第二十六章 隈本有尚と漱石・子規
〜子規の東京大学予備門「落第」の周辺〜
一 はじめに
 明治の近代的な教育制度では「読み書き算盤」に代わって「英語・数学・国語」が重点教科となった。教育制度は、藩校から英学校、変則中学校を経て(正則)中学校へと移行していく。伊予宇和島藩に比し伊予松山藩は近代化に遅れ藩校教育も伝統的な古学中心であった。変則中学校では「原書」、県立中学校では「翻訳教科書」が使用されたが、東京大学予備門(以下大学予備門)・東京大学(帝国大学を含めて以下東京大学)では原書が中心であり主任教授は外国招聘教官であった。子規・正岡常規少年(以下子規)は松山中学校(正則)を中途退学して十六歳で上京、須田学舎、共立学舎で英語を中心に受験勉強して大学予備門、東京大学文科大学に進学したが、心ならずも大学予備門と東京大学で二度の「落第」を経て退学することになる。
 先に子規会並びに子規会誌に国語と英語の視点から論文(1)「子規と演説〜演説の来歴〜/松山中学校初代校長草間時福」(2)「子規と小林小太郎〜伊予松山藩の英学徒たち〜/松山藩初代洋学司教小林小太郎」を発表した。今回は数学の視点で子規の人生の重大な転機ともなった大学予備門での「落第」を取上げ、併せて大学予備門幾何学担任教師隈本有尚(ありたか)の教授方針を通して隈本の実像と虚像を描くことにしたい。
二 大学予備門での「落第」
 大学予備門履修教科は十一科目(修身学、和漢学、釈解、文法・作文、日本歴史、支那歴史、和漢作文、代数学、幾何学、地文学、体操)で隈本有尚の担任教科は代数学、幾何学、地文学(万国地理)の三教科であった。授業は隈本が代数学、幾何学のテキスト(原書)を翻訳口述し生徒は英語で解答する形式である。地文学(万国地理)では隈本が翻訳口述し生徒が詳細筆記し講義録を取り纏めた。大学予備門の入学試験問題は現在の進学校の入試問題の水準と考えられる。参考までに子規、夏目漱石(以下漱石)が受験した明治十七年の東京大学予備門本科入学試験問題は不明であるので前年の入学試験問題中数学関連を抜粋する。問題の難易度は殆ど差がないと考えられる。
◇算術問題
@一柱アリ 六分ノ一ハ泥ニ於テ四分ノ一ハ水ニ於テ二十壱尺ハ水上ニ在ルトキハ柱ノ長サ幾何ナルヤ
A 八千四百六十万四千五百十九ノ立方積ヲ問フ
◇代数問題
@数式証明につき省略
A父子アリ 父ノ年齢ヲ数フルニ其子ノ年ノ三倍ナリ 然ルニ四年以前算シタル時ハ四倍ナリシト云フ 父子ノ年齢ヲ問フ
◇幾何学問題
左の定理ヲ証明スヘシ
@ 二直線交叉スルトキハ其成ス所ロノ対角相等シ
A 三角形ノ一辺ヲ引長シテ作レル外角ハ相対スル両内角ノ和卜等シ
入試に関して漱石と子規の所感を記しておきたい。
「入学試験のとき代数が六づかしくつて途方に暮れたから、そつと隣席の橋本(左五郎)から教へて貰つて、其御蔭でやつと入学した。所が教へた橋本の方は見事に落第した。」(漱石『満韓ところどころ(十三)』全集八)
「余が大学予備門の試験を受けたのは明治十七年の九月であつたと思ふ。この時余は共立学校(注:開成中学校)の第二級でまだ受験の力は無い、殊に英語の力が足らないのであつたが、場馴れのために試験受けやうぢやないかといふ同級生が沢山あつたので固より落第の積りで戯れに受けて見た。用意などは露もしない。ところが科によると存外たやすいのがあつたが一番困つたのは果して英語であつた。  (略)試験受けた同級生は五六人あつたが及第したのは菊池仙湖(謙二郎)と余の二人であつた。この時は試験は屁の如しだと思った。」(子規『墨汁一滴(明治三十四年)』全集十一)
一方明治十七年度の入学試業委員であった隈本有尚は「これは明治十七年九月のことであり、志願者(全国中学校乃至市内の各私設予備校より来れる者)四五〇人の中より一五〇人を選抜することとて、試験中々峻刻を告げた。科目は国語漢文・数学(算術)・英語(読方、釈解等)、中でも釈解の如きは字典の使用を許し委員の査問甚だ酷烈であった。委員は英語に故木下広次君(後、京大総長)、故久原躬弦君(後、京大教授)、故木下十吉君(後の林、著述業)等がい、その末席に列して自分は数学を担当した。この数学に於いて当時は無碍に至難と云う譏り喧かった。とにかく当時としては試験は概して峻刻であり、従って合格者は予定数に充ちないので、試験後時の予備門長杉浦重剛先生の下に教員総会を開いて、標準引下げをなし、かくて辛うじて一五〇人を得た。席上には年長者として故高橋是清君(英語担任、但し入学試験には与からなかった)がいられた。」と予備門側の入試選抜の内情を記載している。(隈本有尚『過去六十年の憶出』)
必ずしも子規が言うような「試験は屁の如し」ではなく実力プラス幸運が味方したのであろう。大学予備門に合格した後は学生天国であり、数学の授業態度も時代を越えて共通であり大学予備門の授業風景も微笑ましい。
「みんな揃ひも揃つた馬鹿の腕白で、勉強を軽蔑するのが自己の天職であるかの如くに心得てゐた。下読抔は殆ど遣らずに、一学期から一学期へ辛うじて綱渡りをしてゐた。英語は教場で中てられた時に、分らない訳を好い加減に付ける丈であつた。数学は出来る迄塗板(ボールド)の前に立つてゐるのを常としてゐた。余の如きは毎々一時間ぶつ通しに立往生をしたものだ。みんなが代数書を抱へて今日も脚気になるかなど云つては出掛た。」(漱石『満韓ところどころ(十四)』全集八)
「皆な悪戯許りして居たものでストーヴ攻などと云つて、(略) 数学の先生がボールドに向って一生懸命説明して居ると、後から白墨(チョーク)を以て其背中へ怪しげな字や絵を描いたり、又授業の始まる前に悉く教室の窓を閉めて真暗な処に静まり返つて居て、入つて来る先生を驚かしたり、そんなこと許り嬉しがって居た。(漱石『落第』全集十六)
「『満韓ところどころ』を見ると、誰も彼もよく怠けて、落第したやうに書いてありますね。あれは現存の人だから一寸名前を云ふことを憚るが、数学の教師にえらい厳格な先生(注:隈本有尚)があって、主にその人のお蔭で名士が大分落第しました。答案を英語で書かせるのは勿論、教室の説明も英語でさせるんだから敵ゐません。正岡子規なぞ黒板(ボード)の前に立たされて、何やらぐづぐづ云ってゐるが、数学の問題そのものは分ってゐても、英語で説明するんだから、なかなか思うようにしゃべれない。すると忽ち、What'what?Repeat again!とやられるもんだから、随分弱つてゐました。」(太田達人『予備門時代の漱石』全集・別巻)
明治十七年十二月に実施された隈本が作成した代数、幾何の試験問題が残っている。「旧制中学の二、三年位のレベルであろう。つまり始めの一学期間の講義内容が分かる。当然の事ながら完全に和算風の考え方から離れた出題傾向である。」(小松醇郎『幕末・明治初期数学者群像』)
もともと英語と幾何が苦手であった子規は幾何学で一年の一学期(五八.〇点)二学期(三二・五点)ともに及第点を取れず学年末試験の結果落第する。及第の基準は「@百点ヲ最高点トシテ六十点未満者A各課目点数中定数ニ満タザル者」となっている。一方苦手の筈の英釈解、文法・英作文では一学期七一・五、六一・五、二学期七一・〇、七九・五の上位の成績を取っており、英語が不得手だから幾何学が落第したという子規の強弁は必ずしも通用しない。
子規と共立学舎の同期で予備門に一緒に合格した南方熊楠の『懐中日記』(明治十九年九月十二日付)では「四級生徒落第、正岡常規以下四十余人。新人百人斗り」となっており正岡を筆頭に二四名の落第者(不合格者)を連記している。また「明治十八年三月(第二学期)東京大学予備門前本黌生徒及改正学学科生徒試業優劣表」(『子規全集』記載分)では十三名の成績が記載されている。
及第認定者は、立花銑三郎(福岡/学習院教授)松本鼎三郎(愛媛/扶桑海上火災専務)芳賀矢一(福井/東大教授)中山再治郎(福井/立命館大学学長)塩原金之助[夏目漱石](東京/小説家)柴野是公[中村是公](広島/満鉄総裁)南方熊楠(和歌山/博物学者)山田武太郎[山田美妙](東京/小説家)らであり、不合格認定者は、滝口了信(京都/高輪中学校主)正岡常規[正岡子規](愛媛/文学者)菊池謙次郎(茨城/第二高等学校長)岩田三郎(千葉/不詳)尾田信直(愛媛/中学校長)らである。参考までに後年の代表的な職名、職位を付記した。
昭和七年十一月十四日付『帝国大学新聞』の「赤門五十年変遷裨史」に明治十八年六月の学年末試験結果の一部が掲載されている。漱石は平均点七二・二で代数学は九三・五の高得点であった。文士の落第者には正岡子規、尾崎紅葉、川上眉山らが名を連ねているが、二学期に不合格だった山田美妙は合格している。菊池謙次郎は幾何学三一・五で落第しているので子規も幾何学一科目だけであれば四十点以下となろう。天来楽天的であった子規も落第は当然ながら大きなショックを受け文章に残している。
「余は生れてよりうれしきことにあひ思はずにこにことゑみて平気でゐられさりしこと三度あり 第一ハ在京の叔父のもとより余に東京に来れといふ手紙来りし時 第二ハ常盤曾の給費生になりし時 第三ハ豫備門へ入学せし時也 第一ハ敷月前より遊思勃としてやまず 機会あらば夜ぬけなどせんと思ひし処なれば也 第二ハ出京已来食客にはいりこまんと方々の知らぬ人の処へいやながら行きしこと多く それがため安心して学問出来ざりし其時に此許しを得し故也 第三ハとても力足らぬ故入学は出来ずと思ひゐし故也 
又生来尤いやと思ひしこと 即チ覚えず皃をしかめしこと二度あり 一ハ出京の際始めて三津を出帆する時にて 始めての旅といひ つれはなし 実に心細く思ひたり 第二ハ予備門にて落第せし時にて これは兼て覚悟ありたれども 生れて小学校に入りし已来始めての落第といひ 殊に親類の者などより叱られたればなり」(子規『筆ま加勢○半生も喜悲』全集十)
「併し余の最も困つたのは英語の科ではなく数学の科であつた。此時数学の先生は隈本先生であつて数学の時間には英語より外の語は使はれぬといふ制規であった。数学の説明を英語でやる位のことは格別むつかしいことでもないのであるが余にはそれが非常にむつかしい。つまり数学と英語と二つの敵を一時に引き受けたからたまらない。とうとう学年試験の結果幾何学の点が足らないで落第した。」(子規『墨汁一滴(明治三十四年)』全集十一)
幾何学で子規を含めて大量の不合格認定を受けているが子規が指摘しているような英語ができなかったことが不合格に直接結びついたか否かは甚だ疑問である。同じ隈本が担任した代数では九十二・五点という高得点を取っており平均点は七〇・〇点で百十六人中七十番であった。因みに漱石は七二・二点で二十七番である。英語の履修は特に問題がなく代数学は高得点で幾何学の試験問題が特に難解でないにもかかわらず落第者多いということは、大学予備門に入学した学生においても子規を含めて西欧的・哲学的な論理思考と分析能力が決定的に欠如しておりことが主原因で併せて英語学力の不足と不勉強の当然の結果といえよう。
子規は近代的思考(論理的思考・分析的思考)への強い関心があったが理解する手段としての英語力が不足していた。前近代的な松山の学問風土が足枷となったとも云える。当時の西欧的な文献の学習としては@外国語(西欧語)で書かれた文献(原書)A日本語に翻訳された文献(翻訳語=新・日本語)B西欧的な知識を基にして書かれた文献(啓蒙語)C多少とも西欧的な要素を抽出することの出来る文献(啓蒙語)」であるが、子規はBCが中心であり@Aが前提の哲学・法律学・自然科学系統の理解は不十分であった。当初の太政大臣や哲学者志望から文学志望へ転換したのは当然の成り行きであり、子規にとっても幸運な選択であったといえよう。(松井利彦『正岡子規』)
三 子規・漱石の描く隈本有尚と数学
子規が落第した幾何学や担任の隈本有尚への受け止め方が時間の経過と共に微妙に変化していく。
「余が落第したのは幾何学に落第したといふよりもむしろ英語に落第したといふ方が適当であらう。(中略)落第してからは二度目の復習であるから初のやうにない、余程分り易い。コンヴアースやオツポジトを英語でしやべる位は無造作に出来るやうになつたが、惜しい事には此時の先生はもう隈本先生では無く、日本語づくめの平凡な先生であつた。併し此落第のために幾何学の初歩が心に会得せられ、従って此幾何学の初歩に非常に興味を感ずるようになり、それにつゞいては、数学は非常に下手で且つ無知識であるけれど試験さへ無くば理論を聞くのも面白いであろうという考を今に持って居る。これは隈本先生の御蔭かもしれない。」(子規『墨汁一滴(明治三十四年)』全集十一)
以下は子規の数学一般に関する記述である。
国債ヲ償却スル説 『自笑文草』 (明治十二年) 全集九
数論 『無花果艸紙』 (明治十九年) 全集九
幾何学生脳中哲学的解剖 『無花果艸紙』 (明治十九年) 全集九
試験の点数 『筆まか勢』 (明治二十二年) 全集十
数学のしゃれ 『筆任勢』 (明治二十二年) 全集十
試験のずる 『筆任勢』 (明治二十三年) 全集十
試験さまざま 『墨汁一滴』 (明治三十四年) 全集十一
漱石は子規と異なり熊本有尚へは眼差しは暖かいし、江東義塾の教師として学生に地理書や幾何学を教えた際には隈本有尚の教授法をそっくり真似ている。
「この成立学舎と云ふのは、駿河台の今の曽我祐準さん(注:子爵、東宮太夫)の隣に在ったもので、校舎と云ふのは、それは随分不潔な、殺風景極まるものであった。窓には戸がないから、冬の日などは寒い風がヒユウヒユウと吹き曝し、教場へは下駄を履いたまゝ上がるといふ風で、教師などは大抵大学生が学資を得るために、内職として勤めてゐるのが多かった。でも、当時この塾舎の学生として居た者で、目今有要な地位を得てゐる者が少なくない。一寸例を挙げて言って見ると、前の長崎高等商業学校長をしてゐた隈本有尚、故人の日高真実、実業家の植村俊平、それから新渡戸博士諸氏などで、この外にも未だあるだろう。隈本氏はその頃、教師と生徒との中間位のところに居たやうに思う。又新渡戸稲造樽士は、既に札幌農学校を済して、大学専科に通ひながら、その間に来てゐたように覚えて居る。」「又、英語は斯ういふ風にやつたらよかろうという自覚もなし、唯早く、一日も早くどんな書物を見ても、何が書いてあるかといふことを知りたくて堪らなかった。」「私は又数学に就ても非常に苦しめられたもので、数学の時間はボールドの前に引き出されて、その侭一時間 位立往生したやうなことがよくあつた。」(漱石『私の経過した学生時代』全集十六)
「中村(是公)と自分は此の私塾(注:江東義塾)の教師であった。二人とも月給を五円づつ貰って日に二時間ほど教えていた。自分は英語で地理書や幾何学を教えた。幾何の説明をやる時、どうしても一所になるべき線が、一所にならないので困った事がある。所が込み入った図を、太い線で書いているうちに其の線が二つ、黒板の上で重なり合って一所になって呉れたのは嬉しかった。(漱石『永日小品』全集八)
四 隈本有尚先生の描く子規・漱石と数学
子規、漱石の視点から隈本有尚を記述したが、教師としての隈本は子規、漱石をいかに眺めていたのだろうか。
 「漱石君が隈本をもって当時(教師と生徒の中間)云々とされるのは(注:漱石『私の経過した学生時代』記載)一面に於いて或いは自分の服装が如何にも疎末であって生徒と選ぶところがなかったためでもあろうか。受持は数学(特に幾何)を主とし、時には英語・万国史(英書による)などに於いて補欠授業のことをなした。 (略) さもあらばあれ、彼の漱石君が隈本をもって当時(教師と生徒の中間)云々とされるのも亦或いは一義においてこの間の雰囲気(師弟間の親近味)に匹敵するのではないだろうか? (略) 談ここまで来るとき、第三者あるいは自分の幾何初歩ゆえに無暗に落第する者ありしやに早合点しようかなれど実はそうではない。総じて一科目に於いて微力な者はまた常例として他の科目にも不覚を取る(正岡君の如きは例外) (略) 英語として幾何初歩では僅々の語数に限られ、句法に至っても同じ型の反復なるに過ぎぬ。然らば難関は論理の徹底を期するところにあろう (略) 論理上の修練を重ねるためには邦語もってするよりもむしろ英語もってする方、目的の貫徹上捷径でもある。」(隈本有尚『過去六十年の憶出』)
自らの教授法に関する確固たる自信が漲っているし、英語を通して論理上の修練、欧米文化の理解は今日にも通用する論理といえよう。尚、記述が正しいとすれば、子規は幾何学一科のみの成績が極端に悪く平均点七〇の合格点を取りながら不合格を認定されたことを裏打ちしている。
五 隈本有尚の経歴
 隈本有尚と漱石・子規は師弟の関係ではあるが年齢は僅か七歳差があるにすぎない。隈本は万延元年(一八六〇)漱石、子規は共に明治元年(一八六八)に生まれている。隈本が英語、数学に秀でている秘密を小松醇郎と河西善治の著作を参考にしてその生い立ちから垣間見ることにする。
(久留米時代)
 万延元年(一八六〇)六月七日久留米市に生まれた。井上某の三男で幼名は井上木六郎である。生後まもなく隈本家の養子となっている。明治五年(一八七二)十一歳で好生館(洋学所)に入学する。好生館では久留米藩の藩校で進取的な藩主有馬頼永の近習役で国禁を破って海外留学した柘植善吾に学んだ。十一月には柳川藩の洋学校と合併し宮本中学校になり隈本は翌六年に進学する。ここで英人宣教師ジョージ・オーウェンから英語と幾何学と地理を学び、星学は博物学で学習した。同七年二月江藤新平の乱が起こり年末には学校は閉鎖された。彼は成績抜群で助教も兼ねており、閉鎖に当ってペルキンス代数学、幾何学、三角法、ウェブスター大辞書を与えられている。参考までに愛媛県と比較する。慶応義塾出身の小林小太郎が明治元年松山藩洋学司教を拝命したが実効があがらず革新的な岩村高俊愛媛県権令により(県立)英学所が誕生し同じく慶応義塾出身の草間時福が総長(所長)として赴任したのが同八年である。翌九年に愛媛県変則中学校として本格的に松山で英学教育が実施されることになった。当代の松山の前途有為な青年達が如何に近代的な教育、延ては日本の近 代化から取り残されていたかの証左とも云えよう。
(遊学時代)
 翌八年上京し東京英語学校、開成学校予科を経て同十一年(一九七八)東京大学理学部(数学・物理・星学科)に入学する。理学部の同級は田中館愛橘や藤沢利喜太郎ら僅か四名で星学科は隈本一人で教師もT・Cメンデホール一人であった。大学教授としての将来を約束された隈本ではあったが、明治十五年七月五日の卒業式で卒業証書を破棄し学位認定を受けられなかった。「人物の真価豈一枚の紙を以て定むるを得んや」(『東京日の出新聞』明治四十一年九月二十二日付)とも理学部長菊池大麓への不満とも若気の至りとも言われるが詳細は不明である。この無鉄砲こそが隈本有尚の真骨頂であり権威に対する反発は終生変わらなかった。翌十六年星学科を修了し(注:学位は付与されていない)、理学部星学科補助として雇入られ、副業の成立学舎の教師として学生漱石と出会う。小説『坊つちやん』の数学教師堀田(山嵐)の姿に隈本有尚の虚像を潜り込ませたかもしれない。
 明治十七年(一八八四)五月東京数学会社(注:明治十年創立で日本数学会と日本物理学界の母体。)に入社、事務記録員に選ばれている。同年九月東京大学予備門教諭となり入学試業委員に任ぜられて成立学舎を辞任、同十一月東京大学理学部准助教授となった。十二月には羅馬字会の発起人会が開かれ戸山正一、寺尾壽、矢田部良吉、小川健次郎、松井直吉、北尾次郎とともに創立委員となり翌十八年一月に「羅馬字会」が設立された。この間数多くの論文を発表しているが、革新的な数学者としての最後の論文は「マトリックス理論」の初紹介であり我国数学会への功績は大であると云う。明治十年代この理論を理解できた唯一の数学者であったと小松醇郎は指摘している。
(修猷館館長時代)
 東京大学理学部准助教授の隈本が郷里に近いとは云え何故新設された福岡の修猷館に移ったかは不明である。修猷館は元々福岡黒田藩の藩校であるが、修猷館を出て米国ハーバード大学で学んだ金子堅太郎と当時東京大学助教授であった同郷の団琢磨によって「福岡県立英語専修修猷館」として再興させ館長として隈本を起用した。数学、物理を担当し館長(校長)としては儒学ではなく欧米の哲学、倫理学を講じた。修猷館館長当時の逸話として生徒であった緒方竹虎は「自転車の流行し初めで、隈本館長は特にハンドルを高く作らせてペタルを踏みながら少しも姿勢の崩れないようにし、西新町の油屋の角を曲がる時など、道の真中を直角に曲るといった駛り方だった。」と『修猷館物語』の中で懐かしく回顧している。
 明治三十年十一月九日、漱石は熊本高等学校教授時代に英語授業の視察で修猷館を訪れ隈本館長に面会している。(荒正人『漱石研究年表』)「福岡佐賀二県尋常中学校参観報告」(全集十八)に「傾向西洋人ヲ使用セザル学校ニ於テ斯ノ如ク正則的ニ授業スルハ稀ニ見ル所ニシテ、従ッテ其ノ功績モ此方面ニ向ッテハ顕著ナルベキヲ信ズ。」と絶賛している。成立学舎、大学予備門当時の記憶が甦ったに違いあるまい。日常生活でも学校生活でも正に幾何学的な妥協を許さない厳格な行動をしていたものと思われる。
(山口高等学校教頭時代)
 隈本有尚に関する資料は極めて少ない。平成十二年に河西善治氏が「『坊っちゃん』とシュタイナー 隈本有尚とその時代」を著し次第に謎の部分が解明されてきている。河西氏は山口高校教頭当時の事件を通して漱石の『坊つちやん』に登場する数学教師「山嵐」に見立てて彼の紹介している。この著作を参考にしつつ私なりの岡本有尚の実像と虚像を描くことにする。
 山口高等中学校は文部大臣直轄で経営は防長教育会が当たる半官半民の特別学校で、明治十九年に日本で第三番目の高等中学校として開設され、旧長州藩の子弟を教育することが主眼であり県下の子弟は無試験優先入学であった。(注:明治二十年在籍七十五名中山口県出身者七十五名、明治二十一年在籍百十七名中同県出身者百八名・・・明治二十六年在籍二百八十一名中同県出身者二百二十七名)
 まさに『坊つちやん』(全集二)に記載の通り「本県の中学は昔時より善良温傾の気風を以て全国の羨望する所なりしが、軽薄なる二豎子の為に吾校の特権を毀損せられて、此不面目を全市に受けたる以上は、吾人は奮然として起つて其責任を間はざるを得ず。」であり、「廿五万石の城下(毛利二十七万石)だ抔と威張ってる人間は可哀想なものだと考へながら・・・」半官半民の特別学校なるが故に師範学校との喧嘩では「先を争つた衝突は、折合がついたには相違ないが、つまり中学校が譲ったのである。資格から云うと師範学校の方が上だそうだ。」という中途半端な高等中学校であった。
(注:漱石の「中学改良策」に「但し第一及び山口高等中学校を除いては予科の下に補充科ありて云々」(全集十七巻)との記述がある。)
 尚漱石の『坊つちやん』の背景を松山中学校と信じる松山人には申し訳ないが(執筆者も松山人であるが)漱石の原稿では「中国辺りのある中学校」が後で「四国辺りある中学校」に修正されており「住田」という温泉を「湯田」とすると辻褄が合ってくる。俳誌「ほととぎす」の明治三十九年四月号で『坊つちやん』は発表されたが、同じ号に掲載された「我輩は猫である 十」(全集一)で「千人近くの生徒がみんな退校になつたら、教師も衣食の途に窮するかも知れない。」(全集一巻)と教師の身を案じている。同年二、三月号の(八)(九)の凌雲館学校のベースボール事件やラブレター事件を考察すると『坊つちやん』イコール松山と特定することに疑問があるが本題と離れるので割愛する。
 この山口高等中学校の教頭(教授兼任)として隈本は明治二十三年(一八九〇)に赴任し同二十七年に辞任していた。明治二十六年十一月に寄宿生百二十名による暴動が発生した。事件の概要を新聞記事から拾う。 
「去る四日生徒非常の暴行をなしたることは電報にて掲げたるが、詳報によれば、同校生徒は、教頭(注:隈本有尚 熊本県人)を始め教員一同他県人にて、同県人は嘱託教員二名のみなれば教員と生徒との間温かならず、生徒は他県人の圧制を受くるとて不平鬱積し居たる矢先、三日の天長節に修学流行をなし翌日は休業せんことを望みしに聞き届けられずして譴責をさえ蒙むりたるより不平一時に勃発し、その夕同窓学生の送別会を好機として教員の不都合を攻撃し、一同団結して学生の権利を伸張するの運動をなさんと決意し、撤を飛ばして翌日は寄宿生百二十余名病と称して教室に出でず。
同校寄宿の規則として午後九時までは灯火を消すべからざる筈なるに夜に入るや各室一斉に灯を滅して、舎監が立ち出でて規則違反なるを諭したるに、一同取り合わざるのみか椅子を飛ばして机を叩いて喧噪しつゝ兼で合図したりと見え、一発の空砲響くと共に百二十余名一度に鯨波を揚げ、再度の空砲にて演習用の喞筒を取り出し、教授兼舎監井原百介氏を応接室内に押し込め硝子窓を破り、そこより喞筒を差し向けて冷水を注ぎ水責めの苦を逢わせたる上に数十の小銃を連発したり。 
井原氏(注:山口県人)は硝子窓の一方を打ち破り命からがら逃げ出して校長河内信朝氏(注:山口県人)に報じ、学生は勝鬨を揚げて各寄宿屋に引き取りたる勢いの凄まじさ、山口の市中にては何事起こりしかと一時警戒せしほどなりき 。
翌五日早朝、河内校長以下臨時に登校し前夜の暴行を詰責せしに、学生はこれに抵抗して一片の意見書を差し出したるにぞ、校長は一時寄宿生一同に退舎を命じ、同校職員、商議員、県官等と会合して種々協議したるが、六日午後に至り寄宿舎各室の机長一組一名の上級生)は主唱者なりと自白せしかば、机長十九名を除名し他の寄宿生八十八名に謹慎を命じたるに、生徒全体は飽くまで素志を貫徹せんとて処分に服せず机長の職を復せし上、我々の希望を容るゝにあらざれば同盟休業して断然登校せざる旨を答え、頑として動かずと云う。(『都新聞』明治二十六年十一月十二日付)
「世人は事の真面目を知らざれども、紛擾の原因は修身教授(注:谷本富 香川県人 漱石と帝大同年)の失策に在るのみ。当地の学生は先ず温順にして軽率粗暴のそしり少なき方にてありしに、教育家が何思いけん大に土人の義気を養うなど称して維新の際、不図名を挙げたるかのいわゆる正義の人々の言行を賞揚し、その憤慨悲憤の詩歌などを以て檄性の志気を学生の間に煽ぎ立て、日常些細の事にも殺身成仁の寸方を当てはめ、ついに教育の主旨は吉田、高杉等の人物を育成するに在りなどの奇論も出で、学生の胸中には慷慨の気焔漸く燃え立ち何か憤怒すべき事もあらば爆裂せんとあたかもその機会を待つの折り柄、何か教場に不平の事をかもしその事情次第くに重なりてはしなく寄宿舎の騒動となりしより、平生温厚の生徒も義勇を顕わすの好機会到来したりとて、親も身も顧みず勇み進んでその団結はなはだ堅く、今日のところにてはほとんど全生徒の除名となり教職員は閉校して命を待つのみ。徳育の目的達し得て事実に現れるたるところ。」(『時事新報』明治二十六年年十一月十六日付)
 事件の真相はともかく、事件当時の校長は河内信朝(山口県)舎監(教授)井原百介(山口県)舎監心得(助教授)池田勝太郎(広島県)で教頭は隈本有尚、修身担当は谷本富で東京大学で漱石と同期の香川県出身であった。校長以下更迭されたが余所者(山口県以外者)である隈本と谷本は免職となり学生は「再入学願書」を提出し全員復学している。まさに『坊つちやん』に於ける江戸っ子「坊つちやん」と会津っぽ「山嵐」こと堀田の結末と同様である。
更に興味深いのは事件終了後山口高等中学校の汚名を挽回すべく東京大学出身教官で学校の格上げを図った。校長には漱石の府立一中、東大の先輩の岡田良平、舎監(教授)には漱石、子規とも同期で親しい東大同期の菊池謙次郎、教頭には東大数学科卒業の北条時敬が就任した。修身担当の谷本教授の後任には夏目漱石が充てられ菊池謙次郎から事前の働き掛けがあったことが書簡(注:明治二十八年三月十八日付)にも残されている。又斉藤学宛書簡(同二十八年七月二十六日付)で松山中学校赴任後も引き続き同高等学校への招聘があったことは明白である。漱石は山口高校事件特に隈本教頭の動向を熟知しており「中国辺りの(高等)中学校」の赴任を辞退し「四国辺りの中学校」である松山中学校に明治二十八年赴任することになった。同年隈本は失意の中で再び修猷館館長に復職する。この事件に対蹠した隈本教頭の記録はないが『坊つちやん』での「寄宿生処分会議」と「うらなり送別会」での「山嵐」こと数学教師堀田の演説は熊本教頭のこの事件での発言が下敷きにあったのかもしれない。
(後半生)
 明治三十五年文部省視学官、明治三十七年東京高等商業学校教授兼視学官、明治三十八年長崎高等商業学校長を歴任し明治四十二年(一九〇九)五十歳で(定年)退職する。同年請われて京城居留民団立京城中学校長(教諭兼務)に就任、大正二年朝鮮総督府中学校長(教諭兼務)を最後に公職を終了し東京に移住する。長崎高商時代には数学を離れ哲学・倫理学へ傾斜し、学生に対して厳格な訓育を行ない教育者に徹した。引退後は「得意の天文学の知識をつかって占星学、すなわち易の科学的研究から、相場師の運勢を占っ」(川添昭二「掲書」)たり、「ルドルフ・シュタイナーの精神科学としての人智学を紹介者として」(河西善治「掲書」)昭和十八年十一月二十六日没するまで精力的に生き抜いた。墓は鶴見の総持寺にある。享年八十四歳であった。
 最後に数学者熊本有尚の律儀かつ一本気な妥協を知らぬ「山嵐」的な世に「哲学館事件」と称せられる逸話を紹介しておきたい。
 明治三十五年(一九〇二)十月二十五日から三十日まで、井上円了創説の哲学館(現東洋大学)で卒業試験が行われた。当時私学で卒業生に中等教員無試験検定を与えられていたのはと哲学館、早稲田、慶応の三校だけであった。文部省規定によりその卒業試験に視学官隈本有尚、隈本繁吉(後に第六高校長)の両名が臨席した。
 隈本有尚は倫理の試験問題中の「動機善にして悪なる行為ありや」に対する一生徒の答に疑義を認める。この生徒は、イギリス人ミューアヘッドの『倫理学』(桑木厳翼訳)中のクロムウエルの言葉「動機が善ならば弑逆をなすのもやむえない」という説を書いていた。隈本は教授法に問題ありとして、上司の岡田良平総務長官(次官)に報告する。文部大臣は東京大学の恩師である菊池大麓であった。文部省は省議で哲学館の無試験検定認可取り消しを決定する。世論験然となり、新開雑誌は文部省の処置を批判する。隈本は読売新聞に自らの見解を披瀝している。
「若し目的が善ければ手段は構はぬとすれば、伊庭想太郎や島田一郎、来島恒喜、西野文太郎の行為も非認されぬ訳となり、日本の国体上容易ならぬ事になりませうから、学説は学説として、講師たる人は学生の誤解を避くる為め、説明を加へ、批評を添へねばなりません。私は免許を取上げる程の事ではないと思っていましたが、省議では学説の批評をせぬのは注意を欠いたもので、文部省では之の過失を認めたのであります。」(『読売新聞』明治三十六年一月二十八日付)明治四十年五月文部省はほとぼりの冷めるのを待って哲学館に中等教員無試験検定免許資格を再取得させて決着した。
六 おわりに
 漱石の小説『坊つちやん』が高浜虚子が主宰する俳誌『ほととぎす』に掲載されたのは明治三十九年(一九〇五)四月号であり、岩波版全集では明治三十九年四月一日となっている。平成十八年(二〇〇五)は小説『坊つちやん』が発表されてから一〇〇年に当たる。松山市ではこの機会に「坊つちやん」を観光ブランドとして「街おこし」を新たに計画中であり行政、財界、学会はじめ各種団体を通して小説『坊つちやん』の再評価と再生気運が高まってくると考える。「坊つちやん」愛好家から改めてモデル話が話題になることも当然に予想される。
 近藤英雄『坊っちゃん秘話』によれば「坊つちやん」は夏目漱石、弘中又一「狸」は住田昇、横地石太郎「赤シャツ」は西川忠太郎、沢幸次郎、中村宗太郎、横地石太郎「うらなり」は梅木忠朴「山嵐」は渡部政和、「野だいこ」は高瀬半哉が当てられている。漱石は一笑に付しており大谷繞石宛に「山嵐の如きは中学のみならず高等学校にも大学にも居らぬ事と存侯然しノダの如きは累々然としてコロがり居侯。・・・僕は教育者として適任と見做さるゝ狸や赤シャツよりも不適任なる山嵐や坊つちやんを愛し侯。」(明治三十九年四月四日付)と率直に書き送っている。後年「もう一つ困るのは、松山中学にあの小説の中の山嵐といふ綽名の教師と寸分も違はぬのがゐるといふので、漱石はあの男のことをかいたんだといはれているのだ。決してそんなつもりぢゃないのだから閉口した。」(漱石『僕の昔』全集十六巻)と述懐している。漱石が「山嵐」のモデルに拘泥するのはそれだけ思い入れが深いことの証左であろう。河西善治は「山嵐」のモデルを隈本有尚としているが、隈本の性格と教育者としての実像が類型とし当てはまると判断していると考える。
 星学(天文学)と幾何学、数学を専攻し倫理学を教授した隈本有尚を今回子規と漱石の大学予備門の師弟として描いたが、偶然にも漱石の『坊つちやん』発表一〇〇年の時期と重なった。同時に東京大学星学専攻の第一回生に相応しく大学予備門教師隈本有尚について七十六年周期で太陽をまわる短周期彗星であるハレー彗星のように松山子規会第七五五回例会で発表できたことに感謝している。明治四十三年(一九一〇)五月ハレー彗星が地球に接近し大きな話題となった時には隈本は朝鮮の統監府中学校長の要職にあったが、星学者として去来した感慨は如何なるものであったか。残念ながら記録は残されてはいない。
(注)小論中「坊っちゃん」「坊つちやん」の異なる表示があるが、岩波版全集『坊つちやん』をベースにし各著書については標題の通りとした。
(注080518) 隈本有尚は、ルドルフ・シュタイナー(1861〜1925)によって創設された「人智学協会:に所属していた。同会とゾロアスターとの関連に触れた著述を目にした。青木健著「ゾロアスター教」(講談社選書メチエ・p190〜)尚、ゾロアスター教の創始者「ザラスシュトラ・スピターマ」の英語読みが「ゾロアスター」ドイツ語では「ツアラトストラ」である。ニーチェの「ツアラトストラかく語りき」、ナチス・ドイツ第三帝国、アーリア民族至上主義に結びつく。彼の星占術の根底にはゾロアスター教がある筈だが・・・
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【追記】090626 田村貞雄氏から『山口県地方史研究』第101号掲載の「夏目漱石『坊っちやん』の舞台 ー山口高等中学校寄宿舎騒動―」の抜き刷りを受けた。小論への批判もあり、参照していただきたい。