眠り月

子供と常識人


さて、皆さん覚えておいでだろうか。
いつだったかにやってきたルーゲンタが、俺の扱いに憤慨(失笑)して、
「浮気してやります!」
などというわけの分からん主張をして逃げ去ったことを。
それっきり、俺はすっかりそのことを忘れ去っていたのだが、どうやらそれでは済ませてくれないのがルーゲンタだったらしい。

子供と常識人


それは突然やってきた。
前触れ?
そんなもん、あったら気が付いて逃げ出したに決まってる。
だから本当に突然だったのだ。
どれくらい突然だったかっつうと、ルーゲンタの初回訪問並みにだ。
あの時も本気で訳が分からんかったからな。
あれ以来のショックは結構度々あるものの、そうして指折り数えていけばまずランキングの上位に食い込むことは間違いねえな。
何がやってきたのか。
それは別に異形の化け物でも無機物としか思えない生き物でもなく、小さな子供の形をしていた。
形と言うか……小さな子供そのものだ。
くりっとした緑色の目に、真っ黒い髪、ふにふにした白い肌にバランスの悪い幼児体型。
ベージュのTシャツと灰色のズボンが意外とよく似合っているが、子供なら子供らしくもう少し明るい色彩の方がいいんじゃないのか?
もしもこれで子供じゃなかったらそういう別種の種族だと思うしかない。
その生き物は俺を見つめて、無表情なその顔を最小限度しか動かさずにこう言った。
「…母様」
と。
俺は子供から目をそらし、その背後でにったにったと気色悪く笑うルーゲンタを睨みつけた。
「何のつもりだ」
「何のつもりも何も、そのままですよ? ねー」
ルーゲンタが言うと、子供はかすかに首を斜めにし、
「…ねー?」
と小さな声で唱和した。
いや、語尾が上がっているように聞こえたから、意味が分からないからそのまま復唱して、意味を尋ねたのか?
どっちにせよ、
「お前、そこまでそいつに付き合ってやんなくっていいんだぞ。むしろ、そんな奴の真似をしてたら頭がおかしくなるかどうかするからやめときな」
「母様がそう言うなら」
「だから、俺は母様じゃないっつうに。大体俺は男だ。子供なんぞ産めるか!」
子供はむぅ、と眉を寄せたかと思うと、ばたばたっと走り去った。
どうせなら押入れの方に行きゃいいものを、わざわざ階段から下の階へと逃げていった。
追いかけるべきか、と思いはしたものの、その前に問い詰めるべきは目の前のこいつだろう。
俺はぎろりとルーゲンタを睨みつけ、
「で? 一体どういうつもりだ? あの子供はどこからさらってきた」
「さらってなんかいませんよ。あの子は私とあなたの子供です」
「死ね」
反射的に言っていた。
あの子供がいなくなっていてよかった。
子供の前で発していいような台詞じゃないからな。
「もう、そんなに照れなくていいじゃありませんか」
言いながら飛びついてこようとするルーゲンタを俺が蹴り飛ばすより早く、さぼが身を潜めていたサボテンハウスから飛び出し、ルーゲンタの頬を掠めて棚に着地した。
「またあなたですか…」
憎々しげに呟いたルーゲンタに睨まれてもさぼは怯まず、長く伸ばした棘を構えている。
俺はとりあえず座りなおして、
「で? ちゃんと説明しろ」
「だって、孝太が言ったじゃないですか。私が浮気しても別にいいって」
「浮気だろうが本気だろうが別に構わん。お前の興味が俺以外のものに向きゃ俺は楽になって万々歳だ」
そう吐き捨てれば、ルーゲンタはおめでたい笑みを浮かべつつ、
「もうっ、そう照れないでくださいよぅ!」
「これが照れてるように見えるんだったらお前もいよいよ末期だ」
死ぬ時は自分の国で死んでくれよ。
「あの子は何なんだ。本当にお前の子供か?」
「はい、私の子供ですよ。だから、孝太の子供でもあるってことで」
後半の戯言は聞き捨て、俺は言ってやった。
「自分の子供なら責任持って育てろ。こんなところに連れてくるんじゃない。大体、あの子の母親はどうした」
もしどこかに捨ててきたとか言ったら流石に縁を切るぞ。
「だから母親はあなたですってば」
「ルーゲンタ」
本気で睨むと、流石にルーゲンタもふざけるのをやめる気になったらしい。
軽く肩なんぞ竦めて、
「分かりました、正直に話せばいいんでしょ、話せば」
「俺は最初っからそう言ってんだろうが」
「あの子は孤児です」
それまで馬鹿みたいなことを言い続けていたかと思っていたら、いきなりそんなことを言い出すので、俺はぎょっとしてルーゲンタを見た。
しかし、ルーゲンタは特に深刻そうな顔もしていなければ、今の発言が重要だとも思っている様子もなかった。
「親に捨てられたのか、単純に生き別れたのか、それとも死に別れたのかなんてことは知りません。あの子も覚えていないようでした」
極普通の、ありふれたことであるかのようにルーゲンタはそう言った。
その口調にぞっとしたのは、俺が今のこの世界のぬるま湯のような平和に慣れきってしまっているからだろう。
いきなり熱湯か、あるいは氷水でも掛けられた気分になった。
俺の中の常識からすると、それは酷く衝撃的なことであり、そんなことになってしまうような世界を恐ろしいとしか思えないのだが、ルーゲンタも、それからどうやらさぼもそれが普通のことだと感じているようだった。
それを非常識だと言うことは流石に出来なかった。
奴等には、あるいはこの世界の住人でない奴等には、そっちの方が常識なんだろう。
それにしても、悲しすぎると思った。
傲慢に過ぎないのかもしれないが。
「どうかしましたか?」
眉を寄せてしまっていた俺に、ルーゲンタが聞いてきたが、俺は黙って首を振った。
ルーゲンタはまだ小首を傾げつつも、
「まあ、そういうことであの子を連れてきたことには別に何も問題はないんです」
「つうか、なんでそもそも連れてきたりしたんだ? お前、ひょっとしてロリコン?」
俺が聞くとルーゲンタは心外そうに、
「私は孝太一筋ですよ!」
と要らん主張をしやがった上で、俺が何か言うより早く、
「あの子を連れてきたのは、あの子が孝太そっくりで、しかも私にも似てたからです! 私と孝太に子供が出来たらあんな感じかなーなんて、思いまして」
きゃっと頬を染めて恥らうのは、可愛らしい女の子限定だと誰か教えてやってくれ。
俺?
俺はこいつに向かって、
「黙れ変態」
と罵るので精一杯だ。
「えー? だって似てるじゃないですかぁ。目の色は私そっくりで、髪の色や不遜すぎるくらいふてぶてしい態度は孝太そっくり。これはもう私達の子供にするしかないってもんでしょう」
「ふざけんな」
誰かこいつに常識ってもんを教えてやってくれ。
「つうかお前、どうするんだ? 本当に育てられるのか? お前に」
「えぇ? 何言ってんですか。育てるのは孝太の役目でしょう? 私が拾ってきたんですし」
「なんだそれ。お前絶対あれだろ、拾ってきた子猫なんかの面倒を看るって約束しといて、三日も経たないうちに忘れて母親とかにやらすタイプだろ。俺はお前の母親か?」
「そんな…! 孝太は私にとって母親よりもずっと大事な存在です」
「下らん話は要らねえっつってんだろうが。拾ってきた以上責任持って養育するんだろうな? ええ?」
そう凄んでやったってのにルーゲンタには堪えねえのか、
「でも、私が育てるよりは孝太が育てる方がきっといいと思うんです」
そりゃそうかもな。
だが、
「俺にそんな義理もなければ経済的余裕もねえよ」
「そこをなんとか」
「うるさい。とにかくお前がなんとかしろ、お前が」
「……」
ルーゲンタは答えず、いきなり部屋から逃げ出した。
「おいっ!?」
呼び止める俺にも構わず、階段を駆け下りる。
仕方なく俺もそれを追いかけると、ルーゲンタは居間に飛び込んでいた。
「待て! ルーゲンタ!」
怒鳴りながら俺もそこに足を踏み入れると、そこには母さんがさっきの子供を抱きかかえて立っていた。
「どうしたの? 孝ちゃん」
「…いや……母さんこそ、何やってんだ…?」
「え? あ、この子のこと? うふふ、可愛いわよねぇ。孝ちゃんのちっちゃい頃そーっくり」
嬉しそうに笑いながら母さんはその子供の頬っぺたを指先で優しくつっついた。
子供は照れ臭そうにしているが、満更でもない様子だ。
居間には奏もいて、
「孝太、この子本当になんなのさ。まさか孝太の隠し子?」
「んなわけあるか!」
と噛みつくように怒鳴れば、母さんに抱かれた子供がびくりと震えるのが分かった。
いかん、子供が側にいるってのに怒鳴るのはやっぱまずいよな。
俺はソファの影に潜んでいたルーゲンタを引きずり出すと、
「とにかく、お前が拾ってきたんならお前が責任取れ。俺は一切関知しないからな」
と言ってやった。
その時だ。
「……母様も、俺なんて要らないんだ」
ぽつり、と、酷く悲しげな声が俺の鼓膜に突き刺さった。
怖々振り向けば、絶望に緑の瞳を濁らせた子供がじっと俺を見つめている。
ついでに言うと、非難するような母さんと奏の視線も俺を刺す。
その母さんの腕の中からぴょこんと飛び降りた子供は、ルーゲンタに近づくと、
「父様、俺、元いたところに帰りたい」
「え? でも…」
「帰りたいんだ。このままここにいたって、迷惑なだけだろ?」
そう言って、子供は俺を見つめた。
「……母様、さよなら」
「…っ、待て!」
俺は二階に駆け戻ろうとした子供を慌てて抱きとめた。
恐ろしく細くて軽い体にぞっとしながら、
「お前、本当にいいのか? 分かってないのかもしれないが、ここはお前がいたのとは違う世界なんだぞ? 元いたところに戻れるかどうかも分からんし、お前の常識とこっちの常識は全然違う可能性だって高い。それでも、……ここに、いたいか?」
「……俺は、どこだっていい。でも、誰かに嫌な思いまでさせたくない。特に……母様には」
「……俺、そんなに似てるのか? お前の母親に」
「知らない」
知らないって…。
「だって、俺、本当の母様の顔なんて知らないから。でも、俺に母様がいたらこんなかなって、ずっと思ってたんだ。色々、考えた。髪はどんな色だろうとか、目はどんなだろう、優しいか怖いか泣き虫か、他にも色々。……だからさ、考えた中には母様そっくりのもあったんだよ。びっくりするくらい、そっくりで、嬉しくて、母様って呼んじゃったんだ。でも……だめだったよね」
泣きそうに顔を歪めながら言ったそいつに、俺は出来るだけ渋い顔を作って言った。
「…そうだな。母様なんて呼ばれるのは嬉しくない」
「ごめん…」
「だが、……兄ちゃんとか、そういうのならいいぞ」
「……え?」
首を傾げるそいつを抱きかかえて、俺は母さんに聞く。
「一人くらい、扶養家族が増えてもいいかな」
母さんは柔らかく微笑んで、
「一人でも二人でも大丈夫よ。孝ちゃんがいいなら、いくらだって」
「サンキュ」
そう笑い返し、俺は子供に笑みを向ける。
「だとさ。だから、今日からお前はうちの子だ。俺の子じゃなくても、いいだろ?」
子供が嬉しそうに笑う。
明るい、幸せそうな笑みにほっとした。
子供の顔はやっぱりこうでなきゃな。
「お前、名前は?」
「リィ」
「リィか。…随分可愛い名前だな」
俺は子供を床に下ろして、ルーゲンタに言った。
「戸籍とかなんかはお前が魔法でなんとかしろよ。それから、拾った以上責任持って時々様子を見に来ること。分かったな?」
「ええ、喜んで」
そう笑ったルーゲンタが体を屈め、リィに言う。
「よかったですね」
「うん。ありがとな、父様」
「いえいえ、どういたしまして」
俺はリィに、
「そいつのことは父様なんて呼ばなくていいぞ。代わりに、うちの親父をそう呼んでやってくれ」
「分かった」
ルーゲンタの「冷たいですぅ…」なんて苦情はシカトして、リィは俺を見つめると、
「これからよろしくお願いします。…母様」
「だから、兄ちゃんと呼べっつうに」
苦笑しながらも軽く頭を撫でてやると、たったそれだけだってのに、リィは本当に幸せそうに笑った。
これから、こいつは幸せになれるんだろうか。
いや、そうしてやらなきゃならない。
それが保護者の義務であり、責任ってもんだろう?