眠り月
さぼのお留守番(番外編)
土曜の朝。
本来ならば、我が主たる雨宮孝太殿も手習いに行くこともなく、昼近くまで十分に過ぎる休息を取るところなれど、本日は勝手が違うた。
目覚まし時計が鳴り始め、快からざる電子音が響き渡る。
「う……ん…」
寝床の中で身動ぎした主が手を伸ばし目覚ましを止める。
そのままうつぶせになり、穏やかな寝息を立て始める主に、我は音にはならぬため息を吐き、主の布団に侵入した。
侵入とは言えど、主の許可は得ており、これが我が役目でもある。
主の足元へもぐりこんだ我は、トゲのひとつを細く尖らせた。
細い方が痛みは少ないがためである。
そうしてそれで、以前、主の友人がひとりである吸血鬼に習いしツボを点いた。
足の小指と薬指の付け根近く、「足臨泣」とかいうツボである。
「…つぅ!」
主が声を上げて飛び起きた拍子に、ベッドから蹴落とされたが、それで転ぶほど我は愚鈍ではない。
見事床に着地を決めると、
「うわ、ごめん! さぼ、大丈夫か!?」
跳ね起きた主が我を拾い上げる。
手を振って応えると、
「よかった。…今日もありがとうな。それから、おはよう」
おはようございまする、と頭を下げると、主は、
「今日は朝飯どうする? 食うか?」
いただきまする、と頭を下げる――頷いていたのでは主にはよく見えないので大きめにするとそうなった――と、
「じゃあ台所に行くか」
言いながらあくびをした主が我を肩に載せ、部屋を出た。
階段を下り、台所へ入ると、主の御母堂が、
「おはよう、孝ちゃん、さぼちゃん」
と天女の如き清らかなる笑みをむけてくださった。
いつものことながらお美しい方である。
「おはよ、母さん」
「今日は朝ごはん作るの張り切っちゃった。頑張ってね、孝ちゃん」
「…ああ」
御母堂の喜ばれように反して、主は一気に気落ちされたようであった。
さて、今日は一体何の日なのであろうか。
残念ながらサボテンである我には、日付の感覚というものが薄く、主の予定を把握することが出来ぬのである。
せめて我に出来ることをと思い、主を慰めるため体を揺らして踊ってみると、主が小さく笑った。
「どうした? さぼ。…心配してくれてんのか?」
こっくりと頷くと、
「…ありがとな。でもまあ…多分、大丈夫だから。……多分」
不確定さを強調する言葉が、主の不安をあらわしているように思われたが、我にはそれ以上何も出来ず、主が分け与えてくださる食事を取った。
「ほら、さぼ」
と渡される白い飯を受け取り、足元の土に埋める。
美味である。
主の御父君の収入が多いがためか、御母堂は食材に妥協を許さない。
その恩恵に与れる我が身の幸福を思いながら、我は主への忠誠を寄りいっそう強めた。
元気のないまま学問所へ向かわれる主を見送り、我は自室に戻った。
自室とは即ち、主の部屋の隅、日当たりのいい窓際に置かれた、サボテンハウスである。
我等動くサボテン族が快適に過ごせるように魔術で恒久的に管理されるそこの、一番広い部屋に座り、燦々と注ぐ日差しの中、瞑想する。
日輪の恵みをいっぱいに受け、主のためにと気合を入れて酸素を作り出す。
それも我が務めのひとつであり、唯一の生産活動である。
この行為を指して光合成とも言うが、我にしてみればいささか面白味に欠く名称であると言わざるを得ない。
さりとて、我はその程度しか生産活動が行えぬ程度には創造力に欠くので、何ぞいい名称があれば我に教えていただきたく存ずる。
そのままどれほど過ごしたであろうか。
おそらく一時間、二時間程度であろうが、日付の感覚同様時間の感覚も薄い我には、正確には分かり得ぬ。
分かったのはそれがまだ昼には早い時間であったということだけである。
押入れが開き、吸血鬼が姿を現した。
いつもながらけばけばしい衣装であるが、個人の趣味だ。
我がとやかく言う筋合いはあるまい。
「こんにちは、さぼ。元気そうだね」
「貴殿も元気そうで何よりだ」
「元気じゃないと世界を渡るなんて大きな術は使い辛いよ。たとえ、この押入れがあってもね」
――我が口を聞いたと思うのは早計だ。
我はただ体を動かし、そう伝えようと思っただけに過ぎない。
しかしそれでも、彼の吸血鬼には通じるのが不思議である。
にこやかな表情を浮かべている吸血鬼に、
「先日教わったツボは大変役に立っておる。おかげでこのところの主は遅刻知らずになられた。我からも心から礼を言う」
と告げると、
「それはよかった。…そうだ、これ」
吸血鬼は袖の中から一冊の書物本を取り出した。
「うちに伝わる針治療の秘伝書の写しなんだけど、いるかい?」
「秘伝書なれば門外不出なのではござらぬか?」
「うん、まあね。でもまあ、門からは出してないし」
……世界は飛び越えておると思うのだが。
「それに、これが孝太の役に立つなら少しくらい構わないよ。さぼなら、うかつな人に教えたりもしないだろ? 何しろ、針の一突きで命を奪ったり、体の動きを止めたりするようなツボも載ってるから、下手に広められると困るんだけど、大丈夫だよね?」
「分かった。覚え次第急ぎ返却しよう」
「いや、要らなくなったら焼き捨てちゃって。僕はもう覚えてるし」
「承った。では、ありがたく」
「……孝太のこと、よろしくね」
「言われるまでもござらぬ。主は我にとっても大事な御方。この身にかえても守り抜く所存」
「頼んだよ。…僕はいつも孝太の側にはいられないし、そもそも僕自体、危険だと見なされてるからね」
「主は貴殿を嫌ったり警戒したりはしておらぬが」
「それは知ってるよ。でも、奏さんや大江殿も私を警戒してるだろう? その状況で居座るわけにもいかないから。……おこがましいとは思うけれど、孝太のことを守ってやって」
「……確かに、了解いたした」
我がそう答え、書物をしまったところで、部屋の中に王が突然現れた。
我が親族の仕える主なれど、全く以って信用のおけぬ、危険人物の登場に、我は思わず総身の針を尖らせ、警戒を強めた。
しかし、小さき我が身などはなから気にしておらぬらしい。
「あなたも来ていたんですか」
王は主には決して見せぬ、冷たき眼で吸血鬼を捉えた。
「ええ、奏さんに招かれましたからね。あなたこそ、お忙しいのではないのですか?」
吸血鬼も負けじとその気配を凍りつかせる。
……寒い。
我は基本的に温暖で乾燥した地域に生息する種族なので寒さは苦手である。
このままでは凍ってしまう。
そうなっては主を守ることも出来なくなるではないか。
部屋からの脱出を図ろうとしたところで、ドアが我に向かって開き、我は弾き飛ばされた。
「うわっ、ごめん! さぼ!」
慌てて我を拾い上げたのは主の妹御であった。
「ごめんなー。大丈夫か?」
大丈夫だ、と頷くと、
「よかった。さぼに何かあったら孝太に叱り飛ばされるところだったぜ」
と笑いながら、我を定位置に戻した。
部屋の寒さは妹御が来てくれたことでいくらかマシになった。
ありがたい限りである。
妹御は、
「ああ、血鬼、来てたんだな。ルーゲンタの方は……別に、誘った覚えはねぇんだけど?」
王はにっこりと笑い、
「たとえ奏の頼みでも、ここは引き下がりたくありませんね。今日は孝太の艶姿が見られるんでしょう?」
「困ったねー。まあ、ルーゲンタが大人しく帰るとは思わねぇけど、たまには俺の言うことを聞いてくれたっていいんじゃねぇの?」
「聞きますよ。このまま追い返されたくはありませんからね。ちゃあんと言うことを聞いて、大人しくしますから、私も連れていってください」
「……しょうがねぇなあ」
と言いつつ、妹御は楽しげに笑った。
おそらく、我が主の嫌がる顔を思い描いているのだろう。
困った御方だ。
「じゃあ、ふたりとも、余計なことはするなよ? 魔法はなし、血を吸うのもなし、万が一騒ぎを起こしたら出入り禁止だ。それでいいな?」
「分かりました」
王が頷き、
「仰せのままにします」
王をからかうように吸血鬼もそう言った。
そうしたくなる気持ちはよく分かる。
かつては恐怖政治を敷き、国民を震え上がらせたとさえ伝えられる王が、異世界のとはいえ、市井の若き女性に頭を下げるのだから。
妹御は笑顔で頷き、
「それじゃあ行くとするか」
「お待ちくだされ」
と我が手を上げると、吸血鬼が、
「奏さん、ちょっと待ってください。さぼが何か言いたいみたいですよ」
「さぼが?」
振り向いた妹御に、
「どちらへ行かれるのですか」
と問うと、妹御は首を傾げた。
「悪い、俺はなんて言ってんのかわかんねぇんだ。血鬼、通訳してくれ」
「分かりました」
というわけで、吸血鬼を通訳に、妹御と話した。
「どちらへ行かれるのですか」
「孝太の学校だ。今日は文化祭でな。孝太が面白い格好してんだ」
そう笑った妹御に、
「どのような格好かは存じませぬが、そのような場所に王をお連れするのは危険ではありませぬか」
我が主が。
「大丈夫だって。何かやらかしたら俺が責任を取るから」
「やめてくださいませんか」
「嫌」
「……ではせめて、供をさせてください」
「だめ」
「…何ゆえ」
「サボテンを連れてたら流石に目立つだろ。俺は別に、サボテンをテンガロンハットに載せるようなキャラじゃねぇし」
そう言われては引き下がるしかない。
我がこのような身でなければと、我は何度歯噛みしたであろうか。
しかしながら、このような身であるからこそ主の側近く仕えることを許されていることを思えば、この程度のことは甘受するしかないのやもしれぬ。
「……ならば、お願いいたします。主を、お守りください」
「言われるまでもないって。安心して、お留守番してな。な?」
そう言って我の頭を撫でた妹御は、そのまま吸血鬼と王を連れて出て行ってしまわれた。
ふたりの服装を改めさせるべきではなかろうかと言う力もなく、我がため息を吐くような心持ちでそれを見送ると、少しして、こんこん、と戸が叩かれた。
「さぼちゃん? 入るわね」
御母堂の声がして、ドアが開き、御母堂と御父君が入って来られた。
「置いてかれちゃって寂しいでしょ? 一緒にお昼食べたりしましょ?」
「掃除してたら、孝太が子供の頃のアルバムが出てきたんだ。よかったら、一緒に見ない?」
おふたりの心遣いがありがたく、深々と頭を下げると、頷いたものと見なされたようであった。
「元気出してね」
「さぼも、大事なうちの家族なんだからね」
勿体無い言葉である。
身に余る光栄と言ってもいいだろう。
我はありがたく、それを受けた。
……アルバムの内容については、主のため、多くは語るまい。
ただ…主の方が妹御より、服装も顔立ちも愛らしいのはいかがしたことか。
そうして、昼を食べ終えた頃、
「たっだいまー!」
と妹御の声が玄関より響いた。
「さぼ、お昼食べてたのか」
そう言った妹御の隣りから、吸血鬼が袋を取り出し、
「これ、お土産だよ。孝太が作ったカップケーキ」
「ありがとうございます」
頂戴したものの、我の半分もある大きなカップケーキだ。
大事に食べるにしても、傷まなければいいのだが。
もっとも、少々の腐敗が堪える我ではない。
我はカップケーキを大事に抱え込んだ。
「これも、お土産」
と妹御が突き出してきたのは、デジタルカメラに映った主の姿だった。
……愛らしい。
だがこれは女人の服ではなかろうか。
こんなものを見て、王が大人しくしているはずはない。
王が一緒に帰ってこなかった理由を悟り、我は嘆息した。
やはり止めるべきであった。
日が暮れてから帰ってきた主は疲れ果て、ふらふらになっておられた。
我は一日かけて読了した秘伝書の通り、主に治療を施し、明日もまた忙しいであろう主を、出来うる限りお慰めしたつもりである。
その程度で主の御心が晴れたとも思われぬが、小さく無力な我なりに、努めは果たしたと思われる。
我は満足と共に眠りについた。