眠り月

忠義之道(番外編)


それは、我が未だに主を主として認めておらぬ頃のことであった。
今となっては誠に、笑い種にもなり得ぬ話ではあるのだが、長年の修行に耐え、苦難の末に成人の儀式を終えた我としては、いきなり異界の、それも高い地位にあるわけでもなければ高い能力を持っているわけでもない、ただの若造の下へ向かわされたことを、非常に不本意に思っていたのである。
我が一族のものは誰しも、その小さき身に余るほどの武力を以って、貴人を守ることを誇りとし、それを志向して幼き頃よりその棘を磨き、技を磨く。
我もまたその例に漏れず、いずれは一国の王や宰相、妃や姫君の傍らに陰の如く添い、人目につかぬよう護衛することを思い描いてきた。
故に、成人の儀式の後、我が一族でも出世頭のひとりである叔父のゴラがやってきて、我の士官先を決めたと言った時には、天にも昇る心地になったものである。
ところが、我が連れて行かれたのは異界であった。
途中、ルーゲンタ王の居城を経由したものの、あっという間に連れて来られた先が異界である。
それも、厳つい甲冑などもなければ危険の気配もろくにないような、いたって平穏な世界。
我に一体何の役目があろうか。
挫折にも似た幻滅を、我は味おうた。
しかし叔父は甘いまでの厳しさを見せ、我に忠告を与えた。
「一族でも最高に近い使い手であり、未だ若いそなたゆえ、このような大義を負わせられるのだ。彼の方をただの人間などと侮らず、忠義を尽くせよ」
「元より承知。たとえどのような方であろうとも、忠義を尽くし武を極めたらんとする者として、一度主とするとなれば決してその意を違えず、心より尽くすは道理」
「分かっておるならばよい。王はお前を信じ、王の血肉にも等しく尊い御方の護衛を任されたのだ。努々それを忘れるでないぞ」
「はっ」
答えはしたものの、本心そうなれるのか、我には疑問であった。
いや、そうならねばならぬと感じたということは、即ち、その時の我は不満を抱き、心より主に忠義を尽くせるような者に成長しておらなんだということであろう。
我は甚だ未熟な若造であった。
その我に、言葉も通じぬ我に、主は優しく言葉を掛けてくださった。
我としては挨拶をしようと思ってのことだったのだが、突然動いた我に驚愕なさったらしい主は、驚きの声を上げられた。
それに傷つかなかったと言えば嘘にはなろう。
しかし、主は臣下如きに対して、迷いも躊躇いもなく率直に、謝ってくださったのだ。
そればかりか、我のようなものを労わるように食卓の上に置いてくださった。
それはつまり、主と同席し、毒見をせよとのことであろう。
毒見、それは信頼の証である。
新参者に対してここまで無警戒でいいものかと主の危機意識を訝しみつつも、甚く感動した。
信頼されるならばそれに答えなければならない。
その程度の誇りは一族の末席を汚す我とて、持ち合わせていた。
加えて主は、それ以降も我を労わり、優しく声を掛けてくださった。
我と出会うたのが気温の低くなり始めた頃合だったからであろうか。
「さぼ、寒くないか?」
と我に声を掛けてくださったこともあった。
少々の寒さが堪えるような我ではない。
寒さに耐えることもまた修行である。
しかし主は、首を振ってそう主張した我をなおも案じてくださったらしい。
「暖房付けっぱなしってのは流石に勿体無いから……母さんと一緒にいてくれるか?」
それは御母堂を守れとの命であろうかと我は解釈した。
そもそも、いかに平和な世界とはいえ、護衛である我が主に付きっ切りでなくてよいものか。
主が我のような特異なものを連れ歩けないと主張されたので仕方がないといえば仕方がないのではあるが、これで任を果たせているのか、我としても疑わしいことこの上ない。
だが主は我の怠慢を咎めもせず、暖かな台所に我を連れて行き、それから学問所へ向かわれるようになられた。
我が妹御や御父君、御母堂と近しくすることを、主は咎めるどころかむしろ喜ばれた。
我もまた、主と主のこの慈悲深い御一家を御守り奉らんといつの頃よりか思うようになっていた。
なれど、我がそのようにして絆されたからそのように心がけるようになったと思うは早計である。
そうなるに至った理由には、先に述べたような主の優渥なる御心に加えて、主の徹底的なまでの鈍感さ、いやいや、大らかさと危機感の薄さもあったのだ。
何せわが主は自らの繊細な容姿や雅量に満ちた言動が他人にどのような影響を与えるかと言うことをひとつたりとも理解しておられぬのだ。
謙虚さゆえと思えばいたし方ないのやも知れぬが、それで周囲に危険人物を多数侍らせている現状は如何ともし難い。
我が主を守らねばならぬと、使命感を抱くまでにさして時間は要さなんだ。
そうして、我も誇り高き一族の者である。
一度守ると心に誓った以上、我は主を守り通そう。
我が命尽きるとも、主の身は守り通す。
それこそが我の忠義の証である。
たとえ何者が立ちはだかろうとも、我は決して負けぬ。
そう決めたがゆえに、我は王とも対峙するのである。
「長い前フリでしたね」
虫けらを見るが如き目で我を見下しつつ、王は宣った。
「結局なんですか。あなたもライバルと言う認識でいいんですかね」
「ライバルという言葉の定義如何であろう。我は武を以って貴殿を制したいと思うゆえ、そう言えなくもない」
「とぼけないでもらいましょうか」
剣呑な目つきで王は言う。
その体から魔力の気配がびしびしと滲み始めているのは、本気で怒り始めているからであろう。
しかし、我は一歩も退かぬ。
「我は主の従者として、主を守る使命がある。我の立場からすれば、貴殿ほどの危険人物はない。主の安全のため、早々に退散願おう」
「聞けませんね」
傲然と言い放った王が我に杖を向ける。
「大体、前々から気に入らなかったんですよ。孝太と同じ部屋に暮らして、孝太と一緒に食事をして、孝太に可愛がられて。あの時ゴラちゃんを止めておけばよかった!」
「我は務めを果たしておるのみ」
「何が務めですか! 安穏と日々を過ごして、それで満足しているんですか、あなただって動くサボテン族の一員だというのに!」
確かに我とてそう思わぬ訳ではない。
それほどまでにここでの暮らしは心地好く、厚く遇されている。
しかし、
「この安穏たる平穏無事な日々を守るが我が役目なれば、どのように謗られようとも我はここを離れぬ」
「ふん、口だけは一人前のようですね」
我はなんとかして王との間合いを詰め、この不利な形勢を逆転させられないものかと考える。
素早さでは我が勝る。
しかし、王の唱える呪文によっては移動など無意味。
一か八かに賭けるのは未熟なる青二才のすること。
勝算もなしに動くは愚の骨頂なり。
考える我に、王は言った。
「このまま消えてもらいましょうか。…いえ、それでは生温いですね。嬲りでもしなければ気が済みません」
狂気にも似た目で我を睨みつけた王が呪文を唱え始める。
王の詠唱は驚くほど早い。
我は横跳びに逃れようとしたが、無駄であった。
体が白い光を浴び、無様に床へ落下すると、予想以上の轟音が響いた。
まるで我の体が数百倍にも膨らんだかのよう…な……?
その時だ。
ばたばたと階段を駆け上がってくる音が響き、王が反射的に杖を引く。
がらりと開いた襖の向こうから顔を出したのは我が主で、
「何やってんだ!?」
と怒鳴る声がした。
しかし、その後には何も続かぬ。
主のことである。
てっきり滔々と説教を垂れるものと思うたに、驚愕したまま動きもせぬ。
「…主?」
我が呼びかけると、不思議なことに声が出た。
我は動けるとはいえしがない植物なれば、声を出して喋ることは不可能。
されど声が出た。
一体何事か。
戸惑う我を主はまじまじと見つめた後、
「お前……まさか…さぼ、か…?」
「左様にございまするが」
「なんで…さぼが……。いや、考えるまでもないか。――ルーゲンタ」
主がやっと王を叱る気になられた、と我は思うた。
しかしながら主は珍しくも明るい笑みを振りまき、
「お前にしては気が利くな」
などと言っておられる。
誰の何を以って気が利くと仰られるのやら。
しかし、
「あ…はは……。孝太に喜んでいただけて嬉しいです…」
と王は引きつった顔で答えている。
全く、理解し難い御仁だ。
我は無様についたままであった腕を使って身を起こそうとした。
そうして気がつく。
……手が、違う。
我のそれは緑色のずんぐりしたものであるはずだった。
慎重に我は手を動かす。
すると到底我のものとも思われ得ぬ、主のそれに似た、しかし土の如き褐色をした、人間の腕が動いた。
驚愕に息を呑みつつ、我は視線を走らせる。
胴も、脚も、我のものではない。
あの緑色の勇ましい体は何処に行ってしまったのであろうか。
我の脚……強固な鉢状のそれは何処へ。
見っとも無いほどに狼狽する我の目の前に、主は鏡を突き出した。
「見てみろよ。お前、そんなかっこよかったんだな」
と主は満足気であったが、我はそこに映る顔が我のものであるとは認めたくなどなかった。
緑色の髪と瞳をした、人型の生き物など。
「主…っ、我は…!」
「分かってるって、さぼだろ。? ルーゲンタが人に変えたんだな」
「それは全くその通りではあるのでございまするが…」
我が言いたいのはそのようなことではないのでございまするが、聞いては下さらぬのですな。
「とりあえず、話は後にして服を着ろよ。体格は…俺より少し筋肉はあるみてえだけど、俺より細そうだから、俺の服で入るだろ」
視界の端で王が嫉妬に醜く歪んだ顔をしているが、主の目には見えておられぬらしい。
押入れを開けた主は、主が学問所に向かう際身につける制服を引っ張り出してきた。
「これでどうだ? 貸す服としてはおかしいかも知れないけど、お前、そういうかっちりした服が似合いそうだし」
「…主がそう仰るのであれば」
そう応じて、我は服に袖を通す。
「着方は分かるか?」
「主の着付けを毎朝見ておりますゆえ」
「ああ、そうだったな。なら大丈夫か」
しかし、我は主に着替えを手伝うていただく破目になった。
慣れぬ人の指では、釦をうまく留めかねたのだ。
「申し訳ございませぬ。このようなことで主の手を煩わすなど…不覚…」
「気にすんなって。…つうかお前、そういう硬い口調で話してたんだな。血鬼に訳してもらう時なんかにも、もしかしてそうかとは思ってたが、実際聞くと変な感じだ」
と笑っておられる。
いつも不機嫌そうに眉を寄せておられるというのに、今日は笑顔の大盤振る舞いである。
「我の口調は変でございまするか」
「ああいや、悪いって言ってるんじゃねえぞ? ただ、普段のあの可愛い姿からすると違和感があると思ってな。今の姿ならそうでもないんだが」
「はぁ…」
「今は…そうだな」
言いながら、主は我の真っ直ぐに切りそろえられた前髪に触れ、それから指を滑らせて肩に届かぬ程度でばっさりと、やはり真っ直ぐ切りそろえられた髪の端まで指を持っていき、
「学ランにおかっぱ頭がよく似合ってるし、ちょっと時代錯誤な美少年、って感じでおもしろくていいかもな。奏が気に入りそうだ」
と悪戯っぽく微笑した。
酷く魅力的なそれに我も思わず見惚れてしもうたが、まだまだ修行が足りぬ。
このようなことではならぬというに。
主は我が固辞したにもかかわらず、我に炬燵での同席を勧め、我の隣りに腰を下ろされた。
「脚、崩していいぞ?」
「しかし…主と脚が触れてしまいまする」
「気にしねえって」
その笑顔を見ると、上機嫌であることが手に取るように分かる。
やはり炬燵に入った王の機嫌が低下して行く様も。
「それにしても、さぼ、」
主は我に向かって勿体無くも優しい御声で、
「やっとちゃんと話せたな」
「左様でござりまするな。しかし……我は、不自由は感じておりませなんだ。主は、口の聞けぬ我のことも把握してくださいまするゆえ…」
「そうか? 分かってやれないばかりだと思ってんだけどな、自分としては」
そう謙遜された主は、一度崩された居ずまいをわざわざ正された上で、勿体無くも我に向かって深々と頭を下げられた。
「あ、主…」
困惑する我に、
「さぼ、いつもありがとう。お前のおかげで本当に助かってるんだ」
「主……勿体無きお言葉……誠に…誠に……」
視界が歪み、主のお姿をまともに認められなくなる。
何ゆえ、と戸惑う我に、主は笑って、
「泣くほどのことじゃないだろ」
「泣く……」
我は泣いているのか。
これが泣くということなのか。
我が植物である以上、我は泣くことなどなかった。
ゆえに、浅学ながら、我は涙というものは悲しい時にのみ出てくると思うてきた。
しかし、その認識は間違いであったのであろうか。
我は今、悲しくなどない。
誇らしく、喜ばしく、そして……なんと言えばよいのであろうか。
言葉に詰まった我の頭を、主は優しく撫でて下さった。
「本当に、ありがとな」
その手の、言葉の、声の温もりを、我は一生忘れまい。
「主……」
「お前から何か言いたいこととかないのか? もっと待遇を改善してくれとか、何でもいいぞ?」
「待遇は既に十分厚くしていただいておりまする。申し訳ないほどに…」
「何がだよ。お前のおかげで毎日本当に助かってるんだからな」
「では、一つのみ、お願い申し上げたき義が」
「なんだ?」
「……どうか、もっと危機感を持ってくだされ」
「…は? 危機感?」
我は殊更に大きく頷き、
「主のことですから、理解し難いとお考えになられるやも知れませぬ。しかし、これは誠に重大なる由にて、しかと御心に止め、努々忘れらるることのなきよう、お願い申し上げ奉りまする」
「…はぁ。なんかよく分からんが……とにかく、俺が気をつけたらいいんだな? 側溝に落ちないようにとか色々…」
「左様でございまする」
「分かった。せっかくの忠告だからな」
主は気を悪くされた様子もなく頷かれた。
諫言を快く受け入れられるとは、主は誠、器の大きな御方であらせられる。
再び感涙に咽びそうになったところで、王が口を開いた。
「そろそろ、元に戻していいですか」
「もう戻すのか?」
主は不満そうに言ったが、我としては王がそう言っている間に元に戻りたかった。
何せ、この体は、人間の体と言うものは棘もなければ俊敏性にも欠き、主を守ろうにも叶わぬような脆弱なものなのだ。
主を守るという使命がある以上、このままでいるわけには参らぬ。
「我も、元に戻りたく存じますれば」
「…そっか。残念だな。せっかくだからそのまま一緒に晩飯くらい食いたかったのに」
「その御言葉のみで十分でございまする」
深く垂れた我の頭に、主はもう一度手を触れさせた。
「…これからも、よろしくな」
「はっ。より一層研鑽を重ね、主を守り通しまする」
「その守り通すってのがよく分からんが……まあ、これまで通りってことだよな」
そう笑った主が、王に目を向けられる。
「じゃあ、もういいぞ」
王が口の中で呪文を唱えると、我の体は一瞬の内に縮まり、着せられていた制服の中に埋没することになった。
「うわ、大丈夫か?」
そう慌てた様子で言いながら、主は手ずから我を取り出だし、勿体無くも我を抱きしめた。
「うん。やっぱりさぼはこのちっちゃくて可愛いのが一番だな」
そう言った主の柔らかな唇が我に触れるのと、王が恐怖に戦いたが如き悲鳴を上げるのとは、ほとんど同時であった。