眠り月
水着と常識人
出かけてもいいかと思った。
ただそれだけなのに、どうして俺は毎度毎度こんな目に遭うんだろうか。
水着と常識人
血迷って最低最悪な行動に出たど阿呆――もはや名前も思い出したくない――を思わず殴り飛ばして追い出したのがアダとなり、さしみの日以来俺の体はおかしくなったままである。
幸か不幸か、胸の膨らみは大したことがなく、声や顔だちもさして変わってないので、男として通しているものの、あまり長く続くと参る、と思うのは俺だけらしい。
両親が動じた様子もなくそれを容認したのは言うまでもなく、奏は目をキラキラ輝かせ、
「ねーちゃんねーちゃん」
と懐いてくる。
ただ懐くだけならまだしも、
「ねーちゃんこれ着なよー」
と笑顔で差し出すのは、自分が買い与えられておきながら「趣味じゃない」と一刀両断して一度も身につけていないワンピースだったりする。
あるいは、どこから持ってきたのか分からないような、レースやフリルがみっしりついた下着だったりもした。
正直、奏ははしゃぎすぎている。
「ねーちゃん、一緒に風呂はいろー」
なんて言って来るのはどうしたことだ。
俺が本来男だってことも、俺の中身は変わってないってことも、分かってるくせに。
「だって俺、孝太が姉ならいいなってずっと思ってたんだもん」
悪びれもせずに奏は言ったが、色々とひっかかる。
「姉が欲しかったとかじゃなくて、俺が姉ならってのはなんだよ」
「そのまんまだって。孝太っておにーちゃんって言うよりおねーちゃんって感じじゃん?」
「どういう意味だ」
「そのまんまー」
にやにやしながら奏は言い、
「そんなことよりさ、」
と話を元に戻そうとするので、
「だめだ。大体、本当に元々姉妹だったとしても、いい年して一緒に風呂はないだろ」
「じゃあ温泉行こう! お風呂屋さんでもいいや」
「断る!」
「えええー」
「えーじゃない」
「えーじゃなくて、えええー、って言ったけど」
「揚げ足取るな」
ぺし、と奏の頭を叩いて、
「とにかく、俺はお前と一緒に風呂なんて入らんし、そもそも俺は本来男なんだから、男兄弟と出来ないようなことをしたがるんじゃない」
「むー…」
文句を言いながらも奏は引き下がってくれた。
………と、思ったのが大間違いだったんだろうか。
「ねーちゃーんっ!」
歓声を上げながら奏が部屋に飛び込んで来たので、一体何事かと思いつつ、とりあえずはと、
「ねーちゃんって言うな」
とお決まりと化しつつある言葉を投げつけておく。
当然、奏はまるきりスルーして、
「なあなあなあ、一緒に水着買いに行こうぜ! リィもつれて、お揃いの水着ー!」
「はあ?」
「で、ここに行こう!」
そう言って奏は勢いよく、
「ジャーン!」
なんて今時聞かないような効果音を口にしながら、俺の目の前にそれを突きつけたのはいいが、
「……近すぎて見えん」
「あれ? ねーちゃんって遠視だったっけ?」
「常識的に、顔に密着したものは見えんだろうが!」
頼むからもうちょっと落ち着け!
「あー、ごっめーん」
てへっ、とかなんとか不気味なほどかわいこぶった仕草をして俺を怯えさせた奏は、ようやくそれを見える位置にまで下げた。
「……プール?」
「そそそ。ほら、最近出来たホテルがあるだろ? あそこの目玉のひとつで、リゾートっぽい豪勢なプールがあるんだ。たまたまタダ券もらったから、一緒に行こうよー」
らしくもない甘え声でなあなあとねだる奏に、タダ券の出所を聞くのは辞めておいた方がいいんだろう。
どうせ、聞いて後悔するか、はぐらかされるかのどちらかだ。
よって、俺はため息と共に短く返答した。
「断る」
「えええええええー!」
大げさに叫んだ奏はがしっと俺の肩を掴み、
「なんでだよー。いーじゃん、プールくらい! あ、プールがダメならスパでもいいけどさ」
「そっちも断る!」
「ねーちゃんワガママー」
「お前だろ」
わがままなのも、ちゃんと女なのも。
「プールー。プール行きたいー」
「ひとりで…」
…は危ないか。
「誰か女の子の友達と行って来い」
「やだー! ねーちゃんと行くー!」
駄々っ子のように喚いて、奏は俺に抱きついて来た。
…俺の体がこうなってから、前より更にスキンシップ過剰な気がするんだが、中身はちゃんと兄貴だと分かってんだろうかこいつは。
「わがまま言うな」
「ねーちゃんこそワガママ言うなー。暑いんだからプールくらいいいじゃん! 水着くらい買ってもいいって母さんも言ってるしー」
「嫌だって言ってんだろ」
「リィだってプールに連れて行ってやりたいじゃん」
「む…」
そう言われると少しばかり揺らぐものがあるが、女物の水着なんて死んでも着たくない。
「別に、もろ女の子しいの着せようなんて企んでないってば。あたしだって、そういうの着るのはめんどいって思うし。だから、いいだろ? プール行くと涼しいしさー」
「ちなみにどういうのを考えてるんだ?」
怖々聞いてみると、奏は嬉しそうににんまりと笑って、
「トランクスタイプで、上にハイネックのノースリーブシャツみたいなのを重ねるやつ。それなら、いいだろ? 見かけた時から、これならねーちゃんも着てくれそうだなって思ってたんだー」
「む……」
確かにそれならさほど抵抗はないが、
「……女子更衣室で着替えてってのは……なあ…」
「今は女の子なんだから気にしなくっていいって。それとも何? ねーちゃんってば、女の子の裸に欲情して襲っちゃったりする?」
「するわけないだろ」
「んじゃ、問題ないよな」
にかっと晴れやかに笑って見せた奏は、
「さー、水着が売り切れてなくなる前に買いに行くぞー!」
と宣言するなり、俺をリィの手を引っ掴んで家を飛び出した。
あれよあれよと言う間に水着の試着をさせられ、ついでにとあれこれ菓子だの飲物だのを買い込んで、家に帰った時にはもうぐったりしていた。
「…まさか今日、これからプールに行くとは言わないだろうな……?」
怖々尋ねると、奏は軽く笑って、
「そりゃねー。今から行ってもあんまり遊べないし。だから、明日の朝一で行こうな!」
と救いにはとても思えないことを言ったのだった。
そして、奏が宣言した以上それは実行される。
翌朝、いつものようにさぼとリィに起された俺を待っていたのは、
「遅いぞー」
とかなんとか言いながら人の家のリビングでアイスキャンディーを舐めている和貴と、うきうきわくわくしているリィと奏だった。
さぼは落ち着いてはいるが、どうやらついてくることになっているようでもある。
「……大人数だな」
「あ、だいじょーぶだいじょーぶ。大江は自腹だから」
へらりと笑って奏が答えたが、そういう問題じゃない。
これだけの人数の、しかもどちらかというと目立つ、風変わりな奴等をつれていくというのが心配なんだ。
どう考えても制御しきれるとは思えない。
おまけに、プールということは頼りにしたいさぼが自由に動けず、さぼに頼れないということだ。
「…ちゃんと言うこと聞けよ」
まるで小さな子供に言うようなことをため息と共に呟くと、
「はーい」
と返事だけは元気よく、ピッタリ揃って返ってきた。
……ほんと、どうなるんだこれ。
そうしてやってきたプールは、本当に立派なものだった。
生い茂るジャングルめいた木々の林。
波を打ち寄せる浜辺を模したプール。
足元が砂でない以外はまるきり本物のビーチみたいだ。
「…なんでこんなもんをこんな田舎に……」
「田舎だからこそじゃね?」
と奏は笑ったが、実際どういうことなんだかさっぱりだ。
初めて見る光景にぽかんとしているリィには、
「言うまでもないとは思うが、さぼと離れないようにな。…出来れば俺からも離れるなと言っときたいところだが、俺がお前らの動きについて行くのは無理だから、二人で楽しんで来い」
「……はい」
小さく頷いて、でもリィは少し迷うように俺を見つめた。
「……母様と一緒にいたい…」
「………それも別にいいが、俺は精々ちょっと水で遊んだらぼーっとするくらいだから、遊んできたらどうだ? 心配しなくても、ちゃんといるから。……な?」
プールに入る前にシャワーで濡れた髪をくしゃりと撫でてやると、リィはくすぐったそうに目を細め、それからさぼが乗っかっている麦藁帽子を頭に乗せた。
「いってきます!」
「ああ、気をつけてな」
プールサイドを走るのは危ないと思うのだが、リィの運動神経なら問題ないだろう。
ぱたぱたと走って行く水色に灰色のラインの入った水着を見送った俺は小さく息を吐いて、ほどよい温度の水にちゃぷりと脚をつけた。
奏と和貴はというと、ビーチボールで遊んでいる……といえば非常に微笑ましく聞こえるだろうが、物凄い音がするような勢いでのボールのやりとりが微笑ましく見える人間はまずいないだろう。
せめて他の人間を巻き込むなよ、と祈るような気持ちを抱きつつ、全力で他人のふりをして水に入った。
冷たすぎもしなければ、かといって温いわけでもない水は、素直に気持ちいい。
波のように揺れる水の動きに合わせて漂うと疲れが少しは取れるように思った。
人間もやはり海から来た生き物なんだなぁとどうでもいいことを考えつつ、ぼんやりと天を仰ぐ。
ガラス張りの天上から降り注ぐ日差しは眩しいのだが、刺すような痛みにはならない。
…こんなところにずっといるとダメな人間になりそうだ。
ともあれ、せっかくだからとしっかり泳ぎ始めた。
なお、更衣室でのあれこれをわざわざ口にしたくはないので聞かないでもらいたい。
あえて言うことがあるとするならば、俺はちゃんと水着を着て来たし、帰りは更衣室のロッカーの前ではなく、シャワーブースで着替えさせてもらうということくらいだろうか。
……気が滅入る。
ため息を吐くかわりに深く水に潜り、そのまましばらく泳ぎ通した。
こういうリゾート系のプールってのは、波に乗るとか友達とキャーキャー言って遊ぶためのものであって、泳ぐんだったら別のコーナーにあるそれ専用のところで泳ぐ方がいいんだろうが、子供の頃から海水浴なんかに行っている身としてはこういうざわついた中で泳ぐ方が楽しい。
ひとしきり泳いでプールサイドに戻り、空いていたビーチチェアに腰を下ろすと、
「泳ぎうまいね」
と声を掛けられた。
誰だ、と訝りながら顔を上げると、全く知らない奴で、余計に眉間のシワが寄る。
しかし、ここで不躾にするのもどうかと思い、
「……どうも」
と不機嫌に返しても、無駄に爽やかな笑みを浮かべた男はどうと言う様子もなく、
「水泳部とか?」
「違うけど」
「へえ、でも楽しそうに泳いでたね」
「……」
「君、どこの学校の子? あまり見たことないと思うんだけど、もしかして市外とか県外から?」
「………」
黙り込んでも何かしら話しかけてくる男にうんざりした時点で、俺はふと気付いた。
もしかしてこれはナンパなんだろうか、と。
それとほとんど同時だったと思う。
「母様に近寄るなっ!」
という声と共に黒い影が飛んでくるのと、
「ねーちゃんにナンパとは五百億年早い!」
という怒鳴り声と共に青いものが飛んできたのは。
それは見事に両サイドから男に衝突した。
青いものはさっきまで奏が遊んでいたビーチボールのはずなのだが、それがどうして人間の顔面を変形させられたのかと聞きたい。
それから、黒い影の方はリィである。
「危ないから飛び掛るんじゃな…」
習慣でそうたしなめようとした俺の目に飛び込んできたのは、緑色の巨大な塊だった。
「………さぼ…?」
目を点にしながらも巨体を見上げて問いかければ、うごうごと頷かれる。
リィが訳してくれたところによると、
「湿度と温度が高くて、成長しちゃったんだって」
とのことらしいんだが、それにしたって……と俺は人間サイズのさぼを見上げる。
申し訳なさそうにしているからなんとも文句はつけられないが、それにしたって……。
「…どうやって帰る?」
「着ぐるみってことにしたらいーじゃん」
お気楽に言った奏に俺は大いに呆れたのだが、なんでそれで押し通して帰れたのかが一番の謎になった。