眠り月

こどもの日と常識人


自分が恐ろしいと思う瞬間がいくつかある。
たとえば、非常識すぎる連中および事象に慣れ過ぎていると感じられる瞬間。
あるいは、非常識なものに突っ込みもせず、スルーできるまでになってしまっていることを自覚した時。
何より、リィに「母様」と呼ばれ、素で返事をしてしまった時。

……普通の高校生に戻りたい。

こどもの日と常識人

「こどもの日ですねっ!」
と喜び勇んで俺の部屋の押入れから登場したのは、誰か言うまでもないはずなので割愛させてもらう。
ついでにいうと、存在ごと無視させてもらいたい。
「だめですよ、孝太。一応これは企画の一環なんですから。誰も彼もが私たちのことをよくよく知っていて、それこそ私とあなたがどれほどラブラブで熱々な関係かってことも、そりゃもうよぉおっくご存知な、織葉のやる気のかけらもないサイトとは状況が違うんですからね」
「あほか!!!」
よくそれだけ事実無根というほかないことを並べられるものだ。
いや、やろうと思えばこいつのことだ。
さらにいくらだって並べた挙句、指先一振りで事実の書き換えすら行いかねん。
だから俺は、こんなやつに白旗を揚げるようで、こいつを調子付かせるだけのようで非常に嫌だったのだが、仕方なく、仕方なく、仕方なく、こいつを紹介しなければならなくなった。
と言っても、実際ここまで読むような方はすでに俺たちの話をいくらか読んでおられる気がするので極力簡潔に済ませたい。
もしよく分からなければ、知っている人間を何とか捕まえて聞いてもらいたい。
間違っても、サイトにしぶとく生き残り、消したくても消せずにいる古い作品を読み返したりはしないように!
まず、俺は雨宮 孝太。
普通の、ごくごく常識的な、一般高校生である。
それこそ、その辺の苗字だけで名前もない脇役だとか背景でざわついているだけのモブなんかがぴったりな、面白みのない人間であることは自分でよく分かっているので、意識改革をしようとも思わない。
人間普通が一番だ。
常識の範疇に収まるくらいが一番暮らしやすい。
「またまたー、そんなに謙遜しないでくださいよ! まあ、孝太のそういう控えめなところも、私は大好きなんですけど」
戯言を繰り返すばかりのこいつは、ルーゲンタという。
非常に厄介な存在であり、もしこいつと出会ったなら悪いことは言わないからさっさと背中を向けて逃げ出すべきである。
出来ることならば、過去の自分にしてやりたい忠言だな、これは。
肩書きは、魔術師で恐ろしいことに一国の主でもある。
できることならこれも虚言だの戯言だのとして無視してやりたいのだが、ちょっとしたトラブルのせいでそれを目撃したことのある俺は否定しきれないのがいささか口惜しいところである。
あの記憶だけ抹消できないものか。
……今度血鬼あたりに聞いてみよう。
血鬼も異世界からやってくる吸血鬼であるあたり、厄介と言えなくもないのだが、ルーゲンタと比べると数万倍はましなやつだからな。
「贔屓ですー」
「やかましい。ほら、紹介してやったぞ。これで文句ないだろ」
「ありますよ!」
とルーゲンタが何か叫びだしたがとりあえず無視して、こいつや血鬼どもがどこから現れるのかという話をしておきたい。
こいつらは、俺の部屋の押入れから現れる。
基本的に、俺が部屋にいる時に限られるのだが、最近ではどうもこいつと血鬼なんかはそれを無視して、俺が不在の時にも出入りしているらしい気配があるのが、いささか不気味である。
だが、ほかのもの――極彩色の怪鳥の群れ、幻覚染みた半透明の水牛ども、一度来たきりみかけない幽霊等など枚挙に暇がない――は相変わらず、俺がいる時にしかやってこないらしい。
…それが本当に救いなのか、心休まる要素なのか、疑問は尽きないが。
また、なんで押入れからそんなものが現れるのかと聞かれたら、どうやらこの押入れがそういう風に異世界――本当は認めたくない――につながるからとしか答えようがないし、どうしてつながるのかなんてことは俺に聞かれても理由も原因も原理も何も分からないので、聞かないでいてもらいたいところである。
というか、聞くな。
「つうか、ルーゲンタ! お前のせいでだらだらしゃべるばっかりになっちまっただろうが! 読者が逃げたら絶対貴様のせいだ」
「えぇ? これくらいで逃げるならこの先も読めませんってば。最近、前以上に文章が冗長になりがちになっているのに」
へらへら笑うな、お前が笑ったって可愛くもない。
「もうっ、本当に孝太はわがままですねぇ。…まあ、それも親しみのあらわれだと思えば、むしろ嬉しくなりますが」
「寝言を言いにいらしたんでしたら、早急にお引取り願えますか?」
「そうそう、私はそんなことを言いに来たんじゃないんですよ。自己紹介のためだけにやってくるほど、私は暇じゃないんです」
「でしたら最初からいらっしゃらなくて結構なんですよ?」
「こどもの日だから、来たんです」
「珍しくメジャーな日に来たな」
わざわざ慇懃無礼に喋ってやっても文句のひとつもなかったので、やめた。
もう少し面白い反応をするかと思ったんだが、残念なやつだな。
何より、俺がなんでこいつに敬語なんぞ使わねばならんのだ。
腹立たしい。
苛立ちを隠しもせずに、俺はルーゲンタに言う。
「子供は誰かさんのせいですでに間に合ってる。だから貴様は帰れ!」
「嫌ですね、別に私が子供になるつもりなんてありませんよ。それも面白そうではありますけど、存在を抹消されかねません」
俺の考えそうなことをよく分かってるじゃないか。
たとえ子供の姿かたちをしていたところで、ルーゲンタでは可愛げの欠片もなく、つまりは遠慮なく始末できるだろうからな。
俺は、やる時はやる男だ。
「だったら何しに来たんだ?」
「それはもちろん、子供に会いに来たんですよ? 私とっ、孝太のっ、子供にっ!」
「気色悪いまでに強調してくれたところ悪いんだが、そんな子供はうちにはおらん。だから帰れ」
「なんですか、しばらく会いに来なかったから拗ねてるんですか?」
「お前、本気で耳を川で洗ってきてくれ」
幸か不幸か、うちの近所の川は一級河川の支川としてあまりに貧相な水量を誇る、農業用水以上工業用水未満、一歩間違えば生活雑排水まみれの下水道寸前というちゃちな川だから、かえって耳は洗いやすかろう。
そろそろ田植えシーズンで多少水量は増えているかも知れんが、流されるほどもない。
ついでに野生化した鯉に耳をかじられて来やがれ。
「川遊びはまた今度しに行きましょうね。で、リィはどこです?」
リィというのが、うちにいる子供である。
外見はどういうわけか、俺の小さい頃にそっくり瓜双子だが、血のつながりはこれっぽっちもない。
それどころか、生まれた世界すら違う。
階級制度的な意味でなく、文字通り、次元的な意味で。
つまり、リィもまた血鬼と同じ異世界人――ルーゲンタと併記してやりたくないくらいの愛着はある――なのだが、天涯孤独の孤児であり、ルーゲンタにさらわれてきたこともあって、うちで面倒を見るようになっているのだ。
最近やっとこっちの習慣に馴染んで来てくれたので、母さんや親父は幼稚園入園などをたくらんでいるらしいが、好きにしてもらいたい。
俺としても母様母様とまとわりつかれることが少なくなる方がありがたいからな。
で、そのリィがどこにいるかというと、
「今の時間なら、庭でさぼと遊んでるんじゃないか?」
「さぼとですか?」
「ああ。何か通じるものがあったらしくてな。よく一緒に遊んでるぞ。特にこの時間帯は毎日決まって庭で何かしてるな」
雨の日も晴れの日もよくやるもんだと呆れているんだが。
俺が言うとルーゲンタは何を思ったか珍しくも難しい顔になったかと思うと、
「これは…強力なライバルがまた一人増えてしまうと言うことなのでしょうか」
と訳の分からん独り言を漏らしたが、まるでそれをなかったことにするかのように明るく笑って見せると、
「それで、今日はさぼがこの部屋にいなかったんですね」
「ああ」
「おかげで、孝太と二人きりになれて嬉しいですっ」
と馬鹿げたことを叫んだルーゲンタが俺に抱きつくという暴挙に出ようとしかけた瞬間、目の前を緑色の軌跡が過ぎ去った。
「さぼ!」
俺が呼んだ時にはさぼは床に首尾よく着地しており、ルーゲンタの鼻の頭には一筋、うっすらと赤い傷がついていた。
「さぼ、お前、また庭から跳んできたのか? 無茶するなよ。鉢が割れたらどうする」
と俺が心配したのはつまり、さぼが手のひらサイズの小さな鉢植えのサボテン(ただし「よく動く、きれい」)だからである。
さぼは大丈夫だと主張するようにぶんぶん手らしい部分を振り回しているが、俺が心配なのは鉢の方だぞ。
「ひびは…入ってないみたいだな。よかった」
ほっとしたところで、
「…母様、先生、大丈夫?」
と声がして、廊下に面した戸が開いた。
ひょこりと顔を出したのはリィだ。
「あ…ルーゲンタだ。久しぶり」
とリィにしては珍しく、ちょっとだが笑ったってのに、ルーゲンタは不満そうに眉を下げ、
「父様と呼んでくれないんですか?」
とリィ以上のわがままを言っている。
「母様が、ルーゲンタのことはルーゲンタって呼んだんでいいって言ったから。先生も、ルーゲンタには適当でいいって」
そう言って、リィは俺が胡坐をかいていたベッドに上ると、恥ずかしがるように俺の背後に隠れた。
ルーゲンタは俺を恨めしげに睨んだが、すぐに諦めたようにため息を吐くと、リィに向かって珍しい種類の笑みを向けた。
柔らかい、というか、どこかぎこちない、作り笑いを浮かべようと失敗したような笑みだが、こいつは作り笑いくらいそんなに難しいこともないはずなのだが、いったいどういうことだろうか。
リィに対して一応複雑なものを感じているってことか?
……まさかな。
「孝太、いちいち酷いですよ」
「お前はいちいちモノローグに口を挟むな」
アヒルかガチョウみたいにみっともなく、かわいげの欠片もない仕草で唇を尖らせた後、ルーゲンタはリィを覗き込むようにして、
「今日はこどもの日ですね」
と話しかけた。
「うん。お母さんが言ってた」
「こどもの日だから、ほしいものがあったら何でも言ってください。何だって、出してあげますからね」
と言うってことは、やっぱり一応リィのことが可愛いんだろうか。
意外だ。
だが、
「あんまり変なもんはやるなよ」
そう釘を刺したってのに、リィは俺の背後からのそのそと出てきて、ルーゲンタをまっすぐ見つめ、
「剣」
と呟くように言った。
「……なんだって?」
俺が思わず聞き返すのにも構わず、リィはじっとルーゲンタを見つめ、珍しいほど強く言った。
「もう大丈夫だから、返して」
「分かりました」
って、
「おいこら! お前らの世界はともかく、ここには銃刀法と言うものがあってだな、」
というかそれがなかったとしても剣なんて危ないもの、母様は認めません!
つうか、誰が母様だ!
俺が一人で慌てている間に、ルーゲンタが指を鳴らし、リィの手にはおもちゃみたいな小さな短剣が現れた。
それこそ、ペーパーナイフみたいな大きさだ。
それをリィは、安心したように、そっとそれを抱きしめた。
何か事情でもあるのだろうかと思わせるには十分すぎる動きだった。
鞘もないようだが、切れはしないらしい。
やっぱりおもちゃか? と思いながら、
「リィ、その剣は何なんだ?」
と俺が聞くと、リィは短く、
「…リィの剣」
……その説明じゃ分からん。
「ルーゲンタ、説明しろ」
「分かりました」
小さく微笑んだルーゲンタは、俺に説明出来るのが嬉しいかのように胸を張りつつ、
「リィの一族は剣士の一族なんです。剣とともに生まれ、一生を過ごす、筋金入りの剣士ですね」
何だそりゃ、と思うものの、これくらいの常識はずれのわけが分からん発言はもはや日常なのでスルーする。
……これはこれで、適応している自分が嫌になるんだが。
「リィには剣を育てられるだけの余裕がなかったので、私がしばらく預かっていたんです」
「剣が育つのか?」
「ええ、当然でしょう? 何か変ですか?」
……。
「俺にとっては非常識なんだよ! いい加減差異を理解してくれ」
「はぁ。…まあとにかく、リィにとっては、命と同じくらい大事なものなんですよ」
「へぇ…」
そのリィはと言うと、剣の無事を確かめたからか、今度はさぼに剣を見せている。
さぼは剣をじっくりと眺めた後、何かコメントしたようだったが、俺には通じない。
ただ、リィには通じたらしく、嬉しそうに笑った。
褒められたんだろう。
しかし、
「…もともとリィのものなら、それを返しただけならプレゼントにはならないんじゃないのか?」
「それもそうですね。では、」
とルーゲンタは手を叩き、その手の上にベルトらしいものを出現させた。
「剣帯です。リィ、これがあればいつでも身に着けていられるでしょう?」
リィはそれをじっくり見つめた後、判断を仰ぐようにさぼを見た。
そうして、さぼが小さく頷くのを確認した上で、ルーゲンタににじり寄り、それを受け取った。
「…ありがとう、ルーゲンタ」
「いえいえ、どういたしまして」
そう笑ったルーゲンタが、妙に安堵したように見えたのは多分、目の錯覚だろう。