾に学んだが次男は京都大学、三男・四男は早稲田大学専門部に遊学させた。道後尋常小学校敷地(姫塚 現在のメルパルク・にぎたつ会館・旧武道場・テニス場)など資産を公益に提供している。 
【十代】寛馬 
保和長男で執筆者の祖父に当たる。旧庄屋の次世代は新時代に相応しい起業に夢をかけていく。湯山三好家は温泉郡大庄屋とし旧藩の証文の焦げつきで破産し、持田三好家は保徳が果樹園に巨費を投じたが四十九歳で死亡し、後継者なく破産する。幸いにも保徳が育成した「伊豫蜜柑」と「二十世紀梨」は、日本を代表する果物として残り顕彰されている。 長男寛馬は家産を守り茶道・華道を友としたが、女子教育の普及もあり県立女学校(旧城南高等女学校)の創立に加わり茶・華道を教えた。
【十一代】章  
寛馬の長男。実父(寛馬)が早逝し三歳で家督を相 続する。旧制佐賀高校当時に全国的に米騒動が勃発、急遽帰郷する。以後復学せず二十五歳で道後町議会議員当選。自らが「母子家庭」であったので、社会福祉事業に専念。戦前は隣地に県立母子寮を寄付し母子寮長として、戦時中は戦争未亡人の支援、戦後は母子寮と併せ保育園や県立保育専門学校、母子家庭学生寮の支援を行った。
 【十二代】恭治(筆者)   
六十四歳で現役引退。父祖の眠る墓地(湯山・高野・道後)と文化財的な家屋を守っている。尚、「道後三好家系図」と明治までの「三好家記」は東京大学史料編纂所と伊予史談会文庫に保存されており、所要の手続きをすれば閲覧出来る。  (完)
伊予国温泉郡道後村庄屋の系譜(「源姓三好家系図」)  平成21年(2001)8月30日記す
はじめに
 「源姓三好家系図」原本2巻(赤巻、青巻)は現在松山市湯山(食場)在の「隠居三好」家が保管している。本来当家が所有すべきでものであったが諸般の事情で当家を離れた。その経緯は「三好家記」に残されている。もし長兄俊一が存命であれば次男の私(三好恭治)が三好宗家を継承していたのだが、長兄の幼少時の死により養子縁組は解消して、結果三好宗家は断絶し今や土塀しか残っていない。
 源姓三好家系図」の写本は明治初年に明治新政府に提出され現在東京大学資料編纂所に所蔵されているが、影写本は同編纂所のデ−タベ−ス検索で閲覧可能である。室町時代末期の三好長慶はじめ阿波の三好一族の研究者や氏姓の研究家に利用されている。全国の「三好会」にも情報が流れ、各地で三好家系図の比較研究がなされている。赤巻は清和天皇−貞純親王−源経基−満仲(多田 源氏始祖)・・・長浦(小笠原家、阿波守)・・・三好義長(阿波三好荘始祖)・・・長慶・・・之家−為勝の系譜である。青巻は道後郷三好宗家初代三好為勝以下の系図であり、系図上では私(三好恭治)が十六代目に相当する。
 赤巻は清和天皇−貞純親王−源経基−満仲(多田 源氏始祖)・・・長浦(小笠原家、阿波守)・・・三好義長(阿波三好荘始祖)・・・長慶・・・之家−為勝の系譜である。青巻は道後郷三好宗家初代三好為勝以下の系図であり、系図上では私(三好恭治)が十六代目に相当する。
【阿波三好氏と道後郷三好氏の系譜】
 三好長慶から三好為勝(秀吉、長門守)にいたる系譜を「源姓三好家系図」(東京大学資料編纂所所蔵)から明示する。清和天皇から三好長慶までの系譜は割愛する。長慶の四代後に三好秀吉(長門守・為勝)が名がある。
長慶―義継(左京太夫)―政勝(下野守)―之勝(下野守→若狭守)―秀吉(長門守・為勝)―秀勝(蔵人之助)
 本家系図における政勝(下野守)の記述は不正確で信用できない。
永禄八年丑五月十九日将軍義輝ヲ討而執兵権其後同十二年巳正月十三日率軍勢入洛改義昭退本圀寺江●籠同十五日江波城帰陣ス同年二月上旬ヨリ受病苦同四月二十三日於江波城四十七歳ニ而卒
【道後郷三好氏の系譜   宗家〜道後三好家】
秀吉(長門守・為勝)―春勝(四郎右衛門尉)―定慶〈重右衛門尉〉―定勝〈九郎右衛門右衛門尉〉―秀重(九郎右衛門 重高)
 秀吉(為勝)から秀重までの五代は、湯山村(食場・高野)に居住していた。湧ヶ淵の大蛇銃殺で著名な秀吉(為勝)の子息・長勝(秀勝)には後継者がなく、秀吉(為勝)の弟に当る春勝が家督をついでいる。当主は道後三好家一二代であるので、系図上では、秀吉(長門守・為勝)から一六代、三好長慶からは二〇代目に当ることになる。
【道後三好家の系譜】
【初代】三好秀重(重高)
高野三好家三代目九郎右衛門秀重が高野村庄屋役を隠居後、松山藩三代藩主松平定長公(慶長一七年〜延宝二年<1640〜1674>)から道後村庄屋を申し付けられ道後村に移住する。延宝三年(1675)に没しているので略々340年前頃と考えられる。 
道後村庄屋任命の事由は不明であるが、寛文一三年・延宝元年(1673) 五月の洪水で石手川堤防が決壊し、ご城下並びに道後村に甚大な被害を与えた。村の復旧・復興が急務であり、湯山村(高野)庄屋で隠居していた河川治水の経験豊かな三好秀重(重高)を起用したと推察される。
この時期、三好家は、湯山郷・石手郷・桑原郷・道後郷(持田・一万を含む)の湯山川・石手川に沿う郷村の大庄屋(温泉郡大庄屋)の位置づけであった。
【二代】三好秀安(通称平兵衛)
長男小兵衛は上野村宮脇家入り婿、三男平蔵(儀兵衛)は持田村に分家、墓所は義安寺であるが、儀兵衛・妻・子の墓石は山門脇の地蔵堂に安置、村民の安産のお守りとして崇拝されている。持田村庄屋として分家が公認されたことにより、食場・高野・道後・持田村の庄屋として松山藩の認知を受けていくことになった。
【三代】三好秀伴(通称平兵衛)
宝永四年(1707)の大地震で温泉の湧出が止まったが「湯神社再興諸日記」に「一七日勤めの内、時の代官福本平三衛門殿、鯉口伊兵衛殿、大庄屋三好平兵衛殿始其外郡方替り替りに御出成、湯之町にては明王院はじめ町人替り替り参籠」とある。温泉郡の大庄屋になったことが分かる。
【四代】三好秀行(通称平兵衛)
松山藩「増田家記」に拠れば「安永元年(1772)伊達和泉守村賢(吉田公也) 為御入湯道後へ入らせられ御宿は同所三好平兵衛宅也」とある。又「伊予大洲藩・藤蔦延年譜」に拠れば宝歴六年(1756)加藤泰広公は20日間以上道後三好家に長期滞在している。松山藩は親藩であり、外様大名は庄屋宅を利用したものと思われる。
御成門、式台、御駕籠置石などが現在も拙宅に残っているので、伊予吉田藩伊達公や伊予大洲藩加藤公の宿泊所として松山藩の認可を受け、屋敷内の大改築・大改築をしたと考えられる、従って現在の家屋は、宝歴六年(1756)の大洲藩加藤公宿泊時まで遡るので改築後二五〇〜二六〇年経過した古建築である。
【五代】三好等陳(通称平兵衛) 
天明の凶作で持田村の年貢米を供出できず庄屋を免職され「死を賜り」、天明三年(1873)自死(切腹?)している。長子門蔵(保教)は桑原村庄屋として分家し、その子勇次郎 (等陳孫)が持田村庄屋を申し付けられる。
【六代】三好長保(通称善次郎、平兵衛) 
家督相続が辛うじて認められ、等陳長女に久米郡水泥村庄屋柴田文六の次男を婿養子とする。柴田家との姻戚関係は現段階では不明である。
天明六年(1785)「温泉郡道後村地坪御伺書」は代官山崎伊兵太殿宛に庄屋善次郎を筆頭に百姓一〇八名の印がある。道後村一一一町七反五畝八歩中、庄屋役地は一町四反九畝二九歩で持ち分山畑は二反一畝一七歩である。松山藩では甘薯の栽培は禁止されており天明の飢饉は他藩以上に大被害を蒙った。
(注)『松山史料集』第七巻近世編6  「温泉郡道後村地坪御伺書」227〜289

『松山小手鑑』によれば、温泉郡大庄屋は三好平兵衛のみで、「免 亥9:7 石高1325石4斗01合 田40町8反0畝25歩 畑21町2反8畝00歩である。持田は三好平兵衛が預りで湯山の庄屋名前は空欄になっている。
(注)『松山史料集』第七巻】478〜479

『松山里正鑑』では食場村里正 三好 観次郎 高野村里正 三好為次郎 道後村里正 三好 文平 持田村里正 三好豊保  となっている。
(注)『松山史料集』第七巻】 504〜505
【七代】保喜(通称平兵衛)  
四男四女に恵まれる。天保五年(1834)旱魃もあり 湯山村の凶作により年貢取立等の職務怠慢により宗家に当たる庄屋伴蔵免職。保喜が「預り庄屋」となり、長男源之進が跡目相続し湯山村(食場・高野)庄屋となる。
次男が道後村庄屋八代目を継ぎ、三男柳平が分家本村(持田)三好家を継ぐ。石手村を除く湯山・道後・持田・味酒(一部)の庄屋として、松山藩の信頼を得て幕末を迎えることになる。
土佐藩の松山藩接収に当たり、城代家老奥平家の妻女を匿い、朝敵となった藩主久松定昭公の救済嘆願書を郡大庄屋として取り纏めた。
【八代】是保(通称平次兵衛、平次平) 
文政九年(1826)生、明治十九年(1886)没。妻サダは本町の町役仲田家から嫁す。
【九代】保和(幼名大平、通称文平)
湯山村三好家からの入り婿。妻タツ(是保三女)とは又兄妹になる。旧松山藩最後の道後村庄屋(旧里正)である。明治に入り県職員として勤務した。几帳面な性格で県辞令はすべて保存されており貴重な郷土史料となっている。
長男寛馬は松山藩内の私塾に学んだが、次男盛三郎は京都大学に学び、大阪工業専門学校(現大阪大学工学部)、京都繊維専門学校(現京都工芸繊維大学)の助教授として留学中伯林で客死する。三男・四男は早稲田大学専門部に遊学させた。    道後尋常小学校敷地(姫塚 現在のメルパルク・にぎたつ会館・旧武道場・テニス場)など資産を公益に提供している。 
十代】寛馬 
保和長男で執筆者の祖父に当たる。旧庄屋の次世代は新時代に相応しい起業に夢をかけていく。
湯山三好家は温泉郡大庄屋とし旧藩の証文の焦げつきで破産し、持田三好家は「伊予柑」の創始として顕彰されてる保徳が果樹園に巨費を投じたが四十九歳で死亡し、後継者なく破産する。幸いにも保徳が育成した「伊豫蜜柑」と「二十世紀梨」は、日本を代表する果物として今日も名声を保っている。 
長男寛馬は家産を守り、旦那芸として茶道・華道を友としたが、女子教育の普及もあり県立女学校(旧城南高等女学校、現県立松山南高等学校)の創立に加わり茶・華道を教えた。
【十一代】章  
寛馬の長男。実父(寛馬)が早逝し、三歳で家督を相続する。旧制佐賀高校当時に全国的に米騒動が勃発、急遽帰郷する。以後復学せず、二十五歳で道後町議会議員当選。自らが「母子家庭」であったので、社会福祉事業に専念し、戦前は隣地に県立母子寮を寄付し母子寮長として、戦時中は戦争未亡人の支援、戦後は母子寮と併せ保育園や県立保育専門学校、母子家庭学生寮の支援を行った。愛媛県社会福祉協議会副会長、松山市民生委員長、松山市選挙管理委員会会長を歴任、「藍綬褒章」を受け叙勲された。
【十二代】恭治(当主)   
 昭和一〇年七月一六日生まれで喜寿七六才である。六四歳でカネボウを引退し、父祖の眠る墓地(湯山・高野・道後)と文化財的な家屋を守っている。
道後小学校・御幸中学校(現道後中学校)、県立松山東高等学校を経て昭和二九年慶応義塾大学経済学部入学。専攻は中世英国経済史で指導教官は高村象平教授(後に慶応義塾長)と小松芳喬教授(後に早稲田大学学長)。
 昭和三三年鐘淵紡績株式会社入社。工場勤務の後、二九才から五二才まで本部人事部勤務。伊藤淳二社長(のちに会長)の下で、漢字の「鐘紡」の最後の人事部長として、日本的経営、家族主義的人事管理を推進、保持する。その後、山口県防府事業場長(ナイロン・ポリエステル・アクリル・フィルム・缶コーヒー工場統括)を経てカネボウ薬品の役員として薬品事業企画、西日本薬品営業担当などを歴任する。
 職務外としては@神戸淡路大震災での家屋全壊B全日本実業団陸上競技連盟副会長として女子マラソン強化などが印象深い。
 現在は、一遍会事務局長、松山子規会常任理事として一遍会、松山子規会での定期的な講話と『松山発子規事典(仮称)』の編纂のほか、伊予史談会、愛媛県生涯学習センター、愛媛県文化振興財団などで、郷土史研究の報告や講演を行っている。
 長男はパナソニック株式会社本社、次男は東京三菱UFJ銀行大阪営業部に勤務中、で、それぞれに男女の孫がいる。妻は、西予市宇和町の本多家から嫁している。