眠り月

朝の過ごし方(番外編)


先生は、とても強い。
それは剣術の腕のことだけじゃなくて、精神的なものも含まれる。
何もかも、とても強いのが先生だと思う。
そんなことを言ったら、先生には買い被り過ぎだと言われるか、それだけでは済まずに、冷静に見れていないと叱られてしまうかも知れないから、心の中で思っておくだけにしておくけど。
それに、先生は強いだけじゃなくて、身が軽い。
庭から二階まで一跳びで跳べてしまうくらい、軽い。
俺もそれくらいになりたいと思う。
母様は、
「お前、それは種族が違うんだから難しいんじゃないか? つか、危ないからそんなジャンプ力を獲得しようとするのはやめなさい」
って難しい顔で言ったけど、先生は、
「そなたの努力次第であろう」
と言ってくれた。
お母さん――母様の母様のこと。祖母様と呼ぶには若くて綺麗過ぎる――も、にこにこ優しく笑って、
「きっと出来るわ」
と言ってくれたし、姉様――母様の妹なので叔母様と呼ぼうとしたら物凄い笑顔で怒られた――も明るく軽く笑って、
「リィだって剣士の一族ってくらいなら、それくらい簡単なんじゃねぇの?」
と言って母様に、
「奏! 無責任なこと言ってたきつけるなよ! お前、面白がってるだけだろ」
と怒られてた。
そんな風に怒ってる母様はちょっと怖い。
でも、十分優しいんだって、俺にもよく分かる。
同時に、母様の怖さは、精神的な強さによるものであって、肉体的な強さのせいじゃないんだと分かっている。
母様は、強い。
でも、強くない。
自分の身の回りにあふれる危険を気にした様子もないし、先生や姉様がどんなに苦労して自分を守っているのか、気づいてる様子もほとんどない。
でも、だからこそ、母様のいる世界は綺麗なんだと思う。
穏やかで優しい世界にいる、母様。
俺も、母様のその世界を守りたいって、思った。
だから、剣を取り戻した。
本当は、もう要らないと思ってた。
俺の一族が滅んだのは、その剣を狙われてのことだったと聞いているし、こんなに平和で穏やか過ぎる世界に暮らすなら、剣なんて必要ないんじゃないかって、思ったから。
でも、今は違う。
俺は、母様を守るための力がほしい。
守るためでなく、傷つけるための力として、絶対に使わないでいられるだけの強さがほしい。
そのために、俺は心身を鍛えている。
師匠は当然先生だ。
先生は、本当に凄い。
控えめで、決してでしゃばることなく、でも過不足なく母様を守るその姿勢、その思想が素晴らしい。
あの無防備すぎて隙だらけの母様をこれまで無事に守りおおせていることだけでなく、そんなところがあるからこそ、俺は先生に弟子入りさせてもらえるよう頼んだ。
先生にも、俺の気持ちは通じたらしく、思ったよりも快く受け入れてもらえた。
それ以来、俺の一日は先生とともに過ぎていく。
まず、朝。
先生は夜明けとともに起き出すので、俺も一緒に目を覚ます。
同じ部屋で寝ている母様を起こさないよう――でも母様は一度寝たらなかなか目を覚まさない――部屋を抜け出す。
もう朝食の支度を始めているお母さんに、
「おはようございます」
と先生と一緒に声をかける。
こうしてきちんと挨拶をすることも、ここに来てから、先生に教わった。
それまでの俺は、そんな大切で基本的なことも知らないままだったから。
お母さんは今日もニコニコ笑ってて、
「おはよう、リィちゃん。さぼちゃんも、今日もいい顔色ね」
と先生の鮮やかな緑色の体を軽くつついた。
先生もどこか誇らしげだ。
「今日もお外でお稽古?」
と聞かれて、俺は頷く。
「う」
じゃなかった。
返事はきちんと、短く、
「はい」
だった。
「ふふ、いいのよ、そんなにかしこまらなくて」
とお母さんは言ってくれたけど、先生は、
「せめて御母堂には礼儀正しくせよ」
と厳しい。
でも、俺もそれくらいの方がいい。
母様や姉様みたいに、敬語なんていらないとか、かしこまるなって怒られる方がちょっと困る。
それに、それくらいの緊張感も保てない程度の集中力じゃ、役に立たない。
これだって、訓練の一環だ。
「朝食までには戻ります」
と言って、俺は先生と一緒に庭に出た。
芝生の生えた庭は、とても綺麗だ。
本当は、花もいっぱい咲いているし、この芝生の上だって、前はもっと花があったんだけど、俺のためにお母さんが場所を譲ってくれたのだ。
本当に、うれしいし、ありがたい。
そんな風に、俺のために何かをしてくれる人なんて、いなかっただけに。
でも、そんなやつはいくらでもいる。
だから俺は、この幸運を喜びながら、この幸運から、俺がやれることを見つけたいと思う。
とりあえずは、先生とともに、ここを守りたい。
いつかは、もっと大きなものを守れるようになりたい。
それはとてもわがままで欲張りで、身に余る願いだと分かってはいる。
でも、志は高くていいと先生も母様も言ってくれたから、俺は稽古に励む。
まずは柔軟をして、それから庭の中をしばらく走りこむ。
本当は外を走りたいけど、それは危ないからと禁止されてしまったのだ。
それから、素振りをする。
俺の剣はまだまだ小さいけど、それは俺が小さいからだ。
まだこの小さな短剣を振るうだけの力しか、俺にはない。
だけど、俺がもっと強く、俺の体がもっと大きくなったなら、この剣も大きく、俺の技量に合わせた形になる。
勿論、どんなに体を鍛えても大きくならない時もある。
それは短剣の扱いに長けている時だ。
その時、剣はいくつかに分かれ、数を増やすことになる。
自分を鍛えることは、そんな風に、自分にぴったりした武器を作り上げていく楽しみでもある。
筋肉を鍛えるような運動はまだあまりさせてもらえない。
俺はまだ小さくて、体を成長させなければならないから、今筋肉をつけても余計なことにしかならないというのが先生の意見だからだ。
俺もそう思う。
だから、おとなしくしているけど、でも何か歯がゆくて、代わりじゃないけれど、走りこんだりする。
そのうち、台所からいい匂いがしてきて、お母さんが俺たちを呼ぶ。
そうしてやっと家に戻った俺は、お母さんが渡してくれた柔らかくてふかふかなタオルで汗を拭いながら、二階に上がり、母様の部屋に戻る。
途中ですれ違った姉様に、
「おはようございます」
と頭を下げると、
「おう、おはよっ」
と笑顔で言われた。
今日はどうやら機嫌がいいらしい。
それを一日維持してくれるよう願いたい。
母様に対してはともかく、それ以外の人間には、姉様は気分によって全然扱いが違うから、機嫌はいいに越したことはない。
普通に戸を開けると、母様はやっぱりすよすよと穏やかに眠っていた。
眠るのが趣味、と自ら豪語するだけあって、母様の寝顔はとても幸せそうだ。
それを打ち破るのは楽しいことではないけれど、母様が遅刻して慌てて飛び出していくと挨拶する暇もなくなったりするので、心を鬼にして母様を起こす。
「母様、朝だよ。起きて」
「ん……うぅう……」
母様はうめいただけで目も開かない。
それどころか、そのまま布団をさらに深くかぶりなおしてしまう始末だ。
仕方ない。
「先生、今朝もお願いします」
先生は、
「うむ。…まあ、そう気に病むな。主の寝起きの悪さは御母堂すらあきらめておられるほどなのだ。そなたが起こせずとも仕方あるまい」
とわざわざ優しくそんなことを言ってから、母様の布団に足元からもぐりこんだ。
少し遅れて、
「っ――!」
声にならない悲鳴を上げて、母様が飛び起き、先生は蹴り出されるように布団から飛び出してきた。
そのまま百点満点の着地をする先生は、一仕事終えただけに誇らしげだ。
「さぼっ、すまん!」
慌てて飛び起き、律儀に謝る母様に、大きく手を振って大丈夫だと答える先生。
この信頼関係がちょっとだけれど羨ましい。
「おはよう、母様」
俺が言うと、母様は複雑そうにだけど笑ってくれた。
「ああ、おはよう、リィ」
「もう朝食も出来たって」
「ん、今日も起こしてくれてありがとな」
優しく頭を撫でてくれる手が嬉しい。
こんな母様だから、俺は母様が大好きで、母様を守りたいって思うんだろう。
俺は我慢出来なくて、
「母様、大好き」
と力いっぱい抱きついた。