第十七章 漱石と三好家伝来「湧ケ淵大蛇(オロチ)伝説」
 明治二十八年八月から十月にかけて五十数日間漱石と子規は愚陀仏庵で生活と共にしたが、子規上京後漱石の句作は急激に増えた。因みに漱石全集「子規へ送りたる句稿」では九月三二句、十月八八句、十一月一八四句、十二月一〇二句、翌年一月から熊本に去る三ヵ月に一七〇余句記載されている。漱石の俳句の三分の一はこの数カ月間に作られた。
 漱石の湧ケ淵の大蛇を詠んだ句は「子規へ送りたる句稿その八 十二月十四日」に載せられている。子規が明治二十四年八月下旬に訪ねた白猪・唐岬の地を漱石は十一月三日に雨を冒して見物したが、疲労のため病気となり、十一月十三日付の子規宛句稿に「二十九年骨を徹する秋や此風」「吾病めり山茶花活けよ枕元」などの句を残している。健康の回復を待って石手から湯山の散策に出掛けたのであろうが、同行の松風会のメンバーや日時は不明である。
 十二月二十五日には上京して歳末の二十八日に中根鏡と虎の門の貴族院書記官長官舎の二階で見合いし婚約が成立している。それ以降の松山での吟行句は残っていない。以下大蛇(オロチ)伝説と関連する句を抜き書きする。
冬木立寺に蛇骨を伝えけり  (注)五十一番札所熊野山石手寺 
湧ケ淵三好秀保大蛇を斬るとろ
蛇を斬った岩と聞けば淵寒し
円福寺新田義宗脇屋義治二公の遺物を観る 二句 
つめたくも南蛮鉄の具足哉
山寺に太刀を頂く時雨哉 
日浦山二公の墓を謁す 二句 
(注)新田義宗、脇屋義治は南北朝期の新田義貞、脇屋義助の子
塚一つ大根畠の広さ哉
応永の昔なりけり塚の霜 
  さて湧ケ淵の大蛇伝説であるが松山藩記録として集大成した「松山叢談 第四 天鏡院定長公」の項に「三好家記に云涌ケ淵の妖怪先祖三好長門守秀吉長男蔵人之助秀勝元和年中打取申候(以下省略)」として経過が詳述されている。「三好家記」と「三好系図」は現在東京大学史料編纂所に影写本が保存されており原本は未公開である。漱石の句にある「三好秀保」は「蔵人之助秀勝」のことであり「蛇を斬った」のではなく「家書」では「覚悟可致と鉄砲を向候」となっている。 
  実は湧ケ淵の大蛇伝説は「三好家記」以外にも数多く伝承されているが、熊野山石手寺宝物館に蛇骨と大蛇を斃した石剣(松山市指定文化財)が展示されたいる。寺伝では同寺の僧侶により退治された大蛇は雄であり、一方湧ケ淵の大蛇は雌で「夫」亡き後、湯山村食場(じきば)の菊ガ森城主三好長門守家に女中奉公することになる。昼間は美貌の女中であるが深夜は大蛇に化身し、やがて秀勝の知るところとなり破局(斬首?銃殺?)を迎える。雌の大蛇の枯骨は現在ホテル奥道後内の竜姫宮に祭られ、ホテル関係者、三好家始め近在の者が集まり毎年八月に大祭が開かれている。
 漱石の句の前書きは石手寺に立ち寄り住職から直接聞いたものか、松風会のとある人物から説明を受けたものと思われる。尚、南北朝時代の宮方の新田義宗、脇屋義治は武家方の道後湯築城主河野氏に敗北するが、最後まで宮方に尽くした菊ケ森城主三好氏を頼って湯山に落ち延び落命した悲劇の伝承がある。漱石も史実に興味があり、湧ケ淵から往復二里の山道を散策したものと思われる。
 平成十五年(二〇〇三)にホテル奥道後は創立四〇周年を迎えた。昼なお暗い鬱蒼と繁った樹木の下を滔々と流れる水が、巌とぶつかって轟々とこだましたかつての湧ケ淵を五十歳未満の者には想像も出来ないだろう。漱石が後代に湧ケ淵と大蛇の記憶を残してくれたことに心からなる感謝の念を捧げたい。