眠り月
チョコレートと常識人
※R-15
たとえ本当はそうでなかったとしても、これは夢だったのだと思いたいことはある。
そんな、悪夢のような、バレンタインデーの話。
チョコレートと常識人
2月14日。
俺は学校を休んだ。
以前の事件(「バレンタインと常識人」参照)のせいで行くのがいやになってのずる休み、と言うわけではない。
先週、あの泰にさえ白旗を上げさせたインフルエンザに感染し、全身のだるさと高熱に、動けなくなっていたのだ。
頭は朦朧として痛み、呼吸も苦しい。
それなのに、家には俺ひとりしかいなかった。
じい様が倒れたとかで母さんは二日前から家を離れていたし、親父は公演だかなんだかでやはり昨日から出かけている。
泰は当然学校で――看病のため残ると言い張ったのだが、俺が反対した――いない。
かくして、ひとり寝込むはめに陥っているのだった。
朝はまだ頭がぼーっとするだけだったのが、今ではもう考えることもままならない。
喉が渇いたと思っても、枕元の水さしに手を伸ばすのも辛いほど全身が痛んだ。
未だに水銀体温計を使っているので、一度熱を計った後は振るのがだるくて計っていない。
多分、40度近いのだろう。
病院は昨日、まだ症状の軽いうちに行ってきた。
が、薬が飲めない。
混濁する意識の中、俺は意味不明なことを唸っていた。
と、そこで突然、押入れが開いた。
奇妙なことに異次元へと続く、俺の部屋の押入れからやってくる客は様々だ。
色とりどりの羽を撒き散らす鳥の大群。
牛の群。
幽霊。
中華風吸血鬼の血鬼。
そして、それら全てが一度にきてもまだマシだと思えるような非常識な魔法使い、ルーゲンタ。
俺は、まだ常識をわきまえた血鬼が来てくれることを祈った。
いや、そんな贅沢は言わない。
せめてルーゲンタだけは来てくれるなと。
だが、俺はどうも運がないらしい。
現れたのはルーゲンタだった。
「ハッピーバレンタインデーぃ!おや孝太、昼間っからお昼寝ですか?まあ、昼間にしなきゃ昼寝じゃないんですけど」
「失せろ馬鹿」
とはき捨てる俺の声もがらがらに嗄れている。
いきなり喋ったからだろう。
ついでとばかりに咳が出た。
それも立て続けに。
がほがほと苦しむ俺に、ルーゲンタはやっと状況を理解したらしい。
「バレンタインデーどころじゃないらしいですね。風邪ですか?」
「インフル…エンザっ……」
「流感ですか。苦しそうですね」
「そうだとっ…思うなら、なんとか……しろっ」
咳で息が詰まりそうだ。
度重なる咳のせいで頭までずきずきと痛みやがる。
「そういう時は、眠るのが一番ですよ」
そう言ってルーゲンタは指を鳴らし、俺の瞼が重たくなった。
目を開けると、なにやら甘い匂いが口からとびこんできた。
鼻は機能していないはずなのに分かるほど、濃い匂いだ。
起き上がって見に行く気力もない俺は、棚に置いていた動くサボテンのさぼに命じた。
「あの馬鹿が…なにやってんのか………見て来いっ…」
声は掠れ、ほとんど音になっていなかったが、サボには通じたらしい。
「うごうご」
と返事をしてさぼは歩いていった。
非常識にも自分で扉を開け、階段をとんとんおりていく。
奴等の足は植木鉢のはずなのだが、どうやっているのだろう。
しばらくして、さぼのそれより重たい足音が昇ってきた。
「起きたんですね」
なぜか母さんのエプロンをしたルーゲンタは金属ボウルを手に持っていた。
「お前…何……」
「ああ、無理をして喋らない方がいいですよ」
とルーゲンタは俺の額に手をやった。
「まだ下がりませんね。もう少し寝ます?」
「その前に…水……」
俺は手を伸ばし、水差しを掴むと、一気に飲み干した。
ルーゲンタが何か言っていたような気がするが、耳に入らなかった。
とん、と水差しを戻すと、そこにもうひとつ水差しがあることに気付いた。
いや、今戻したのは水差しじゃない。
何かのボトルだ。
ルーゲンタは珍しく、呆然として俺を見ていた。
「るー…げんたぁ…?」
水分を取ったから喉は少し楽になったが、今度はろれつが回らなくなってきてる。
「あのー…孝太、大丈夫…ですか…?」
「ぅあ?」
大丈夫も何も、もとから大丈夫じゃないぞ。
「今の…お酒ですよ?」
「………っあ!?」
理解するのに時間がかかった。
俺は酒癖が悪い(らしい)。
そのため、泰や和貴から禁酒令を出されている。
「おまっ…なんで酒にゃんか、おいて…」
う、にゃんかって何だよ。
恥ずかしい。
「孝太のお父さんにお土産にと思って置いといて忘れたんですよ。て言うか孝太、封切ってキャップ捻って、それでも水差しじゃないことに気付かないってどうしたんです」
「う、うるひゃい!」
熱と酒と恥ずかしさで真っ赤になった俺は寝転がったまま、
「お前の…せい……だ!……責任、取れっ!!」
「はいはい。どうしましょうか」
ルーゲンタは苦笑しながら言った。
俺は唇を尖らせ、目を逸らしつつ、
「……甘いもん、食べたい」
「甘い物ね。何がいいですか?チョコレートでいいならここにありますけど」
とルーゲンタは抱えていたボウルを見せる。
そこには溶けた茶色いチョコレートが入っていた。
「…なにやってたんらよ……」
「台所をお借りしてチョコレート作りを。本当は孝太に作ってもらおうと思って持ってきたんですけどね。仕方ないから私から孝太にと思って」
「よこせ」
「仰向けになったまま食べるんですか?」
「うるさいー!」
俺は手を伸ばすと指でチョコレートを掬い取り、口に入れた。
甘いことしか分からなかった。
「あーあー孝太、チョコレートあちこちにばら撒いてますよ」
「黙ってろ」
と俺はもう一口口に運ぶ。
熱がある時にチョコレートはヘビーかと思ったが、そんなことすら分からないのなら関係ないと思った。
チョコレートでべたべたになった指を舐めながら、俺は言う。
「ルーゲンタ、のかない。…なんとかしろ」
口の周りも指も袖もチョコレートだらけだ。
ルーゲンタはちょっと躊躇した後、恨みがましい目で俺を見ながら言った。
「孝太が、いけないんですからね」
「うるさい」
ぺろりと冷たいものが俺の頬に触れた。
「くすぐったい」
文句を言う俺の耳元で、声がした。
「わがままですね、孝太は」
「お前の方がわがままなくせに」
「そうかもしれませんね」
そう笑った口が、俺の口に触れた。
ぺろりと俺の唇についたチョコレートを舐めていく。
「男同士でキスとかすんな。キモイ」
「キスじゃありませんよ。孝太が言った通り、チョコレートをなんとかしてるだけです」
「……そうか?」
「そうですよ」
「……」
黙り込んだ俺の唇に、ルーゲンタの唇が重なる。
俺のそれよりずっと冷たい舌が入り込んでくる。
「っ……ぁ、ふ…」
くすぐったくて、苦しくて、思わず声を漏らした俺は、解放されるなり唸った。
「口の中にチョコは残ってないぞ」
「残ってますよ。とても、甘かったですから」
「嘘だ」
「本当ですよ」
そう言って、もう一度唇が下りてくる。
ただでさえ高い熱が余計に高くなってくる気がする。
頭が考えることを放棄したがる。
ぼぉっとしているうちに、布団を捲られ、パジャマを肌蹴られた。
そこへチョコレートが垂らされる。
「っ、や、くすぐったいって!」
そう俺が言ってもルーゲンタは耳を貸さず、自分で垂らしたチョコレートを舐めとっていく。
「孝太、嫌ですか?」
「そう言ってんだろうが!」
「どうして?」
「くすぐったいから。つうかお前、わざわざチョコレート垂らすなよ!」
「この方が美味しいと思うんですけど」
とんでもないことを言いながら、ルーゲンタは俺の腹の上からぬるりとしたチョコレートを指ですくいとった。
ゾクリとしたものが俺の背を這う。
ルーゲンタはチョコレート塗れの指を俺の鼻先へつきつけた。
「舐めてくださいな」
「何で…」
「私も舐めてあげたでしょう?」
「むぅ…」
俺はルーゲンタを睨みながらも、それを咥えた。
やっぱり甘い。
それにルーゲンタの指は細くて滑らかで。
チョコレートの甘みと相まって、飴かなにかのようだった。
前に読んだ小説に、あったっけ。
人の手や指に似せた白菜の白い所を、目隠しをした人の口に入れてくすぐるのが。
白菜には味がついているんだけど、食べさせてくれる女の人の気配やなんかもあって、どこまでが本物の指で、どこからが白菜なのか、食べてる方には分からない。
夢中になって舐めてるうちに、つい歯を立ててしまうと崩れたから、白菜だって分かる。
食事の話のはずなのに、酷く色っぽくて、ドキドキした記憶がある。
そんなことを思いだしたからだろうか。
俺はいつの間にか目を閉じて、ルーゲンタの指を舐めていた。
俺に指を舐めさせながら、ルーゲンタも俺に伸しかかるようにして、俺の腹やら胸やらを舐めている。
くすぐったくて、恥ずかしくて、ぞくぞくした。
あの奇妙な小説に落ち込んだような感覚。
ルーゲンタの指が白菜に化ける前に、俺は指を舌で押し出した。
「もう、きれいになっただろ」
「そうですね。孝太もきれいになりましたよ」
「お前が汚したくせに」
「だから責任取ってるんでしょう」
偉そうに言いながら、ルーゲンタが俺の乳首を舐めた。
ざわざわと、背筋が騒ぐ。
嫌悪なのかなんなのかも分からない。
「…ぅ」
「気持ちいいんですか?」
「…ぁ…?」
「気持ちいいんですよね?」
そうルーゲンタは笑った。
酷薄な笑み。
俺の意思を無視するような、暴君の笑みだった。
俺の頭はもうまともじゃなかった。
記憶が混濁していたんだ。
俺は笑って、ルーゲンタを引き寄せた。
「孝太…?」
訝るルーゲンタを抱きしめる。
「こうしたかったんだろ?」
そう言ってやると、ルーゲンタが顔を赤らめた。
俺は頭がくらくらしていた。
それが何のせいなのかも分からないほどに。
「ねえ、孝太、どうせ、酒が抜けたら忘れるんでしょう?」
ルーゲンタが言った。
「それなら、言ってしまっていいですよね」
「何だ?」
「……貴方のことが、本当に好きですよ」
「…ありがとう」
俺は笑っていた。
普段なら拒んだはずなのに、そんな気にならなかった。
「…っ、だから!」
ルーゲンタは子供が悔しがるように顔を顰めて、怒鳴るように言った。
「謝ります!熱のある貴方にこんな悪戯なんかして、…自分が恥ずかしい」
「へえ、お前でもそんなこと思うんだ」
「思いますよ。もう二度と、こんな卑怯なことはしません。だから…だから、」
「お前のことを嫌いにはならないよ」
ルーゲンタが言いたかったことを先取りすると、ルーゲンタがぽかんと目を見開いて俺を見た。
「嫌いになれるなら、もうとうに嫌いになってる」
「孝太……」
「また、来いよ。これで来なくなったら、落ち着かないし」
「孝太!大好きです。本当に、好きなんです…!」
感激した様子でぎゅうぎゅうと抱きしめてくるルーゲンタを、子供にするように撫でてやっているうちに、俺の意識は失われた。
「40度ジャスト」
呆れたように泰が言った。
「薬ちゃんと飲まなかったのか?凄く高くなってんじゃん」
「ん……あれ…」
体を起こし、きょろきょろと辺りを見回す俺に、泰が言う。
「ちょっと、聞いてんの?孝太」
「…ルーゲンタ、来てなかった?」
「は!?来てやがったのか!?あの野郎!」
「いや、俺の気のせいかも…」
「熱でふらふらしてる孝太に何かしやがったんなら八つ裂きにしてやる!」
と息巻く泰に苦笑しつつ、俺は言った。
「大丈夫だって。何かされたんなら流石に覚えてるし。多分、ルーゲンタが来たのも俺の気のせいだろ」
「ならいいんだけど」
泰は俺の顔をじっと覗きこんだ。
「…本当に、何もなかったよな?」
「ああ。てゆうか、何されるってんだよ」
「そりゃあ寝てる孝太の唇を奪うとか、意識がしっかりしないのをいいことに破廉恥な行為に及ぶとか」
気色悪過ぎる想像に、俺は肌が粟立つのを感じながら言った。
「キモイ。キモ過ぎる。つうか、そんなことさせるかよ」
「だよなー」
けらけらと笑いながら部屋を出て行く泰に、俺はため息をついた。
そうして常識ある病人らしく、大人しく布団に潜ったのだった。
※作中に登場する小説は谷崎潤一郎の短編小説「美食倶楽部」です