眠り月

暴君と常識人


目覚し時計の音で俺は目を覚まし、体を起こそうとした。
しかし、体が動かない。
まさか、金縛りか!?
驚いた俺の目の前に、赤い何かが見えた。
小さくて丸い頭に尖った手足。
「…さるぼぼ!?」
びっしりとさるぼぼが貼りついていた。

暴君と常識人

「さるぼぼ」
飛騨高山で昔から作られている人形。「さるぼぼ」とは、猿の赤ん坊という意味で、災いが去る(猿)、家内円(猿)満になるなど、縁起の良い物とされ、お守りとしても使われている。最近では土産として観光地で多く見られる。
  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「…ってそうじゃねぇよ!!」
思わず自分に突っ込むと、さるぼぼの集団は、多少怯んだようにびくっとした。
けれど俺から離れる様子もなく、びっちりと貼りついたままだ。
「…一体何がしたいんだよ……」
そう呟いて、なんとか視線を巡らせると、押入れが見えた。
大きく開け放たれた先には、青空が見える。
憎らしいほどの晴れやかさだ。
そう思っているうちに俺は、ずるずると体が動き始めるのに気付いた。
「なっ…何だ!?」
恐ろしいことに、さるぼぼの集団は俺を引きずりはじめたのだ。
押入れの方へと。
「ま、待て!止めろ!落ち…る!!」
俺は不思議の国のアリスじゃねぇ――!!
そんな叫びも空しく、俺は押入れから地面へ落ちていった。

最近は忘れがちだったが、俺の部屋の押入れは、異世界に通じている。
そこから様々な生き物がやってきては俺の部屋を引っ掻き回し、俺の生活をも乱していく。
その最たるものが、ルーゲンタだ。
魔術師にしてルーゲンタ王国の国王。
何のポリシーもなければ、常識もない男だ。
どう言うわけか俺のことをおもちゃ扱いし、どれだけ嫌がっても聞きやしねぇ。
そんなムカツク男のはずだった。
だからきっと、俺の目の前にいるこいつは、ルーゲンタじゃないんだと、俺は一瞬にしろ思った。
さるぼぼに拉致られるようにして落ちてきたのはどこかの庭園だった。
むせるほど花の匂いがする華やかで、どこか人工的な庭に、さるぼぼをクッションにして俺は着地した。
もちろん、奴らはその役目を果たしきれず、俺はしたたかに身体を打ち、しばらく動けずにいた。
それでも、何の花が咲いているのか分かりそうなほど、濃い花の香りがしていた。
それも、混ざり合わずに、それぞれが独立して香っていた。
気持ち悪い、と思った。
逃げ出したい、とも。
けれど身体は動かない。
よっぽど強くぶつけたらしい。
俺が出てきたはずの押入れの戸も、見えやしない。
かなり遠くにあるようだった。
「…どうすっかな……」
思わずそう呟くと、どこかから男の声がした。
「誰だ?」
低く、高圧的な、声だった。
どこかで聞いたような気もしたが、気のせいだと思った。
俺の知ってる声とは結びつかないような調子だったからだ。
声の主は、茂みの向こうにいるらしかった。
俺はなんとか手を上げると言った。
「俺は雨宮 孝太といいます。高い所から落ちたんです。助けてもらえませんか?」
声の主が小さく笑うのが聞こえた。
それも、人を馬鹿にするような調子で。
「助ける?私がか?お前は、私が誰か知らないようだな」
身体に刺が刺さり、服に枝が絡むのも構わず、彼はバラの茂みを越えてこっちへやってきた。
ごてごてした服に、邪魔っけな杖。
それは俺にとって嫌なくらい見覚えのあるもので。
なのにその主は、信じられないほど冷たい目をしていた。
汚い物でも見るように俺を見下したその顔は、いつだって満面の笑みを浮かべていたはずなのに。
男は言った。
「私はルーゲンタ・ヴォン・シュウォルツ・レイナード・ガーバンス。この国の王だぞ?」
一瞬、息が止まった。
それはルーゲンタの名前が長かったとかそういう理由ではなくて、このルーゲンタが俺のことを知らなかったことのためだ。
このルーゲンタはいつものルーゲンタとは違うのだろうか?
…いや、同じだと思う。
ただ、ずっと若いという気がする。
まさか…昔の…ルーゲンタ……なのか…?
「どうした?驚いて息が止まったか?」
悪辣と表現してもあまりある笑みを、ルーゲンタは見せた。
そうして俺の襟元を掴み、引き起こした。
息がつまり、かえるを潰した時のような音が、俺の口から漏れた。
ルーゲンタは声を上げて笑った。
「どうした?苦しかったか?」
「サディスト」
思わず口の中で毒づくと、ルーゲンタは楽しそうに笑った。
「いい度胸だ!お前、名前はなんと言った?」
「孝太。雨宮 孝太だ」
「ふ…ん。聞き覚えのない感じの名だな」
興味深げにそう呟いたルーゲンタは検分するように俺を見た。
頭の天辺から足の爪まで。
そう言えば俺はパジャマ代わりのTシャツとジャージという姿だった。
ルーゲンタはクッと笑った。
「靴も持っていないのか?」
「いや、そうじゃなくて、靴を家に忘れて…」
「それに、どうやってここに来た?ここは私の庭だ。私以外の誰も入れないようにしている」
「それは……」
「それともお前は、人ではないのかな」
笑いながらルーゲンタは言った。
からかうように、いたぶるように。
「人でないのなら入れるはずだ。もっとも、ねずみ一匹入ってこようとしないがな」
俺がそんなことを呟いたのは、その笑みが悲しそうだったからだ。
本当に微かに、悲しみが滲んでいた。
それこそ、ずっとルーゲンタを見ていなかったら気付かなかっただろう違いだった。
俺の所にくる時、いつもルーゲンタは楽しそうだった。
心の底から、本当に笑っていた。
でも、今目の前にいるルーゲンタは、無理をして、強がって笑っているようにしか見えなかった。
ルーゲンタはいつも、俺が何をしても笑っていた。
何を言っても、楽しそうに。
だからと言うわけでもないが、俺は言った。
「お前、…寂しいんだな」
ルーゲンタの目が見開かれた。
そこに浮かぶのは屈辱の色だ。
俺は頬を打たれ、もう一度地面に倒れた。
ルーゲンタは怒りに髪を逆立てて怒鳴った。
「貴様、私を何だと思っている!!私はこの国の王にして最強の魔術師だぞ!!貴様如き軽きものに同情されるほど落ちぶれていない!!」
いいか、とルーゲンタはまた俺の襟を掴んで引き起こした。
「王には心など要らないのだ!必要なのはただ力のみ。故に私は寂しくなどない!悲しくもない!二度とそんな言葉を口にするな!今度また言ってみろ。貴様を八つに裂き、魂さえも封じてやる!!」
ルーゲンタは杖を振り上げた。
身を竦めた俺の耳に、あいつの……ルーゲンタの声が響いた。
『もし、私が、心を無くしてしまったら、孝太や他の人に非道をするようになってしまったら、どうか、私を止めてください』
それは、あの雪の日、あいつが俺に言った言葉だ。
あいつはきっとこれからのことを言ったんだろう。
今、俺を苦しめようとしているのは、昔のあいつだ。
だけど、どっちも変わりやしない。
俺は身体を起こし、ルーゲンタの腕を掴んだ。
ルーゲンタの手が止まる。
杖も、魔法も。
その手から杖を奪い、地面に叩きつけると、俺はルーゲンタを抱き締めた。
「止めろ。心だって、あっていいんだ。寂しいのも悲しいのも、当然のことなんだ。王だからって捨てる必要はない。お前は、心を持っていても、いい国王だよ」
「貴様は…何者だ…?私の何を、知っている……」
「いや、その…俺だって、お前が実際に王様やってんのを見たわけじゃねぇよ。お前の国の幽霊に聞いただけ。けど、けどさ、俺ん所に来てる時のお前を見てたら、国民を苦しめたりなんてしてないってことは分かる。だから、安心して好きにしたらいい。好きにしていいんだ…ルーゲンタ」
「貴様…は……」
「貴様じゃねぇよ。孝太だ。こ・う・た」
「孝太…お前は……」
俺は笑って空を指差した。
「なあ、上へ連れていってくれねぇか?」
「上へ?」
「そ。お前なら簡単だろ?」
「しかし…杖はお前に折られて……」
地面に叩きつけたせいで折れたのだろう。
杖は無残に折れている。
けれど俺は滅多に見せないような笑みを見せ、
「俺の知ってるお前なら、杖なんて必要としねぇよ。指でだって魔法を使ってた」
「指で…?」
「そう。自分が信じられねぇなら、俺を信じろ。ほら、行くぞ、上へ」
俺とルーゲンタの体が浮き上がった。
真っ直ぐ空へ、空へと、上っていく。
そうして、どれほど上った頃だろう。
俺にとっては見慣れた、けれどルーゲンタにとっては初めて見る、押入れが見えた。
「これは?」
「押入れ。この先が俺の部屋なんだ」
「お前の?」
「ああ。もしもまた、苦しくなったり、心を無くしたくなったら、俺の所へ来いよ。…少しくらい、遊んでやる」
俺はそう言って、押入れに入った。
ルーゲンタから離れ、戸に手をかけながら俺は言った。
「またな、ルーゲンタ!」
ルーゲンタは俺に向かって笑みを見せた。
優しく、楽しそうで、……酷く見慣れた笑みだった。

押入れの戸を閉め、俺は時計を見た。
10時50分。
完璧に遅刻だ。
俺は諦めて寝直そうと布団に入った。
それを邪魔するように押入れが開き、ルーゲンタが飛び出した。
「孝太、平日に何寝てんですかー?」
「…ルーゲンタ」
「はい?」
「……お前ってさぁ…結構危ないよな?」
「…え?」
「怖かった。つうか、首痛いし」
「え?え?え?」
「…何、忘れてんの?」
「何のことか……」
「別に。あれよりは、今のお前の方がいいってだけのこと」
本当に分かっていないらしいルーゲンタに、俺は笑ってそう言ったのだった。