眠り月

文化祭準備と常識人


俺の周辺から常識と言うものがなくなったのは、ルーゲンタが来るようになってからのことだと思っていたんだが、どうやら違ったらしい。
何しろ、ルーゲンタがいようがいまいが変わらずに、非常識な言動に踊らされるのが俺らしいからな、畜生。

文化祭準備と常識人


黒板の前に立って、書かれている文字にもう一度目を通した和貴が、
「おーい、これで全部ー?」
とやる気があるんだかないんだか分からない間延びした声で言った。
黒板には、たこ焼き屋、焼き鳥屋、焼きソバ屋などの文字が並んでいる。
いっそ清々しいまでに食い物屋の名前ばかりだが、ある意味健全な男子高校生ということだろう。
他のクラスも多分似たり寄ったりだ。
俺たちが今何をしているのかというと、来月行われる文化祭で何をするか決めようとしているのだ。
飲食物を扱う場合は特に早めに決めて申請しなければならない上、他のクラスと重複した場合、早い者勝ちにされてしまうため、早々に決めてしまおうというのだ。
なんで和貴が仕切っているのかと言えば、あいつが委員長だからだ。
普段は忘れがちだが、あいつは責任感もあるし、何よりあいつには必殺の鉄拳制裁があるからな。
逆らう奴はいない。
よってスムーズにクラスも運営されているわけだが、それだけに、和貴が気に食わないとなると大変なのだ。
そして、今の和貴は明らかに、不満そうだった。
それを見て取った連中が、他に何かいい案はないかとざわめく。
俺ははなからやる気がないので、転寝の続きでも、と思いながら腕を組みなおした。
その時だ。
「ちょーっと、やってみたいことがあんだよねー」
ニヤリと和貴が笑った。
悪辣なんてもんじゃない。
極悪非道な笑顔だ。
思わず背筋も凍る。
こいつがこんな顔をしたら、ロクな目に遭わないと経験が告げていた。
しかもあいつはこっちを見ている。
ターゲットロックオンってか!?
逃げたい、逃げられない、でも逃げたい。
冷や汗が額を伝う。
そんな俺の反応を見ながら、和貴は心底楽しそうな笑顔になり、
「食い物扱うにしても、それだけじゃつまんねぇだろ? だからいっそ、こういうのはどうよ」
もったいぶるように言って、板書していた副委員長の手からチョークをむしり取ると、黒板にでかでかと文字を記した。
『ナース喫茶』
「――ってお前は変態か!!」
思わず俺が怒鳴ると、和貴はニヤニヤしながら言った。
「なんだよ、メイド喫茶じゃありきたりだと思ったからナースにしたのに」
「俺が言いたいのはそんなことじゃない」
「じゃあなんだよ。言っておくけどな、俺は使えるものは何だって使う主義だ。お前が全校レベルで可愛がられる人気者で客寄せパンダになれるってことは周知の事実なんだから、しっかり使わせてもらうぞ。お前が店先に立つだけで、確実に入れ食いだからな」
「んなわけあるか!」
妄想も大概にしろ。
「あるっつの。それに、ナース喫茶にすりゃあ女装だけじゃなくて済むだろ。効率的に人員配置が出来ていいじゃないか」
「…女装だけじゃないのか?」
「ああ。そんなことしたら、人手が足りなくなるだろ。裏方に人間を割くのも、不参加の人間を出すのも勿体無い」
「そっか」
それなら、と俺が思いかけたところで、和貴が宣言した。
「何にせよ、お前が女装するのは決定だからな」
やっぱりかこの野郎。
「せんぞ! 俺は何があっても女装なんか二度とせん!」
「……二度と?」
――しまった。
「どーゆーことかなぁー?」
にたにた笑いの和貴が俺に詰め寄る。
周りの生徒なんか見えちゃいねえ。
じりじりとあとずさった俺は、当然の如く教室の後ろの壁で止まった。
「孝太、女装なんかしたことあったのか?」
耳元でぼそりと囁かれ、怖気が走る。
「離せ!」
「ちゃんと答えたら離してやるよ。大人しく答えないと……」
何をするつもりだ。
「……耳、食う」
ドスの効いた声に、頭より口が負けた。
「子供の頃に着せられたのと後は大分前にルーゲンタにメイド服着せられた」
するっと白状した俺に、和貴は眉を寄せ、
「つまらん」
「…てめぇ……」
「まあいい。子供の頃はともかく、ルーゲンタだと? あいつ、マブダチの俺様に報せのひとつも寄越さないって何考えてやがるんだ」
「お前等はいつの間にマブダチにまでなったんだよ、おいっ!」
「色々と遭ってな」
と黒い笑みを見せた和貴は、
「じゃあやっぱりメイドは却下だな。ナースで行こう」
黒板前へと戻りながら、独り言のように呟いたがそれは既に決定事項だ。
その証拠に、副委員長がいそいそと『ナース喫茶』の上に花丸をつけている。
げんなりしながら自分の席に戻った俺へ、和貴が言う。
「心配しなくても、俺も女装してやるよ」
「は!?」
「というか、細身で女装しても見れるやつは軒並み女装な。残りはさっきも言った通り、看護士服とか白衣とか着てもらうぞ」
女装なんて他人事だと思っていた奴から上がったブーイングは、拳をかざすだけで沈静化する。
「いいか、文化祭の出し物といえど、妥協は許さん。女装組はこれから一ヶ月ばかり、無駄毛の処理から肌の手入れまでみっちりさせてやるから、覚悟しやがれ」
うげ、勘弁してくれよ。
そんなネタ、奏が喜ぶだけだろ……って、まさか。
俺はまじまじと和貴を見た。
あいつはどうやら奏に気があるらしい節がある。
少なくとも、奏と一緒に何かやらかすのを楽しんでいるのは間違いない。
もしかして、そのためだけにこんなことを言い出したのか?
それもないとは言えないが……なんでそこまでするんだよ。
俺はため息を吐きながら、黒板に店で出すものが並べ立てられていくのを惰性で見ていた。

……誰だ、『カップケーキプレミアムバージョン 雨宮孝太スペシャル』とか出したアホは。
採用した和貴も和貴だ。
何で俺がわざわざ菓子を焼かなきゃならんのだ。
「焼けないわけじゃないんだろ」
そう言った和貴を睨みつけ、
「大量に焼くのは面倒なんだよ。大体、男子校で甘いものなんか売ってどうするんだ」
「文化祭の日は一般にも公開されるだろ。甘いもんにつられて女の子が来てくれたら嬉しいなーっていう男心くらい、ちょっと考えれば分かるだろ」
「それくらいは分かるけど、それにしたって、何で俺なんだ」
「そりゃ、そっちの方が売れるからだろ」
そのおかげで、俺はわざわざ試作せにゃならんのだがな。
調理実習室のオーブンは今時珍しいガスオーブンで、家の電気オーブンとは使い勝手が違う。
うまく焼けるんだろうか、と訝しみつつ、天板を放り込んで待つ。
「というか、和貴、試作にしちゃあちょっと量が多くないか?」
言われた通り、お前が持ってきた分で作れるだけ作ったが。
「ああ、ついでだから宣伝も兼ねてばら撒こうかと思ってな」
「そんな無駄な予算があるのか?」
「あるわけねえだろ。俺の自腹」
俺は驚いて和貴を見た。
和貴は割と冷めている奴で、学校行事ごときに無駄金を使うようなタイプではなかったはずなのだが。
「なんだよ」
「いや、意外だと思って…」
「俺だって、楽しみたいと思うことはあるんだよ。そもそも、今回だって俺がやりたいことを好きなだけ言ったようなもんだし、成功させなきゃまずいだろ」
「…そうだな」
「お前には悪いけど、協力してもらうぞ」
「今だって十分協力してるだろ。五十個もカップケーキを焼いてる俺の身にもなれ」
「当日も頼む」
「…嫌がっても逃がしてくれねーんだろ」
俺はため息を吐きつつ、
「もう諦めた。それに、お前のやる気に水を注すのも悪いからな」
「…さんきゅ」
照れくさそうに笑った和貴の肩を叩き、
「焼きあがったカップケーキを配って歩くんなら、俺も行く。……その方がいいんだろ?」
「ああ、確実に効果は上がるな。出来れば、エプロンと三角巾はつけたままで頼む」
「…マニアックな奴だな」
苦笑しつつ、俺は頷いた。
「責任者はお前なんだ。どうなってもお前が責任を取ってくれるんだったら、大抵のことはしてやるよ」
それより、オーブンの加減はどうだろうな。
使い込まれたせいで煤けたガラスの向こうがなんとか見えないものかと熱心に覗き込んでいた俺は、和貴の最低な呟きを聞き逃した。

「孝太ってほんと、単純で可愛いなぁ」