眠り月

コンタクトレンズと常識人


それは目の中に小さな異物が入っているだけとは到底信じられないほどの痛みだった。
涙が出て止まらないくらい、痛い。
誰かこれを何とかしてくれ。

コンタクトレンズと常識人



「孝太ー、ちょっとこれ試してみてくれねえ?」
と奏が俺の部屋に来るのはいつものことだ。
こういう時、奏が持ってくるものは買ったばかりの怪しげな物であるため、うかつに頷いてはならない。
前はダイエット用品だかなんだかを俺に試せと言って持ってきておいて、人の胸囲やら胴囲やらを好き勝手に測った挙句、
「孝太細すぎて意味ないなぁー」
とか言って人の脇腹をくすぐり倒していったこともあるし、妙なものを飲まされて丸一日人事不省に陥ったこともある。
だから俺は、
「嫌だ」
と答えたのだが、それくらいで諦める奏ではない。
「見もせずに断るなよ。面白そうなのに」
「面白そうだろうが難だろうが嫌なものは嫌だ」
「せめて見ろって、ほら!」
と奏が突き出してきたものは、小さな紙の箱だった。
「…なんだそりゃ」
「カラコンだよカラコン! カラーコンタクトレンズ!」
「なんでそんなもん買ったんだ?」
「買ったんじゃなくてもらったんだよ。友達がこの前コスプレしたんだって。で、その時に買ったカラコンが余ったからくれたんだ。試しに付けてみてくれねぇ?」
「嫌だ」
なんでそんなもんつけなきゃならないんだよ。
「いいじゃん、可愛い妹の頼みだぜ?」
「可愛い妹って言うならそれらしくしろ」
憤然として俺が言うと、奏は少し考え込んだ後、にこっといつになく柔らかく微笑み、
「お兄ちゃん、お願いっ!」
「……しょうがないな」
ころっと言うことを聞いてしまう俺を責める奴は、可愛い妹を持っていない奴だ。
どれだけ憎まれ口を叩こうと、言うことを聞かなかろうと、可愛いものは可愛いんだ。
椅子に座った俺のまぶたを奏が指で押さえながら、
「行くよー」
と嬉しそうに言うのが見えた。
目の中に異物を入れるのは正直怖いんだが、ぐっと耐える。
ピントも合わないほど近くに指が迫ってくる。
それが目に触れた、と思うともう目が痛くて仕方がなかった。
「うー……」
思わず唸ると、ぼろぼろと涙が零れだした。
「孝太、そんなに痛かったのか?」
「…っ、痛いなんて、…もんじゃ、ねえよ……」
コンタクトをはめられた左目からだけぼろぼろぼろぼろ涙が零れてたまらない。
それなのに奏は、
「…ちょっ、孝太……!」
「な、に…」
「……泣いてる孝太って、滅茶苦茶かわいー…」
「…は!?」
お前、いきなり何を言い出すんだ。
人が痛い思いしてるんだからさっさと外せよ。
「いやいや、これは勿体無いって。ちょっと携帯かデジカメ取って来るから待ってて! な?」
「やだって、お、おい! …奏ぁ…っ!」
引きとめようとしたが叶わず、奏はとっとと出て行ってしまった。
自分でなんとか取り出せないかと思ったのだが、まずどうすれば外せるのかが分からない。
誰か何とかしてくれ、と思った瞬間だった。
部屋の隅にある押入れが勢いよく開き、
「ぃやっほー! 孝太! 遊びに来ましたよっ!」
なんて、バカ明るい声を響かせてルーゲンタが飛び込んできた。
何で押入れから人が出てくるのかなどと聞いてはいけない。
俺にも理由は分からない。
ただ分かるのは、この押入れがどうやら別の世界とか異次元とか呼ばれる場所につながり、しかも向こうから一方的にどかどかと訪問されるものだということだ。
出てくるのは鳥、牛、カモノハシ、虫、吸血鬼、幽霊、人間など多種多様。
繋がる先もどうやらかなりあるらしいが、俺の方からは繋げることが出来ないのでよく分からん。
…繋げたいとも思わねえけど。
そんな訪問者たちの中で一番とんでもないのがこの男、ルーゲンタだ。
肩書きは魔術師、国王、どこか別の世界にある学校の魔術教師、冒険者そのほか色々だそうだが、全て把握したいとも思わないのでとりあえず非常識な魔術師として俺は認識している。
だが、こいつが問題なのはそういう肩書きや常識のなさじゃない。
俺のことを自分の所有物扱いしたり、俺に妙な執着を見せるところが、危ないにもほどがあるのだ。
思えばこいつのせいで何度酷い目に遭って来たか……思い返すのも嫌なくらいだ。
だから、こいつの前にこの醜態をさらすのはまずい。
そう思ったのだが……どうしようもなかった。
何しろ、視界は不安定だし、そもそも目が痛くて思考もまともに働かない。
だから俺は、思いっきり見せてしまったわけだ。
ボロボロ涙を流している、情けないことこの上ない姿を、ルーゲンタの大ボケ野郎に。
「ど…っ」
俺を見るなりそう絶句していたルーゲンタが、数秒のフリーズを経て、黙り込んだまま俺に駆け寄ってきた。
目を見開いた顔を間抜け面と指摘する気力さえありはしない。
ただ苦しさを紛らわせようと、
「うぅ…」
と唸るのが精一杯だ。
「……どうして泣いて」
るんですか、って言うと思うだろ?
俺も思ったさ、ああ、思ったとも。
それくらいには人の心がこいつにも残っているのかと思ったとも。
だが、俺の予想は大きく外れた。
「るのかはお聞きしませんけれど、」
おいこら、この人でなし。
常識的に考えて、そこは理由を聞くところだろ。
つうか、なんでにへらにへらと笑っていやがるんだ。
「泣いてるあなたって凄く……なんて言えばいいんですかね」
と頭を抱えた挙句、
「あ!」
と嬉しそうに声を上げ、
「艶かしいです」
「いい、加減に…っ、しやがれ…、この、ボケぇ…」
なんとかそう文句は言ったものの、泣いているせいで声に迫力がない。
余計に情けなさを煽るばかりだ。
「本当に、可愛らしいですよ? 思わずお持ち帰りしたいくらいです」
「やめろ…!」
そう怒鳴ってもそれがルーゲンタに堪えるはずなどない。
俺を抱きしめるどころか嫌味ったらしく横抱きに抱えた上、
「ね、私の国へ来てくださいよ。大事にしますよ? ええ、誰もあなたに危害を加えられないように大切に守りますから」
俺に一番危害を加えそうなのはてめえだ。
俺を下ろしてとっとと出てけ。
そう怒鳴りたいのに、怒鳴れない。
目がいよいよ痛む。
これ、たとえルーゲンタがいなくなってくれたところで目医者に行かなきゃまずいんじゃないか?
「ふ…っ」
泣き声染みたものまで口から飛び出したところで、ルーゲンタが押入れの戸を開けたのが分かった。
下から吹き上げてくる風は俺の知らない匂いを運んでくる。
行きたくない。
それなのに暴れて抵抗することさえ意味をなさない程度にはルーゲンタは力が強かった。
悔しさと腹立たしさのせいで、痛くないはずの目からまで涙が零れてきた。
その時だ。
「――どういうつもりですか?」
ブリザード以上に冷え切った声が響いた。
声を上げたのは当然ルーゲンタだが、誰に向かって言ったんだ?
奏はまだ戻って来ていないし、他の人間が現れるとしたら押入れの向こうからだ。
だが、押入れは既にルーゲンタの世界に繋がっている以上、別の世界には繋がらないし、そうであれば、ルーゲンタの世界に俺を助けてくれそうな知り合いなんていやしないのだから、そこから助けが現れるとは思えない。
助け、と仮に言いはしたが、ルーゲンタの発言で分かるのはルーゲンタの邪魔をしようとする誰かが現れたということであり、俺を助けに来たとは限らないので、単純にルーゲンタの敵が現れたということもあり得るのだが。
とにかく、現状を確かめたい、と俺は無理矢理目を開けた。
涙で滲んだ視界には、特に何も映らない。
視線を下げてやっと気が付いたのは、
「……さぼ?」
誕生日に動くサボテンのゴラからもらった小さな動くサボテン、さぼだった。
サボテンが動くのはそれがルーゲンタの世界の産物だからという説明で納得していただけたらと思う。
さぼは俺が時々水をやり、散歩に連れて行き、日向ぼっこをさせてやりとそれなりに世話を焼いてやっているからか俺に懐いている。
だから、ルーゲンタに楯突いても不思議はないのだが、その小さな体でどうするというのだろうか。
ぽかんとする俺を他所に、さぼはうごうごと体を揺らしてルーゲンタを威嚇した。
ルーゲンタはさぼに向かって、
「生意気ですね…。あなた程度、私が少し力を振るえば消滅するようなちっぽけなものだって、分かってるんですか?」
「うごうご」
「それでも、孝太を守りたい…と?」
「うごっ」
「……いいでしょう」
薄く笑ったルーゲンタが指を振り上げた。
俺は慌ててそれを掴んで止め、
「やめろっ、このバカ…っ!」
と怒鳴った。
「邪魔しないでください」
そうルーゲンタが俺を睨んだ隙を、さぼは見逃さなかった。
小さな体を身軽に跳ねさせ、ルーゲンタに抱えられた俺の肩にまで駆け上ると、遠慮や容赦の欠片もなく、いつになく巨大化させたそのトゲでルーゲンタの腕を突き刺したのだ。
「つぅ…っ」
声を上げたルーゲンタがその場に崩れ、俺はその腕の中から抜け出すことが出来た。
俺を守るように体中のトゲを尖らせるさぼを睨み、ルーゲンタは憎々しげな顔をした。
「…仕方ありませんね。そこまでして孝太を守りたいという…その思いに免じて、許してあげます。でも……次はありませんよ」
とどこかの子供向け特撮番組の悪役めいたセリフを吐いて、ルーゲンタは押入れの向こうへと姿を消したらしい。
らしいというのは俺の目がよく見えなかったせいだ。
俺はやっとトゲを納めた――というかいつものように軟化させた――さぼを撫でてやり、
「ありがとな、助かった…」
とまだ涙に滲む声で言うのが精一杯だった。
さぼは胸を張るようにポーズを決めた後、俺に近づくと、細く長くしたトゲを器用に使ってコンタクトレンズを取り出してくれた。

俺はもう二度とコンタクトなんてしねぇと誓うと共に、今度さぼのために植物用栄養剤でも買ってきてやろうと決めたのだった。