第十三章 中・近世道後のキリスト教 
 日本における中近世キリスト教はフランシスコ・ザビエル(1506〜1552) の来日(天文十八年1549)をもって始まり、慶長十八年1613のキリシタン禁令を以て終わる。以後「かくれキリシタン」として長崎を中心に全国各地で生き続け明治を迎えることになる。
  1559年宣教師ガスパル・ヴィレラがダミアン、ロレンソなる日本人イルマンを伴って堀江港(松山市)に十日間滞在、1566年にはルイス・フロイソ神父とアルメイダ修道士が堀江港に立ち寄り六人に洗礼を授けている。伊予の地におけるキリスト者の初穂である。神父は『日本史』に「パアデレたちは八日の間、ここの善良なキリシタンたちとの交際を喜んだ。その間中、たえず説教があり、六人が聖い洗礼を受けた。」と記している。この席には先行したヴィレラ神父の滞在時に天文学の知識を教授されミヤコで受礼したヌマエル・アキヤマら数人の支援が大きかったのではあるまいか。
 ザビエルは山口の大内義隆、豊後の大友宗麟から布教権を得て、やがてシモ(長崎)、府内(豊後)とミヤコ(五畿内)が布教センターとなった。府内とミヤコへの往来の潮待ち、風待ちに為に古代と同様に熟田津(堀江)の地が選ばれた。その後も宣教師たちが続々と伊予の地を訪れたことが確認できる。イエズス会報告書には堀江、松前、松山、板島(現宇和島)などの地名を散見する。勿論道後の名もある。
ヴァリニャーノ 著『日本巡察記』に「山口の街、伊予の国および下関の港に、非常に立派な修道院と司祭館が建てられ、その成果が大いに期待されたが、関白殿(秀吉)の迫害のために、建築が完了してまもなく破壊されてしまった。」と記載されている。残念ながら道後で所在を特定できる史料は皆無である。1643年にローマで作成された『日本耶蘇教会分布図』にラテン語で「伊予の国Dongo(道後)に教会、牧師館あり」と書かれており『日本巡察記』の記載と対応している。
 天正十三年1585河野家を破り伊予を平定した小早川隆景は秀吉から三十五万石を付与され道後の湯築城を居城とした。隆景は山口毛利家の家臣であり、山口には大内時代にザビエルが建立した教会も目にしており、キリスト教の免疫体質があったと思われる。この時期に道後に教会と牧師館が建てられた。『イエズス会日本報告集』に記載されているが、副管区長ガスパル・コェリョ一行のミヤコから豊後への途上道後で築城中の隆景を訪ね、「伊予の国に住めるよう命ずる許可と、住むのに適当な所と地所を与える旨の書状」を依頼すると快く二通の書状を書き与えたという。更に瀬戸内の自由通航許可を伊予水軍能島殿(村上武吉)に求め、紋章と旗(安全保障)を得た。ギャマンの徳利と盃が水軍資料館に残っている。
 イエズス会の資料では周防山口は人口一万以上、豊後府内は約八千人と記載している。愛媛大学の川岡勉教授は道後の市を五千人程度としている。道後は西日本有数の町であった。やがて「司祭たちはその地に一基の大きい十字架を建てることに決め」「十字架の材木が既に削られそれが完成して市中から望見できる場所に建立されるばかりになった時に」事態は一変する。天正十五年1587秀吉がバテレン追放令を出し、司祭たちは直ちに平戸に移ることになった。「数人の異教徒の協力によって重要な家財を取り出しそれらを馬に積み始めた」が「群衆が示す略奪への激しい傾向と横棒に対して逆らうこともできず」「略奪の限りを働いた」。司祭たちは「彼らが望むままの袖の下を握らせ」やっと伊予からの脱出に成功し周防の上関に渡った。この間六ヶ月程であったが三十数人が洗礼を受けた。もし本格的に教会が完成しておれば道後の市での受洗者は急増したに違いあるまい。
 湯築城と共に発展した「道後の市」であったが廃城と同時に衰退に向かい、上市、今市(今市南、今市北)は農村化し、「道後の市」に西に広がる松山平野に加藤嘉明によって築城された松山城の北側の商人町に吸収されることになる。
 ここで十六世紀後半人口が五千人といわれた道後のマチで建築後直ぐに破壊された教会の所在を周防山口、豊後府内の城下町を下敷きに大胆に推定してみたい。鎌倉時代豊後は関東以外では唯一の知行国で、九州支配の拠点として頼朝に近仕した大友氏を世襲させた。一遍が九州遍歴の最後に大友氏を頼りこの地で後継者となる二祖他阿弥陀仏と運命的な出会いをしたし、一遍の祖父通信の妻は頼朝の妻政子の妹でもあり大友・河野両氏は緊張関係にあったとは云え平時には文化の交流はあったと考えられる。同時に周防山口の大内氏とも瀬戸内海の勢力均衡保持の為に戦略的な友好関係を維持し情報収拾に努めている。私事になるが十七代祖の三好為勝は河野の武将として長門守を名乗っている。
 中世の周防山口の大内氏館(山口殿中)は現在の山口市中心部からは東方に外れ、古来からの「石州 街道」沿いの町場とは異質の文化圏であった。狭い意味の山口は室町時代からの名家大内氏の守護大名として京都志向の「花の御所」を範とした西の京であり、広い意味の山口は戦国武将毛利氏によって形成され、瑠璃光寺(一六九〇年移転)近くのザビエル教会は中世の所在を示すものではない。大内盆地での中世教会跡は確認されていない。  
 豊後府内の大友府内城下町跡は近年の発掘により全貌が明らかにされてきた。城下町は大分川西岸の自然堤防上に立地し、最高所で標高五米強ある安定した地形である。府内の外港として「沖の浜」があったが慶長元年1596の大地震で海中に没した。大友氏館跡に隣接して御蔵場跡、万寿寺跡があり南の大友上原館跡は島津氏との抗争を控えて砦が築かれている。
 天文二〇年ザビエルの府内訪問後カゴ神父を中心に教会、高等神学校、病院、育児院などが建設され日本のキリスト教布教の拠点となった。キリシタン墓地は府内の西側で発掘された。イエズス会日本通信に大友宗麟がカザ神父に「与へし他の地所はこれを二分し、一つには死者のために用ひ、また一つには王の許可を得て病院を設立せしが・・・」とあり府内に隣接して通称「四之大路」沿いにキリスト教会関連施設が建造されたと推定される。なお町家は府内の東側の「一之大路」周辺に広がっていた。中世のキリスト教は大名の庇護の下に布教し教会を建てたのであり、修道院とは違い府内(館)近くの町中に教会はあり、武士も町人も西欧中世都市と同様に日々教会の尖塔を仰ぎみたのではあるまいか。中世道後の湯築城と温泉場周辺に建築中の教会を河野氏最後の通直(牛福)も眺めたに違いあるまい。
 江戸時代を通じて道後村に残された比較的広大な土地が二ヵ所あった。一カ所は中世の湯築城址(現 在の道後公園)であるが、明治に至るまで村の入会地でもなく松平藩が利用した事実もない。時宗・遊行上人が巡察にあたり湯築城址内の岩崎神社に参詣したとの記録あるので外堀に囲まれた内部に通行路はあったが、一帯は竹藪が広がっていたという。                                              
 他の一つは湯築城址と伊佐爾波神社の中間にある丘陵で、現在教職員保養所「にぎたつ荘」と「メルパルク道後」と県武道館が建っている。この土地は庄屋であった当家が江戸時代から明治以降も所有し、戦前は町立道後(尋常)小学校用地と溜め池と拙亭があった。周防山口、豊後府内の城下と教会の位置を考察するに大内氏或いは大友氏の館からはあまり離れては居らず街道沿いにある。この丘陵脇には古代から土佐街道が走っており、マチにも城(館)にも至近の距離にあり教会を仰ぎ見ることになる。教会並びに布教施設に相応しい場所と云えよう。この丘陵は松平藩から下賜されたものか江戸時代に庄屋自らが開拓したものか目下のところ未調査である。道後のマチで「トポスとしての教会」を描くことは極めて難しい。神の悪戯で中世の道後教会跡が「発見」されることを信じたい。