第二十四章「慶応義塾入社帳」筆頭記載者 小林小太郎の出自
本論文は『伊予松山藩士 小林小太郎〜文久三年起「慶応義塾入社帳」筆頭記載者〜』と題して「伊予史談」338号(平成17年7月1日刊)の一部分である。小太郎の出自については今日まで未確認であったが本論文で明確にできた。小林小太郎について研究しておられる関係者でご希望があれば、抜き刷りを郵送料込み200円(50円切手4枚)にてお申し出下さい。
宛先790-0843 松山市道後町2−11−3 三好恭治宛
一 はじめに 
日本を代表する近代的高等教育を実施した私学の一つである慶応義塾は平成二十年(二〇〇八)に創立百五十周年を迎える。慶応義塾の起源は安政五年(一八五八)福沢諭吉が江戸築地鉄砲洲にある中津藩奥平家中屋敷で開いた蘭学塾に由来している。文久三年英学塾となるが、和綴りの『慶応義塾入社帳』(性名録)筆頭に「文久三年春入門 松平隠岐守内 小林小太郎」と記載されている。小林小太郎の文献は極めて少なく、彼の経歴特に出自については全く明らかにされていない。小太郎の活躍の舞台は明治新政府下の文部官僚として、類稀な語学力による欧米先進教育国の論文、書籍の翻訳・普及と日本の教育事情の欧米への紹介と八面六臂にわたるが、その素地は伊予松山藩時代に形成されている。出自の解明と併せ慶応義塾草創期に入門した青年群像にも触れ、忘れられた逸材小林小太郎像を浮かび上がらせたい。
日本を代表する近代的高等教育を実施した私学の一つである慶応義塾は平成二十年(二〇〇八)に創立百五十周年を迎える。慶応義塾の起源は安政五年(一八五八)福沢諭吉が江戸築地鉄砲洲にある中津藩奥平家中屋敷で開いた蘭学塾に由来している。文久三年英学塾となるが、和綴りの『慶応義塾入社帳』(性名録)筆頭に「文久三年春入門 松平隠岐守内 小林小太郎」と記載されている。小林小太郎の文献は極めて少なく、彼の経歴特に出自については全く明らかにされていない。小太郎の活躍の舞台は明治新政府下の文部官僚として、類稀な語学力による欧米先進教育国の論文、書籍の翻訳・普及と日本の教育事情の欧米への紹介と八面六臂にわたるが、その素地は伊予松山藩時代に形成されている。出自の解明と併せ慶応義塾草創期に入門した青年群像にも触れ、忘れられた逸材小林小太郎像を浮かび上がらせたい
 小林小太郎は弘化五年(一八四八)戌申正月二十七日に出生し、明治三十七年(一九〇四)十月三十日に享年五十七歳で死去した。平成十六年十一月伊予史談会第一〇七四回例会で「慶応義塾(英学)入社第一号 伊予松山藩士 小林小太郎」と題して発表したが、奇しくも小太郎没後百年に当たる記念すべき年であった。機会を与えられた伊予史談会に感謝すると共に、慶応義塾の後輩として小太郎の出自の取り纏めが出来たことを心密かに喜んでいる次第である。
二 『慶応義塾入社帳』  (省略)
三 父・小林小四郎 
 (一)駿河田中藩での事績  
 小太郎の父小林小四郎(諱儀行)は旧東益津村野秋(現焼津市内)で農耕や樵で生計を立てたが、のち砲術高島(秋帆)流の下曽根金三郎の門人となり、駿河田中藩三万五千石江戸藩邸で南蛮流師範として第六代本多正寛に仕えた。現在の藤枝市が中心であり、江戸藩邸は赤坂氷川台にあった。生年は不詳であるが明治二十九年十月九日に没している。  駿河田中藩は駿府のお膝元であり徳川時代前半は藩主の交代が著しく、酒井家・内藤家・松平(桜井)家・水野家・松平(藤井)家・北条家・西尾家・酒井家・土屋家・本田家・内藤家・土岐家の後、上野沼田から本多家が入っている。更に明治元年には徳川十五代将軍徳川慶喜の江戸から駿河府中への移転減封に伴い、同年上総長尾(安房)に四万石で転封する。田中藩では、砲術は武衛流、高島流、藤岡流、不息流、南蛮流、奮武流の各派があり、藤岡流の師範家に小林順成・小林彰善父子の名前が残っているが、高島流は恩田利器・恩田利武・加茂古寿が師範をしており、小林小四郎の名前はない。
 永年砲術を以て雄藩に仕官することを求めていたが、機が熟し嘉永六年(一八五三)伊予松山藩十五万石の第十三代松平勝成に禄百五十石で抱えられた。その際田中藩にて武衛流で仕えた同僚の池谷歌治に一緒に松山藩に仕える様に誘ったが断わられた。尚長男小太郎は江戸藩邸で弘化五年(一八四八)年戌申正月二十七日出生している
 (二)伊予松山藩での事績 
 松山藩では安政元年(一八五四)から武蔵国大森村の警護を命ぜられ、安政五年には神奈川辺警備の任につく。防御の為安政六年には神奈川台場の縄張りが幕府の勝海舟の手で実施され、万延元年(一八六〇)には完成する。神奈川台場は江戸湾に於ける最大の台場となり、藩主松平勝成は神奈川台場築造の功を賞せられている。
 松山藩では小林大助と称し、藩校明教館で砲術の実地訓練後、江戸詰めとして幕府から命ぜられた松山藩の大事業である神奈川辺警備や神奈川台場築造、また藩士の砲術訓練に日夜追われていた。当時、武術家を必要に応じて召し抱えることは決して特異な例ではなく、信州松代藩抱えの佐久間象山、伊予宇和島藩の村田蔵六等々新規採用の軍学師は数多い。松山藩の「正史」には小林大助(小四郎)の記載はないが、父房之進が江戸藩邸の重役をしていた内藤素行の『鳴雪自叙伝』に洋式砲術の導入から挫折までの経緯が簡潔に、しかも当時の情景が鮮やかに記述されている。 
 「軍隊洋式訓練の必要が唱へらるゝや、我が藩は直ちに採用して、和蘭式の銃隊を編成することとなり、その教授の為に下曽根〔金三郎〕の門人なる小林大助と云ふを召し抱へられ」、「君候は盛んに洋式調練を奨励されたので、一時我が藩の銃隊は出色のものになった」が「夷狄の真似をするのは怪しからぬと云ふ憤慨やらで、門閥家の方から反対の声が起こった。遂にこの為に江戸詰の家老等も改革を押通すことが出来なくなり、君候も意を曲げられて、銃隊は日本式大砲のみを洋式にすると云ふ事にな」り、小四郎の雄藩で己の力量を試すという野望は松山藩では稔ることがなかった。   
 (三)家族たち 
 小四郎(儀行)の長男小太郎(儀秀)と同様に次男正雄も田中藩江戸藩邸で嘉永三年頃に出生している。妻女らは不詳である。                      
 松山藩歴代の家臣中小林家は四家あり『幕末松山藩御役録』では@三百石/小林八之進A百二十石/小林斎宮B百石/小林仁左衛門C六十俵/小林新五郎が記載されている。小林斎宮の初代仁右衛門は掛川の出身であるが四家とも田中藩小林(小四郎)家との関係は認められない。
 松山藩の江戸屋敷は上屋敷(愛宕下薬師小路)、中屋敷(三田/現港区三田二丁目の慶応義塾大学と三井倶楽部の間のイタリア大使館付近)、下屋敷(戸越村・下蛇窪村)の外に抱屋敷、借地等が点在したが、百五十石の家禄とすれば中屋敷に居住したものと考えられる。尚、藩地松山での偶居は「四番丁・代官町横三番丁西詰」(現千舟町三丁目三番地)に所在した。
四 修行時代 (十三歳〜二十歳)   (省略)
五 教官時代 (二十一歳〜二十六歳)  (省略)
 (一)松山藩洋学司教 
 明治元年十月五日、父小四郎の士侍した松山藩洋学司教を拝命している。      
 『松山藩進達留』によれば、明治二年二月、為政・総教・会計・軍務・内家・公議の六局と広聞所に改編し、藩士を内官(事務)と外官(軍務)に二分し、一等執政、二等参政、三等上士(上・中・下)、四等中士(上・中・下)、五等下士(上・中・下)の五等十一級にした。洋学司教は四等官百二十石、中士の下に格付けされている。
〔学校〕の職制並びに職掌は次の通りである。                   
 督学 一員、判事 二員、史生、総教 一員、司教 三員、助教 五員、小学訓導 一員、同読長 七員、洋学司教 一員、医学司教 一員、数学司教 一員 
 同時期に松山藩では二十歳前後の青年三十二名(英学十五名、仏学二名、普通学二名、語学四名、算学三名、医学六名)を選抜して官費留学生として各方面に送りだしている。英学十五名中慶応義塾入社者は前述した五名である。語学四名中「寄留地/築地ハブー屋敷、師名或塾名/ジウベン、出遊年月/明治二年十二月、年齢二十歳、当主或部屋住或厄介/儀行次男、生徒姓名/小林正雄」の記載がある。築地ハブー屋敷は未確認であるが、築地外国人居留地には外国公館、貿易会社と並んで宣教師、教会、学校も林立しており、ハブー屋敷とはバブテスト館或いはハーバー〔港〕館の通称ではなかったか。     
 正雄は小太郎の実弟であり、小太郎自身は洋学司教を退任し明治二年四月には横浜法朗西学校(詳細不明)に派遣され仏語を修んでいる。兄弟両名ともに開明的な藩主勝成の下で官費留学生徒として選抜されており松山藩では希有な事例と云えよう。志を果たし得なかった父小四郎の強い願いを藩主が聞き届けたのかもしれない。   
 (二)大阪開成所ほか  (省略)
六 文部省時代 (二十六歳〜四十二歳) (省略)
七 晩年 (四十二歳〜五十七歳) (省略)
八 著作  (省略)
九 おわりに  
 伊予松山藩に於ける小林小太郎の研究は緒についたに過ぎない。特に
(一)松山藩の百石取り以上の中士、上士の子弟が「坂の上の雲」を求めて上京した軌跡と国家社会への貢献
(二)明治新政府の殖産興業・富国強兵政策下、疲弊した「朝敵松山藩」の産業近代化の中での「記簿教育」の位置づけ
を明確にしたいと考えている。是非ご教示頂きたい。 
 尚本論関連の拙稿として@「松山中学校と慶応義塾〜初代校長・草間時福〜」(『明教』三一号)A「子規と演説〜演説の来歴〜」(『子規会誌』九二号)B「子規と小林小太郎〜伊予松山藩の英学徒たち〜」(『子規会誌』一〇〇号)C「『坂の上の雲』異聞」(『明教』三五号)がある。
 併せて貴重な情報を提供頂いた慶応義塾図書館、福沢研究センター、三康文化研究所、日本力行会、藤沢市郷土博物館、静岡県立中央図書館並びに松山大学附属図書館、宇和文化の里資料館(開明学校)ほかに深謝します。      
【参考文献】  (省略)
ウイキペディア 【小林小太郎】
小林 小太郎(こばやし こたろう[1][2]、1848年3月2日(嘉永元年1月27日) - 1904年(明治37年)10月30日)は明治時代前半期の日本の文部官僚。旧伊予松山藩士。諱は儀秀、字は子彦、号は碌々、百石[3]。
長らく文部省の翻訳事業に携わり、欧米への日本の教育事情の紹介、ならびに日本の教育制度の近代化に貢献した[1][4]。

目次
? 1来歴
? 2親族
? 3著作
? 4脚注
? 5参考文献
? 6関連文献
? 7外部リンク
来歴[編集]
嘉永元年1月27日(1848年3月2日)、田中藩砲術師範小林儀行(のち伊予松山藩士)の長男として江戸赤坂氷川台の藩邸に生まれる。万延元年(1860年)、高輪の東禅寺に設けられていたイギリス公使館に預けられ、医師ウィリアム・ウィリスから英語を学んだ[3][5]。文久3年(1863年)2月、生麦事件後の日英関係悪化にともない公使館から引き取られ、まもなく慶應義塾に入社。「慶應義塾入社帳」には初筆にその名が記されている[6]。翌年、幕府の洋学研究教育機関・開成所に移り、慶応2年(1866年)12月に英学教授手伝並出役、翌慶応3年12月に英学教授手伝出役となった[7][8]。また慶応3年3月、伊予松山藩大小性となり、幕府崩壊後の明治元年(1868年)10月には同藩洋学司教を拝命。さらに横浜仏蘭西語学所に派遣されフランス語を学んでいる[7][9]。
明治2年(1869年)7月、官制改革により新政府のもとに大学校(同年12月に大学と改称)が置かれると、同年9月に大学少助教を命じられ、ほどなく大学中助教、大学大助教に昇任。明治4年(1871年)7月、文部省新設にともない文部大助教に更任された[10][11]。この間、明治3年(1870年)6月に大阪洋学所在勤となり、明治4年1月には大学中博士入江文郎、同鈴木暢(唯一)とともに学術研究のため1年ほどの予定で欧州派遣を命じられた[10][12]。小林は英国をめざし3月に出航。翌年6月(1872年7月)の帰国命令により、明治6年(1873年)1月に帰国した[7][13]。
帰国後は同年中に文部省六等出仕まで進み、明治10年(1877年)1月に文部省報告課雇となったのち、明治13年(1880年)6月に文部少書記官に就任。明治15年(1882年)8月には文部権大書記官に進み、明治18年(1885年)12月に非職となるまで文部省に在職した。省内では、文部省年報の英訳を手がけるとともに欧米教育資料の翻訳・紹介に従事[10]。訳書として文部省から『馬耳蘇氏 記簿法』、『政体論』、『馬耳蘇氏 複式記簿法』、『教育辞林』が刊行されているほか、文部省刊行の『文部省雑誌』、『教育雑誌』には翻訳記事が多数掲載されている[14][15]。簿記教科書『馬耳蘇氏 記簿法』は長期にわたり全国で使用され、『教育辞林』は刊行以前に訳稿が教育令立案の参考資料として重用された[16]。また、明治6年9月から翌年11月まで報告課長、明治13年6月から報告局副長、明治14年(1881年)10月から報告局長、明治18年2月から学務一局副長を務め、さらに明治13年7月から翌年9月まで東京図書館長、明治14年4月から翌年1月まで体操伝習所主幹、明治18年12月中に東京大学予備門事務取扱を兼務した[10][17]。
明治21年(1888年)12月に非職満期となり退官した後も文部省の翻訳業務に携わり、引き続き文部省年報の英訳に従事。明治37年(1904年)に開催されたセントルイス万国博覧会に同省が出品した浩瀚な教育報告書の英訳も手がけた[10]。そのほか、明治21年7月に大日本教育会理事、翌年12月に同会主事兼評議員となり、明治33年(1900年)には神田区学務委員に当選。翌明治34年(1901年)12月から明治36年(1903年)7月まで委員長を務めている[18]。明治37年10月30日、享年57で死去し、東京下谷区谷中の天王寺に葬られた[14][19]。
親族[編集]
? 父:儀行(1816 - 1896) - 通称・小四郎、大助。砲術家。駿河国益津郡出身。郡山藩士近藤亘理介(賢清)に南蛮流砲術を学び、はじめ駿河田中藩主本多正寛に、安政3年(1856年)からは伊予松山藩主久松勝成に仕え、松山藩軍隊掛、練兵教頭、練兵副教師、大砲生徒頭取を歴任した[3][20]。
? 母:安子(1818 - 1889) - 本多家家臣長谷川藤平の娘[3]。
o 妹:柳(1850 - 1925) - 医学者長谷川泰夫人[3][21]。
o 弟:正雄(1852 -) - 勧工寮技術見習、製作寮出仕[3]。
? 妻:鷹 - 木村氏[7]。
o 長男:武麿(1880 - 1961) - 外交官。東京外国語学校卒。メキシコ公使館勤務を経て、日墨協会常務理事、東京横浜駐在ベネズエラ国名誉領事を務めた[22]。
o 三男:巌(1886 - 1982) - 物理学者。理学博士、東北大学名誉教授。東京帝国大学理科大学卒。九州帝国大学教授、東北帝国大学教授・理学部長、日本大学教授を歴任した[3][23]。
著作[編集]
? 島根鳥取両県学事巡視功程(『文部省第十年報附録』)
? 『小太郎私記』
訳書
? 『築城約説』 誠格堂、1867年(慶応3年5月)
? 『馬耳蘇氏 記簿法』 文部省、1875年3月一・二
C. C. Marsh. A cource of practice in single-entry book-keeping. 1871. の翻訳。
o 『馬耳蘇氏記簿法』 雄松堂書店〈復刻叢書 簿記ことはじめ〉、1979年12月
? 『政体論』 文部省、1875年6月初編・第二編
ジョン・スチュアート・ミル 『代議制統治論』 などの抄訳。
? 『英国行政談』 小林儀秀、1876年5月一・二
? 『馬耳蘇氏 複式記簿法』 文部省、1876年9月上・中・下
C. C. Marsh. The science of double-entry book-keeping. 1871. の翻訳。
o 前掲 『馬耳蘇氏記簿法』 雄松堂書店、1979年12月
? 『日本教育史略』 文部省、1877年8月
Japanese Department of Education. An Outline History of Japanese Education. 1876. の日本語版。ダビッド・モルレー執筆の概言を和訳。
? 『教育辞林』 文部省、1879年4月第一冊 / 1879年8月第二冊 / 1880年1月第三冊 / 1880年8月第四冊
Henry Kiddle & Alexander Jacob Schem, ed. The Cyclopadia of Education. 1877. の翻訳。第五冊以降は木村一歩が訳出し、後に木村編纂 『教育辞典』としてまとめられた。
? 『波氏教育学』 学海指針社、1888年5月上冊 / 1888年7月下冊
William H. Payne. Contributions to the Science of Education. 1887. の翻訳。
? Education in Japan; prepared for the Louisiana Purchase Exposition at St. Louis, U.S.A., 1904. by the Department of Education, Japan. 1904.
脚注[編集]
1. ^ a b 『慶應義塾史事典』。
2. ^ 『福沢諭吉門下』。
3. ^ a b c d e f g 西川(1982)、60頁。
4. ^三好、16頁。
5. ^三好、17-19頁。
6. ^三好、19-21頁。西川(1982)、60-61頁。慶應義塾150年史資料集編集委員会編 『慶應義塾150年史資料集 1 塾員塾生資料集成』 慶應義塾、2012年10月、259頁。
7. ^ a b c d 西川(1982)、61頁。
8. ^ 三好、21頁。倉沢剛著 『幕末教育史の研究 一 直轄学校政策』 吉川弘文館、1983年2月、ISBN 4642032517、275-281頁。
9. ^ 三好、21-22頁。
10. ^ a b c d e 「叙位裁可書・明治三十七年・叙位巻二十」。
11. ^ 倉沢剛著 『学制の研究』 講談社、1973年3月、58頁、45-46頁、269-271頁。
12. ^ 東京大学百年史編集委員会編 『東京大学百年史 通史一』 東京大学、1984年3月、ISBN 4130010514、168-169頁。
13. ^ 田中隆二著 『幕末・明治期の日仏交流 中国地方・四国地方篇(一)松江』 溪水社、1999年2月、ISBN 4874405320、11頁、84頁。
14. ^ a b 西川(1982)、63頁。
15. ^ なお文部省刊行物だけでなく、鈴木唯一らが設立した汎愛社の機関誌『教育新誌』にも社員として執筆を行っている。教育ジャーナリズム史研究会編 『教育関係雑誌目次集成 第I期教育一般編 第20巻』 日本図書センター、1987年8月、ISBN 4820506404、参照。
16. ^ 西川(1982)、57-59頁。「教育令の制定 : 田中不二麿の教育事務構想を中心に」(湯川文彦著 『立法と事務の明治維新 : 官民共治の構想と展開』 東京大学出版会、2017年4月、ISBN 9784130262446)438-439頁。
17. ^ 東京大学文書館所蔵 「文部省往復及同省直轄学校往復 明治六年分四冊ノ内丁号」 224丁表。同 「文部省往復 明治七年分三冊之内甲号」 197丁表。「東京図書館年報 明治十三年」(『文部省第八年報附録』)。「体操伝習所第三年報」(『文部省第九年報附録』)。「体操伝習所年報」(『文部省第十年報附録』)。
18. ^ 『帝国教育会五十年史』 帝国教育会、1933年11月、28-29頁、年表4頁。三好、22頁。中村薫編輯 『神田区史』 神田公論社、1927年11月、36頁。
19. ^ 三好、22頁。
20. ^ 三好、17-18頁。
21. ^ 山口梧郎著 『長谷川泰先生小伝』 長谷川泰先生遺稿集刊行会、1935年10月、48頁、70-72頁。
22. ^ 三好、22-23頁。西川(1982)、59頁。「小林武麿」(内尾直二編輯 『第十四版 人事興信録 上』 人事興信所、1943年10月)。
23. ^ 「小林巌」(日外アソシエーツ編 『現代 物故者事典 1980?1982』 日外アソシエーツ、1983年4月、ISBN 4816902368)。「小林巌」(前掲 『第十四版 人事興信録 上』)。
参考文献[編集]
? 「小林小太郎特旨叙位ノ件」(国立公文書館所蔵 「叙位裁可書・明治三十七年・叙位巻二十」) - アジア歴史資料センター Ref.A10110162900。
? 西川孝治郎 「馬耳蘇氏記簿法 解題」(小林儀秀訳 『馬耳蘇氏記簿法』 雄松堂書店〈復刻叢書 簿記ことはじめ〉、1979年12月)
o 西川孝治郎著 『文献解題 日本簿記学生成史』 雄松堂書店、1982年6月
? 「小林小太郎」(丸山信編 『福沢諭吉門下』 日外アソシエーツ〈人物書誌体系〉、1995年3月、ISBN 4816912843)
? 三好恭治 「伊予松山藩士 小林小太郎 : 文久三年起「慶應義塾入社帳」筆頭記載者」(『伊予史談』第338号、伊予史談会、2005年7月)
? 都倉武之 「小林小太郎」(慶應義塾史事典編集委員会編 『慶應義塾史事典』 慶應義塾、2008年11月、ISBN 9784766415728)
? 「小林小太郎」(慶應義塾150年史資料集編集委員会編 『慶應義塾150年史資料集 1 塾員塾生資料集成』 慶應義塾、2012年10月)
関連文献[編集]
? 「小林儀秀訳『政体論』」(山下重一著 『英学史の旅』 御茶の水書房、1995年2月、ISBN 4275015738)
? 片岡泰彦 「小林儀秀『馬耳蘇氏記簿法』に関する一考察」(『経営論集』第12号、大東文化大学経営学会、2006年9月)