眠り月

昼の過ごし方(番外編)


母様を起こしに行った俺が、母様にべったりくっついたまま食堂に入ったから、
「あらあら」
とお母さんに笑われ、姉様にはニヤニヤしながら、
「ほんとにリィは孝太の前だと甘ったれだな」
と言われてしまった。
やっぱりだめだったかな、と母様を見上げると、母様は優しく微笑んで、
「気にするなよ。お前はまだ小さいんだから、これくらいいいだろ」
と言ってくれた。
俺のことを思ってのことなんだろうと思うけど、でも、小さいんだから、って言われるのはちょっと面白くない。
俺は早く大きくなりたいんだし、小さいままでいたくなんかないんだから。
ぱっと体を離すと、母様は小さく笑って、
「もういいのか?」
「は」
じゃなくて、
「うん」
「…遠慮はしなくていいからな?」
そう言って、優しく俺の髪を撫でてくれる母様の手が好き。
俺に向けてくれる柔らかな眼差しが好き。
母様は本当に、想像していた理想の母様よりもずっとずっと素敵で、大好きだ。
それにしても、母様に甘えてたのを、どうして先生は咎めないんだろう。
いつもいつも不思議に思うことだけれど、それで止められたら悲しくなってしまうから聞けずにいた。
甘えてもいいってことではないと思う。
甘えることが必要なんて、そんな生温い考えはきっと持ってない。
もしそうなら、先生のことだから、きっと、俺がいくら剣を教えて欲しいとお願いしても聞いてくれずに、当分は母様に甘えていろとかなんとか言ったと思うし。
じゃあ、なんでだろう。
俺は思い切って、先生に聞いてみた。
「先生、どうして怒らないんですか?」
「怒られるようなことをしたのか?」
「……甘ったれるのは怒られるようなことだと思います」
じっと先生の艶やかな緑色の顔を見つめると、先生はふっと笑ったようだった。
「ひとつには、お前がそうして自ら気付き、己を律することが出来るのを待っていたということだ。お前は我の予想よりも早々に気付くことが出来た。やはり、剣士の一族として素質を持つものは違うな」
「先生…!」
滅多にない褒賞に、俺は感涙しそうになる。
でも、泣いちゃだめだ。
泣くことは、先生に真っ先に禁じられたことだから、その種類に問わず流しちゃいけない。
ぐっと堪える俺に先生は薄い笑いを浮かべたようだった。
「それにもうひとつ。……主は子供が子供らしくなくされるのを好まぬゆえ、そなたが自ずから子供らしくするのであれば、それを我が横から口出しして止めるのは好ましくないためだ」
そうだったのか。
それでも俺は先生に言いたい。
「ありがとうございます」
「…礼を言われるようなことではない」
そう言って先生は俺に背を向けたけど、照れ隠しなんだと思う。
先生は案外照れ屋なのだ。
「話は落ち着いたか?」
と母様に聞かれ、俺は頷く。
「うん」
母様には、先生の言葉が聞き取れないのだ。
「じゃあ、さっさと飯にしろ。悪いと思ったが、時間がないから先に食わせてもらってるぞ」
と言いながら母様はご飯をぱくんと食べる。
その母様の隣りに座って、先生と向かい合って、食事をする。
勿論、手をあわせて、
「いただきます」
と言うことも忘れないし、好き嫌いもせずに食べる。
大体、好き嫌いなんてするほど贅沢に慣れることはない。
食べられるだけ幸せだし、そもそもお母さんのお料理は美味しくて、残すのが勿体無いくらいなのだ。
残すはずがない。
だからって焦ってがっつくんじゃなくて、しっかり味わいながら美味しいご飯をいただいて、手を合わせる。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
「よかったわ」
とお母さんは微笑んでくれる。
俺がまだ食べてる間に母様たちは学校に行くためお着替えをしていた。
そうして、ばたばたと部屋から出てきたかと思うと、
「それじゃ、行ってきます」
と声を掛けてくれるので、俺は先生とお母さんと声を揃えて、
「行ってらっしゃい、気をつけて」
と手を振る。
毎日やってると、揃うものみたい。
母様は小さく笑って、
「ああ、リィも頑張れよ」
と言ってくれた。
姉様も、
「んじゃ、行ってくるわー」
とだるそうに出てく。
「行ってらっしゃい、気をつけて」
「おう。母さんも気をつけてなー。買い物の途中で車を跳ねたりしないよーに」
「もう、奏ちゃんたら一言多いんだから」
とくすくす笑いながら、お母さんは楽しそうに姉様を見送った。
「それじゃ、お片付けしましょうか」
「はい」
俺はお母さんを手伝って、朝食の後片付けを手伝う。
孝行はしなきゃいけないと先生が言うからでもあるし、それ以上に、俺がお母さんに何か返したいって思うからでもある。
使ったお皿を流しまで運んで、お母さんが洗ったのを綺麗な布巾で拭いて、棚の前まで運ぶのが俺の仕事。
棚にしまうのはまだ背の低い俺には危ないから、お母さんがしてくれる。
早く大きくなって、もっと出来ることが多くなればいいのに。
とにかく、そうやってお片付けが終ると、
「それじゃあ、リィちゃんもお勉強をしましょうか」
とお母さんが言って、俺はお母さんと先生と一緒に和室に移動する。
その途中でお母さんたちの寝る部屋の前を通ったから、
「今日はお父さんはどうしたんですか」
と聞いて見ると、お母さんはふふっと笑って、
「昨日、忙しかったみたい。だらしないけど、お昼まで寝かせてあげてくれる?」
「はい」
お父さんはどのような仕事をされているのかよく分からない。
分からないけれど、きっと立派に仕事をされているのだと思う。
そうでなければ、家長として家を守ることは出来ないはずだから。
それに、なんて言ったらいいのか、俺にはまだよく分からないけど、お父さんは凄い人だって気がする。
会う度に、なんだかこっちが気圧されそうな気がする。
かと言って、厳しい人だとか怖い人だって訳じゃない。
とても優しいし、いつもにこにこ笑ってくれるような人だ。
なのに、凄い気を感じる。
攻撃的な気じゃない。
包み込むような優しさを持っている。
何もかも引き込むような、そんな気だ。
きっと無意識なんだろうけど、凄い人だと思う。
そんな人の血を引いているから、母様も人を惹きつけるような気を持っているのかな。
首を傾げながら、俺はお母さんと横に並んで机についた。
畳の上に正座するのも、最近になってやっと慣れてきた。
そうして、広げたのは文字の練習帳だ。
言葉は多分ルーゲンタのおかげでなんだろうけど、お母さんとも母様とも通じるけど、文字はそうはいかない。
そもそも俺に文字の知識がなかったからかもしれないけど、それじゃ困るってことで、俺はこうしてお母さんから文字を習っている。
「それじゃ、リィちゃん、今日もおさらいから始めましょうか」
「はい」
頷いて、俺は鉛筆を手に持つ。
この、鉛筆を持つということも、最初のうちは慣れなくて戸惑ったのだけれど、今ではちゃんと持てるし、綺麗に線も書けるようになってきた。
でもやっぱりまだまだ不安定なようで、時々へにゃりと曲がってしまうのだけれど。
それに、文字を書こうとすると途端に難しくなる。
読むのだって難しいけれど、それはつっかえつっかえながらでも読めるようになってきた。
ひらがなはもう大丈夫。
カタカナはまだよく分からないけど。
だけど困ったことに、漢字という厄介な敵がいるのだと、姉様が言っていた。
勉強もまた戦いであり、心身の鍛錬なんだろう。
実際、先生は俺が勉強している間、じっと見守っていてくれる。
これは、鍛錬の時と同じということだ。
無言のままの先生のまとう気の、ちょっとした変化から俺は先生の様子を推し量る。
先生が何か言おうとしているのか。
言おうとしているならそれは何か。
ただ顔色をうかがいたいわけじゃない。
気を読み取ることも鍛錬だというだけのことだ。
先生の言いたいことが納得の行くものなら従う。
いや、納得行かなくても、従う。
それが理不尽であったりしなければ。
俺の守るべきところに触れなければ。
しかし、先生の要求がそんなムチャであるはずはないのだ。
文字を勉強して、本を読み、それからちょっとだけテレビも見た。
まだ文字が読めない俺にとって、外の情報を得ようと思ったら新聞よりもテレビの方がいいから。
でも、テレビは通俗的過ぎてあまり役に立たない気がした。
それだけ平和な世界だと言うことなのかもしれない。
「おそよー」
なんて挨拶を寄越しながら、お昼になって起きて来たお父さんも加えて四人でご飯を食べた。
お昼の後は、またちょっと勉強をして、それからまた鍛錬をする。
「少し休んだら?」
とお母さんは言うけれど、俺にとっては体を鍛えるのも心を鍛えるのも、楽しくて、自分がやりたくて、やっていることだから、休みたくなんかない。
「もっとしたいです」
と言うと、お母さんは微笑んで、
「そう。リィは本当に好きなのね」
「はい」
だって俺も、母様や、この家のみんなを守れるようになりたいから。
そんな風にして、楽しくて、穏やかな時間が過ぎる。
早いのか遅いのか分からないけれど、でも、そんな時間が、俺も好きなのだ。