眠り月
ふりるえぷろんと常識人
「ただいま」
と言いながら玄関を開けた俺は、
「おかえりなさいっ、孝太!」
……ありえないものを見て、即座にドアをしめた。
ふりるえぷろんと常識人
「どうしたんですか、孝太ー? 家を間違えるなんてベタなことはしてませんよー?」
ドアの向こうから不快としか言いようのない声がいくらかくぐもりながらも聞こえてくる。
俺はドアが開かないように必死で押さえつけていた。
見たくない。
二度と見たくない。
あんなものは視覚に対する暴力だ。
ぴんくでふりふりしたエプロンをつけたルーゲンタなど、俺は見たくないし想像もしたくないが、今うっかりと思いだしてしまった。
血が勢いよく吹き出すほど自分の頭を殴りつけてやりたい。
そうすりゃ不気味なことこの上ないあの映像も忘れられるだろう。
ついでにあいつの存在自体忘れられたら最高だ。
お礼参りとして全国津々浦々の神社仏閣巡りをしてやってもいいぞ。
あいつと縁が切れるなら世界中の寺やら教会やらに行ってやったっていい。
キリスト教にでもイスラム教にでもチベット仏教にでもユダヤ教にでも改宗してやる。
だから誰でもいい。
存在だけでも迷惑極まりないあいつをなんとかしろ。
「孝太? 何ぶつぶつ言ってるんです?」
いきなり声がクリアになった。
と思ったらルーゲンタが顔だけドアからのぞかせていた。
さて、「ドアから顔をのぞかせる」というような表現した場合、通常はドアの隙間から顔だけを少し出していることを示す。
が、ルーゲンタの場合でそんな常識が通用するはずがない。
ルーゲンタは文字通り、「ドア」から顔をのぞかせていた。
さも作りつけの飾りか何かのように。
あるいは、ホラー映画のワンシーンの如く。
「やめろバカ! 近所に丸見えだろうが!!」
思わず俺が咆えると、ルーゲンタは唇を尖らせた。
「孝太がさっさと入ってきてくれないからいけないんじゃないですか」
「うるさい。それより念のため言っておくが、そんな態度はかわいい女の子がやるからこそかわいいのであって、てめぇみたいな奴がやったって全くもってかわいくないんだぞ」
むしろ視覚と聴覚に対して絶大な破壊力を持つ攻撃だ。
「そんなことより、中に入ったらどうです?」
「嫌だ」
もう一度アレを見せられるくらいなら野宿した方がマシだ。
「どうでもいいかもしれませんけど、今回ちょっと地の文が変ですね。何の影響です?」
「地の文に突っ込むな!!」
そしてそれはむしろ織葉に言え!!
「いいじゃありませんかそれくらい。さあさあ、中へ入ってください」
「……聞きたいんだが、」
俺はルーゲンタの顔から目を逸らしながら言った。
「ドアを開けるとどうなるんだ? お前の体ごと開くのか? それともお前の頭が取れるのか?」
頭が取れてお前が消えてくれるんならドアを開けてやってもいい。
が、頭がないまま某所のタチの悪い猫の如くニタニタしてるってんなら俺はドアを開けないぞ。
「私の頭が邪魔でしたら退きますよ」
ルーゲンタはそう言って、頭を引っ込めた。
普通、こういう時ってドアはそのままだよな?
しかしどういうわけか、ルーゲンタの顔の形にぽっかりと穴が開いていた。
「ちょっと狙って見たんですがどうですか?」
俺に聞くなこっち見るな穴塞げ。
「はいはい」
呆れたように応じてルーゲンタが指を鳴らすと、穴は一瞬で塞がった。
俺は諦めのため息を吐きながらドアを開けた。
――服装をなんとかしろと言ってから入るべきだった。
俺はまたもやふりふりのエプロンを身につけたルーゲンタを直視してしまった。
思いっきりドアを閉めてやろうとしたのに、その前にルーゲンタが足を割り込ませた。
「お前はマルサか」
思わずそう言ったものの、それ以上のツッコミどころはやっぱり、ただのつっかけでそれをやらかしていることだろう。
マルサでもヤクザでも、そういう時は普通安全靴か最低でも普通の革靴なんかでやるだろうに、無防備なつっかけでやるなよ。
「いたたたた、痛いですよ孝太」
ドアで挟んでも平気な顔をしていたくせに、俺がぐりぐりと踏んでやると笑いながらそう訴えてきた。
……やっぱマゾか?
「マゾじゃありませんってば」
「心を読むな」
「まったく、今日は本当に機嫌が悪いですね。アンネですか?」
「帰ってくるまでは、いや、お前の顔をみるまではサイッコウに上機嫌だったさ!! というかアンネなわけあるか! 今時アンネって言うか!?」
畜生、ツッコミどころが多すぎてどうしようもない。
仕方なく、俺は怒鳴った。
「さっさとそのイカレとんちきな格好を何とかしやがれ!!」
「えぇー? だめですか?」
「だめに決まってる!!」
ドアからはみ出すピンクの布切れさえ凶器だ。
むしろ狂気かも知れないが。
「ほら、だって、孝太はマザコンでしょう?」
「違う!」
「そんなこと言ってー、初子さんの前では凄くいい子のふりするじゃありませんか」
「母さんを名前で呼ぶなっつうのに!!」
「じゃあ、お義母さんとでもお呼びしましょうか?」
「死んでもやめろ」
「わがままですね」
肩を竦めるな、お前が悪いんだろう。
ルーゲンタは小さく笑って、
「初子さんのおすすめだったんですけどね」
と悪夢のような言葉を呟いた。
……一瞬、ほんの一瞬だけだったが、母さんが嫌いになった。